青年の希望
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興亡盛衰

一九七一年三月二十一日、韓国・水沢里の中央修練所において、訪韓した百余名の日本の統一教会のメンバーに対して語られた、文鮮明師の講話である。


 世の中に住んでいる我々人間として、だれもが願うのは、滅びることを願わずに、栄えることを願う。それは、人間の情である。人間ばかりでなく、生きているものはどんなものでも、下等な昆虫においても、滅びることを願わない。存在するすべてのものは、栄えることを願うのである。

 我々個人から考えてみても、「成功し、世界的な有名人になりたい。そしてその中心の人物となって、世界を自分の願いどおりにしたい」という心は、だれでももっている。日がたち、自分の将来の時間がなくなるにしたがって、発展の度数が高まることを、だれもが願っている。

 しかし、我々人間の生活圏内においては、その願っている「栄える」という立場に立つことは、なかなか難しい。逆に、栄える反対のほうに、ふっとすれば落ちやすい。それに引かれやすいのが、我々が生活している現世の環境である。こう考えると、栄えるには、それに相応した、ある準備がなければならない。


理想を実現するための準備期間

 十の目的を願って、それ以上の準備をしている者であれば、その十の目的はもちろん成し得るだろう。それ以上の準備をしていた場合には、その目的を成し得て余りがある。もしもその準備が、十にかなわないようなものであったならば、その十の目的は果たすことはできない。果たそうとしても、八あるいは五までで、それは中途半端に終わってしまう。そうなると、その目的は、自分に必要なるものとして立ち返るかというと、そうではない。なさなかったほうが、その目的を望みとしなかったほうが、かえって良かったというような結果になることが、我々人間生活圏内においてたびたび見られる。それは、個人的にも体験することである。こう考えると、我々人間としては、準備をしなければならない。

 まず、その準備は、いかなる目的に向かって準備するかということが、重大な問題である。国を中心として、国のために自分は必要なる人間になり、自分自身はだれにも負けない愛国者になると、そのような心をもっている者ならば、まずその国たるものは、いったいいかなる国か。現在の国ではなくして、将来の国、あるいは現在より以上の国を願う。そういう目標を、はっきり決めなければならない。

 次には、その目標は、他人の目標ではなく、自分自身の目標であることを、はっきり認識しなければならない。その目標たるものは命よりも尊いものであるということを、いかに自分自身が体恤し、感ずるか、ということである。自分ながらに望むその理想世界は、観念的なものではなくして、事実、実体としての自分と、いかなる関係を生活圏内にもち得るものであり、またその目的か、ということである。それは、だれかに助けてもらう目的ではなく、自分が果たすべき目的である。この目的のために自分は生まれたし、この目的のために生を営んでいる。それが自分の運命ならば、絶対的運命と思うような、そういう観念に徹して、いよいよその目的に生きたいという人がいるとすれば、それに相応して準備期間が必要である。

 十を準備する者もいるだろう。百を、あるいは百以上の準備を願う者もいるだろう。それが世界的になれば、三十六億以上の人の願いが、そのままその目的になる。そのような思想圏になるならば、その思想を果たすにふさわしい準備をしなければならない。そして、歴史上にない強靭な忍耐力と共に、環境におけるつらい多くの場面を甘んじて受けきれることのできる準備をするには、それに相応する期間が必要である。

 人間の一生は、六十年か七十年、百年未満である。長くて八十年と見て、八十年以内において、世界的にそれをいかになすかという問題である。そのために、何年で準備しようか。十年間で可能であるか。あるいは二十年間で可能か。それとも四十年か。それを冷静に考えてみた場合には、自分という一人の男であれば男、女であれば女としての、その目的成就の可能なる圏に立つという自信を、人間がもつということは不可能に近い。そうであれば、いかに大きい理想への目的観念をもったとしても、それを果たし得るための、それに相応する準備期間は、十年、あるいは二十年、三十年、四十年以上になる。その準備期間に基盤をつくったとしても、その基盤の上に勝利圏を果たし得るかを考えると、それは準備よりも、行動に移して実行するのが、もっと難しい。


人間だけでは理想世界は成し得ない

 そうすると、その理想への目的は、自分が果たすべき目的として迎えていいか、悪いかということが問題になる。これを、そういう立場から考えてみた場合に、人間がいかに大言を言うとしても、世界的目的を一人で完成するということは難しい。決まりきったことである。それは、一つの民族をもってしても、不可能なことである。それは歴史が証明している。「主権者を中心として、国家を中心として世界を一つにしよう。新しい世界に発展させて、希望の世界をつくってみよう」、それを考えた民族、それを営んだ政治家もたくさんいる。しかし、一国家を動員してもなし得なかった。それが歴史の事実であることを考えるときに、果たしてこれはなし得るか、ということである。

 それは歴史と共に、多くの人々が考えてきた。しかしそれは、人間を中心として考えたことである。だから、人間を中心として願ったその目的の世界は、人間を中心として、また覆すことができる。甲の人が、理想の世界をつくったとして、もし、それ以上のことを考える人がいた場合には、それは覆される。それを転換させることができる。我々人間の願うその最高の理想世界は、絶対的理想の世界であり得るか。人間を中心として考えてみた場合、相対的理想世界は考えるかもしれない。しかし、絶対的理想世界は考えることができない。だから、人間なりの、人間として願う希望というものは、生まれた環境が違えば違うほど、それは変わっていく。その理想世界は変わっていくに違いない。

 自分の命を懸けて、万年の歴史の価値をたたえながら接して、鑑賞すべきその世界たるものは、いったいいかなる世界だろう。こう思うときに、人間同士、頭を使って組み合わせた理想世界は、絶対に、絶対的な立場においての理想世界にはなり得ない。このような結論に帰することを考えるときに、人間以上の絶対なる動機とか、あるいは因縁を結び得る何ものかがあった場合には、それと関係を結んで、全人類が願う目的の世界としてそれを果たし得たとするならば、それは人間同士が組み合わせた理想世界よりは、長く続くであろう。

 それがもしも、絶対的で、全能なる神で、一度聖なるものを決めた以上、神自体変えることができないという見地に立つ神であるとしよう。今その神を中心として、果たすべき目的観念が、「絶対的にならざるを得ない」という神の声によって組み合わせたならば、それは人間同士で組み合わせた理想よりは長く続く。それは変わることができない。それ以上の絶対なる人間が生まれない以上は、変えることはできない。

 このように、人間のみにおいて考えるときには、絶望に帰する。いつまでも革命が続くという、歴史の悲哀を感じなければならない。その歴史過程には興亡の歴史、盛衰の歴史は繰り返すであろう。そう思うときに、我々人間だけでは、理想というものをもったとしても、それを成すすべがないという結論になる。

 その理想というものは、万人に尋ねてみても、万人の心情に問うてみても、そこに逆らう要件をはらんでいる。思えば思うほど希望の要因になり、眺めれば眺めるほど発展の原動力になり得るという理想世界たるものは、人間を中心として果たすということは絶対的に不可能である。だから、人間だけを考えた場合には、悲哀なる歴史観になる。それは、衰亡の極に尽きてしまうような、ある限界内の歴史観にすぎない。そのような希望にすぎないということになる。


宗教による文化圏

 そこで人間は、人間以上の力で、人間以上の生命力によって、環境に引かれるのではなくして、環境を引っ張っていく、主体的立場に立ち得る理想世界を願わなければならない。その理想世界は、そうするには、人間ばかりではなくして、絶対なる神がいるとするならば、神自体もそれを必要とせざるを得ないものである。その神を、観念的な、ある空想的な実体としてでなく、生活圏内の神として、歴史圏内の神として、現世あるいは国家圏内を動き得る神として、世界の文化とか、世界のあらゆる制度を動かし得る、そういう神として、いかに迎えるかという問題が、その絶対なる理想世界をなし得るかという問題とつながっている。そのような立場において、人間世界においては、宗教というものがある。

