真の家庭
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第九章 真なる子女教育


◆一 父母は子女をどう教育すべきか

 父母は息子・娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だということを教えなければなりません。

 ですから初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として神様の前に愛の教育を受けなければなりません。では、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければなりません。

 そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。それでは愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量ることのできる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。だめになったというのです。

 それでは愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには愛の基準があったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準が何なのかということが問題です。

 私たちは天国に行きたく思います。しかし天国に行ってからは、そのような教育は受けられません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるのというのです。その教育とは何なのでしょうか。天国は心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。

 神様がこの地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子・娘をつくるためです。どのような息子・娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露することのできる息子・娘をつくるためです。

 それではアダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついて行かなければなりません。父母が山に登れば山について行き、谷に下りれば谷について行き、洞くつの中に入れば洞くつの中について行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。

 もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的な方ですから絶対的に会いたく思われるのです。絶対的な方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「あー神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」ではいけません。絶対的でなければなりません。(五一−七一)

 もし神様と内外とも一つになった立場にいれば習わないでもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっとそうだというのです。天地がどうなっているのか、霊界がどうなっているのか、人生がどうなっているのか。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すのに、万物の霊長は、習ってから食べ物を探したり、死ぬこと生きることを知るのではありません。神様に対すればすぐにさっと分かるようになっています。

 そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらずそのような人になれなかったのは堕落のためです。堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いものが覆っているのでこれを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。そうすることのできる道を、今まで人々は追求してきました。(五六−一五三)


◆二 父母は子女に何を教えるのだろうか

 真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくらいいといっても自分の父母に代わることはできないし、真理の内容がいくらいいといっても自分の夫に代わることもできないし、また自分の妻や息子・娘たちに代わることはできません。真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。

 それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それはどういうことですか。みな同じことです。真理が成立するには愛と生命がなければできないのです。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。

 ここで欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。ですから一番の核心は何でしょうか。
生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に、母です。ですから核心は父母なのです。(二一−一八三)

 また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが最も偉大な、この世にない相続です。神様をよく紹介しなければなりません。神様の愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様のように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。(九三−三三六)

 私たち統一教会員は何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まったし、このような方向も愛のために始まったし、このような目的も愛のために始まったし、男性も女性も愛のために始まったし、父母も愛のために始まったし、息子・娘も愛のために始まったし、宇宙のすべてのものも、愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は間違いなく、神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(九三−一九一)

 祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子・娘に勉強しなさいと言ったからといって、その息子・娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。とんでもありません。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させることのできる愛の道理を教えなければなりません。

 ですから父母が息子・娘を連れて回りご飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。

 自分の子供を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を分別がつけばつくほど知るようになるのです。自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子供を案じるからといって、その子供たちがよくなるのではありません。愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていくことのできる方向感覚を教えてあげなければなりません。

 分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だと思っていたのに掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになりま
す。(二二九−七七)


◆三 父母がまず手本を示すべきである

 子女を教育するためには、父母が先に実践しなければなりません。父母がお手本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして、父母がどのような言葉を語っても子女たちが一言半句も口答えせず、父母をおそれ敬うことのできる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ子女たちがついて行かないというのです。そのためには天の教育をしなければなりません。

 教えてあげるには、父母が先にお手本にならなければなりません。子供に親孝行しなさいと教える前に先に親孝行しなければなりません。皆さん自身がまず天の法度に従って親孝行な息子・娘になってこそそこから天の伝統的親孝行の因縁が成立するのです。お父さんが家庭で親孝行するようにお前も親孝行しなければならないし、お父さんが国のために追われながらも闘争の歴史をつづってきたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。(三〇−一一三)

 父母が子供に親孝行しなさいと教えてあげて親孝行な息子をつくるのではありません。自ら親孝行しようという心が湧き出るようにしなければなりません。ですから、そのようなことは一朝一夕にしてできるものではなく、長い期間を通じて影響を及ぼさなければなりません。ここで影響を及ぼすというのはどういうことでしょうか。お父さんがするように子供がついて来ることができるように生活を通して子供にお手本を見せてあげなければならないのです。このようなことを実践する専門家にならなければなりません。(二九−九九)

