人の生涯
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第二節 青年とタイミング

一 今という時

 今という時は、六千年の人類歴史の結実時代なのです。ですから、葉はすべて落ちるのです。(八二・一四二)

 いちばん重要な時期、私たちが緊迫することを名付けて言うならば「最非常時期」であると言えるのです。このような言葉にも置き換えることができるのです、エマージェンシー・タイム(emergencytime:非常時期)。(一二三・七五)

 さあ、今の時は、どういう時か? 最後の時です。それほどに、すべてが混沌状態にあり、自分を収拾できない断末魔的な時代に臨んでいます。ここに神様がいたら、神様が対処できることは、これをどのようにもう一度救ってあげるかということです。このような問題を中心として考えるときに、その思想概念、自己を中心とした思想を、どのように全体を中心とした概念に戻すのかということです。これは、生死の問題を決定しうる重要な要因であるという結論を下しうるのです。何のことか分かりましたか?(一二六・一一二)

 見なさい、今は紅海を渡る時です。その時と同じです。皆さんもそうです。自分勝手にやれば、滅びるのです。今は、ヨルダン川を渡り、紅海を渡る時です。分かりますか? 紅海を渡るときは、すべて自分勝手にやれば滅びるのです。(一三五・二〇二)

 今の時は、そのような世界を成すべき時なので、モーセが身仕度をし、ヤコブが身仕度をし、アブラハムが身仕度をし、イエスが身仕度をしたように、私たちも身仕度をして、立ち上がるべきでしょう。何のために? 自分の国のためではなく、世界のために、ひいては天のために身仕度をすべきでしょう。(一一・二九)


二 タイミング

1 時がある

 時は来ます。時を待つ私たちも忙しいですが、時を訪ねて来られる神様は、もっと忙しいということを知るべきでしょう。(一一・二九)

 人というのは、時があるのです。時を過って逃せば、歴史に恨みを残しうる、このような起源が、自分も知らない内に過ぎ去っていくという事実を知るべきでしょう。(七八・九四)

 この地上のある人が、いくら持てる知識が多く、手腕に長け、すべての仕事を自分の意のままにできる、背後の条件を完備しているとしても、時を合わせられず、環境を持てなければ、志を成し遂げることはできません。(九・二五四)

 それゆえ、俗に、いくら英雄であっても、時代にうまく合って生まれなければ、英雄として成功できない、というのです。そのように、時というものは、非常に重要なのです。時をうまく合わせられなければ、すべてが無駄になるのです。(五八・二三八)

 時の貴さを知るべきです。春に種をまくべきなのに、秋にまくなら、冬の間苦痛を受けなければならないのです。(一八・一八五)


2 時と召命

 人はだれに限らず、何かに選ばれるようになれば、その選ばれた位置で、真の勝利者になろうとし、もっと輝ける価値を追求しようとします。これが人の欲望です。しかしながら、この欲望が私たちの望みを刺激しうるとしても、これを実践するということは、それほど易しいことではありません。人は、努力さえすればだれでも成功するものと思っていますが、成功するということは、それほど易しいことではありません。

 神様のみ旨の前において、召命を受けるという事実も難しいことですが。召命を受けて、十分に果たすということは、もっと難しいということを、私たちは知るべきです。

 私たち人間は、一日を始める朝が来れば、この朝を皆同じく迎えます。昼が来れば、この昼も皆同じく迎え、夜なら夜も皆同じく迎えます。しかしながら、個々人の心霊を中心として見れば、そうではないのです。一日を迎えるにおいて、時間上では朝方を迎える人が、心霊上では昼を迎えるとか、昼を迎える人が、心霊上では夕方を迎えるように、食い違う人がいるのです。

 言い換えれば、み旨に従う際に、すべてが平坦なものではなく、反対の立場に立ってついていく人がいるのです。このような人たちは、どんなことでも自分の願う通りになりません。み旨の道を歩んでも、必ず相反する役事が起こるのです。

 そのような人は、どのような人かといえば、自分がもし秋なら秋、冬なら冬のようなときに出発したのに、その出発したときがいつなのか、確実に知らない人たちです。分からないのです。冬が過ぎて、立春がやって来るのに、この立春がいつ頃自分の生活圏内に訪ね来るのかを知ることがとても難しいのです。このように、今日、私たち堕落した人間たちは、そのような時を合わせられないので、しばしば食い違ってしまうのです。それゆえ、いちばん重要なことは何かというと、その時を私たちがどのようにとらえて、合わせていくのかということです。

 このようなことを、信仰生活で悟るようになるとき、皆さんが注意すべきことは、その時をこのようにうまく調節して、合わせるかという問題です。これは、極めて重要な問題であるのです。これを合わせ損なうと、一日が食い違い、一年が食い違い、十年、あるいは数十年が食い違い、やることすべてに成果が現れず、相反する結果ばかり現れる生涯の路程を経ていくしかないのです。このような問題を考えてみるとき、み旨に従っていく私たちは、このような時を合わせていくためには、更に深い信仰生活、言い換えれば、深い祈祷生活が必要だということを知るべきです。(四〇・六六)


3 歴史の中でのタイミング

 私たちが「時」ということを考えてみるとき、「時」には、天の運勢の時、個人の運勢の時、国の運勢の時など、色々考えられます。ところで、その「時」というのは、個人なら個人、家庭なら家庭、民族なら民族、国家なら国家、世界なら世界に予告をして訪れるのではありません。その時は、いつも訪れますが、続けて出ていくため、すなわち、きのうの続きが今日であり、今日の続きが明日であるため、私たちは、その時の確実な分岐点を認識し難いのです。

 その時が、朝になるのか、昼になるのか、夕方になるのか、あるいは、夜になるのか、知り難いのです。一時点を過ぎるその時に、自分自ら相対的基準と生活的基盤を合わせるということは、極めて難しいことであるのです。

