成約人への道
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 五 真の人間が行く道

  1.人間が求めて行くべき道

 本性の心が行く道を行けば、宇宙が一つに広がります。そのような何かがなければなりません。そのような境地に入れば、自分の心と話をするようになるのです。そのような境地では、心と話をするのです。何かをしようと思えば、既に答えが出てくるのです。そのような境地まで進むのです。そのような境地にいる人が、自分の行く道が分からないでしょうか。もう行く道が確実で宇宙のすべての作用の力が助けるのです。手を引っ張って試験場へ入れば、既にすべてのものが協助するのです。そうしてこそ大きいことができるのです。
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 偉大な力の背景をもって生きることのできる人間が、真の人間です。真の人間にはそのように無限の力のバックグランド(背景)があって、自分が指向する方向に無限に後押ししてくれるのです。方向が間違えば、すぐに分かるというのです。統一教会は、皆さんがいい加減に知っているような統一教会ではありません。深い背景、偉大な力のバックグランドをもっているのです。ですから皆さんが努力をしてこのような境地を連結して上がれば、すべてのものがみな解決されるのです。ですからそのような面で、皆さんが行く方向感覚を決定しなさいというのです。それは自分がしなければなりません。自分が一番よく知っているのです。
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 自分が行く道を求めていかなければなりません。お金さえもてばすべてでしょうか。そうではありません。お金が必要なときがあり、また人として自分が行くべき、他の道を行くべきときもあるのです。ですから、自分が行く道は自分が決めなければなりません。自分自ら、自分の深い心の底から本来自分がもって生まれた本質と共に和合して、未来の目的を指向することのできる、天があれば天がその方向を提示するようにして、自ら解決するようにしなければなりません。
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 磁石は地球の引力を凌駕した作用として現れるようになっていますが、そのような作用は何によって可能なのでしょうか。地球の重力以下の作用として、その作用を越えるというのです。ですから私たちの良心も同じです。生まれたなら、既に自分が生まれた背景がさっと分かるのです。これは自分が判定しなければなりません。そのようなものを感覚、判定できなければ、皆さんは将来大きいことができないというのです。(一二〇・三〇二)
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 私たちが自然を見て「ああ、私は四季が必要ない。私は春だけ必要であって、夏や秋や冬は嫌だ」と言うかもしれませんが、神様に尋ねてみると「私は四季がみな好きだ」と答えるというのです。ですから嫌いでも夏を好むことを習わなければならないし、秋と冬を好むことを習わなければならないというのです。雪が降る冬になれば、神様は白い雪が世界的に積もるのを見るとき、喜ばれるのです。「ああ、私もいい」と言うのです。そうでなければなりません。
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 神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起こり雷が鳴ったりするときは、「ああ、あれは私は嫌だ」と言うなというのです。神様は「ほほ、あれはキスして結婚するのだな」と、このように考えるというのです。そして「嫌いだ」と言う人たちに、「はははは、おいこいつ! ならず者たちよ!」と言うのです。
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 人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「あ、私は白人だけ好きだ」と、神様がそう言うでしょうか。それならみんな白い服だけを着なければなりません。白人たちはみんな白い服だけを着なければなりません。色のある服は全部捨てなければなりません。
 黒い服をなぜ着ますか。色のある服をなぜ着ますか。それは矛盾です。部屋に入れば、色とりどりのものがみなあるのに、ピアノなどもみな真っ黒ですが、どうして置いてあるのですか。黒板のようなものもどうしてもってきたのですか。その人たちには夜もあってはなりません。夜もあってはならないというのです。真っ黒な夜もあってはなりません。どうしてそうですか。白人中心ですか。白人中心が何ですか。それは、滅びる道です。滅びる道。それが何年も続くと思いますか。どれほど続くと思いますか。冬がいくら長くても三カ月しか続きません。永遠のもののために皆さんは、四季をみな愛さなければなりません。ですから白人だけ好んではいけないのです。
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 神様の愛は、神様のすべてを愛し、人類を愛するだけでなく、過ぎ去った過去、現在、未来の人類を愛してあげる愛です。ですから地獄へ行った霊人たちまでも解放してあげる運動をする神様だということを知らなければなりません。人は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら偉大だとしても「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものがついてこないのです。このように生きる人は自然に主体になります。真の生命の人になるのです。
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 皆さん自身が、自分がどんな道を行くべきかを知って、行かなければなりません。方向をすっぱり決めたならそれを中心として、ありったけの精力をみな投入するのです。疲れて目を開けることができないほど、耳が聞けないほどに、すべてを投入しなければなりません。
