神様の摂理から見た
  南北統一

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三.民主主義もだめであり、共産主義もだめである

 今日、人間は神様がどのような方であるか分からず、神様と自己との関係が分からずにいるために神様を愛さない立場に立っています。しかし、この関係を知ってこの因縁を結ぶ立場に立つようになるならば、神様を愛すまいとしても愛さざるを得ないようになっているのです。ですから、神様は一体の立場をつくるためにこの世界を収拾してきていらっしゃるのです。

 ですから、まず望みの帰一点を探していくために、今まで理念を中心として戦ってきました。これが今日、民主と共産の対決にまで至りました。しかし、この世界は、民主主義をもってしてもだめで、共産主義をもってしてもだめなのです。(一一―五八)

 民主主義や共産主義も社会悪をあばく方法を提示できないことは明らかです。根本的に、民主主義と共産主義は人類の共通的な問題解決の欲望から発展しましたが、民主主義はこのような課業に成功もできないだけでなく、共産主義の破壊活動を克服するとか阻止できないことが判明しました。共産主義はこれに反して世界問題を完全に解決できず、皮肉にも共産主義は人類にもっと大きな問題を惹起させただけです。

 したがって、世界は苦境に置かれるようになって、民主主義と共産主義は袋小路に至り、勝者のない状況に直面するようになりました。これが我々の現実であり、人類の将来は暗鬱で予測できないもののように見えます。

 では、民主主義と共産主義は、なぜ解決策とならないのでしょうか。二つの思想を注意深く分析すれば、二つのうちどちらも究極的な意味で真理の核心をもっていないことが分かります。民主主義は政治制度の根幹として貢献するかもしれませんが、決して明確で包括的な世界観ではありません。共産主義は、包括的であり体系的世界観をもってはいますが、それは偽りの仮定と歪曲した事実に根拠を置いています。(一九八三・一一・一五)

 今が終わりの時なのです。すべてのものが終わりです。民主世界も終わりであり、共産世界も終わりです。ですから、終わりに至ってはどのようになるかと言えば、共産世界も死の立場に入っていって、死ぬかどうかという様相であり、民主世界も今、滅ぶかどうかというこのような岐路に立ってうろうろしているのです。(一九七八・一〇・九)

 人類はすべてどこへ行くのでしょうか。私が探している理想世界はどこに行ったのでしょうか。人類は絶望しています。民主世界ならば民主世界自体を見るならば、民主世界が探している理想郷は、今日、現時点を超越させることのできる何らの主体性をもっておらず、相対性ももっていません。共産主義も共産主義自体として世界制覇を夢見て現れましたが、今は逆に紛争しているのを我々が直視しているのです。それは統一の形態を備えることができません。分裂に分裂を促して個人的共産主義化段階まで下っていくのです。(五九―八二)

 民主世界も終わりです。いくら民主主義といっても、民主主義時代は過ぎ去りました。共産主義世界時代も同様です。そうでしょう? アメリカが、「おお、全世界、民主主義世界よ! 一つになろう」と言って一つになりましたか。今、死ぬようになったのです。世界の人たちがアメリカを歓迎しますか。しません。アメリカをけって捨てなければならないと言っているのです。そうでしょう。共産主義も国際的共産主義時代から民族的共産主義時代に落ちたのです。国家的共産主義形態から世界的な共産主義をどんなにしようとしてみても不可能です。既に、それはみんな実践して過ぎてきました。(九〇―三〇三)

 果たして、民主主義や共産主義がこの世界を一体化させることができるでしょうか。彼らには世界を一時に消化できる内的な力がありません。本当に、この世界を一つにしようという思想があるならば、その思想はこの世界を消化できる内的な条件を備えなければなりません。(一五―五一)

 根源と結果を教えてくれるそのような思想が今までありましたか。共産主義ですか。物質をもってしてはだめです。彼らは原因も結果も分からずにいるのです。民主主義を構成している思想の中心はキリスト教ですが、キリスト教もそこまでは至っていないのです。(六七―二一七)

 キリスト教思想を中心とした民主主義はまだ福地を成すことができずにいます。共産主義も、まだ、その思想を中心とした福地を成せずにいます。このように全人類が願う福地は、現在の民主主義文化や共産主義文化では成すことができないのです。(一六―一六五)




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