御旨と世界
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伝統の旗手

1974年5月10日 東京 小金井公会堂


 神の切なる願い

 きょうは「伝統の旗手」という内容で話しましょう。 一つの家庭を中心として見れば、その家庭の伝統を受け継ぐ者は、年寄りでなくして若者である。一つの国家も、その国の伝統を受け継ぐ者は、やはり、その青年である。それは、過去もそうであったけれど、今もそうである。だから、伝統を受け継ぐのは、いわゆる青年である。 例えば日本の国についていえば、日本の国の伝統を受け継ぐ者、またそれを全体に引率させる者が、正当な伝統を引き継がなかった場合には、この日本の将来というものはとんでもないことになる。その伝統と違ったところに行くということは当然のことである。世界を背負う者、あるいは理想世界を建設する者、あるいはすべての責任をもつべき者は、いったいどういう者だろう。やっぱり、その世界を背負う者、世界の新しい伝統を立たせる者、そういう者は青年であって、神の摂理から見てもやはり、神に至る伝統を青年たちによって立たせてもらいたいというのが、神の切なる願いである。 旧約時代を振り返るというと、旧約時代はみんなおじいさんが伝統を立たせてきたのですね。ノアのおじいさんとか、アブラハムのおじいさんとか。それからヤコブは例外だね。しかし、これも年を取ったもんだ。それからモーセにしても、みんな年寄りだね。その年寄りの旧約時代より、新約時代に移ってくると、洗礼ヨハネを見ても、イエス様を見ても、これは青年だね。いわゆる二十代と三十代の期間において、すべての天の伝統を受け継いで、その伝統を現実の世界に、結ぼうとしたその中心的存在が、イエス様あるいは洗礼ヨハネだった。そのイエス様に、洗礼ヨハネを中心として神の国の理想的な現実的伝統を築いたとするならば、その伝統はイエス様を中心として、後世に世界的伝統基準として定立したに違いないだろう。青年というものは、それはまだまだ社会に接していない、一方に向かっている時期である。自分の熱い心の中で決めたものには、直ちに行動する。だから、先生によって教えられたその内容を、直ちに実行して、自分を築こうと願うのが、これが青年あるいは学生である。 神様も何としても、年寄りよりも青年を願うことになるというのがその思いに違いない。だから成約時代は、青年を中心として出発するのが原理的だ。  

 堕落前 アダムとエバを眺めた神

 伝統はどういう目的に向かっていくのであろうか。これを我々は、はっきりと知らなければならない。まずもって個人完成を目標としなければならない。国を救う前に氏族を救わなければならない。自分の家族を救う前に自分自身を救わなければならない。我々統一教会の成約時代におきまして、神様の願うところは、老年でもなければ壮年でもない。これはまさしく青年を願うに違いない。君たちの年齢は、まさしく成約時代のすべてを背負う神の希望の中心として召され、中核の使命を果たし、そればかりでなく、中心的な基準を立たせるにふさわしい存在であるということを結論的に言っても、それは間違いないと思う。それは日本ばかりではない。海外の統一教会メンバーは、みな青年である。アメリカでは、平均年齢をとってみれば、二十三から二十五歳というような年齢であることを思えば、この若き者たち全部が、目的に向かって行動するのに、命を捧げ、すべてを捧げて、自分たちはこういうふうに行くんだというような、その決意において毎日の生活をしていくならば、その生活の背後には新しい伝統が築かれるに違いない。 このような青年があればこそ、未来の日本は、新しい希望を抱くことができる。ここにおいて、日本の祝福を受けるような目標をもつことはもちろんであるが、あすをつくり、世界をつくるというような、その決意に燃えて、国を越えて、アジアの青年と手をつなぎ合って、交流しながら超国家的な心情を一つにして、超国家的な行動を、実践的になしていくならば、そのなしていく基台が長ければ長いほど、この動きはそれは滅びるのではなくして、大きくアジア的になり、それを伸ばしていけば世界的な一つの中心なる道として、現れていくのは当然のことである。君たちは、そういうふうな伝統を受け継ぐ使命をもっているとともに、受け継いだ伝統を、また築き上げなければならない。 今、我々統一教会としては、この観点から見た時に、世界的青年の教育と理念を、正しく一つの方向に、超民族的に固める教育制度が必要になってきたのであります。ここに集まった者たちはみな青年である。まだ汚れていない。この世的に汚れていない素直な心をもっている。その新しい心に新しい決意をもつ。新しい決意をもったその決意の自信をもって、心身が一つになり、神に完全に愛される完成された男女となったとするならば、これをいかに神様が喜ぶだろう。エデンの園においてアダムを造り、エバを造った神様から見た場合に、神様の最高最大の願いは何だったかといえば、神に永遠に愛されるにふさわしい、神の創造目的にかなった完成された男、完成された女、いわゆる息子、娘を求めてきた。神様はそういうふうにして、ありったけのすべての希望を自分の息子、娘にかけて、そうして未来の発展を夢見たに違いない。そうしたすべてが堕落によって崩されてきてしまった。そののちに救済摂理を通して、これをもとがえし、老年時代から壮年時代、青年時代へというような歴史を通過して、今の時代においてついに青年層を迎えるようになった神様においては、堕落したアダムとエバを堕落する前に眺めていた神はどれだけ希望をもって眺めていたことか。そう思う時に、こういう立場が今の成約時代の我々青年ではないか。 