 今まで経てきた歴史過程には、摂理の時がたくさんありました。個人のための時、家庭のための時、民族のための時、国家のための時など、一つの民族や国家を中心として、そのような時もありましたが、数多くの国家の前後左右を中心として見るときも、そのような時がたくさんありました。しかし、民族なら民族、国家なら国家が、その背後や前後関係において、過ぎていく必要適切な時に合わせて、果たしてその時がその民族が迎えられる時であり、その時の時点が、今日天の運勢が訪ね来る時であることを知って、その時を迎えたことがあったかというと、なかったのです。

 予言者たちは、大部分ある一時について預言をします。そして、預言したその時は、必ず来るのです。しかし、その来ることの中心は、何ヶ月、何日間ではなく、一日のある瞬間、まさに一時の焦点を中心として過ぎていくのです。それゆえ、そのような分水嶺のような一時点を越えるのに、そこに正確に歩調を合わせるということは、非常に難しいことです。

 それゆえ、今まで予言者たちが預言したことは、大部分なされましたが、そこに対して直接的な時代に、その時を知って、そこに備えて、相対的な立場で迎えてなされた事実は実に少ないということを、私たちは知るべきでしょう。その時を過ごしてしまって初めて「ああ、その時春が来たのだなあ。わが国に良い運勢が来たなあ。だれかが預言したその時が過ぎ去ったなあ」と言いながら、過ぎ去った時を回想するのです。このように、預言したその時を過ごしてしまって、その時をまた回想するのが、いつも私たち人間が生活してきた方式であり、今までつづってきた人類歴史だったのです。

 このような観点で見れば、皆さん自身の一生においても、重要な時があります。一生において、必ずなくてはならない重要な時点が、ある一時を中心としてやって来るのです。ある一日を中心として、その時が必ずやって来て、峠を越えていくでしょう。(四〇・一四二)

 人類歴史の時代において、イエスの受難の道に同参することのできる、たった数時間、たった数秒という時間は、二つとなく貴いものであり、神様を迎えることのできる、神様の公認を受けることのできる貴重な時間であるにもかかわらず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがこの時を逃すことによって、千秋の恨みを残してしまったのです。これは一個人の恨みではなく、万民の恨みに連結されて、神様がこの地の上に与えようとされた、全体の福をひっくり返しうる最低の境遇になったという事実を考えるとき、そのとき代表的な立場に置かれていた使徒たちの責任が、どれほど重大だったかを皆さんは知るべきです。(四〇・一五四)


4 時を迎える方法

 一日を見ると、一日は朝と、昼と、夕方と、夜に分かれています。これは同じように見えますが、刻一刻違って移っていくのです。朝から昼までのその中間過程では、朝なのか、昼なのか、分からないときがあるのです。また、昼から夕方にさしかかるときも、そのときが昼なのか、夕方なのか、見分けのつかない中間のときがあるのです。また、夜もそうなのです。分かれる岐路があるのです。

 その変わっていくときというものは、私たちが、まかり間違えば分からないのです。そうではないですか? いつ変わっているのか、分からないのです。春夏秋冬を考えてみても、春から夏に変わる日々が、チクタクという瞬間を通してそれが変わっていくのに「ああ、もう春が過ぎて夏だ」というのが分からないのです。それは、だれもが分かりやすい問題なのに、だれもが分かりにくいのです。また、夏から秋、秋から冬に変わっていくのも、私たちは分からないのです。

 それと同じように、私たち人の一生を考えてみても、人の一生は少年時代から青年時代、壮年時代、老年時代を経るのです。ところで、これが越えていくときは、少年時代が終わって青年時代に越えていくのに、これをだれかが記憶して「おい、もう少年時代が終わって、青年時代に入るぞ」と言う人はいません。皆さんが競争のトラックで、スタートラインに立って走るように、そのような深刻な場でそれを感じてみた人は、一人もいないのです。

 私たちの一生も、そのように越えていく時に合わせにくいのです。その時というものを正確に合わせて、「それがこの時間だ」と言い「よーい、ドン」という瞬間をもって、「私はこの時から、少年時代から新しい青年時代を迎える」と言い、喜んで新しい時代を迎える人はまれなのです。(五八・二三九)

 ところで、日々を送りながら、ただその日もその日であり、今年も昨年と同じであり、摂理の時が発展するというけれど、そこでそこだと満足する人は、落ち葉になるのです。このような人は、生命の因縁を持てないために、秋になる前に落ちやすい落ち葉のようになりうるということを、皆さんは知るべきです。

 それゆえ、私たちは、時に対してもっと考えるべきです。朝ならご飯を食べる時があります。ご飯を食べる時間だといっても、ご飯を食べ始めた時、ご飯を食べている真っ最中の時、ご飯を食べるのが終わる時があります。そのような時を、毎日毎日持つというのは、大変なのです。このように、天の時も私たちの生活過程を通して過ぎていくのに、私たちはそれをいつも見逃しているのです。

 それゆえ、精誠を尽くすにおいては、むやみに捧げてはいけないのです。その時がどの時であるかを知って、その時に合わせて、目標を定めておいて捧げるべきなのです。そのようにして、世界のどんな人よりももっと捧げるべきです。地球上に数十億の人類が住んでいますが、その時、その瞬間、その焦点を中心として、だれよりも精誠を尽くさなければなりません。そのように、すべてを集中して精誠を尽くすことによって、その精誠の度数が数十億の人類の前に一番になるとき、神様は彼とともに関係を結び越えていかざるをえないのです。これが神様の摂理路程であることを、皆さんは知るべきです。

 今日、統一教会の教会員の中に、統一教会に通うことにして、統一教会自体内で内的にひっくり返して、神様が見つめ、世界が見つめ、霊界が総動員して見つめるその時に、真に自分自身の歩調を合わせられるようにしてくれと、精誠を尽くし、また、「神様、今までこの時を願ってこられた、あなたのそのみ旨を、私たちの教団とともに、今日この地の上に、なしてくださいませ」と言い、神様の前に訴える人がいるならば、その人は福を受けることになるでしょう。その時の摂理圏内に参加することができる、特別な恵沢を受けることになるでしょう。