 人間が高い、あるいは高尚なる理想を願う心をもっていればこそ、制限や、ある限界を乗り越える絶対者なるものを慕わざるを得ない。それを媒介として、我々は理想世界を誘導してこなければならないという立場を思わざるを得ない。そのような立場から思ったときに、人類の歴史は未来へ未来へと発展してきているが、その原動力となり得る力は、どこから来るか。人間だけの力ではなくして、神に慕い寄る、その思いの因縁から、歴史は発展してきた。そのような摂理になっている。すべて歴史はそうなっている。

 我々の歴史に現れているすべての文化というものは、人間が意識してつくった文化ではなくして、宗教を起源としての文化であるということは事実である。そういう内因があるからこそ、そうならざるを得ない。皆さん一人一人も、「我は世界的人物になる」、またその世界より以上の理想世界があった場合には、「その理想世界の中心者になりたい」と、そう思う。その自分のもっている思いの力というものは、ある圏内で望む人においては、その圏内に支配されたくはない。いつもそれを乗り越えたいと思う。それ以上の何かを求めている。それを見れば、その思いがあればこそ、未来の発展の要因になり得る。何かを考え、その思いによって我は引きつけられ、そのような動機があればこそ、現実生活圏内を達観し得る、あるいは忍耐し得る力となる。

 自分ながらの良心の望みから考えてみても、そのような考えをもつその時においては、人間は絶対堕落しない。絶対滅びない。何か背負い、暗中模索している、そういう境地に立っている者においては、発展の跡を残すことができる。後退するとか、滅びるとかという結果は残さない。それは我々生活圏内に、皆さんが毎日体験することである。一人の人間の生活を中心として考えてみても、そのような働きをして生きている。

 すべての歴史の中心において、その歴史が滅びるか滅びないかという問題も、結局は歴史以上の思想を思いながら、民族であれば民族、国家であれば国家がそれを思いながら、それはみんなの望みであるけれども、自分の望みであると思って、その方向に全国民が進んでいくならば、その国は絶対に滅びない。努力を続ければ続けるほど、それに比例した発展の跡は残る。そのような思いもなくして、体の願うまま、生活圏内に覆われた場合には、滅びる。より以上の目標を思わず、自分ながらの一日の生活圏内に限って、食べれば喜ぶ、遊べば喜ぶというような生活を営む者は、後退せざるを得ない。そのような民族は、滅びざるを得ない。

 こう思うとき、それが栄える、発展する、善の結果に近づくという、その根底になる動機とは何か。それは良心であり、その良心を中心として世界とつながる考えをもつ、人格による。そのような考えによって、発展の要因をなし得る。それを慕い合い、そして組み合うところには必ず、ある実体を残していく。それは歴史の事実である。そうすると、数千年間民族から取り去ることのできない思想をもつ民族があるとすれば、世界においてどうなるか。その思想を中心として、いかなる迫害が加わっても、迫害を取り除いて黙々と進んでいくという民族があるか。そういう文化の歴史において、残った文化圏があるか。あれば、それは素晴らしいものになるだろう。


素晴らしいイスラエル民族

 皆さんが知っているように、イスラエル民族に対して、「これは素晴らしい民族だ」と、今になってもたたえる。今から二千年前に国を失い、民族はばらばらになり、放浪の民になってしまった。国を追われ、部落を追われ、世界に散らばったイスラエル民族が、数千年の間それを我慢し、乗り越えた。その原動力とは何か。それは、憎しみを中心とした考えによって乗り越えたのではない。唯一神による、その信仰である。

「我々は選民である。選民の行く道は世界を救うため、こういうような苦労の道が妥当な道である」、このように思う民族ならば、それは素晴らしい民族になるであろう。

 しかし、イスラエル民族においては世界に追われた。そして苦労しながら、選民思想に徹した考えを全部がもって世界路程を通過したのではないとしても、その中に核心となる、中心となる幾人かがそういう思想をもったならば、その思想は再び春に向かって芽生えてくる。そう思うとき、イスラエル民族史は、一九四八年以前までは、悲惨な歴史である。だれもその歴史を慕う者はいない。彼らと接する環境とか因縁をもちたいと望むものは、一人もいない。ナチスによる虐殺の歴史をもっている。

 そのような境地に立っても、方向を変えなかった唯一神を中心としての選民思想たるものは、これは難問である。彼らは、数において負けている。外的においては包囲されている。もう今すぐにも消えてしまいそうなものである。しかし、消えることはできない。消えてしまうような形をして、何千年も続く。何千年ばかりでなく、何万年も続くとするならば、それは時が来た場合には、必ず世界を制覇する素晴らしい民族になる。

 このように思うときに、イスラエル民族の、肉体をもった国民が偉いのではない。その国民に付いている思想が偉い。しかし、神はこういうイスラエル民族を、再び建国の主人として立たせることができなかった。イスラエル民族史がそうなっていない。かつての民族史以上の歴史をつくり得る聖人たちがいない。

 しかし、そこにおいて個人の迫害はもちろん克服した。家族同士の迫害も克服した。民族間のその迫害も乗り越えた。一国でなく、ヨーロッパ全体、世界全体の主義を主張する、そういう世界圏国家群を迎えても、それを乗り越えた。何をもってしても、死、死、死でもって対抗しながら、後退せずに乗り越え、結局は敗者のようであるけれども、勝利の一日を迎えたのは、ナチスではなくして、イスラエル民族ではなかったか。


新しい思想「統一思想」

 このように思うとき、世界をつくる動機たるものは、外的条件ではない。外的条件に近くなればなるほど、それは滅亡の道に近い。だからあらゆる文化圏というものは、ある頂点に達した場合には、必ず滅びる。なぜ滅びたのか。それ以上の目標に向かって進んでいくという、精神的な原動力がなかったからである。このような結論を出すと、歴史上に現れたその文化圏が滅びずして、数千年の文化と共に、歴史と共に残った場合には、いかに素晴らしい文化的世界になったことであろうか。

 驚くばかりの文化が、なぜ滅びたか。なぜそこで尽きてしまったのか。その背後を思うとき、それ以上押しつける精神的背後の原動力がなかった。そこには、国という観念が少ない。民族における民族愛が欠けてくる。家族なら家族の、母を中心としての関係が薄らいでくる。自分なりの生活観念も真剣でない。これを見ると、世界の文化も、世界の民主主義国家における先進国家も、本当に幸福かというと、そうではない。外的基準の文化が、永遠に続くことは絶対にできない。今までつくり上げた文化基準以上の精神的母体がなければ、世界にたたえられるような文化圏として、あとの歴史に残すことはできない。

 この観点から見れば、日本の現状はどうか。これは敗戦の悲哀を感じて、もう生きる道はない。命をささげて、もう一回奮発しなければならない。奮発するには、まずもって何を考えなければならないか。昔、戦争する時より以上の新しい決意を立たせなければならない。その決意を何によって立たし得たか。いろいろ環境もあるだろう。アメリカの援助とか韓国動乱の恵沢を受けてとか、そういうことも復興の契機になったのであるけれども、日本における昔以上の、心身共に一致し得る基準が満たされたところにおいて、復興の道をたどったに違いない。このようにして、戦前より以上の経済的文化圏を果たすことができた。では、今から日本はどのようになっていくだろう。これ以上発達し得るか。

