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人間の生と霊魂の世界
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第二章 霊界はどのような所か

一 霊界の実相と法度

 1.霊界は時空を超越した無限の世界

 霊界がどれぐらい広大無辺な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけで見てもそうです。二百二十億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が一秒間に三億メートル、一秒間に地球を七回り半回ることのできる速度で一年間進む距離を一光年と言いますが、それが二百二十億年かかるというのです。二百日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。それがすべて私たちの活動舞台だというのです。
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 神様は、時空を超越して存在するお方であられます。今日の時間や空間世界を超越して存在するのです。霊界に行けば、一年という年がありません。一年、二年、一日などというものがないのです。それは便利なことでしょう。寝もしないのです。霊界に行けば寝ないで暮らすことができます。食べないで暮らすことができます。思いのうちで食べて生きていくことができるのです。例えば、目である物を一度見て「いいなあ」と思えば、千年も万年も忘れられないというのです。そうであったら本当にいいでしょう。 
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 天国は太陽系のように一年を三百六十五日として地球のように軌道を回って、一日は二十四時間でという、そういうものはありません。私たちの言う一年、二年というのは、地球での話です。太陽系を中心とする惑星の立場から一年を定め、地球が一回り自転することを一日と定めているのです。霊界は、地球が一回り自転するように回ったり、太陽を中心としてその軌道に従って一年を回るという決まりがありません。朝なら永遠に朝です。そこには日や年の概念がありません。
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 霊界は時間と空間を超越しているので、一秒間に何億万里も行くことができます。広大な世界が時空を超越しているので、一秒間でも何億万里も行くことができるのです。広大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、何万年前が見えるのです。見えるのですが、何を見ようとするのでしょうか。他のものは見ません。誰に会いたがるかと言えば、男性であれば女性に会いたがるのです。そして、会ってからは、その人の心中にある本然の愛の大きさがどれくらいなのか、その人のもっている愛の量がどれくらい多いのか。これが測定基準となるのです。
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 霊界の中心は何ですか。それは絶対的な神様を中心として構成された世界です。その絶対的な神様がいるなら、その神様は天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。彼によらないものがないというのです。それに属しているために、それに属した全体はそれとともに感じ、それとともに因縁をもっているのです。例を挙げれば、私たち人間は約百兆個になる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭脳に連絡されるのです。
 天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在もそれと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、善でより次元の高い価値のものを追求しながら生きることは、神様を根源として始まったものです。それゆえ過程を経て根源と通じることのできる結果の世界にあるのが人生であると、このように見るのです。
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 神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は宇宙の存在世界の心のような方です。神様は宇宙の心のような方です。皆さんは心を見ることができますか。霊界は心のような生活の世界ですが、これは時間と空間を超越した所です。そこでは御飯を思いのままに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲み物の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住すべてのものを超越しています。そこでは億千万里をあっという間に往来するのです。何の力をもってでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいと思えば、さっと現れます。
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 動物がそうなのに、万物の霊長である人間は飛んでみたいでしょうか、飛んでみたくないでしょうか。ですから人間は飛び回るようになっています。霊界は飛行機なしに何百光年になる世界をあっという間に行ったり来たりします。一度行ってみたくないですか。
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 神様に「あらゆる昆虫までも飛び、鳩のような鳥も飛んでいるのに、人はなぜ飛べないのですか」と聞けば、神様が何と言うでしょうか。神様があの霊界の高い所から尋ねてくる時に歩いてくるでしょうか、さっと飛んでくるでしょうか。霊界は無限大の世界なのです。このごろは人工衛星が金星に行くのに、十四年間かけて飛びながら、キャッチして写真を撮って送ってくる時代ですが、この霊界は十四年ではありません。一瞬のうちです。霊人体は稲妻より速いというのです。それゆえ、霊人のように活動する神様についていきながら、共に愛の主体の対象になって生きようとするならば、飛び回らなければならないでしょうか、歩き回らなければならないでしょうか。この体では何歩も歩けません。
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 あの世の広大な大宇宙を見つめる時、ダイヤモンドの星がないと思いますか。黄金の星がないと思いますか。それがすべて自分の所有だというのであり、その楽しさで暮らすのです。神様がつくってくださった驚くべきものを自分が見て……。愛するすべての群れが、神様の愛する群れ全体が一つになって、大移動しながら暮らせる理想世界だというのです。そこに同伴者になり、同参者になってみたいですか。
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 霊界があるということを知っていますか。どのくらいはっきり知っていますか。この世界よりももっと確かなものです。その世界はどのような世界ですか。神様が「良し」と言える構想でもってすべてのことが可能な世界です。
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 考えてみてください。数多くの人が行っているのですが、一瞬のうちに彼らに祝宴を催しても余りがある理想世界です。霊界に行っているあらゆる国の人、何百億になるその人々を集めて、瞬く間に祝宴を催しても余りがあるのがそのような理想世界です。そのような世界、レバレンド・ムーンはそのような世界に向かっていくのです。この世を見つめていくのではありません。ここで、そこに合わせていくのです。
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 霊界に行ってみれば、男性、女性が一人の大きな人に見えるというのです。人は何ですか。皆さんはみんな一つの細胞のようなものになります。全宇宙がみな、男性、女性のように見えます。そのように見えるというのです。それは合わせたものです。このように歩けば、宇宙が歩くのです。その中に入った人は神様の細胞と同じです。一つの体になっているのです。
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 霊界では説明が必要なく、弁解が必要ありません。ちらっと見ればすぐに分かります。あの人が私の下なのか、横なのか、高い位置なのかすぐに分かります。何億年前のおじいさんであった人にも会えば、愛のその位階というものはすぐに……。その位階は絶対的です。その位階が高い人は自然にその位階に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、いい加減ではいけません。世の中とは違うのです。中傷、謀略して出世したり、そのような人はそれがすべて逆になっているのです。その反対になるのです。ですから正道を見なさいというのです。
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 霊界に行っている人間は何を願うのでしょうか。霊界は自分が置かれている基準ですべてのものを補給できる世界です。願えばすぐです。主体的な能力がある人なら不可能がない世界です。もし、百万人の祝宴を催すなら、考えると同時に百万人が広場に現れ、すべての準備が可能なので、百万人の祝宴を一瞬のうちにできるのです。そのような世界です。何が可能にするのでしょうか。原子力が分裂作用において熱が出るのと同じように、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬く間に可能になります。それはありそうな気がしませんか。
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 霊界がそうです。私が「どこかに行く」と言う時は既に行っているのです。あの大宇宙が自分の活動舞台になると考えてみなさい。愛が先んじなければなりません。「ああ、会いたい。会いたい」と、こうでなければなりません。自分の相対のように、自分の愛する人のように、会いたければさっと行くのです。あの世で芸術家に会えば、自分が芸術的なあらゆる素質を一瞬のうちに啓発してついていくのです。万事が可能な世界です。ですからあの世に行けば、歌う所では歌い踊るのです。みな喜んで心と体が和動して踊ったり歌ったりするというのです。どれほど美しいでしょうか。神様が絵を描くにも一等ではないですか。そうでしょう。神様が傑作品の絵をはって眺めるでしょうか、傑作として行動する創造物を眺めるでしょうか。どちらを喜ぶでしょうか。傑作品は必要ありません。そして、その世界は愛の心に酔う最高の場であるがゆえに、年を取りません。年を取らないというのです。お母様も年を取りましたが、私が見るにはいつも最も美しい時の姿なのです。
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 いつもかんかんに晴れた日だけあれば、どれほど退屈するでしょうか。そこに霧もかかったり、月に雲のかさをかけたり、このように月も見えなくて……。ありとあらゆる気候の変化を見れば、どんなに芸術的でしょうか。考えてみなさい。一つの美術世界です。芸術世界です。あの霊界の澄んだ世界に自分が雲をかけたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしたければ、霧がかかるようにできる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることのできる特性をもったそのような人間になれるというのです。ですからすべての霊界が関心をおきます。「ああ、あの人の所に行けばおもしろい」と言うのです。
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 霊界では距離と時間を超越します。時間がありません。何でも見たいと思えばすぐに現れます。膨大な天国がすぐに通じるのです。この地上で電話も距離の問題がないでしょう。そのようにどこでも通話ができるようになっています。そのような世界が背後の動機地、発電所のようになっているのです。
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 霊界に行けば夜があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に行けば、この地球星にも通じることができ、この物質世界にも思いのままに通じることができます。水中にも行くことができ、大地を垂直に通ることもできるのです。宇宙には星が無数にありますが、真の愛の相対として神様の愛をもって行く所は道がぽんぽんと通じるのです。愛の速度が最も速いです。最も速いのです。光の速度は一秒間に三億メートルという距離を進み、地球を七回り半を回ることができると言います。これは、それより何千倍も速いのです。億千万里でも、真の愛ならば瞬時に行くのです。膨大な霊界でも一瞬のうちに活動できます。
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 皆さんが霊界に行ってすることは何だと思いますか。あの世ですることとは何でしょうか。考えてみなさい。そこで金もうけをするのでしょうか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは瞬間的にすべてかなえられます。霊界では私のために現れなさいと、いくら死ぬと大声を出して騒いでも駄目です。これを知らなければなりません。反対に、私が神様を愛し、世界を愛し、天国の王子の立場で、王に仕える中で「あらゆるものが必要だから現れなさい」と言えば瞬間的です。瞬く間にもてなかったものを……。想像が及ぶことはすべて可能な世界が霊界であるということを知らなければなりません。
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 愛は熱に例えて表現されます。熱で例えるでしょう。「胸が熱い」と言うでしょう。霊界に行けば、神様は愛の本体であるゆえに光と熱で現れるのです。霊眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どんな光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって光る星にならなければなりません。太陽のように星もすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。
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 神様が創造する時、最も好きな色を先につくったのでしょうか、最も嫌う色を先につくったのでしょうか。早春に咲く花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色が好きでしょう。ですから高尚な物はすべて紫色です。あの世に行ってみれば、最も良い色は紫色なのです。
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 霊界に行けば色がありません。あまりにも明るくて銀色のように見えます。銀色のように見えながらも、あまりにも明るくてきらびやかなので紫色に見えるのです。フィラメントに電気が入れば、本来黒だったものが明るい白に光るのです。同じです。霊界に行けば黒人はいません。地上にいる時は黒人に見えた人が、霊界ではそのように見えないのです。真なる良心をもって生きた善人は、高い級の霊界に行くのです。障害者も霊界にはいません。足の不自由な人、病を患っていた人も、肉身を脱げばいかなる障害もありません。
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 霊界ではどのような年齢で暮らすのでしょうか。最も美しい年齢の時の姿で暮らします。天国に行けばそうです。そして、永遠に暮らすのです。そして、その人が考えるすべてのものが変われば変わるほど、その容貌がさらに美しく見えるのです。霊界を知れば、ただそのままそれがすべて連結するのです。
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 霊界に行けば、地上のことは思い出しません。窮屈なこの手のひらほどの地上で何をするのでしょうか。大宇宙があるのに、一つの砂粒のようなものを思い出しますか。しかし、霊界の民族を生産する工場はここしかありません。宇宙に一つしかありません。何ですか、金星にも人が暮らしているというのですか。人は、この宇宙でここにしかいないのです。