 自分の子供に教える時は「お前は立派な人になりなさい」とだけ言わないで、「立派な人になるためには、このような道を経てからなりなさい」‘と言わなければなりません。お父さんはお父さんなりに責任を果たし、お兄さんはお兄さんとしての責任を果たさなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての責任を果たさなければなりません。

 言い換えれば、真の男性、真の女性の道を行くことのできる因縁をわきまえることのできる、法度からそれない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て一国の民になることのできる道が生じるのではありませんか。(祝福家庭と理想天国I−一〇四一)

 父母はどのようにしなければならないでしょうか。父母が互いに愛し合うように兄弟姉妹同士愛し合えるように教えると同時に、私が国を愛するので、お前も国をこのように愛しなさいと教えなければなりません。そのようになれば他の教育は必要がありません。祈祷する時も私がこのようにするので私の子供もこのようにするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。
自分が先に標準になったのちにこそ、子供をそのような位置に立てることができます。自分が先にそのような位置に立てば、神様は自然にその子供もそのような方向に導いていくのです。ですからここで私たち白身を中心としてその方向を変えることができなければ、霊界に行っても責任追求を受けることになることでしょう。(祝福家庭と理想天国I−一〇四〇)

 皆さんの家庭で子供たちが、うちのお父さんとお母さんは世界のどのような王宮の王や皇后よりも素晴らしいと思うようにしなければなりません。また子供たちにお父さんとお母さんの関係が天下にない近い関係だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。そうして「うちのお父さんとお母さんは世の中の誰よりも誇らしいお父さんとお母さんだ」と言えるように、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。

 世の中の親たちを見れば、子供たちがその横で、「お父さん、お母さんどうして喧嘩するの!どうして喧嘩するの?」と言っても乱闘します。涙を見せない家庭で育った皆さんの子供たちがそのような世の中の姿を見て、「やっぱりうちのお父さんとお母さんは世の中で一番だ! 本当に素晴らしく聖なる両親だ」ということが感じられるように、皆さんは子供たちにお手本を見せなければなりません。

 父母は、子供たちが骨髄からあふれ出る心情であこがれる父母と子の紺一を立て、黙々と天の家訓・家法を立てていかなければならないのです。そのようにすることによって子供たちも後代において、自分のお父さんとお母さんのような立場に立とうとするのです。(祝福家庭と理想天国I−一〇四二)


◆四 父母は友達の中の友達、先生の中の先生

 愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は自分から来るものではありません。愛とは相手から来るものです。相手かいなくなれば愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば男性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子供も相対的です。愛というものは相手なくしては成されないのです。これを「三対象の愛」といいます。

 三対象の愛を体得できない者は完全な神様の愛を体験したという立場に立つことができません。「神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子・娘を産んで、それくらい喜ばう」これが統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成する中で、喜びと満足を感じながら彼らが大きくなって結婚する日を願われたのが神様の願いです。

 これと同じように、お父さんとお母さんは息子・娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、いい夫婦の縁を結んであげなければならないというのです。いい夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。

 神様と一つになって「神様がアダムとエバを造られて愛されたように私たちも神様のその愛を見習って息子・娘を愛さなければならない」と言ってどこにでも連れて回りたがり、いつでも抱いて歩きたがり、仕事をする時も連れて行きたがり、ご飯を食べる時も一緒に食べたがればそのようなお父さんとお母さんを息子・娘が好むのです。友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじやもじや頭の若者が自分の息子・娘の友達ではありません。

 友達の中の友達は誰かといえば、まさにお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。さらには、友達よりももっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりません。ですから父母は友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。

