文鮮明先生の平和思想
(全面表示) 戻る INDEXへ
 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 1

第四章 平和実現の前提

一 神様と人間の根本問題解決と平和世界実現

 今日、世界の状況を様々な面から見渡すときに、誰もが失望せざるを得ません。人類の懇切なる願いが自由と平和と安全であるにもかかわらず、世界的混乱は日ごとに悪化し、人類の将来は、もはや絶望状態に達してしまいました。世界の指導者たちの絶え間ない努力にもかかわらず、世界問題は、より一層複雑になっており、より一層難しくなっています。民主主義も共産主義も、宗教も、哲学も、世界問題解決において全く無力であることが明らかになってしまいました。それは、神様のみ旨が分からないからです。人類歴史は、神様の摂理歴史なので、今では神様の摂理のみ旨を知らなくては世界問題の解決が不可能な段階に至りました。(一三五−三四三、一九八五・一二・一六)

 神様が宇宙の根本であられるならば、その根本であられる神様が悲しみを抱いていらっしゃるので、その願いを解怨成就できない限り、平和の世界は来ることができないのです。それは、理論的に妥当です。今、父母たちが心配していることですが、息子たちが幸せでいることができますか。今、国の大統領が死ぬほどの心配をしていますが、その国の民が平安で幸せでいることができますか。それが私たち人類社会の法度です。(八二−三〇六、一九七六・二・一)

 今日、偉大な政治家、偉大な聖人がいても、地球上で青少年問題に責任を負うことができない主義や思想では、世界を一つにすることはできず、平和の世界にすることはできない、ということを知らなければなりません。それは、神様の頭の痛い問題であって、人類の頭の痛い問題です。(八七−四六、一九七六・四・二五)

 世界では、多くの人間たちが生きています。今日において、この世界問題は、他人の問題ではなく、私たちの直接的な問題となる時代に入ってきたことを知っています。今、民主主義や共産世界、どの世界を問わず、一つの世界を願い、平和の世界を願うことは同じですが、その一つの世界と、平和の世界を成すためには人間だけでは不可能な時代に来たことを、私たちは感じることができるのです。

 人間の力、人間の知恵、人間の文化、その何をもってしても、真の意味の平和の世界や一つの統一された世界を願うことができない時点に置かれていることを、私たちは知ることができるようになります。

 このような立場で見るとき、世界問題を解決するにおいて、最も中心になる問題とは何でしょうか。神様がいるのか、いないのかという問題をはっきり解明することが、何より重要な問題だと思います。もし、神様がいることを全人類が知る日には、神様のみ旨がどのようなところを志向するのかをはっきりと知るようになり、その志向するみ旨を知る時には、その世界はそれこそ一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界に違いありません。(五六−一三一、一九七二・五・一四)

 悪神と善神の闘いを誰が終わらせることができますか。それは、神様でもなく、サタンでもありません。世界万民が従っていくことができる愛の主人公にならなくては、神様の闘いを終わらせることはできません。この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において「平和」という言葉は妄想のような言葉です。「理想」という言葉は抽象的であって、感傷的な言葉にすぎません。(一三六−二一九、一九八五・一二・二九)

 堕落した人間を本然の軸の位置に立てようとすることが、人間を救おうとされる神様の目的になるのです。そのために宗教は、このような主体と対象の愛の概念をもって、宇宙の核と接することができる内容になっていなければなりません。すべての経書をそのような観点から見るときに、キリスト教だけがそのような内容になっているというのです。イエス様は、「神様は私の父であって、私は彼の一人息子だ」と言ったのです。これは驚くべき宣布です。またその次には、「私は新郎であって、あなた方は新婦だ」と言いました。驚くべき発表だというのです。父と息子になることができる愛の結合点、共通分母点、そして新郎新婦になることができる共通分母点、それは二つではなくて一つだというのです。ここに平和があります。これを通さなくては和合があり得ません。これを通さなくては、円満な球形作用は歴史過程において見いだす道がありません。(一三七−五九、一九八五・一二・一八)

 今日、私たち自身を時間をかけて見てみると、心と体が完全に平和、統一の基準で立つことができないというのです。キリスト教神学を創始したパウロは、心の法と体の法があって二つの法が争っているのですが、いつも体の法が心の法を捕まえて塗炭の苦しみの中に追い込むので、「おお、私は、なんという惨めな人間なのだろう!」という悲痛な結論を下しました。それでは、心の法がどうして体の法を支配し得る位置に立てなかったのですか。神様がいらっしゃるならば、そのようにしなければならないはずだというのです。

 人間を統一することができる道、今日混乱した世の中を収拾することができる道、平和の世界を建設することができる道、人間が完成して理想的な自我を立て、万宇宙に誇って主体的権限を行使することができる自我開発をどのようにしますか。それには、神様をはっきりと発見しなければなりません。そのように結論づけたので、神様がいるのか、いないのかという問題をかけて、誰よりも談判をした代表的な男です。(一四四−一四八、一九八六・四・一二)

 私は、このような観点から世界平和の問題に対する解決方法として、基本的な三つの段階を厳粛に明らかにしようと思います。しかし、どのような建物でも粗末な基礎を直さない限り、その役割を果たせないように、本人の平和のための提案は、基本的な基礎から出発します。まず究極の世界平和は、神様と人間との平和、次に人間相互間の平和、そして世界の平和という三段階を経ざるを得ません。

 血涙の出る修道の過程を通して、私は、生きていらっしゃる神様の実存をはっきりと分かるようになりました。私は、その生きていらっしゃる神様と直接対面する体験までもつに至りました。そして、宇宙の根本であられる神様との平和を得なくては、この地球上で真の平和を論ずることができないことを悟るようになりました。

 神様は、宇宙の第一原因であられ、森羅万象の創造主であられます。そして、宇宙の愛する父であられます。神様は、特別なみ旨をなされるために万物を創造されたのであり、その目的は正に愛の具現にあります。神様は、真の愛の根源であられますが、いくら全能なる神様であられても、一人では決して愛の喜びを感じることはできません。神様は、愛の対象が必要であり、その対象が自発的な愛を返してくれることを願われます。その対象として最高の被造物が正に私たち人間です。そのような理由のために、人間の生には目的があるのです。人生の目的は、成熟して、神様と永遠なる真の愛の関係を実現することにあります。正にこれが、神様と人間の間に平和を成す根本原理なのです。

 神様と人間との平和関係を樹立してから私たちは、人間相互間の平和を成すことができるようになります。人間相互間の平和のために根本的に要求される関係とは何でしょうか。それも、やはり愛の関係しかないというのです。

 世界平和の達成こそ長年の念願です。ところでこの達成も、本質的には先ほど申し上げた人間個々人の平和を成す方法と同じものです。(一六六−一三一、一九八七・六・一)

 人々は、様々な面において平和と幸福をずっと追求してきましたが、満足できるような成果を得ることはできませんでした。第一次、第二次世界大戦が終わって、戦争を防止するために結成された国際連盟と国連の二大機構が展開してきた世界的な活動でも、平和世界は来ませんでした。

 宗教団体の努力でも、幸福な世界は実現されませんでした。国際共産主義の理想とファシズムの夢でも、理想世界実現は失敗しました。高度の技術でも、政治的な努力でも、人類に平和と幸福をもたらしてはくれませんでした。これは、人間の不幸と苦痛の根源が神様に背いた堕落に由来するものであるのに、その根源から問題を解かなかったためです。

 神様は、なんとしても本来の計画された真の愛と平和の理想を回復しなければなりません。このような復帰摂理のために、宗教を立てて善の版図を広げてこられました。(二七九−二○七、一九九六・八・二〇)

 人類の本性は、どうすればこのような不幸を清算して、平和と幸福があふれる世界を成せるだろうかという問題の解答を求めてきました。宗教が追求してきた道が、正にこの道ではありませんか。しかし、いまだに人類が願ってきた理想世界は実現されていません。宗教の核心には、人類の不幸と苦痛の根源を明らかにしようとする要求があります。私たちが苦痛の根源に対して無知ならば、苦痛をなくすことができるという希望さえありません。しかしこの解決は、神様の啓示による知恵をもってのみ可能です。(二三四−二六九、一九九二・八・二六)

 今まで本然の人間の価値が分かりませんでした。それでその本然的な価値の内容を探す出すために、人間世界では宗教を中心として、学者世界や知識世界では哲学を中心として、「神様はいるか、人間の価値は何か」という問題について考えてきました。そのために、神様を発見して人間の最大価値である統一圏を探し出すことができなければ、男性と女性の統一は生まれません。そして、いくら人間が統一されたとしても、ここで神様が反対すれば、それはいつでも崩れていくのです。人間が統一されたその上で神様と一休園を成せば、神様が願われる理想の一休園が決着することによって、希望の人間、地上だけでなく天上無形実体世界にも中間の実体定着地が生じるのです。それを成すことができなければ、その定着地は永遠に生じません。神様が永遠の平和を願って回っていらっしゃり、人間は自分自身を中心として回っているので定着地ができません。(二二八−一五三、一九九二・三・二七)

