E-listBBSSearchRankingMusicHall-HornGo to Top

環太平洋摂理
(全面表示) 戻る


 三 海には学ぶものが多い

  1.海のように天下を抱いて生きなければならない

 海を回ってみれば、本当に学ぶものがたくさんあります。海は一日の間にも何度も変化します。世の中では「人心は朝夕に変わる(注:人の心は頼りにならないということわざ)」と言いますが、海は朝夕ではなく時間ごとです。時間ごとに変わるのです。よくよく見ると、いくら天候が良い時でも、ある場所に行けば波が穏やかなのですが、ある場所に行くと風が吹くのです。強い風ではありませんが、そのようにすべて異なっています。人の顔が異なっているように、水があり山があれば、山の高低に従って気候も変わるのです。海は千態万状の妙味をもっています。

 先生は自然が好きです。海が好きです。海がどれほど神秘的か分かりません。水滴はすべてダイヤモンドの玉です。これがきらきらしながら「私は文総裁のものです。ダイヤモンドよりもっと高価な価値をもっているのが、私たち水です」と言って誇るのです。どうして水が誇るのでしょうか。「私がなければ、この世に生命は形成されません。また、私がいるので、深かったり低かったりするものも、すべて水平にすることができるのです」と言っているのです。
 海がどれくらいでこぼこしているのか知っていますか。しかし、水がそれを水平にしているので、どれほど気分が良いでしょうか。気分が良く、見ても千年万年飽きることがないように青い光を放っているのです。青い光は慰労の光です。なぜ神様は青い光をつくったのでしょうか。この光はいくら見ても疲れません。それは、慰労の色です。万物はすべてそうです。空も青く、海も青いのです。それはどれほど理想的でしょうか。神様の愛に浸るようになれば、すべてが友になります。
 人間も友達になるかもしれませんが、自然界がすべて友達です。一度その性格を知っておけば絶対に変わることはありません。しかし、人間の性格は千態万状です。きょうはこのようであっても、あすになれば変わっています。それで「人心は朝夕に変わり、山色は古今変わらず」という言葉があるのではないですか。人の心は朝夕に変わります。そのような人間に使い道がありますか。ですから、動物にも劣るのです。
             *
 海は天下を抱いて生きています。一箇所に集まって雲になり、山を覆ってその友となり、高い所から雨を降らせて四方に広がっていくのです。驚嘆に値するものは水です。水は休みません。千年万年動いていれば、どれほど疲れるでしょうか。文総裁は海を愛しています。自然にはいんちきなものがありません。高ければ高く、低ければ低いのです。そして、高い所にいれば、異議なく供給してあげるのです。文総裁はそれを学び、異議なく供給してあげるのです。異国の地に行っても、私よりも貧しく暮らしていれば、私の倉庫を開いてすべてを分けてあげるのです。たとえ私の米がなくなったとしても、すべてを分けてあげるのです。水平になるようにするのです。それはすべて水から学んだことです。それで、水が好きなのです。
             *
 空も青く、海も青く、草も青く、すべて青ければどのようになりますか。本来ならば窒息するはずです。それが自分の好きなイエロー(yellow:黄色)であったならばどうだろうか、一度想像してみてください。すぐに嫌気がさすはずです。また、別の色をもってきたとしても、いくらもせずに嫌気がさすはずです。けれども、グリーン(green)は慰労の色です。これは常に青いのです。
 それでは、人はなぜグリーンを好むのでしょうか。存在世界はグリーンとともに調和しています。それゆえに、土にはグリーン・カラーが多くあると考えるのです。土は主にグリーン・カラーと近いのです。ですから、土でつくられた私自身がグリーン・カラーを好むというのは理論的な話です。そのように考えることができます。神様もそれを知っていたので、空も青くし、海も青くしたのです。すべて人を中心として、このグリーン・カラーと調和するようにしたのです。それは、どれほど素晴らしいことでしょうか。
             *