 2.霊界は愛全能の世界

 真の愛の概念でぎっしり詰まっている所が霊界です。真の愛を五官によって感じるように、まんべんなくすべて体験してから行く所が天国です。その場に立てば、あらゆることがすべてできます。理想的な生活環境がそこで展開するというのです。どれほど驚異的なのか皆さんは知りません。
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 霊界はどのような所でしょうか。すべてのものが愛で充満した、愛でいっぱいの調和の世界です。皆さん、スイッチさえ押せば、このスイッチ一つでニューヨーク市の何百万世帯に電気がぱっとつくとすれば、これは信じられますか。それでは、愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するということがうそのように思えますか、本当のように思えますか。
 地上天国は、すべての愛の電球に明かりがつく所が地上天国です。そして、天上天国とは何ですか。愛の電球に明かりが完全にともることのできる所が天上天国です。それゆえに、皆さんが愛の心だけ抱き、愛のひもだけ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横へ行き、このように引くとこのように入っていこうとして、このように引けば上がっていこうとするのです。思いどおりに操縦できるのです。無理やりそのようにするのではなく、自動的にそのようにするのです。自動的にそのようになるのです。それを理解できますか。
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 皆さん、一度考えてみてください。霊界に行けばうらやましいものがありません。皆さんのその愛の化身体をダイヤモンドと比較しますか、黄金の塊と比較しますか、真珠と比較しますか。宝石が問題ではありません。もっときらきら輝くのです。愛と化した化身体はもっと美しいのです。ダイヤモンドに愛のダイヤモンドがありますか。生命のダイヤモンドがありますか。しかし、私たちはダイヤモンドも感動させることができ、すべてのものに影響を及ぼすことのできる価値的存在だというのです。貴い愛のダイヤモンドなのです。貴い生命のダイモンドなのです。それが私なのです。ですから私はどんなに素晴らしいでしょうか。
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 霊界という所は、愛の電気で充満した所です! 事実がそうなのです。私が知っている霊界はそうだというのです。ですから、今日人間は、何でもすべて愛と関係を結ぼうとします。なぜ、愛と関係を結ぼうとしますか。霊界に拍子を合わせるためです。これが理論にぴったり合うのです。そのようになっているために、そこに応じざるを得ないのが私たち存在物です。その立場を離れることができないということを皆さんは知らなければなりません。
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 霊界に行けば夢の鉱山がいくらでもたくさんあります。金、銀、宝石がいくらでもあります。花も好きな人が来れば、愛する人が来れば、眠っていても突然ぽかりと口を開け、目を開けて歓迎するのです。「少し待ちなさい」と言ったのに、ただそのまま行ってしまえば「ああ」と言って枯れてしまうのです。
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 神様が笑えば全体が共に笑います。霊界に行けばそうです。霊界に行けば直感の世界と同じです。神様が喜んでいるのか、そうでないのか、きょうは気分が悪いのか、良いのか、すぐに分かります。地上世界に何かあって喜ぶのを見ると、全体がふわっと膨らむというのです。ぽんと浮かぶというのです。
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 霊界に行って何をするのでしょうか。愛の歌、愛の話をするのです。霊界では、オペラ式に話せば、私がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば踊りで答えなければなりません。永遠に喜び、踊りを踊っても永遠に飽きません。一箇所で踊れば天国がすべて踊り、一箇所で歌えばすべて歌うのです。その時は自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るなら「ああ、私の愛する妻をあなたより百倍愛するために私があなたと踊るのです」とこのように考えるのです。他の女性と手を取って踊るなら、それはすべて自分の愛する対象を千倍、万倍、もっと刺激的に愛するためにこうするのだというのです。
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 霊界から神様が見れば、皆さんの心は愛の鐘の音が聞こえる所に行けば、灯がますます大きくなるというのです。この光は五色燦然と輝くのです。神様の目にはダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。そして、光だけが良いのではなく、その光の中には味があるというのです。それは見れば見るほど良いというのです。何度も見れば見るほど酔ってしまいます。
 それゆえに、神様は愛という話をするのです。皆さんの心の愛の鐘を鳴らせば天地を動かし、すべての万民を動かすのです。そのようにすれば、神様も「あ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえに、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほど味わったか、それが皆さんの財産だというのです。
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 今後私たちが真の愛の力をもって霊界に行くようになれば、いくら遠い所にいる人でも一瞬のうちに会うことができ、愛ゆえに訪ねていく時は瞬く間に故郷へ帰ることができるというのです。霊界という世界は無限に膨大な世界であるので、何百万里、何千万里の距離も一瞬のうちに愛を中心として行き来することができる世界であるというのです。愛は最高の速度をもっているのです。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界と私は関係がないというのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、私から始まるということをはっきりと知らなければなりません。
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 神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。
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 あの世で必要なことは、世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子よりも神様をもっと愛さなければならないということです。それが原則です。お父さん、お母さん、子供たちみんな……。お母さんが言うには「あ、あなたは私を愛するより神様をもっと愛してから私を愛してください」それでこそ夫から高い次元の神様の愛を受けることができるようになるのです。父母に対しても「どうか私たちは置いておいて、本来の父母の愛を先に受けてください。その父母の愛を受けたお父さん、お母さんを私は愛したい」と、そのようにすがりついて哀願しなければならないのです。
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 愛の理想を中心として神様の前に相対になれる人が、考えるすべてのものを瞬間的に実現化させ得る世界です。何億、何千万名も一瞬のうちにバンケット(祝宴)を準備できる世界です。私が服を豪華絢爛に着て、愛の対象として神様を一度楽しくさせてさしあげようという時は、豪華絢爛になります。こうこうこのように想像できる以上のことを想像しても、それが可能な世界です。そのような世界を知っている人は、地上では生きる楽しみがありません。ですから、私は監獄にほうり込まれても、何の問題もありません。この世でのわずかな生活は、永遠な世界で息を一度止めるのと同じです。
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 神様の心情、天国の心情に通じたならば、どこでもすべて一つになることができ、どこでもすべて和合できるからです。そうなれば、その門を通ることのできる階級に暮らす人は「わあ! 万歳! 神様好きです!」と言うのです。ただついて行きたがり、皆が喜ぶのです。食べたいものがあれば何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊んで、したいことを思いどおりにできます。この地球上で百年生きても感じられないあらゆる幸福を、有り難さを、一瞬のうちに感じられるというのです。
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 霊界はどのような世界ですか。神様の心情と同等に立てる心情をもてば、何でも可能な、そのような所なのです。今後ムーニーが何千万人になっても「皆さん、全員このような新しい服に着替えなさい」と言えば、さっと新しい服にみな着替えることができます。それから「バンケットの場所、これこれこういう場所に現れなさい」と言えば、すぐにそのようになるのです。テーブルは、金の装飾や銀の装飾で五色きらびやかに飾られ、またそこにあるいすもそうですし、そこに座ったすべての人々は歓喜に、喜びに、愛に酔って踊ることでしょう。千年踊っても喜ぶことのできる所です。
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 何億万里の距離にある世界の人でも、愛の心が強くなって「会いたい」と思えばさっと現れるのです。「何の用ですか」と聞けば、「あなたが呼んだので現れました」と言うのです。「どのくらい遠くから来たのですか」と聞けば、「何億万里から来た」と言うのです。距離を超越します。宇宙が私の活動基地です。