 日本自体を思ってみた場合には、日本は加工産業国家である。原料がない。これは、ある次元の限られた圏内においての発展は許されるが、もしも、周囲の国家圏における資源を補給している国々が先進国家圏になった場合には、日本は自然と絞められる。そうならざるを得ない。自分自体で自給自足し得る、文化の原因となり原動力となり得る、外的の経済的資源をもっていない。それは他国に依存しなければならない。これは絶頂に達した場合には、どうならなければならないか。それは下がる。必ず下がっていく。依存しながら、よその国を助ける国は絶対ない。それは今までの国としての鉄則である。日本をもうけさせてやって、自分の国がマイナスになりたいという国はない。だから日本において、物的発展の基準をたたえる、そしてそれを中心として満足し得る立場でもって、日本自体が永遠に続くかというと、そうではない。絶対そうではない。それが続けば続くほど、それは腐敗する。

 国民はみな分解されていく。自分なりの国家という観念を失い、氏族観念をもつようになる。そして、氏族観念を失い、自分の家族を中心に考える段階になる。家族みんなが自由な環境圏に立つようになると、結局二人、夫婦、男女関係に尽きてしまう。その男女関係に尽きた場合には、人間として落胆してしまう。その実証の実体として現れたのが、ヒッピー族である。「権力とか国家とか、何か社会制度とか、それはみんな主権をもっている何人かの主張を満足させるための体制であって、万民すべてを幸福にさせるものではない。国家はいらない。アメリカ民族もいらない。自分の家族もいらない。自分は父母によって生まれたのであって、他の人と何のかかわりあるか」。このように、みんな分散してしまう。

 これを大雑把に見た場合、新しい思想として残る道は何であろう。人間以上の内容をもつところによって、それは求めなければならない。そのような結論になってくる。歴史圏内に今まであったそういうものではなくして、今まで思いもよらなかった新しい宗教観念である。絶対なる神の存在を、感覚圏において感ずる、体恤し得るようなもの。神の認識圏を我々万民に、普遍的に、可能なる認識圏を与える新しい信仰観、それが必要である。そう思うときに、宗教世界においては再臨思想が残っている。その思想たるものは、落胆の、堕落の絶頂にいる万民に対して、一つの願いの、望みの神として会ってみたいという、要望の要因としてある。その立場から見た場合には、「統一思想」というものは、この現世でなくして、未来に続く新しい世界において、大なる貢献をするのではないか。そうしなければ、世界は滅びるであろう。

 この文化圏に包まれて、この文化と共に定着してしまうような宗教ではいけない。毎日の信仰生活圏内において刺激され、破竹の勢いでもって打ってかかり、打破してしまうような、新しい何ものかを残し得るという、実績を求められるものでなければならない。それを果たし得るか、それが今後の問題である。


主体性をもつ

 我々の活動というのは、一日生活圏内において働くけれども、その内容は、歴史を代表している。生きた歴史の実体として花ざかりの青春を懸けるとき、現世において、この何人かの結団こそは世界的であり、いかなる文化圏でも果たし得ることのできない、そのような結びつきである。世界はそこから生まれてくる。

 今このように思うときに、皆さんは「統一思想」の勇士である。いまだ日本歴史になかった思想圏に立って、あるいは宗教圏に立って、両方のすべてを総合し得た新しい主体性をもたなければならない。そして、世界的な日本のまっただ中に立っているというような信念に、いかに徹するか。これが間違いなく、万民の願う理想圏に立ち得べく、後継者となり得るか。事実そうか。そこに徹し、そこに決意せよ。誓いの的とともに、誓いの実体となり得るよう、そういう自覚の本源とみなし得るような感覚圏に、あるいは体恤圏に自分が立っているか、それが問題である。

 それができていなかったならば、理想がいくら偉大であったとしても、それは皆さんには関係がない。それをもしも体恤したならば、ユダヤ民族が数千年の歴史を通過したとしたなら、我々は数万年の歴史をも徹して生き得る。歴史を顧みながら悲哀した場合には、それ以上の人であるならば、内心がそこに潜んでおり、原動力がそこに潜んでいるという肢体を認め、確信し、自覚し得る肢体になっているかどうかということが問題になる。そうなっているならば、一億がいても、問題ではない。固いものがあった場合、そこにぶつかると、柔らかいものはみな割れてしまう。何千、何万、何億あっても、問題ではない。強靭で、強固で、確固たるもので、だれもそれを変えることができなければ、「絶対的に強し」と言う。それ自体を発見した一人があった場合には、その一人によって、歴史は変わる。

 皆さん青年は、今からこの日本の歴史を受け継がなければならない。将来の日本は、皆さんの勝利圏に、だれもが集うであろう。いかに日本自体が、自己の路線をもって勝利圏に立ったとしても、その主権が日本を担うのではない。担ったとしても、それは日本を有するための準備の過程の、そういう主権圏であった。それを最後において愛するような主体的な思想の核を、日本のあなたたちの中になしているという自覚心をもって、それに向かって環境が変わっても、それに影響を受けずに徹した路程を行くならば、必ず、あなたたちは日本の中心になる。だれが何と言ってもそうなる。それがアメリカだったら、アメリカに何人もそのような人がいるならば、アメリカの歴史を変える。もしそういう人が一人でもいたならば、その一人によって民族は変わる。いくら数十億の人類が世界中に生きていても、そういう人が地上に一人でもいた場合には、地球は回る。人類は回る。結局はそうなる。それは決まりきった結論である。

 そうすると、あなたたちが、こういう自覚に徹した場合は、日本や世界は、自分の手の中につかみ得る。つかむばかりでなく、自由自在に動かし得る自信をもって、それに何倍かの迫害が加わってきても耐え忍び破れないというようでなければ、何十年、何百年を続けて治めることはできない。それは何年間にそうなるかといえば、長くて三十年だ。四十年もいかない。


目的観念に徹せよ

 あなたたちのある者は、「自分は何大学を卒業して、社会へ出た場合には、自分なりに幸福なその若者になったはずなのに、これなんだ」と、そう言う者がいるかもしれない。

 不平を抱く者には、希望がない。不平をばらまく者には、希望がない。絶対的に滅びる。それをはっきり知らなければならない。迫害の中にあっても、不平を言わない。ガンとして走る。未来に向かって、死んでも落胆せず、喜びを抱いて死ぬならば、その人は歴史に残る。この思想は歴史を建設する。それがイエス様の思想である。不平を言いながら死んでいった者に、愛国者たるものは一人もいない。


 親孝行する者は、親のために死んでいくのであれば当然である。正々堂々と、男として行くべき当然の道であるというように、これは親孝行なる者が行く道である。

 ある者は普通の生活圏において、その道を行く。ある者は幸福な圏内において、そういう道を行った。ある者は一番貧乏の中で、その道を行ったとする。その中において、だれが親孝行の第一人者になるか。貧乏中の貧乏の中でそういう道を行った者が、親孝行の伝統の先祖になるのである。

 歴史の主人にはだれがなるか。歴史の中で、宗教において、貞節を守るためにいかなる迫害の道でも甘んじて死に、乗り越えていったものは、キリスト教である。現世に生きているキリスト教文化圏である。しかし、もうそれは花ざかりを過ぎて、においは過ぎ去っている。そうすると、「統一思想」は世界を統一する。世界万民の、半分の半分くらいが「統一思想」になる。その思想のゆえに「殺してしまえ」と言われても、一遍で死んでしまうような思想、これは一遍で世界を占領してしまう。