 人類歴史が始まって以来、平和を渇望しなかった時代はなく、平和を希求しなかった人は一人もいません。しかし、人類歴史は、人類の希望とは正反対に、絶えず戦争と無事の血で染められてきました。これはどうしたことでしょうか。

 それでは、去る四十六年間、人類は戦争を知らずに平和に暮らしてきたでしょうか。違います。再び戦争は起こりました。韓国動乱、ベトナム戦争、湾岸戦争をはじめとして、実に六十回以上の人類闘争の歴史が繰り返されました。

 なぜ、このように平和が難しいのでしょうか。今日私たちは、「世界平和連合」の創設に先立って、その平和が成されない理由をまず明らかにしなければなりません。そのようにしなければ、これからも前者の轍を踏むことは火を見るよりも明らかです。

 紳士淑女の皆さん! これまで人間たちは、平和だけ叫んで、その真の平和の意味を知ることができませんでした。平和の真の哲学をもつことができなかったのです。それで真の平和を成し得る方法が出てきませんでした。

 その理由は、知ってみれば簡単です。人間たちは、神様を失って平和を失いました。そして、人間たちは、神様を差し置いて人間同士の平和を探そうとしました。これが根本的な誤りであり、これが真の平和を得ることができなかった根本的な理由です。(一二九−一一四、一九九一・八・二八)

 個人の心と体の統一を完成する時には、他のすべてのものの完成も、ここから影響が及ぼされます。それゆえに、私自身の統一をどのようにするのか、私自身の平和をどのように建設するのか、ということが重要な問題だというのです。

 今まで歴史時代を経て生きてきた人たちの平和というものは、外的な世界の平和だと解釈していました。国が平和になり、世界が平和になってこそ平和の世界が来ると考えましたが、そうではないというのです。外的な世界の何かが平和を招来してくれるのではなく、内的な自分自身から平和的基準をどのように完成するのかが最も重要な宿題だ、ということを考えないで暮らす人たちになってしまったのです。

 宗教には、堕落という概念がありますが、それでは、その堕落とは何でしょうか。心と体が完成して統一することができず、平和の基盤ができないのは堕落によるものであり、堕落によって互いに争って闘争するようになったのです。これを収拾するための一つの道があるとするならば、それは一つの心的世界を代表した個人的基盤、氏族・民族・国家・世界的基盤で発展させることができる宗教圏だというのです。その次に、体的な分野を中心として個人、家庭、氏族、民族の闘争歴史において世界的版図をつくっておきました。それで民主世界を中心として、このように二ブロックに分かれた状態で、今までは外的な体が心を侵害して、蹂躙してきたのです。同様に、心を代表する宗教世界の発展基盤を体的な政治世界が常に打ってきて、常に犠牲にさせる争いが今まで続いてきたのです。政治世界は、常に宗教世界を侵害したのです。体が心を打ったのと同じ様相です。

 これをどのように統一するのかということは、根本問題と直結します。神様がいるのかという問題と、真なる愛とは何かという問題に帰結されます。神様がいるというならば、神様は完全で絶対的神であるので、絶対平和の基準を神様自体ももたなければならず、対象圏ももたなければならず、すなわち神様とその対象圏が完全に統一的基準をもたなければなりません。そのために、神様がいるのかという問題を明確に悟ることによって、このような内性を知ることができ、その次に私と神様との関係がどのようになっているのかという人間の問題、この二つの問題に帰着されるのです。(二一八−二〇五、一九九一・七・二九)

 二十一世紀の指導理念は、どのような理念ですか。哲学思想を凌駕することのできる理論的体制の上に、宗数的内容を兼ねた理論的体制になって──神様という存在は概念的な存在ではありません──神様が私たちの実生活を主導することができ、神様と共に生活することができる世界にならなければなりません。そのようになれば、その世界は、宗教理想を完成した世界であり、哲学思想の理想を完成した世界なのです。しかし、その世界は、観念的ではありません。生活的な神様、生活的な絶対者、生活的な平和の絶対的起源と共に暮らすことができる世界です。その世界が、正に二十一世紀に訪れる世界だというのです。(二〇九−二三六、一九九〇・一一・三〇)

 歴史時代を経ながら全世界人類を通して見るとき、幸福を追求した中心存在とは何かという問題は、哲学でも解決しようとする中心問題です。神様がいるのか、絶対者がいるのかということが問題になります。そのような絶対的な存在がいるならば、絶対的な平和がそこにあるはずであり、絶対的な幸福があるはずです。そのような絶対的で、唯一特権的な存在があるはずだと考えるのです。(二〇五−一九六、一九九〇・九・〇二)


二 中心人物と平和世界実現

 天を主とした中心的な存在が行く道は、個人による歩みではありません。その個人は、家庭を経ていかなければならず、世界に向かう道を行かなければなりません。その個人は、世界だけでなく、天と地を統一させて、神様と永遠なる愛で一つになり得る勝利のひと時を迎えるようになる時、初めて人間の願う愛の世界、平和の世界が展開し得るのです。

 言い換えれば、統一的な基盤を人間同士で備えたといっても、その中に神様の愛が投入されなければ、その世界がいくら統一の形態を備えたとしても理想は成されません。神様の愛を中心として永遠なる世界が展開するのであり、神様の愛を中心として平和の世界が展開するのであり、人間たちの変わる自分の利益を主としたそのような愛を中心としては、平和の世界、統一の世界は展開されません。

 またその氏族は、氏族自体を中心として、ここで落ち着いて自分たちのために生きる位置に立っていては、統一的な世界、あるいは平和の世界はやって来ることができません。氏族ならば氏族を犠牲にさせて民族を収拾しなければならず、その民族が氏族を拡大させた一つの統一的な民族として現れるとき、初めてこの世界の民族の中心を整えることができるのではありませんか。その中心が従える氏族が犠牲にならなくては、民族的発展に拡大させることはできないのではないですか。それゆえに、犠牲にならなくてはなりません。

 このように考えるとき、一つの国が形成されたならば、その国を中心として自動的に世界が統一できるのではありません。世界に向かって一つになることができる作用を提示するためには、その国もやはり犠牲になって開拓する道を経ていかざるを得ません。そして、その世界が、その国を中心として統一的な環境を整えるとき、初めてこの地球上に平和の起源が成され、平和はどこに来るのかという問題を考えてみるとき、いくら願ったとしても他の方向を選ぶことはできません。

 ここには、完全なる一つの中心存在が出てきて、個人から家庭、氏族、民族、国家を経て世界まで統一的な形態を整えるところにおいてのみ、平和が成されるので、この統一の道というものは、ただ何もせずに成し遂げることはできません。ここには莫大な犠牲の代価を支払わなくては成すことができない、という結論を下すことができます。(六一−二四九、一九七二・九・一)

 祭物は、死んだとしても「自分を公認してくれ」と言うものではありません。死んでも頭を下げ、すべて過ぎてからも頭を下げなければなりません。それが平和の起源になるので、祭物の完成圏が現れる時まで、その正体を知ることができません。その道を私たち統一教会人は、厳粛に、夜でも昼でも行っているということを知らなければなりません。(四八−一三一、一九七一・九・五)

 平和の心で一生を生きていくようになっているのが創造本然の人間の生活でした。ところが、今日の人間の心の中には平和はありません。さらには、自由を中心として永遠なる理想の中で生きなければならない人間たちの心の中には、天が共に楽しむことができる自由と理想はありません。

 今日、全世界に広がっているすべての人間たちは、ある時を契機にして完全なる自由と理想と平和が成されることを願っています。これは、この地球上に生きているすべての人たちの懇切なる念願です。このように完全な自由と理想と平和の世界は、人間の本然の願いである以上、これはどちらにせよ皆さん自体が心と体を中心として成さなければなりません。さらに、皆さんの個体を中心として家庭でもそれを成さなければならず、社会と国家、世界でも成さなければなりません。それだけではなく、天と地が一つになって平和の歌を歌い、自由の歌を歌い、理想的な愛を楽しむことができるその一つの世界を成し遂げなければなりません。

 終わりの日におかれている私たちには、行かなければならない道と、越えなければならない峠が残っています。それは、永遠なる平和と自由と理想を成すことができる祭物の道です。