 それなのに、その世界にない物質でもって首を絞め、お金、知識、権力でもって首を絞めているのですか。あの世ではそのようなものは一つもありません。そのようなものは、残るものが一つもありません。皆さん、この世ではお金、知識、権力が必要ですが、あの世ではそのようなものは必要ありません。霊界のどんなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももてないのです。本質とは反対のこと、反対的なこと、それでは一つになれないというのです。霊界が関心をもてる位置と連結できません。
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 私が「このような人に会いたい」と言えば、すぐ前に現れるのです。「あなたがこれこれこういう人ですか」、「はい、数百、数千年前に私は地上のどんな所で暮らしていた。私に会いたいですか。私に尋ねてみたいことがありますか」、「はい、あります。私はこのように教えました。私とあなたがどんなに違いますか! 分かりますか」と言いながら、話をぴいぴいと交わすことができます。時間がかかりません。始めるや否やすぐに分かるようになるのです。この世に住むというのはどんなに不便でしょうか! 車が必要ありません。愛の感情は、あらゆるものをつくることができます。観念をもってあらゆるものをつくることができます。真の愛の観念を中心として何でもみなつくることができます。
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 今から何百年前、八百年前、一千万年前に生きた人間も来てあいさつするのです。聖書では人類歴史が六千年となっていますが、とんでもないことです。何千年前と今の時がどれほど変わったかというのです。その時の人々は、今生きている人よりも心では神様をよく感じることができたというのです。しかし、文化生活の面では反対なのです。霊的世界の啓発は文化生活とともになされてくるものです。そうでしょう。
 知識に通じれば知識の尺度によって理解し、すべてのものを分析するにおいて鋭敏だというのです。したがって、霊感を感得できる基盤がもっと拡大していくというのです。ですから今後は、自然にそのような知識があり、世界の行く末を憂慮する人にはあらかじめ霊界から教えてくれるのです。霊波を通じてどのようになるのか分かるのです。最高の位置に行けば、終わりは一つしかないでしょう。同じなのです。
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 「誰に会いたい」と言えば、何億万里、何百万里離れていたとしてもすぐに現れます。広い天国にいたとして、「自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたい」とぴたっと情緒を整えて言えば、その場で相手が現れるのです。それはどんなにいいですか。そうでしょう。さっと現れれば既に自分がどの級にいるということが分かります。「私はどのような級だ」と知っています。自分が高いか低いか分かります。いくら親しい友人でも、自分のほうが天の前に愛の級が高ければ、来るや否やあいさつするのです。いくらお母さんでも、それよりもっと先祖でもあいさつするのです。そのような世界なのです。
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 考えてみなさい。ここでは御飯を食べて暮らすことが心配でしょう。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要でしょう。家でも食べ物ゆえに大騒ぎするでしょう。霊界に行けばそれはすべてありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。一瞬のうちに億万里でも行けるのです。太陽の光よりもっと速いのが霊力です。神様が造った太陽の光だけでも一秒間に三億メートルを走ります。電気もそうでしょう。光の速度も同じです。ところが、神様の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍もさらに速いというのです。
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 霊界に行って、ある家に暮らす人の級が自分より低い時は、その家が良い家であればその良い家を私の家にできます。さっと訪ねていけば、主人は既にちらっと見れば分かるのです。額をちらっと見れば、顔をちらっと見れば分かるのです。さっと見て自分より高い人なら自分の茶の間に案内するのです。「いらっしゃいませ」と言って案内するのです。
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 神様の息子、娘になれば、その膨大な宇宙がすべて自分のものになるのです。皆さん、霊界に行けば先生についていきたいでしょう。ついていけません。先生が行く所に皆さんはついてくることができません。皆さんは心情の門が狭いのです。真の愛は大きな門でも小さな門でも自由自在に行けます。真の愛でなければそれはできません。この位置は全体を代表した位置です。それゆえに、どこにでも入っていくことができ、どこにでも出掛けることができます。
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 どれほど人類を愛したのか、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛したのかということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。嫁に行った女性は、自分の夫がどれくらい愛しているかということについて誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として、神様の愛をどれだけ受けた人なのかということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。
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 天国に神様の心情の架け橋があれば、どのように上がっていくのでしょうか。ヘリコプターのようなものに乗って行ったり来たりしながら上がっていくのでしょうか。エレベーター式に直線で上がっていくのでしょうか。ヘリコプター式ですか。エレベーター式です。万年エレベーターです。垂直です。神様の愛に接するためには垂直線に入っていかなければなりません。
 聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と記されています。それは何だと思いますか。すべてのものの中心は愛だというのです。それで、あらゆる作用と意識のすべてを一つにして「主なるあなたの神様を愛することしかない」と言う時、ここでエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。そのような驚くべき世界を知らなければなりません。
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 あの世、霊界に行けばそうです。誰でも九〇度になれば、東西南北のどこに行ってもきちっと合います。ある社会、数多くのクラブになっている社会、千態万状の社会……。皆さん、ここに何名いますか。およそ五百名集まったとすれば、五百のタイプがあるのです。各々みな違うでしょう。似たグループにみんな集まります。それはコンピューター以上に分析されています。さっと行けば、さっと過ぎれば既に自分の角度が分かります。一週間以内にすべての背後まで、あの秘密世界の倉庫の底までのぞきます。言葉が必要ありません。心で言おうとすることを感じるのです。コンピューターのおじいさんのような世界なのです。
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 神様も愛のために創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何か」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。何が必要ですか。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万年権力です。本当に愛を知っている人は天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北思いどおりに行き来できます。これが中央停留所のようになっています。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために強力な力で出てきます。低い国も、その中央を通って出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がっていくのです。愛にはこのような偉大な力があります。
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 私は、今日世界で電気とか、宇宙とか、何だといって大騒ぎすることが、愛の理想世界を成し遂げるための一つの内的な潤滑剤のようなものだと考えます。このような時、皆さんは「アーメン」と言わなければなりません。そうだとすれば、その世界は愛の電気で充満した世界という結論が出てくるのです。霊界という所が愛の電気で充満した世界ではないかというのです。そうだとすれば、この世でも愛の電気でできないことがなく、調和が起こるのです。愛の電気ならばできないことがないというのです。
 ここで私たちは、今私たちの意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だということを、決定づけることができるのではないかと思うのです。それでは、霊界とは何ですか。永遠な要素を願う永遠な所です。それゆえにここで愛を体験した霊人体は、間違いなく自動的に磁石に引かれてその世界へ行くはずです。それを自分が感じた霊界に行くというのです。