 何も持たない人であっても、正確にその時を中心として、自ら準備して、自ら精誠を尽くすなら、その時の使命を背負い、責任を果たす、その中心存在とともに相対的な立場に立つようになるために、他の人たちは知らなくても、神様は認められるのです。そのようなことを一次、二次、三次と回数を重ねる人がいるなら、その人はその時の恵沢を受けるので、神様がその一代の基盤として、認めてくださるということを皆さんは知るべきでしょう。

 私たち統一教会の教会員たちは、福の綱というか、天の運勢の綱というか、そういう綱を持っているので、この綱を中心存在と自分が、互いに引っ張り合い、この綱がたるまず、ピンと張る位置に立つならば、その位置がどれほど素晴らしい場所であるかということを考えるべきです。

 それゆえ、統一教会の教会員なら、統一教会の行く道とともに、自分の生命を懸けて忠誠を尽くしながら、一日一日、時間時間を、その時の拍子と度数に合わせるために、精誠を尽くすべきです。そうしてこそ、その人は、統一教会の運勢とともに発展するのです。

 統一教会に従う人たちも、行く途中で疲れて倒れるかもしれませんが、その中でも世界の運勢とともに関係を結び、その時に合わせるために、精誠を尽くした人がいるならば、他の人はたった一日でみんな倒れてしまっても、その人だけは残るでしょう。

 摂理の途上においても時があるのです。ですから、その時を知ろうというのです。その時を知って、精誠を尽くそうというのです。精誠を尽くすには、時に合わせて精誠を尽くすべきです。むやみに精誠を尽くしてはいけません。精誠を尽くすときは、その時が、どの時であるかを知って、その時に合わせて、すべての精誠を尽くして、その時間を通じて神様と因縁を結ぶべきです。

 このような問題を考えるとき、今日私たちがこのような時に対する的確度を知って、その時に合わせて神様の前に相対的な立場に立ったということは、極めて貴い事実であるということを考えるべきです。(四〇・一五二)

 時を逃さず、時を失わず、仕事を奪われるな、ということです。それを失わない方法は、今先生の言う二通りしかないのです。疎ましい人にならず、人を愛する人になり…。その二つだけすれば、それを絶対失わないのです。それだけパスすればいいのです。それしかないのです。私が調べてみたら、それしかないのです。(九四・一四三0


三 この時の途方もない価値

 個人的に願いが成就されるときは、どんな時か? この時に初めて可能なのです。分かりますか? 皆さんの一家が、一族が、あるいは国民がいくら多くても、個人的に事を成すことができるときは、この時でなければ歴史上で他の時はないのです。統一教会が教えた道理が事実ならば、この時しかないのです。何のことか分かりますか? 前にも後にもない時です。

 例えば、太平洋の中に投げた一粒の砂を、一度まっしぐらに入ってそれを指でつまみ取るよりも、もっと大変なことが皆さんの目前に展開されるのと同じです。天と地にある針の先を互いに合わせるのに、一度、二度合わせてみずに、一度でピタッと合わせ、その先が合うようにすることが起こっているけれど、それが容易なことかというのです。なんのことか分かりますか? これは前にもなく、後にもないことです。ここで結ばれた心情というものは、新しい理想時代の歴史の起源になるのです。新しい文化世界創造の創造の源泉となるのです。

 それゆえ、これからは、幸福が他のところにあるのではありません。未来にはないのです。父母を迎え、兄弟とともに国を探し、世界を探せる時が最大の幸福点です。分かりますか? そのときが幸福の極致です。父母を失い、親族を失い、氏族を失っては、いくら成功したとしても、それは真の幸福にはならないのです。

 自分が愛する父母とともに、愛する妻とともに、愛する子とともに、愛する民とともに、愛する人類とともに、愛する天とともに生きるのが最高の幸福ではないか。そのようになってこそ幸福の極致なのです。そのようなときは、この時しかないのです。先生が行った後には永遠にないのです。何のことか分かりますか?

 それゆえ、それは歴史的な起源とともに、永遠にその社会の起源になりうるし、人類の生活のモットーになりうるし、生涯の基準になりうるのです。その起源がここから出発するのです。

 ここからいつまでも輝いていたものは、人類歴史に人格的な表象として登場するのであり、ここの功臣は、人類歴史を支配しうる功臣の表象として現れるのです。このように考えるのです。これは、夢のような話しなのです。事実でない、夢のような話しでしょう? 数多くの水蒸気が合わさって雲になり浮かびますが、その雲の中の一つの水蒸気のような、一つに水素分子のような分子が、自分とともにピッタリと合うのです。

 人類歴史の時代において、人間が感じる感情を調和させてこそ生きられる、最高の希望の峰がここから決定されるのです。ですから、考えてみなさい。大学が問題ですか? 世の中の何ものも問題ではないのです。希望の峰が決定しうる瞬間はここからです。前にもなく、後にもない、輝かしい文化の起源がここから始まるのです。ここで功臣となり、孝行息子、孝行娘になるならば、青史にとこしえに輝くでしょう。(五一・二五八)

 みなさんは、途方もないといえば、途方もない時代に生まれ、一度しかない因縁の中で呼ばれ、前にもなく、後にもない一度しかない歴史の流れの双曲線が、私たちの時代に自分一代の生涯の路程を中心として、交差するその頂上に呼ばれたという事実を知るべきです。

 六千年の人類歴史において、堕落の歴史がいくら悲しく、いくら曲折が多かったとしても、今日この絡み合った人類万民を占領できなかったため、この理念の中で歴史的な復活が残るのであり、神様の恨みと、神様の悲しみが、ここで晴らされうるのです。これこそが、万国の万事を解決しうる起源になるという事実を考えるとき、皆さんはこのような時期に生まれたのを、何よりも誇りに思うべきでしょう。

