成約人への道
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 四 人間本性の真なる生活

  1.心に和合した生活をしなければならない

 自分の一番近い先生とは誰かと言えば、自分の心です。一番親しい友達よりも貴いものが自分の心であり、お母さん、お父さんよりももっと貴いものが自分の心です。心に尋ねてみるのです。その心には神様が入っていらっしゃるのです。その心の声を聞くことができなければなりません。その境地まで入らなければなりません。仏教には、自性を清めなければならないという言葉があります。「天上天下唯我独尊」とお釈迦様が言いましたが、それは何かと言えば、私が私に尋ねれば私に神様が入っていることが分かる、ということです。そのようになれば、できないことがないというのです。
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 愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が百億あって、道端に出ていって全部分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。神様の心は、推し量ることができないというのです。神様の心がそうなのです。ですから自慢することができないというのです。いくら大きいことをやったとしても、心に尋ねると「もっとやらなければ」と、このように答えるというのです。
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 自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりもいいのです。心は永遠の私の主人です。ですからよこしまな心をもつなというのです。公理に属した公的立場に立った心をもたなければなりません。
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 ある人をさっと見れば、その人がどんな人かということを、心は一遍で分かるのです。すぐにもそれが分かるというのです。ですから一番近い先生が自分の心です。ですからその心を苦しめるなというのです。心を悲しませるなというのです。それは先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることです。心が私の生涯の主人です。ですから心を悲しませるのは、私の生涯の主人を悲しませることなのです。心が喜ぶことのできる道を行かなければなりません。
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 心と楽しむ時間をもたなければなりません。世の中で見れば、寂しい立場のようですが、心と友達になる時間です。心と座って、瞑想でもしてみよというのです。深い祈りの境地に入るでしょう。人知れぬ深い世界に入るのです。そのようなものが必要です。


