真の父母
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七、真の父母を中心とした生活

P.173
一)真の父母の日と真の父母

皆さんは、みんな先生に関心があるでしょう? 先生がどこかに行き、何か言葉を言うようになれば、全部電話線をつけて回りながら聞かなければならないのです。

皆さんは、この父母の日を迎え、今父母様の苦労がどれほど大きかったか、父母様の心がどれほど苦痛を受けたかということを知るべきです。今、父母様に対して、知るべき時が来たのです。そうでなくては、伝統が分からないのです。伝統を持てないのです。(一三一\六四)

本来、父母の日の理念は、神様の創造理念の中で、中心理念でした。神様が万物を創造された後、その万物を主管する人間を創造され、人間たちに万物を主管せよと祝福された目的も、まさに真の父母を立てるためでした。

本来は、アダム・エバが神様を中心として一体となり、真の父母になるべきでした。そうすれば、父母の日が立てたれるようになるのです。そうなれば、全宇宙が父母の名前とともに、誦詠を捧げるようになるのです。このように、父母の日は、前宇宙が父母の名前とともに誦詠を捧げる喜びの日なのです。

この日を迎えるのが、神様の願いでした。しかし、人間始祖が堕落することによって、このような父母の日を天も失ってしまい、地も失ってしまいました。それで神様は、本来計画されたところを成されるために、父母の日を探されるために、今まで経綸してこられたのです。

父母の日を迎えるには、まず真の父母を迎えなければなりません。その真の父母は、歴史を審判し、現在を主管し、未来を開拓なさるべき中心存在であられます。それで、人間が歴史的に羨望してきたことも、真の父母を迎えることでした。(一三\二八〇)

我々が民族を探そうとするのは何のためか? この民族をして、勝利の真の父母に侍らせるためです。そして、サタン世界から讒訴されず、天に代わって、地に代わって、人類に代わって国家基準の上に万天宙の前に、孝子、孝女として自由天地を成し、真の父母に真実に侍るためです。

今までは、我々が悲しい場で侍り、苦痛の場で侍りましたが、今からは喜びの場で、自由な場で侍らなければなりません。神様が我々の心と共にされることができてこそ、我々が喜べば神様が「そうか、おまえの喜びは私の喜びだ!」と言われるのです。そして、我々は全人類が「あなたたちの感謝は、我々の感謝です!」と言う基準を立てなければなりません。

今日は、父母の日です。この父母の日を、皆さんが本当に皆さん自身の父母の日として立てなければならず、皆さんの家庭の父母の日として立てなければならず、社会の父母の日として立てなければならず、国家の父母の日として立ててこそ、世界の父母の日として立てられるのです。世界の父母の日として立てられ、天宙の父母の日として立てられてこそ、本来神様が真の父母を立てようとなさった創造理念が完結するのであり、人間が堕落によって父母の日を立てられなかった恨を解くことができるのです。さらにこの全天上天下に父母の日を立ててこそ、復帰の恨が完全に解怨されるのです。

我々が父母の日を立て、子女の日を立てましたが、個人的な父母の日から家庭的な父母の日、民族、国家、世界、天宙的な父母の日として立てられておらず、子女の日もそうです。万物の日もやはりそうですが、父母の日と子女の日と万物の日が、世界性を持ち、勝利したという基準の前に主管されうる圏内に入ってこそ、初めて天地を創造された神様の本来の創造目的が完結するのです。

そうなってこそ、初めて父母の日が人間の父母の日になると同時に、天の父母の日になるのです。また、子女の日と万物の日も、人間の子女の日と万物の日になると同時に、天の子女の日と万物の日になるのです。このような立場に立つようになるとき、初めて天から皆成したと言うことができるときが来るのです。

個人的な父母の日、子女の日、万物の日を設定してこそ、この日々がその国家の中心の日になり、世界的な日になりうるのです。これが問題です。(一三\二九四)












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