 だからあなたたちは、どういう道を行かなければならないか。滅びる道、衰える道、そういう道には行きたくない。栄える道、発展し得る道を行きたい。行きたいという目的観念に徹せ! それは人間ばかりの目的観念ではない。「統一思想」においては、神の心情をもちたいという。これは偉大な発見である。


天倫と人倫を一つにする

 人間には人倫がある。人倫の母体は何か。国を愛し、家族を愛す。忠孝というのは、何につながっているか。法則につながっているのではない。情につながっているというのである。情の基盤を無視した理想観念は滅びる。希望とか、安息とか、喜びの観念は、情的基盤の上に立っている。人倫道徳を主張する者は、人情の基盤を無視した観念に立っている。それは無味乾燥である。人倫に対し、天倫がある。天倫があるということは知っているんだけれど、天の法則、天の原則、天の情を言った者は、一人もいない。

 天情と人情が、いつも反発した場合はどうなるか。天情があれば人情を通じなければならない。天倫があれば、人倫を通じなければならない。こうなるのである。だから、良心の法則というものは、憲法第何条と言わなくても、良心のほうでは永遠に正視した立場に立っている。教えなくても、教わらなくても、それは分かるようになっている。悪いことか良いことか、みんな分かる。良心が喜ぶような情的内容は、なぜ分からないか。良心による情的内容を教わらなくても、分かるようになっているのであるけれど、その内容が分からない人がいるので、我々が善と悪を分かるようになって、それを救ってやらねばならない。そういう人間がまだまだ残っている。そこには理論的根拠がある。

 そういう立場で見た場合、神が喜ぶ主義とはどういうものか。もしも神が喜ぶ理想世界、理想圏があるならば、その理想圏、神の理想とはどういうものか。我々においては、それは推し量る理想である。しかし、「こうだ、ああだ」と人間が言うような内容でもってつくることはできない。そういう理想であれば、その理想は我々には必要ではない。創造が問題である。創造を人間が否定してしまうことは絶対にできない。否定した場合には、崩壊とか、破滅になってしまう。そう考えてみた場合、「統一思想」は、神が喜ぶ思想であるとともに、人も喜ぶ思想である。神ばかり喜ぶ思想であったなら、神は孤独の神である。

 いくら偉い神としても、一人では何もできない。もし、あなたたちが日本一の学者になったとする。そして一人ぼっちで図書館で座って、「ああうれしい」と、何もないけれど大声で笑っている。こういうのは、どうなったというの。「頭が回ってしまった。気違いになってしまった」と言う。神はいかに絶対なる神でも、いくらささいな被造物を中心として喜びを得たとしても、神の権威は落ちないというのである。相対者がいなければ、神は滅亡である。希望がない。発展の要因も、満足もない。すべてがない。男がいくら理想をもったとしても、女なくして何もない。男がいくら世界を救う自信があるといっても、女なくしては、おしまいである。その理想を、女と替えるか。「替える」と言う。それは何を意味するか。実体の相対者は、何より貴い。そうしたら女の価値が上がる。女が、歴史上たたえて余りある美人であるとして、男なくしては大変になる。その顔もいらないという。貴いものすべてをやっても、替えるという。相対者なきところには、希望も何もない。

 絶対という言葉は、相対を認定しての言葉である。否認しての言葉ではない。絶対というのは、もう既に相対関係を言ってしまった結果の言葉である。相対があるから絶対がある。神様の希望というのは、神様ばかりの希望ではない。それではかわいそうな神様である。人間ばかりの、世界を中心としての希望をもっても、神は世界一の、天宙を主管する神様であるから、その人間自体の理想には、神様はびくともしない。そうであれば人間は、最後には落胆してしまう。「あなたと共同作戦し、世界的に共同して、つくり上げる理想はないでしょうか」、そう聞くようになる。神があるとすれば、そうならざるを得ない。

 結局、人間だけの結果の世界を願うのではなくして、神と共同して協議してつくる世界を、自然と願う。そういう方面から見ると、「統一思想」たるものは、善人を乗り越えて、天上と地上、天倫と人倫が一つとなり、男、女を中心として一つとなるものである。偉大な発見といえば、偉大だ。それを妨げる者はいずこにいるか。

「統一思想」によって祝福された家庭を否認する家庭は、それ以上の理論と、それ以上の理想の基盤をもった者でなければ、それは信じられない。

 このように考えた場合、一人の男は「天地」の天を象徴し、女は地を象徴する。それらがすべての象徴の実体となる。実体ばかりではない。これらが完全に一体となれば、宇宙と完全に一体となるというのである。人間だけが一体となるのではない。神も喜びで一体となる。その原理の根底をもった先生が素晴らしいから、素晴らしいのではない。内容が素晴らしいから、素晴らしいのである。


必要な再臨思想

 聖書を研究した場合、「統一原理」にはとても勝てない。八百年から百二十年かけて書かれた聖書である。そこに一貫した思想の内容がつながっているということを発見した。聖書をそのように書くということは、人にはできないことである。その思想が六〇〇〇年の今の末の時期において、世界に現れてきた。この内容は、だれも見いだし得ない。それは旧約聖書を中心として新約聖書を解明し、新約聖書ばかりでなくして、現世の世界発展の現状と一致する結論を出しているということは、これは素晴らしいものである。

 あなたたちは知らないけれど、蕩減の道というのは世界に進行している。これを見た場合、もう遠くない。我々の自由な思想圏が、もう目の前にころがり込んでいる。我々に向かって突進してきている。それを料理し、人々を指導し得る人材としての日本の若者として、要は、どういう決意をもっているかである。問題は、自分である。我々が問題である。自分を中心としての強固なる信念、これを貫いた場合には、我々は自分の生命はもちろん、先祖たちの生命も復帰し得るという話を知っている。

 自分一人の生命を抜いてしまった場合には、霊界の先祖たちの生命もつながっているから、それも引っ張られていく。自分を引っ張っていくということは、後孫たちが引っ張られ、歴史が引っ張られてくる。それを自覚し得るか。だから我々は、三時代を代表している。歴史を代表し、現世を代表し、未来を代表している。過去の世界においては、希望たるものは未来に向かって、突き進んできた。未来に向かっての希望である。未来、未来、未来というふうに、希望はあすにあると思った。なぜ、あすにあるか。きのうあって、昔あったなら、どうなるのか。希望を過去の中に振り返りながら、喜びながら見るのはどうか。何もないところに苦労しながら、希望を探すようなつらい歴史ではなくして、なぜ希望が昔になかったか。そういうこと考えたことある? 将来の歴史は、そうではない。今、我々が正そうとする歴史は、未来に残る歴史、未来に向かって進む歴史ではない。未来を動かす。現世圏内にいて、未来の価値より以上にたたえる歴史観である。未来における歴史は、過去を宝としながら、それにつながって発展する。

 そうするには、理論的な体系ばかりではない。法則、制約、規約ばかりではない。そこには心情的問題が、歴史より以上の問題として根を下ろしている。これが神の父母の心情、真の父母の心情である。この思想は、永遠に残るであろう。真の父母を中心としての生活圏は、真の生活圏にならざるを得ない。真の父母が地上で生活していったその生活は、万民共に真の父母と認める以上は、それを生命の糧として、自分の将来の基台として、これを侍らざるを得ない。だから歴史を否認していくのではなくして、歴史をたたえていく。現世の実体と、その価値を比較対照し得る主体が待たれている。