 3.霊界の空気は愛である

 霊界はどのような組織からなっているかといえば、あの世は空気が愛です。愛が空気になっています。心と体が愛の感触を受けて和することのできる要素として、この地上で体恤されなければなりません。体恤圏をつくっておけば、そのまま通じない所がないというのです。木の樹液が木の芽と根に通じるように通じるのです。神様が喜ぶのを自然に感じます。東方で神様の祝宴が催されるのが分かるのです。そこに行こうとすればさっと行けます。自由天地です。
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 霊界で呼吸する空気は愛からなっています。愛によりすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生き、愛の道理で和してその内容を満たしてこそ、神様が今まで歴史時代に願った希望の実体を完成したという格位を備えるようになり、天国のどこに行っても歓迎されるのです。
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 霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上では空気を吸ってガスを吐き出すのですが、霊界は愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日のような人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようにはなっていません。霊界で与え受ける愛は真の愛なのです。
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 皆さんをたたいて純金をつくらなければなりません。純金をつくらなければなりません。そして、犠牲になりなさいというのです。自分を犠牲にしなさいというのです。自分がなくなるように死になさいというのです。自分をなくしなさい、自分を犠牲にしなさい、犠牲にしなさい、なくしなさい、ゼロになりなさいというのです。このごろ、なぜ宇宙時代に入り、電気時代に入ったのでしょうか。このような時代が近いからそうなのです。「原理」で言えば、真が来る前に外的なもの、カイン的なものが先に来るというのです。この世がカイン的なのです。このように見ると、神様の愛の電気学を語ることにおいては、レバレンド・ムーンが先祖になることでしょう。
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 霊界に行けば、原則にどれだけ同化し、どれだけ一致にしたかということが地獄から中間霊界、楽園、天国まですべて連結されるのです。そのような原則がなければならないのではないでしょうか。だからといって、アメリカ大統領をし、世界的なノーベル賞ももらい、世界的に有名な学者だといって霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行くことができないのです。通ることができますか。
 それゆえに、宗教界はすべてのものを捨てて行きなさいと教えるのです。すべて捨てていかなければなりません。それでは、何が最も貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、この世界のためにどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したか、それがあの世をパスするチケットです。これは間違いありません。絶対的だというのです。これは理論に合うのです。
             *
 霊界で、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために息が詰まり、窒息して注射を打ち、酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動できる、自由な神様の愛の圏で暮らすことのできる皆さんになりますか。ここは世界のために生きなければならないので、これが生涯の行く道です。将来のために行くことが、生涯において行くべき必然的な道だということを皆さんは知らなければなりません。