  2.三位一体を成してこそ完成人間

 統一教会では三位一体を主張しています。それを何によって一体化させるのかといえば、正に真の愛を中心として一つにするというのです。観念と実在に対する問題も深く入ってみると、いろいろな背景があります。それを解明していけば、正にこの道が正当な道だということが分かるのです。それは、体恤してみれば証明されるのです。
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 良心が正しい、行動が正しい、心身一体圏を成しているというとき、それは何を中心として言う言葉でしょうか。言葉だけではいけないのです。行動だけでもいけないのです。心身一体圏の決着点はどこでしょうか。「まず九〇度になりなさい。九〇度になるには、すべての世の中で水平として中心になることのできる基準を立てなさい。西洋に行っても東洋に行っても連結できる標準的な人間になりなさい。それで歴史的に現在と未来を通じて見ても、それは間違いないと言える基準にならなければならない」。これが結論です。
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 人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体になるときに可能なのです。心身一体とは、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを言います。音叉の周波数が同じとき、一方をぽんと打てばその反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心を打てば肉身が響くのです。真の愛によって肉身をぽんと打てば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育は必要ありません。その真ん中に入れば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。
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 統一教会の勇士は、どんなことがあっても心身一体圏を成さなければなりません。この生涯の間に心身一体圏をどのように成すのでしょうか。それを成すことができない者が愛を考え、理想を考えるということは恥ずかしいことです。天運に反するのです。そのようなものを完成した自分自身を指向する、そこに新たな希望の道が連結されるのであって、ただそのままの基準においては新たな希望の天国に連結される道が現れません。
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 心身一体をどのように成すのでしょうか。歴史を通じて心身が紛争しています。神様がそのように創造されたとすれば、そんな神様は人間の敵です。自分がそんな立場にいることをはっきりと知って、神様に「神様自体の心と体が人間のように争いますか」と尋ねたら、神様はどう答えるでしょうか。そんなことを考えてみた人がいますか。
 神様も人間のように良心と肉身が、心身一体できずに闘っているのかと聞いてみれば、神様は間違いなくそうではないと答えられます。皆さんは、そんな境地に到達したことがないので知らないかもしれませんが、統一教会の教主としては、そんな境地をいつでも連結できる道があるので、間違いありません。神様は心身一体となっていらっしゃるのです。
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 宗教生活は体を主管するものです。三年ないし五年以内に習慣性をつくるのです。そうならないままでも、不便な自分を発見できないときには、心身一体をいくら願っても道がないのです。先生の第一目標は「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」ということです。自分自身の統一圏を成せない人がいくら世界を飛び回ったとしても、自分と関係をもつ道は絶対にないのです。
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 人間の体はサタンの血統をもっています。皆さんの良心は、アダムとエバが長成期完成級に成長するときまであった神様の良心の基準まで成長しなければなりません。それは信念です。それと反対の愛の力によって、この良心以上の力によってサタンにだまされてしまいました。良心も肉身の方向に従わざるを得なかったのです。
 良心のほうにもっと力を与えなければなりません。ずっと多くの力を与えれば、肉身がいくら強くてもついてこざるを得ないのです。そうでなく良心が肉身より弱ければ、現在の状態よりももっと下に落ちることになるのです。この二つの道しかありません。それで断食とか水行をして犠牲と奉仕をするのです。それ以外の道はありません。
 皆さんそうですか。この道を歩んでいますか。死んでも犠牲と奉仕をしようと誓いますか。それで死ぬ覚悟をして反対の道を行かなければならないのです。宗教の行く道、それは克服の道です。心身が闘うそれ以上の克服の道なのです。その道を行かずしては心身一体を成すことができないのです。
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 統一教会に入って長くなったからといって、罪を埋めていてはいけません。それを清算しなければなりません。手続きを踏んで清算しなければならないのです。私の生涯のすべてのものを白紙化させて、そこから新たに復活してエデンの園で罪を犯さず、神様が造られた心と体が完全に真の愛と一つになることのできる本然的な私だ、と自覚できる男性と女性にならなければなりません。分かりましたか。
 そうでなければ故郷へ行くことはできません。皆さんは故郷の家を訪ねていかなければなりません。そこには神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃり、本然的父母がいらっしゃり、本然の私たちの家があり、皇族圏生活を中心として万国を治めることのできる長子権国家の後孫たちが住むべき所なので、そこが新しい私の故郷の家です。自分が生まれたその故郷ではなく、新しい私の故郷の家、本然の家を訪ねていくにはどうしなければならないでしょうか。その故郷に入ることのできる資格を備えなければなりません。そうするには私自身が心身一体となり、統一圏を備えなければならないということを知らなければなりません。
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 いくら良くできなかったとしても「神様、私はこのように良くできませんでした」と、このように率直でありなさいというのです。そのように祈祷しなさいというのです。「本然の心がこうで、父の心がこうで、師の心がこうで、国の民の心がこのようになるべきではありませんか。このような心を神様の愛と連結させようと、忠孝を尽くす私の心は変わらないでしょう。このような心を哀れに思い、きょうのこの心の前に、すべてのことを許してくださることはできませんか」と言えば、神様が「うんうん」と言われるのです。祈祷する方法も知らなければなりません。分かりましたか。
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 神様は、いったいどこにいらっしゃるのでしょうか。神様が住まれるところは、いったいどこでしょうか。神様は最も価値のある愛に定着します。それならこれが男と女の二人だとすれば、神様はどこにいるでしょうか。神様は一体化し、変わらない、統一された愛の最も底に、垂直に住んでいらっしゃるのです。これが何かと言えば、男性と女性が一つになったところ、それが中心点になるのです。皆さんが神秘な祈祷の境地、霊的体験圏に入って「神様!」と言えば、おなかの中から「どうして呼ぶのか。ここにいる、ここ!」と答えます。「ここ」というのは自分の心の中です。心身一体となった愛の中心点、垂直の場にいるのです。神様の点を垂直と見れば、これをゼロ点というのです。
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 心身一体となれば、宇宙の力が保護してくれるのです。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟……。みな因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。それで国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成せばそこでも通じるのです。どこでも通じるのです。サッカーをするとき、ボールが転がっていって止まったらどうなりますか。その表面全体が合わさることができるところは垂直線を通るのです。それで球形体を理想的な存在だというのです。表面のどんなところでも、その垂直線が安着できるのです。それで転がっていくのです。どこでもみないいので……。それで心身一体圏、九〇度の角度になればどこでもみな合うのです。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人もどこでもみな合うのです。