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 統一教会で正常的な信仰生活をすれば、自分が何をすべきかすぐに分かるようになっているのです。しかし自分を中心として生き、自己の考えを中心として行動する人は分からないのです。船にいるねずみの子でも、波打てば船が破損することを知り、すぐに縄をつたって船が出る前にみな港の荷下ろし場へ出ていくのです。それなのに、人間にそれが分からないはずがないというのです。
 自分が行く道を知らなければならないというのです。ありも、梅雨になることがみな分かるではないですか。ありが引っ越しするのを見たでしょう。行列をつくって。意味のない空想でもしているので分からないのでしょう。自分が自分の分野を知らないという事実は深刻なことです。深刻に重要な一生の問題を天と共に話し合うべきです。そして自分自ら環境的与件に適応しなければなりません。それを誰がしなければなりませんか。それはいずれにせよ自分がしなければならないのです。
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 人は冷静になれば、心の深いところに心が落ち着く場があるのです。心が眠ることのできる場があるのです。そこまで私の心が入らなければなりません。そこで寝て、目覚めるときには鋭敏だというのです。そのときに雑多な考えをせずに精神を集中すれば、すべてに通じます。ですから修養が、祈祷が必要なのです。
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 先生も祈祷するのです。精誠を尽くすのです。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は一度だけ尽くして使ってしまうものではありません。刀は常に研がなければなりません。刀を一度使って研がなければどうなりますか。いつも研がなければなりません。一度激して怒ったならば、いつも磨いておかなければなりません。それが問題です。静かに心の位置をつかまえておかなければならないのです。
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 心情の世界の中央に行けば、下がったり上がったり運動するのです。自動的に運動するのです。これが息をするということです。地球も息をしていることを知っていますか。地球も一メートル近く息をするのです。こうしながら調整しているのです。円形によって曲がったところを調整するのです。ですから心情の世界も、中央はすべて軸を中心として上がったり下がったりするのです。運動するのです。
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 すべての存在物は楕円形で形成されたものです。ですから心の、心情の中心、真ん中に入ってみよというのです。そこで無限の力が伝わるのです。それで九〇度の角度さえつくれば、無限な力を九〇度で保つことができます。それで道を磨いていかなければなりません。精誠を尽くしてこの世のすべての面で、深い心霊世界を体験しなさいというのです。なぜでしょうか。一生の間生きていくのに推進力を無限に普及されることのできる一つの源泉が必要なので、そのようなことをするのです。
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 先生も、先生自身が今もっている力よりももっと大きい世界的な仕事をするときは、深刻だというのです。もっと大きい力が必要なときは、それをどこからもってくるのかということが問題になります。もってこれないときは、それをどこから補うのかが問題になります。もってこれないときは後退しなければならないのですが、そうすることはできません。ですから祈祷が必要であり、神様が必要なのです。
 心情の世界が、それで必要なのです。愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがないのです。物質の世界も終わり、知識の世界も終わり、権力の世界もすべてが崩壊し得るのですが、心情の世界は無限なのです。ですから心情の世界を中心として動かさなければなりません。
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 神様は独裁者ではありません。神様も人間のために投入しました。そう、神様が人間の前にいるのは、「ため」に存在するのです。ですから千年、万年神様についていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙の存在世界の前に自分自らの存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることが東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。
 神様は昔も今も東洋にも西洋にもみな同じ愛をもっているので、東洋、西洋を克服することができ、過去、現在、未来を克服することができるのです。それは何かと言えば、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展できるし、東洋、西洋を克服するので、東洋、西洋を統一できるというのです。これは愛でのみ可能なのです。
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 自己主張するときは自己破壊、相対破壊、神様破壊、完全に分離されるのです。そこでは統一的理論を発掘できないことを知らなければなりません。簡単な言葉ですが、重要な言葉です。私たちが理想を求めていく最後には、究極には神様の愛と縦的な統一を要求しますが、その縦的基準が早く来いと繰り上げることのできるようにするためには、互いに「ため」に生きなければなりません。「ため」に生きるところから完全に統一圏が広がるのです。
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 どのように統一されるのでしょうか。先生がどのように統一するのでしょうか。何によって? こぶしによって、力によって、お金によって、権力によって、知識によって? 愛を中心とした「ため」に生きる立場で万事が解決するのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として「ため」に生きていくところに、悪魔の世界が天の国へ再創造されていくという結論です。それは理論的です。