  愛す愛されるという伝統

 神が君たちを愛すると同じように、君たちも神を愛するのは当然だね。それは原理原則である。だから、神を縦的な中心と慕いまつるならば、父なる神の子として、神の娘としての関係において愛される時、そういう愛する伝統が始まらなければならない。それを果たさなければ、個人完成の出発点は満たすことはできない。家庭というものは個人ではない。相対圏を満たしていくのだから、まずもって、個々において神に愛される。しかしそればかりではなく、愛される神を我は親として迎えるとともに、神から受けた愛を神にお返しする。親孝行をする。縦的な立場において、親子たる心情が結ばれた基準に立ち返らなければ、個人完成の出発点は生まれてきません。 君たちの平常言うような、個人完成というものは、いったい何か。それは) 縦的に親子関係の信仰を結んでいくことにある。そうして神が自分を愛したと同じように、子供も神を愛し、愛は相対関係間に成立するものであるから、神と子供は離すことはできない。 自分が泣くのは、自分のために泣くのではない。神のために泣く。主体、相対関係を円満に統一圏をなすために、それをなす。自分のすべての活動の範囲を広げるのも、その主体相対関係を固めるために、それを広めていく。そうすることによって、神の主管圏が次の主管圏に拡大されていく。 それが家庭を中心として、その主管圏を広める相手と相対したら、それは夫婦である。男に対して女、女に対して男、その男女は自分なりにおいて結ばれる男女の関係ではない。それは神を中心として、横的立体的に強く結ばれる中心的な心情圏として立たせたのが家庭の基準である。その夫婦は、神より愛される自分の夫を、神と同じように愛することができる。神が愛する奥さんを、自分も同じく愛することができる。神を中心として、男と女の授受作用のそういう関係、愛されたら愛するという関係を、共に自分のものと同じような立場に迎えるところに、この二つが共に入り交って一つになり、共に愛するその結果となる。 アダム、エバ二人が愛するのを見て、神様が寂しいものではないんだね。ああ、自分の内心にあったその愛の素質というものがあれだけ強いものだったのか。アダムとエバが絶対的に一つになって愛し合うその関係は、自分の内心の相手が実体に現れたんだから、それを見るたびに反発するんじゃなくて、それはプラス、マイナス関係になっている。 

  本当の幸福の伝統がない

 こういうような家庭を中心として、本当の幸福の伝統がこの地上界を中心として始まらなかったというのは、これは、人類の最初の先祖が堕落したからだということは我々のよく知っていることである。我々は堕落の後孫として生まれたに違いない。それは否定できない。だから、こういうふうに考えると、自分の父母も善なる父母とはいえない。そうなれば、それを拡大すれば、その民族も善なる民族の基準を受け継いできたものではない。だから堕落の後孫である以上、神によって出発したのではなくして、サタンによって出発した圏内に我々はいるのである。こういう圏を正してもらいたいのが、堕落圏内、死亡圏内の願いに違いない。 こう考えてみた場合に、我々は自分なりには解決できない。いくら解放を願っても、サタンに主管されているから、天使長以上の知恵をもっていない。サタン以上の力をもっていない我々としては、これを克服するということは絶対不可能である。永遠の死亡圏に、人類は滅亡していくというのは当然の結論である。だから、もし、救ってやれるお方があるとするならば、サタンの怨讐圏に立っている善なる神自体以外にない。神は哀れな人類に救いのみ手を差し伸べて、数多くのその聖人たちは神から遣わされたのだから、神の遣わした聖人の基台が拡大されるというと、サタン世界の家庭が破壊されるんだね。サタン世界の社会が破壊されるし、サタン世界の国が破壊されるから、サタンは命を懸けて神から遺わされた聖人、義人、預言者たちの首を切って殺してしまうのは当然のことである。だから善なる預言者、聖人、義人たちはこの世界に来て迫害され、あるいは殺されていった歴史を我々はよく知っている。そこには死亡の基台があり、そこから新しい個人圏、家庭圏、氏族圏、民族圏、世界圏の方向に広げて、神は摂理していったんだよ。そうしてそれをなすために数多くの宗教を立てた。  