 4.霊人たちの生、霊人たちの相互関係

 神様は、天地を創造なさった方であり、この世の存在の起源となる一番の母体となられる方です。その方は存在価値の起源です。その方がいらっしゃるので、今日この現象世界が始まったのです。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があるといって変わる方ではありません。絶対的なものは変わることはありません。また、時間や空間に制限されることもありません。すべての制限を超越した位置で、すべての制限を主管される方です。
 そのような方が誰ですか。「神様」とだけ言うのではありません。その方は「お父様」です。皆さんは「父なる神様」と呼ばなければなりません。神様を何と呼ばなければなりませんか。そのお父様は皆さんを生んでくれたお父さんです。人間が堕落したがゆえに、「再び産む」という言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを産んだお父さんです。肉身のお父さんは皆さんを仲介するお父さんです。そのお父さんは霊界に行けば、お父さんというのではなくお兄さんと呼ぶようになっているというのです。お母さんもお母さんと呼ぶようになっていないというのです。
             *
 霊界に行けば、アダムとエバも神様に対して「お父様」と言い、数千万代の子孫である皆さんも神様に対して「お父様」と言うでしょう。「兄なる神様」と祈祷しますか、「父なる神様」と祈祷しますか。それでは、自分のお父さんは何になりますか。霊界に行けば、お父様が何になりますか。お兄さんです。お兄さんとは何ですか。私より先に生まれたのがお兄さんです。私より先に生まれたのがお兄さんだというのです。それで、内的なお兄さんが神様で、外的なお兄さんが自分のお父さんだというのです。それ以上の理論を立てることができないことを知らなければなりません。
             *
 父母の根をもった人々が、神様を何と呼びますか。キリスト教で呼ぶようにみんなが神様を「お父様」と呼びます。一軒の中でおじいさんも神様を「お父様」と呼び、お父さんも神様を「お父様」と呼びます。孫もやはり神様を「お父様」と呼びます。家族みんなが神様を「お父様」と呼びます。このように神様は、すべての人間にとってお父様になられる方です。したがって、神様は人間にとってお父様になり、人間はお互い兄弟になるのです。先生は時々、本当にそのようになるなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思うのです。
             *
 私たちの最初の先祖まで私が見ることができるのに、先祖を造られた神様は見ることができないのでしょうか。神様も見ることができるのです。それは何の話か分かりますか。ですから、家庭というものは何かというと、見えない神様の愛の表現場所です。愛を中心として歴史時代に生きたすべての先祖は、愛の統治をあの世で受けているのです。同じ愛です。
             *
 すべての家庭が真の愛で一つになって霊界に入っていけば、神様の血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば農作業もなく仕事がありません。真の愛の食べ物はにおいをかいでも永遠に生きることができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。神様の体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。
             *
 神様とは誰ですか。あなたの友人です! 最も高い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。ですから、皆さんが膨大な霊界の天国世界に入っていくようになって、そこでそれ以上のものを神様に願ったとしても神様がつくってくれるというのです。それは問題ないというのです。それはどんなに誇らしいでしょうか。その位置は神様の代わりの位置です。その位置に行った人間を神様が憎むでしょうか。いいえ、「私の息子、ナンバーワン、私の息子!」と歓迎するというのです。これが父母が願う最高の望みです。
             *
 地上世界で親子関係の愛を貴く思うように、愛をもって生きていけば、天上世界でも神様を父母として侍って息子、娘のような立場で生きることになるのです。これが堕落しない家庭で生きる生活と同じであり、性格、性稟が似たのであらゆる方面で会うのです。
             *
 堕落しない家庭は、霊界と肉界のすべてに通じることができます。「おじいさんのお父さんは誰ですか」と言えば、見ることができるというのです。また、そのおじいさんのおじいさんが誰なのか、四代の先祖が誰なのか、五代の先祖、百代の先祖、千代の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。
 そして、「アダムとエバがどんな顔つきか」と考えれば「こんな顔だ」と現れるのです。「私の目もアダム、エバに似たなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ」と言うのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は四種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の四種類でしょう。「ああ、手足も同じだ! 私のように目もぱちぱちしますね! 言葉も話しますね! 似ている! ああ、こんなに似ているんだなあ!」と言うのです。
             *
 あの世では、しわくちゃのおばあさん、おじいさんが皆さんよりもっと美しいのです。もっときれいなのです。愛があればそのような世界にとどまることができるのです。そこは統一された世界で、とても美しい世界です。それで、おばあさん、おじいさんに会って昔のおじいさん、おばあさんのように思って行動できますか。美しいおじいさん、おばあさんを見ればどんなにいいでしょうか。
 さあ、それではその時に見るものが……。孫娘が来て、おばあさん、おじいさんに会おうと叫んでいるのが霊界では見ものです。そのおじいさんの上のおじいさんは誰ですか。自分の先祖のおじいさんは誰ですか。一番最初のおじいさんが誰かといえば神様です。それで、おじいさんが喜んで「神様、ああ、とっても良いです」と言えば、神様が「ウェルカム」と言うのです。大声で「ハハハハ!」と言えば、神様が「うん、そうだとも!」と言うのです。
             *
 皆さんが霊界に行って見れば、この地で生きた皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。なぜなら、そのおじいさんとお父さんが若くてすてきな姿に変わっているからです。年老いた姿ではありません。そのように若いおじいさんだから、初めは見分けられないけれども、徐々に徐々に話をしてみれば、「そうだ、それは合っている。だから私のおじいさんだ」と言って抱き締めるのです。そのような世界なのです。
             *
 霊界に行けば、皆さんの顔は最も美しい二十代の青春に帰るのです。愛の花を咲かせることができ、香りを漂わせることのできる時期が創造の原則であるゆえに、その本郷である天国に入っていくようになれば、そのような顔で帰るのです。それで、世の中で年老いた人があの世に行けば会っても分からないのです。二十代の青年の顔に戻るからです。知っているのは八十になった老人として知っているのに、その老人はいないのです。ですから分かりません。世界の有名な歴史的な人物もあの世に行っているのに分からないのです。写真を見てその時死んでいった年齢を知っているけれども、最も美しい時に戻っていくので分からないのです。
             *
 霊界で最も近い兄弟は誰でしょうか。霊界で最も近い兄弟は横的な兄弟ではありません。この世で親子の関係と兄弟の関係の中でどのような関係がもっと近いですか。兄弟の関係より親子の関係がより近いので霊界に行っても私のお父さんが最も近く、その次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。そのように上がっていけば最後のおじいさんが誰でしょうか。その方が正に神様です。
 したがって皆さんは、この世に友人がいないと寂しく思うこともなく、一人暮らしをしていて死んだとしても悲しむこともありません。霊界に行けば上を見ても、横を見ても近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にただそのままなるのではありません。神様を父として侍ることのできる特権を備えてこそ、このあらゆる人と兄弟になれるのです。
 お父さんをお兄さんとし、おじいさんをお兄さんとしたからといって、気分が悪いことがあるでしょうか。気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。考え方によれば気分が悪いのです。世の中ではお父さんと呼ぶのに、霊界に来たからといってお兄さんと呼ぶのですから、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。
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 霊界に行けば黒人はどうでしょうか。黒人は黒人でしょうか、どうでしょうか。自分の願いどおりに、黒人が白人の姿になろうとするならいくらでもなれるのです。人間の世界で成し遂げられるただ一つの問題は何ですか。光が明るくなければなりません。何の光がですか。愛の光です。愛の光が明るくなるためには、内的にも外的にも燃えなければなりません。愛するための発動力によって燃えなければなりません。東西にたくさん吹き出さなければなりません。そのようにできる愛だというのです。そのようなことをすべて知って見ると、世の中の万事は過ぎゆく一つの旅行集です。