 だから自分が幸福なるものか、不幸なるものか、すぐ分かるようになる。今はそれが分からない。今の歴史はそれが分からない。自分が不幸なる者か、分からない。それは宇宙的な基準がなければ、自分はどういう方向に立っているか、東の方か、西の方か、南の方か、北の方か、分からない。今からの歴史は、そうではない。ちゃんと分かるようになっている。だからより以上の希望に向かって、未来に向かって、希望を抱くような、望むような世界ではなくして、過去を慕いながら、現世を生きる、こういう歴史になる。反対の歴史になる。堕落しなかったら、そういうふうになったんだろう。

 あなたたちの使う言葉は、万民共に使う言葉である。そういう文化の環境は、世界的文化圏になったであろう。いくら歴史が発展しても、その基準を外れては現世が成り立たない。滅びるものは現世の歴史圏において流されてしまうものである。滅びてしまう。尽きてしまう。それ以上の基準でもって、あすの未来に再出発しよう。そうすれば、この堕落世界が過ぎ去っても、我々の愛する理想世界は、神によって残るであろう。

 今までは、人間だけの世界であった。人間だけの歴史であった。神を中心とする歴史は、世界的になっていない。それは宗教的にはなっているのだけれど、世界文化的にはなっていない。だからそういう時代を中心として、再臨思想というのは、現世においてこれは、望まないようにしても、望まなければならないような立場に、自然と立つ環境にあるのである。

 みんな尽きている。西洋人は、もう自分の西洋思想にはついていけない。東洋思想を訪ねてくるようになっている。それは人だけでは、尽きてしまう。神を中心としての思想というものは、これは当然、結論として押し出さなければならない。ことに「統一思想」は、これは願っても願わなくても、神自身、これを万民のものとして、絶対的理想として願わなければならない。そういう理想に立っているとするならば、あなたたち自身が、そういう理想観念に立ち主体性をもった者になっているかどうか、問題はそこにあるのである。

 自分の生命を、何のために費やしていくか。「自分のために、子供のために」。自分は何のために生まれたか。「この理想を迎えるために」と考える。これ、ずーっと来たった歴史過程に、今日たった一時で迎えるべき、その一日、絶頂圏に達して旗揚げするために生まれてきた。これは素晴らしいことである。自分の歴代の先祖たちは、何のために今まで生まれてきたのか。「自分一人を残すために、今まで生きたり、死んだりしてきた」、そう思うのである。先祖たちは、そう思ってくれると、喜ぶ。あなたたち、先祖の立場に立ってみなさい。喜ぶか、悲しむか。まずもって先祖たちは、喜ぶ。先祖たちは希望をもつ。「後孫に自分より偉大な者が生まれてきた。何代目の先祖さん、自分は何代後孫のだれだれだ」と言う。十代、二十代は遠い。近いほど価値がある。彼は私の孫だ。孫よりも、私は子供だった。おじいさんより、お父さんが偉い。先祖を集めて、会合をやろう。いろいろ集まる。「だれそれさん、ありがとうございます」。向こうであいさつするようになる。そうなる。向こうは希望を果たし得られない。そういう希望圏外で死んでいった。その希望をなし得る勝利圏に立つその者は、偉い者になる。

 歴史上の先祖たちの復活体としての「自分」という確信は、なければならない。その先祖たちに、「第一にこうやり、第二にこうやり、第三にはこうやらなければなりませんよ」と教える。先祖たちは、「は、は、はーい」と言うのである。絶対的にそういう立場に立つという自覚をもったことがあるか。それを考えたことがあるか? ないか? あるとするならば、それは偉いものである。「統一思想」によって、そう考えるようになったとすれば、偉いものである。

 先祖を中心として決意する。それは恥ずかしくない決意でありたい。現世において日本に一億の民があるとしても、我一人と替えることはできない。それを考えたことあるか?

 一億の何倍、何億倍の価値がある。数で考えた場合、一億分の一でしかないだろう。価値からすれば、一億、何億倍になる。そういう自信、価値観を体恤したことあるかというのである。日本内にいる君たちだ。絶対日本が我々を必要とするというような、影響し得る動機の主体にならなければならない。影響される者になっている。それでは、生命はない。そういう自覚をもったことがあるか。たった一人であるけれど、日本人を率い得る日本人、それ以上の日本人、それは気持ちいいんだけれど、日本内の日本人、それは気持ちが悪い。


氏族のメシヤ思想

 あなたたち、勉強好むの? 好まないの? 勉強をしたいという者、手を挙げて。(はーい)。手を下げて。勉強したいというのは、勉強すれば希望があるし、成功するということを知っているからであって、もしもそれを知らなかったら、勉強はしたくない。勉強、だれがするの。なぜするか。これに比例して、何か自分に受け入れるものがあるからという希望をもっているからであって、それがないとすれば、勉強はしたくない。本当は勉強はつらいものである。本当は、春の陽気の花盛りを眺められる、においかぐわしい環境になった場合、「ああ勉強したいなあ」と言う者がいるの? 仕方ないから、勉強をする。渋い顔して、歯を食いしばってやるのである。なぜ。今喜ぶ春より、何十倍より以上の喜びの春を迎えるためである。

 壇上で大きいことを言う先生であるが、今まで何をしたか。何もしていない。有名になったのは、悪いうわさだけである。良くないうわさで世界的に有名になった。そのうわさを考えると、胸を悪くするような思いをするのだけれど、それがなければこういう道は行かれない。有り難いものだ。それがあればこそ、だれもできない統一教会の文さんになる。先生になれる。分かる?

 みんな、歓迎する。みんな一から百まで、生まれたばかりの子供まで、「はい、はい」と言うような具合である。それは、だれもがそう言う。だれでも、競って歓迎する。しかし、願わない世界を開拓すれば、願わないうわさも起こる。願わない開拓の基準が、願うより以上の基準に立ってみれば、世界は一遍に、あーっと転がってしまう。そういうことを、ちゃあんと秤で計って、間違わない計算、それから実証の価値の内容を見つめているからこそ、こんなことができる。それはつらいことである、本当は。

 腹は減る。腹が減るのを喜ぶ者は、死んでしまう。真実中の最高の真実は、腹が減ること。御飯がおいしい、欲しいというのは、最高の真実である。それよりもっと高い、最高の真実は、愛したい。そうなる。眠りたくても、こういうふうにして、これより以上の何かを収穫する、収めることがあるからこそできるのである。なければ、これは無能なことである。

 そこであなたたちは、歴史始まって以来、林家なら林家において、我は王様だ。これは、氏族のメシヤ思想である。それを、日本のすべての氏族圏内にあっても、そうやる。一年過ぎても、十年過ぎても、思えば思うほど、懐かしく考えれば考えるほど、おもしろい。そういう思いで満たされるような立場、そう考えたことがある? 神はこれを愛して、我が氏族のうちに自分というものを選んでくださる。何々家、林家とか、氏族を中心に、たくさんの姓がある。だから再臨の時は、キリストと共に、王様になる。天の氏族になるのである。再臨の主は、世界的中心の先祖だけれど、あなたたちは氏族の中心として、同じ先祖である。だから、現世を総括しての中心者には間違いないという確信をもたなければならない。

 現世、我なくしては成り立たない。反対する歴史は後退すべし、そういう確信をもて。自分の行くところには、すべてが続く。神も願うような決心をもたなければ、その氏族なら氏族を代表して、復帰の手を伸ばすことはできない。何にも負かされない、そういう自覚をもったことあるの? あるいは、そういう自覚もちたいの? (もちたいです)。もちたいのだから、もったことないということではないか。そういう観念、自覚をもたなければ、動機が生まれてこないというのである。動機なくして、結果が生まれる原則はない。そういう信念でもって立ち上がり、やろう!