 キリスト教は神の足場

 近世に入ってきて、すべての宗教圏が世界的文化圏を抱くようになったから、神はこれを一つにまとめなければならない。その新しい宗教文化圏の世界を、総まとめにして、一つの神の理想とする善なる世界へもとがえししていこうというような運動をなす神の摂理がある。この計画を完成させるために遣わされるお方が救世主、いわゆるメシヤ思想である。 このメシヤが来たとするならば、一人ぼっちで来ても何にもならない。メシヤが来るんだから、メシヤの思想に相応する、それなりの超民族的な足場をつくらなければならない。そういう文化圏を世界へ発展させた特定なる宗教が、いわゆるキリスト教である。なぜキリスト教が世界的な宗教になれるか、他の宗教でもよいではないか。しかし理論的に見た場合に、最も神のみ旨に合う、最も神が願われるその内的心情を代表した宗教であればこそ、世界的になる。そう見た場合に、キリスト教はまさしくその核心を突いて、今までその内容を抱いてきた。だから、このキリスト教は神が好きなんだから、神が世界的な神だから、世界へ世界へと発展するのは当然の話である。それでは神が主張する内容は何か。愛を主張する。それを、イエス様が言うには、天、地、人に対して神は裁きの主ではないんだね。「愛のお父様」と言うように、こういうふうに位置づけた宗教はほかにはありません。 

  誰が神を動かせる

 「ああ、神よ。全知全能なる、永遠に唯一絶対なる、無限なる神におけるひとり子である」。ひとり子という) 、そのことを言った一言で、これは万民のメシヤになれる資格がある。「ああ、自分は神のひとり子だ」と言う者はいったいどういう立場に立つ者であるのか。神が愛の心をもったとするならば、その愛を初めて得たものがひとり子だよね。愛を占領する者もひとり子だよね。そうだろう? そのお父様の心中に潜んでいる愛の核、そのものを溶かして、動かすことができる。それを動かすことができる者が何? (ひとり子)。そういう観点に立ってみた場合に、ああ、イエス様は神様の心情の中において、その心情を完全に占領し得る資格をもってきた代表者である。神様の心情を万民が願うならば、そういう内的な心情を占領し得る、そういう経験をもったものでなければ神の愛の世界を指導することはできない。だから、それはメシヤの資格に当たる。 

