み旨にかなった子女指導
(全面表示) 戻る


 第二節 真なる家庭の構成と系統

 一 家庭は三代すべてが必要

 皆さんは複雑なことが好きですか、簡単なことが好きですか? (簡単なことです)。そうですか、簡単な家庭がいいですか? (はい)。それなら、先生が話したことはどうなります? おじいさん、おばあさん、舅、姑、小姑、孫までも一緒に暮らそうというのです。何を中心として? センターを中心として蘇生、長成、完成、三代が定着するのです。これはどういうことですか? お父さん、お母さんだけ愛するのではなく、おじいさんを愛することができなければ、神様を愛することにはなりません。お父さんとお母さんの上におじいさんをおいて愛することができなければ神様を愛することにはなりません。

 それでは、なぜ夫がいなければだめなのですか? なぜ息子・娘がいなければだめなのですか? 彼らがいなければ、神様に侍ることができないからです。だから、それがなければだめなのです。父母がいなければならず、息子・娘がいなければならないというのは原則です。一つ、二つ、三つ、これがセンターになります。これがセンターになるのです、九十角度に。九十度は完全に合うようになっています。だから、三代が必要なのです。

 さあ、父母は必要なのですか? (はい)。では夫婦は必要ですか? (はい)。子女は必要ですか? (はい)。それをなぜ必要とするのでしょうか? 神様とベリー・グッド・センター(とても重要な中心)と関係を結ぶためには父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要であるという論理が成立するのです。なぜ父母が必要で、夫が必要で、子女が必要なのかをはっきり知らなければなりません。これを知らなければならないのです。私は下にも行かなければならず、センターにも行かなければならず、上にも行かなければならず、横にも行かなければならず、四方に行かなければなりません。たとえ孫だとしても、愛をもっておじいさんを好きになれば「おお、よしよし」と言うのです。分かりますか? (はい)。

 だから、本然の世界ができなかったので、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準化することを、わが統一教会が宗教世界を通じてはじめて教育した事実は、驚くべきことだということを知らなければなりません。(一九八三・五・二九、アメリカ)

 家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。それではじめて家庭が幸福の拠り所になるのです。神が人類を探し求める目的も、神自身の幸福を模索するためであることには間違いありません。そこで、神自身が幸福の拠り所を探し求めてくるとき、人間を離れた場所にはそのような理想がありえないのです。人間と一緒に関係を結ばなければ、その一致点をもたらすことができないのです。私たちが家庭において、情緒的なすべての内容を備えた場所で幸福を感じるのと同じく、神もやはり、そのような場所において幸福を感じるのです。(一九七〇・七・一五、前本部教会)

 私たちは互いに感じ合ったり、よく顔を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要なのであり、夫も必要なのです。また、若者たちも必要だし、お年寄りも必要なのです。だから、私たちは万民の世論がどうであっても、共通した形を整えることをしてきました。

 年取った人たちは必要ないといったら、将来どうなるでしょうか? 年取った人を皆見捨てる立場を取るようになれば、その国の国民性はなくなるのです。分かりますか? 年を取った人が嫌いだという人になるなら、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り飛ばす人になるのです。

 ところで、このごろは子どもが親を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定する時が終わりの日です。私たち統一教会はそのようにしてはいけません。こういった現在の思潮に調子を合わせて操られてはいけません。統一教会は真実で永遠に肯定できる因縁を持たなければなりません。親は親なりに、子どもは子どもなりに、先生は先生なりに関係を結ばなければなりません。ですから、若い人だけではいけません。み旨には年を取った人も必要なのです。

 ですから、年取った人を重要視しなければなりません。これから、先生を中心としてそのようなことを試していくことになるでしょう。だから、神様を中心として動くのには、子どもも必要だし大人も必要だし、息子も娘も皆必要です。一つの氏族を中心として、皆必要なのです。(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫の嫁たちは皆見るのを嫌がるのです。なぜですか? 早く死ねばいいというのです。しかし、愛を持った孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日には、目から雨のような涙が出るだろう。ああ、千年も万年もあればいいなあ」と言うのです。そのようにできる嫁は偽りの嫁ですか? 真の嫁ですか? 偽りの孫嫁ですか、真の孫嫁ですか? 何ですか? (真の孫嫁です)。皆さん、全員そうですか?

 現在において簡単に生きようとするでしょう? 簡単に生きようとする人は、東西南北がない人です。東西南北を備えることのできない人は、中央を見いだすことができません。(一九八九・一・一、本部教会)

 今日、家庭倫理の根本問題が揺らいでいます。ずっと今まで、宗教を信じる人たちは、結婚することを悪く考えてきたというのです。結婚の最高の神聖さを私たちは謳わなければなりません。男性と女性が愛し合うことのできる道は結婚生活なのです。

 そうして、結婚して一つになることによって、男性と女性がだれに似るのでしょうか? 神様に似るのです。男性と女性が一つになってはじめて、ご自身の形状通りに男性と女性を創造された神様に似るのです。そうしてはじめて、神様が臨在されます。

 この宇宙の力はこうなっています。皆さん、夫が死んだら妻がなぜ泣きますか? 死んだら死んだで仕方がないでしょうに、なぜ泣くのかというのです。ご飯を食べたくないから死んだというなら、それまででしょうに、どうして泣くのですか? それを知らなければなりません。また、息子・娘がいないとなぜ泣きますか? なぜ寂しいですか? 宇宙の根本原則は東西四方を皆備えなければならないからです、東西四方を。

 宇宙の存在の力は相対理想を擁護する力でできているというのです。だから、全部授け受けるのです。南北が授け受けるというのです。北極と南極が授け受けるのと同じく、星と星が授け受けるのです。だから、相手がなくては存在できないのです。完全に授け受ける存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるようにその存在を擁護する天運が伴うのが原則です。全部それを協助するのです。

 さあ、息子・娘がいなくてもだめなのですね。今日、西欧では「息子・娘は必要ない」という主義が現れていますが、必要ないかどうか今に見ていなさい。霊界へ行ってみなさい。自分が立っている所には必ず上があり下があるのです。三数を通さなければならないのです。三段階を経なければならないのです。

 だから、すべてのものが、皆三段階になっているのです、三段階に。父母に侍らなければならないし、夫婦がいなければならないし、子女がいなければなりません。子女がいなくては天理原則に合わないというのです。これを真っ二つに分けると男性三段階、女性三段階ですが、これを合わせて統一的な三数の形態を備えて、理想世界が展開されます。すなわち、おじいさんとおばあさんがいて、お父さんとお母さんがいて、自分がいてはじめて理想的だというのです。統一教会の家庭倫理はここから始まるのです。(一九七四・二・八、中央修練院)

 天国とは何でしょうか? 自分の家庭と同じように、世界の人を愛することのできる所が天国であり、そういう人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分の妻、兄弟、子女、この四代は何でしょうか? 天の国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としての家庭です。教材としての家庭なのです。教材として私に教えてくれる基盤が家庭というものだということを知らなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)

 サタンとはどのようなものでしょうか? サタンとは何でしょうか? さあ、私たちの家庭を中心として見てみましょう。サタンが一体どんな奴かを知らなければなりません。サタンが一体どのように悪いものかということを知らなければなりません。