 皆さんは、自分の顔は何でもなく、自分の姿は何でもないのですが、皆さんの先祖たちが善の功績と基盤をどれだけ立てたのか分かりませんが、皆さんは千秋万代に輝く先祖たちの功績の因縁に従って、天が訪ね、助けてくれる、歴史上にたった一度しかない、皆さんの先祖たちが受けたかった恩賜を、全体に代わって代表的に受ける自分たちであることを認識すべきです。(四三・三三五)

 統一教会の文先生に会った人たちは、人類歴史、人間世界の歴史路程に、初めて愛の春の光を呼吸できる時代圏を迎えました。(一四〇・三〇六)

 人類の父母が一度現れるのが、歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いであるために、その父母が現れるときは、後にも先にもないときであり、歴史上に一度しかない、何と言うか、てっぺんなのです。狭いならば、どれだけ狭いでしょうか? 永遠な世界を考えてみれば、人間の人生というものは息を一度するのと同じことです。そうでしょう?

 皆さんは、運が良くてそうなのか、福があってそうなのかは分かりませんが、どのようにして、この時代に生を受け、この一時に会い、統一教会に入ってきたのでしょうか? 統一教会にどうやって入ってきましたか? 皆さんをこの場に引き入れるまでには、数多くの先祖たちが精誠を尽くしに尽くしました。数多くの人たちが滅び、善が踏まれる立場で死んでいきましたが、その千の人、万の人の因縁を経て、回り回ってその因縁が天につながり、陽が昇る高い山のような立場に立ったために、そこで陽の光を眺めて集まったのが皆さんなのです。

 この時は、人類歴史において、愛という因縁が出てくるとすれば、それは初めて出てきた時なのです。それゆえ、生命の価値を付与できる時があるならば、この時から始まるのです。国と世界の主権を、より価値ある内容に肯定させることのできる時も、この時しかないのです。この時は、歴史の起源であり、希望の焦点であり、万福の出発であり、永遠な生命の発源地なのです。そうすることのできる時です。(五一・三三五)


四 現在と一日

1 現在が重要である

 今日私が立っている位置は、一つの時代ではありません。三つの時代をつないでいます。過去の時代を代表した位置であり、未来をつなぐ位置です。今日というこの位置は、過去を代表し、現在にはこの世界が入っています。現在は人類の中心になるのです。現実というものは、過去の世界人類全体を代表する場であり、この世界を代表した中心点なのです。(六八・二二五)

 私たちが一日一日生活するにおいて、この瞬間を考えてみても、その瞬間は現在としてだけつながってはいないのです。現在、現在というとき、この現在を切ってみると、必ず過去が現在の先端までつながっているのが分かります。今私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去がつながるのです。また、この瞬間には未来、今私が考えている未来がつながっているのです。

 このように考えれば、真の現在の起点はどこか? このとき、私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない観念的な境地までの現在を考えざるをえません。このような現在、なければなく、あればあるような現在の一つの点が、現在の一つの線が今日私たちの日常生活の方向を左右しているということは、恐ろしくとも、驚く事実であらざるをえないのです。

 一日を考えてみると、そこには昨日があり、明日があるのです。一月を中心として見ると、先月があり、来月が来るでしょう。一年を中心として見ると、去年があり、来年が来るのです。青年時代を考えてみると、少年時代があり、未来の壮年時代あるのです。このように現時代を中心として見ると、過去の時代があるのと同時に、未来の時代がつながっているという事実を、私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というものは、過ぎ去る過程にあるとも見られると同時に、これから思いもよらない未来を迎える瞬間点にあるとも、私たちは考えられるのです。過去と現在と未来というものは、一つの点で動いているのです。それゆえ、その現在は、過去を否定する現在になりえず、未来を否定する現在になりえないのです。(六八・二〇四)


2 その日一日が重要である

 世界人類が勝手にするのではなく、人類もある方向を…。皆さんが一日の生活をするには、このような方向です。このような方向をつないで…。そうではないですか? 生活は、このような方向で…。

 それゆえ、皆さんは朝起きれば「今日はこのようにしなければならない。方向をうまく合わせて、線を引いて行かなければならない。一日の線を引いて、行かなければならない」と言うべきです。そうすべきではないですか? あるいは、一月の生活をするとき、必ず「このようにしなければ」と言って、線を引いておいて暮らすべきです。その線が徹底して、間違いなく、完全な線であるほど、その瞬間瞬間をつなぐ一日の中で、一つの瞬間瞬間を完全に引いていかずには、完全な一日と一月を残せないのではないか。完全な一月を残せないなら、そこから完全な一年が無駄になるのであり、完全な一年が無駄になる場合には、永遠な理念も無駄に帰結してしまうのです。(一六八・二一二)

 それゆえ、信仰者はいつもその境地を眺めていくべきです。朝に立ち上がるとき、自分の心と一日の目標はどこに向かうのか、ということを考えて、立ち上がるべきです。そうして出発する朝よりは、夕方帰ってくるとき、あるいは一日を過ごしてから床につくとき「私は今日は良かった。今日はみんな行った。み旨の前の私の面目を立てられた。今日こそ、この一月に代わりえて、この一年に代わって誇りえる」と言える位置に立つべきです。熾烈な闘争無くしては、そのような位置に立てないのです。(二七・九八)過去が貴重か、未来が貴重か? 過去が貴重ではなく、未来が貴重ではなく、今日が貴重なのです?(四五・二四)


3 瞬間を守れ

 問題は今日です。一瞬間の問題なのです。ですから、一瞬間を延長して、拡大して、一日一日を自分の側に立て直しておきましょう。その一日一日を積み重ねて、一月を自分の側に立てましょう。その一月を積み重ねながら、一日一日を自分が勝利したという基準で送るべきでしょう。