             *
 天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱっと咲いてそこに和合し、相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを漂わせ、その花を通じた新しい種をもつことができる、このような姿で地上で生きなければならないのです。そのように生きて霊界に行けば、永遠の世界でもそのような姿で現れるのです。
             *
 霊界に行って、自分の夫と地上で愛した愛より拡大したい、より刺激したいと思うようになるのです。霊界に行けば、愛する女性がいればその中に男性がいるのです。
             *
 夫婦の愛はどの境地まで入っていくのでしょうか。霊界に行けばこうです。私は座っていても夫が歩けば、私も心で歩きます。帰ってくれば、心で既に帰ってくるのが分かるのです。心の中で夫と一緒に歩いているのです。どこから来るのかをすべて知っていて、どこへ行くのかをすべて知っています。この世では、男性が酒場に行ってどこに行くか、女性は知らないからえんえんと泣いてだまされるではないですか。しかし、霊界に行けばすべて分かるのです。
             *
 皆さんは、あの世、霊界に行って神様に似なければなりません。神様に帰るのです。神様の二性性相、性相と形状がぴたっと一つになっているように、男性、女性が完全に一つになってその殻を覆うようになる時、この二人が一つになったその基盤の上で神様に帰るのです。
             *
 霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば男性が入っています。夫が入っているのです。神様の二性性相とちょうど同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたのですから、その本体に帰るには愛の架け橋を渡らなければいけないでしょう。創造の基準が愛から始まったので、この架け橋を渡って帰らなければなりません。結局、終着点では神様のようになるのです。
             *
 男性が地上で楽しく生きて霊界に行き、さっと見れば、男性の中に女性がいるというのです。「あの女性は誰ですか」と聞けば「私の妻です」と答えるのです。また、女性の中に男性が見えるというのです。このようにして二人が一つになれば、東西南北の方数になるというのです。男性、女性、二人でしょう。男性と女性のプラス・マイナスで東西南北になれば、神様にしっかりと侍るというのです。神様が垣根になるというのです。
 そうすることができれば、神様が私の神様です。共に生きるのです。父母が年を取って百歳を越えれば、八十歳になった息子と友達になるのを知っていますか。「や、息子や!」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。神様に帰らなければなりません。
             *
 真の愛を実践する夫婦は、神様が本性相と本形状としてあられるように、霊界に行けば神様の本然的な基準に入っていくようになるのです。本然的で絶対的な神様も真の愛には絶対服従されるので、彼ら夫婦も本然的な基準に達するようになり、その点は一点であるから彼らは神様化するのです。神様に帰るのです。アルファとオメガです。
 それを何が可能にするかと言えば、真の愛です。世の中に生まれた息子、娘は父母に帰るでしょう。同じ理屈です。それゆえに霊界に行ってこの地上で仲良く生きた人をちらっと見れば、男性に見えるのに、じっとよく見れば女性が笑顔でその中にいます。それが愛した妻だというのです。それが最高の理想です。そうすれば神様の友人になるのです。それでこそ共に生きるのです。愛ゆえに生まれたのです。
             *
 霊界では、愛を中心として神様が私たち人間と和し、人間は神様と愛で一つになるのです。神様化するというのです。神様の二性性相が分立されたことを見ると、完全に愛によって一つになれば、霊界に行ってみれば二人が一つになっているのです。ただ見れば明らかに男性ですが、じっとよく見ればその中に女性が座っているというのです。愛の目はすべて統一です。憎い人もきれいに見え、きれいな人も憎く見えますか。きれいに見えるのです。
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 真の愛の相対になろうとすれば、零の位置に立たなければなりません。そのようになる時、神様が「良し良し」と言い、地上世界を見る時は地上の太陽のように光るのです。その二つが爆発する瞬間、霊界の神様の目もあっと驚くというのです。神様が「良し」と言うのです。それが信号弾なのです。神様がその信号弾を受けて零の位置で完全に開き、太陽のように光る愛の火がぼうぼうと勢いよく燃える所にお出ましになり、その中に入っていき初めての夜を過ごしたいというのです。
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 霊界がそうです。何千、何億万里離れていた人が、ここに来て心情基準が合うので離れることを嫌がるのです。「ああ、早く行ってくれたら!」とは思わないのです。その世界では、御飯のようなものが必要ありません。すべてのものが自らの直感で解決するのです。それは愛の直感です。このようなあらゆる愛の体恤を中心として万国に拡大していくのです。そうして神様の代わりの心情さえもつようになれば、その下にすべての必要な存在が集まり、そこに千万人を一度に満たせる演壇ができるのです。
             *
 神様は、他の所にいるのではありません。神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。「在らざる所無し」という言葉は、神様はどこにでもいるのではないというのです。愛がある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては「在らざる所無し」ということです。私も愛を中心としては「在らざる所無し」と言えます。特権です。それゆえに愛がある所には主人がいます。よく主人を知っているから主客は転倒できません。あの世はそのようになっているのです。愛を基調に、すべてのものが操縦されるようになっているのです。
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 それでは、男性とは何ですか。これは半分だけです。女性は何ですか。これも半分です。また、いくら至高な神様であっても神様にも対象がいなければなりません。それゆえに、上は下が必要であり、下は上が必要なのです。霊界とは何ですか。霊界は半分の世界です。肉界も半分の世界です。
             *
 霊界に行ってもそうです。霊界に行ってどのようにするのでしょうか。歴史時代のすべての人、今後全世界的な版図を越えてみんなに会ってどのように生きるのでしょうか。お互い「ため」に生きるのです。霊界に行ってもやはり理想的な愛を中心として、これを再現する生活をするのです。ですから同じようにもっと高い、価値あるものに私が投入するのです。それがうれしいというのです。
 霊界は肉界の延長です。平面的な面の愛の理想を地上で追求したとすれば、霊界に行ったら楽しく、天のより深い立体的な外郭的な球形だけではなく、外郭的な球形と内角の核心まで通じなければなりません。ですから、結局は深く、浅く、高く、低く、すべての面に愛を投入できるそのような行動をしなければならないというのです。神様の代わりに再創造するそのような生活をしなければならないというのです。
             *
 霊界を動かせる代表者になりたいですか。人種主義者は力を発揮できないのです。また、人本主義者も力を出せず、物本主義者も力を出せず、教派主義者も力を発揮できません。ひとえに統一主義だけが力を発揮できるのです。霊界に行ったと考えてみましょう。霊界では食べるものの心配がなく、着るものも心配ありません。暮らすことも心配がありません。そこでは趣味が何でしょうか。神様を中心としてバンケット(宴会)に参加すること、神様を中心として喜べる集いに参加すること以外には希望がないことを知らなければなりません。神様を中心とした祝宴に参加することだけが最高の理想です。そこに愛があり、そこに喜びがあり、そこから幸福の起源が生ずるのです。
             *
 霊界に行けば何百里、何千万里から一瞬のうちに来るのです。さっと会えば、額を見れば分かるのです。どこから来たのか、見てから頭を下げ……。これが通じません。何百年前の人でも、愛の人格基準が高ければ、会うと、相手が先に頭を下げるのです。何をもって感動するのかといえば愛です。愛でもってどれほど人類を愛し、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛するかということがすべて測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。
 嫁いでいった女性が、自分の夫がどれほど愛するかということについてを誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として神様の愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。
             *
 本質的な本然の愛を実践すれば、年老いた人にでも花が咲くのです。ですから、霊界に行けばすべて青春です。思春期の最もかわいかったその時の姿で行って、とどまります。ですから愛が偉大です。それが信じられなければ、きょうにでも腹を切って死んでみなさい。うそか、本当か。若くなれば本当にいいでしょう。