 さあ、一つの家があるとしましょう、一つの家が。世の中では一つの家庭に、だいたい何代が住んでいますか? 一つの家庭に何代くらい住んでいますか? (三代です)。三代ですか、四代ですか? どちらですか? おじいさん、お父さん、自分で三代ですし、その次はおじいさんのお父さんである、ひいおじいさんがいることもあるのです。だから、この地上で一つの家庭に住んでいるのは四代だというのです。四代が住んでいるのです。四代が住むことのできる環境だということを知らなければならないのです。

 そうして、四代以上なら、だいたい二十年ずつ見ると二十年、二十年、二十年、二十年で八十歳になります。このように見るとその代以上の人はどこへ行って住むのでしょうか? 霊界に行って住むのです。永遠に行くというのです。

 それでは、地上でこの一つの家族が生きるのに何を中心として生きるのですか? 知識を持って生きるのか、お金を持って生きるのか、権力を持って生きるのか? 何を持って生きるのかということが問題なのです。愛を持って生きるのです。(一九八三・二・一、アメリカ)


 二 家庭で変わらない軸は父親

 変わらないものは何でしょうか? 今日、男女が互いに好きになって結婚するのに、その結婚も変わるでしょう? お父さんお母さんの愛も変わるでしょう? 親が子どもに対するときの愛も変わりますが、それは大きくは変わりません。人間世界のすべてのものは常に変化しますが、その中で共通して変わらないものを探すと、それは母親の愛なのです。父親は生むところまでです。父親よりも母親のほうが子どもをより深く愛するでしょう? 違いますか? もちろん、愛するのには父親を中心として愛することを知らなければなりません。愛の種はどこから出てきましたか? 生命の種はお母さんから出てくるのではないのです。お母さんは肉でありお父さんは骨です。お父さんのものをもらって出てきたのです。だから、お父さんを思って、(次に)お母さんを思わなければならないのです。

 骨がなかったら形ができますか? 骨がないと、皆餅のように、餅をつくときくっつくように、皆べたっとくっついているでしょう? お父さんの骨から骨が生まれたからこそ、肉に効果があるのです。なければ何の…。

 だから、家庭において変わらない人がいるとしたら、お父さんが最も変わりません。お父さんは怖いでしょう? 怖いですが位置を守るために、軽率に行ったり来たりしません。しかし、お母さんはくるくる回ります。お父さんは一つの場所で回転しているために、軸と同じ位置にいるために変わらないのです。皆さんそうでしょう?

 この前、清平へ行ったら、タービン(原動機)とジェネレーター(発電機)が回っているのですが、それを連結させるシャフト(軸)がこんなに太いのです。一分間に四百五十回回転するのですが、目で見ると動いていないように見えます。しかし、その周りには、大変な騒ぎが展開しているでしょう。それと同じように、お母さんもお父さんを中心として回ります。回るから、お母さんは変わるのです。東へ行っては東の形態を持ち、南へ行っては南、西へ行っては西の形態を持つのです。

 したがって、家の中で変わらない人を探してみると、おじいさんでしょう。その次はおばあさんでしょうか、お父さんでしょうか? (お父さん)。知ってはいるのですね。その次はだれですか? その息子、孫息子です。全部男性なのです。女性たちは変わるので秘密の話を全部してしまうなというのです。お母さんがいるときは、父親と息子だけで秘密の話をするときには、「お母さん、ちょっと出ていてください」と言うのです。(笑い)東洋思想はそのようになっています。重要な話はお父さんとするようになっており、お母さんとしてはだめなのです。明日にでも浮気をして、もう一度お嫁に行くかも知れないでしょう? (笑い)だから、重要な問題はお父さん、おじいさんと相談しなければなりません。違いますか? なぜでしょうか? 重要だから。重要というのは、変わらないことをいいます。永遠に変わらずにいられる主体だというものは、永遠に貴いのです。(一九八六・三・二、本部教会)

 家庭の中心は何ですか? 父母ですが、なぜ父母ですか? 父母は家庭全体のためにいるからです。(一九八三・一・二三、ベルベディア修練所)

 たった一つの父母だということは何を意味しますか? 絶対的であり、変わることがなく、永遠でありうる、たった一つの中心存在だというのです。そのような人が父母だということを私たちは知りました。また、その父母の中に変わらない愛が蓄えられているのです。皆さん、ダイヤモンドとか金とかを包んでいる風呂敷は貴いでしょうか、貴くないでしょうか? 風呂敷もダイヤモンドを包んだときにはダイヤモンドと同じ価値を持つのです。そういう観点から見て、父母がどんなに貴いかということを(私たちは)知りました。変わらない愛を、無限な愛を持っている父母自体がどれほど貴いかということを、私たちは知らなければなりません。皆さんたちは父母に対してそのように考えたことがありますか? ここから唯一という、唯一なる父母という言葉が出てくるのです。

 父母は唯一なのです。次に不変です。永遠です。このような観念がここからすべて出てくるのです。父母とはそういうものです。父母は実際そうでしょう? そうでしょうか、そうではないでしょうか? そうなのです。では、父母が変わることができますか? (できません)。父母の愛を革命することは、歴史時代になかったということを私たちは知らなければなりません。結局、たとえ革命が起こるとしても、この愛を革命することはできないので、この愛の起源は永遠に存続しなければならないということになるのです。そのような父母、そのような愛の主体となる父母が私を絶対に必要とするのです。唯一的に必要とし、不変的に必要とし、永遠に必要とするのです。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)

 父母が子女を愛するのは、だれに教えられて愛するのですか? ここにいるおばさんたち、子どもを産んで愛するとき、その愛する方法を習いましたか? どこに愛を教える小学校がありますか、中学校がありますか? 何か、高等学校や大学がありますか? そこに何か、学博士でもいるのですか? 何もありませんが、だれでもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、もっと完全なのです。そうでしょう? 完全なものは手を加える必要もなく、習う必要もありません。加減が必要なければないほど完全なものなので、完全なものは変わらず、変わらないものは永遠に行くというのです。(一九七一・一・八、議政府教会)

 父母とは一体全体何でしょうか? 力も世界的なチャンピオンで、頭も世界的なチャンピオンである息子が、(目の上の)こぶのような存在のお父さんとお母さんを一本の指で片付けて勝手にすればいいのに、なぜ勝手にできないのでしょうか? これを知らなければなりません。父母がいないときは、力でも一番であるし頭でも一番なので、力を振りかざして「やあっ! こいつら!」とやることもできるし、頭をつかって「えいっ!」とやり込めることもできるのです。

 しかし、愛の起源はどこでしょうか? 愛はどこから出てきましたか? 自分からですか? (父母から…)。父母から出てくるので、愛の起源は自分ではなく父母なのです。原因に礼儀をわきまえない結果はありえません。分かりますか? 愛を中心にすると、自分が主人ではないことが分かるので、そのように(自分勝手に)できないのです。だから、父母の前に来ると「はい、お父さん、お母さん、そうです」というのです。父母が「お前がいくら名高く力が強いとしても、お母さんとお父さんの前では守るべき道理を外れてはいけない」と言えば「はい。はい。はい。お父さん、お母さん、その通りです」と言うのです。なぜでしょうか? 愛があるからです。父母が主体であり、子女は対象だからです。分かりますか?

