文鮮明先生御言選集 55
(全面表示) 戻る INDEXへ

不信の種を抜いて信義の種をまこう 
  1972年5月8日 韓国 中央修錬所
祈祷

 愛するお父様。きょうは一九七二年五月八日、あなたの保護のもとで第三次世界巡回路程を終えて、今本国に帰ってまいりました。お父様が願われるみ旨のために、足りない私たちは、あなたの経綸とともに、あなたが導いてくださるとおりに多くのことを拡大してきました。このことは、あなたの保護と、あなたの無限なる激励がなくては成し遂げられないことだということを考えた時に、きょう帰ってきて、あなたの前に切なる心でお祈りするものでございます。

 今、本国に帰ってみると、再び残されている戦いの路程があって、行かなければならない歩みが待っていることを考えた時、このすべての摂理の経綸は、あなたの勝利を決意することのできる結果がもたらされなければならないし、必ずあなたの願うとおりに、み旨のとおりに、成し遂げられますように、かわいそうなこの民族を通して、あなたが願う勝利の一日を迎えますように、私たちは足りない精誠を込めて、あなたに従い、お父様の前に忠誠の道理を誓うものでございます。

 南北に別れたこの民族を、お父様、お守りください。今や孤立していく世界情勢の中において、私たちは天に頼り、最後の絶頂の戦いを越えていかなければならない使命があることを考えるのでございます。世界に広がっている統一の群れの時代的使命が、この韓国にあることを知って、韓国の地に向かって心を込めていることを見てきました。そして、そのようにするよう命令をしてきました。

 今や私たちは一致団結しなければならず、お父様の憐れみと慈悲のみ手が必要です。最後の決定を誓う世界史的なこの頂点に立って、天の勝利を決意することができますようにと、心と体を整えて、お父様の前に再び決意し、新しい目的に向かって進軍していかなければならない使命があることを私たちは知っております。ここにいる幼い子女たちを祝福してください。今まで一五六日間、あなたはさまざまなことを通して私たちの行く道を証しました。今まで私たちが編んでおいた心情的な因縁が、あなたがこの民族を探し求めてこられた悲しみを晴らすことのできる一つの勝利の祭壇になるようにして、あなたが願われるみ旨が成就されるように私たちを導いてください。

 民族とすべての教会が、お父様の前に責任を果たし得なかった恥ずべきことを、お父様、お許しください。全国に広がっている人々を祝福してくださり、この場に参加しているこの者たちをあなたが記憶してください。

 きょうを記念とするあらゆる行事が、あなたの愛と勝利の条件になりますように、直接指導し導いてくださいますようお願い申し上げます。

 天と地と霊界と地上の人類が一つになって統一世界を成し遂げていくことを協助できますように、お父様が自らその中心になって導いてくださいますことをお願い申し上げながら、すべてのことを真の父母のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。


神よ不信の種を抜いてください

 きょうまで本国にいる皆さんが、私たち一行のために真心込めて送ってくださった手紙に対して、神様の前に感謝し、またここに帰ってきて、皆さんに感謝いたします。一五六日という期間は短いといえば短いし、長いといえばとても長い期間でした。その間さまざまなことにぶつかり、いろいろなこともありましたが、このように無事に帰ってきたことに対して、皆さんのお祈りの力が大きかったということを考えるのです。それで、帰ってきて、皆が一つになって、一つの目的のために進んでいけば必ずや、神様の勝利が来るということをいま一度考えさせられました。巡回路程に関することは、ほかの機関などのいろいろな人を通して報告があったと思います。本国に帰ってきて、この時間新しく感じさせられたことがあって、「神よ不信の種を抜いてください」という題目で、話を進めていきたいと思います。


不信の世界、不信の人間

 私たちの韓半島は五〇〇〇年の歴史をもっており、私たちはそれを誇りと思ってきました。その歴史は善悪の闘争歴史として綴られ、今日まで解決されていないことを私たちは知っています。そのような歴史過程で善が勝利して、私たちの民族は善なる結果の国にならなければならないにもかかわらず、今も善悪の闘争が続けられているのです。善が勝利する立場に立たなければならないにもかかわらず、むしろ悪が優先するそのような時に至っていることを私たちは今、目の前に見ているのです。