  3.心が正に師であり近い神様

 心とは誰でしょうか。私の主人です。私の先生です。心は誰かと言うとき、心に似た体を生んだので、私の体の根源です。ですから平面的にお母さん、お父さんの代わりです。心は父母の代身であり、師の代身であり、その次は主人の代身です。
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 皆さんの心は、師が必要ありません。心は第二の神様です。師についていかないで、統一教会の先生に侍らないで、皆さんの心に侍りなさい。心はどうですか。朝早く起きて一人、ねずみの子の音も聞こえず、はえの音も聞こえない静かなときに、「ああ、私はこんなことをしなければ。いいことをしなければならない」と言えば、心が「うれしい! うれしい! 早くしろ!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心が分かるでしょうか、分からないでしょうか。分かるのです。そうだというのです。心はよく知っているのです。
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 心の価値、私にとって心がどれほど高いものかを考えてみたかというのです。心は体が間違ったところへ行こうとすれば、いつでも忠告し、こうしてはいけないとみな制裁するのです。しかし体はいつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手だというのです。迫害を受けながらでも死ぬときまで私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を全うすべく犠牲を払っていくのが、私たちの体についている心だ、ということを考えてみたかというのです。
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 人間の主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆さんのために忠告し、昼夜を分かたず悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って、疲れずに引っ張って峠を越え、川を渡ろうと、どんなに気をもんだことでしょうか。このように心は真の主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切った体、一つしかない宇宙から貴い師として賜り受けた先生であるにもかかわらず、この先生を手荒にあしらった体、また私の本然の愛の心を引き継いでいけるようにした父母の代わりに送ってくれた良心を余地なく蹂躙したこの体、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ!
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 もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。
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 良心が体のために、どれほど犠牲になったことでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。昼も夜も私を管理するのにくたびれているのが良心です。それでも疲れずに体が悪い行動をしようとすれば、やめさせようとするのです。「そんなにやったのならもうやめなければならないのではないか。私の言うことを聞かなければならないのではないか」と、そう言うでしょう。自分の前に一番近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体には教育が絶対必要です。
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 私が一つ聞いてみましょう。皆さんの心と体を中心として見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は神様の代身です。心は烈祖(功績のある先祖)、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は王を代表するのです。ところがこれまでこの心をどれほど蔑み、手荒にあしらいましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にいる、真の愛をもった主体としていらっしゃる方の代わりにあるその心が、この地上において私一人を収拾するためにどれほど犠牲になったことでしょう。そのように犠牲になりながらも不平を言いますか。
 ただぞんざいに扱われ引っ張られて回りながら、死んだと思っていたのに、悪い考えをもって夜中にどろぼうでもすれば、「おい、こいつめ!」と再びよみがえって忠告するのです。皆さんは、そのような心をどれほどもてあそびましたか。心は父母の代身であり、心は師の代身であり、心は主人の代身です。心の世界には公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりももっとよく知っています。第三者、証人が必要ないのです。
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 私自身に偉大な師がいることを知りませんでした。心は偉大なお母さん、お父さんの代身なのです。お母さん、お父さんが心に逆らって訓示するはずがありません。心がお母さん、お父さんのように訓戒するとき、服従することを知るべきです。このようなすべての秩序的環境において、起源になり得る道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。心を虐待してはいけません。皆さんは二重人格が好きですか。心は先生の代身、父母の代身、神様の代身です。心を教えることのできる師はいません。
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 すべての人間は、それぞれ自分の中に最も貴い師を一生の間ずっともっているのです。にもかかわらず、その師を間違って待遇し、踏みにじり、濫用します。その師が、正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にもためになるように言葉を語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神様のみ意に従って行動するように導いてくれます。しかし各自の心の中にはまた、良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が、まさしく肉体なのです。