 主体は対象のために生き、対象は主体に従うのが天理原則です。これを破綻させる日には、その家庭は完全に無価値な結果に転落するのが天理原則だということを、いくら無学な人間でも天性に従って生まれたので分かるのです。したがって、いくら外的に力の強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。誤っていますか、誤ってはいませんか? (誤ってはいません)。(一九七一・一一・六、光州教会)

 人間社会は力の争いが続いているし、知識の争いが続いています。まだ、愛の争いができる時にはなっていません。だから、宗教指導者たちは終末になれば自分たちの時が来ると言っているのです。その終末になると鉄拳の力は過ぎ去って、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わり日となるのです。

 力の強いお兄さんが家に入ってきて、大将のように振る舞うことができますか? できますか? できませんか? どんなに力の強いお兄さんも、家では大将のようにできないのです。リングでは世界的なチャンピオンになれても、家では大将になれないのです。分かりましたか? また、博士の学位を何百個持っているお兄さんでも、家に入ってきて大将のように振る舞うことができますか? 男性たちできますか? (できません)。なぜ、できませんか? 父母がいるからです。( ? )


 三 おじいさんは神様と同等

 おじいさんはだれかと言うと愛を持っている人です。夫と妻がけんかをすると、おじいさんとおばあさんが愛で「けんかはやめなさい」と言い、また息子・娘がけんかし、孫たちがけんかをすると「けんかはやめなさい」と、このように僕の役を務めるのです。すべて「お前が最高だ。お前が立派だ」と言いながら、尽くしてくれるのです。愛の僕の役を最大限にする人がおじいさんだということを知らなければなりません。夫も妻がシクシクと泣けば、「泣くんじゃない。ちゃんと分かってるよ。あなたが望むことは全部やってあげるから」と言うのです。どうですか?

 さあ、それで結論は何でしょうか? 宇宙で最も偉大で驚異的で、最も権勢を持った人はどんな人かと言えば、愛の僕の道を歩んだ人なのです。このような結論がぴったりと出るのです。これが神様の哲学であり、レバレンド・ムーンの哲学であり、ムーニーの哲学です。(一九八五・一〇・四、ベルベディア修練所)

 アメリカの家庭ではおじいさんが息子たちの家へ行くとき、電話をしてから行くそうです。人はどういうことを好むでしょうか? 皆さんたちはどういうことを好みますか? いいですか、きれいな嫁が、白髪だらけのおじいさんとおばあさんに慕わしい気持ちを抱き、愛する夫よりもっと良い物を買ってあげようとするなら、どんなにか美しく愛らしいでしょうか? 美人の嫁が、年老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃなのにもかかわらず、何かを買うのに、自分が愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげる場面は、どんなにか素敵であるに違いありません。そうすれば、おじいさんとおばあさんは秘めていたすべてのものを…。愛に関するすべてのものを全部与えるというのです。

 さあ、この世で一番年を取ったおじいさんはだれでしょうか? (神様)。当たりですね。(笑い)だから、そのおじいさん(神様)のために生きる愛を自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学んで、天のおじいさんの秘密の倉庫にあるすべての愛の宝物を私がもらうことができるのです。それはどんなに素敵なことでしょうか。(一九八〇・六・八、アメリカ)

 皆さん、このように考えるとき、おじいさんが咳をすれば「まったく、あの年寄り、早く死ねばいいのに」と言いますか、おじいさんの咳もいいものとして考えますか? 年を取っているから、あまり寝ないのですね。それを考えてみなさい。「いやあ、うちではおじいさんが眠らずに守ってくれる神様だなあ! 私たちを守っていて、あんなに老いたんだなあ。しわを見ると、本当に年を取ったなあ」そのように考えなければなりません。だから、命令に絶対順応しなければなりません。それはどんなに美しいことでしょう。そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに侍るなら、火事にもならず泥棒にも入られないのです。これを知らなければなりません。

 おじいさんとおばあさんは眠らないで何をするのでしょうか? 祈祷をするのです。「神様、うちの息子・娘に福を授けてください。福をください」と言って祈祷するのです。「おい、だれだれよ! お前、きょうは出歩いては危険だ。言うことを聞きなさい」このように全部教えてくれるのです。「きょうは外に出るな! けんかをするな! 息子よ、どこにも行くな。娘よ! 嫁よ! きょうは遠くへ行くな」このように教えてくれるのです。(笑い)

 さあ、だから孫たちにこのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょうか? 愛を持てばおばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。(一九八〇・六・八、アメリカ)

 父母は孫をどこかに送り出すとき、必ずおじいさんの承諾を受けなければなりません。父母の勝手にはできません、おじいさんが神様の位置になるのです。分かりますか、何の話か? それをアメリカ式ではとても嫌がるのです。お父さんとお母さんがどこかに出かける際、子どもが「私も一緒に行きたい」と言う場合、(おじいさんの承諾なしに)「だめだ! だめだ!」とは言えないのです。(一九八〇・六・八、アメリカ)


 四 人間世界の系列

 人間の中にはどのような人がいるでしょうか? 人間世界には系列があります。祖父母がいて、父母がいて、子女がいます。良いおじいさんとおばあさん、良い夫・妻、良い息子・娘、これらがどのように一つになるかが問題です。人と人同士連結されたこれらのものが、一つになっているのが最高に良いことだと私たちは考えるのです。

 人間において最も貴いもの、良いものはどこにあるでしょうか? それは外にあるのよりも自体内に、自体とともにあります。だから、内的私自身を中心として、良いおじいさんとおばあさん、良いお父さんとお母さん、良い兄弟、良い夫婦を中心として、良い環境で相対的世界の良い因縁を捜さなければならないのです。(一九八七・三・八、ベルベディア修練所)

 今日、人間世界のティーンエージャー(十代)たちは、お母さんが何かを持っていってあげても「ふん」と言って食べません。(笑い)母親と父親が、遊びに行くために赤ん坊をひもで縛っておいて、柱にぐるぐる巻きにして、部屋に閉じ込めて出ていきます。そんな母親と父親、どうですか? 実際、アメリカにはそのような夫婦が多いのです。人間の中には虫けらにも劣る者が多いという事実を知らなければなりません。

 さあ、私たち人間にとってこれがなぜ必要でしょうか? 世界にはおじいさんとおばあさんのような人々が住んでいるし、お母さんとお父さんのような人々が住んでいるし、夫婦のような人々が住んでいるし、息子・娘のような人々が住んでいます。何種類かと言うと、このような四種類の人々が全世界に住んでいるのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。だから、世界の数多くの人々が天国の国民になることのできる教育の教材として、経典とされたものが家庭であるという観念を持たなければなりません。

 では、ここで秩序を立てるにはだれが立てなければならないでしょうか? その家庭に対して功労が多く、その家庭をよく知っていて、その家庭で見本になる人が責任者となるのです。これは民主世界全体の原則にも反しないというのです。さあ、だれがセンターにならなければなりませんか? (おじいさんとおばあさんです)。そうです。おじいさんとおばあさんです。違いますか? (いいえ)。なぜ、どうして? 全体をよく知っているからです。おじいさんがその家では王だということでしょう? その王がお父さんに「私はもう年を取ったから、お前がやりなさい」といって相続してくれ、そこでお父さんが「お父さんが本当によろしければそうしましょう」と言うその時になってはじめて、その家庭の中心がお父さんに代わりうるのです。そのお父さんが、次に私に相続してくれてはじめて、私も家庭の中心になることができるのです。