 そのような峠を越えるためには、心に永遠なる自由をもたらしてあげることができ、永遠なる天の願いにこたえ、永遠なる天の平和を担うことができる一つの中心が現れなければなりません。もしそのような中心存在が現れなければ、天と地には決して永遠なる平和と自由と理想は成されません。

 このように、全体的な摂理歴史が祭物を中心として成されるものと見るならば、旧約時代は万物を通して祭物の峠を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければならなかった、ということを知ることができます。ところが、成約時代である今は、新郎新婦の名前に代わることができる皆さん自身を条件として、祭物の峠を越えなければなりません。皆さんがそのような祭物の峠を越えるまでは、この地上に真なる平和と自由と理想の世界が成されません。(二−一〇九、一九五七・三・一〇)

 世界的な祭物の峠を越えたのちにこそ、神様の愛と、神様の自由と、神様の平和と、神様の理想を所有することができます。なぜならば、そのような峠を完全に越えることができなかった人に神様の愛と自由と平和と理想を与えれば、サタンが讒訴して、その愛と自由と平和と理想が破綻するからです。それで神様は、世界的な祭物の峠を越えることができなかった人に、神様の愛と自由と平和と理想をお許しにならなかったのです。(二−一一七、一九五七・三・一〇)

 すべての与件が物悲しく、とてつもなく反対するものであればあるほど、それが神様の息子としてとてつもない神様の心情と関係を結ぶ誘発点になるというのです。そのような悲しみを受けることがなければ、天の喜びと関係を結ぶことができず、そのような十字架の道がなければ、平和の王子としていく太平路が生じません。このように、すべて反対の現象によって因縁が結ばれるのです。(二九−一六七、一九七〇・二・二七)

 イエス様は、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイー〇・三四)とおっしゃいました。驚くべき宣言でした。イスラエル民族は、メシヤを平和の王として、万民の罪を贖罪するための救世主だと思っていましたが、イエス様は驚くべき宣言をしてしまったのです。民族的な面においても、社会的な面においても、国家的な面においても、家庭的、個人的な面においても、すなわち存在するすべてのものにかかわる一大宣言でした。

 それゆえに私たちは、神様に侍らなければなりません。どのような資格者になって侍らなければならないのかというならば、教会を代表して、国を代表して、天宙を代表した息子、娘として侍らなければなりません。そのような時に、初めて統一理念を完結するのです。そのようになれば、統一の時が開かれるので、福も、とてつもない福を受けるようになります。そのようになる時までは、旧約時代と同様に、うっかり間違えれば首が吹き飛ぶかもしれません。お父様の日を迎えたのちにこそ、天宙に平和が訪れることを知らなければなりません。(一二−二五四、一九六三・五・二二)

 新しい世界に立脚した幸福な家庭、平和の家庭基盤を築き上げる時までは、受難の道が続くのです。このような受難の道を越えるためには、闘争しなければなりません。消耗戦を経験しなければなりません。このような路程が、今日の私たち個人はもちろん、統一教団が行かなければならない運命なのです。(三〇−九八、一九七〇・三・一七)

 皆さんがいくら先生に会ったとしても、個人的な平和の王宮を計画しては、幸福を追求することはできません。その前に家庭的な十字架を背負っていかなければならず、氏族的な十字架と、民族的な十字架と、国家的な十字架を背負っていかなければなりません。統一教会は、大韓民国の統一教会ではありません。(三五−一四〇、一九七〇・一〇・一一)

 この世の中で平和の世界を成そうとするならば、他のために犠牲になるという思想をもった人たちが暮らす世界にならなければなりません。そうでなければ、平和の世界は絶対に訪れません。ですから、他のために犠牲になりなさいというのです。なぜ犠牲になるのですか。愛の主人公になるためです。私たちの日常生活において愛を分け与えるには、犠牲を通さなくては真に与えてあげる道はありません。犠牲だけが、自分が涙を流して、血を流しながら最も貴く与えてあげることができるので、犠牲を通して愛を分け与える道しか最高の道はありません。ですから神様は、この道に従って歴史を正してこられることを知らなければなりません。(五六−三四〇、一九七二・五・一八)

 復帰の思想は、私はあなたのためにあるのであり、私は家庭のためにあるのであり、家庭は国のためにあるのであり、国は世界のためにあるのであり、世界は神様のためにあるというのです。それでは、神様は何のためにいらっしゃるのですか。「神様は神様のためにいらっしゃる」と言うかもしれませんが違います。神様は愛のためにいらっしゃるのです。そうであってこそ平和の世界が成されるのです。(五七−二九、一九七二・五・一八)

 メシヤという中心存在が出てきたならば、彼ももちろんこの世界の平和を願うのです。彼が立たなければならない立場は、今まで歴史時代の受難の道で残されたものをどのように消化させ、どのように押し出すのかという立場で、その環境に押し出されるような立場ではなく、その環境を追い出すことができる決定的な中心存在の立場です。そのような立場を確保する前に、歴史的に待ち望んできた統一の起源を準備することはできません。(六一−二五二、一九七二・九・一)

 来られる主は、どのような教団をも勝利して越えることができる勝利的理論をもって出てこなければなりません。また、どのような政治体制をも勝利することができる理想の政治体制をもって出てこなければならないのであり、どのような思想体系も勝利することができる理想のものをもって出てこなければならないのです。すべてのものに勝利して余りある理想のものをもって出てこなければなりません。そうでなくては、世界は平和の世界になることができない、という結果になります。そのような意味で私たちは、どのような団体よりも、どのような国家よりも、どのような主義よりも強力な群れにならなければなりません。それが可能な世界の大転換時期が一九六〇年から一九八〇年までです。(七三−一〇一、一九七四・八・四)

 今日この世界は、どのような時代に入りましたか。最大の混乱時代に入ってきました。地獄の中でも最高の地獄です。天国というものを考えることもできない段階に来ました。しかし、一方で天は、サタン世界を打つと同時に、必ずもう一方でこの世界を収拾してきたことを知らなければなりません。さて、それでは、愛国者たちは、どのような時に大勢現れるのでしょうか。平和時代に、復興時代に愛国者が現れるのではなく、混乱時代に現れます。そうでしょう? これはどういうことかというと、外的には落ちて下がりますが、内的には新しいものが出てくるというのです。(七四−三一三、一九七五・一・一)

 闘わずに平和を成そうとするのですから、サタン世界ではどのようにしなければなりませんか。どのような方法でしなければならないでしょうか。「おい、お前、私のために生きなさい」という方法ではいけないのです。死ぬ方法しか、犠牲になる方法しかありません。悪なる怨讐も、自分のために、自分を助けてから死んだということを知れば、頭を下げて屈服するでしょう?怨讐だと思って殺そうとしましたが、結局その人は私を生かすためにそのようにしたということを、その人を殺してから知れば、毎年その人が死んだ日にその墓を訪ねて、「ああ、私はあなたが怨讐だと思ったのですが……。私がこのように犯した罪を許してください」と言って、その怨讐を誰よりも一生の間、死ぬまで墓参りをしながら祈らなければなりません。これ以外には道はありません。

 サタンは、カインに似た者同士は、争うことになっています。互いが捕まえて、奪って殺すようになっています。自分を中心として互いが殺そうとするこの世の中に、アベルが来て平和の世界を成し、統一の世界を成そうとするので、結局、争わないで統一する方法は、怨讐のために福を祈って犠牲になる道しかありません。ですからイエス様も、怨讐のために福を祈ってあげたのです。そのためにイエス様は、神様の戦法において正当な、主流的な思想をそのまま伝統として受け継いだ、世界的な代表者として生きた方だったのです。(五七−一六八、一九七二・五・三一)

 平和の天国と栄光の天国は、受難の天国に向かい、産みの苦しみを経てくるのです。産みの苦しみを経なくては、栄光の天国を迎えることはできないというのです。(四六−一〇三、一九七一・七・二五)

 私たち自らでは本郷の地を取り戻すことができず、私たち自らではその祖国を取り戻すことができないので、神様が「私たち人間の終末時代に送る」と言われた一人の方がいらっしゃいますが、その方がメシヤです。本来、堕落しなかった本郷の地、本郷の国の全権を神様から認定されて来られる方です。その方の中には、神様を中心とした愛があり、人間が願う平和があり、幸福があり、自由があります。そのようなすべての与件を整えて来られる方が主です。(一五五−一七、一九六四・一〇・六)


三 イエス・キリストと平和の王国

 イエス・キリストは、「平安の王」として真の平和をもたらすために来られました。しかし彼は、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と言われました。この言葉は、彼の「平安の王」という言葉と矛盾するでしょう? しかし、そうではありません。私たちは、彼が真で栄光の平和のために来られたことを理解しなければなりません。なぜならば、栄光の平和を樹立するためには、人間生活の根本的な変革が不可避だからです。