  2.真の人間の行く道

 自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。これを知るべきです。全体のために行くところは、すべてのものが門を開くのです。個人も門を開けるし、家庭も門を開けるし、氏族も門を開けるし、民族も門を開けるし、世界も門を開くし、天の国も門を開くし、愛の道や、すべての道が門を開いて歓迎するというのです。
 そのような道とは何でしょうか。これを私たちは考えなければなりません。それで統一教会はこのような観点で「ため」に行く道を取れ、「ため」に生きよ、と「ため」に生まれたという天理を教えるのです。
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 真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことは「ため」に生きよということです。これはどこでも通じることのできる原則ですから、万古不変です。過去、現在、未来がないので「ため」に生きよというのです。ここに孔子やイエス様やお釈迦様やマホメットのようなすべての聖者という人の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言えば、「そのとおりです」と言うでしょうか。「それは違います」と言うでしょうか。「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きることのできる一つの法だということを知るべきです。このような真の道があるのです。
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 世界的な人物になるためにはどうしなければならないでしょうか。人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては国を越えることができません。国を越えることのできるそのような内容は天にあるのです。天宙思想をもたずしては国を超越できないのです。ですから聖人たちが何を紹介したのかといえば、人間だけを紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の等級に同参した人々を見れば、神を崇拝しましたか、しませんでしたか。神を抜きにして聖人になった人がいますか。また聖人たちは人倫の道理だけ教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。
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 家庭で父母に尽くし愛する人は孝子です。国のために生き、愛する人は愛国者です。世界を愛する人は聖人です。それでは、先生が教えるものとは何ですか。神様と世界と宇宙を愛する聖子になれというのです。皆さんはどんなものになりますか。聖子になりますか。孝子、孝女になりますか。そうなるには神様のような愛を心にもたなければなりません。
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 神様は、短い生涯を生きて死んでいく人間の前に、一番良い標語、一番良い課題を賦与せざるを得ないので、その課題として「誰よりも神様をもっと愛しなさい」という標語として掲げたというのです。それによって誰もなることのできない神様の息子になれるのです。神様の息子になる日には、聖人完成はもちろん、忠臣完成ももちろん、孝子完成ももちろんなのです。すべてのものが完成だというのです。このようになれば、家庭でも勝利した立場に立つのであり、国家的基盤においても勝利者となるのであり、世界的基盤においても勝利した者となるのです。
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 統一教会は何をしようというのでしょうか。偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それゆえ偉人が神様の前に出ていくとき、「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は神様の前に直行できるのです。統一教会は何をしようというのですか。偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか。
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 宇宙を造った神様とは、宇宙の法度を立てた神様とはどんな方でしょうか。全宇宙を通じて、誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に出会うには「ため」に生きなければならないのです。その方は知識の大王でありながら、「知識をもって神様の前に来い」とは言いません。能力の大王ですが、「能力をもってこい」とは言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもってこい」とは言わないのです。「ため」に生きてくれば、すべてがついてくるというのです。