 そうしておけば、おじいさんがお父さんにこのようにし、お父さんが息子にこのようにし、息子はまた先の後代にこのようにしていくことが、私たちの伝統として立つことになります。これが宇宙を代表した家庭のシステムの原則にならなければなりません。

 ところが、今まで世の中には神様が認める家庭がありませんでした。だから、神様がこれをもう一度つくるために宗教を立て、複雑な過程を通過して苦労してきたのですが、今日神様の名でこのような家庭のシステムをつくろうと運動するのが、歴史上はじめて現れた統一教会だというのです。これは事実なのです。(一九八四・二・五、アメリカ)

 人間は自分の父母を愛するように近所の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように近所のおじいさんを愛し、自分の息子・娘を愛するように近所の息子・娘を愛さなければならない! だから、上下関係が広がり、左右が広がり、前後関係がそこから広がるのです。このようになるのです。分かりますか? それが広がってはじめて、この縦的な心情の基準が定着して天道ができるのです。だから、それを実践しようというのです、皆さんが。統一教会はそれを実践するので理想的家庭建設だ、このようになるのです。

 それでは皆さんは何でしょうか? 皆さんはこの縦的中心で何をしなければならないでしょうか? これを横的に再現させようというのです。そうしなければなりません。それゆえ、おばあさんを愛さなくてはならないのです。もう、先生も間もなくおじいさんになるでしょう? (はい)。おじいさんになるのです。皆さんも年を取ったらおばあさんとおじいさんになるのです。同じです。息子・娘として生まれて、次に結婚してお母さんとお父さんになり、おじいさんとおばあさんになっていくのです。それが人生というものです。

 それゆえ、おばあさんとおじいさん、次はお母さんとお父さん、次は自分たち夫婦、次は息子・娘なのです。これが人生が行く公式路程なので、これを愛さなければ天道から外れる! このようになるのです。分かりましたか? (はい)。

 これを根本的に結んでおかなければ、この世界を収拾する道がありません。西洋のあたりへ行ってみると、本当に西洋のおばあさんとおじいさんたちはかわいそうです。彼らは東洋の風習をどんなにうらやましく思っているか知れません。「ああ東洋思想はおばあさんとおじいさんをその家の神様のように長として侍り、七十歳、八十歳の老人のところに息子が行ってすべてのことにおうかがいを立てて…。いや、どんなにいいだろうか」と言っているのです。

 それゆえ、おばあさんとおじいさんを愛することのできない人は…。一番年を取ったおじいさんはだれですか? 神様ではないですか? また、一番若い人はだれですか? その人も神様なのです。おじいさんよりも年を取った人が神様であり、赤ちゃんよりももっと若い人が神様なので、その神様を愛そうとするわけですから、すべての人を愛さずしては神様を愛することはできない、このようになるのです。何の話か分かりますか?

 だから、神様は年が多いと言えば一番多い方であるし、末来に対する青春ならぱだれよりも青春なのです。そうでしょう? その神様を私が愛そうとするからには、あらゆる人類を愛さなければならないし、歴史時代に霊界に行っている人々までも愛さなければ、神様に従って愛することのできる道を捜して行くことはできない、というのが理論的ではないかというのです。(一九七四・二・九、中央修練院)


 五 祖父母と孫

 皆さん、孫を持ったおじいさんとおばあさんたちは分かるはずです。孫たちはおじいさんとおばあさんを見ては、「ああ、あなたの生命的構成体(外貌)を見ると、年が八十になって死にそうです。年取った人は嫌いです」「ああ、しわくちゃなのは嫌だ。だから、おじいさんとおばあさん、私に近づかないで。ああ、嫌だ」と言ったらどうでしょうか? しわくちゃなおじいさんを見ると、顔がやせこけて歯が抜けて目までしなびて、髪を見てもおかしいですね。そのおじいさんに対して…。そんなおじいさんの愛を受けた人とおじいさんの愛を受けられなかった人を見るとき、おじいさんの愛を受けた孫は「私はお母さんとお父さんの愛も受けましたが、おじいさんとおばあさんの愛も受けました」このように言います。ところで、もう一方にはおじいさんとおばあさんがいません。それで「私はお母さんとお父さんの愛だけを受けました。だから私のほうが立派でしょう」と言ったら、果たして本当でしょうか? 皆さんはどちらがいいですか? おじいさんとおばあさんの愛まで受けた人と、お父さんとお母さんの愛だけを受けた人と二人いるなら、どちらがいいですか? おじいさんとおばあさんの愛を合わせた愛ですか、お父さんとお母さんだけの愛ですか? (おじいさんとおばあさんの愛を合わせた…)。そうです。根本がそうです。(一九八九・二・二六、本部教会)

 皆さん、おじいさんとおばあさんは自分の孫が好きですか、好きではないですか? (好きです)。年を取るとしわも増えて、手も顔もしわくちゃになって、髪も白くなっていきます。それに、おじいさんたちは髭まで生やしています。そして、年老いた人たちは体からにおいが出ます。それにもかかわらず、孫・孫娘がかわいいと言って、頬を擦り付けてなで回したりすると、孫たちは嫌だと言って逃げていくのです。それでも、おじいさんとおばあさんたちはパンまで買ってあげて、孫たちと一緒にいようとするのです。私もこんな気持ちを体験しました。皆さんは体験しましたか? 孫たちは嫌がるのですが、おじいさんとおばあさんはついて回って、何かしてやろうとするのです。そのようなおじいさんとおばあさんが亡くなったとして、その後孫たちを憎むでしょうか。考えてみてください。恋しがるでしょうか、嫌うでしょうか? 皆さんの先祖たちが皆さんを好きになれぱ、気持ちがいいですか、悪いですか? いいはずです。(一九七一・二・一四、ソウル中区教会)

 考えてみろというのです。孫が、小さい孫がいたらですね、ちょこちょこ歩き回っている孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った?」と言ったらどうですか? お父さんとお母さんも座っているのに、自分の兄弟たちもたくさんいるのに、入ってくるや否や「おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った!」と言うなら、それは身にかなっていますか、かなっていませんか? それはどれほど身にかなっていないでしょうか? 言葉遣いも乱暴です「おじいちゃんどこに行った?」と。

 では、その言葉を考えてみろというのです。今八十歳を越えたおじいさんとおばあさんなのに、鼻垂れ小憎がどうのこうのと言うではないですか? 大胆に突っ立って、お父さんとお母さんも皆いるし、お兄さんとお姉さんが自分よりもっと立派なのに、そこに突っ立って「おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った!」と言っても、みんな目を丸くして「おい、この野郎! こいつめ! 何だ!」と叱る人はいないのです。それはなぜでしょうか? 普通なら、よそからほかの人たちが来てそんなことを言えば「うちのおじいさんに向かってそんなこと言えるか?」と大騒ぎになるはずですが、孫が突っ立ってそう言っても喜ぶのです。「そうか、そうか。おじいちゃんに会いたいか?」そういうのです。

 それがどういうことかと言えば、おじいさんに対して「どこに行った?」と言うのは、「おもちをくれ」ということであり、「ご飯をくれ」ということなのです。その内容が問題です。内容が何かと言えば、おじいさんに会いたがるということです。では、その会いたがるのはいいことでしょうか、悪いことでしょうか? それはいいことだというのです。