 海が穏やかな時は神秘的です。魅惑的な神秘の女王のような美女になってすべての人々を引き込む力があります。海は銀色にも見えますが、翡翠色にも見えます。そうかと思えば、また千態万状です。そこにそよ風が吹けば、その波の美しさというものは何と言ったら良いのでしょうか。舞姫がどれほど上手に踊りを踊ったとしても、そこについていくことはできません。皆さん、ダンサーを見ようとすれば小さいステージ(Stage:舞台)で踊っているのを見物しますが、それはあまりにも狭いのです。
 反対に海のステージは無限です。海の舞台がどれほど広いでしょうか。美女や舞姫のような性質があるかと思うと、一度怒れば荒野で飛びかかってくる虎やライオンよりも恐ろしいのが海です。それを考えてみてください。何十メートルもの波が押し寄せてきて引いていく時は、かもめが鳴いても相手になりません。「お前がいくら歌を上手に歌おうと、お前がいくら素晴らしい喜劇俳優であっても、雄壮な私の気勢の前にはかなわない!」と言うのです。威勢が堂々としています。波が穏やかな時は、快速ボートが気分良くさーっと進みますが、ここでは動きをとることはできません。しっぽを振り、頭を振って、このようにしているのです。波に乗り、波のなすがままにするようになっているのであって、そこには自らの勢いというものはありません。
             *
 自然の力は偉大です。ゆえに、海を愛する人は驕慢になることができません。海にはそのような偉大さがあります。海の門を開いてのぞいてみれば、そこには無尽蔵の魚がいます。黄金色から金色、青色と、ない色がないほど多くの魚族が暮らしています。陸地と海の中を比較してみれば、どちらがより美しいでしょうか。陸地も美しいでしょう? しかし、陸地には花と蝶と、それ以外に何がありますか。それから美しい鳥もいるでしょう。しかし、それらのものは単調です。花は動きません。海にいる豪華絢爛な色をもった美しいすべての生き物は、踊りながら活動しているのです。ですから、どちらがより美しいですか。陸地が美しいですか、海が美しいですか。海が美しいのです。
 神様は、どうして水をつくったのでしょうか。「神様が鑑賞するための特別装置が水だ」。このようにも言うことができます。ぱっと隠しておいて公開しなかったということです。このようなことを見れば、神様は、陸地よりも海により多くの関心をもっているはずです。また、未来を考える人は、陸地よりも海に関心をもつのです。神様は、まだ見ぬ未来の理想家庭に関心をもっています。それゆえに、地球の歴史始まって以来、今まで地上に現れたものに関心をもつよりも、まだ見ぬ未来観をもっている海の世界に関心をもつということは必然的なことです。これは理論的です。そのような立場から、海を考える人、すなわち未来像を憧憬する人が増えてくるようになるという話が出てくるのです。
             *
 釣り糸を垂らして座っている時の退屈さは、到底言葉で言い表すことができません。そこで散歩することができますか。このくらいのところで動いて、そこで料理をしなければなりません。そこから映画を見に行くことができますか。また、友人の所に遊びに行くことができますか。静かにしていなければならないので音楽を聞くこともできないのです。ですから、海を見つめながら海と空と対話をするのです。海と空が一つになっているそこに私一人がいれば、本当に気分が良いのです。
 先生は、なぜしきりに海に出ていくのでしょうか。霊的に、すべての面において利益が多いのです。私が一日中家にいれば気が散漫になって、世界宣教師や教会問題など、考えなければならないことの何分の一しか考えることができません。しかし、海に出ていけば全体的な考えが浮かぶのです。そのような面において、海はとても良いのです。それで「『釣り道』という言葉が出てきたのだなあ」と感じるのです。
             *
 静かな海で一双のカップルが愛し合っている姿を想像してみてください。海が「こいつ、私は耐えられない」と言うでしょうか。そのようになれば、魚の群れが来て尾を振って見物しながら喜ぶのです。万物はそのような愛を願っているのです。自然のすべての存在が「頼むから来てください! してください!」と言って、そこに来て愛し合ってくれることを望むのです。皆さんも、それを推し量り、感じることができる心をもたなければなりません。主人が白い雪の積もった山の頂上に行って愛し合えば、「私たちの主人がこのように美しく愛し合っている!」と言って喜ぶのです。それを願っているのです。