 このような結果がもたらされた根本動機とは何かという問題を考えたときに、そこには数多くの事情があるのです。もしわが民族が、正義とか神とか、つまり神様を中心とした、神様の公的な正義の路程を中心として終始一貫した目的を持ってやってきたならば、このような悲惨な過去の歴史はなかったと思います。しかし人間は正義を唱えながらも、途中で自分でも知らずに不正ということにぶつかるのです。これが人間世界の実情であるということを見たとき、結果は必ず悪なる不信の実として結ばれることを我々は知ることができるのです。

 このようなあらゆる根本動機は、もちろんわが韓民族だけではなく、歴史過程においてそのようなことが引き続き発展してきたことを私たちは知っています。そのような歴史的な因縁がどこから始まったかといえば、私たち人類始祖から始まったということを、私たちは知ることができるのです。

 本来、人間始祖となるアダムとエバは、真なる信義をもって出発したのではありません。不信の一日を迎えることによって、今日の歴史が誤るようになったということは私たちがあまりにもよく知っていることです。その不信の一日によって、不信の種によって、不信の歴史が綴られて、不信の世界へと発展してきたのが、この人類歴史なのです。


信義の世界を成すために摂理してこられた神様

 このような視点から、神様は我々人間世界に対して不信の世界をどのように除去し、神様の信義の世界をどのように確立させたかということが問題なのです。このような立場が、公的な神様の立場であるということを私たちは知らなければなりません。それゆえに神様は、真なる一人の人間を探さなければなりません。そのように探し出したその日が真なる一日とならなければならないし、その一日から、その一人の人が真なる人とならなければならないし、それとともに、その人の生活が真なる生活にならなければならないし、その人の生涯が真なる生活にならなければならないし、その人が持っている思想が真なる思想にならなければならないのです。それは一人の人に限られた伝統ではなく、一つの家庭を経て、一つの民族を経て、一つの国家形成の伝統とならなければなりません。神様がこのことを願って指導してこられたということは、私たちもイスラエル民族史を通して知っているとおりです。

 このように四〇〇〇年という長年の不信の歴史を、神様は一つの公的な法度を立てて、一つの信義の世界に向かって苦労してこられたのです。これがイスラエル民族と、神様がユダヤ教を立てて摂理されてきた歴史的な事実であることを私たちが考えたときに、その歴史過程においては、信義のみが伝統になり、信義のみが人間個人個人のすべての生活の中心にならなければならなかったのです。そうして、ユダヤ教とイスラエル民族が信義で綴られた社会と、信義として綴られた希望を持って、真なる信仰の中心になるイエス様に結ばれなければならなかったのです。これが神様が願う希望でした。

 にもかかわらず、人間が願う信義の基準と神様が願われる信義の基準が異なってしまったのです。神様が四〇〇〇年もの間イスラエル民族とユダヤ教を育ててきたのは、イスラエル民族とユダヤ教が神様の代身として来られるイエス様を迎えて、彼と共に永遠不変の神様の信義の基を立てることを願われたからです。しかし、当時のユダヤ教とイスラエル民族は、神様の代わりに信義の中心をもって現れたイエス様を不信してしまったのです。これが歴史的な恨みとなってしまったということは、私たちのよく知っていることです。

 このように悲惨な歴史の中で、イエス様は死の道を行きましたが、イエス様が最後まで保持されていたものは何かというと、それは不信の世界において、神様が信じられる信義の実体として残されることでした。結局、そのような戦いの路程から、最後に迎えたのが十字架の運命の道であったということを私たちはよく知っています。神様は新しい意味から、新しい歴史の舞台に立てたイエス様を中心として、新しい信義の歴史を探し求めざるを得なかったのです。そして、数多くの人間の中で、信義の一個人を探してこられたし、さらには家庭と氏族の基台を広げて、世界的に発展させてこざるを得なかったのです。これがキリスト教の悲惨な殉教の歴史であったということは、私たちの知っているとおりです。

 こうして六〇〇〇年という長い歳月を経て、最後の日というこの地点に至っていることは、私たちの見たとおりです。この期間に神様は、キリスト教文化圏を中心として特別に選んだ第二イスラエルの選民権を相続して、一つの特定な国家を立てて待ちに待ってこられたということを私たちは知っています。世の中の人たちは信じることはできないが、神様は信じてくれるだろうと思い、世の中の人たちは知らないが神様は知って信じてくれるようにと、歴史をこらえ、こらえながらきたのがキリスト教の文化圏であり、キリスト教自体であったことを私たちは知っています。

