真の家庭
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第五章 創造本然の男女の愛


◆一 創造本然の男女の愛

 神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛し合うことができるならば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世俗的な愛ではありません。その愛は最高に美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。

 男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願われたその基準と一致するかが問題となります。男性と女性が愛し合うとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。

 神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになったという結論が出るのです。神様も人間の前にそのような愛を願われたのです。男性と女性も互いに相手に対し、そのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核であらざるを得ません。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。(祝福家庭と理想天国I−三三五)

 神様の愛と人間の愛は本質的に同じです。愛は一つになろうとします。男女が互いに恋しがる理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。男女が愛で一つになる所に必ず、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国I−三三六)

 二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値をほめたたえると同時に、神様の尊い価値を一層ほめたたえることができる人にならなければなりません。

 男性の心の中には神様が愛しておられる女性がおり、彼の相対である女性の心の中にも神様が愛しておられる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値ある内容になります。男性と女性が互いに愛し合い抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿はそういうものなのです。

 元来男性は自分が喜ぶことのできる女性を迎えなければならず、女性もやはり自分が喜ぶことのできる男性を迎えなければなりません。そればかりか、人間の喜びというその限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そうすれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。

 鳥たちは彼らのために歌を歌い、蝶は喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(祝福家庭と理想天国I−三三六)


◆二 男性と女性が生まれた理由

 本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか! それは女性のために生まれたということを否定することができないのです。その反対に女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じることを、私たちは知らなければならないのです。

 これを、天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として決められたために、その原則に従っていかなくては、善なる、真なる、幸福なる、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ることができないのです。

 女性は男性と出会うために生まれ、男性は女性と出会うために生まれたでしょう。これが最高の真理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。(祝福家庭と理想天国I−三三八)

 男性と女性は生理的に全部反対です。女性は一方的なのに比べて男性は三方四方的です。また女性は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。このように性格が全部反対なのです。こういう主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせようとするのも愛なのです。

 男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。

 男性がもっている器官と女性がもっている器官はそれぞれ違います。それを誰のためにもっていますか。それは自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは女性のために生まれ出たので、女性のものです。女性のものは、もちろん逆に、男性のものです。そのように考えてみましたか。(笑い)笑い話ではありません。

 男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男女を一つの体に成さしめる性の器官です。それは愛を中心として心と体が完全に一つになることができる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっており、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは自分のために生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。

 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために男女の愛の器官をそれぞれ変えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。

 主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛をたがえた審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻をさておいて、あえてとんでもない考えをすることができますか。反対に夫人たちは夫をほったらかしにして、とんでもない考えをすることができますか。(祝福家庭と理想天国I−三四〇)


◆三 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在

 皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう。そうでしょう。その愛に絶対必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。また、女性がいなければ百年以内に人類はすべて滅亡するのです。それゆえ男性がいくら天下を統一したとふんぞり返っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから女性は絶対必要なのです。(祝福家庭と理想天国I−三四〇)

 「人」といえば男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないのであり、女性を考えてみても男性がいなければなりません。その男性は自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。

 だから女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。私はたとえ知らずに生まれたとしても、私を生んでくださった方は知っていたというのです。私が女性として生まれたのは、私を必要とする男性がいるためなのです。同様に、私が男性としてこのように生まれたのは、私を必要とする女性がいるから、男性として生まれたのです。そうでしょう。すべて知ってみるとそのように生まれていたのです。(祝福家庭と理想天国I−三四〇)

 男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。

 真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛を慈しむ絶対的な男性と女性は、一生懸命努力する.ことによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。

 真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、神様も嫌いなので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何ら意味がありません。それと同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だといっても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎないのです。

 そのように自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因であるというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I−三四一)


◆四 愛は相対から来るもの

 愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのに、それを受け入れようとするなら、それを尊く思い、敬わなければならないという「為に生きる哲学」を確立しなければならないのです。

 人には愛があります。しかし愛というのは、「私」 一人では現れません。男性が一人いるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。