 ですから、瞬間を守れ、今を守れというのです。神様は遠くにいらっしゃるのではありません。今喜ばれる神様を受け入れられない人は、永遠に喜ばれる神様を受け入れることはできません。今勝利の神様を迎えられない人には、勝利は永遠に遠いものです。

 今が問題です。今を無視する人は、永遠な勝利の神様の世界を無視する人です。今、この瞬間というものは、永遠を判決する地点なのです。そのような毎日の瞬間が継続している人生行路に、私たちは立っているのです。それを悟るとき、切実に生きるようになります。一挙手一投足が、実に生命を懸けたものになるのです。(六五・二四七)

 今皆さんは、若い時期にいます。そのように守られた青春の基台の上に、この青年時代をどのように送るのか? このとき、もし勝利の基台を成し置くようになれば、それは何十倍の孝の道、忠の道となるでしょう。今を守ってください! 今という時を守れないことによって、自分個々人が負債を負う人になってはいけません。すべて行うことに対して、嫌だとか、苦しいとか考えては、神様に面目が立ちません。神様は、本当にかわいそうな方です。

 一瞬でも神様の勝利の基台を、世界復帰の基台を立てて差し上げなければならないのが、私たちの立場なのです。皆さんはそのような道を行くべきです。そのような道を行くようになるとき、神様は必ず皆さんに同情してくださるでしょう。ですから、瞬間を守ってください。今を守ってください。

 特に一生涯の中で、輝く歴史を創造する青年時代において、今日を価値ある一日として守ってください。今日一日を忠孝として守らなければなりません。それは、生涯の絶頂を越えるような決定的な瞬間であるかもしれません。

 それゆえ、眠るときにも、起きるときにも、そのような意識を持つべきです。皆さん、統一教会において、今の時間を守ってください。靴を履く時間にも、遊ぶ時間にも、休む時間にも、床につく時間にも、その一瞬を守ってください。この瞬間がどれほど貴いですか? どれほど貴い瞬間ですか?(六五・二四七)


第三節 望ましい青年の生き方

一 出世よりみ旨が重要

 現時代に生きている数多くの人たちも、出世することを願いながら、自分自ら世界的な欲望の圏を見つめて進んでいます。今まで人々は、そのようなことのために闘ってきたし、今現在もそのようなことのために動いています。私たち個人を考えてみても、そのような立場に処しているということは否定できません。

 この時代を考えてみても、私たち個体は、出世を願い、勝利を願っていますが、それも世界的になるのを願うのです。(三〇・七三)

 皆さんが出世をするにおいて「その町で有名になるのか、国で有名になるのか?」と尋ねてみるまでもなく「国で有名にならなければ」と言うのです。また「国で有名になるのか、世界的に有名になるのか?」と言えば、世界的に有名になるのを願うのです。(四〇・三一七)

 本当に一度出世したい人は、手を挙げてみなさい。ここに、出世しようと入ってきたのか? そんな奴らは取り除くべきなのです。頭でっかちになれば、みんなその立場になるのです。純粋性がないのです。(一四五・一一)

 私たちは、どのようにすべきか? ここに信仰者として対社会生活の問題が出てくるのです。出世を重要に思うのではなく、究極的な志を持とうという思考方式を持つのが重要なのです。

 これからの世界は、若者たちに懸かっています。統一教会に入ってきた人たちが、すべてよく知っているようですが、先生が尋ねてみると、知らないことがたくさんあります。ある人は「際立ってそうする必要があるのか?」と言いますが、そうではないのです。(二七・五四)


二 成功の道

1 成功に対する理解

 人間はだれもが成功しようと決心をします。この世の中で、大きな目的を中心として、成功を夢みない人はいないでしょう。そうして個々人が目的を成すために、夢を持って進みますが、その目的を成し遂げた人は、極めて少ないのです。(四三・二〇)

 一生において成功の頂上に上がる人もいれば、成功できない道を行く人もいます。山でいえば、峰はだんだんと高くなるのに、ある人は「ああ、私の頂上はここだ! ここもやっと越えた」と言えば、分水嶺から一歩だけ行けば、全部越えるのにもかかわらず、横になってしまう人がいます。倒れるにしても、体の何百分の一でも中央を越えて、向こう側に倒れれてこそ、向こう側の管理を受けるのであって、何百分の一でもその境界線から越えられなければこちら側の国の管理を受けるようになるのです。

 サタン世界と天の世界も同じです。ある人は、このような基準を中心として「ああ、成功だ!」と言って喜ぶ人がいるでしょう。ある人は、このような基準で生きたであろうし、ある人は、あのような基準で生きたでしょう。ある山脈を中心として「どの峰が高いか?」と言うときに、低いところを指して「ここが高い」と言う人がいますか? 高い山を中心として見るとき、いちばん登ってみたい山がここだという人がいますか? 彼は狂った人です。人のうちにも入れないのです。(六三・三三)

 皆さんの生涯路程の中で、自分が成功したとして、休む人は滅びるのです。その成功は、自分だけを中心としたものであってはいけないのです。

 今日、統一教会は、個人が成功したとして終わるのではなく、大韓民国の成功のため進んでいくべきです。そして、そこで止まらず、また世界の成功のため走っていけば、走っていったそこまで、私たちは発展し、残るのです。(二六・一三二)


2 先生の成功の秘訣

 若い人たちは、皆出世したいし、成功したいでしょう、偉大に? そう簡単ではないのです。韓国の格言にあるように、念を入れて作った塔は崩れないのです。これは一理あります。どこかへ行って、帰ってくるとき、いいことをせずには、絶対に帰ってこないというのが、先生の哲学です。どこかへ行って、帰ってくるときは、いい実績を残さずしては、帰ってこなかったのです。家でもそう考えたのです。(一四四・三〇一)