 父母が「こらっ、お前、そのようにしたらだめだ」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらなかったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしたらだめだ」と言ったりしながら教育してはいけません。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前それでいいのか。」と言えば「そうだ、ぼくがこうしたらお父さんとお母さんが悲しがるからいけないや」と言うことができるように教育しなければなりません。

 ですから父母は、子供の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバしかいませんでした。その次には神様しかいません。天使長とも友達になることは願われませんでした。天使長は僕です。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから父母は先生の中の先生であり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。

 愛は神様から始まります。ですから結局、相対の愛も誰によるものかといえば父母によるものです。ですから父母が「おい、お前たちが愛し合うのはお前たちによるのではなく父母の恩徳によるものだ」と言う時子女たちは「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このような相対を得てくれなかったら大変なことになるところだった」と、こうならなければいけません。

 ですから恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は誰から受けなければならないのでしょうか。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって鳩のように楽しくクゥクゥクゥと愛し合うのを見てそれを見習わなければなりません。「ああ、うちのお父さんとお母さんがあのように愛し合うのを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのようにクゥクゥクゥと愛することのできるそのような相対が必要だ」このようにならなければならないし、父母はそのようになるように教えなければなりません。

 そのようになればその息子・娘たちがお父さんとお母さんがしてきたように繰り返すので世界は善なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというのです。(五七−一一九)


◆五 愛の鞭

 ヨハネの黙示録を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい」、中途半端ではいけないとあります。愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば鞭打ってもいいというのです。子供を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は冷たく対すべき時もあります。子供が間違った時、皆さんが叱ってあげなければ分別力を失います。先生がよく見えても一方では厳しいことを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。

 最近学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもうだめだな」と思いました。自ら進んで「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。韓国の諺に「憎い人にはご飯もっと上げて、かわいい人には鞭を上げなさい」という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。

 父母の鞭が痛いのを忘れてその愛の前に涙を流すことのできる人にならなければなりません。
人は近ければ近いほど賞金を上げるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」とかえって懲らしめるのです。隣り近所の子なら間違っても知らないふりをするでしょうが、自分の子供なら「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら「お前、いいことをしたのか、悪いことをしたのか。」と言います。それはたたくことよりももっと多く思ってあげるからです。しかし思いやりよりも多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐になります。怨讐の中でも大きな怨讐になるというのです。

 愛するとしてもこん棒を持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。しかし、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。すなわち、十くらい愛して五くらい鞭打てば五くらいの愛が残っているので有り難く思うというのです。

 子供が受け入れなくても子供を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりももっと大きな愛をもって現れ、愛するようになればその不良のような子供でも悔い改めて帰ることができます。しかし子供に対して自分が育ててきた功労を自慢しながら子供を三回でもとがめれば、その子供はふろしきを包むのです。しかしその子供に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛するようになるとき、その子供は帰ってくるのです。もっと大きな愛は小さい愛をすべて消化・統合することのできる主動性があるからです。

 この世でも子供がきついからといって「勉強するな」と言う父母は本当に子供を愛する父母ではないというのです。鞭打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜそうなのですか。今よくなろうというのではなく、未来によくなろうというのです。父母は子供の未来に大きな夢をかけてそうするのです。

 子女を生んで育てるためには真の愛で生んで育てなければなりません。そうして家庭が一つになり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だといいます。ですから父母は子供の成長を見守りながら教育し、正しく成長しなさいと「愛の鞭」を加えたりもします。間違ったという理由で父母に叱られたりたたかれたりしたといって不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓として密かに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は正しく成長し神様がいらっしゃる中心に接近して行くことができるのです。(祝福家庭と理想天国I−一〇二七)


◆六 勉強は何のためにするのか

 勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか。みな初めは仕方なく通うのです。なかでも、特に小学生たちは我が怖くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通うのではありません。初めはみなそうだというのです。仕方なく通ってみると、あとでその味を覚えて、学ぶために通うようになるのです。そのようになると、お父さんとお母さんは驚くのです。その味を感じ、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知れば勉強するのがおもしろくなるのです。