 5.霊界での衣食住問題は自由自在

 あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに願うすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。
             *
 神様が創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私たちは、霊界でまるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。私が愛を中心としてこのようなもの、あのようなものなどを指摘すれば、実在物が完全に姿を現すことができるのです。「どのような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じるのです。どんなにすごいでしょうか。
 また、晩餐会場に数十、数百万名参加した時「このような食べ物を準備しなければ」と願いさえすれば、食事が問題なく出てくるのです。金色の正装を願えば、すぐにそのような正装が出てくるのです。どんなに素晴らしく、すごいことでしょうか! それは本当に良いのです!
             *
 考えてみてください。あの世に自動車工場があるでしょうか、ないでしょうか。このような物に乗って一瞬のうちに、一秒間に何億万キロを行くことができます。先生がそのようなことをはっきりと知っているので、地上で生きたいと思わないのです。その膨大な世界が、愛を中心としてすべて編成されているというのです。その愛に和した神様の心情圏をしっかりと所持すればすべて終わります。創造歴史は永遠に続くのです。そのような愛の心に和して、自分が構想したすべてのことをしなければなりません。瞬時にしっかりと決心して命令すれば、すぐに展開します。
             *
 霊界に行けば小便をするでしょうか、しないでしょうか。今度行ってみなさい。私は小便をすると思いますが、しないと思う人は、小便をするか、しないか、行ってみなさい。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするけれど、すぐ元素に帰ります。宇宙の根本元素が百七個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。それから愛の心で「何々出てこい、何々出てこい、何々出てこい」と言えば、すーっと出てきます。愛の心で言えば、すべてのものが出動可能です。
             *
 あの世にパン工場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれはすべて必要ありません。
             *
 永遠に目を開けることができ、永遠に聞くことができ、永遠に食べないでいることができるのに御飯など……。ああ、今が良いのに、御飯を食べなさいと言われて食べるでしょうか。御飯を食べなさいと言えば食べますか。私は食べません。服を着るのも、私の思いどおりに服を着ることができるのです。
 「けさは、すべて黄金の服を着なさい。さあ、ダイヤモンドの何カラットをつけなさい。英国の王妃は五百十七カラットをもちましたが、それ以上の一万七千カラットのものをつけなさい」と言えば、さっと! そのようなものは、みんなもつことができます。あらゆるのものをつくることができます。そのように見ると、レバレンド・ムーンは妄想家なのです。しかし、可能な理論圏内で話しているということを皆さんは知らなければなりません。
             *
 霊界という所は愛の空気で充満した所であるという概念を、私たちがこの地上にある認識構造をもって見つけることができるというのです。愛の神様が愛の心をもって、世界人類を一度にすべて食べさせたくて、喜ばせたくて「御飯よ出てきなさい」と言えば出てくるのです。霊界でも食べさせなければならないので、そのようにするというのです。それゆえに、愛の食べ物を食べるのです。お互いに見るのも愛の目で見て、すべてそのようにするというのです。
 みんなたたかれてけがをしても、またたたかれようとするのです。形容し難いほど不思議な所です。聞いても、もっと何度も聞きたくて、眠いとか、疲労だとか、何だという観念はあり得ないのです。疲れる余裕があり、興奮する何かがなければならないでしょう。退屈で妨害する何かがなければらないでしょう。それがないのに、どうして疲れるでしょうか。
             *
 霊界では、衣食住は問題になりません。衣食住は完全に自由自在です。愛の一体圏、神様の相対圏に立てば、神様ができることもできます。何でもできるのです。何億万年の歳月も一瞬にして超越できます。愛の速度は超スピードです。愛する人がいる所に行って来る時、時間がかからないのです。すぐ行って来ることができます。ですから、愛の相対者に会うことは瞬間です。そこは絶対圏なので何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界なのです。そのような無限の世界が人間のために準備されているということを知っている人はいません。真の父母によってそのようなことを知るようになりました。
             *
 霊界に行けば何を中心として生きているか知っていますか。霊界には工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に自動車があるでしょうか、ないでしょうか。消耗品工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界で御飯を食べるでしょうか、食べないでしょうか。服を着るでしょうか、着ないでしょうか。このようなものは霊界にはありませんが、自分の人格構造が神様の対象的価値基準をもてば、神様ができる能力を受け継ぐことができるのです。
 霊界では百万名が一瞬のうちにバンケット(宴会)を行うことができます。自分が真の愛の心をもって「彼らをこのように食べさせなければならない」という、神様のように本当に愛する心がしっかりとできていれば、万事が不可能ではありません。それゆえに愛の園で、愛の世界で泳ぎ、愛の世界でそのすべての波長に拍子を合わせることのできる生活の訓練をした人は、神様の心の中にも入っていくことができるのです。なぜですか。真の愛の波長は同じなので、相いれないことは起こらないのです。
             *
 霊界に行けば食べることだけでも「今日はこのような食べ物で……」と言えば願いどおりにすぐ現れ、愛する人に会いたければ「さっ」と一体化してこのように頼めばすぐに現れるのです。そして、一瞬にして何万、何十万のバンケット・ルームを造ることもできるのです。これは虚構ではなく、理論自体がそのようになっています。そして、そこでは食べて残ったものは原形に戻ります。元の状態の元素に戻るのです。そのように便利な所です。ですから、先生が行く所は、天宙すべてが慕って従っていこうとする、そのような所です。
             *
 創造理想世界では天国が我が家です。そのように膨大な天国ですが、それが私の生活圏の舞台になっているのです。私の国ではありません。国には制度も多く、職種も多いでしょう。しかし、霊界はそうではありません。単純です。考えてみなさい。霊界に経済支援する工場があるでしょうか、ないでしょうか。服を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。御飯を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。
 生活必需品やこの世で必要な物は一つも必要ありません。ですから工場があるでしょうか、ないでしょうか。花だけ咲く理想的な社会だというのです。食べるものはいつでも食べられるようになっています。自分の考えるものがぴたりと現れるのです。食べて余れば……。そこにはごみ箱があるでしょうか、ないでしょうか。ごみ箱がありません。手ぶりさえすれば元素に帰る世界です。
             *
 天の永遠な世界、あの世に行けば政治体制はあるのです。経済体制は必要もないのです。いつでも自分が必要とする物はすべて供給できるようになっています。経済的なことは副次的な問題です。霊界に行く時、米を入れるひさごを持って入っていくと思っていますか。人から食べ物を恵んでもらって生活をしていくと思いますか。霊界は食べたければすぐ御飯が現れるというのです。それを食べ残しても「零に帰れ」と言えば帰るのです。ですから、すべて人格的な能力をもって活用できる対象にすぎないのであって、それが主体的な影響は何にも及ばないのです。
             *
 霊界がどんなにいいかは、言葉ではすべてを言い表せません。そこは衣食住が心配ない所です。家もみんなあり、服もすべてあり、食べる物もすべてあって自分が願うとおりにできます。愛の心情の価値内容によって相対的基準を自由に供給できるのです。愛を中心として完成した人格基準によって、その相対的環境要件を自由に補給できるというのです。私が寝ていても朝御飯、夕御飯を食べることのできる場所に体が引っ張られていくというのです。霊界を見ればそうだというのです。そのように自由だというのです。寝ながらも食べたり寝たり、また、思いどおりに訪ねていくのです。体がそのようになっているというのです。
             *
 霊界に行けばどのようになりますか。そこでは食べることが心配ありません。稼ぎません。あの世に行けば稼ぐ必要がありません。食べたい時はいつでも食べることができます。実におもしろいことに、食べたあと、そのかすはどのようにするのでしょうか。「帰れ」と言えば元素に帰ります。根本の世界、元素に帰ってしまいます。そのようなことが可能な世界で、四方八方に起動することのできる人とはどんな人ですか。神様の愛を中心として酔いしれる生活をする人です。全知全能な神様の愛を中心とした理想が、あらゆる方面に実現される所が霊界なので、神様の愛を中心として酔いしれて生きた人間が主導的な立場に立つのです。
             *
 霊界では元素を吸います。水であれば水の元素を飲みます。元素のようなものを知っていますか。そして、思う存分食べて手ぶりさえすれば元素に帰ります。ごみ箱がありません。
             *
 霊界に行けば仕事が必要ですか。そこでも八時間仕事をしなければなりませんか。夜がありますか。夜がないのです。いつも目覚めているのです。いつもこのすべての器官が働いているのに、何をするのですか。どんなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠に寝なくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想だけしっかりともっていれば「や、何々出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。ここに一万名が集まれば「一万名の食堂と食卓準備!」と言えばすぐに準備できるのです。
             *
 霊界にも空気がなければならないでしょうか、あってはならないでしょうか。なぜ空気が必要ですか。呼吸をしないで暮らせばどんなにいいですか。なぜですか。どうしてですか。呼吸をしないで生きれば大きくなることができません。二つの世界を連結させることができません。二つの世界を連結させなければなりません。肉身と霊魂を連結させなければならないのです。霊人体も大きくなろうとするなら、体が大きくならなければなりません。固着してはなりません。それならどのようにしなければなりませんか。見えないものも、神様が見えない愛の空気で呼吸するのと同じように、生命の源泉となる元素の供給をするのです。
             *
 この目がぱちぱち瞬きするのは、この世の空気中にあるほこりが入るのではないかとそのように瞬きするのです。霊界にはほこりがありますか、ないですか。霊界では神様が目を千年万年開けている、それは気分が良いですか。地上では、習慣性でぱちぱち瞬きしたので、霊界にほこりがなくても瞬きしなければならないのです。なぜですか。私たちに似たからです。
             *
 霊界に行ってみたいですか、行ってみたくないですか。文総裁がうそをついているかもしれないでしょう。うそでも神様の言葉のように信じれば、神様は創造の能力があるので、彼が願う以上のものをつくることができる主体であることを知らなければなりません。悪魔が「や、神様がこのように言った」と言うならば、悪魔が言う以上のことまで信じて行動すれば、神様は創造して成し遂げることのできる道がいくらでもあるというのです。