  2.海の生活は素晴らしく、神秘的だ

 太平洋を中心として、「黒潮」は四千マイルを回っています。一年に四千マイル回ります。その回る力によって五大洋が回るのです。もし黒潮がなければ海は回りません。この黒潮によって大西洋と太平洋は五大洋と通じているのです。このような環境条件を通じて五大洋がすべて死なずに生きているのです。
             *
 いくら川が大きくてもそれは海に入っていき、海がいくら広く流れているといってもそれは黒潮に従っていくのです。黒潮というものを知っていますか。黒潮というのは、太平洋地域を中心として四千マイルの円を描きながら回っている海流のことです。力強く回る水の流れによって、五大洋のすべての水の流れが生きて作動するのです。それに乗って回ることができてこそ海水の資格をもつのです。人間が生きていくのも同じです。
             *
 川がいくら大きくても、大小すべての川はいずれ大海に入っていくのです。大海に入っていけば、すべて混ざり合うようになっています。五大洋を中心として見れば、太平洋には黒潮というものがあって四千マイルを回っています。もちろん月の引力によるということもありますが、このように回る黒潮があるので、五大洋全体を動かすことができるのです。それは海の柱の役割をしているのです。汚いものでも、何であっても、入っていけばそれをすべて混ぜ合わせて一つの姿勢になろうとするのが海の目的です。いくら大きな川が何万年も継続的に淡水を投入したとしても、それをすべて吸収して余りある余裕をもっているのです。ですから、海に権威があるのです。海は、いくら入っていこうと変わらない姿勢を備えているので偉大なのです。
             *
 日本の雲が太平洋を渡ってアメリカの雲と一つになる時、「私はアメリカの雲は嫌だ!」と言いますか。日本の水が黒潮を通じて太平洋に行き、そこにアメリカの水が来れば「おっとっとっと!」と言いますか。太平洋には四千マイルの黒潮が流れています。そこに先進国や後進国がありますか。国家間の境界線がありますか。それなのに、人間世界のこの姿は何ですか。自然運動に反するものはすべて壊れていくのです。
             *
 愛の世界は、どこに行こうとすべて通じるのです。太平洋の水が「私は太平洋の水だ。アジアの水はすべて汚染されているので嫌だ!」と考えるでしょうか。水がどこから流れ出ようと、すべて連れていくのです。そこに悪いものがあれば、それを混ぜて早く解消させて同じ道を行こうと努力するのです。ゆえに、太平洋の水はいくら公害が激しかろうと、たとえ人類がいなくなることがあろうと、変わらず青いままでいることは間違いありません。いくら試練を受けて紆余曲折の過程を経たとしても、海水の青い色が占領されないのと同じように、愛の権威と、愛の内容と、愛の力は常に青いのです。
             *
 統一教会は世界の主流の海流となり、太平洋の黒潮のようにならなければなりません。太平洋で四千五百マイルの黒潮が回り、五大洋の水が回るようになっているのです。世界の生命力をすべて宇宙で勃発させるためには、深い所を回っていって動かすことができる源泉をつくらなければなりません。そして、汚い世の中をきれいにしなければなりません。
             *
 台風が吹けば、どれほど波が憎く、風が恐ろしいか分かりますか。しかし、その風も自分の使命を果たしているのです。もし風が吹かず、海に波がなければ、魚が生きていくことはできません。風が吹くのは海に酸素を供給するためです。波というものは酸素を供給するためのものです。ゆえに、波が激怒しようと、どれほど風が吹いてこようと、それを味わいながら「お前は味を失っていないな!」と思わなければなりません。海は塩辛い味をもっています。先生も「レバレンド・ムーンの味は失っていない」と、このように思っています。そのように思えば、押し寄せる波も憎くはなりません。
 海には哲学がどれほど多いか分かりません。陸地だけで生活した人間は、あの世に行って理想的活動をしようとすれば、とても多くの支障があるはずです。霊界に行けば鯨にも乗り、魚と一緒に泳ぐことができるのです。しかし、海が好きでなければそのようなことをすることはできません。
             *