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 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのは、道義の道を開拓したときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。貴重な三大お客さんです。主人になることができ、師になることができ、父母になることができるこの方を、私の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。心は体のために生きたがるのですが、体は心のために生きません。これが問題です。問題は私自身にあるのです。社会にあるのではありません。
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 このように心は、真なる主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切ったこの体、宇宙から賜り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この先生を余地なく手荒にあしらったこの体、また私本然の愛の心を引き継げるように父母の代わりに送られた良心を余地なく蹂躙したこの体……、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ。心と体の闘いをやめさせる前には天国はないのです。どの聖人もこのようなことを考えませんでした。
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 陰と陽、性相と形状というプラス・マイナスは、相対的であって、相反することができません。しかし今日、堕落した人間には心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。神様に似て生まれるべき男性や女性の心と体が、どうやって分かれたのかというのです。これが問題です。神様は絶対的な方なので、私たち人間においての標準相である心と体が絶対的に一つになって、神様の全体世界に和合し、一つの中心的な役割をすべきなのにもかかわらず、私たちの心と体がどのように分かれたかというのです。心と体が分かれたのが、心のままになされたことなら、神様はいないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を見いだすことができません。
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 神様は遠くにいるのではありません。私の中にいます。心が皆さんの主人でしょう。夜にただ悪いことをしようとしても、現れて「行くな」と言い、いつでも現れて主人の役をして、どこででもお母さんのように、先生のように教えてくれるのです。ですから、この体のやつが怨讐です。体が怨讐だというのです。
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 神様は誰に似ましたか。私たちに似ました。男と女。皆さん、心は見えないでしょう。心を見たいですか、見たくありませんか。神様も同じです。神様が霊的な立場から見れば……。神様も体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されなかったので、体が今までなかったというのです。心のような宇宙に、心のような主人、心のような師、あるいは管理者、心のような父母としているのです。
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 皆さん、心と体が一つにならなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければなりません。祈祷するとき、心と体が呵責を覚えるものがあれば、悔い改めなければなりません。悔い改めるときは一人ではいけません。東西南北を備えなければなりません。自分の一番近い人、父母の前に通告しなければなりません。師の前に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、自分の弟子に通告しなければなりません。「私にこんなこんなことがあるのだが、許してもらえるか」と、こうして心を合わせて後援することのできる、このような道を行かなければなりません。何のことか分かりますか。
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 心と体がいつ統一できるのか、それを考えなかったでしょう。これが深刻な問題です。一生の間心と体が闘うのですが、この闘いをやめさせる者は誰でしょうか。これが問題です。私たちのお母さん、お父さんもやめさせられません。王もやめさせられません。師もやめさせられません。聖人もやめさせられません。この心と体の闘いをやめさせられる主人は、どこにいるのでしょうか。深刻に求めてみましたか。それが真の愛だというのです。真の愛。
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 心は、皆さんの番人となって昼も夜も皆さんを守ってくれ、皆さんに休みなく「善なることをしろ。善なることをしろ」と言うのです。ですからどんなに疲れるでしょうか。生まれたその日から、意識的に考えることができ、社会環境においてすべての制度を分析できる知能的起源が生じるその日から、生涯をついて回るのです。
 自分の師もついていくことはできず、お母さん、お父さんもついていってくれませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、永遠に良心は私に対して命令するというのです。神様に似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい……。それと同じように似ることを願うのですが、「体よ、お前は私に似なさい」と言うのです。
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 皆さんの心と体の統一も、真の愛でなければできません。ですから心は、体のために犠牲になりながらも忘れ、また忘れ、また忘れるのです。心は、神様の代身としての立場なので、皆さんの師の中の師です。その心は神様が御自身の代わりに送ってくれた私の中心です。縦的な私です。
























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