 6.霊界の権力は愛の権力である

 霊界に行ってみれば、お金が必要ありません。知識が必要ありません。私が行ってみるとそうです。権力が必要ありません。お金を創造して余りあり、ダイヤモンドも創造できる神様です。絶対者です。知識の大王です。権力の大王です。それをいつも春夏秋冬、四季を超えて永遠に自由自在に行使できる方です。その方に何が必要でしょうか。
             *
 霊界に行けば天上世界に、無限なる世界に数百億の人類が生きています。そこに行けば会えない人がいないのです。皆さんは歴史を学ぶ必要がありません。そこで「誰に会いたい」と言って誰かを呼び出す時、彼を愛する尺度があって呼んでこそ現れるのであって、私が欲をもって、その人が立派な博士だから「知識を得るために私が会う」と考えれば絶対に現れません。会えないのです。愛がなければならないのです。彼がそのように有名な人になるまでの過去に苦労した、その苦労の代価を認めて彼を愛する心で呼べば、東西四方、誰でもみんな接することができます。
             *
 お金、お金はいくらでも作ることができるのです。知識、神様は知識の王様です。権力、大韓民国の大統領になってみても……。このような話をして失礼になるかもしれませんが、小さい国、ソ連の百分の一にしかならない国の大統領が……。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。
 教授の知識を千年万年誇ることができるでしょうか。もって歩きながら誇りますか。一生にとどまるのです。それが自分とともにあるのは一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。優れているという人を見れば、知識をもって優れているということであり、お金をもって優れているというではありませんか。権力をもって優秀だというではありませんか。この世界ではそうかもしれませんが、神様はそれを何の価値もないと思うのです。霊界ではすべて無価値なのです。
             *
 人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。神様を知らなければなりません。神様は、人格的な神様でなければなりません。神様が漠然としていてはいけないのです。私たち自身が具体的であり、知・情・意を備えた人格的な人ならば、その主体であられる神様も知・情・意を備えた人格的な神であるというのです。そのように考えるのです。それでは、神様がもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。情だというのです。愛だというのです。神様も生きることにおいて、愛が最も必要なのです。
 天国では知識だけもって生きるのではありません。皆さんが霊界を知らないのでそう思わないのであって、霊界に行って知るということは一週間以内ですべて終わります。心を鏡のように見ることのできる世界が霊界です。霊界はいくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以内に凌駕できる直感の世界です。心の光を通じて見るので、そこに関連している因縁の世界は、自動的に分かるのです。それは情の心情を通して見てこそ、私と相対的関係をもち、主体的関係をもつのであって、知識であるとか他の属性をもっては駄目だというのです。
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 知識とは何ですか。知識があることによって、知ることによってすべての環境的条件を所有することになります。知識の中に最高の知識である愛さえもてば、天下がすべて連結します。知っている人が支配します。「知ることは力なり」と言ったでしょう。力のある人が支配するという論理です。ですから、愛をもった人は知識が必要ありません。あの世では、学ばなくてもすべて分かります。
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 宇宙が私の活動基地です。ところが、その世界にない物質でもって首を絞めており、お金、知識、権力でもって首を絞めています。その世界には、そのようなものは一つもありません。それによって残るものが一つもないのです。皆さん、この世界ではお金、知識、権力が必要だけれども、あの世にはそのようなものが必要ありません。今まで、サタン世界の人がそれを願っていたのです。
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 霊界でお金が必要ですか。食べる物、知識、権力が必要ですか。それが必要ならば、願えば一瞬のうちに生じるのです。そこには食べ物の工場がありません。学校もありません。権力者もいません。ただ神様が力の根源であられます。そこが私たちの永遠の故郷です。その安息の場が待っているのです。皆さんは誰しも願おうと願うまいとその場に行くのです。私はそれをよく知っています。
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 あの世では権力が必要ありません。霊界は愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。その世界はそのような世界です。したがって、愛を中心とした感化力をもてない人は、愛でもって感化できる本然の世界に行ったら、本質的に和合ができずに反発するのです。それは地獄に行くのです。これは深刻な問題です。
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 愛を嫌う人は手を挙げてみなさい。お金はなければ稼げばいいのです。勉強は今しなくても霊界に行ってすればいいのです。霊界では東大を卒業するのに、三日もかかりません。東大を卒業した基準を備えるのに三日もかかりません。心の中を見ながら、本心を話そうとすれば、先に聞くことができるのです。それゆえに、そこでは隠すことができません。便利でしょう。最高の能力をもって分析できる力をもったコンピューターでもついていけないというのです。
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 この宇宙のすべてのものは愛で連結されています。霊界も、万物もすべて愛によって連結されているのです。真の愛を中心としてそのように連結しています。ですから、真の愛さえもっていれば、どこでも連結することができます。真の愛さえもっていれば、みんな頭を下げるのです。霊界に行けば教育が必要ありません。誰でも一週間以内に、東大を卒業した人より数十倍たくさん知ることができるのです。東大を卒業したことを強調しないでください。良心的な人は一瞬にしてすべて通じるのです。説明が必要ありません。
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 霊界に行けば言葉は学ぶ必要がありません。一週間以内にあらゆることを知るのです。心の中で考えることが、すべて分かるのです。話す前にすべて分かるのです。ですから、だますことができません。そのような世界で皆さんは、サーチライトで照らしながら見守っているのです。その光の中で何の問題もなく無事通過して本来の位置に接することができるかということが、人生の路程においての課題だということを知らなければなりません。
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 どれほどこの世は不便でしょうか! 稼ぎが必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強が必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強をしなくてもみんな分かります。言う前に心で、既に分かっています。あの世に行けば、高い、低いということがすべて表示されているのです。ちらりと接すれば、すぐに分かります。ちらっと測定し、レベルを測るのです。東西南北がどのようになっているということを知っています。またこのようにじっとしていても、誰かが私を呼ぶのが分かります。そのような時には、私は無に入って相手を主体として立てるのです。愛の力を育ててつくられるのがあの世です。
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 霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治というものはないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。
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 神様も愛ゆえに創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何ですか」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。統一教会の食口は何が必要ですか。同じです。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万年権力です。
 本当に愛を知っている人は、天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北を思いのままに行き来することができます。これが中央停留所のようになっています。何の話か分かりますか。それがなぜ必要ですか。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために、強力な力によって出ます。低かった国もその中央を通じて出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がるのです。愛にはこのような偉大な力があります。


 7.霊界は神様の法則と秩序の世界

 この地球自体がそうですが、太陽自体も自転しています。地球の百三十万倍にもなる質量をもった太陽が休みなしに動いているというのです。宇宙ではこのような太陽系の質量の二千億倍にもなる広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と言いますが、宇宙には銀河系のような星雲が数えきれないほどたくさんあります。これをまとめて大宇宙と言います。
 私たちはこのような広大無辺な大宇宙の世界を、心を広げて考えなければなりません。半径だけでも数千億光年にもなるものすごい大宇宙を創造された神様は、その大宇宙を変わらない法則に基づいて数億千万年を動かしていらっしゃいます。私たちが考えることができず、感じることもできないほどに偉大な力をもって、このすべての天体を動かすというのです。
 このような宇宙を創造された神様を考えれば考えるほど、私たちは、その雄壮さと偉大さに自然に頭を下げざるを得ません。このような大宇宙を創造なさったその方が私たちを見守ってくださるお父様であり、私たちを保護してくださる神様、実存なさる偉大な主人公であられるという事実を、私たちは心を広くして考えなければならないでしょう。
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 人が精密に計算してレールをつくっていくことは、汽車の速度が少しだけ違っても脱線して大騒ぎするのですが、大宇宙は自然の法則に一致してぴったりと合い、自然に帰ります。この太陽系だけでも、太陽が広大な九個の惑星を抱えてこのようにみんな回転しているのに、そのような太陽系が一千億個も入っている大宇宙が、今でもあらゆるコースをたどりながら活動していると考えてみなさい。一千億個が入っているそのような宇宙があるというのです。それがすべて動いているというのです。これが「ただそのままできた」と言って、「自然だ」と言っています。
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 根本を明らかにしなければなりません。本然の神様がいるなら、その神様は絶対的な方でなければなりません。唯一、不変、永遠でなければならないのです。そうでなければなりません。神様が定めた法則は絶対的でなければなりません。それゆえに、この宇宙はその法則によって千年万年、何億万年運動を続けるのです。動物世界や植物の世界もそのような科学的公式の法則による基盤の上で存続するのです。ですから、数学ですべて解くことができるのです。
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 人が死ねば霊界へ行かなければなりません。霊界に行けばどうですか。霊界はすべての秩序が構成された世界です。霊界を知らなければなりません。霊界はどのような世界ですか。理想世界であると同時にしっかりと秩序が構成された世界ですが、愛を中心とした世界です。呼吸は愛でするのです。ここでは空気で呼吸するでしょう。魚は水で呼吸するでしょう。では、霊界では何によって呼吸するのですか。愛の呼吸です。愛によって呼吸するのです。
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 神様は天地を何で主管するのでしょうか。法で主管するのですが、法も愛で主管する法です。そして、主管の方向を後援するために、宇宙の法則も存続するというのです。それで、神様がどうして人間を創造したのかといえば、愛が慕わしいからです。一人じっとしていればいいのに、何のためですか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。
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 多くの人々が霊界を体験しています。その霊界は特別な世界です。それがどのような原則が起源になり、どのような結果で運行するというそのような膨大な背景を悟るということは極めて難しいということを知りました。皆さんが統一教会の主張している「原理」の内容を見れば、霊界は、公式的な法則で私たちが認識できる圏内に入るという原則を知るようになるでしょう。その原則を明らかにしたという事実は、今後の歴史時代に大きな問題になるだろうと考えています。
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 全宇宙が動くすべての法則を主管し、一方では人間を再創造し、その人間を神様の代わりに全宇宙を主管する価値的な存在として立てられるために、摂理なさったということが、どれほど驚くべきことであり、かつ有り難い事実かを、皆さんは骨身にしみるほど感じたことがありますか。



















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