神様の摂理から見た
  南北統一

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第五節 人類が行くべき道

一.誰がこの世界に責任をもつのか

1 神様が探し求めていらっしゃる世界はどのような世界か

 今日のこの時代は終末です。何の終末でしょうか。個人完成を完結させるべき終末であり、家庭完成を完結させるべき終末であり、民族完成を完結させるべき終末であり、国家完成を完結させるべき終末であり、世界完成を完結させるべき終末であり、ひいては天宙完成を完結させるべき終末だというのです。ところが、今日の人類はこの事実を知らずにいます。このような大課業を率いてきた神様の心情を知らずにいるのです。

 神様が六千年間あえぎながら探し求めてきた歴史的な終末時代において、神様は理念圏内に人類を追い出しましたが、人類は神様が願われる方向へ進むことができなかったので、不幸になったのです。今日のこの世界は、世界的な型は備えましたが、実質的で内的な面においては神様が干渉できない立場にいます。

 では、これをどうするのでしょうか。私は世界に向かって叫びたいのです。神様が尋ね求めていた歴史的な人はどこにおり、エジプトで苦役を味わい、神様が抱いて愛したその民族はどこに行ったのでしょうか。王の中の王として、この地上に来られたイエス様の愛を受けようとしていたその民はどこに行ったのでしょうか。生前に手に手を取り、心と心を分かち合いながら、心情と心情でたたえることのできる、神様が探し求めていた一つの基準がなくなったので、これ以上恨めしいことがどこにあるでしょうか。

 神様は必ず取り戻されるはずです。真の神様であり、真の内容をもった神様だとするなら、その神様は何を取り戻すでしょうか。真の個人、真の家庭、真の社会、真の国家、真の世界、そして真の主権を通して天上と地上に神様の心情が動くことのできるその世界を取り戻されるはずです。

 皆さんは、個人ならば個人として、また家庭ならば家庭として、民族ならば民族として、国家、世界全体が血統的因縁だとか、伝統的に伝わってきたすべての因縁をみな断ってしまい、清算しなければなりません。そのような心情の基準を探し立てなければなりません。

 神様が探し求めていらっしゃる世界はどのような世界でしたか。その世界は真の世界、真の父母がいる世界でした。しかし、人間が堕落することによって、堕落した血統の父母はもちましたが、神様が永遠に愛することのできる本然の真の父母は失ってしまいました。皆さんがどんなに優れていたとしても、大きなことを言うことはできないのです。どんなに大きなことを言っても、堕落した父母の氏族になることしかできないのです。誇るべき何ものもない存在です。

 神様が真なる父母だといって、手を取って祝福し、天地万象が永遠に歌うことのできる本然の父母はどこにいるでしょうか。消えてしまいました。消えたのも歴史過程で消えたのではなく、歴史の最初から消えてしまったのです。その恨を誰が解いてあげなければならないのでしょうか。そのことを知らなければなりません。

 そうであるなら、本然の父母はどのような父母ですか。永遠無窮にいらっしゃる神様を父として侍り、子女として生きることのできるお方が真の父母です。そのような真の父母がいなくなったのですから、人類はその父母を必ず探さなければならないのです。

 今日我々が生きているこの地上は、我々の地ではありません。我々がもつべき理念の地ではありません。我々と真の父母との因縁を連結させ得るものは何もありません。

 それゆえ、統一教会の教会員は、統一の心情を備えた人とならなければなりません。看板が問題ではなく、その内容が問題です。その事実が問題だというのです。真を探してさまよう良心の声が、自分の心に聞こえてこないというのなら、その真に訴える内容を標語としてつけておくことができなければなりません。このような観点で見るとき、真の父母、真の夫婦、真の子女、真の民、真の万物、真の主権、真の宇宙が、真の神様の心情を通して、動ずれば動じ、静ずれば静ずることのできる、その一時をいっぺんに合わせるその日が、人間世界においての終末となるのです。

 それでは、これらすべてが願っている再臨時代はどのような時代でしょうか。天変地異が起こって人の体が空中に、ぷかぷかと浮かんで上がっていく、そのような現象が繰り広げられる時代ではありません。そのような全くでたらめな妄想をしてはならないというのです。先生も過去にはそのように思ったこともありました。ゆえに、その内容を相手として闘ってきたのです。

 では、その時代はどのような時でしょうか。絡まった曲折の悲運の歴史を蕩減して、個人から家庭、社会、国家を経て世界に通じ得る時です。個人を立てて、縦的にまとめられた全体の型を横的に連結させて、歴史的な個体、歴史的な家庭、歴史的な社会、歴史的な国家、歴史的な世界を成し遂げる時です。そこで生きることのできる日、その日を取り戻すことが我々が善を願い、真を願う目的だというのです。(一九―二四一)

2 誰がこの世界に責任をもつのか

 世界に誰が責任をもつのでしょうか。大韓民国が問題ではありません。神様がいらっしゃるならば、「神様、この世界を誰に任せますか。この世界をどの国に任せますか?」と尋ねてみたくはないですか。今、皆さんも知っているとおり、脱イデオロギー時代を通り過ぎているのです。今現実的な生活の中で価値観の没落などさまざまな現象が繰り広げられています。

 今我々の行くべき道はどこでしょうか。これが大きな問題です。我々の行くべき所はどこですか。アメリカが行くべき所がどこですか。共産党が行く所がどこですか。実は共産党が問題なのです。四十億人類は今後どこに行くのでしょうか。魚の群れになっても、漁師がそれを全部捕って食べることもできないのです。この時ここに加担して、資源の欠乏問題とともに人口の膨張問題、公害問題、住居問題が深刻な競争時代において、これをどのようにしても、解決して平和のムードを造成する方法がないというのです。ですから、絶望にぶつかってあえぐ身の上になりました。

