神様の摂理から見た
  南北統一

(全面表示) 戻る


二.人本主義と神本主義

1 人本主義が理想となることはできない

 神様が宗教を好まれるならば、サタンは宗教を嫌います。互いに反対なのです。間違いないでしょう。(はい)。ですから、終わりの日にはどうなるかと言えば、神側の世界とサタン側の世界を分けるということが起きるのです。ですから、必ず宗教に反対する世界と、宗教を支持する世界が現れるのです。この結論は当然のことです。そして、ここにどのようなことが起きるのでしょうか。人本主義か、神本主義か、という問題が出てきます。

 そのような観点から見る時、人本主義思想は神様の側に行くものではなく、悪魔の側に行くのです。神側は善なる世界です。二つにきっちりと分かれるのです。今、我々が住んでいる現実においてこのような結論が出てきている事実を、我々ははっきりと知らなければなりません。今はどのような時ですか。人本主義圏内で全体を攻撃する時です。

 では、この世界はどのようになるでしょうか。希望があるでしょうか。全世界は絶望するほかないのです。東洋の言葉では、絶望と言えば希望が尽きたという意味です。終わりになったというのです。ですから、人類歴史は既に絶望にぶつかっています。なぜそのようになったのでしょうか。人本主義化することによって、そのようになりました。全体が人間を中心とする、人間を主とした世界を考えたために、そうなるほかないのです。

 人間は堕落しました。我々は堕落の後孫です。その堕落の後孫を崇尚したのですから、絶対に良くなるわけがありません。それならば、我々はどのようにしなければならないのでしょうか。堕落した人間として、堕落していないものを崇尚しなくてはなりません。堕落していないものを崇尚しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。宗教を通して神様へと帰っていくということです。ですから、神様を崇尚する民族、天を崇尚する主義、神様を崇尚する世界があるならば、それは滅びることができないのです。反対ですから、そうなるのではないでしょうか。ところで、今に来て、人本主義によって宗教とか神とかいうすべてのものが否定されています。否定しているのです。崩壊しています。

 では、ここにおいて問題となるものは何ですか。我々人類は、人本主義を主としては生きる道がないのです。そのような結論が出てくるために、今、神様について再び検討し、過去の宗教を検討して人本主義を凌駕できる、神様による新しい宗教観を、新しい神観を構築しなければなりません。そうしなければ、人類は生きることができないという結論が成立するのです。それを理解できますか。(はい)。そのような運動が、世界的な運動として至急に全世界化されなければ、絶望状態にある今日の人類を救うことはできないのです。(八三―一二八)

 人本主義は理想主義ではありません。人を中心としたものは理想主義ではないのです。人を中心として、全部吸収するというものが人本主義です。人を絶対視してみんな吸収しようとするのです。しかし、人間自体をじっくり見れば、みんな利己主義者であると同時に自己所有主義者です。利己主義者であると同時に、自分が全部手に入れようとするのです。すべてのものを自己に帰着させて所有しようとするのです。利己主義は、言うならば、所有主義と通じます。(一六四―三二二)

2 人本主義の歴史的推移

 今日我々人類は、十二、十三世紀から人文思潮が発達し始め、十六世紀後半期に入っては、神様の実存を否定する人本主義思想まで出てくるようになったことを知っています。(四二―三一三)

 文芸復興を基点として人本主義が発展することによって、神様を追放する歴史が今までつづられてきました。(三〇―三〇一)

 旧教を中心としたローマ教皇庁が全体をしっかりと握り締め、神様の名前をもって恐喝をしてきたのです。神様の名前をもって、「お前は地獄に行く」と言うのです。それは脅迫です。一面、脅迫です。

 しかし、理性的な人がよく見ると間違っているのです。そこから、反対が出てくるのです。「宗教が人間に何で必要か」と考えるようになったのです。このように複雑になり、神様を離れた人本主義思想から、次に物本主義の唯物史観へと落ちていって、「神様はいない」という立場で世界のすべてのものを収拾しようとしました。しかし、収拾できませんでした。(一六五―六四)

 人本主義思想の発露によって、神本主義思想の侵食が起こったのです。そして、人本主義の末路時代が来ました。(九三―八三)

