み旨にかなった子女指導
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 第三節 家庭は心情的訓練の場

 一 家庭は天国を成す一つの教本

 私たちが今まで父母の心情を持ち、僕の体で涙と血と汗を流したのは何のためだったでしょうか? 世界のためです。自分の息子・娘のために生きることのできない人が世界のために生きると言うのはうそです。世界のために生きることができなければ、サタン世界から選んできた代表者になることができません。だから、それを実感する立場において天国を成す一つの見本になり、標本になりうるその基準を決定する仕事を私がしているのです。

 それでは、そのような基準は何でしょうか? 家庭だというのです。また、国を成すことのできる標本は何でしょうか? それもやはり家庭だというのです。それゆえ、愛を中心として子どものために犠牲となり、あらゆる代価を払いながらも報酬を望まない立場に立つことができなければなりません。むしろ、続けて与えてあげることのできないことを恨みに思いうる心を持たなければなりません。そのような心を持った時、その子どもたちがそれを見本にして父母がそのようにしてくれたことに感謝して、自分もそのようにしなければならないという立場に立ち、父母の困難な道に自分が代わりに責任を持とうとするようになるのです。皆さんはそのようにできる環境を作ってあげなければなりません。そうせずしては、エデンの園で堕落したその恨みの基準を飛び越えることができないのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)

 皆さんの心にはおじいさんの愛があり、お母さんの愛があり、兄弟の愛があります。これをわが統一原理では三対象の愛と言います。そうでしょう? 夫婦が現在ならば、その現在の夫婦が過去のために生き、未来のために生きることのできる心を持たなければなりません。そういう心がなければなりません。すなわち、縦的基準がなければならないというのです。

 では、姑が好きですか? (はい)。また、息子・娘が必要ですか? (はい)。「はい」と言ったのですが…。それでは、父母に対してですね、ここに夫がいて、妻がいて、ここに子女がいるとして、それで、ここにおいて縦的がより重要ですか、横的がより重要ですか? (縦的です)。どうして? それが宇宙の根本だからです。愛は天から、上から来たというのです。横的なものから来たのではありません。それゆえにこれ(縦的なもの)が先にあってはじめて、ここに従ってこれ(横的なもの)が出てくるようになっています。これはプラスで、これはマイナスです。

 それでは、この横的なもの(夫と妻)二つが合わされてどこに向かなければならないでしょうか? 夫を愛することと姑を愛することのうちでは、どちらがより強くなければならないかというのです。(姑です)。さあ、ここでこの二つが愛し合って、必ずこちらに帰ってこなければなりません。(板書したものを指して語られる)帰ってこなければここになりません。このように一回りしなければなりません。そのためにはどうしなければならないでしょうか? 夫は妻を愛するのと同じだけ父母を愛さなければなりません。そして、父母を愛した分まで合わせて子女を愛さなければなりません。一番前にはおじいさん、次にはお父さんとお母さん、その次には子女、三つの愛がここになければなりません。縦的愛、横的愛を合わせてここに来るというのです。

 このように考えるとき、アメリカの夫婦が離婚すると夫を捨て妻を捨てますが、子どもは捨てることができません。それはどうしてでしょうか? ここにはすべて入っているというのです。男性の愛、女性の愛、神様の愛が皆ここに集まっています。だから、男性が必要なく女性が必要なくても子どもは必要だというのです。なぜでしょうか? ここには神様の愛があるからです。分かりますか? だから、夫婦が離婚すると問題になるのが息子・娘を奪い合う争いでしょう? (はい)。それゆえ、夫は子どもを愛するように妻を愛し神様を愛し、また妻は子どもを愛するように夫を愛し神様を愛して、三大愛圏が成されればどんなに理想的でしょうか。

 さあ、西欧社会はですね、西欧社会は夫と妻がこれを中心として頻繁に移動します。ところで、移動してもこれだけしかなく、センターはないというのです。(板書したものを指しながら語られる)センターがどこにありますか、センターが? ここにセンター・ラブを移しておかなければ西欧社会と西欧文明は先に進むほど暗くなるのです。そうでなければ、宇宙が受け入れないというのです。

