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真の神様
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 五 神様が万物世界を造られた目的

  1.万物を造られた目的

 本来、神様は天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何らの理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微少な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、神様の心情を通じた理念が宿っているということを私たちは否定することができません。それではこのような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛とともに通じ、愛とともに喜び、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。
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 私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して何か分からないけれども間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微少な物でも、必ず私たちと因縁が結ばれており、関係しています。私たちが無視しても、その万物はその日その日、天倫の理念によって存在の価値を示して人間と関係を結んでいるのです。なぜそうなのでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管することのできる万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、神様の大宇宙の理念に通じることのできる愛の理念圏内に入っているからです。それゆえ小さなものは大宇宙の目的を達成するにあたって、大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さいものは大きなものに吸収されその材料となり、一つの要素となり、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。歴史はこのように進展していくのであり、存在世界は天倫という原則の軌道に沿って一つの目的のために動くという事実を否定することはできません。
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 なぜ神様は万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象を、対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が食べて生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠な神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。それが分からなければなりません。
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 聖書には天地創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「星ができよ」と言うと星が生じ、「地球ができよ」と言うと地球ができたということになっています。しかしながらそこには無限な秩序と法度に従って前進的な原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたことを私たちは知らなければならないのです。そうしてこのすべての万物を造って、万物の精髄として集約したのがアダムとエバ、人類の祖先です。
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 今日のキリスト教信者が考えるところでは、神様は全知全能なので一言「このような天地となれ」と言って、このようになったと言います。しかしそうではありません。神様がすべてを投入したのです。もてる精力をすべて投入したのです。もてる愛の力をすべて投入して未来に自分の愛する息子、娘、自分の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてすべての物を造ったのです。それゆえ私たちはそのような観念をもって万物を見なければならないのです。
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 創造するとき、何をもってしたのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造してこういう人間世界を造ろうという本来の神様のみ旨と計画があったということが分かります。
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 一つ知らなければならないことは、神様が世の中を造るとき、環境を先に創造したということです。環境の創造を先にしたのです。これを知らなければなりません。そこは必ず主体、対象を中心として作用する世界です。結果がそのようになっているのです。主体、対象が合わさって作用する現象の世界として自然界は展開されています。そのとおりになるのです。
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 天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて……。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。道理がそうなのです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先に造っておいてから霊を造ったのです。
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 神様が六日間造った万物を御覧になって誇りたかったのです。すべての被造物を御覧になって無限に喜ばれたのです。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたそのみ言は、誰に向かってのみ言なのでしょうか。万物に向かって言われたみ言だったのです。万物に向かってそれほどに懇切な気持ちを抱いて言われたということを私たちは知らなければなりません。
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 神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから見て、良しと言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。それでは復帰の世界とはどのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体個体を見て神様を賛美することのできる心情的な因縁を立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値はそこにあります。それゆえ昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
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 愛は一人でいるときにもありますが、愛の作用は相手がいなければ生じません。神様でもどうすることもできません。神様が最も好む愛なのですが、その愛は一人では完成しません。一人では愛の喜びを感じることができず、愛の衝動を感じることはできません。そのような理由から神様が宇宙を造ることになりました。神様が愛し、喜ぶことのできる相対として宇宙を創造したのです。そうして宇宙を創造してから、その宇宙の主人としてアダムとエバを創造しました。