 海に出ていけば、台風というものは恐ろしいのです。その波は本当に恐ろしいのです。しかし、いくら恐ろしくても愛の力を帆にかけていく場合は、それも越えていくことができるのです。
             *
 海は、そのままじっとしていてはいけません。水が動けば死にません。器に汲んでおいた水も、動かしてさえおけば永遠に死ぬことはありません。運動すれば死なないのです。遠洋漁業をする船は、一度出港すれば一年六カ月から二年分の水を一度に積んでいきますが、海水に揺られるので、その水は何百年置いたとしても腐ることはありません。動かせば腐らず、停止すれば腐るのです。ですから、水は本当に特殊でしょう? 水はそのようになっています。
             *
 遠洋漁労作業をしようとすれば、飲み水を船にたくさん積み込んでいきます。一年半の間その水を飲まなければなりません。塩水を飲むことができないからです。水は動かせば、何十年たとうと腐ることはありません。水は動かさなければなりません。ゆえに、み言も動かさなければなりません。
             *
 水は、なぜ流れるのでしょうか。水平になっていないので流れるのです。水は、流れてどこを訪ねていくのでしょうか。水平線を訪ねていくのです。水は、海に行かなければなりません。水平を訪ねていかなければなりません。
             *
 水は、常に水平にならなければなりません。それが特徴です。海は、いくら大きな波が立とうと水平線を描いています。水平線を見れば、寝ころんでみたくなるのです。「いやー、一度寝ころんでみよう」となるのです。そのようなことができないので船に乗って寝ころぶのです。そのようなことを考えてみましたか。水平線では何をしても、ひっくり返ったとしても頭や足が先にぶつかりません。水平にぴたっとぶつかるのです。そのようなことができるのが水平線です。人間には水平線が必要です。
             *
 空気や水は、愛と同じです。空気は、真空が生じさえすれば世界の空気を動員してさっとそこを満たしてしまいます。海の水もくぼみが生じれば、さっと押し寄せて水平になろうとするのです。空気も水も愛も、常に水平になろうとするのがその生き方です。
             *
 私たちが海に行けば、水を見ます。水は循環しています。水のある所では、朝、霧がかかります。水蒸気になり、これは低気圧なので上がっていくことができません。水が水蒸気になって集まったものが霧です。この水が霧になるのです。そして、蒸発して雲になって世界を回るのです。海に水がなければどのようになりますか。大変なことになります。生物が存続できません。水がどれほど偉大なものであるかを考えてみてください。
             *
 皆さんが知っているように、先生は時間さえあれば海に出ます。海に行ってもまれるのです。もまれるのですが、それは精神を整えて大きな闘いをするための試練であり、準備だと考えるのです。睡眠も取らず本当に疲れますが、精神をまっすぐ正し、自らそのような標準を定めて、水平線から他の方に傾かないようにしているのです。
             *
 空気も動き、水も千年万年動いているでしょう? 千年万年動いているのですが、全く同じ公式です。海を見てください。水はどれほど疲れるでしょうか! しかし、一度も疲れると思ったりはしません。それが存続することができる公式です。
             *
 海の世界を知らない人は、それだけ幸福の領域が制限されるという結論になります。創造主がいらっしゃるとすれば、陸地を知り、海をよく知って、海の神秘性を思い、陸地の美しさに思いを馳せながら称賛するのを喜ぶのであって、一面だけをもって喜ぶことはないはずだと考えるのが至極理論的な話です。
             *
 海や陸地も、すべて人間一人を教育するために造られたものだということを考えれば、創造主の有り難さを実感することができます。海を見ても、それをただ海として見るのでありません。「天の父が私に下さった贈り物だ」と、このように考えるのです。再創造する過程ですべてのものを再度調べてみるという事実、ここで偉大な革命が起きるのです。偉大な勝利の旗印がここから芽生えてくるのです。


  3.海は偉大な自然の力をもっている