  3.「ため」に生きる法度を立てた理由

 私たちが思うに、愛とか理想とか幸福とか平和とかという言葉は、一人では成立しません。これは相対的な関係で成立する言葉なので、いくら絶対者神様がいらっしゃるとしても、その神様が願う理想と幸福と平和は一人で成すことはできないのです。神様の理想を成就させることができ、神様の愛を成就することができ、神様の幸福と平和を完結させられる対象が人間だ、という事実を私たちは考えることができなかったのです。神様一人で愛すれば何をし、神様一人で理想をもって何をしますか。相対的な人間を通じずにはこのような要件を成就させることはできないということは、当然の結論です。
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 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様の真なる愛や、真なる理想や、真なる幸福や、真なる平和の起源を主体と対象、この両者間のどこにおくのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がいらっしゃる反面、対象がありますが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこにおくのかということが、創造主であられる神様として問題とならざるを得ません。
 それで真なる理想、真なる愛、真なる平和において主体を中心として対象が主体のために生きるのに理想的起源をおくのか、対象を中心として主体が対象のために生きるのに理想的起源をおくのかという問題を考えられた神様は、その理想的起源を主体の前に対象が「ため」に生きよという立場に立てるならば、神様がそうなると同時にすべての人も自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、そのようになるでしょう。そうなれば、一つになることのできる道がふさがってしまいます。これを知るべきです。
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 一つになることができ、平和の起源になることのできるその道は、どこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。ですから真の愛は「ため」に尽くすところから、真の理想も「ため」に尽くすところから、真の平和、真の幸福も「ため」に尽くす立場で成り立つのであって、「ため」に生きる立場を離れては見いだすことができません。これが天地創造の根本だということを、私たち人間は知りませんでした。
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 男と女が生まれたのは、男は男のために生まれたのではなく、女のために生まれたし、女は女のために生まれたのではなく、男のために生まれたのです。生まれるのに自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれなかったのに、自分を主張するのです。「私、私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界が展開するというのです。
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 自分の価値を自分から追求するよりも、相対から、すなわち相対的基準からその価値を追求することのできる道を探求する人は、不幸な人ではありません。いつも、どこでも心情の土台は相対圏をもっているので、どこに行き来しても彼は寂しくなく、幸福であり得るのです。
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 神様は、なぜ「ため」に存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら一〇〇パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに五〇パーセントはポケットに入れて五〇パーセントだけ報いたいですか。それともありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心がどのように作用しますか。
 誰でもより多く報いたいのが本心です。与えるままに心から愛する中でくれたことを知れば、一〇〇パーセント以上を返そうとするのです。一〇〇パーセントが一一〇パーセントになって帰ってくるし、その一一〇パーセント帰ってきたのは、また向こうが心からくれたので一二〇パーセントを返すようになり……。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですからこのような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
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 理想と愛は人間にとって生命よりも貴いものなのにもかかわらず、今日人間たちはこのようなものが自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのでしょうか。対象から来ます。対象から来るので、「ため」に生きる法度を立てざるを得ないのです。知恵の王であられる神様はこのようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないということを知るべきです。
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 永遠という概念、これは自分の「ため」に生きるところでは不可能なものです。皆さんが運動するのを見ても、押してくれ、引っ張ってくれる相対的方向が、大きければ大きいほど早く回るのです。知恵の王である神様が「ため」に存在する法度を立てたのは、永遠であり得るために立てられたということを知るべきです。
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 私たちの中で、人に主管されるのは死んでもできないと考える人たちが多いと思います。さらに識者層にいる高名な方の中に、このようなことを多く見ます。しかし一つ知るべきことは、今までの人間たちが「ため」に存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸せかという事実を夢にも考えられませんでした。霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられる神様、その神様は宇宙万有の存在の中で、「ため」に存在する中心存在なので、その方に支配されるのがどんなに幸せなことか……。千年、万年支配されても感謝することのできる理想的統一圏がここに成立することを知っているので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得ませんでした。
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 愛は私から始まったのではありません。生命よりも貴い愛と理想を見つけるには、対象がいなければできません。私たちはこれを考えつきませんでした。この高貴な愛と理想を受けることができ、それを見いだすことができる存在が対象です。ですから私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすると、最も「ため」に生きる立場でなければならないので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得なかった、ということを私たちは覚えておくべきです。
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 愛は一人では成されません。愛はどこから出てきますか。私から出てくるのではなく、対象から来るのです。対象から出てくるので、私が頭を下げて対象のために生きなければならないのです。「ために生きよ」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてくるのですが、それを受けようとするので、高め、「ため」に生きるべきだというのです。「ために生きる哲学」を成してこそ愛されるのです。
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 真の愛は、与えても忘れ、また与えようとする愛です。偽りの愛は、与えても付け加えて商売する愛であり、与えたのでお前はそれ以上返しなさいという愛です。これはサタンの愛です。
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 私たちの本郷は、神様の「ため」に存在する者たちだけが入るところであり、「ため」に生まれ、「ため」に生きて、「ため」に死んでいった人たちが入る所です。これが私たちの本郷の理想的構造なので、神様は本郷を訪ねてこさせるために、歴史過程で数多くの宗教を立てて、訓練させてきたのです。
 これまでの宗教が温柔謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうなので、霊界に帰るべき人間たちを地上生活の過程でその霊界に合うように訓練させざるを得なかったからです。ですから高次元的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し奉仕を強調するようになったのは、普段の生活を通じて、その世界に一致させようとするところにその原因があるのです。
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 しばしばこの世で、「ああ! 人生とは何なのか」と言いますが、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観に対する確立、ひいては神観の確立が問題となるのです。これをどのように確立するのでしょうか。系統的段階と秩序をどこにおき、その次元的系列をどのように連結させるかという問題は、最も深刻なものです。しかし「ため」に存在するというこの原則に立脚して見るとき、最も価値ある人生観は、私が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという立場から幸福な自我を発見することができるならば、これ以上の人生観はないと見るのです。





















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