 何日くらいやるか。一時間やろうか。やろうとする時間が長ければ長いほど、勝利の圏は広くなる。十年間やろう。それは短い。何十年やるか。原理的に見た場合、何十年、少なくても四十年。四十年は二十年と二十年を合わせて四十年にしよう。二十年は三掛ける七で二十一。寝るのも、食べるのも、行くのも、そのためである。それ以外、一切許されない。当たるものは、みんなこっぱみじん。

 そうすると、その道には、立ちふさがる障害物が出てくる。自分の決心が大きければ大きいほど、「事実そうか」と言って立つ者がいる。そのような体験をする。これこそ自分の敵だという場合、日本において一騎打ちというのがある。これこそ万年の怨讐との最後の一騎打ちだ。日本刀をひゃーと抜いて、そういう気持ちだ。さあ、君の実力を果たせ。

 日本一はだれか。私は少なくとも七等、あるいは三等以内には必ず入る。その人が十二時間働くならば、私は十六時間やる。それ以上、二十時間やる。そう決めてかかる。やる。厳格に。日本的にならずして、世界的になる。

 先生は、帝政時代にいろいろ拷問を受けた。打て! 角棒で何人かがする。打て! 打たれて、自分の決意を捨ててしまうような男ではない。そんな生易しい男ではない。死んでも復活して、何回も戦わなければならない。自分はどういうものであるかを示す立場にある。生死の境、死という問題は易いものである。そういうような訓練を思う。二つとない訓練の場だ。いずれの場所でも、それはやる。敵が向かってきた場合には、後退するな。真っ向から戦え。戦うには、何年ではない。何十年、一生涯、一代でできなければ二代、三代……五十代、百代続く。結局は、それは勝利する。

 そういう自覚を、あなたたち、今からもつだろう。どうだ。(はい)。日本内の日本人としての統一教会、それは資格がない。やろう! 第一作戦、第二作戦、第何十作戦、第何百作戦。夜も昼も、食べずしてやっていく。四年間で、すべての戦いをやり尽くす。しかし、その反面、勉強はびりにならない。優等生になる。

 そうすると、一番必要になるのは時間である。時間の問題が先立つ。それにはどうするか。寝る時間を切ってしまう。食事の時間は、一時間は長い。たった三分あれば済む。日本の立ちうどんは、食べるのに三分かからない。先生は、もりそばをよく食べたものだ。汁に浸したら、一口で入る。そのようにする。

 韓国では反対され、たった一人である。家もなければ、何もない。むなしい詩があるだろう。「金もなければ死にたくもなし」。だれもいないよ。金もなければ服もない。何もない。みんな、ない。環境もなければ、国もない。自分の兄弟もない。たった一人。同情し得る、感傷し得る、その価値を求めていく。そういう男の行く道は悲惨なものだが、それは価値ある生涯だ。過ぎてみると、結局は自分は敗者ではない。そういう観念だということを、あなたたち、自覚をもつか。


三十代までは準備期間

 今から興亡盛衰の結論を出す。一生涯というのは短い。一生涯を区分する。何年から何年までには何をする。何年から何年までには何をする。一生涯のプログラムを作る。そういうプログラムを作ったことがあるの? (はい)。自分は世界的な道を行くということを、はっきり分かった場合に、それは可能である。自分の道があいまいだったら、それを立てることはできないが、私はあそこに行くと確定したならば、可能である。それは正に間違いない道において決定した。そして行ったならば、その人は素晴らしい成功をする。

 だから人は、大概十七から二十三歳まで、その期間において、「自分は何になる」と決定する。高校二、三年から、大学四年までの期間である。これが精神的思春期になるだろう。そこにおいて、希望も理想もかなえられるような気になる。自分なりの本性、本心、青年として、自分としての肉身、良心も、完全に一つになって希望に浸される期間が思春期である。その時において、女とすれば、世界のお姫様に自分がなったような気になる。そういう心情になる。素晴らしいマラソン選手を見た場合には、自分の希望は、「マラソン選手になること」、立派な牧師を見た場合には、「自分も牧師になりたい」と思う。みんな世界において有名な者には、自分がなりたい。そういうように思う時は、みんな思春期である。そこにおいて、「自分はこういうものになる」「そこにエネルギーを消耗する」と、それを確定しなければならない。

 それから三十歳代まで、この七年間は、そのような目的を中心として準備期間として費やせ。イエス様もそうだろう。イエス様の出発は、三十歳からである。三十まで日本的になるには、日本的なことをする。いろいろ体験する。大衆を指導していくには、大衆との内的結合圏を完成しておかなければ、それはできない。そのためには、何でもやってみる。一心をもって、何でもやろう。一番最短距離の幸福を収めようとするか、あるいは、解放的な分野において、自分なりに、自分の力の及ぶ限りにおいてそれを求めるか。まず第一には、アダムを中心にやることにおいて、自分のそういう活動をやってみたい。

 やっぱり大きいことをするには体力が問題である。外的基準、そして情的問題において、自分はどういうものになっているか。女に弱い男がいるだろう。眠っているような、女に好かれるような、いつもそういう顔つきをした男がいるだろう。それは、男として生涯の道を汚すか、それを曲げるかする。それは情的問題である。これは、行くべき道において処理しておかなければならない重大な問題である。

 君はどういうような立場に立っているか。それに自信があるか。それにはテストをやってみる。日本的な美人がいるとする。その美人が自分に完全にほれた。命懸けて自分に身をささげていきたいという、何でも従うという女がいた場合、それを完全に否定することができるか。初めから否定するような腹でかかるのではない。同じ情的立場に立った立場から考えて、み旨を思うとき、何の未練もなく切って、それを退けることができるか。そういう訓練をやる。将来いろいろ、そういうようなことが起こってくる。それと対決し乗り越え得る、自分自体の準備をする。この期間においては、そういう見解を言わずして、テストをやってみなければならない。

 自分は重労働に、どれくらい耐え得るか。先生は、そういう重労働を学生時代にやった。いろんなことをやる。もしも「統一思想」を主張した文先生が、貧乏になったとする。貧乏に追われ、悲惨な境地に立った場合には、「統一思想」を捨てるかどうか。そういう境地でどうか。「これ以上になっても、どうなっても、私は行きます」という決意を決めていくか。そういう防波堤をずっとつくる。君の気持ちはどうか。それが銃殺か、木にかけられて死ぬか、大衆によって石打ちされて死ぬか、いろいろなことを考える。その時には、頭が割れて血が出るかもしれない。どこからひどいけがが始まるか、足か、手か、頭か、それは胸か。その時に何を思い浮かべるか。君たちとしては、こういうことを考えなければならない。ちゃーんと公式的に条件をつけて、テストする。

 そういう死を覚悟した道において、先生はまだ死んでいない。だから、まだまだ行かなければならない道が残っている。一度その死を迎えられる、その時がいつであろうか。もしも、これが地上で果たし得られなかった場合、霊界に行って神にいかなる感謝をしなければならないか。そういうことまで真剣に考える。君、こういう環境において後退するか。そのように、完全な準備を整える。

 あななたち、父母が反対するって? 先生が反対するって? 何だ! 国が反対するって? 何だ! 世界が反対しても我は行く。最後まで、天のお父様が反対しても、我は行く。そこまで行く。先生が歩んでいる時、四十日以上、神が直接反対したこともある。やる! 霊界を総動員して来る。これは神の国の国賊である。許されない。天地共に一遍に崩壊させてしまうような、そういうような怨讐の中の怨讐である。