  2.神秘の宇宙、その規模と構造

 被造世界のすべての物は、神様の愛する息子、娘が愛の理想を見つけていくことができるように、教材として造ったものです。それゆえ相対的な構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続することができないのです。運動しなければ永続、存続できません。それゆえ宇宙は人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界なのです。
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 宇宙とは何でしょうか。神様の体のようなものです。目に見える体と同じようなものです。神様の分身です。ですから私が本当に愛することができるという観念が成立するのです。宇宙を愛するということの実感がわくのです。皆さんの頭もこうやってなでてやったりするでしょう。服にも何かがついていれば、取り除くでしょう。それはなぜですか。私のものだから、私と一緒にあるから、このような観念があるのです。皆さんが今後どうすべきかというと、心の中に神様を迎え、心が一つとなり、体が一つとなり、万物が一つとなる、そのような統一の世界を築かなければなりません。
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 この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年です。光は一秒間に三十万キロメートル進みます。その三十万キロメートルとはどれほどかというと、地球を七回半回ることのできる距離です。その距離を一秒間に走る光が、一年かかって進む距離を、天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きい宇宙です。グリニッジ天文台では今まで百億光年離れた世界の星まですべて発見しましたが、今では百五十億光年離れた世界の星も見ることのできる時代となり、それ以上の時代となってきているのです。
 この宇宙がどれほど大きいかというと、今何と言いましたか。ざっと百億、それも原理的な数です。二百十億光年、それほど大きいのです。それがどういうことかと言うと、光がここから出発して、それが一日かかるのを一光日、一月であれば一光月、複雑で分かりません。皆さんが自分で考えてください。さて、これが出発して一秒間に三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離でいえば地球の七回り半にもなる距離です。あっという間に七回半も回ります。
 それほど速い光が一日かかっただけでも、腰が曲がって考えも鈍くなり「私には分からない」ということになるでしょうに、それが百年でもなく、百の何万倍でしょうか。百の何万倍ですか。百の千万倍が億です。そうでしょう。百の千万倍ですか。百の百万倍、それが一億ですが、一億光年。出発して一億光年。行っている途中なのに、人が百歳まで生きるとすれば百万人が死んでいくのです。一億光年にです。
一億光年ですから、百人が生まれて、百年生きては死ぬのを続けて、百万人が死ぬときになってもまだ続くのです。それでは二百十億光年ならばどれほどでしょうか。皆さんが計算してください。人がずらっと並んで生きては死に、また生きて、百歳まで生きて、このように二億百万人が生きてそれほど行ったのにまだ続くのです。その遠い距離は直線ではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙なのです。
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 宇宙の完成とはいったい何でしょうか。宇宙を完成するには私が完成しなければなりません。いくら宇宙が完成したといっても私が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくら良くても、外的世界が良くて踊りを踊るとしても自分が今苦痛にさいなまれているとすれば、その外的世界の喜ぶべき環境もすべて、自分と関係のないものであるということを私たちは知っています。
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 宇宙の完成は、外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私にとっても良くなければなりません。私の細胞、すべての細胞にとって良くなければなりません。目の細胞と足の裏の細胞とでは異なります。異なるのですが、その細胞がみな喜び、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心、どれ一つ残らず全体が喜ぶものが、離れているのではなく、一つに連結されて連帯的な内容を中心として、共鳴的な愛の喜びを感じることのできる、そのような世界となってこそ宇宙が完成されるのです。