 天下のすべてのものが(おじいさんに)会いたがり、また会いたいと同時にその次は何のために会いたいのでしょうか? じっと四方を見回しても、お兄さんをじっと見ても、お姉さんやほかの人をじっと見たところで、今どこかの膝に行ってちょっと座りたいのだけれど、この小さい小僧がですね、座りたいのだけれどこっちを見てもあっちを見ても、お兄さんの機嫌をよくよく見て、行って三分だけ座っても、除けられてしまうに決まっています。また、お父さんもよく見ると忙しいし疲れているお父さん…。それはすべて経験を通して分かっているのです。行ってお尻をのせて十分だけ座っていても、嫌な顔をします。なぜですか、気分が悪いからですか? それは、皆時間の感覚が早いのです。ぱっと簡単にしてあげて…。

 しかし、おじいさんは…。おばあさんをよくよく見ると、観察するとおじいさんのように年取った人たちはそのように、何と言いましょうか。おじいさんは素晴らしいけれど、ほかの人たちはそうでもないことが分かるのです。おじいさんの膝に座ると、一時間座ってもじっとしているし、二時間座ってもじっとしています。そのように(長時間)座っても家族の中で一番よく自分を抱いてくれるのです。抱いてくれてですね、「こいつはああだ、こいつは耳がこうだ」と言いながら触ってくれるのは嫌ではないのです。それを知っていますか? なでてやったり、さすってやったり触ってあげて、時には触らないところがなく全部触ってみますけれども、それでも嫌ではないのです。それはどんなに素敵なことですか? どんなに素晴らしいことかというのです。それは木の一番てっぺんが、木の幹のてっぺんが根と一つになる、その言葉に通ずるのです。(一九八六・一・二六、本部教会)

 皆さんの心と体は愛で和動して和合する愛の連体にならなければなりません。だから家庭において尊敬される、相続できる人…。永遠なる相続者として残れる、永遠なる内容を持ったものがあるとすればそれは何ですか? 考えてみなさい。おじいさんも孫が良いものを持ったとすれば喜ぶのです。また、その子のお母さんお父さんも喜ぶのです。何がそれを可能にするのでしょうか? 全体が平等に、同化的に、統一的にすべて喜ぶことのできるものは何でしょうか? それは愛です。愛を中心としなくては、そのようになりえないのです。

 それゆえ、おじいさんとおばあさんは息子・娘が孫を産めば喜ぶでしょう? なぜ孫を産むと喜ぶのですか? 愛の足場が拡大されていくからなのです。(一九八六・三・二、本部教会)

 神様の嘆きは何でしょうか? 孫を抱いてみたことがないことです。孫娘を抱いてみたことがないことです。神様の願いがそのような基準に入っていくとき、そこで自分の版図が広がっていくのです。宇宙が私の家庭から存続することになるのです。そうでなければ、宇宙が連結されません。横的基盤ができないためにそうだというのです。(一九八八・八・七、本部教会)

 おばあさんたちが寂しいのは孫の愛が必要だからです。そのような愛を受けられなければ、寂しさを感じます。(一九七九・四・二九、アメリカ)


 六 警戒すべき西洋の老人冷遇現象

 今日、アメリカの家庭ではお父さんとお母さん、おじいさんとおばあさんが全部一緒に住みますか、住みませんか? (住みません)。それは、いい家庭ですか、だめな家庭ですか? (だめな家庭です)。では、なぜそうなのですか? 養老院へ行くおばあさんとおじいさんがいるのですが、アメリカ人たちはそれが好きなのか考えてみました。ニューヨークの公園、あれは何公園ですか? (セントラル・パークです)。その公園へ私が春に一度行ってみたのです。すると、そのベンチにおじいさんとおばあさんたちが大勢いました。一度そこに座って彼らに「あなたは息子・娘と暮らすのがいいですか、それともこうして別々に暮らすのがいいですか?」と尋ねてみました。すると、別々に暮らしたくはないと言うのです。息子たちと一緒に、孫と一緒に暮らしたい、いつも会いたいと言うのです。アメリカの数多くの老人たちがそのように一人で暮らしながら、息子・娘、孫を慕いながら死んでいきます。養老院で一人とても寂しく過ごしながら…。

 人間は愛から生まれて、死んでいくようになっていますが、相手を愛してあげようにも愛することができず、愛を受けようにも受ける場がありません。息子・娘、孫を愛しながら生きたいというのがおじいさんとおばあさんの楽しみであり、願いです。それゆえ、神様はちょうど老人たちと同じだというのです。その家庭で子女たちが真なる父母に侍った条件、すなわち真の家庭で育った条件の中で真の兄弟を再び迎えるように、ここですべてハンダ付けをするのです。接ぎ木をするのです。(一九七八・四・八、アメリカ)

 アメリカに何々ホームとかいうのがありますか? オールド・シチズン・ホーム(養老院)があるでしょう? そこのおばあさんとおじいさんは幸せですか、死ぬような境地ですか? それは自由ですか? アメリカの家庭の自由ですか? (違います)(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)

 さあ、アメリカはどうですか、アメリカ? 老人を冷遇などしていいのですか? (いけません)。ですから、若い人たちは年取った人を尊敬しなければなりません。このような面から見て、西洋社会と東洋社会を見ると東洋社会が道義的です。神様の愛的理想圏を中心として比較するとき、高いと言うこともできます。それゆえに西洋は東洋に帰っていかなければならないというのです。帰っているのです、今。生きるためには帰らなければなりません。レバレンド・ムーンが西洋で暮らしたなら、このような概念を発見したでしょうか? (いいえ)。(笑い)端と端です。それは東洋に近いのです。では、家庭制度について見るとき、東洋の家庭制度に従っていかなければなりませんか、アメリカの家庭制度に従っていかなければなりませんか? (東洋の家庭制度に従っていかなければなりません)。東洋に行ってみると、若い娘が結婚もしないでおばあさんとおじいさんに侍り、死ぬときまで子どももなしに暮らす人がいます。それは不幸ですね。不幸ですが、宇宙が見るとき、どのように見るでしょうか? それは不幸な人ですか、幸福な人ですか? どんな人ですか? 個人としては不幸ですが、未来と宇宙が見るときには、標本になれる人であると見るのです。未婚の女性が夫なしでおじいさんとおばあさんに侍って暮らし、年を取って結婚もできない境遇、結婚しても遅く結婚して子どもも持てないその立場が、個人的には不幸でもこの宇宙と将来を中心に見ると、その兄弟たちの家門に祝福が来るというのです。

 それはどういうことですか? その一家が福を受けるのです、一家が。文氏の女性がそのようにしたら、その女性の福に何倍もプラスされて文氏一族の全体に福が訪れてくるし、また大韓民国の女性が世界的に一番そのようにしたなら、その女性のゆえに大韓民国に福が訪れるというのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)


 七 兄弟の間柄と兄弟愛

 兄弟とは何ですか? 同じ愛の同参者です。父母の愛の同じ同役者です。だから、これは互いに争うことができますか? 争うことができないのです。それゆえ、右手を挙げるときはお父さんの手、左手を挙げるときはお母さんの手、右足を挙げるときはお父さんの足…。うちの善進に「この足はだれの足だ?」と聞いてみると、右足はお父さんの足で左足はお母さんの足だと答えるというのです。全くその通りなのです。なぜですか? あらかじめ愛を中心として、そうなっているというのです。(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)

 皆さん、そうではないですか? 「兄弟愛」と言いますが、兄弟を愛して何になりますか? 兄弟愛というものは何かと言うと、自分を越えて愛の版図を持てということです。同胞愛、自分の存在する版図を越えて持て、関係を集めろというのです。人類愛、同じです。生命を中心として、そのような言葉が成り立ちますか? 生命、さあ何と言いましょうか? 同胞生命という言葉はないではないですか?

