神様の摂理から見た
  南北統一

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七.愛の実績と材料を残さなければならない

 南北韓を中心に見る時、我々は南韓において最も困難なことを踏み越えて行くことのできる群れとなって初めて、統一的な主体者となるのです。このような観点から、我々統一教会は民族のために犠牲になろうというのです。我々が今まで歩んでくるその過程においていろいろ困難なこともありましたが、私が願ったのは、共産党までも頭を上げることのできない材料を収拾するということです。労働者や農民のために主権を掌握するといって努力する共産党でさえも、統一教会の群れの前に「彼らは労働者や農民を自分たちよりも愛した」と言うことのできる事実を持ち出して証言し、その実績をもってきて比較をするのです。そうしてみて「間違いない」と言うなら、それは共産党も手の下しようがないのです。皆さんはこのようなことを知らなければなりません。(六一―二六三)

 私が皆さんに話したことは何ですか。共産党を目の前にして「誰が労働者や農民をより愛したのか、さあ包み隠さず話してみよう。国民に聞いて挙国的に調べてみよう」ということになれば、そのための話をする材料がなくてはならないのです。材料を残さなければなりません。準備をしなければなりません。それが必要な時が来たのです。

 「三年で足りなければ十年取り組んでみよう。十年で足りなければ二十年を、私の青春で足りなければ壮年まで、私の生涯をささげて取り組んで、民族の宿願である統一の方案、統一の思想的な枠組みを残してからこの世を去ろう。これが我々民族の願いではないですか。人が分かってくれても、分かってくれなくても我々は行こう! これが統一の道ではなかったですか。統一の思想はそこから起こることでしょう。統一思想が行くところには、共産主義を克服することのできる運動を提示しなければなりません。現地で遭遇する困難を克服し、どのような困難なときにもその視野を広げて見てくるということのできる、壮漢の群れをつくってみようというのが統一思想ではありませんか」

 その仕事を、ここにいる文という人物を中心に始めるなら敗北するかもしれませんが、神様を動機としてそのような過程を経るのなら滅びるはずがありません。統一教会の文先生は滅んでも、このみ旨は成し遂げることができるというのが、統一教会の文先生の所信です。

 我々は民族がこのように引き裂かれるとは全く知りませんでした。このようになるとは全く知らなかったのです。そうこうしているうちに、統一の運勢がこのように芽を吹いてくるとはとても思えなかったのです。ここで我々が全く知らずにいた背後に、いかなる解決方案があるのかということが問題になるのです。(六一―三七)




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