  3.自然は愛の理想を教えてくれる教材

 祈祷する人は、自然は第一の聖書だと言いました。第二ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
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 因縁というのは極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も百兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
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 私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子一つにも無窮無尽な宇宙の調和があるということを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分からないけれども、ある複合的な力を通じて現れた結果だということを否定することはできません。分子を経て原子、原子を経て素粒子……。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、神様の愛の手を経てできたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。
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 修道者とはどのような人なのでしょうか。一株の草をつかんでも「神様!」と言うことのできる心情で、自分の価値と同等にその価値を認識することのできる人が最高の修道者だと言えます。そのように、その価値をうたうことのできる人が最高の芸術家だと言うことができます。様々に存在する万象を見て、神様の様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しむことのできる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表することのできる人だと言えます。そのような人が万物の霊長です。ところが食べること以外に能のない人が万物の霊長と言えるでしょうか。
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 子供たちを見れば、子犬だとか、何かの虫だとか、飛ぶもの、動物といった、動くものを中心に好みます。それはどうしてでしょうか。本来、人はそのようになっているのです。それがどういうことかと言うと、人間は、自然世界や、この地球の動きを見て興味をもつということです。もちろん相対基準は違うかもしれませんが、それを鑑賞することに人間はおもしろさを感じ、興味をもつのです。そうすることで自分自身の愛の属性をすべて学ぶのです。虫たちが生き、昆虫が生き、また動物たちが生きるのを見ると、すべてがつがいになっているのが分かります。このように考えると、自然とは何かというと、人間一つを愛の対象として相対理想を教育するために展開させた教材、博物館なのです。
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 神様は宇宙を、被造世界のすべての物を愛する息子、娘が愛の理想を求めていくことができるように、教材として造りました。それですべては相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続することができません。運動せずしては永続し存続することができません。ですから作用しなければなりません。
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 人間は成長しながら自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなのだなあ」と学ぶのです。月が照らし、星が光る秋の夜にじっと耳を澄ますと、昆虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏として聞こえます。なぜ昆虫たちはそのように鳴くのでしょうか。それは相手を求めて理想を歌うのです。愛をささやくのです。鳥やその他の動物たちも悲しい声、喜びの声を何で示すかというと、愛という共通分母に従って声を出します。級は低く、軸から離れていますが、その軸を中心として平衡線をとって回っています。すべての存在はそのようになっています。
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 鳥たちの歌には三つの種類があります。一つは空腹の信号の歌であり、次は愛する相手のための歌であり、次は危険なときの歌があります。それらはみな異なります。私たちには、普通の人には分かりませんが、鳥たちの世界ではみな分かるのです。空腹で鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活は何を中心としているでしょうか。空腹なのは一度食事をすれば解決します。だからといって毎日のように危険な場にいるのでもありません。大部分の歌は何を中心としているかというと、相手と授け受ける関係で歌が行き来するのです。
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 人間は主体と対象、すなわち相対的な双として造られ、また、人間のためにある万物世界もすべて愛の原理のもとに調和をなし、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に、成長するアダムとエバにとっては愛の教材であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。
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 すべての鳥や動物はつがいになっています。互いに愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動するようになります。渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいって地域を越えて愛します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様の造った博物館の教材を通じて学びます。
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 人間と神様が好きで愛すれば、天下のすべての万物はそこに調子を合わせて和動します。神様が愛し喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜んで拍手を送り、賛美を送ります。歌を歌うことのできる鳥は歌を歌って賛美し、美しい花は香りを漂わせて賛美します。最高の愛の主人公たちが楽しむことのできる香りの雰囲気を拡張するためのものが、この被造世界です。見た目には気持ちの悪いひきがえるも愛するときには「ウッウッウッ」と言います。どれほど素晴らしいことでしょうか。足を打ちつけて後ろ足を上げたり下げたりしながら愛するその姿は、どんなに素晴らしいことでしょうか。それは最高の芸術です。
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 アダムとエバは成熟するに従って「ああ、あんなふうに愛するのだなあ」と分かるようになります。神様は万物世界を人間の愛の理想を成熟させるための教材として展開しておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って「ああ、昔は妹のように、兄さんのように暮らしたけれど、こうしてみると……」このように感情が変化してくるのです。「ああ、そうか」と学んでいくのです。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他へは行けない」と平衡線で直行しつつぶつかるようになるのです。
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 最初は神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼いときから成長するに従ってだんだん大きくなっていくのです。そうして知能が発達するので神様がなぜ被造世界を造ったのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。被造世界の動くものすべては、私たち人間始祖、本来の祖先となるべきアダムとエバが生活するためのすべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバではなかったので、理想生活をしていくにあたっての標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。