 このように見るとき、すべての根源の出発点もそれが全部が喜ぶことのできる所であり、環境の方向性とすべての位置も全部が保障する位置であり、その目的帰結も全部がそうだと言うことのできる帰結をもたらすためには、生命をもってしてはだめなのです。(一九八九・二・二六、本部教会)

 家庭を愛せない人は近所の娘がプイッと首を横に振ります。お母さんとお父さんの愛を受けられず、兄弟間の愛を受けられなければ首を横に振りますか、振りませんか? 振るでしょう? 同じです。お母さんとお父さんの愛を受けようと思えば…。

 その家庭において自分を中心にして考えるお母さんとお父さん、兄弟たちが多いのですが、全体のために犠牲となる息子・娘になれば、お母さんとお父さんの歓迎を受けるのであり、兄弟たちの歓迎を受けるのです。それは正しいですか、正しくないですか? 反対の道を捜していくのです。寝ずに、悪い物を食べて、悪い物を着て、悪い所に住んで、もっと苦労をしますと言えばよいのです。( ? )

 さっと行ってみると、私より年配の目上の人がいるし、年下の人がいるし、相手がいるはずですが、それを見分けて私がそこで中心になり標準になることのできる何かにならなければならないというのです。それは教えられなくても知っているのです。教えられなくてもこの原則は知っているというのです。それゆえに父母の言うことを聞かなければならないのであり、夫に従っていかなければならないのであり、兄弟は兄弟同士愛し合わなければならない、そのような道理は皆知っているのです。統一教会の時代に来て、ここで細密に教えてくれるので、もうはっきりと分かるでしょう。(一九八二・一二・二六、ベルベディア修練所)

 皆さん、家庭でもそうではないですか? 父母がいれば、その父母のひざ元で多くの子女たちが育っていくのですが、そのひざ元で育つその子女たちには個性があります。各人各様の個性を持ったあらゆる兄弟たちが住んでいますが、その兄弟たちが自分を主張できるのは父母の愛と根を同じくしているためです。そのような主張は、たとえ幼い弟妹が主張したことだとしても、兄弟たちは無視できないのです。なぜ無視できないのでしょうか? 父母の愛を中心として主張するからです。大きくとも小さくとも父母がともにいてくれる立場では、いくら弟妹の位置にあるとしても、その弟妹が父母の愛と一つになった位置にあるために、彼が主張することを認めてあげなければなりません。また、それが歓迎されるように動くのが家庭生活です。問題は父母とともに一つとなっていない位置ではだめだということです。

 そこでは何が起こるでしょうか? お兄さんがいてお姉さんがいれば、お兄さんの考えとお姉さんの考えが違うこともありうるというのです。しかし、父母の願いはそうであってはなりません。お兄さんの考えも父母の願いに連結されなければならないし、お姉さんの考えも父母の願いに連結されなければなりません。そうして、その考えを論ずるとき、権威があるのです。お兄さんとしての権威、父母が認めることのできる基盤の上に立って主張するときは、父母を代身するお兄さんとしての権限を持つのです。それと同じ立場で主張をしなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての権威があるのです。同じです。

 いくら弟であっても父母の愛と一つになって主張するときには、父母の同位圏に同参できるのです。同位圏、同じ位置に同参できる権限があるというのです。また、愛を中心とした相対的な位置というときには、父母の権限がここに連結されるのです。言い換えれば、相続権が介在するというのです。父母が「こうだ」と言う基準を中心として、そこに「私もこうだ」と言える、愛することができる位置に立てば、父母と共同的な位置に立って相続権を受けることができるのです。これは驚くべき事実です。(一九八七・一一・八、本部教会)

 子女たちが育つ場合に、何によって育つのでしょうか? 愛によって育つのです。愛によって、お母さんとお父さんの愛。「ああ、お母さんとお父さんの愛がここにあるな! お母さんとお父さんの愛! ああ、お母さんとお父さん大好きだ! お母さんとお父さんの愛が私だけではなく家庭に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が社会に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が国に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が世界に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が天の国に連結されているのが分かった」と言うのです。さあ、ウーマン(女性)がこの位置に上がってきて、マン(男性)がこの位置に上がってくるとき、ここで「ああ、お母さんとお父さんが歩んでいた道はどんな道だろう?」と言いながら、お母さんとお父さんに従っていくのです。「お母さんとお父さんはどのように生きるのか?」こう言いながら、お母さんとお父さんが好きで、全部従っていくのですが、「ああ、お母さんとお父さん、男性と女性はどのように生きるのか?」ということを考えるのです。愛を考えるわけです。「完全に歩調を合わせて生きるのでもないし、けんかをする方法も違う、百パーセント違うのだがどう生きるのか?」と考えているうちに分かるようになるのです。「ああ、あのように生きるんだな」と分かるのです。

 皆さん、お母さんとお父さんを愛しているでしょう? (はい)。お母さんとお父さんとただ二人だけで…。弟や妹だの、お兄さんだの、お姉さんだの、いなければいいでしょう? (笑い)「私だけ、私だけ」そう思うでしょう? 皆さん、お母さんとお父さんを愛しているでしょう? すっかり大きくなってから、お母さんとお父さんと二人が私と暮らす期間だけ愛しますか、それとも大きくなるまで、育ってきた期間まで愛しますか? 生まれた時から育ってきたすべてを愛しますか? どうですか?

 では、兄弟をなぜ与えたのでしょうか? 兄弟がなぜ必要かと言えば、男性は妹やお姉さんを見ながら「うちのお母さんはこのように育ったんだなあ!」ということを知るようになります。お母さんが育つのを見るのです。また、女性はお兄さんや弟のわんぱくなところをじっと見ていると、お父さんがそのように育って生きたことを見るのです。それが兄弟愛というものであるのを知らなければなりません。そのように育って一つになるのです。

 だから、兄弟を愛さなければなりませんか、愛さなくてもいいですか? (愛さなければなりません)。それはどういうことですか? なぜそうなのですか? 歴史を、昔のお母さんとお父さんが育っていた時を…。皆さんが霊界に行くと、育っていく時のお母さんとお父さんに会えるでしょうか、会えないでしょうか? 可能ですか、不可能ですか? (可能です)。そうです。皆さんたちは大人になっているのですが「三歳の時のお母さんに会おう」と言ってパッと現れたら、蹴飛ばしてしまいますか、敬拝しますか? どうでしょうか? (敬拝します)。敬拝しますか、抱擁しますか? 小さい子どもは敬拝を知りませんからね。(笑い)さあ、どうしますか。働かせてこき使いますか? むちで追い立てて、こっちへ行け、あっちへ行けとやりますか?

 さあ、その小さいお母さんに対して、妹を愛するようにお父さんを愛するようにお母さんを愛するように、愛することを学ばなければなりません。学ばなくては愛することができないのを知らなければなりません。だから、兄弟たちをお母さんとお父さんが育ってきたその時の姿だと思って愛することによって、あの世に行ってもいつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしくない、愛することのできる主人になるために兄弟が必要だということも知らなければなりません。分かりますか?