 主義の変遷を見れば、神本主義から人本主義へと落ちて、人本主義から物本主義へと落ちたのです。今すべてがそうです。その次は物本主義から亡本主義でしょう、亡本主義。(笑い)ディスコダンスを踊る、これが何の主義ですか。亡本主義です。このように落ちてきたのです。これが最後です。(一九八〇・五・一)

 神様を離れた人類が無神論に立脚した物本主義、反神論に立脚した世俗的な人本主義、享楽主義などに便乗して到来した世紀末的な終着点です。このすべては、この世代の精神的、霊的枯渇と信仰心の衰退に根本原因があるという結論とともに、宗教者たちをむち打っているという結論を下すことができます。(一九八五・一一・一二)

 我々人類の歴史過程をしばし振り返ってみれば、中世以後に不確実な神学を中心とした神本主義思潮が一時世界を風靡しましたが、その神学的思潮が退廃の一路を行くことによって、人本主義思潮が出現したことを我々は知っています。人本主義思想が現れて、現代の世界に今まで影響を与えてきている事実を見ることができるのです。しかし、それも我々人類の前に希望をもたらしてくれる主義と思想になることはできず、それに背反する立場に立った唯物主義、言い換えれば、物本主義のような共産主義思想が現れて世界を風靡しており、そのゆえに我々人類の将来に暗澹たる方向を提示しているということがよく分かるのです。(七七―二八二)

 今、我々が生きているこの世界は混乱した世界であることを、皆さんはよく知っています。中世以後没落し始めた明らかでない神本主義時代を経て、今に来ては不確実な人本主義時代に置かれています。それのみならず、物本主義ともいえる唯物主義時代に置かれているのです。このようなすべてのことが混乱上に置かれた状態から歴史過程を経ながら確実な内容を提示できなかったために、今日人類は脱イデオロギーという収拾できない地点に置かれていることを、我々は直視しています。

 ですから、我々に今問題となることは、人がいないことでも、物質がないことでもありません。神様に対するはっきりした観が現れないことが問題となると見るのです。はっきりした神観が設定され、その神観を通して眺める人生観、その神観を通して眺める唯心史観を新しく設定しなくては、人類世界の新しい将来が現れることはできないと見ます。では、ここで問題となることは何でしょうか。我々がはっきりと神様を知るならば、中世に没落し始めた明らかでない神観、現世の人本主義思潮、唯物主義思潮のすべての問題は解決すると見ます。(七七―二五七)

3 人類の起源について正さなければ
 
 今日、この世界は結局何をもたらしているのでしょうか。私という人間は心と体が一つになれなくて戦っている存在です。このように、心と体が一つになれなくて相反している、私と同じ人間を合わせたのが世界の三十六億人類です。この世界は心と体が戦う人間を合わせた結果の世界であるので、戦いが起こらないではいられません。そうではないですか。言い換えれば、心と体の戦いが世界の戦いの形態としての結果を成しているのです。それで、人類は長い歴史過程でたくさんの犠牲の代価を支払ったのです。これが、この世界が経てきた歴史であり、また、今日の現実であることを我々は知らなければなりません。

 このような世界を収拾するには、ある主権国家だけをもってはできません。では、どのようにしなければならないのでしょうか。心を中心として全部が勝利できる、真なる動機と結果の内容を提示しなければなりません。そのようにする日には、世界のすべての問題が解かれていきます。

 では、世界の戦いは誰がやめさせるのでしょうか。世の中にある今日のどのような主義、思想をもってもできません。人を中心とする人本主義思想をもってはできません。なぜできないのでしょうか。人の心が自己から始まりましたか。もしそうであるならば可能です。人の心が人から始まったならば可能なのです。そうであるならば、人本主義を中心として世界は一つになるでしょう。

 太初の人類の始祖は、自分の心が動機となって、生まれなければならないと言って生まれたのですか。人間はどこまでも相対的な存在です。「主体的である」とどんなに大声を出して言い張っても相対的なのです。ですから、人本主義思想の終末は否定的な結果に逢着します。ですから、今は私が好むものを否定しなくてはなりません。今日、先進国家の文明が好ましいと主唱してきたもの全部を否定しなくてはなりません。このようなことが起こらなくてはならないために、今アメリカではヒッピー族たちが大変です。それは歴史的な贈り物です。天倫に背いた悪に対する報応です。