 宗教的であれ、経済的であれ、成功するためには、まず損してみなければ、その目的がなされないのです。事業家が苦労もしないで、やくざのように遊んで成功できますか? 苦労すべきです。心の苦労、体の苦労、内外すべての試練と苦痛を克服するため、一身のすべてを投入すべきです。それでこそ成功できます。そして、損をしたという結果を立てておいてこそ、困難を克服することができ、その困難を克服しただけ成功となって帰ってくるのです。(二六・四七)

 人が成功する秘訣は何か? ある目標に対してどこにでも行きたいという、一体の感情に通ずる者になるべきです。そのような人たちは、成功を早くしますか、遅くしますか? 成功を早くするでしょう? 早く出会うのです。もし出会えなければ、夢ででも出会うのです。(六三・六〇)

 先生は追い込まれる環境の中でも、このように成功した秘訣は何か? 私の生涯においてその秘訣は何か? 先生は、アメリカならアメリカという国が反対するとき、私がそのような位置で、神様と同じ位置で、アメリカを対等な位置に立てて、神様の名で前進したのです。神様の名で! その壁を打ち抜くには、力ではだめです。お金でもだめです。権謀術数をもってしてもだめであり、いかなる人間の知恵をもってしてもだめです。(一六六・一六三)

 成功しようとするなら、全体のために生きよ。(一五・二八九)

 継続していく人は、成功するようになっています。(一八六・九三)


3 勝利の秘訣

 今日私たちが計画したすべてが失敗して、敗者になるならどうしますか? 大きな願いを持つ人においては、その人のの行く道は失敗できません。ただ前進に比例して、勝利があるだけです。このような覚悟の下で進むべきなのです。そうすれば必ずや勝利するようになります。進撃するためには、死ぬか生きるか、二つに一つを選ばなければなりません。

 皆さんは、必ず勝利すべきです。そのためにはどうすべきか? 人が一度勝つなら、自分は二度勝ち、人が一時間寝るなら、自分は三〇分だけ寝て、人が一食食べるなら、自分はその半分だけ食べる、という信念を持って闘うべきです。勝利の秘訣は、他の所にあるのではありません。どれくらい時間を多く割き、努力をたくさんして、資本を多く投入したかに懸かっています。

 あたかも、入学試験を前にした受験生のような、時間との闘い、精神との闘い、努力との闘いが重要なのです。落第した人たちは、人よりもっと寝たり、もっと食べたり、とにかく人より一つでももっと楽に過ごした人たちなのです。(一九・一四三)

 皆さんは、忍耐がどれほど貴いかということを知るべきです。忍耐が。忍耐がどれほど貴いか? さあ、忍耐は再出発の動機であり、最創造の動機にもなりえます。

 思えば、神様も今耐えておられます。耐えるのです。アダム・エバが死の場へ進むとき耐えたし、イエスが十字架に掛けられ、トントンと釘を打ちつけられるときも耐えたのです。知っても知らぬ振りをし、そうであるにもかかわらず、そうでない振りをして対したので、あきれるのです。皆さんもそうではないですか。ある人が自分に対して、全部知っていても、知らない振りをして対したら、どれほどあきれますか? その人だけを見るなら、自分が闘って、どこか足の下でも入るのに、行くところがないために屈服するのです。それゆえ、たくさん耐えることは、たくさんのものを所有できる動機になるというけつろんは、妥当な結論です。分かりましたか?

 さあ、あなたがたの家庭もそうなのです。家庭でも兄弟たちが騒いでも、耐えて、耐えて、このように行けば、父母でもだれでも、みんなその前で祝福してくれるのです、「あの子は、見ていろ!」と言って。

 それゆえ、ここで一つの規定をして先に行きましょう。自分のためには、耐えることが良く、人のためには口を開くのがいいのです。さあ、ある人が難しい所にいれば、自分が難しいことを口を開いて慰めてあげ、その人が陥れられたら、知っていても知らない振りをして、ただ口を開いて擁護してあげるのです。それゆえ、自分がここで勝利できる秘訣、勝利できる一つの必要な土台を、あるいは動機を探すなら、耐えることがどれほど貴重かということが、皆さんは分かるでしょう、今や。東洋には、そのような格言があります。「耐える者が勝者である」という格言があるのです。理解できますか、何のことか?(七六・二二〇)

 皆さん、綱引きをするときだれが勝ちますか? 勝利する人はだれか? いきなり力を入れる人が勝利しますか、粘り強い人が勝利しますか?(粘り強い人です)。虎が力を出すように、いきなり「ワッ」と一度に飛びかかって、後で「フフーン」という力をもってしてはだめなのです。粘り強さがなければなりません。「ブーン」とこうして、辛抱しなければなりません。辛抱してやめたらだめなのです。終わりまで辛抱しなければなりません。それゆえ、聖書には、終わりまで耐える人は地獄に行く?(天国に行く)。それは何ですか? 終わりまで耐える人は負ける?(勝つ)。同じです。天国に行くのは勝つことであり、地獄に行くのは負けることなのです。終わりまで耐える人が、闘って勝ちます。(六四・五七)

 勝者になるためには、思想、すなわち、自信が必要であり、勇気が必要であり、その次に三番目としては、闘争が必要なのです。(一八・一二)


4 成功の前には試練がある

 人が大きく成功しようとするには、それに比例する試練が伴うようになっています。(二七・一八一)

 私たち個人の運命も同じです。その人が当代に成功するかしないか、あるいは、輝く栄光の時代を迎えるか、悲しくもはかない生涯を残すかという問題は、彼が生涯の路程を生きていく過程を見れば分かります。彼が生まれながらにして生きていく過程が、どれほど歴史的な方向と天運の方向に一致しうる事情があるか、あるいは、そのような事情と主義を持って、自分の生命を越え、未来を追求する心情で、自分に降り懸かる事件にいつも正面からぶつかった内容を持つかというのが、その人の現在の人格と、未来に残りうる人格を左右し、その人があがめ奉られうる中心になるかならないか、という問題を左右するのです。