 また、お母さんとお父さんは息子・娘が多いですが、お母さんとお父さんよりも兄弟同士でより深く愛し合うのはいいことでしょうか、悪いことでしょうか? (いいことです)。本当に? (はい)。先生は知りませんよ。本当に? (はい)。なぜそうかというのです。なぜ、なぜそうでしょうか? 息子・娘にお母さんとお父さんが育つ時の姿を見せてあげ、兄弟を愛することによって、生まれてから死ぬまでのお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心に因縁をもった兄弟たちなのでそう考えるのです。

 次には、父母に息子・娘が多ければ多いほど、お母さんが思うのには男の子がとてもわんぱくに育つのを見て「私の夫が育つ時も、こうだったんだな」と思うのです。子女たちを愛することは出会う前の夫を愛する立場になります。学ぶというのです。また、男性は「ああ、あの娘を見るとあのように指輪をはめて耳飾りをつけて…。妻が同じようにしていたので…。あれは小さい時の妻を見せてくれるんだなあ」と学ぶのです。彼らを愛することによって、今までの妻の全体を愛したという条件が成立するためにそうだというのです。

 さあ、お母さんとお父さんが「男の子だけ愛して女の子は愛するな」と言いますか? お母さんが息子・娘を愛するのは同じです。また、お父さんも息子・娘を愛するのは同じです。分け隔てなく愛するのです。だから、皆このように兄弟を持つのは、このようなとてつもない一つの家庭に美しい愛の円和、丸い球形を築くためだというのです。このことを考えるとき、どれほど近いですか? どれほどうれしいことでしょうか?

 お母さんとお父さんは兄弟たちに同じように接してあげることを好むのです。それを知らなければなりません。父母は皆そうです。何の話か分かりますか? (はい)。兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも罪だ、このような結論が出ます。アメリカの家庭がそうですか? このような話は初めて聞くでしょう? これが家庭教育において第一条です。これが読本です。アメリカの家庭は何ですか? 人ですか、猿ですか? モンキーでも子の虱を捕って食べます。それは事実なのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)

 皆さん、お母さんとお父さんの愛の中で完全に一つになればなるほど、生命が育って円満になります。それは理論的です。理論的なのです。だから、宇宙の公法に…。次に自分と同じ男性に会えば兄弟になるでしょう? だから、これが一つになった縦的な連結を好むのが父子関係です。分かりますか、何の話か? なぜ兄弟同士一つにならなければなりませんか? 兄弟同士なぜ一つにならなければなりませんか? 原因であるお母さんとお父さん、男性と女性が一つになるのを見るとき、兄弟も一つにならなければならないというのです。宇宙の公法がそうなっているのです、宇宙の公法が。さあ、兄弟とけんかをしたら気持ちがいいですか? (いいえ)。好きでけんかしたのに、何が気持ち悪いですか? では、それはだれが悲しくさせるのですか? (宇宙の公法です)。宇宙の公法が。皆さんたちは、空気の圧力がありますがこれを知らずにいます、知らずにいるのですね。これはすべて調和をうまく成しています。同じように宇宙力が引っ張っているのです。

 だから、人間はこの縦的紐帯を持たなければならないので、このような関係を結ぶために「父母を愛せ」というのです。「父を愛せ、母を愛せ」ではありません。「父母を愛さなければならない」というのです。複数、複数です。「兄弟を愛せ」というとき、兄弟が単数ではなくそれも複数なのです。なぜでしょうか? なぜ複数なのかというのです。愛というものは複数から成されるのです。そのような観念から成されます。理解できますか、何の話か? (はい)。

 それでは、兄弟同士けんかをしていいものでしょうか、悪いものでしょうか? (悪いです)。また、お母さんとお父さんはけんかをしてもいいですね? (いいえ)。それゆえに、相関関係は絶対的です。だれもひっくり返すことはできません。このごろの若い連中が「その相関関係は必要ない」と言うのですが、必要ないと言う連中が必要ないのです。(一九七九・四・二二、アメリカ)

 家で、兄弟同士けんかをして「あっ痛っ、エーン」と泣きわめいたりしたら、お母さんとお父さんはどうしなければならないでしょうか? それはお母さんとお父さんを棒で殴りつけるのと同じです。そのようにしょっちゅうけんかをしていたら、お母さんとお父さんが長生きしますか、早く死にますか? (早く死にます)。不幸でしょうか、幸福でしょうか? (不幸です)。それを知らなければなりません。それゆえ、弟妹一人を思わないことによってお母さんとお父さんが不幸になり、自分の家庭が不幸になるというのです。そのような事実を今知ったというのです。

 弟妹一人が過ちを犯したら、兄弟たちみんなで助けてあげ、お母さんとお父さんが愛する、そのような家庭はどれほど美しいでしょうか? お母さんとお父さんは「後代の私たちの神様です」と言うのです。それはなぜでしょうか? 神様の愛を中心とするときも同じです。そのような家庭でそのように愛でもってお母さんと一緒に愛し合い、お母さんがお父さんのために生きてあげるそのような愛になれば、その家庭には神様がともにあり、その息子・娘は未来において神様の代身者になることを知らなければなりません。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)


 八 家庭の秩序的法度

 皆さんは考えてから行動したいですか、行動してから考えたいですか? (考えてから行動したいです)。何ですって? ムーニーだからそう思うのでしょう。皆さん自身を中心としてはまあ「私は考えるのは嫌いだ」といっては行動し、一回行ってみてその次に考えるでしょう? ところで、なぜ社会がそれを悪いと言いますか? なぜそうするなと言いますか? なぜですか、なぜ? 「それは間違いだ。われわれが行くのが正義だ。お前たちが間違っている」と言うではないですか? 旧時代と新時代の激突がここから起こるのです。どちらがいいですか? なぜ制裁を加えて反対しますか? 反対しても私たちは何としてでも行かなければならないのです。

 さあ皆さん、自分を主張する人にお母さんとお父さん、父母と子女、六人いるとするなら、全部でいくつの道があるでしょうか? セルフィッシュ・シックス・ウエイ(自己中心的な六つの道)があるというのです。それなら、息子は「お母さんとお父さんは私の道に従ってきてください。私の言うとおりにしてください」と言い、娘は「お兄さん、弟の言うことは聞かないで、私の言うとおりにしてください」と言ってみんな自己主張します。このような家では毎日のように、争いが起こります。争えば争うほど、すべてのものの位置が上がりますか、下がりますか? 下がるのです。二回争えば下がり、三回争えば更に下がり、どんどん下がって、後には破壊するというのです。これは事実ですか? 「そうではない、われわれは争って上がっていくのだ。これが原則だ」と言うのはどうですか? (違います)

 真の道は何かというと、争えば下がるのです。それが真の道です。この言葉は正しいですか、正しくないですか? (正しいです)。民主主義もそこから出てきたのです。「われわれが好むようにしよう!」ということでしょう? それはなぜ、どうして? 全体が発展して上がっていき、全体を保護するために不可避なことです。不可避なことだということを知らなければなりません。