 我たどってきた道は、正当な道に違いない。それを保証しる実証はいくらでもある。きのうの善なる神は、きょうの悪なる神になるはずはあり得ない。「実証を失い、今こうなった神はもう神として立っていた善なる神でなくして、偽りの神でなければならない。これは何か。事実はこうだ」と言えば、「分かった」と言うのである。

 そういう戦いをやって、「統一思想」は地上に生まれるようになった。これは現れなければならない。机の上で考えて、ああだろう、こうだろうと適当にやった基盤でもって生まれきては絶対にいない。そういうような軽い価値の、ちっぽけな価値の統一教会ではない。それを試してみる力がなければ、信じなければならない。信じてそれを試されるような位置を待って、力を尽くして働いていかなければならないのが、あなたたちの行く道である。

 三十代までには、準備しておかなければならない。日本において、先生はみんなに変なことをやらせるかもしれない。三十代までは準備期間である。ありとあらゆるものにぶつかっても、すべて自分の材料としてこれを貯蔵しておけ! 世の中は複雑である。つながっている、ありとあらゆるものを消化する。消化する王様にならなければならない。主体的存在になるためには、すべてに神がいる内的基盤を準備しておかなければ、それはいつか思わざる時において、引っかかって倒れてしまう。準備しておけ。自分なりにみ旨のために、その解答の立場に堂々と立て。命懸けで立て。若き胸が鼓動する、その鼓動より以上の強い決意でもって向かう。その姿は、真実の姿である。その目つきは、何を貫通し得るか。凝視し得るか。自信をもって、そのことに向かった場合には、ぶつかる。

 反対するものは、いい材料だ。いまだ生涯になき環境が我々に与えられた。その環境が将来、自分の日記に残る。新聞記者が記事を書くような材料である。あるいは、山に登って体力もつける。時には、山で生活するようなことも覚悟しなければならない。山に行く場合には、食べること、着ることを研究しておく。雪に覆われて、食べ物がない場合もある。洞窟に入って、何日も過ごさなければならないこともある。だから断食もする。寒い冬に、肌着一枚で生活をしてみる。これ以上のことがあったらどうする。準備しておかなければならない。

 そういう観点からすれば、若者たちは、朝も、晩も、昼も、夜も、休まず訓練させる。室内訓練ではなく、実地訓練である。険しい山があれば、我々はトンネルを掘る。日本の若者、大学の卒業生たち、やれ。そうしたら、みんな逃げてしまうだろう。(いいえ)。一番み旨に徹した者は、いったいどういう者だろう。それを考えている。何千人いたとすると、一番はだれだろう。こう考えた場合には、だれもいない。第一は先生だ。どうだ。やる気のある者? (はい)。人間が必要である。若者が必要である。訓練してやるんだから、それは、自分のものになるということである。

 生涯において、いかなることが起こるか分からない。それに対して、余りある準備をしていくのは知者のやり方である。それを少なくとも三十代までは、ありとあらゆる分野において体験しておけ。だから、夜も、昼も、休む暇がない。遊びに行く暇がない。先生は、富士山にも学生時代には行けなかった。先生は、四方八方、よく見回る性質をもっている。しかし、友達が切符を買ってきて「これで行こう」と言うのだけれど、学生時代は暇がなかった。だから、三十までは準備しておく。準備は何かというと、実践のためである。


三十代以後は実践期間

 三十代以後は、実践である。実践自体である。それは旺盛なる、生気はつらつたるそういう期間である。それは四十五歳までの十五年間、大概十五年間である。十五年は実践である。一瞬の暇も惜しんで、準備の目的にかない得る、心身を通しての実践である。四十五歳から六十歳までは、成就段階である。こういう方向に戦法を練って、復帰の公式を解いていくといい。

 先生の七十歳までには、統一世界になる。七十歳代には、統一運勢が世界に漂う。そういう時勢に巻き込まれる。それは「二十一年」を知っているからである。だから統一運勢にならなければならない。だから先生が満六十歳代になった場合には、世界はどういうようになるだろうか。おもしろくなる。できなかったら、倍以上の真心を尽くす。夜も昼も、休みはない。不可能な場合には、それに倍以上の真心を尽くす。作戦を練っていく。

 第一作戦、適応しなかったなら第二作戦、第三作戦をやっていこう。あなたたちそういう計画をしたことあるの。一生は一回しかない。だれかが生きてくれる生涯はない。そういうような青春期を、いかに費やすか。自分なりに命を懸けている、そういう生涯は貴いものである。その貴い生涯の道を、歴史と共に、主体と共にあれば、それはその渦巻きに巻き込まれてしまう者にはならない。新しい方向を提示して、自分なりの結果を、世界的に、あるいは歴史的に出す。そのために祈る。そういう計画をしたの? していないの?していたなら、それは幸福なものである。

 そこには、体面とか、面子とかが問題ではない。世の中が、「気違いだ」とか何とか言っても、それが問題ではない。成すべき実体が問題である。その環境が問題ではない。成すべきことはせずして、「自分にそういう結果が表れない」と言うのは、これは詐欺である。動機と過程を通過せずして、その結果を望むのは、どろぼうである。

 いかに真剣になったかが問題である。生命というものは真剣なものである。あなたたちが今生きているというのは、死と戦って勝利の上に立っているから、今生きている。あなたたちの知らない無慈悲な戦いを済ませて、その勝利の上に立っているのを証明していることを分かっていない。記憶していない。活動しながら忘れているのだろう。これと同じである。あなたたちが生きているという背後には、その死という恐ろしいそのものと戦ったということを忘れている。

 実行期間を計画しなければならぬ。青年としての実行期間、実践期間が必要だ。人には生涯において、自分のもち得る力一〇〇パーセントを、それ以上の力を尽くしたい。その限界を越えるという事実を見た場合、死んでもいいと思う。天のために尽くした、そういう事実は天界に行く。尽くさなければ、地獄に行く。

 だれが何と言おうと、我には何も不平を言うことはない。真心を尽くしてやった、それ自体は事実である。天上、天宙すべての万象界において、堂々と唱える実体者となれ。滅ぶ、嘆く、何ものもない。その実体を、神によって造られたすべての万象は保護する。それに反対するものは一つもない。いくら考えても、これ以上果たし得ない、善の力として、これ以上やれないという限界を乗り越えている。それにならなかった場合は、失望してしまうという基準でやる。すべてが結果に表れなくても、世界から必ず目をつけられる。そのようになっている。

 実行期を命と共に戦う。そこにおいて、自分の目的を果たす道に嘆けば、苦労のどん底に後退しなければならない。不安を感じたりするのは、自分の目的に対して完全な決心をしていないからである。そういう結論になってしまう。その目的を成就するには、それに向かうすべての基盤の道を消化し得る決意が必要である。そういう基準でやる。我々は、世界的人物になろうと決意するならば、霊界全体の、その第一の怨讐となることは当然である。それを避けて行こうというのは、その目的を延長させる方策でしかない。これをこらえる。実行期間が必要であるということである。実行期を通過しなければ、完成期間、勝利期間は来ない。

 関心をもたざるところには、成功の動機は潜んでいない。何か悪いことでも、関心をもたなければ、それは日本的にならない。いいことでも、日本的に関心をもたなければ、日本的善人にならない。そういうことをずーっと思うと、おもしろい。自分なりに決心して、「我が生涯において、この期間は必ずやると神の前に誓った準備期間であります」。そういう期間があったの、なかったの? なかったらかわいそうである。惨めなものだ。そういう期間があってこそ、実行期間を願う。