 この真なる平和に到達するためにイエス様は、何よりもまず人間生活に変革を起こそうとされました。そのような意味で、彼は「闘うために来た」と言われたのです。彼は、個人、社会、国家、そして世界を根本的に変革しようとされました。このことゆえに、彼が教える時に、あらゆる反発にぶつかりました。真に新しい社会を樹立する時には、多くの妨害が伴うものです。そしてイエス様は、受難を受けて、ついには十字架につけられました。(九一−一〇一、一九七七・二・三)

 イエス様の本来の使命は何ですか。世界を統一することでした。イスラエルの国を収拾してローマ帝国を成敗し、堕落の歴史的結果をぬぐい去ることでした。このように嘆息圏内にある世界を統一するために、神様は、長い歴史過程を通してメシヤを送ることを約束されました。それでは、その約束された内容とは何でしょうか。この地上に平和の天国を成すということであり、この地上に自由の天国を成すということです。

 ですからイエス様は、この地にそのような自由の天国、平和の天国を建設するために来られました。そうするための一つの個体としてイエス様はこの地に来られましたが、その相対になることができる一人の女性がいませんでした。そのために、一つになる夫婦が現れることができず、一つになる夫婦がいなかったので一つになる子女が現れることができず、一つになる子女がいなかったので一つになる氏族、民族、国家、世界が現れることができませんでした。ですから、天国を成すという目的をもってこの地に来られた主人公は、悲しくも悪党たちに追われて追い出され、ついには十字架で亡くなってしまったのです。(二〇−一六九、一九六八・六・九)

 第一次選民思想が崩れ、二次的に発展させたキリスト教の歴史的な舞台が第二イスラエルです。ここで神様の家庭、氏族、民族、国家、世界を編成することができる選民思想を育てるのです。これらが主と共に拍子を合わせて和動さえできるならば、世界は瞬く間に統一されて、一つの平和の世界、愛の世界が建設されるのです。しかし、これが誤って失敗すれば、千年の悲運が再び始まるのです。(二二−二一、一九六〇・一・一)

 今日のキリスト教徒は、イエス様がこの地上に来られて死ぬことが神様のみ旨だ、と信じています。しかし、イエス様は死ぬために来られたのではなく、かわいそうな人類に神様の愛を連結するために来られたのであり、平和の国、平和の統一世界を成すために来られたのです。

 新郎として来られたイエス様は、新婦を迎えて平和の家庭を築き、その家庭を中心として平和の氏族と平和の民族と平和の世界を成さなければならないという新しい歴史の出発のために来られました。しかし、その全体的な願いが崩れることによって、彼は新郎を中心として教団を望むことができず、愛を中心として民族を望むことができませんでした。彼は愛の心情を中心として、イスラエルの数多くの家庭と個人に対することができませんでした。(二二−七八、一九六九・一・二六)

 ヤコブ路程はモーセ路程の典型であり、モーセ路程はイエス路程の典型であり、イエス路程は再臨主が行かなければならない典型路程です。それでは、再臨主路程は誰が模範として行かなければならない路程ですか。正に皆さんが行かなければならない路程です。再臨主が来る時まで、個人的なヤコブ路程は象徴的であり、民族的なモーセ路程は形象的であり、世界的なイエス路程は実体的です。しかし、再臨主が実体的に蕩減するならば、皆さんは形象的に蕩減しなければならず、皆さんの子孫たちは象徴的に蕩減しなければなりません。そのようにして一周回って越えるのです。象徴的、形象的、実体的に越えて再び実体的、形象的、象徴的に戻る時、初めて世界は平和の世界に戻っていくのです。原理がそのようになっているというのです。(二二−一五八、一九六九・二・二)

 新郎でいらっしゃるイエス様の前には、万人の新婦しか立つことはできません。イエス様は父であり、彼の新婦は母です。それではなぜ神様は、私たちにイエス様とその新婦、すなわち父と母を再び送られるのですか。私たちが偽りの父母の因縁で生まれて、真の父母をもつことができなかった恨をもっているので、いつかは真の父母を尋ね求め、真の父母の愛を受け、真の父母が導く国まで行かなければなりません。そのようにしなければ、この地上に平和の王国が来ないというのです。(二二−一七三、一九六九・五・四)

 イエス様は、イスラエルの国を中心として、世界を平和の王宮にするためこの地に来られましたが、いくら彼に能力があり、実権があってそれを成すといっても、家庭を築くことができなければ失敗するのです。世界は家庭が集まってできるのです。この家庭は、心と体が闘う人たちでは築くことができません。いくら絶対的な権威をもって死の峠が迫ってきても、天道を捨てる人になれば、神様が願われる家庭を築くことはできません。心と体が一つになったひとり子が、心と体が一つになった一人娘を迎えて家庭を築くのです。家庭をつくる前に世界を復帰しても、それをまた失ってしまうのです。(二三−一五二、一九六九・五・一八)

 イスラエルがイエス様を追い出して殺した罪によって、昔の怨讐国であるアラブ圏に囲まれるようになったのです。イスラエル国は、自分の国よりすべての面で何十倍にもなるアラブ圏を抑えなくてはイスラエル圏を求め得ない、悲運の事情を抱えていることを皆さんは知らなければなりません。イスラエル民族は、天のみ旨と世界の問題が解決されるまでは平和の時を迎えることができません。(三八−二〇九、一九七一・一・三)

 イエス様は、平和の王であられます。左右にけんかさせることがイエス様の使命ではありません。死ぬ時に争いで死んでいったので、再び来る時は平和をつくらなければなりません。バラバも、ここで平和をつくらなければなりません。それでは、どのようにしなければなりませんか。思想的な面において、霊的な世界の内容をもって、神様をはっきりと教えてあげなければなりません。そのようにしてこそできるのです。(五四一五〇、一九七二・三・一)

 時を探して立てたのは、一人の個人が勝利を得るためではありません。その時をいくらでも代理することができるなら、自分万人でも時を代理することができるのです。イエス様一人を個人的に迎えることができる時や、神様の前に愛の息子として立てられる時は、いつでももっていますが、神様が探さなければならない時というものは、国と民族を基盤として、ある圏内で氏族と家庭を連結させた個人的な平和の基盤をもつ時だというのです。それは、イエスが備えなければならない時だった、ということを皆さんは知らなければなりません。

 その天国を基盤として、ローマ帝国と世界を一つの平和の天国世界にして統治権を整え、これを理想的な栄光の位置で神様に奉献してさしあげようというのがイエス様の願うみ旨なのであって、十字架に追われ、イスラエル民族が誇りにするユダヤ教やイスラエル民族や、ローマ帝国の治下にあるその国を奉献してさしあげることがイエス様のみ旨ではない、ということを皆さんは知らなければなりません。(五七−三一六、一九七二・六・五)

 今日、私たちがこのような宇宙的な責任を負うことができなければ、眠っている民族と世界を起こすことはできません。今は、時間と空間を超越した四次元的な世界に入っている時です。このような時、皆さんは立体性を整えた天倫的な人格者、あるいは天宙的な人格者が現れることを願う天の内的心情をくみ取りながら、生活の中で聞いていると思い、見ていると思い、話していると思う人になるならば、「神様、お越しにならないでください。イエス様、お越しにならないでください」と言っても、神様とイエス様が皆さんについていくまいとしても、ついていかざるを得ません。また、そのような人を地獄に送るとしても、彼は地獄を天国にするのです。そのような人たちがたくさん現れれば、この地上に平和が来るのです。

 すなわち、神様が六千年間待ち望んできた真なる平和の息子、娘、真なる愛の息子、娘がこの地上に現れるならば、神様が喜ばれるだけでなく、万物万象まで彼らと共に喜ぶ、ということを皆さんははっきりと知らなければなりません。

 イエス様が残したみ旨に責任をもち、イエス様を安息させてさしあげることができる人にならなければならず、サタンを屈服させて、そのサタンを抱えて神様の前に出て、「永遠なる勝利の栄光をお一人で受けてください」と言うことができる人にならなければなりません。そのようにしてこそ六千年間復帰摂理をしてこられた神様の怨恨が解かれて、イエス様が求め願われた真なる新婦を探し出すことができるのであり、さらにイエス・キリストが願う真なる妻を探し出して、この地に平和の園を建設することができるのです。(二−五四、一九五七・二・一七)

 四千年の摂理歴史路程の土台の上に、天に通ずる一つの門を建て、天と万民が連結することができる道を築き上げるために送られたイエス様、このイエス様をイスラエル民族が信じて受け入れたならば、平和の道は開かれたはずでした。そのようになっていたならば、四千年間苦労して立てたユダヤ教団は、神様が往来なさることができる大きな道になっているはずでした。また、天国を求める民たちの門戸になっていたでしょう。(六−一七五、一九五九・四・二六)