 そのようなキリスト教の文化圏内で、神様が祝福してくださって自由世界の先頭に立ったのがアメリカであり、そのアメリカに対する神様の願いは、アメリカがキリスト教歴史に燦爛たる光を発することのできる一つの勝利の世界的国家として登場することでした。それを願いながら育ててこられたのですが、今やアメリカは、神様が願う立場と正反対の立場に立っているということを、私たちは直視しているのです。信義の因縁に従ってきたキリスト教文化圏の結実体のようなアメリカさえも、神様が信じることのできない不信の結果になってしまったことを見たときに、本当にかわいそうな方は神様であるということを感じるのです。このような不信の世界の上に、不信の自由世界の中で、不信のキリスト教文化圏の中で、希望の基盤が崩れていくこの時において、神様が信義の立場から誇れる一つの個人が、家庭が、氏族が、民族が、果たしてこの世の中のどこにあるかということを考えたとき、神様は本当にかわいそうな方であることを私たちは感じざるを得ません。


信義の結実体とならなければならない統一教会

 そのような心情でアメリカを訪問し、ヨーロッパを訪問し、そして今、この地に至りました。金浦空港に着陸する二十分前に、着陸の放送を聞いて韓国の地を機上から見下ろしてみましたが、雨で何も見えませんでした。約十五分くらい過ぎてようやく金浦空港近くの地上が見え始めました。その時私が感じたことは、今までキリスト教歴史を中心として、一〇〇年以上歴史の基盤の上で神様の保護を受け、どんな国よりも祝福を受けることのできたこの国、この地が、どうして信義の立場に立つことができず、不信の一日を迎えて南北に分かれてしまったのかということであり、今後において国民自体が、主権自体が、誰を信じることができ、誰を信義の土台の上にこの国家を立てることができるかということでした。

 このようなことを考えたときに、誰がこの国の将来の運命に責任を負うかという問題を考えざるを得ないのです。韓国がこのような立場に立ったのも、神様に信じられることのできない立場に立ったためにもたらされた結果として、このような悲惨な立場に立っていることを私たちはよく知っているのです。私たち統一教会の人々は、この国の反対を受け、数多くのキリスト教の反対を受けてきました。反対を受けるべき立場で反対を受けるのであれば、それは当然のことですが、世界的であり、歴史的であり、天宙史的使命を持っている私たちであるにもかかわらず、この民族とあらゆる教団が不信してきたのです。第二次世界大戦の難しい戦争の中でも、神様の保護を受け、爆弾も受けずにきたこの国が、二つに分断されて、歴史的な運命をたどってきたということは、皆さんがよく知っていることですが、それは不信の運命を受け継ぐ私たちの社会的な土台、国家的な土台、宗教的な土台が残っていたためであります。

 このようなことを考えたときに、今もそのような国と宗教から不信を受けている私たちであり、神様が信じることのできる基台になっていなければ、神様がかわいそうであるということを感じているのです。

 ここに集まった皆さんは今、自由世界で神様のみ旨を定着させることのできる個人が崩れていき、家庭ももちろん、氏族、民族、国家、世界も、今やその基盤が揺れているということをよく知っています。不信の種を植えた歴史が、神様が導いてこられた世界にまで不信の結実を結んでいるこの実情を直視したとき、今日この場において神様が願われておられるのは、不信の結果ではなく信義の結実なのです。

 神様のそのような希望の前に、果たして歴史的な不信のすべての悲しみを清算し、不信の種を除去することのできる個人は誰か、あるいはそのような家庭、そのような氏族、そのような教団はどこにあるのかという問題を考えたときに、「神よ、そのような群れは追いに追われているこの統一の群れしかありません」と、お祈りしながら金浦空港に足を下ろしました。

 皆さん、今日神様はかわいそうな方であることを知らなければなりません。先生は金浦空港に集まった皆さんの顔を見ながら再び考えさせられました。先生が帰ってくると言って、歓声をあげて迎えてくれるのもいいんですが、その中に流れている歴史的な不信の種が私たちの間に、その中に芽生えているのではないかという問題を考えたときに、これは深刻な問題にならざるを得ません。恨み深い世界史的な運命の前に、神様が信じることのできる群れは私たちしかいないという結論を考えたときに、皆さんと私、あるいは皆さんと皆さん同士のその間に、歴史的な恨みをもたらした不信の種が芽生えているならば、この群れはどこに行き、この集まりは何のための集まりなのかということです。ですから、もう一度分析してみなければなりません。