 今あなたたちは、実行期間に入っているか。入っていないとすれば、それは日本をだれを頼りとして、神の摂理の道を展開していくだろうか。先生がもしいなかったならば、あなたたちは四方八方に散る。イエス様が十字架につけられる時、十二弟子が散ったと同じような、そういう結果になる。先生がいなくても、この思想を、日本のいかなる部落にも植えつけて、あとまでやると自分なりの証明をし得る実績をもつということになっているか。

 準備をこれだけ命を懸けてやったんだから、これだけ真心を尽くしてやったんだから、くたびれることができない。いくらいいことがあって、人が誘って自分を引きつけようとしても、引きつけられない。今までやったその事実は、あまりにも真実である。あまりにも真心を込めて誠を尽くしたのだから、それを否定する何ものも見つけることができない。そういう立場に立ってこそ、善なる立場に立ってこそ、絶対的神の信頼を受けることができるのである。神はそういう者を探して、一時は計画の一点として使う。

 しかし、生涯かけての勝利の基準としては、その前に氏族なら氏族を中心として勝利者にならなければ、神の歴史的な摂理の基盤をつくることはできない。ある団体の指導者も、そういうような見地から人を探す。それは当然のことである。人間もそうであるということは、神はそれ以上でなければならない。そう思うとき、日本のあなたたちが、責任をもって自分の将来の道を、準備の路程を、今まで考えなかったというのは、それは摂理の観点からすれば、非常に耐えられないことである。


完成期は収穫期間

 それから、完成期においては、出した結果のとおりに収穫される。自分が真心を尽くして植えた、そのとおりに収穫する。真心を尽くしたならば、真心の結実は収まる。だから実行期においては真心を尽くせ。一日過ごすには、流す涙があれば、心情を込めて、涙を尽くせ。涙を流さない日が一日でもあるなら、我は許さないというように、真心を尽くせ。真心を尽くしてきたのだから、その結果は、真心の結果として迎えるのは自然の原則である。

 あなたたちは若い青年である。今から日本の運命は、あなたたちの双肩にかかっている。日本の今後の行き方に、アジアの数十カ国、アジア全体の、全民族の運命はかかっている。こういうことを思うとき、あなたたちの責任は、重大である。八億近い中共が問題ではない。中共は跳ね返る。「統一思想」を武装したならば、そういう実行力をもつ実体にいかになるかが問題である。そう思うときに、あなたたちが、そういう決意でもって総進軍するならば、新しい日本は生まれてくる。新しいアジアにおいての、日本人として貢献する新しい希望の摂理の基準は、そこにおいて開かれるであろう。そういうふうに、真心を尽くして真の準備、真の結実を迎える立場に立ったとすれば、それは絶対に問題ない。そうでなければならぬ。そうでなければ滅びる。

 人を適当に準備して、やろうとする者がいたとする。もしそのようにして、利用するその基準が過ぎ去ってしまったならば、自分はどうなる。何になる。利用する相対者がなくなってしまった場合には、自分はどうなる。何にもならない。だから、そこには結実がない。いちじくみたいだ。

 自分なりに確実にその種となっている、どこへ行っても、それは根を下ろして成長する、そういう者だったら、そのような個人になっているならば、これは日本が問題ではない。あなたたちが、そういう決意でもって燃え上がって、今からどういうふうにしようか。

 高い所へ行って、父に祈る。その山頂において、このような心情をもって祈る者は、歴史上、我が初めてである。その者の前に、展開される万象を眺めるとき、神が、天宙を創造した最後の祝賀式をやったならば、どのような思いをするか。第一声は、何をどうしたかである。それで先生が神の道について、こういうものを発表したのであるから、祈る時に、そういう気持ちをずーっと祈る。実に素晴らしい気持ちである。山水草木は、喜び、たたえるような気持ちに巻き込まれる。ここに逆らうものがあったならば、我許さない。すべてを包囲してしまう。悪の霊だったならば、みんな切って滅ぶべし。悪は、すべて日干しになる。そういう祈りである。

 そうか、そうでないか、霊界に試してみれば、そうなっている。それは素晴らしいものである。一人の叫ぶ祈りの原動力、その力は、ここまでこういう霊界まで果たしきるというような、素晴らしい内容を語っている。それを語っている者は、だれか。自分である。それは自分なりに恐ろしさを感じるようになるのである。だから自分は恐ろしい。いい加減にできない。そうなるのである。そういうことは、通常のことである。奇跡でも異常でも何でもない。

 今からあなたたちは、いろんな責任者になるだろう。その時、まずもって、天の権威、その伝統的思想を、絶対汚してはならない。我々は神の権威をもって立っているという場合には、交渉とか、会話するときには、ずーっと刺激して、したがって向こうでは、汚すようなことを言う口は、開かなくなる。そういうような実地的な生活の感情とともに、あなたたちがそれを体験しなければ、生きた神様に侍るという、生活圏内にいます神様という存在を認められるかというときに、これを認めることができない。それを認められない者は、敗者である。だから、いくら社会に出て、会社に勤めても、良心的価値基準は、そういうものではない。一つの鉱石を見ても、これはいい加減に取り扱われない。それなりの存在価値、目的観念に徹した、その価値の内容は、十分に見いだし得る。それを無視する者は、創造目的に逆らう者である。神の国に逆らう者である。

 人にいかに忠実になるか。そういうことになる。それから天にいかに忠実になるか。だから、物的世界において、人的世界において、神的世界においてそうである。そういう真心を尽くして、いかに基台をつくり得る自分になるか。そして時間を乗り越えなければならない。


公的道・仕える道

 興亡盛衰、この言葉において成功を収める一番の道は、公的な道である。み旨が絶対的なものであれば、それは絶対的に仕える道である。そこに、絶対的なる相対者としての自分が、絶対的な真心を投入すれば、絶対的に成功し得る。その内容を決定する動機になるという。これがすなわち、世界において栄えるための起点になる。それに反するものは、みな滅びて、消え去ってしまう。歴史と共に流れていく者になる。

 歴史に逆らって、それを新しい世界に引き上げるような者になるには、今言ったように、絶対的神のみ旨の前に立って、自分が絶対的基準で、絶対的真心を尽くす。そういう行動期間を迎えて、成し得た者がいれば、それは天国から逃げていこうとしても、逃げていった所が天国になる。天国が追いかけてきて、それを抱擁してしまう。だから「神様」と呼ばなくても、神の子供になることを願わなくても、もう既になっている。もう晴れて、住んでいたという自分を発見するようになる。それがいわゆる再臨の道だ。それ以外の道は、滅びの道である。

 先生は、今から何万年後、何十万年後において成就すべき、そういう目標を決めて祈る。目的がある。真心を尽くした場合には、その目的を果たすために、神はいまし給う。神と真実の子供との誓約である。その約束は、完全に成る。成るまでに、世界、万民が救われてしまう。それを成就させるには、世界を救ってやらなければならないからである。そういう祈りを、今しておくことである。歴史のために、祈っておくのである。

 あなたたちは、そうではないだろう。きょうお祈りして、いいことがあれば、「神様ありがとうございます」。ちょっとつらいことがあると、「いるかどうか分からない」。いるか、いないか分からない期間が長いのが、一番いいというのである。あるかないか分からないながらも、真心を尽くした場合、それは一時に天下を治める勝利の見地が立つのである。善のために尽くしたこと自体を否認して嘆くということは、真なる善が分からないからである。善なる神様がいるのを知らないからである。神様がいるということを分かった場合には、そういう心配はいらない。新しく決意して、そういう方向に引っかからないように努力してもらいたいのが、先生の頼みである。


















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