 だれでも、結果の時点では、成功というものを歓迎するかも知れませんが、過ぎた過去、成功に至るまでの過程というものは、だれも歓迎しないというものです。成功を収められるまでの過ぎ去った日を思えば、身震いがしてやめたい、恨み多い、歴史的な日々の連続であったことでしょう。自分の父母や、自分の兄弟姉妹、友達、あるいは子供や夫婦に至るまで、全部同じであるのです。(二七・二七三)

 人が所信を持って、自分の目的を成就させるためには、必ず闘争の過程を経なければなりません。願いが大きければ大きいほど、その願いを成すには、相克的な要素が立ちふさがっているのです。このような要素は、自分に吸収されるのではなく反発し、自分をもてなすのではなく追い出そうとするのです。大きな目的に向かっていくときには、その目的に比例する受難の道があることを、私たちは知っています。(四三・二〇)

 一息に成功すれば、一息に滅びるのです。皆さんもこれを知るべきです。何らの基盤もなく、一息に成功すれば、盗賊にあっても防げず、台風が来ても何もかも失う。ようになるのです。それゆえ、一息に成功してはいけないのです。

 私たちは、大きな抱負と大きな理念を持つべきです。その抱負と理念を支えられる自分になるためには、一度に成してはいけないのです。欲ではすべてのことを一日にみんななしたいのですが、そうしてはならないのです。皆さんの中には、反対する人を見て「ああ! あの怨讐め、神様側でない人は一つもなくしてしまい、私たちだけで環境を改善すればいいのに…、神様はいらっしゃらないのか?」このように考える人もいるかも知れませんが、そうではありません。

 地が固まるには、雨が降らなければなりません。だからといって、続けて雨ばかり降ればどうなりますか? 続けて雨ばかり降っては、何もなりません。陽が出なければなりません。だからといって、陽だけ出てもいけません。風も吹き、寒くもあり、暑くもあり、凍ったり溶けたりしながら、長い期間が過ぎなければなりません。長く過ぎれば、過ぎるほど、もっとしっかりと固まるのです。そのようにしっかりと固まった地を掘るには、それ以上の力を加えなければ、掘ることができないのです。そうでしょう?(一九・三五)

 私たちが一生の間生きていくには、多くの峠があります。一日を生活するにも、峠があるのであり、若い青春時代なら、青春時代にも峠があるのです。また、家庭を持って、家庭を率いていくにも峠があり、社会生活をするにも、やはり峠があります。すなわち、個人から社会、そして国家が行く道の前には、その運命を決定しうる峠があるのです。世界を考えてみて、やはり同じです。

 このような観点から見るとき、万事は一つの頂上という峠を中心として、因縁づけていくということを知るべきです。私たちはよく、だれが成功し、また、だれは失敗したということをいいます。では、成功したという人は、どんな人か? 自分の目的とした峠を越えた人です。失敗したという人はどんな人か? その峠を越えられなかった人です。私たちの日常生活を考えてみても、生涯の路程で、自分が目的としたところを成就すれば、人生に成功した人であり、それを成就できなければ、失敗した人なのです。(三一・七)


5 成功できない主な原因

 人は成功できる道を知らないのか? みんな知っているのです。それゆえ、ここに問題が生じるのです。みんな知っているのに、なぜできないのか? なぜできないのかというのです。成功する方法はみんな知っているのです。知っています。知りませんか?(知っています)。けれど、なぜできないのかというのです。それは、自分自身を操縦できないためです。そのような結果に止まるのが人間像であるということを、私たちは知るべきです。(九七・一三)

 人間が自分自らすべてのことを計画し、自分自らの資質だけを持って、目的を成就しようとすれば、必ず失敗をもたらすようになるのです。それは、今まで進行した歴史過程を見ても分かります。人間自身を中心としてつづってきた歴史は、いつも失敗したのです。(四二・二九八)


三 偉大になる道

1 人はだれでも立派になることを望む

 私たち個々人を見ると、お前はどんな人になりたいかと尋ねると、だれもが立派な人になると答えます。立派な人になるなら、どの程度立派な人になるのか? 大韓民国なら大韓民国の国民の中で、いちばん上の大統領になるのか? 大韓民国だけを考えれば、どこのだれでも大韓民国で一番になりたがります。しかし、大韓民国で一番になったとして、それで終わるのではありません。その次のは、世界で一番になりたがります。世界で一番になった後には、どうするだろうか? 世界よりもっと高いものがあり、もっと高い方がいらしたなら、その位置に行くことを願い、その方と手をつなぎたいのです。(四一・三二三)


2 歴史的人物になるには

イ)高い志を持って、深いことをすべき

 大きな人とはどんな人か? 大きな人は何ですか? 高い思想を持ち、深いことができる人が大きな人です。分かりますか? 高い志を持って、深いことを、人ができないことをする人が、大きな人なのです。彼はなぜ大きな人なのか? 彼は垂直的な立場を上り降りしながら働く人であるためです。(一七五・二三四)

ロ)決心を持続できなければ

 皆さんを見ると、凡人が行く普通の人生の道があるだろうし、聖人とか、あるいは偉人が行く特殊な人生の道があるでしょう。皆さんの考えは、どんな人になるのかといえば、「ああ、私は偉大な指導者になる」とみんな言いますが、それがそのようにいっぺんになるのではないのです。偉大な指導者になるためには、その過程で多くのことを消化し、多くのことを犠牲にして進まなければなりません。犠牲を払って、その犠牲になったものを、そのまま犠牲として捨てるのではなく、犠牲になった価値を収拾できる人になってこそ、彼は偉大な人になりうるのです。

 では、偉大な人物というとき、その人たちは、どのような基準を中心として闘っていった人たちか? 端的に話すなら、その人たちは命を投げ出して立ち向かった人たちです。命を一度懸けて済みますか? 継続的に投げ出す過程を経るべきなのです。(六七・八八)

 世界の歴史上に現れた、英雄であるとか、聖人たちは、とても幼い頃に決意したその覚悟を、死ぬときまで胸に留めて、その目的の中で生きていきます。簡単なのです。先生もそのように生きています。それゆえ、寝るときもそれに向かっていきます。起きるときも、目を開けても、だれかと交際しても、その材料を求められるようにつきあいます。そのようにしていけば、自然と生活環境が自分の将来の舞台のための基準になります。みんなそうしていますか?