 では、誰がこの世界に責任をもつのでしょうか。深刻な問題です。大韓民国もそうなのです。共産主義も自分の民族的な精神を、民主世界を指導するアメリカも、汎米国主義を越えられないのです。自分自体の守護のために世界を放棄しなければならないという民主主義になれば、世界をリードすることができないのです。自分自体を最後の犠牲物として数百回誓って押し通し、死んだとしても世界に行こうという思想をもって世界人類を抱き、より次元の高い理想の国へと前進できる、そのように思想的に団結した体制に属したある民族、ある宗教団体にならなければなりません。このような団体があるかといくら見ても今の既成教会ではありません。

 アメリカを見れば、真にかわいそうなのです。形なしに、すべて没落してしまいました。神様を語るのが恥ずかしい段階になったのです。牧師の威信はすべて地に落ちました。それを誰がつくったのでしょうか。人間がつくったのではなく、神様がつくったのです。そのような中に東洋人であるレバレンド・ムーンが来て、賢い青年たちを全部集めて、反撃戦をしました。それを神様がさせたのです。私がしているのではないのです。

 それでは統一教会の文先生はどのような人でしょうか。他でもありません。自分の民族よりも怨讐をもっと愛することができるというのです。簡単です。それが神様の思想なのです。神様は怨讐の子供、サタン悪魔の息子、娘であるこの人類を救うために、自分の息子を犠牲にしたではありませんか。自分の忠臣と自分の僕たちをすべて犠牲にして、悪党、怨讐の息子、娘を救ってあげるためのみ業をしたので、サタンも神様の前では頭を下げるのではないですか。サタンも「神様!」と言いながら、そこから屈服するのです。このような思想を、皆さん各自がもたなければなりません(八一―二二〇)

3 混乱した今日の世界を収拾していく主体は私

 神様の願いのみ旨に従って立ち上がり、イエス様を信じるキリスト教信者たちが行く道も、どのような国に行くにせよ、ぶつかるようになればすべて殉教を被り、迫害を受け、人の扱いを受けずにきたのです。このような群れを指導し、このような群れの側に立って彼らを擁護し、導かなければならない神様がどれくらい悲惨だったでしょうか。

 このように、キリスト教が二千年の歴史を経ながら今まで発展してきて、民主世界という巨大な体制をつくってきましたが、現代においてはこれが没落状態で、行き来することのできない現実にぶつかったのを見るとき、苦労した神様の願いをどこにとどまらせるのでしょうか。

 神様がこのような版図を広めておいたキリスト教、全世界に散らばったキリスト教が、今日、余地なく破綻していきつつあるというのです。教会自体が、またそのキリスト教の理念を中心とした国家自体が、方向を見つけられず、神様を否定し、イエス様を否定し、神様のみ旨を、摂理を否定して、神様がいないといい得る段階まで来るようになった事実を眺めるとき、あきれるではありませんか。

 では、このような神様が今まで耐えて、世界的な発展をするときまで投入した、その犠牲のすべての与件は誰のためのものなのかというのです。それはアメリカのためのものでもなく、キリスト教のためのものでもなく、結局は「私」一人を救うためのものです。送ったメシヤを十字架で逝かせたことも、結局はそのメシヤ自身のためのものではなく、国を救うためのものです。また再びこれを延長して、再臨という思想を中心として新しいキリスト教の体制を横的に拡大させ、世界的な範囲まで発展させて終末まで率いてこられた神様が、キリスト教を発展させた歴史も誰のためなのかといえば、「私」のためのものです。結論はすべて「私」に帰結するのです。

 では、今日の民主世界が没落状態に臨んでいますが、そのようになったのは誰の責任かといえば、人間です。人間が過ったからです。その人間の代表は誰ですか。「私が代表である!」このような結論が出ます。

 そのような代表的なある人が現れて、自ら神様の内情を知って、「この時代の責任を果たそう。人間が歴史時代に神様を通して負ったすべての負い目を清算し、堂々と神様の前に善なるものを、負い目をなくすことのできる余力を返してあげられる自分になろう」という自覚をしなくては、今日、このように混乱し、このように落ちた人間を下に落ちないようにせり上げる道がないではないかと見るのです。(七七―四六)

 皆さんは、自分の体を中心として、この民族とこの国のためにどれくらい祈祷してみましたか。三十億人類のために、皆さんの子供たちが死んでいくという、そのような深刻な心情で祈祷してみましたか。

 世の中に悲惨なことがあれば、その悲惨さを味わう当事者以上の悲惨な心情をもってみたのか、神様を代身して世界人類を考えるそのような生活をしてみたのか、信仰態度をもってみたのか、というのです。

 皆さんは、すべて漠然としていて、観念的です。漠然とした立場では絶対に蕩減復帰できません。前後関係を正しく立てなければならないのです。家庭を犠牲にして氏族を救わなければならず、氏族を犠牲にして民族を救わなければならず、民族を犠牲にして国を救わなければならず、国を犠牲にして世界を救わなければなりません。これが蕩減復帰の鉄則です。

 皆さんは皆さん個人を犠牲にして家庭を救い、氏族を救い、民族を救い、国家を救い、世界を救うためにどれくらい精誠を捧げましたか。

 この問題について見るとき、皆さんは自信がありません。それゆえ、皆さんにはそのような基準に立った代表者が必要なのです。そのような基準の代表者として、全人類の絶対的な基準として来られるお方が再臨主です。(一六―一一〇)




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