 イエス様の教訓の中で、私たちは何を見いださなければなりませんか。十字架で困難を耐えてきたイエス様を見る時、その前に「愛だ、慈悲だ」ということは誰でも言うことができますが、最も厳しい十字架で耐えることができたということが驚くべきことです。それしかありません。第一に、耐えたということが驚くべきことです。その次に何かといえば、怨讐にまで「ため」に生きようとされたということが驚くべきことです。それが結論です。その場から愛が自動的に出てくるのであり、その場で平和もすべて一度に成立するのです。分かれた天と地がここで一つになることができるというのです。分かれた人間と神様がここで接ぎ木することができるのですが、そのような起源にならなかったというのです。(七六−二二一、一九七五・三・二)

 イエス様は、二千年前にこの地に来て爆弾発言をされました。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言われたのです。それとともに「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)と言われました。また「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と言われました。このような二律背反的な宣言をせざるを得なかったその内容を、今日の宗教人たちは考えることすらできません。その根本を明らかにして知ろうともせず、考えてもいないという事実を知らなければならないというのです。(八七−一七八、一九七六・六・二)

 イエス様は、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と言われました。全く反対の話です。剣をもたらすのです。イエス様は、洗礼ヨハネの時に警告したことと同様に、「悔い改めよ! 天国は近づいた」と言われました。「喜びなさい、天国は近づいた」とは言われなかったのです。天国が近くに来たならば、「喜びなさい」と言わなければなりませんが、なぜこのような言葉を言われたのかというのです。そして、その悔い改めることは簡単ですか。歴史的な罪を犯したならば、歴史的な責任を負うことができる条件をもってこそ悔い改める条件にもなるのであって、ただなるのではありません。それゆえに、イエス様の思想は大きく異なるというのです。完全に反対です。(一〇三−一五九、一九七九・二・五)

 イエス様は、この世界に来て、まず何を設定しようとされましたか。世界の外的環境よりも、王宮法、天国の国法を中心として生きたというのです。終わりの日の世界がすべて過ぎ去ったのちに天国がこの地上に君臨するようになる時、いつも神様に侍って暮らすことができる理想的環境を考えたのです。それが王宮法だったのです。何をもってその法を守るのですか。心情、愛をもって守らなければなりません。家庭から国、世界、天国まで、本質的で普遍の要素としてもつことができる最も貴いもの、また平和の基準になり、幸福の基準になり、私たち人間の理想の基準になることができる根本内容の中心は何かというとき、この問題は深刻な問題です。それは真なる愛です。(一六八−一八四、一九八七・九・二〇)

 天と地が公認して、神様の愛が縦的に、直線で流れていった一つの宇宙史的な中心存在、人類の真なる男性、真なる本然の父の格をもって来られる方が、キリスト教でいう新郎です。アダムが生まれたのちに、アダムを通してエバを造られたでしょう? ですから、エバである新婦は誰がつくらなければならないかといえば、主がつくらなければなりません。主の功労を通してつくって迎えなければなりません。それゆえに、イエス様がこの地上に来て新婦を迎えて家庭ができ、すべてを接ぎ木して民族編成、国家編成、世界編成を成して新しい平和の王国を築かなければなりません。(一五七−一六一、一九六七・四・二)


四 宗教と平和


 私たちの良心は、人間が一つにならなければならないことを知っています。人間は平和を志向しなければならないことを知っています。世界は一つの兄弟だ、ということを良心は知っています。良心の法では、すべて知っています。ですから今日、この良心を呼び覚まして大革命を起こさなければなりません。

 神様が新しい人類の前に平和の日を立てるために構想され、今まで一つの理念的な社会、理念的な家庭、理念的な個人を求めて苦労されたものが、良心を基盤とした一つの宗教です。その宗教を中心として神様が介在して引っ張ってくるのです。(一五一−一三六、一九六二・一一・一)

 宗教とは何ですか。このような歴史的基準を決定するのです。このような歴史的基準を決定することができない宗教は必要ありません。塗炭の苦しみに陥っている人間たちを、全知全能であられる神様がそのままほっておいては、神様が雷に打たれるのです。それでは神様は、どのようにされなければならないでしょうか。このような人々を平和の道に導かなければなりません。また歴史過程において、人間を平和の道に導こうとされた痕跡が残っていなければなりません。そのような活動をしたのかしなかったのかというとき、しなかったならば神様は、どれだけ残忍な方でしょうか。しかし、そのような活動をしたというその痕跡が何かといえば、それが正に宗教なのです。(二三−一二五、一九六九・五・一八)

 歴史を振り返るとき、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教などは、各々一定の時代と一定の地域において社会的不安と混乱を一掃し、平和と安全の基礎の上に輝かしい文化を花咲かせてきました。例えを挙げてみましょう。中国の漢の時代においての儒教文化がそうであり、欧州の中世においてのキリスト教文化がそうであり、古代インドのアショカ王時代の仏教文化がそうでした。また、中東においてイスラム教文明(サラセン文明)もその際立った例の一つです。(一二二−二九九、一九八二・一一・二五)

 すべての宗教の究極的な目的は、幸福なる理想的な世の中を成し遂げることです。今日、世界の政治家たちが集まり、頭をひねって会議し、討論するその目的も、どうすれば万民を幸福にしてあげる理想世界をつくることができるかということです。すなわち、どうすれば平和の王宮を成して、世界万民がその中で兄弟として生きることができるか、ということを考えているのです。それゆえに、そのようなことを紹介できない宗教ならば、ふろしきに包んでしまわなければなりません。(二三−一二二、一九六九・五・一八)

 神様の名によって、アメリカは超民族的な結束をしなければなりません。私は、神様の名を中心として次元の高い平和の世界を考えているので、アメリカに来てこのようなみ業をせざるを得ません。キリスト教の伝統を誇って、ユダヤ教の伝統を誇っても滅びるようになったことを思うとき、そのような宗教ではいけません。神様の名によって結束することができるより次元の高い世界史的な理念をもち、世界史的な宗教をもって、飛躍することができる宗教をもって進んでいかなければなりません。(八六−二〇八、一九七六・三・二九)

 宗教が志向しなければならない最終目的とは何ですか。もちろん個人救道の目的を主張することも一理ありますが、それよりももっと進んで家庭を救わなければなりません。まず家庭を取り戻して、安住圏に属している人間を罪悪の中から解放させなければなりません。真なる意味で歴史を代表して、時代を代表して、未来を代表する家庭を取り戻さなければなりません。さらに世界人類が共に喜ぶことができる家庭の基礎と、家庭が行かなければならない正道の基準を拡張しなければなりません。その家庭の正道がどこから出発して、どこに行かなければならないのか、ということが決定されなければなりません。そのようにならない限り、この地上に平和の世界を創建することはできません。外的なものをいくらきちんと成したとしても、内的な家庭においては破綻することもあり得る、ということを知らなければなりません。(二三−一〇、一九六九・五・一一)

 今日のキリスト教は、神様の願いと人類が追求する願いの目的を達成させて、平和の基点を解決しなければなりません。そのような神様の願いがある限り、歴史は、キリスト教を中心として発展せざるを得ないというのです。(二七‐三〇五、一九六九・一二・二八)

 キリスト教は、他の宗教とは違って殉教歴史の道を歩いてきました。殉教するのは、何を中心として殉教したのですか。自分を中心として殉教したのではなく、神様のみ旨を中心として殉教したのです。人間が最後に模索しなければならない一つの世界のために、神様がこの地に平和の錨を下ろすことができる基台のために、本然の人類平和のために、数多くの人たちが殉教の血を流したのです。(二九−一八、一九七〇・二・一五)

 宗教は、私的な欲望で出発したこの世の中が滅びることを願います。公的な世界を追求しながら、一つに統一された平和の世界を待ち望んでいます。そのような主張を数千年前から叫んできたのが宗教です。(三六−七一、一九七〇・一一・一五)

 誰がこの罪悪の根を引き抜いて、悪なる主権をなくして平和の世界を成さなければならないかといえば、キリスト教信者たちが成さなければならないというのです。それでは、どのようにすれば成すことができますか。来られる新しいメシヤを迎えることができる道を準備して、メシヤを迎えてこそ成すことができるのです。(五四−一四七、一九七二・三・二二)