 現代の若者たちは、もしこの花からいい香りがするとすると、これがいいともいい、また、東にいい香りがするというと、そちらに香りを求めていきもしますが、そのようにしてはいけません。右だと考えたなら、その一つの所に力強く進み、それを克服して、それが自分に消化され吸収されるか、自分がその側に吸収されるかという問題を定めるべきです。そのように前進しなければなりません。(一五・一二九)

 歴史的に見るとき、偉業をなした大部分の人物たちは、決して学者・博士たちではなく、彼らとは関係のない闘志のある人物たちでした。人が見ても、無謀に見えることをした人たちが歴史的な人物になりました。すなわち、歴史は闘士たちがつづってきたのです。(一八・一二)

ハ)受難の道を自ら求めよ

 人が人生を歩むには、平坦ではありません。その上、独りで生きるのではなく、男女が共に生きるのです。男女はみんな違います。極と極なのです。異質的な、二重背反的な性格を持った男と女が、一つになって生きるには、二人とも良くはなれないのです。一人は上がり、一人は下がり、こうしながら、その中央線を中心として合わせていくのです。

 ですから、若い頃には、そのような訓練をすべきです。偉大な人になりたければ、偉大な受難の道を自ら求めていくのです。一〇〇里の道、苦労するために夜通し一〇〇里でも歩いてみろというのです。人のために一日奉仕してあげるために、夜通し一〇〇里の道を、疲れた体を引きずっていき、朝に行ってご飯を食べて、農地なら農地、仕事場へ行って、その人のために犠牲になるその精神が…。楽に寝てしまってはいけないのです。(一一四・二九九)

 ある人が、特別な道を行こうとするとき、その特別な内容を決定づけうる材料や要件は、普通の人々が好きなものではありません。その道は歩み難い山道であり、越えるべき障壁が横たわっており、望まない事情が前に立ちふさがる、そのような道です。しかし、ふさがったといって、回り道をしてはいけません。なぜならば、そのようにして目的とする所に到達できるならだれでも行けるため、千人が千人みんなその道を行くでしょう。そのように道は、だれでも行ける道であるために、特別な人だけが行く道ではないのです。

 特別な人は、回り道しないで、その道を突き進んでいくべきです。直行し、最短距離を突き進むべきなのです。問題がそうなっています。そうするためには、何倍もの試練を克服しなければなりません。そこには、普通の人たちが想像できない事実が介在するのです。ですから、これを打開して、克服できる自分にならなくては、その道を行くことはできないのです。(二七・八)

ニ)第三の力を補強せよ

 偉大な人がいて、彼がある大きな目的に向かって走っていくとするならば、その目的が大きければ大きいほど、偉大ならば偉大なほど、そこには国家を内包し、世界を内包した事件が宿っているでしょう。その事件というのは、その偉大な人物が行く途上に、歓迎の条件ではなく、相入れない反対の条件として登場するでしょう。その現れる反対の要因が大きければ大きいほど、落ちていく要因にもなりうるのであり、失敗の要因にもなりうるのです。

 それゆえ、そのような事件が現れるとき、事件を任された人は、その事件より大きな決意と強力な内容が結集した力の核心体として立ち向かうべきです。そうして、難しい環境とぶつからなくては、その事件を解決できないのです。ですから、そのような環境に処して決意すべき人の立場は、極めて深刻であらざるをえないのです。こうして、そのような問題を克復するためには、目的を果たして、より強い信念を持つべきです。外的に近づく試練の条件を凌駕できる、内的な衝動をどのように発現させるかということが、その問題を解決する重要な鍵であらざるをえません。

 人間たちは、人生の路程で、このような問題にぶつかる度に、それを克服しようとしますが、いつも失敗してしまいます。これが私たち人間生活の常例だったのです。では、これをご存じの神様は、私たちに何を要求されるのか? 再び決意と誓いをして進むのを願われるのです。私たちにもこれから必ず試練の峠が近づいてくるでしょうから、私たちは、その試練の峠に備えるために、再び決意すべきでしょう。外的な環境にぶつかって勝利し、一つの偉大な目標を達成するためには、近づいてくる試練より、強い力と刺激を導入すべきなのです。これが何より重要な問題です。これは神様だけが心配される問題ではなく、私たち自身も解決しなければならない重要な問題なのです。

 このような立場でぶつかるようになるとき、人々はより強い力を必要とします。より強い刺激的な要因を必要とするため、第三の力を要求するようになります。偉大な人物なら人物であるほど、第三の力を必要とすることが不可避なのです。(三一・一五〇)


3 偉大なことは知らずのうちになす

 先生は宣伝を嫌う人です。今までどこへ行っても、自分がしたことを誇る人ではありません。どのようにしてでも隠そうとするのです。偉業というものは表だってするものではありません。人に知られず、三分の二をなしておき、残りの三分の一が終わるときに偉業としてなすようにするのです。

 それゆえ、歴史に偉大なことが現れるまで、・どんな思想でもどんなことでも同じです・すでにその背後の三分の二が、人知れずなされて出てくるのです。それが現れ、大衆に知られるときには、そのなしておいた実績、その基盤が公認されうる事実として現れるのです。(一四一・一二一)
























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