 皆さんがきょうこのように私を歓迎してくれることも、祝ってくれることもよいのですが、皆さんの心の中において、歴史的な不信の種が除去され、神様がはっきりと信じてくださる信義の自分自身を発見することが、この時間ここに参加した皆さんにおいて、何よりも重要な課題であるとみているのです。

 多くの群れが集まるよりも、この多くの群れの中において、歴史を代身し、時代を代身し、あるいは世界を代身して、永遠不変の信義を持って真なる信念に燃える人にならなければなりません。永遠に変わらぬ自分を信じることのできる、神様が信じてくれることももちろんですが、自分自身がはっきりと、また神様がはっきりと信じてくださることのできる信義を確立させて、再び神様の前に決定しておくことが、私と皆さんが会ったこの時間において、何よりも重要な責任であると感じるのです。


不信の種を抜いて、信義の種を植えるには

 皆さん、きょう私たちの統一教会史を振り返ってみると、二十四年の歴史の中で、多くの人々が流されていきました。神様の前に命を捧げることを覚悟し、信じてきた数多くの人々が流された事実を知っているのです。皆さんは細かいことは知らないかもしれませんけれども、責任を持っている者として、私は数多くの人々を見てきました。誓いをする人を見たし、決意をする人も見たし、その決意を表すために血書まで書く人も見ました。自分の命を犠牲にして覚悟した立場で神様の前に多くの決意もしたけれども、彼らの胸に不信の種が芽生えるとき、神様を裏切ることがしばしばあったということです。

 私たちは歴史的な伝統を相続するために、信義をもって相続するのではなく、不信の因縁を通してその種を相続しました。まかれた種は、必ず収穫するようになっているために、その不信の種がひょっとしたら皆さんの前に現れることもありうると常に肝に銘じなければなりません。

 そのような不信の種を除去するために、私たちは神様の前に呼ばれ、洪水審判のような、歴史的な死亡の波を防ぐために、信じられる群れを集めたにもかかわらず、果たして不信の種を除去し、永遠なる信義の種になろうとする人が、今日この教会にどのくらいいるかということが問題なのです。

 さらには統一の群れで、きょうこの席に集まっている、そしてこの日を祝賀している皆さん自身の中でも、そのような信義の種になろうと決心している群れが、どのくらいいるかということが問題であることを考えざるを得ません。信義というものは、私たちが住んでいる平凡な生活環境から出てくるものではなく、命を懸けるところから生じるということを知らなければなりません。不信が死亡とともに出発したために、信義が定まるためには死亡の世界を越えて、新しい命の因縁を提示できなければなりません。そのようにして、信義が生まれてくるということを知らなければなりません。

 それゆえに、不信の歴史を相続してきた人類の世界において、神様は宗教を立てて、信義の土台を立てるためにいつも命を懸けて誓わせてきた歴史であることを私たちは知っています。イエス様を中心としてみても、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる」と言われているのです。自分の不信の命を捨てる覚悟が決定されていなければ、自ら不信の種を完全に除去できる蕩減の供え物の立場に立つ覚悟がなければ、信義の種を植えることができないということを、私たちは、いま一度知らなければなりません。

 このような立場からみたときに、統一教会の食口たちは、今まで第三次世界巡回路程のために真心を込めて祈ってくださったことは有難いのですが、これから皆さんと私の間において、あるいは私と神様の間において、また皆さんと神様の間において、信義を結ぶことのできる新しい決定が、きょうから始まれば数多くの不信の恨みの歴史も防ぐことができ、あらゆる民族的な不信の苦難も防ぐことができるとみているのです。


信義の世界の伝統を残す教会員になろう

 今こそ、皆さんの心の中に信義の種を植えて、この韓半島において統一教会の群れを中心として、もう一度信義の種を植える運動を行わなければならないとみています。今まで歴史過程に迫害を受けながら、信義を誓ったことは、一つの血に染められた信義になるかもしれません。受難の蕩減路程を経て、受難の道を越えて、受難以上の信義を誓い、新しい個人と、新しい家庭と、新しい氏族と、新しい民族と、新しい国家形成として前進する新しい運動となれば、そこから不信の歴史の基盤を取り替えて、信義の歴史の基盤が立てられるとみているのです。

 それゆえに皆さんは、いま一度、死の境地を越える決意をし、過去を清算して、きょうから信義の種になろうという決心をしなければなりません。そのような皆さんになれば、きょうの歓迎集会は世界的な歓迎会となり、神様が喜ぶ歓迎会になると思います。そして、不信の中で絶望していたこの民族の前に、新しい希望の基盤になると思います。さらにまた、今まで不信の世界を眺めながら恨み深かった神様の前に、皆さんが一つの誇り得る基盤となって、狼煙になることができると思うときに、ここから新しい歴史が出発するとみているのです。