 民主世界が滅んでも終わりまで神様を支え、イエス様のために、来られる主のために死ぬという決心をしなくては、この地上に主が来ても、また死ぬようにしてしまうでしょう。時は満ちました。これからここに主が来られて、キリスト教を中心として自由世界を一つにし、悪なる共産世界とイスラム教を殺してなくしてしまうのではなくて、それらをすべて抱き込むのです。死ぬ時に争って死んだので、再び来る時には、世界的な平和の宴をして歓迎を受けてこそ、この地上に平和の天国が建設されるのです。(五四−一二七、一九七二・三・二一)

 宗教の道は、犠牲を教えてあげることです。世界平和の自動的な解放圏というものは、ここから展開します。しかし、自分を第一にして闘争して、力を基準にして屈服させて版図を広げてくる歴史を経ていくものは滅びます。それゆえに、そのような歴史時代は、終わりの日が来なければなりません。神様がいらっしゃるならば、終わりの日が来なければなりません。(五九−二〇〇、一九七二・七・一六)

 神様がいらっしゃらなければ、仮想的な何かでもそれを標準化して、それを私たちの欲望に代わって、それを愛に代わって、人間を一つにすることができる存在として立てざるを得ません。そのようにしなければ、一つになる道がありません。このような観点から見るとき、人間は、神様がいらっしゃらなければ、仮想的な神様でもつくって一つの主体として立てなければなりません。これは、私たちが追求せざるを得ない事実です。そうでなくては、どのような平和も幸福も理想も、求めることができません。夢も見ることができません。ですから、もし神様がいらっしゃるならば、どれだけ幸いなことでしょうか。(七二−二二一、一九七四・六・二三)

 人類のために祭物を積んで、犠牲の血を一度にまくことがあっても、この悪辣な共産世界を打破してしまって、平和の王国を建設しなければならない責任が今日の宗教にあるという事実を、夢でも考える人はいません。それゆえに、私という人は、多方面に手をつけているのです。経済分野から工業分野、政治分野、文化分野、宗教分野まで、すべてのことに手をつけているのです。なぜでしょうか。方向を提示して収拾しなければならないのは、宗教だけではなく、この世界全体だからです。そのような訓練をしなければならないというのです。(九九−三二四、一九七八・一〇・一)

 今日の全世界は、一つの世界、平和の世界を追求しているにもかかわらず、宗教人たちは、いまだに教派主義を脱皮することができていないというのです。神様のみ旨から見るとき、この上なく後退的であり、この上なく無分別な立場だと見ざるを得ません。(九三−一九九、一九七七・六・一)

 今まで宗教は、家庭を否定しながら重要視せず、氏族や国、世界も重要視しませんでした。すべて霊的世界だけを考えました。その反面、統一教会は、霊的世界も重要視しますが、肉的世界に平和の地上天国をつくらなければならないといっています。(一一八−二四八、一九八二・六・一三)

 宗教は、何をするところですか。人を改造するところです。改造するのに、どのような改造をするのですか。心と体が闘う人間ですが、永遠に闘わない平和の立場で天宙の大主宰を代表した一つの相対的資格をもち、永遠なる神様が無形であられるならば、実体的神様のような人格的資格をもって永遠無窮に変わらない人間の価値的生涯を享楽することができるそのような人間になろう、そのような人間をつくろうというのです。それが宗教の使命です。宗教というものは、人間だけがするのではなく、神様と合同作戦をしてこれを完遂しようというのです。これが宗教の使命です。(八六−三四、一九七六・三・四)

 宗教国連が設立された状況で無神論が出てきたならば、直ちに除去されたはずです。そのようになったならば、アメリカを中心として平和の新しい次元の世界に前進したでしょう。それができなかったのでサタンが打つのです。共産党が激しく打つのです。サタンが共産党を送って打つのです。責任を果たせなければ必ずサタンが打ち、天はそれを許さざるを得ません。(一二二−二四四、一九八二・一一・一六)

 神様の創造目的が絶対的なように、復帰摂理の目的も必ず成就されます。したがって、メシヤの理想は、決して漠然としたものではなく、具体的な私たちの生活圏で必ず成就される神様のみ旨なのです。このような点で宗教の目的は、私たちの実生活で神様のみ旨を具体化するものです。神様が救援の全体的摂理のために、時代と民族と環境によって適切な宗教をおかれ、神様の基台を広げてきました。したがって、全宗教の究極的目標は、神様のみ旨である平和理想世界を成すこと、ただそれだけです。宗教は、教団内の自体救援や個人救援を考える前に、世界救援という神様のみ旨を心配しなければなりません。今の時は、汎宗教的に神様の真意を再探求しなければならない時だと思います。(一三五−二二〇、一九八五・一一・一六)

 私は、世界と人類の将来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきています。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が汎世界的に団結するだけでなく、懺悔と真なる奉献の姿勢を整える汎世界的拡張運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。新しい宗教改革の情熱の炎を燃やして、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く高くとどろかせなくてはなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する生きた信仰の炎がなければなりません。真なる平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ成就されるのです。(一三五−二二一、一九八五・一一・一六)

 私はこれまで、神様が願われる摂理の方向に従って世界を改革し、地上に神様の理想を実現することに尽力してきました。また私は、統一教会の総力を最も優先的に動員して、それを宗教間の和合を通した世界平和の目標のために施してきました。皆さんが属した各教団も積極的にこの道に協力して、共に行くことを本心から私は願います。これは、私がこの分野の努力を中断したり、統一教会の財力を惜しんでいるのではありません。全宗教の伝統の霊的資源と創造力を動員して、神様が願われる方向に総結集することによって、平和世界の実現を早めようとしているのです。(一三五−二二二、一九八五・一一・一六)

 世の中には多くの宗教があります。その反面、宗教を知らない人や、信仰生活をしない人たちもいます。このように見るとき、信仰をもった人と信仰をもたない人、このような二つ・のグループが暮らしています。その背後には様々な国があることを私たちは知っています。しかし、この国が平和な立場で暮らしているのではなく、互いに争いながら、また様々な困難の中で未来を開拓しようとしていますが、その未来がどのようになるのかはっきり分からないまま、世界の数多くの人々は前進しています。

 今までの人々は、自分がなぜ生まれたのか、人生とはいったい何なのかという質問をしました。しかし、いくら研究して努力したとしても、人間だけでは平和の世界や理想世界、きょうのみ言の題目のように、善なる世界を成すことができないという問題にいつもぶつかっていました。

 それでは、なぜ人間が善なる世界を成すことができないのでしょうか。人間は、一生の間暮らす環境の差によって、主張することがそれぞれ違います。西洋人が主張することと東洋人が主張することが違うのです。一つの国で見ても同様です。ある国の歴史を見るとき、歴史の方向が時々人々の主張によって変遷してきました。歴史過程において、私たちが願う理想世界は変わってはならず、変わらないと同時に、平和をもたらすものでなければなりません。すべての人が一つになって平和な世界を成さなければなりません。(一四九−八〇、一九八六・一一・一七)

 人間たちは、自らが暮らしている世界に対して知りませんが、神様がいらっしゃるならば、そ の神様が願われることも人間が願うことも同じなので、神様も一つの祖国を人間に与えたいと思 われ、一つの世界を人間に賦与して平和の世界を建設することを願われるのです。ですから、神 様がいらっしゃるならば、神様は、このような分立歴史、戦争歴史に染まってきた歴史上の数多 くの祖国を一つにまとめるみ業をされるのです。宗教というものを通してするのです。ですから、宗教が出てこなければなりません。

 それでは、世界が必要とする宗教は、どのような宗教ですか。より平和を提示することができる宗教です。そのような宗教になるには、自分を重要視して、また自分を中心にする所有観念や所有欲をもっていては不可能です。そうしていては、歴史時代に自分たちの祖国を中心として、自分の民族を中心とする主体的な観念に支配された、そのような形態を抜け出ることはできません。これを脱しようとして、「自分を犠牲にしなさい! 自分を犠牲にしなければならない」と言うのです。

 このように見るとき、現世に生きている人々によって成された、紛争歴史を通して立てられた祖国を中心とする世界では、統一祖国は出てくることができません。しかし、概念を異にする宗教世界のその内容を中心としては、一つの世界になることができる可能性、一つの祖国が形成できる可能性があります。ですから宗教は、自己否定から犠牲奉仕を強調しながら、真なる道を探してきたのです。人間生活においての一時的な自己の生活理念を中心とした生涯の道を行くのではなく、永遠なる生涯の路程を行きながら、永遠の平和を描いていくのが宗教だというのです。高次元的な宗教ほど、そのような内容が充実しています。(一七二−一四三、一九八八・一・一〇)

 世界が思想的な面において混乱しています。もはや全世界は、混乱の中で一つの平和世界を追求しなければならない時が来たのです。四大宗教は、今まで四大路線をとってきましたが、その宗教がこの混乱期を越えることができるのかといえば、越えることはできないというのです。宗教は、国家と思想を引っ張っていくことができる先頭的立場になり得なかったというのです。その渦中で大混乱が展開し、大革命が急速に展開してくるのです。