 では否定的世界の終着点に差しかかるこの時に、我々はどのようにしなければならないでしょうか。人本主義思想をもっては解決できません。物質第一主義、物質万能主義によってもできません。良心が、人間を存在するようにした動機となることはできないのと同じように、物質もその動機となることはできません。ですから人類の起源について正さなければならないのです。

 ところで、十三世紀末葉から始まった文芸復興当時の思想が、神様の名前の圏中から人間を剥奪するために攻勢を取って出てきたのです。そして、結局は歴史を経てきながら今日に至っては、「神様は死んだ」という結論にまで到達するようになりました。それでは人は生きたのでしょうか。神様が死んだならば、人間は滅びなければなりません。神様が死んだならば、人間は生きたのでしょうか。神様が死ぬ前に人が先に死んだのです。死んで 屍 となった群れが、「神様は死んだ」と騒ぐのです。

 そのような社会制度では希望があり得ません。すなわち、人本主義思想と唯物思想、共産主義体制によっては、人間の幸福の基台をつくることはできません。人間が社会生活において人間の理想と果たすべき責任をどんなに遂行したとしても、それは流れていきます。否定を受けなければなりません。なぜそうなのでしょうか。心の前に体はいつでも否定を受ける立場に立つので、体を主としたものは否定を受けなくてはなりません。

 今日、共産主義国家は神を否定し、良心を否定し、人格を否定しています。共産主義は唯物論を中心とした論理法度圏内に人を追い入れています。しかし、人は、論理とか理論を支配するようになっているのであって、束縛されるようにはなっていません。愛の世界は理論が支配できません。

 理論によって、お父さんの愛はどうであり、お母さんの愛はどうであると言うことができますか。理想的な愛が理念に吸収されるならば、その愛は我々人間に必要ではありません。そのような理論はつくることができません。(二二―二二四)

4 すべての思想は神本主義に帰結しなければ

 このようなすべての問題、価値観の没落や脱イデオロギーなどという問題がなぜ起こるのでしょうか。それは、我々人間を中心としてすべてのことを処理しようとする結果によってもたらされたのです。

 そのため、このような新しい未来を追求するこの時期において、このすべての問題をもう一度収拾できる一つの道があるとするならば、人間を超越した神様がはっきりと存在するのかどうか、絶対的な神様がいるのかどうか、という問題をはっきりと解明するところにあります。言い換えれば、人間側で見る主義、思想ではなく、神側から見る主義、思想がどうであるかということを発見しなくては、我々人類の将来に新しい所望の世界を迎えることはできないのです。

 はっきりとした神観に立脚して、人生が何であり、物質が何であるのかという問題に対して、これを別々に分立して扱うのではなく、一つの中心的な絶対者と共にその統治圏の中で解決することのできる、そのような道がなくてはならないという結論は当然な結論と言わなければなりません。(七八―九九)

 今日、右翼にしても左翼にしてもすべて人間の意図です。今日、良心主義とか、私だけを中心として生きればいいというのは、すべて人間主義です。みんな人本主義です。人本主義の出現が人間の堕落ではないですか。神本主義を主とした人本主義の形成は認定できますが、神本主義を否定した人本主義の形成が堕落ではなかったのですか。これを克服するためには、一度人本主義を否定して、神本主義を肯定したうえでの人本主義の肯定を再度追及しなければなりません。ですから、人は神様を捕まえて神様を絶対視しなくては、戻っていく道がないという結論を出すことができます。(五九―八九)

 今日共産主義も結果的なものを解明できず、原因的なものを解明できません。民主主義も原因と結果を解明できません。では、誰がこれを解明するのでしょうか。ここに登場しなければならないものが宗教です。ある宗教が現れ、「あなたたちはこのような動機から始まり、このような結果に向かって進んでいく過程にいる」と主張すれば、それを大多数が公認できる解明基準で立てなければなりません。その解明基準は人本主義ではなく、神本主義でなければなりません。(一〇―一五九)