 皆さん、私たちは個人の不信なる恨みの歴史を清算し、信義の一人の先祖として出発することのできる自分を発見するために、ここに集まった群れであることを知らなければなりません。そのような皆さんであり、私であり、そしてこの群れであり、氏族であり、そのような教団とならなければなりません。このような教団を拡大させて、民族と国家へと発展していけば、歴史の中で不信の恨みによって傷ついた神様も、私たちによって新しい希望を持つことができるのです。

 そして、それによって、そのような過去を忘れることができるのです。不信の時代の中で絶望された神様は希望を持つことができない立場におられたけれども、私たちによって、再び新しい信義の希望を持つようになれば、そこから出発する歴史こそが、人間世界に永遠に伝統として残る歴史になるのです。そして、私たちが生きていくこの生活が、新しい世界の文化創建のための現実的な生活の基盤になることでしょう。のみならず、そのような生活の基盤こそ、未来の伝統として永遠に相続して余りあるほどに、この地と天の前に立たせるのに恥ずかしくない伝統になることを、私たちはいま一度悟らなければなりません。ですから、私たち個人においての不信の種を抜いて、信義の種を植えようと思うのです。私たちの教会において、不信の種を抜いて信義の種を植えなければならないのです。

 私たち民族がそのようになり、私たち人類がそのようにできれば、六〇〇〇年間恨みの歴史を綴ってきた神様も、初めて恨みを晴らすことができるようになり、それによって、創造理想世界の愛の園が、出発するようになるということを私たちは知らなければなりません。

 それゆえに、問題は自分自身であり、その次は自分の家庭であり、その次は自分の教会なのです。この教会はどこに行くのでしょうか? 不信の方向に向かって行ってはいけないのです。死んでも信義の方向に向かう教会とならなければならないし、そのような教会を残さなければならないと思ったときに、統一教会を指導する責任者として、深刻な立場で考えざるを得えないのです。

 皆さん、きょうを記憶してくださるようにお願いします。きょう、この歓迎式で皆さんは不信の種を抜いて、信義の種を植えて、その心に、その環境に、その教会に残すことができるように決意をする皆さんになってくださるようにお願いします。


祈祷

 愛するお父様。このように足りない、整えることのできない韓半島の地を眺めながら、どうしてあなたは、このような悲惨なる民族を探してこなければならない歴史的な因縁を持っていたかということを考えながら、かわいそうな神様のことをいま一度、振り返ってみるものであります。

 お父様。この韓半島は今、二つに分けられています。北には怨讐たちがおり、南では正義の道理が地に落ちてしまい、この現時点において、あなたが見ておられるこの私たちさえも、その信仰心を失ってしまう群れになることのないように、この時間、私たちが決意することができますようにお願い申し上げます。

 不信の歴史を受け継いだ恨みの歴史を清算し、信義の世界を成すことができなかった不信の世界を除いて、今や私たちは再び体と心を合わせて天の前に誓わなければなりません。盛り上がる決意とともに、不信に対する無限なる憎しみを感じて、信義に対して新しい希望を感じながら、信仰心を守っていくことのできる、ここに集まったあなたの子女となりますように切にお願い申し上げます。

 自由世界を指導していったアメリカを、天が数多くの民族の中から選んで二〇〇年間祝福してくださいましたが、そのアメリカはもはや行く道が暗いということを見て帰ってきました。アメリカの地でお父様の前に訴えた内容を、あなたは知っておられます。誰も責任を負うことのできないアメリカであり、自由世界であるために、私たちのみでも、私一人でも、責任を負わなければならないという決意とともに、お父様の前に覚悟して出発したこの戦いの道であることをあなたは知っておられます。そのような道を経て、一五六日間、あなたが指導する道に従って、ヨーロッパを経て今ここに帰ってきました。出発の時もそうでありましたが、再び帰ってきて、あなたが愛する子女たちを前にして、これらの前に慰めと、説明のできない立場に対して恨みを感じるのであります。