 そのおもしろさということ自体を見れば悪いものです。しかし相対的に勉強してみると自分が思いどおりにできる範囲が広くなるので、そこに味を覚えて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人は一人もいません。勉強することによって自分の活動できる範囲が広がるので好きになるのです。(三六−一二〇)

 学校に行く学生に対して我は「一生懸命勉強しなさい」と言います。それは易しくない道です。苦痛の道です。しかしそれは未来のために準備しなさいという予告です。教授たちが壇上に立って弟子たちに一生懸命教えるのも、未来のための準備です。農夫が田畑へ行って一生懸命働くのも、未来のための準備です。この国に天国を建設するための準備です。(一四七−二○五)

 皆さんは学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強してどこに使おうと思いますか。それは幸福のためでしょう。幸福は愛を抜いてはあり得ません。ですから学校へ行くのは愛の道を短縮させるためだといえるでしょう。人間において幸福の門が開かれる時とは、結婚の時です。

 幸福の門を開くために勉強するのはとてもいい方法だといえるでしょう。しかしその勉強がお金もうけのために、権力をもつためにするのなら間違いだといえます。勉強は真の愛で愛することができるように学ぶものでなければなりません。お嬢さんたちが大学へ行って学士になろうとするその結論が何ですか。いい新郎を得ようというのです。それ以外に何もありません。そしてある男性がいくら立派になったとしても、その家庭が一つにならなかったならその男性は不幸な人です。(祝福家庭と理想天国I−三七二)

 勉強するのも真の男性に出会い真の母になるためにしなければなりません。真の母になるためには、まず国のために勉強しなければならないし、夫を真の夫として侍り真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。このような自分になれなければ真の夫に侍ることもできないし、真の息子をもつこともできないのです。女性は真の妻となって一家庭の主婦として夫と百年偕老(夫婦になって仲睦まじく共に老いること)しなければなりません。

 お嫁に行くために勉強するなら大学を出た人たちはみな百年偕老しなければならないでしょう。しかし百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか。調べるまでもないことです。文字を一字も知らない者たちがもっと長く共に生きるというのです。男性や女性が生まれて長い教育期間を経て成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会い幸福な暮らしをするためであるといえます。最近の世の中では結婚相手に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためのものであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に生きれば財物もついてくるし名誉もついてくるのだといえます。(祝福家庭と理想天国I−三七三)


◆七 真の父母と先生の教え

 父母は自分の息子・娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子供が多い父母が農村であるいは仕事場できつい仕事をする時、貧しくとも背負子を背負い畑の草取りをし、畝間や田んぼで耕したりするのは、千年万年、子供の幸福のためです。父母の額から流れる苦労の汗は自分のためのものではありません。その汗の結実が子供を愛する心とともに絡み合えば、そこには新しい創造の役事が展開されるのです。いくら畑で草取りをし仕事場で荷物を背負ってもその足取りには新しい希望が宿っているのです。(二五−九七)

 わが国(韓国) に四千万の国民が住んでいますが子供を愛さない親もたくさんいます。彼らの中で誰よりも子供を愛する気持ちを、十年、二十年以上持続できる父母がいるなら、そこには親孝行の子供が出てこざるを得ません。息子と娘たちはその父母の顔を見るだけで、手を見るだけで、自分たちのために苦労したということを知るようになるのです。このように骨髄から湧き出る父母の愛を感じるとき、そこからは長い歳月の深い事情が流れてくるのです。

 このように、子供を国のために貢献させることによってその父母は国家的な父母、あるいは世界的な父母になるのです。また皆さんが父母の願いを叶えてあげようとする心情に徹して勉強するようになるとき、新しい担い手になるのです。皆さんの中にそのような感情と思いをもてない人がいるとすれば、その人は勉強するといってもまともにすることはできません。