 さあ、先生の言うことは間違っていると言う人は手を挙げてみなさい。先生が聞いてみますよ。だから、ここでどんな結論が出てくるでしょうか? 「私たちが互いに助け合える道を選ぼう!」このような結論が出るのです。嫌でも、そういう結論を出さなければなりません。互いに利益になりうるとするなら、下がっていく道ですか、上がっていく道ですか? (上がっていく道です)。したがって、上がっていくことのできる道を中心とした共同利益が絶対必要だ、こういう結論が出てくるのです。では、上がっていってどこに行くのでしょうか? 家庭が上がっていこうとすれば社会のためになりうる道に従っていかなければならないし、国が上がっていこうとすれば世界のためになりうる道に従っていかなければならないし、世界が上がっていこうとすれば、世界以上があるならそこのためになりうる道に従っていかなければなりません。ところで「それは間違いだ。それは違う。違う」このように否定しようとするのです。しかし、それは事実です。(一九八二・三・七、世界宣教本部)

 法には互いに争ってはならないという、争いを防ぐ法、互いのために生きなければならないのでために生きろという法があるのです。争いを防ぐ法、その次にために生きろという法、このようなことを教えたのです。

 それでは、争うのを防ごうと思えば、どうしなければならないでしょうか? お兄さんと弟というときは、お兄さんに従えというのです。なぜ? 先に生まれたから、そうなるのです。宇宙は先に出てきたものが主体になるので、私たちはこのように秩序を立てていくのです。その、先にあるものが神様と通じます。先にあるものは神様と通じるというのです、神様が一番先にいたので。だから、そのような秩序を中心とした防止法が出てきたのだ、このように考えるのです。

 では、父母と兄弟とがいるときはどう考えるのでしょうか? それは先にいるのが父母だから父母に従わなければなりません。それが法です。秩序的法が適用されます。分かりますか、何の話か? 私は突然に生まれたのでだれも干渉できないと言いますが、そこにはおじさんなど、親戚もいるし、いろいろいるというのです。一族圏内に生まれました。それゆえ「私の勝手にしよう」というのではなく、秩序によって一族に、自分よりすぐれた人たちを中心として、そこに歩調を合わせて和することのできるこのような法が自動的に出てきたのです。さあ、皆さんは「法が何だ?」「法がなぜ必要なのか?」と思うでしょうが、とんでもありません。法が絶対必要なのです。万一自分の主張ばかりするようになれば、これは争って一番最後に強い奴が一人残って、ほかの人が死んでしまえばそれで終わりです。

 個人は個人同士、男性は女性のために女性は男性のために生き、父母は息子のために息子は父母のために生き、兄弟は互いに互いのために生きろというそれが法です。分かりますか、何の話か? そのような法があるのですが、その法を完全に通過するものは何かと言えば真の愛です。真の愛を持ってために生きる立場で犠牲奉仕しなければなりません、犠牲奉仕。結局はすべての法がここに屈伏するようになっているのであり、法にこれが屈伏させられはしません。この宇宙にこのように高く手をパッと開いて、どこに行ってこのようにしても引っ掛かるものがなくすべて通過します。パスします。分かりますか? (はい)。だから先生は皆さんに真の愛を持ってために生きなさいと、犠牲奉仕しなさいと言うのです。簡単なことです。

 だから、兄と弟の位階が反対になったと考えてみなさい。お兄さんが弟を見て「あ、君すまないね。僕が君のために…」といくら言ってみたところで、これはそのまま自動的に秩序が正されるようになっているのです。お兄さんが弟を見て「お兄さん」だと言ったところで、それは破壊されないというのです。分かりますか? 父母が自分のため以上に子女たちのために生きるからと言って秩序が破壊されるでしょうか? だからと言って息子・娘がお母さんに重荷を負わせて食い物にしますか? 「お母さんが私にそうしてくれるなら、私はそれ以上にお母さんのために生きます」と言いながら、返そうとするのです。秩序を守らなければならないと言う本心があるというのです。それがオリジナル・マインド(本心)だというのです。何の話か分かりますか?( ? )


 九 家庭は天国の模型

 さあ、皆さんは子女の立場にいるのですが、どんな運勢を受けるでしょうか? 祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を引き継がなければなりません。祖父母はなぜ必要でしょうか? 過去を代表するからです。祖父母は過去の生きた歴史を代表します。次に父母は何でしょうか? 現在を代表するのです。また、その次に子女たちは未来を象徴します。このようにすべて入っています。そこには東西も入っているし、南北も入っています。すべて入っています。全体の中心です、全体の中心。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、全部が真の愛を中心としてできています。分かりますか? 皆さんの家庭を考えるとき、これを考えなければなりません。

 だから、おじいさんを愛して、おじいさんを尊敬することは過去をすべて引き継いで過去の世の中を学ぶことです。お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは、子女たちを尊く思うことは未来を学んでいくことなのです。おじいさんを通じて、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのか、何の血統を引き継ぐのかと言えば真の愛です。真の愛を引き継ぐのです。おじいさんとおばあさんは年取っているけれども、二人は真の愛で一つになっており、お母さんとお父さんが一つになっているので、私たちもあのようになって未来を引き継ごうというのです。未来を引き継ぐために…。絶対に、真の家庭にならずしては未来を引き継ぐことができないということを知らなければなりません。家庭のこの三つを見るとき、それは宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は神様からの全体歴史、現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。真の家庭でおばあさんを愛し、お母さんを愛し、お姉さんを愛するから…。動物世界を見ても雌を愛し、雄を愛し、全部がこのようになるのです。これは何かと言えば、宇宙の愛を学ぶことのできる教科書です。おばあさんがいなければ不安定なのです。おじいさんがいなくても不安定だし、だれがいなくても同じです。このようになってはじめて、そのまま天の国に移っていくのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女・真の家庭・真の国家・真の宇宙を愛した人が天国に行くのです。その模型教科書が家庭です。

 さあ、おじいさんはお父さんとお母さんのために死を覚悟して生命を懸けて愛する、これはどんなに幸福ですか? また、お母さんとお父さんは息子・娘のために生命を懸けて愛するというのです。これはどんなに幸福ですか? 皆さんが愛のために死ぬと言いましたが…。孫がおじいさんのために死ぬのが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために愛を中心として生命を捧げようとする、そのような家庭が真の家庭であるという結論が出てきます。(一九八七・四・五、ベルベディア修練所)

 今、統一教会の若者たちがこのみ旨を知ったので、おじいさんとおぱあさんたちを、養老院へ行っているその人たちをすべて捜してこなければならない時が来ました。そうすれば、その養老院のおじいさんとおばあさんが喜びますか、嫌がりますか? どうですか? (喜びます)。皆さんはどうですか? 皆さん、若い人たちはどうですか? (いいです)。なぜ? 皆さんはもともとは老人を嫌いますが、統一教会の原理を知ったからいいと言うのです。

 君たち、皆さんのお父さんとお母さんが養老院へ行っていたら絶対不合格者です。「愛を中心としておばあさん、お父さんとお母さん、私、三代が完全に愛で結ばれました。アーメン、ハレルヤ! 神様、来たりませ」このように祈祷して天国へ行かなければならないのであり、それができなければ行くことができません。

 さあ、それでは神様がおじいさんとお父さんと皆さんを見るとき、神様の側にだれが近いでしょうか? (おじいさんです)。そうです。次は? (お父さんです)。その次は? 皆さん。だから、おばあさんとおじいさんの福を引き継ぐことができなければ、お母さんとお父さんの福を引き継ぐことができなければ、復帰されないという事実を知らなければなりません。皆さんだけでは、縦的世界がないために天国と連結されません。四位基台ができないのです。(一九八四・一・一、アメリカ)





















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送