 先生は刺激的なことが好きです。変動の多いところから切り開いていくのです。そのようにしようとすれば、陸地よりも海のほうが優れているのです。海は風も吹き、穏やかでもあり、波風が何度も起こったりしながら変化するのです。ですから、陸地の旅行よりも、海の旅行が楽しいのです。陸地は、旅行して回っても朝の考えはそのままで、変動はありません。陸地は、いくら回っても修正することなく穏やかに行くことができますが、海はそうではありません。自分がこのように行こうと思っても、あっちに行ったりこっちに行ったりするのです。そのように変わります。変化する時には、本当に刺激的な変化が起きるのです。
 穏やかな時は陸地が顔負けするほどです。本当に不思議なほどの穏やかさです。ある時は、海面がガラスに思える時があります。あまりにも美しくて触ったり食べたりしたくなる時があります。ですから、海は限りなく変化しますが「私は行く」という一念で前進していくのです。そのような刺激がなくては、大きな仕事をすることはできません。
             *
 海の底を見れば、鯨のようなものもいますが、ハリバット(halibut:ひらめ)のような魚もいるし、キャットフィッシュ(catfish:なまず)のような姿をした魚がくっついて生きています。このキャットフィッシュのような魚は、体よりも頭が大きく、口も大きいのです。これで何をするのでしょうか。それは、大きいもの、腐るものが流れ込んでくれば、かじって食べるのです。いっぱいのみ込んで、かじって食べるのです。それでも足りなければ、虫を吸い込んで食べるのです。このように休まず浄化作業をしています。清掃作業をしているのです。
 パンタナールに生息している魚は三千六百種です。三千六百種の魚がいます。それらが食べる餌はすべて異なります。そのようなものが混ざり合って、休むことなく海の清掃作業をしているのです。食べるという行為自体が清掃作業だということを知らなければなりません。彼らは自分の目的のために生きているのではなく、環境を整理しながら、周辺をきれいにしながら、互いに助け合いながら生きているのです。それが自然協助体制です。
 彼らは海の水をきれいにする運動をしているのです。海は塩辛いだけでもいけません。魚がいて、汚いものも食べたりしなければなりません。魚の糞はどのようにするのですか。それをまた食べる魚がいるのです。
             *
 海をきれいにするのは魚だけではありません。水鳥もそうです。かりやかもめのような水鳥たちは、休むことなく探索しているのです。もしこの海の表面ではなく、中間を流れていくものがあれば、水の中に入っていき、探し出してそれを食べて生きているのです。また、風が「おい、雲よ、今向こうに乾いて死ぬほど暑い所があるから行こう」。このようにして冷たい海の空気がそこに行くのです。その風が雲を乗せて通り過ぎながら水をまいてあげるのです。
 この宇宙が、いかに共同協助体制になっているかを考えてみてください。風がなければどうなりますか。大変なことになるでしょう? 皆さんが食べる御飯やパンなどというものもそうです。水蒸気が海から空に上がって風に乗り、真夏の暑い太陽の光に乗って訪れ、そこで雨を降らせれば、その水分を吸い込んでそれらが作られるのです。土の中の水分や空気の水分が合わさって、御飯ならば御飯になり、パンならばパンになるのです。それを考えてみれば、どれほど苦労したかというのです。それはどれほど貴いものでしょうか。そこに宇宙が動きます。宇宙が動いて協助してパンになるのです。そのパンのひとかけらは、簡単にできたものではありません。
             *
 海で一番塩辛い所は、深い所だと思いますか、浅い所だと思いますか。深い所です。なぜでしょうか。塩水は重いからです。ですから、深い所ほどより塩辛いのです。それでは、天国の最高の宮中はどこにあるのでしょうか。塩水で比喩するならば、一番底にあります。そこに王宮があります。一番下に行くのです。私がこのように話している概念を知らなければなりません。レバレンド・ムーンが言おうとすることは、天国の一番最高の位置が最も深い海、最も塩辛い水のある底にあるのですが、反対に最も清い人は一番上にいるということです。最も良心的で、より世界のために生き、より全体のために生き、より高い心をもつ所に神様はいらっしゃるのです。
             *
