神様の摂理から見た
  南北統一

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三.生きている間に統一を成し遂げなければならない
 
 今のこの時はどのような時ですか。摂理的な現時点なのです。神様の願いである国を探さなければならない時が、我々の目前に来ているのです。「この国が我々にかかっているのだ。私の手にかかっているのだ。私の勇猛かつ力あふれるこの誓いの声とともに、あるいは若い胸に躍る鼓動の音、喚声を上げ敵陣に向かって行軍する隊列とともに、この進軍にかかっているのだ」と、このようになれば、その光景を見ていた霊界の数千億の霊人たちも拍手をしながら歓迎するのです。地獄に行っている霊人たちまでも「どうか勝利してください。どうか勝利してください。私は顔を上げて行きますが、たとえ腹ばいになってでもやり抜くでしょう」と、このようなことも起こり得るのです。

 このように天地が動員され得る息の詰まるような刹那が、この一つの国を中心として何年かのうちに決定されますが、「よし、その決戦場に臨み血を吐いて倒れることがあったとしても男らしく、義をもって戦い、正義に基づく天の功臣として自らの命を捧げよう」とするなら、それですべてのことが解決されるのです。そこから新たなる歴史が始まるのです。

 我々はこのような一つの時を標準として歩んできたために、この一つのことを誓うための一つの願いがあるがゆえに、今まで家庭で排斥され、国から排斥され、数多くの教団から排斥されてきたのではないですか。天が望み、歴史が望み、人類が望む最後の決定的なその一日のために、荘厳かつ素晴らしい勝利をせよと、多くの人々を恨み多き運命の道に犠牲を強いながら歩ませたのではなかったでしょうか。それが我々の振るう一太刀によって、私の流す汗と私の行動によって連結できるとは、これこそ前代未聞のことではないでしょうか。それを自分の目で見ることができ、自分の感触で感じることができ、それを活動の舞台として戦うことができるならば、これ以上生きがいのある人生がどこにあるというのでしょうか。そのことを感じなければなりません。(五七―三五二)

 あなた方は屈することなく戦って、三十八度線以北へ駆けつけたいですか、それとも駆けつけたくないですか。あなた方が先生の故郷の地を踏んでみることもできずに死んだなら、霊界に行って讒訴されるのです。先生が暮らした故郷の山川に一度行ってみたいでしょう? そんなにきれいな所ではありません。きれいだから行ってみたいというのではないのです。分かりますか。(はい)。その時になれば先生が歴史について話をするつもりです。「私が昔ここで、このようなこともしたし、あんなこともした」と言えば実感がわくでしょう。この場所で釣りをする時にはどのような魚を釣り、この場所ではどのような遊びをしたのだと話せば、実感がわくのです。実験をしてみればはっきりするでしょう? 一度してみたいですか、それともしてみたくないですか。(してみたいです)。

 私が三十八度線を越えてきた時、「私は今一人で越えるが、再び越えていく時には、共産党が北満州に逃げ出すくらいに大勢の群衆と共に越えていくのだ」と決意しました。その決心をいまだに捨てずにいるのです。分かりますか。(はい)。一度行ってみたいですか。(はい)。そのためには金日成一党をあのシベリアの原へ追い出し、鴨緑江戦線が完全だという通告を受けなければなりません。そうした後で先生が故郷に帰って宴会を開くのです。その時にはカルビを四本の手、影の手まで使ってつかみ食いをするのです。影の手まで入れれば手が四本になるでしょう? 盛大に一度宴会をしなければなりません。金日成の六十歳の祝い以上の宴会をしたいというのが先生の考えです。かといって先生の六十歳の祝いを盛大にやろうというのではありません。六十歳の祝いをしようと言うのではなく、国を建てた解放を祝う宴会をしようというのです。分かりますか。その宴会を開けないまま死ぬことになれば大変なことになるのです。それゆえに我々の願いは何ですか。(統一です)。(五七―三五三)

 霊界で勝利的な栄光の土台を決定し、この地の上に一つの国とともに勝利圏を決定づけ、天の国と地上の国が統一された席で、父が栄光の宣布式をする前に、もし先生がこの地上にいなくなったとしたら、皆さんは哀れな人々になるのです。皆さん自身は「それなら父母の道を行けなくなるのではないか。しかし、真のご父母様に侍る子女という名分をもつ我々は、命が尽きる前に、死ぬ前にこの国を復帰しなければならない」と言わなければならないのです。そうして初めてイエス様の恨みと、四千年ぶりにイエス様を送られた神様の願いが解怨成事されるということを知らなければなりません。(四三―一五四)




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