 父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(祝福家庭と理想天国I−三四二)

 愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。

 愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念からいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することができないので、だめです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、これを残らず改めなくては、歴史を変えることはできません。今まで夫人は夫人なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから私のために尽くしなさいというので、破綻が生じたのです。
 愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、その愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。

 このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけることができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくては出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も全部残らず相対的観念からいうのです。(祝福家庭と理想天国I−三四三)


◆五 異性間で愛の調和を成せば

 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。男性と女性は互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性のは滑らかです。男性はひげが生えますが、女性はひげが生えません。声も違います。男女を比べてみると相対的に釣り合っています。調和がとれているのです。人間という肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半々をぴったりとくっつけたからです。

 皆さん、高いだけあるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に下には魚が住み、上には哺乳類、鳥類などが住んでいます。女性は一月に一度ずつ生理が生じます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和して平行線にならなければなりません。

 昇ったり降りたり回ったりする各種施設のあるディズニーランドを、人々がなぜ好むのかといえば、宇宙がそうだからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ちよいですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するから、人間が拍子をとらなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I−三四四)

 異性間にあって愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神様は降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うようになります。神様はこの円形の求心点となり、球形運動が行われるのです。求心点から四方どこでも通じることができるのです。その求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容する力は愛なのです。(祝福家庭と理想天国I−三四五)

 人間において愛は永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならないし、死んでも永遠にともに生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって、一体化するのです。

 二つの体が一つになれば神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになるので、それがまさに愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国I−三四六)


◆六 真の愛に酔った本然の人間

 この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在されるならそれ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなくては、神様の前へ出ていくことができないということを知らなければなりません。

 神様は愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであり、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとおっしやるのではありません。(祝福家庭と理想天国I−三八一)

 人間を見れば、人体は五宮をもっています。人間は誰でも五宮の認識によって、真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっているなら、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。酔った瞳の色はどれほど美しく光るでしょうか。□が真の愛に溺れているなら、ほほえむその唇はどれほど恍惚としたものか、考えてごらんなさい。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五宮の調和がどれほど美しいだろうかと想像してごらんなさい。そのような美しさを通した喜びは、神様お一人では体験することができないのです。そのような美しさは相手がいてこそ体験するようになるので、神様が人間を創造された目的でもあるのです。

 真の愛に酔った瞳の手入れをしてあげたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいるなら、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。神様は天地を創造した以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。神様は真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。

 神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れ、愛の迷子になったなら世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様が住まわれるようになるので、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界であるのは確かです。(祝福家庭と理想天国I−三八二)

 真の愛が完成したなら、感応の神様はその真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中でならどんなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないでしょうし、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(祝福家庭と理想天国I−三八三)


◆七 愛はきわめて自然なところで成される

 先生が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作ってえさをあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい子供心からそうしたのです。それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。

 今考えれば、全く意地悪な行いをよくも続けたものです。愛は自然な中に築かれることを長らくして悟ることができました。愛は自然な中、最高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なのです。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経てはっきりと分かるようになったからです。(祝福家庭と理想天国I−三五三)

 愛の価値を失った人を、大学で教育させて、何が変わるというのでしょうか。彼らはみんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注・肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れられて、もろもろの味を出すのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。

 世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花咲かせなければなりません。焼きカルビは皿に盛らなければならないし、テンジャンクッ(注・韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れられてこそ、もろもろの味を味わえるのと同じです。風味のよいテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。同じように、人間も風味のよい味に似た、そういう愛を一度味わえば変わることがないのです。

 甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛だとはいえないのです。

 最近はインスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なのです。香水風呂に入って休浴したといっても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に体を入れて洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋で、長くたてば深まるものだといえるのです。

 夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みかき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みかき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。(祝福家庭と理想天国I−三五四)

 皆さんが好きな、愛する人と出会えば抱擁したいし、口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相手を探し出すための人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念をもとにして男性と女性が出会うとき生まれるものです。(祝福家庭と理想天国I−三五五)

























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