神様の摂理から見た
  南北統一

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二.相反した二つの目的をもった人間

 我々個人は、相反する二つの目的、方向をもった人間になりました。これは誰も否定できないのです。心は善なる所に行くことを願うのに、体はその反対に行けというのです。「私」という人は、間違いなく心と体が合わさってできていますが、この二つが闘っているのです。

 そうした個人、すなわちそうした男とそうした女が合わされば家庭になります。ところが内なる人と外なる人があるために、夫婦が会えば四人の型が起こり、別個の異なる行動をするようになるのです。もし一つの家庭に八人の家族がいれば、その八人の家族は相反した十六人の家族のような方向をもった家庭になるというのです。また一つの家庭を中心として見る時、家庭同士で相反した立場に立つようになるのです。このようにして一つの氏族ならば氏族、宗族ならば宗族、民族ならば民族、国家ならば国家、世界が分かれるのです。ところが有り難いことは数百、数千に分かれず、大きく二つに分かれたということです。これが不思議だというのです。

 それゆえ善悪の本質を見る時、それは根本的に違うということを知ることができます。善は全体の利益を追求するものであり、悪は全体もなにもないとして自分個人だけのために生きるのです。悪なる人には家庭も親戚も国も世界もないのです。その反面善なる人は私よりも家庭を、家庭よりも町内を、町内よりも国を、国よりも世界のためにしようとします。

 今まで歴史は、自分のために生きる面と人のために生きる公的な面を中心として、闘いで連結されてきたのです。神様がこの世の中を見る時は、この体を中心とした悪の根拠を破綻させて、根を抜いてしまうことが絶対的な要求なのです。その反対に良心やら何やらというものを無慈悲に破綻させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求なのです。

 それゆえ、そのように闘いながら歴史を結んできました。良心を主とした神様の側と体を主とした、神様はいないと言いながらひたすら食べてみようという物質を主とした悪の側が対立して闘うのを見て、この世の人類はこのように唯物主義と唯心主義に分けられざるを得ないという結論を下すことができるのです。もし神様がいないならば、このような結果の世界は来ることができないのです。悪は嫉妬、分裂、闘争を強調して自滅を招来するようになるのです。

 このように見る時、理想や統一などというものはどこで展開されなければならないのでしょうか。結局は世界よりも根本に入っては「私」なのです。根本に入っては我々個人なのです。(五三―一一)

 我々個人をおいて見れば、二つの目的をもって生きているということを我々は知るようになります。心が願う目的がある反面、体が願う目的があります。体と心が歩調を合わせて行くのではなく、いつもお互いに闘うというのです。前後、あるいは左右にごっちゃになりながらお互いに闘うというのです。このように一生の間闘っているのです。これは我々自身はもちろんであり、過去に生きた数多くの先祖たちもそうでした。今後我々の後孫たちも同じなのです。すなわち、心と体が闘っているというのです。心は善を行えと体を促しています。かわいそうな人がいれば助けてやれといい、自分は困難でも多くの人のために犠牲となり、助けてやらなければならないと強調しています。しかし体はそれと反対の方向を取っていっていることを我々は知っています。

 そのような立場で我々個人が絶対的にしなければならないことが何かというならば、体と心が闘う自分自体内において、心を中心として体を完全に征服し、体の勝利の基盤を築いていかなければならないというのです。そのようにする前には、善を主とした一日の生活と、一年の生活と、あるいは十年の生活と一生を残すことができないのです。善だけを主とすることのできる「私」として、変わらない私にならなければなりません。そうした一人の「私」になることが何よりも重要です。(四一―五九)

 体と心が完全に擦れ違って体はこっちに行こうといい、心はあっちに行こうというのに統一できますか。皆さんの体と心は毎日のように闘いますか、友達としてうまく暮らしますか。(闘います)。闘う、闘う! すると皆さんはどちら側に立っていますか。両側に同じく立っています。体が好む方に行こうという一つのやからと、心が好む方に行こうという一つのやからがいるので、皆さんには二つのやからがいます。(五九―一七七)




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