 主流から流れるきれいな水が公害で汚れた水を見て、「私はお前と混ざり合うのは嫌だ!」と言って避けることはできません。自然の場合はそのようになっています。自然の調和と総合関係というものは不思議です。水の性質は、汚いものがあって自らの本質がそれによって汚れたとしても、それを包容し、自らの周辺のものまで吸収してこれを同一化させるのです。そのようにして、流れ流れていく間に、汚いものは沈んで、きれいなものは浮かんでくるのです。そのようにしながら流れていく中で、きれいな水になって海に流れ込んでいくのです。歴史の流れもそのようになっています。
             *
 海の波がいくら流れていても、魚は寝るのです。水が流れていても、魚のひれは流れる水に逆らって一箇所にとどまるように運動します。しかし、体は寝ているのです。おもしろいでしょう? 皆さんのすべての血管が運動していても、皆さんの体が寝ているのと同じです。魚の生命がその拍子を合わせるのは、血が巡るのと同じように寝るのです。このように考える時、誰が主人となり、誰がより高いものになるのでしょうか。より投入する人、より「ため」に生きる人が主人になるのです。
             *
 いくら海の波が荒々しく波打ったとしても、その流れは必ず主流に従っていきます。主流に方向を合わせてくることによって、全世界が反対し、迫害しても生き残ることができたのです。また、神様は、主流を中心として、完全な主体としての主流的な立場に立てば、主体と対象の関係を中心として保護するので被害を受けることはありません。
             *
 皆さんは、水泳をしながら「ねえ、のどが渇いた。コーラかメッコールを持ってきて!」と言いますか。水に入っていれば、一日中水を飲まなくてもよいのです。水に入っていれば細胞が水を飲みます。先日、先生は十六時間半も話をしました。「そのように長い時間、おしっこをどうやって我慢するのですか」と言うかもしれません。しかし、おしっことして出ていくものがすべて汗になって出ていきます。暑くて水蒸気になって出てきて、汗としてすべて出ていくのです。
 ですから、海に一日中入っていれば、水のようなものを持っていく必要はありません。そこで一時間でも、何時間でも鯨のように水泳をしてみてください。その時でも、のどが乾きますか。砂浜にうつ伏せになっているので、暑くて水を飲むのです。人にとって水は貴重です。それから空気です! 水の行く所には空気も行きます。海の中にも空気がありますか、ありませんか。
             *
 世界の海は常に動いています。風が動いたりするのも、すべて繁栄し生きるためです。このようなことを考える時、台風が吹いて波が数十メートルも立ったりしますが、そのようにならなければ海に空気がなくなります。それでは、魚はどのように生きるのでしょうか。このようなことを考える時、「いやー、台風が吹いているので海底の魚が喜ぶだろうなあ。私は大変だが、魚が喜んでいるのでうれしい!」と、このように考えることができます。
             *
 生命の祖先のようなものが水です。ですから、神様の代わりに水を愛しますか。そのような考えをもちながら海を愛さなければなりません。景色の良いところには水がなければならず、樹林がなければなりません。それが水の調和です。このような問題を中心として見るとき、水を愛そうというのです。水を愛することは、万物を愛することになります。これは原則的な考えです。水を愛するのですが、湖の水を愛するのですか、海の水を愛するのですか。毎日のように海に行かなければなりませんか、それとも行ってはなりませんか。風が吹いて波が立つのですが、船に乗れば血が揺れるので血が腐ることはありません。すべて浄化されます。本当です。いつも船に乗っている人は健康です。
             *
 私は月給をもらいません。私は、私の力でかせいで暮らすのです。今でもどこへ行こうと、たとえヘリコプターでアフリカの奥地に降ろされたとしても、そこに動物しかいなかったとしても、私は生き残ることができます。山に行けば山で食べて生きることを学び、海に行けば海で食べて生きることを学びました。ゆえに、私は乞食街に入っていっても、これを天国につくりあげます。皆さんが従ってこなくても、乞食の群れを通してでもみ旨を成すことができるように訓練をした人です。ゆえに、今私が皆さんに「乞食街に行きなさい」と言えば行きますか、行きませんか。そのようにしようとすれば訓練が必要です。