  まずもって神の愛を体恤

 イエス様は神のひとり子である。とともに、我々も救われた時には、また立場は違うけれども、我々も神の子となる。だから君たちに甘柿を接ぎ木した時には、完全に甘柿になるんだよ。イエス様に救われてからは、イエス様が救い主かといえば、そういうものではなく、兄弟となる。そして、イエス様は新郎であり、君たちは新婦になる。イエス様からのこういう伝統は、兄弟の愛によって始まった。これは天宙的な宣言だね。今までのような堕落圏内に示された兄弟の伝統ではなく、新しい伝統を築くのである。それが君たちであるというんだね。 だからここにおいて天が願う新しい兄弟の伝統を植え付ける、新しい兄弟の伝統を築くとともに、新しい夫婦の伝統を受け継ぐものでなければならない。それは理論としての話ばかりでない。歴史的にそれを押し進めていく。そうすれば、兄弟の伝統が生まれ、新郎新婦の伝統が生まれ、神による愛の伝統を受け継いだとするならば、そこにおいての夫婦により生まれる子供は、神によって愛される子供になる。堕落した圏内において生まれるのではなくして、堕落しない神の愛される圏内において生まれるのだから、サタンに引かれる立場ではない。だから罪はないよ。だから罪なき子供が生まれて、親子関係の伝統がキリスト教を中心として、決まるようになっている。 そういうふうに約束した時が、新約だね。旧約の約束が成されなかったんだから、新しい約束が新約聖書だね。真の兄弟になるんだから、愛を相続して、真の神の子供になるんだと、それを約束してくれた。そして再臨の時には絶対に成る約束だよ。その時代が統一教会のいう何時代だって!? (成約の時代)。 約束ばかりする神様ではないよ。素晴らしい約束を成さなければならないから、成約時代に入ってくる。だから、イエス様みたいな子供がたくさん生まれなければならない。イエス様みたいな新郎新婦がたくさん生まれなければならない。イエス様のような理想的相対をして、子供を抱くような家庭がたくさん生まれなければならない。この理想的世界はここから始まるのです。それは、誰から始まる? (個人)。個人から始まる。 完成しない前に心情的に罪を犯して堕落したんだから、アダム、エバの堕落は心情的に未熟の時に、神の命令、神の指示なきところにおいて、心情的行動の第一歩を踏み出したのが動機となっている。そういう環境が、成約青年におきましては、環境がいくら四方八方に偏っても、それは無関係、無関心なのである。無関係で無関心ではなければ、サタンは最後の蹂躙された愛の倫理を受け継いだ親玉だから、来世においては、全人類の心情を蹂躙しようとして、サタンは最後の知恵を働かせる。 共産党は、遊べ! 踊れ! 歌って踊って恋をしろ! では、どうなるか、 それは破壊である。サタンはそういうような環境をつくって、破壊しようとするんだね。 だから、共産党が一番嫌がる団体は統一教会である。彼らは、歌って踊って恋をして、自分の宣伝に乗り気になるように誘う。しかし、いくら言っても、気にしないのが統一教会の青年である。分かりましたね? (はい) 。君たちは神の前に立って、まずもって縦的に神の愛を体恤しなければならないんだよ。 

  直接この目で神を見る

 神様は二性性相のお方であるから、「なぜ人間を造りましたか」と言えば、それは) 一人でいれば刺激がないからですね。喜びというのは、相対関係によって生まれるものだから、刺激が必要である。一人では刺激が得られない。相対圏の刺激を愛するんだね。最高の神様の相対的愛に立って初めて愛を受けられる。そうすれば、神の内性がそのまま実体化されたものとなる。神様が悲しくなれば人間も悲しくならなければならない。だから人間と神様は別れることができないんだね。いくら研究しても疑問を抱くことはない。もう既に別れられないようになっている。だから、個人完成は縦的な神と自分の関係をもつものである。 縦的な神は見えない。その見えない神が、その実体相をもつためにアダム、エバを造った。アダム、エバの心の中に神がいまして、アダム、エバが完成されて神の愛を受けるようになって、神は内的な父であり、アダムは外的な父となるんだね。そうした場合に、外的姿は内的姿と同じである。神様は人間の姿をよく見つめている。そうすれば神様は人類のお父様として、アダムの姿をとって、それからエバが人類のお母様としてや宇宙の姿をもった、実体の姿をもったものとなって、この人間、万物世界において、親として万民に似せられたものとなる。神様自体をそのアダム、エバの姿を通して、いつも神様がいるということを歴史を通して知りながら、似せさせることができる。そうなったとするならば、神に対して疑う必要がないね。いつも見えるようになっている。堕落しなかったならば、呼べばすぐ現れるようになっている。そういうような基準になったら、「神様がいない」と言って説明できるの? (できません) 、誠を尽くせば返ってくる。宇宙の原則だよ。それで自分の親ということを証明できる人いるの? 横に座っている親に対して、この親が自分の親である以上、何十年説明したって、これ説明することできるの? 君が一億万民が総動員しても、誰が自分の親じゃないと説明できるの? 世界万民が総動員したとしてもこれは説明できないんだね。 それで、神様は何を願っているかというと、この末世時代において、神様の姿を現さなければならないという。それは、完全に心情的、縦的に復帰された、完成された男、すなわち、メシヤとして再び現そうとしているのである。完成されたアダムの身代わりとして行くんだ。完成されたエバの身代わりを中心として、その成約時代には、神様自体が真の父母の姿をもって、万民の前に現れる。だから、統一教会は、権力、あるいはいかなる政治によるてすべての力を投入しても、主管できない偉大な力をもっているのである。生きる神様を、生きられる神様を、我々は直接この目で見、この感覚で体恤し得る圏内において、体験を重ねながら行くのが我々統一教会の道である。分かりました? 過去にイエス様を信仰しながら、イエス様を信じながらイエス様に会った人は、何人いるか? (一パーセントもいない)。少なくとも二十年、四十年間信仰を保たなければ、十字架につけられたイエス様に会うことはできない。統一教会では一週間だけ原理を聴いて誠を尽くすとお会いする。それが違うんだよ。ああ、偉大なること、天宙的革命の道は一つ開かれた。数千年の歴史を通しても、どうしても、会える一点を見いだすことができなかったのが、統一原理によって、我々は一週間以内にその触覚をして、通じる道を発見するとは、本当に偉大な奇跡の統一教会の道である。その背後には六〇〇〇年がたっている。この人類文化には、六〇〇〇年かかって人類の生活圏にもたらしてきた神が、六〇〇〇年の蕩減のすべてを築いてきて、ここに蕩減の犠牲がすべて集結されている。勝利的な結実体として結びつけたのが、親子の愛の関係である。 