 ここで我々は、確実で真なる神様がいらっしゃるとするならば、人間を中心として要求したそのような主義と思想を超えていかなければなりません。真なる神様が見つめる神本主義、真なる神様が公認できる人本主義、真なる神様が認定できるそのような唯物主義があればいいのにという考えをもたなければなりません。このすべてのものが離そうとしても離すことのできない世界、神様から公認を受けることのできるそのような一つの世界はないのだろうか、という考えをしないではいられない段階に入ってきているのです。(七七―二八二)

 神様の創造目的は神本主義的人本主義を立てることです。人間が天に向かって進んでいく以上、民主主義も神本主義の理念を立てていくのです。(一〇―一一八)

 今まで、世界で二十世紀の文化世界を創造して先進国であると自慢する国々は、自分たちはどのような哲学も思想も見習う必要はないと言います。ですからそれらは、神様の真理によって革命しなければならない圏内にあるのです。共産主義理念も同様に、神様が喜ぶことのできる真理ではありません。(二〇―一〇七)

 唯物思想は、必然的に滅びなければなりません。だからと言って、民主主義が歴史的で時代的な勝利の条件をもっているのでしょうか。そうではありません。勝利の条件なしに未来の勝利はあり得ません。では、そのような条件をもつことができなかった宗教はどのようにしなければならないでしょうか。全世界のキリスト教徒は連合しなければなりません。今は未来的なものが現れなければなりません。今に来て、いくつかの宗教が過去に帰ろうと主張しますが、今日の情勢は過去とは違います。過去のものによって、今日の状況を処理していくことができるでしょうか。過去に帰っていっては、行くことができません。歴史的で時代的な実績があってこそ、未来的な足場を立てることができます。ですから、過去、現在、未来に通じることのできる理論が現れなければなりません。(一一―二五三)

 共産主義とは人間を中心としたものであり、物質を中心としたものです。人間も変わり、物質も変わるのです。それは変わる人間を中心としたのです。人間が主張するものは変わることができるのです。そうでしょう。ですが、神様が主張するものは変わらないというのです。それでは、神様が主張する善と神様が主張する義は何ですか。天と地のために生きることです。これは変わらないのです。(八七―二六一)

 我々が世俗的人本主義思想に対した問題を収拾するために、一つの方向をもって現れてきたのがカウサ運動です。(一九八六・五・六)

5 中世神本主義の欠陥

 今、唯物論をもってはできない理由が何でしょうか。唯物論は何を排除したかと言えば、神様を排除してしまい、人間の価値を排除してしまいました。唯物論には、人間の価値がないのです。ですから、むやみに虐殺するのです。これが問題です。唯物論は神を排除して、人間の価値を排除してしまいました。

 また、民主世界を代表した人本主義はどうかと言えば、神様を排除すると同時に、唯物論社会を主張します。物質主義者たちを歓迎するのです。それが病弊です。ですから、彼らも神様と関係がないのです。かえって、共産党と同じ側にいます。では、唯物論者と人本主義者ではどちらが優勢ですか。人本主義者よりも唯物論者が優勢なのです。ですから、人本主義理想を叫ぶ人たちは、結局、唯物論者たちに屈服してしまうのです。唯物主義を叫ぶ人たちは、人格も認定せず、神様も忘れてしまったのです。そこには理想があり得ないのです。

 そのような意味から、神本主義を主張するのです。神本主義の中には、人本主義も入っていくことができ、物本主義すなわち唯物主義も入っていくことができます。なぜですか。神様が人の人格を尊重して愛の対象的価値を認定して、また、物質を中心とした象徴世界の主体として人間を造られたために、物質と関係したそこにも人間の価値を認定するというのです。ですから、神本主義思想圏内には、人本主義も物本主義も包摂できる基盤があると見るのです。

 「ゴッディズム(Godism;神主義)」と言えば、相当に包括的であり、いろいろな意味が入っています。ですから、統一主義とか神主義とか言うのがよいのです。神本主義と言えば、中世封建社会の神本主義という哲学思潮を連想してしまいます。