 だから、このような家庭形態の組織を中心として見ると、そのような家庭は一つの標本なのです。一つの理想郷、理想国家を成しうる一つの教本と同じであり、その国は理想世界を成しうる教本である、このように見るのです。何の話か分かりますか?(はい)。それゆえ、教本が四つあります、家庭教本、国家教本、世界教本、字宙教本。それでは、これをどこで教育しますか? 家庭で教育しなければなりません。家庭で教本教育をしなければならないのです。

 さあ、家庭はどのようにしなければならないでしょうか? 男性は女性を克服しなければならないし、女性は男性を克服しなければなりません。そして夫婦は、また一つのおじいさん夫婦を克服しなければならないし、将来の息子・娘夫婦を克服しなければなりません。そのような内容がこれから問題なのです。したがって、一つの国について見ると、これが一つの教本です。家庭教本は国家のためのものなので、ここにはですね、おじいさんとおばあさんの群れ、お母さんとお父さんの群れ、未来の息子・嫁の群れ、その三つの群れが国を構成するのです。父母カップル、夫婦カップル、未来の子女カップル、全体が関係しているものが一つの国を成します。自分の国を成すと言うことができるのです。(一九八二・六・六、ベルベディア修練所)

 それゆえ、人間を中心として見るとき…。神様と真のご父母様と自分たち夫婦―夫婦は父母様の代身です―その次に子女、これを代数で言えば四代です。四代は神様、父母、夫婦、子女です。真のご父母様を代身する位置を横的に拡大させておいたものが皆さんの家庭の父母だというのです。だから、堕落しなかったなら神様を信ずる必要もないのです。神様をすべて知るようになっているのです。神様をすべて知るようになります。

 それゆえ、自分の父母を神様のように愛し一つになれば、神様の国へ行ける、行けない? (行けます)。また、夫と妻が自分の父母を愛するように―父母も夫婦です―愛するときには、男性・女性である夫婦も間違いなく天の国へ行くことができます。だから、宗教が必要ありません。教える必要がないのです。分かりますか? 次に子女を愛するにおいても同じです。子女を愛するには絶対的な愛が必要です。また子女が父母を愛するのも同じです。自分のおじいさんに対して自分のお父さんがするように、その息子もまたお父さんのためにしなければならないのです。分かりますか? そこには教育が必要ありません。これは動物世界も同じです。それゆえに、愛を中心として神様、父母、妻子が完全に一つになればよいのです。これが教本です。このような愛を自分の家庭でだけ適用するなというのです。(一九八七・四・二六、本部教会)

 家庭は天国を成すことのできる教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさんくらいの年齢の人を自分のおじいさんのように愛すれば、その人は天国へ行くようになっています。自分の父母の年齢と同じ人を自分の父母のように愛すれば、どこに行っても通用します。万国共通です。霊界へ行っても境界線が生じないというのです。アメリカの若い人を自分の息子・娘だと思う心を持てば、その人は天国どこでも、十二の真珠門があり方向があっても、どこでも通ずることができるというのです。

 家庭というのは天国と因縁を結ぶようにするための教材です、教材。教育のテキスト・ブックなのです。だから、軸を中心として…。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天と地を中心として適用すれば神様の息子・娘、聖子になるのです。ここでは聖者ではなく聖子です。ホーリー・サン(聖子)になるのです。人間は皆その欲心を持っているのです。(一九八五・一二・一八、シェラトン・ウォカーヒル・ホテル)


 二 天国を成すことのできる第一教化場

 人には家庭が必要であり、国が必要であり、世界が必要であり、本然の世界宇宙が必要なのです。これは階級では四階級で、段階では三段階です。皆さんには家庭が必要であり、国が必要であり、世界が必要であり、統一教会でいえば天宙が必要なのです。それを連結させなければなりません。この愛は不変の愛です。どんな愛かと言えば、神様と通じることのできる愛、聖人と通じることのできる愛、愛国者と通じることのできる愛です。