  神と同じ悲しみで世界を眺めよ

 「ああ、神様に会いたい」。「ああ、先生に夢でも会いたい」。それで、真心を尽くす。それしかないね。万民のために血を流す。神様と同じような……。血を流す。朝早くから足を引きずり回して、そうして神様の一番近いところに行く。ああ、先生に会いたくてたまらない。寝るのも忘れて、先生と泣くような心情圏でなければならない。一番近い道だからすぐに行く。すべてを総合し得る力をもったものが人間である。神様が造ったものが人間であるからね。そんなに素晴らしいものが人間であるよ。 神様も一人だけでは生きられません。だから、統一教会の教えは神のため、人のため、だからもっと大きいもののため、まず神様は主管圏、天宙復帰の目的を完成させるお方だから、より大きい基準を復帰することによって、より大きいところの救いの手を伸ばすができるのだから、より大きいものを中心にし、より小さいものは吸い込まれ、犠牲になれ、とね。それが宇宙の原則だよ。だから個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天宙、天宙は神、神、神。そして、そういう基準を成し得た場合に、神様の天宙的立場に立ったという勝利を目指して闘う者でなければ、神様の子供になれません。神のために、天宙のために働くような自信をもたない者は、神の子供になれません。統一教会において真の父母に従うというのは、原理原則にかなった結論である。分かりましたね? (はい) 。いいかげんな問題じゃない。こういうような縦的体恤を各自がすることによって、こういうような者となる」。「お父様、天のお父様」と呼ばれるようなその悲しみを、天のお父様が願う国が満たされていない時の立場で言ったならば、神様が悲しいと同じように、神様がその世界を眺めて、それ果たさなければならない使命を抱いて、決意するのと同じような悲しみを抱きつつ、日本を眺め、世界を眺めるというならば、その人は、一人でいても神の子である。 "神の欲望が自分の一心にみなぎっている”と思うんだよ。“神に決意し、絶対にこれを果たしたい”と思うようにならなければならない。何年、何十年、何百年にも延長されていくとするならば、神の内心の苦痛はいかばかりか分からない。その一瞬を勝利していかなければならない。これを犠牲にしても自分は喜んで生きるというような、和気あいあいの自分の思いをすべて尽くす子になったとするならば、そういうものをもった者が、日本を救う。将来、日本の霊界を支配する基準になる。現世においては目立たなくても、未来の霊界に行きましては、数多くの超民族的世界万民を、神の代身として、支配しようとする者となる。神はそういうような、我々統一教会の青年を願っている。未来への伝統を立たさなければならない。こういう現実において、我々にそういうような実体者を願っている。そういう者が、いわゆる統一教会の青年でなければならない。  