             *
 自分たちは「ふろしき包みを抱いて、座って食べて楽に暮らそう」と言いますが、今まで私は開拓者でした。開拓して私が先頭に立ってきました。今回も、私たちの会社で船を造りましたが、船長がいなければ私が連れて海に出ていくのです。「風よ吹け。波よ打て。男の行く道をふさぐことができるものか。天を思い、人類を思い、後孫に生命を引き継ぐことができる食糧問題をここで解決するのだ」と、このような考えをもっています。すてきでしょう? 私はそのような男が好きです。
 今後、残される生きた映画がそこから出てくることでしょうし、歴史の渦がそこから解かれることでしょう。それ以上に不思議ななぞはありません。悲喜劇が交差する道であり、素晴らしい男たちが憧憬しながら行くべき道です。ジャンピングすることができ、そこから世界に越えていくことができる基地があるのです。このようにすることによって海に出ていく数多くの若者に希望を与えることができるのです。あすの海の世界に対する夢を描くことができる源泉、泉がそこから爆発するのです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。
             *
 私は、そのように熱心に海に出掛けていくのですが、その心を忘れてしまったら問題が生じます。その心が続かなければなりません。精誠というものは、千年万年続かなければなりません。海に出ていって精誠を尽くすのを楽に座ってするならば、蕩減できる条件が立ちません。きのうよりもきょうが良く、きょうよりもあしたが良くなければなりません。すべての川の水は大西洋に集まり、大西洋の水は太平洋へ行くのです。今後私が、飢え死にする人々を救ってあげる時までその精誠を込めるならば、私が死んだとしても、そのみ旨はこの地上に成し遂げられるだろうと思っています。
             *
 真っ黒な顔をしたハドソン川の漁夫のような男、千年を待てば何もかも消えてなくなってしまうような男ですが、まさかそのような方がこのようなことをするとは思いもしないでしょう? なぜそのようなことをするのでしょうか。二千万の飢え死にする人類を解放するためです。汗を流したハドソン川を忘れてはならないということです。五大洋六大州を通して息をし、考えるその見えない波紋、電波のようなものが、そこで生きている魚世界を通じて未来の人類解放の道に連結するのです。地と海があれば飢え死にすることはありません。先生が教えてあげれば、飢え死にする人々を救うことができるのです。
             *
 神様が絶対愛のために創造した物を見れば楽しいのです。未来の福地天国を中心とした家庭で十分に生活必須要件を備えることができるように、すべてつくっておいたのです。ですから、どれほど喜びを感じるだろうかというのです。流れる水も天地が機能するためのものです。海から水蒸気になって循環しながら万物を蘇生させるのです。すべてが協同圏内で協力し、人間の理想を完成することができるようになっているのです。神様の生活的な舞台として、神様の息子、娘をこの地上で育てて天国に移譲しようというのです。
             *
 夜が過ぎれば朝になるように、反対の世界になりました。統一教会には春が来てサタン世界には夜に向かっていく時が来ました。サタン世界には希望がありません。サタン世界は真っ暗な希望のない絶望の世界であり、統一教会は絶望だと思っていたら、黎明時代を過ぎて新しい朝が来ることによって鮮明時代がやって来るのです。
 「文鮮明」とは、真理の王国になるということです。名前が良いのです。これは何かというと、この「鮮」という字は「魚」という字と「羊」という字なので、陸地と海を統一するということです。「明」は空の「日」と「月」、すなわち空を表しています。「文」という字は早く書くと、このように「父」という字になります。「父」という字のいとこになっているのです。真理を通じて説明することができる真の父という言葉が「文」という字の最も近いところにあったのです。私は、そのことも知りませんでした。このように話してみたので学べたのです。























SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送