  4.自然に対する私たちの姿勢

 朝、目を覚まして自然を見れば、その自然が、かすかに私の本性と絆を結び新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし人間の世の中を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情が高まるという事実がよく分かることでしょう。本来、堕落していない本然の人間が住む世の中というのは、人間の価値はそのように見る人をして悲しみを感じさせるようなものではないのです。一株の草や一輪の花、一本の木程度の価値のものとして造られた人間ではないのです。いかなる被造万物とも替えることのできない高貴な人間であり、その何ものとも比較することのできない価値ある姿で天上に代わって出てくるべき人間でした。
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 神様の愛が宿っている自然を見て、「この世の王や有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができるであろうか。骨董品と比べられるであろうか。有名な婦人が着ている豪華な服と比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ私たちは自然世界の前に我知らず罪を犯しているのです。一つの生命体を見て「人間がつくった物と比べることがでようか。どんなに立派な人でも神様よりも立派であるはずはない」と、神様が心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。
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 人間は自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべき神様の造られた万物をかわいがらないのです。このような人々が神様の息子、娘でしょうか。嘆息する万物の恨を解怨すべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも六千年前、それらを造られたときの神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私はたくさん泣きました。岩につかまって泣きもしたし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、み言を聞いたので、もう理解できることでしょう。
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 「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠の因縁を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で国宝だの宝物だのと、貴く思われている物ほどの扱いも受けていない悲しみを私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければならない」と考えてきました。「この地で暮らす世界人類が誰も分かってやらなかったとしても、私は分かってやらなければ」という思いを皆さんがもったならば、その民族は今後、世界人類を支配し得る新しい民族となることでしょう。これは観念ではなく事実です。どこの誰が万物を、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物よりも、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドよりも貴く思い、しっかりとつかんで離すまいとするでしょうか。そのような人はどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に分かってくれて、それにすがって涙する人を見て「よしよし」といわれるのです。
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 自然とは何でしょうか。神様が私のために、「ため」に生きる愛をもった息子、娘が生まれたときに、「ため」になる万物として、プレゼントとして下さった展示品です。鳥の声一つ、一株の草さえも、愛の息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。道に転がっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知って、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥として単調だといけないので、この上なく調和した和合の園、愛のための世界を見てそれを相続することのできる夢の王子、希望の王子とするために創造したのです。それゆえ万物を通して学ぶのです。雄と雌がチュンチュン鳴くときには、これは主人であるおばさんも学べというのです。お互いに「ため」に生きる世界に向かって自分の人生を、命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できなければなりません。そうなればその家の垣には小鳥もやってきて住もうとするのです。ひなを産もうとするのです。どういうことか分かりますか。
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 博物館のある作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に優るでしょうか。神様の作品であるこの地球の万物博物館を、誰が神様以上に愛したでしょうか。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられる一輪のたんぽぽを、博物館にある新羅時代の金の冠に比べることができるでしょうか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「神様のための本然の王の立場から、愛を受けていたその立場からお前を愛することのできない私が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことのできる心をもって「ため」に生きるそんな王がいたとするならば、一株の草もその王に従って永遠不変に一緒にいたがるのです。そのように生きるべき人間なのです。


  5.自然を愛し、人を愛しなさい

 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することのできない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在であるゆえに、万物と人間を愛することのできる人は、神様を愛するようになるのです。
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 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「私は白人だけがいい」。神様はそうでしょうか。それならばみな白い衣服ばかり着なければなりません。色のついた服は全部捨てなければなりません。黒い服をなぜ着るのですか。色のついた服をなぜ着るのですか。矛盾しています。
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 元素も微物もすべて愛の道を行くのです。神様と一体となることのできる愛と直接に接することのできる細胞を求めていくのです。それが人間です。ですから、愛のためには犠牲にならなければならないのです。投入しなければなりません。生命と財産をすべて投入した伝統があるがゆえに、低級のものはより高級なところへ自分のすべてを投入しようとするのです。それゆえダーウィンの進化論ではなく、愛を中心として吸収する論理です。第二の価値的な内容を創造するときに創造要素として適用されるならば、微物としてよりもどれほど価値的な内容が上がるかというのです。
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 神様の造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべての微物まで愛し、人はもちろんのこと、天にあるものまですべて、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛されることのできる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がチュンチュン鳴くならば「このすずめめ、ゆっくり寝ようと思ったのにどうしてチュンチュン鳴くのか」と言うのではなく、「ああ、有り難い。私を起こしに来てくれたんだ。大事なお客さんが私を迎えに来るのをお前が知らせてくれるのか」と考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。これが。
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 神様は人間世界を造ると同時に天使世界を造りました。それでは天使世界とはどのような世界でしょうか。人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放ち現れるときに、初めて愛の巣が完成するのです。それゆえすべての生命力はそこから出発するようになり、すべての生命の因縁をもった存在がそこから和動できるようになるのです。このように和動できるようになる起源が正に人間なのです。
そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、蝶と蜂のように互いに授け受けることができる和動の主体圏を成すようになったなら、それこそ神様が喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったことでしょう。また春の宴が始まったことでしょう。






























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