 その哲学思潮は何ですか。その当時の神本主義では、神様と人間と物質を中心とした統一的理想主義に帰っていくことはできないというのです。神様の理想圏内に入っていこうとすれば、人格的神様をはっきりと知らなければならず、その人格的神様の前に対象的な人間の価値をはっきりと知らなければならず、人間の対象である一つの物質の価値をはっきりと知らなければならないのです。

 そのようにして、それが、一つに和合できる主体的内容に結合されなければなりません。その内容が何ですか。愛なのです。神様も結合され、人間も結合され、万物も結合される、これが理想世界です。しかし、中世の神本主義は、その境地を見いだすことができなかったのです。愛の神様として、愛を実践する神様の位置を見いだせなかったのです。神様に対する考えと言葉はありましたが、実践した人がいなかったのです。

 ですから落ちて、下がってきたのです。それが全部抽象的だと考えたので、独裁体制化して世俗的神本主義に落ちたのです。そうして人格を無視する段階にまで行って、自己を主とした基準は絶対視して、その他は絶対に相対性を否定する立場に立ったので、神本主義が全部そこで打倒されたのです。理想郷に接触できなかったのです。人格的神様に対してはっきりと分からなかったのです。そのような欠陥があるのです。(一六七―六六)

6 神様についての再発見が必要

 共産主義とはどのような主義でしょうか。物質主義であると同時に無神論です。「神様がいない」と言うのです。では、キリスト教、すなわち、言うならば西欧社会はどのような主義でしょうか。唯心主義であると同時に有神論です。この二種類の問題において、唯心、唯物の闘争、有神、無神の闘争で誰が勝つのでしょうか。

 ですから、ここで問題となることは何でしょうか。キリスト教が再び生きることのできる道は、神様についての新しい発見です。共産主義をなくすためには、共産主義は神様を否定するので、神様がいるという事実を教えてあげなければなりません。そうすれば、無神論は崩れるのです。神様についての再発見! 神様は最初から今までの歴史過程にも共にいらっしゃり、現在も共に歩んでいらっしゃるのです。ですから、歴史過程においての神様、生活をするところにおいての神様をどうやって明らかにするのかという問題は、至極重要な問題とならざるを得ません。ですから、今の時がどのような時として越えていっているのかを、はっきりと知らなければならないのです。このようになる日には、共産主義も神様を受け入れずにはいられません。

 では、アメリカ・キリスト教に神様がいるでしょうか。もちろん神様がいるならば、その神様の救援は個人的救援ではなく世界的救援を標準にするでしょう。

 共産主義は共産党を中心とした世界機構を通して動く世界主義的な連合戦線を取りますが、キリスト教をはじめとした宗教はなぜ分立した立場に立ったのでしょうか。それは、キリスト教が行くことのできる目標、全体の目標が決定できないでいるからです。共産主義は、資本主義打倒というはっきりとした目標が決定しています。神様がキリスト教を通して摂理するならば、摂理の目標がなくてはなりません。

目標を確定しなくてはならないのです。それは、共産主義者たちが提示した以上の目標でなければならないのです。そうなのですが、そのような観点から目標が分明ではありません。ですから目標を知らず、ジグザクに行っては精魂尽きて、社会の迫害があったり困難があって、そこで黙ってしまったのです。今、キリスト教信仰を見れば、どのような信仰でしょうか。主が来られたなら、世の中はみんななくなると思っているのです。これは、大きく、恐ろしいガンです。共産党は世界を占領しようとするのに、キリスト教徒たちは世界を逃避しようとします。そして、すべて自己の教派が第一であると主張するのです。その教派の目的が全部ぼんやりしているのです。十本の指ならば十本の指がみんな一度に動いて握らなければならないのに、一つ一つみんな別々に遊ぶのです。

 このように見る時、キリスト教徒たちが信じることとは違って、主が来られて世の中を審判して捨てない立場に立つならば、どのようになるでしょうか。火の審判をしてみんななくなるというキリスト教が信じることとは反対に、世の中がそのまま残る立場になればどれほど神様が難しい立場になりますか。キリスト教文化圏を中心とした終末時代は、必ず滅ぶほかはないのです。ですから、世界の終末的現象を見る時、神様がいらっしゃるということを前提として、歴史の終末時代に対処せざるを得ないと見るのです。(一九八三・六・一)




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送