 荒廃したこの地と、食口たちのこのような姿を見たときに、この人々を見て信じなければならないし、この地を見ながら信じなければならないお父様が、どんなにかわいそうであるかということを感じざるを得ません。十字架にかかって亡くなるイエス様を見ながら、その顔をそらしたお父様の心情がどういうものかということを理解できます。しかし、そらした顔を、涙とともに、つらい胸を押さえながら再び、十字架にかかっているイエス様を見ながら祝福せざるを得なかったお父様の心情をたどってみたときに、お父様、かわいそうなこの韓民族を再び記憶してください。神よ、この地から離れないでください。この民族を捨てないでください。この民族と家族の教団は捨てるとしても、この民族と数多くの教団のために供え物となろうとする統一教団は、捨ててはならないことを感じるのであります。

 お父様。不信の傷が甚だしいあなたの心からみた場合に、私たちも同じように見えるかもしれませんが、十年、二十年をおいて見てくださいますように。この時間決意いたしますので、お父様、私たちをいま一度信じてください。不信の子女となった過去のことを悔い改めて、信義の子女として信じてください。たとえ顔は荒っぽく身はぼろを着ていても、その心は信仰心を失っていません。これを見て、お父様、記憶してください。このような歴史的な悲惨なる姿を、天と共に多くの国々を経て、涙を流しながら、この地に再び帰ってきたとき、慰めの指導者となることができず、進める指導者になることができない立場に立っていることを、お父様、お許しください。

 これからは滅びる道を行ってはいけないし、神様に背く道を行ってはいけないということを知ったために、この者たちと共に、朝晩あなたの前に不信の子女とならないように祈り、戦いの場の裏切者になってはいけないということを教えてあげなければならない責任があることを知っています。

 お父様。この時間、私たちはあなたの前に膝を曲げました。あなたが願われることは何であるかも知っています。自分を信じることのできない自分になってはなりません。自分が自分を信じることができるようにならなければなりません。天地が変わっても、変わることのない自分にならなければならないということを、はっきりと知らなければなりません。

 お父様。不信の歴史の基盤の上に、あなたが信義の実体の種として立てて、昼も夜も信じることができる、一生、一〇〇年、一〇〇〇年まで信じることのできる群れが残されているときに、その群れを通して、天は新しい歴史を営んでいくことを知っています。ここに立っているこの息子は、そのような立場に立つことを既にお誓いいたしました。ここに集まったあなたの息子、娘たちも、この時間そのような息子、娘になることをお誓いいたしますので、お父様、これらの心に、不信によって蹂躙されたあらゆる跡を除去し、あなたが再び創造されて、信義の種をその胸に植えて、信義の基盤となって、信義の世界に向かって走っていくことのできるあなたの息子、娘となりますように、切にお願い申し上げます。

 お父様。世界に広がっている統一の使徒たちを、いま一度あなたの前にお願いいたします。どうか、自分の利益のために死ぬ人になりませんように、あなたの利益のために死んでいくことができますように。その死の道において、個人と家庭と国家の限界線の中で死んでいく群れにならないように、国家を越えて世界人類のために天のために死んでいくことのできる群れにならなければ、公的な天国がこの地上に光を発することができないということを私たちは知っていますので、きょう、ここに集まった私たちもそのような群れになろうと決意いたします。世界に広がっている統一の群れも、このような立場から決意することができますように、切にお願い申し上げます。

 このような立場での出会いを感謝し、いま一度、お父様が悲しい立場にとどまることのないように、あなたの無限なる愛と、憐れみと、恵みをたくさんの人たちに降ろしてくださり、未来に創造する、新しい子女の姿を備えて、信義の始祖となり、信義の狼煙をあげ暗闇の世界を照らすと同時に、暗闇の世界を征服していくことのできる天の勇士たちとなり、正義の軍隊になることができますように、自ら心にお誓いするこの時間になりますように、各自、自分自身を守り、未来に約束した群れとして残れるあなたの後孫たちになれますようにお願い申し上げます。

 今、統一の群れは、ここに立っているこの息子と共に、家庭を中心として、氏族、民族、国家的な不信の基盤を除去し、信義の実体として永遠なるあなたの信義の新しい芽を自ら持って結実できる者として、あなたの確かなる希望の実体とならなければなりません。それによって世の中が天の国へと帰っていく、天の慰めの基盤として残される日には、これらの者によって新しい文化がつくられることを知っておりますので、そのような決意をするこの時間になりますように、切にお願い申し上げます。許されたみ旨と願いが私たちと共に、お父様の信義の基盤の上で、勝利として納められますようにお願いしつつ、このすべてのみ言を真の父母のみ名によってお祈りいたしました。アーメン。












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送