 十字架を堂々と歩んだイエス様

 旧約、新約時代の歴史を顧みて、神の心情を迎えるために涙ぐんで、十字架の道を堂々と行きつつ、神様の心情を慰めて死んで行くようになる子供となければならない。神様の歴史において、現実的世界のその道を開く伝統を立てたのは誰か? イエス様である。ゲッセマネの祈りにおいて、血潮を流すような痛みを感じながら祈ったのも、それは神の伝統をもたらすためである。神の伝統を、正統にこの地上に残すために、もがくように祈祷をなさざるを得なかったイエス様である。そういうことをして、この地上に初めて、人間世界の開拓の道の第一人者としての伝統を立てたのがイエス様である。そのイエス様の伝統を、正統に受け継いで、それを公的世界に発展させていくのが宗教である。善なる伝統を受け継いで、後孫へ後孫へ与えていって、キリスト教となった。 キリスト教の教える心情圏は一つである。目的に向かう希望と心情圏は一つである。それを一つにするためには、神に立ち帰らなければならない。まずもって、統一教会は神に立ち帰る。神様の心情圏に立ち帰らなければイエス様の心情圏は分からない。イエス・キリストもキリスト教の伝統も分からない。未来のその希望の伝統も分からない。神に立ち帰って、再びこの地上圏の生活圏内に、あるいは教会圏内に宣べ伝えていこうというのが統一教会の今までやってきた道である。分かりましたね? (はい) 。まずもって、縦的関係の心情を体恤しなければならない。神に指導を受け、理想的人間にならなければならない。分かりました?はい) 。 

  失っている三つの心情

 堕落した人間においては、一遍に三数を失ってしまった。アダムは神の子供である。エバは神の娘だね。子供としての心情、子女としての心情を失った。それから、兄弟同士の神の愛を中心として愛すべき、それを失ってしまった。エバはアダムを殺してしまったね。アダムはその兄さんである) にもかかわらず、エバに引かれて、エバを主管できなかったね。善なる兄妹でなく、悪の人間となり、だから善なる夫婦が堕落して悪なる夫婦になった。神の愛の心情圏を一遍に失ってしまった。一遍に失った心情をいかに復帰するや。だから、復帰のそういう立場に立った場合には、男の子は兄さんと同じような思いがわくよ。心情の世界に入ればね。 そうなったとすると、先生に対して自分は心情圏においては子供だね。兄弟の心情、親の心情、子供の心情、三心情を一遍に失ったのが堕落であるから、これをどうにかして、心情的に体恤し、復活圏を盛り返さないというと、完全復帰はできません。分かりました? (はい) 。  

 聖徒こそ神のために涙ぐむ

 心情復帰、神の心情、横的蕩減復帰、これらの蕩減復帰が始まるんだよ。一斉に心情圏が始まる。神のために、そういうことになった基、統一教会がこうなったもとを、いくら研究しても分からない。なぜ統一教会に気違いみたいに先生が命令しているか、心情一致して動くのか分らない。君たちは先生と心情一致して動くの? (はい) 。信じられません。男は天使長だよ。天使長、だから、統一教会の勇士におきましては、男としても、先生を見たくて涙を流すようでなければ、統一教会の聖徒ではありませんよ。先生を見たくて涙ぐむ者でなければ統一教会の聖徒ではない! 涙ぐむそういう子供になるんだね。それが先生のためではなく神様のためである。 先生は神の愛を中心に君たちを愛し、君たちは先生を愛し、神を愛し、君たち同士愛するんだね。それだけ愛すれば世界万民を愛せるんだね。君たちが先生を愛すると同じように食口を愛する。先生の願いは、先生が愛する以上に愛せ! それをすれば兄弟同士、自分の親以上に愛するようになるというんだよ。こういう伝統が日本全国に広がった場合には、日本は神様が、いくら滅ぼそうとしても滅びません。君たちは理論的に勝利する者ばかりではなくて、理論に先立って心情でなすそういう者となれ! 兄弟みたいに、兄さんみたいに、弟みたいに、妹みたいに、親みたいに愛するそういう群れとなれ! そうなった場合には、その食口の友達に「来るな」と言っても、もう見たくて見たくて来るんだよ。先生はそうだよ。同級生の親友はみんな先生のところに来る! それは何しに来るや? 誰にも相談する者ないんだよ。神の心情圏を相続する、それを実践するところに、そういう理論があって、神と一つになるようになる。そういう伝統を立たせるんだね。 そういう覚悟でもっていま一度目的に向かってやりたい者、手を挙げて。(はーい)。そういうふうにやりましょうね。その次、神の伝統を万民に促す。よみがえらせる。そういう統一勇士、そういうふうになりたい者手を挙げて。(はーい)。それを先生は信じています。

















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