 また、これから一つの平和世界を追求するにおいて、伝統的宗教内容が問題になるのです。これをもって一つの道を立てることはできません。ですから混乱が起きるのです。賢明な若者たちは、今までの信仰生活を放棄するしかないというのです。宗教が解決してくれるよりも、この社会、国家、世界が一つになって解決してくれるほうが早いと考えるので、宗教圏は、完全に後退する段階に入ってきているのです。それゆえに、大混乱が起きます。(二二九−二六三、一九九二・四・一三)

 今まで数千年の歴史を経てきながら、すべての人々が理想を描き、平和を描いてきたというとき、その理想と平和を一つにすることができ、その平和の門を開くことができ、解放の門を開けることができるものとは何でしょうか。それは、お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。内的な家庭においても、すべての宗教においても、真なる愛だけが宗教圏を屈服させることができ、家庭園を屈服させることができるのです。

 宗教というものは、家庭を抱えていかなければなりません。家庭をどのように平和にするのかというのです。宗教的側面から見るとき、その使命を完結した宗教がどこにあるのかというのです。仏教、儒教、イスラム教、言うまでもなくすべて同じ立場です。(二二九−一七三、一九九二・四・一二)

 宗教の歴史は、博愛主義が中心思潮です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。それゆえにそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪なる世界の霊に投入して、悪なる世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。

 皆さんも御存じのように、山上の垂訓でもそうではないですか。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ぱれるであろう」(マタイ四・九)とあるのです。家庭において、父母が不和のとき、その父母を和合させ、和平するようにし、不和だった家庭を和平させるところに天側の版図が拡大されるのです。それはどういうことでしょうか。この悪なる世界に対峙していくために、結局宗教世界は、新たに投入をしなければならないというのです。新しい何かを投入することによって、環境が自分によって影響を受けるようにしなければなりません。投入するのです。「投入しなさい」と言うのではなく、お互いが投入していくところにおいてのみ、その家庭に和睦と和合と平和をもたらすことができるのです。これが、善なる歴史性を備えた宗教が歩んできた背後の主流思想です。(二一三−七、一九九一・一・一三)

 神様がいらっしゃるならば、神様のみ旨は、いずれ人間たちの願いが終わることによって始まる見込みがあるのではないでしょうか! それでは、この混乱世界において、神様のみ旨を受け継ぐことができる何かの団体、宗教団体がありますか。国境を越えた体制を中心として、世界的版図をもっている数多くの大教団がありますが、その教団に神様のみ旨を受け継ぐことができる内容があるのかというのです。これがあるならば、希望の力が人類の前にあるかもしれませんが、ないというときには、宗教世界も終わるのです。このように考えるとき、今全世界の教団が、世界平和のための一つの理想世界を実現し得る最後のパターンを受け継ぐことができる時代が近づきました。(二一九−二八九、一九九一・一〇・一三)

 歴史時代において、キリスト教が成長してきた過程は、死の谷を掘り出してきたのです。死の谷から始まりました。人間において最も悲惨な立場、血の流れる殉教の立場から新教は発展してきたのです。このようにずっと闘争してきたのです。キリスト教の理想は、世界の平和であり統一の世界にありますが、その道を行くためには、それにもちこたえることができる根の基盤を築き上げてこなければなりません。そのためにキリスト教は、犠牲にならなければなりません。全体が血と汗を流す過程を経て、歴史時代のどこに行っても、すべて影の立場から始めたのです。迫害を受けたのです。このように数千年を闘って世界的基盤を築き上げたのです。

 新教の独立国は、アメリカです。カイン、アベルが争う状況の中で、アベルを中心としてヨーロッパ全体のカトリック主権国家が反対する環境を越えて、信仰の自由と平和の神様のみ旨に向かってメイフラワー・号に乗り、大西洋を渡った百二人のピューリタンたちの歴史を見れば悲惨なものです。(二〇六−一二、一九九〇・一〇・三)

 世界戦争も何年もしないで、すべて終わりました。どのような戦争も終わりますが、自分の心と体の中で展開している戦争はいつ終わりますか。この戦争を終わらせることができない人は、平和の王国世界とは関係がありません。戦争の王宮世界と関係を結ぶようになっています。それは論理的です。

 永遠の二つの世界があるとすれば、争いの世界、闘争の世界を代表した世界を地獄といい、平和の世界を天国だといいますが、心と体の闘いを終結させ得なかったそのような人たちが天国に行く、ということは論理的に矛盾です。これを解決できない宗教は、すべて消えていかなければなりません。キリスト教でも、仏教でも、儒教でも、どのような宗教でも同様です。(二〇四−二二、一九九〇・六・二九)

 神様を中心として父母に侍る生活理念を再逢春(注:再び春を迎えるように、不幸だった人が幸福になること)するために教育するのが宗教の道理なので、宗教圏内において歴史が長い宗教だからといって貴いのではありません。宗教の行く道の前には、僕の宗教があり、養子の宗教があり、庶子の宗教があり、直系の子女の宗教がある、ということを知らなければなりません。その基盤の上に父母の宗教が出てきて、二十一世紀の平和の天国に向かっていくのです。それゆえに、すべての僕たちに、主人に対して備えなければならない生活の道理を教えてあげて、僕が行かなければならない正常的な道を行くようにしなければならず、養子にも、息子の名前をもっているので、父母が幸福になることができて、父母の家庭が大平聖代を成すことができる内容を教えてあげなければなりません。庶子にも同様であり、直系子女にも同様です。宗教の第一の核心的内容は同じですが、同じだといってもすべてが同じではありません。(二〇六−九八、一九九〇・一〇・三)


五 個人、家庭、社会、国家、世界、宇宙の平和

 この宇宙の平和を開く鍵は多くはありません。一つしかありません。その鍵は世界でもなく、国家でもありません。一人です。一つの世界を代表した一人、国家を代表した一人、この民族を代表した万人、氏族を代表した万人、家庭を代表した万人、個人を代表した一人、この万人が問題だというのです。(八二−一三四、一九七六・一・四)

 「自分」を斬新な姿で立てていく時に、新しい歴史は創造されます。また歴史的に、幸福を追求する生活においても、私自身の斬新な姿を求めなければ、この地上の幸福や平和というものは自分と関係ありません。このように、すべてのものが自分を中心として連結されており、すべてのものが自分によって左右されるということを知らなければなりません。(二七−一四二、一九六九・一二・七)

 個人から家庭、氏族、民族、国家、世界に行くにおいて、引っ掛かるものがあってはいけません。個人から家庭が勝利点を受け継いで、家庭から民族が勝利点を受け継がなければなりません。そのようなパターンで家庭の勝利点を氏族が受け継いで、氏族の勝利点を民族、民族の勝利点を国家、国家の勝利点を世界が受け継いで越えることができなければなりません。そのようなパターンが出発と同時に変わりなく個人から世界まで受け継ぐことができる、一貫した因縁を整えた基盤が地上に展開しなくては、神様が願われる摂理的最後の勝利点は、この地上に顕現することはできません。そのようなものがなくては、この地上に平和の世界はやって来ることができません。希望することもできません。皆さんは、それを知らなければなりません。(五七−六八、一九七一・五・二八)

 この世界は、とても大きな世界ですが、結局は一つの個人が種を蒔いたので、その万人が蒔いたものが世界的に実を結んだ型だというのです。一つは内的な人の形態、一つは外的な人の形態として、この二つがずっと闘っていては平和はあり得ません。それは、神様が願われる本意ではありません。

 今まで人類に代わって歴史過程を経て摂理を推進してこられた神様は、必ず統一を模索する一つの新しい何かを提示しなければなりません。そのような運動が地上で展開しなければなりません。あるいはそのような運動が地上で展開しなくても、そのような希望的な理想の基盤が歴史過程に残っていなければなりません。それが宗教を中心とする歴史上の文化圏です。(二〇−一六九、一九六八・六・九)

 今日、世界は平和を願っています。万民は、一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界は、私たち個人を通さなくては成されません。私たち個人個人がそのような理想の基盤を確保して、その環境を広げる過程を経なくては、その世界にまで到達することはできません。

 さらに私たち個人においても心と体が闘争しているのを見るとき、この平和の道、統一の道というものを他の所で求めるのではなくて、私たち個人で模索する道以外にはありません。ある一人が完全に天を代表して、地を代表して、国家を代表して、あるいは民族を代表して、特定の家庭を代表して、全人類を代表して統一された実体を成さなくては、統一の出発を見ることができません。人類がこのような歴史過程を経てきたということを知っている私たちにおいて、問題は一人だというのです。