 もし父母が子供に「私がお前を愛し、お前のために骨を祈り、お前のために苦労して汗を流すのは、私を思うよりは、この国をもっと愛しなさいという意味からだ」と言う愛国の志士の心情をもって教育すれば、そのような父母の下で愛の教育を受けた子供は父母が願う愛国の志士になるために努力することでしょう。彼は父母の愛を回想するたびに四千万民族のことを思うことでしょう。そして民族のために勉強するでしょうし、自分の民族が悲惨な目に遭う時は自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。

 しかし、そのような立場にだけ立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた土台がなければなりません。それでこそ、国民が千年万年慕うことのできる要因になるのです。そうでなければそれはすべて過ぎ去ってしまいます。このようなすべての問題を考えるなら深刻です。皆さんの学校に、どのようなことがあっても自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために苦労する先生がいるならば、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら、皆さんの手をつかんで涙を流し、次のように勧めることでしょう。

 「私のために順応しないで国に対して順応しなさい。私のために尽くすよりも国のために尽くしなさい」。このような教えを受けた弟子たちは、その先生が果たせなかった意志を果たすことでしょう。このように、先生は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国家と世界の価値を大切に思いながら子供のために精誠を尽くせば、その先生と弟子とその父母と息子・娘たちは棟梁の器(一国を支える人材)になることでしょう。(二五−九八)


◆八 世界とともに生きることのできる教育

 宗教は元の教えです。神様の元の教えは人類を教え、人類を愛そうというものです。それ以外にはありません。ですから真の父母は子女に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてあげます。人倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。皆さんは誰のために父母を愛さなければならないのか、考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。

 愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限の愛を語られました。最後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕うその目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。神様のためです。神様のために愛さなければなりません。

 自分のために愛する者は死んでみてください、どこへ行くか。皆さんが子供を産んで乳を飲ませかわいいと言いますが、誰のためにかわいがりますか。それは天と地の身代わりとしてかわいがらなければなりません。この国、この世界のために、神様のためにかわいがらなければならないのです。神様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのにその縁を通じて生まれた息子・娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。

 子供を抱いて乳を飲ませるおばさんたち、天と地を身代わりして神様の愛する息子・娘を抱くという切実な心情で自分の息子・娘を抱かなければなりません。皆さん、恵みを受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうするためには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するとき、自分の息子・娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を胸に抱いて乳を飲ませる時にはこの地球上の人類を代表した母の立場で、人類を代表した赤ちやんに乳を上げるという心で与えなければなりません。そして自分の子供にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子供にも自分の子供だという心情で対するお母さんになってください。

 そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ちやんたちは必ず偉大な人物になることでしょう。すぐにはならなかったとしても、一代二代を経ていくうちに必ずその後孫の中に世界を動かすことのできる人物が生まれることでしょう。これが公式です。そのようになるのです。

 素晴らしいお母さんたちは子供を胸に抱いて、世界を動かすことのできる善なる存在になるためには、どのような困難な立場でも耐えられなければならないとその子供に教えます。それはお母さんたちが、善は滅びないという天理を知っているからです。善は何によって動くのでしょうか。私のためにではありません。ご飯を食べるのも私のために食べるのではなく天宙のために食べなければなりません。

 花嫁を迎えるのも自分のためではなく、み旨のために結婚しなければなりません。世界を目標にしなければなりません。経験するのも世界を中心としなければなりません。そのようにする人は格好が悪く見えても本当に味のある素晴らしい人です。七十年ないし八十年の瞬きするような人生を過ぎれば永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きています。永遠に生きる世界の時間圏内に入ってその世界と連結させることのできる道を知れば、その永遠は私のものになるのです。

 ご飯は栗飯を食べ、服はたとえ見すぼらしい風呂敷のようなものをまとっていたとしても、世界を中心として「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生きてこのようになった」と言うことのできる、幅広く絶え間ない話題をもっている人が住んでいる所ならば、そこにいる子供たちは優秀な人になるというのです。(祝福家庭と理想天国I−一〇四七)


























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