 その一人は天を代表し、この地を代表し、歴史を代表し、人類を代表し、全体を代表した万人の人間として統一された自我、すなわち人格をもって来る中心存在なのです。そのような存在がいなくては、いくら統一や理想や平和の世界を私たちが待ち望んでも、成し遂げることができません。(六一−二四七、一九七二・九・一)

 人間の欲望で立てられた政策理念をもっては、一つの政策方向、一つの路線を追求する道はありません。それで絶対的な思想、絶対的な精神と因縁を結んだ一つの思想体系を通して、人間の良心と体を通した生活舞台を再現させる道を発掘しなくては、一つの世界を模索することはできず、平和の世界を成すことはできないというのです。(六〇−二六二、一九七二・八・一八)

 私たち人間は誰でも、幸福と自由と平和と愛と理想を描かない人はいないと思います。理想を描くのですが、刻一刻と変わる理想は願いません。しかし、私たち人間の世界は、変わるのが習慣であり、変遷されていく歴史の中で私たちは生きているのです。

 私たち人間は、今の世界人類が理想や愛や自由や真なる善というものを求めて疲れ果て、障壁にぶつかってうめいていることを直視するようになりました。真なる自由の主人、平和の主人、幸福の主人、善の主人、愛の主人、理想の主人がいれば、その主人は、私たち人間より次元が高く変わらない一つの絶対的な中心存在でなければならない、ということを私たちは考えざるを得ないのです。

 神様は、自由の大王であり、平和の大王であり、愛の大王であり、理想の大王であり、幸福の大王であることは間違いありません。それでは神様に私たちが、「あなたがそのような主人になるならば、幸福や自由や愛や理想という基準を、どのような位置においておきたいですか」と尋ねれば、神様はどのように答えられるでしょうか。神様がいらっしゃっても、神様御自身を中心として、神様お一人では自由や平和や幸福や理想や愛という言葉は成立しません。そのために、必ず相対的存在がなくてはいけないという結論が出てくるのです。

 それでは、神様は主体であり、私たち人間は対象ですが、主体と対象関係において、真なる愛の基準を「ために生きなさい」というところにおかれたでしょうか、「ために生きる」というところにおかれたでしょうか。ここにその起源が生じるようになります。神様は、知恵の王であられるので、これから人類の前に平和と、幸福の世界を成そうとするならば、主体である自分のために生きなさいという原則を立てることはできません。それを立てれば、平和と統一の世界はあり得ません。しかし、「ため」に生きるという原則によって、真なる善と理想と愛と幸福と自由を与えるようにせざるを得なかった、ということを今日の人間は知りませんでした。(七〇−三〇三、一九七四・三・九)

 世界のすべての人たちが「正しい」と言うことができる基準、公認されたその基準は、誰も変更することができない基準でなくてはなりません。その基準を中心として世界の平和が芽生えることができるのです。ここから善の個人と善の家庭、善の氏族、善の民族、善の国家、善の世界が出発することができるのです。しかし、国家がいくら善だとしても世界的な基準と方向を合わせることができなくなるとき、その国家は崩れていきます。

 ですから、私たちに問題になることは主義と思想です。宇宙観と世界観、そして人生と生活観、新しい世界の人格観などが問題になるというのです。(三三−四八、一九七〇・八・二)

 今、私が生きている世界が問題ではありません。世界は遠い所にあるのです。国も問題になりません。家庭も問題ではありません。夫あるいは妻も問題ではありません。結局は、私自身がある統一的な基盤を築き上げることができるのか、ということが何よりも重要な問題だというのです。このように思うとき、自分が平和と統一の世界を願うならば、自分から統一して、自分から一つになる位置を探さなければなりません。そのようにしないで、その統一的な世界と関係を結ぽうというのは理論的に矛盾です。(一二八−七六、一九八三・六・五)

 第二次夫戦が問題ではなく、今のソ連とアメリカが問題ではありません。自分の中で永遠に続くこの戦争を、どのように平和に裏返してしまうかという問題です。これは、何よりも重要な問題だということを知らなければなりません。これができなければ、世の中が平和世界になっても、それはすべて地獄になります。先生がこの道を出発する時、第一の標語が何だったかといえば、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」ということだったのです。自分自身を占領することができない人は、世界を占領することはできません。(一三一−三二、一九八四・三・一一)

 堕落した運命圏の子孫として生まれた私たちには、個人を犠牲にしなくては家庭を連結させる道はありません。個人を投入しなくては家庭に平和の基地をつくる道はありません。家庭のために犠牲になる精神基盤がなくては、その家庭が民族と世界に前進することができる基地になることはできません。安息の基盤ができないというのです。ですから、家庭全体が民族を経ていく基地にならなければなりません。民族を経ていこうとする一族を導いていかなければなりません。(一六八−一一二、一九八七・九・一三)

 平和の王宮はどこですか。イエス様は、天国がどこにあるかというとき、「あなたの心にある」と言われました。天国は自分の心にあるのです。心自体を中心としては天国は臨在できません。ですから、統一教会が統一を主張するのは、世界統一を主張するのではありません。世界統一がある前に国家統一がなければならず、国家統一がある前に民族統一がなければならず、民族統一がある前に氏族統一がなければならず、氏族統一がある前に家庭統一がなければならず、家庭統一がある前に個人統一がなければならないというのです。最も根本になる個人統一をしなさいというのです。これを標準にするのです。

 それでは、歴史上にこのように統一された家庭の基準の上に立った家庭が、この天地間に来ては行ったのでしょうか。どのように生まれていなくなったのでしょうか。今、皆さんが暮らしている所は、すべてごろつきばかりです。二人が一つの夫婦になれば、そのごろつきは四人のごろつきになります。十人の家族が住めば二十人のごろつきになり、三十六億の人類が暮らせば七十二億のごろつきです。この中では平和を夢見るなというのです。

 それゆえに、神様は知恵があり、このような道理と事情を御存じの神様なので、平和の起点をどこにおかれたでしょうか。宗教を通して、個人を中心としたこのような復帰運動をされるのです。それを見れば、神様は偉大な方だというのです。平和の起点を世界におかれたのではなく、平和の起点を国におかれたのではなく、平和の起点を氏族におかれたのではなく、個人におかれたというのです。

 個人の心と体の平和を永遠なる起点にして、そのようにすることができる男性と、そのようにすることができる女性を誕生させ、この地上で完全に統一された一組の男性と女性が、完全なる男性のプラスと完全なる女性のマイナスが神様の愛の力を中心として、完全に一つになった家庭が出てくるならば、誰がそれを離すのかというのです。離すことができますか。そのようにすることができる力の母体である、神様の愛を中心として連結された家庭の基盤が、まだこの地球星には顕現していないというのです。(一六〇−二六三、一九六九・五・一七)

 自分の心を中心として自分の体が一つになり、心と体が一つになった完全なる個体を中心として家庭になり、家庭を中心として完全なる氏族を編成して、氏族が連結して民族、民族が国家から世界まで連結して、今日この地上で暮らしている数多くの人々が平和で統一された理念圏内で暮らしているのかというとき、そうではありません。これは、なぜそのようになったのでしょうか。すべてが堕落の応報によって、そのようになったのです。

 それゆえに、これをある一時に清算して除去してしまわなければなりません。そうして私たちの心と体が一つになり、心と体が一つになったその個体が家庭と一つになり、その家庭と国家と世界全体と一つになって、誰彼を問わず幸福を謳歌することができ、平和を謳歌することができ、自由を褒めたたえることができるその世界を迎えなければなりません。

 神様は、この人類をそのような苦痛の立場に置いておくことができないので、救援摂理をして心と体が一つになって平和を謳歌することができ、幸福を謳歌することができる個人を求めてこられたのです。その個人を中心として一つの民族、家庭を中心として一つの国家を成して、この宇宙を神様が願われる世界に再び取り戻すために、この地上に対して摂理せざるを得なかったというのです。(一五五−一九五、一九六五・一〇・三〇)

 統一の内容は簡単です。自分の心と体が一つになればできるのです。そのように一つになったものが家庭と一つになれば、平和な家庭になるのです。そのように一つになった家庭が社会と一つになるとき、その家庭は社会において、誰にも恥ずかしくない幸福な家庭になるのです。そのように一つになったその社会が国と一つになるとき、その人には国において、誰も否定することができず尊敬せざるを得ない統一圏が展開するのです。さらには、世界人類と共に間違いなく一つになることができるというとき、そのような人たちを通して地上に天国が成し遂げられるのです。(一九九−二三七、一九九〇・二・二〇)














SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送