 そのような愛を中心とした家庭で父母を…。父母は何かと言えば国の代表者であり、聖賢の代表者であり、神様の代表者だと見るのです。それを訓練するための第一段階の訓練舞台が家庭だと見るのです。地上に天国を成すことができる第一教化場が家庭です。そして大韓民国が第二の教化場です。そこに愛国者が必要なのです。その次の第三教化場が世界です。霊界は第四の教化訓練場です。その次には神様の息子・娘になります。聖人だからといって神様の息子・娘ではありません。だから、全部が神様の息子・娘にならなければならないのです。聖人が神様の息子・娘にならなければならないのです。聖子の座について神様の愛と一つになり、永遠に、永遠に神様を所有することのできる座についた後にはじめて、神様の愛を中心として一つになった後にはじめて相続が始まります。神様の持っている物が私の物になるのです。分かりますか? (一九八六・三・二、本部教会)


 三 家庭は宇宙の愛に接する愛の教材

 今日、宇宙とは何でしょうか? 家庭を拡大したものです。これを知らなければなりません。家庭の愛が満たされた家庭を見ると、年を取った人がいて…。上中下があって、左右があって、前後があります。これが原則です。だから、上下を言うときには父母と子女を言い、左右を言う時には夫と妻を言い、前後を言う時には兄弟を言います。このような全体は何をもって一つになるのでしょうか? 力で? (違います)。知識で? (違います)。お金で? (違います)。お金でそれができますか? (できません)。それでは、何によってできますか? (愛)。愛というのは普通の愛ではありません。真の愛です。それは間違いないことです。間違いなく真理です。そうでなければ球形になりません。球形にならないのです。球形に。もう分かりましたね。

 それでは、上中下は私たちの家庭において何でしょうか? 愛の教材です。宇宙の愛に接することのできる愛の教材です。家庭で接するのと同じことを社会に出てしなさいというのです。どのように自分を愛さなければならないでしょうか? イエス様も「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言われましたが、どのようにするのですか? それは漠然としていますね。世の中に出ておじいさんに対するときには、皆さんのおじいさんのように対しなさいというのです。お母さんのように対し、お父さんのように対しなさいというのです。息子のように対しなさいというのです。さあ、世の中に出たら、すべてそのようにしなければなりません。上中下、前後左右の人に、世界という展示場に展示されています。人の展覧会を全世界がしているのを知らなければなりません。

 展示なのですが「うちの家庭は私が一等品だ。尊い家庭だ」このように考えるのです。これが家庭というものです。皆さんそのような愛を持ってすべてのものを愛することができれば、その中に神様が臨在されます。神様のように自分のおじいさんを思う愛を持って世の中にいるおじいさんを愛すれば、それは、その人を神様のように思うのと同じだというのです。分かりますか、何の話か? 幼い子供を見るとき、神様のように愛せよというのです。

 さあ、天の国はどんな所でしょうか? 家庭を拡大した国なので、その展示場の合格品だということは、一定の形があるということを知らなければなりません。したがって、そこに合格した家庭を永遠なる霊界に持っていって展示することができます。(一九八三・五・二九、アメリカ)

 さあ、ここでこの宇宙の愛を学ばずに生きられますか? (生きられません)。神様は教本、経典のようなものをちゃんと作ってあげて、ここで「お前のおばあさんとおじいさんを愛せ。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさんとおじいさんを代表して送ったので、そのおばあさんとおじいさんを愛せば全体を愛したことにしてやろう」と言って公約するのです。

 その次には「お前がお母さんとお父さんを深く愛することは、この世界の数多くのお母さんとお父さんを代表する教本のように愛するモデルとしたので、全体を愛したという条件にしてやろう。また、男性として女性を愛したということは、世界の男性が世界の女性を代表的に一人にして愛したということにしてやろう」このように言うのです。だから、家庭はその訓練を受ける訓練所です。訓練所。経典による世界の愛の訓練家庭なのですが、その訓練を受けた人に、今から世の中に一回出ていって皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりに世の中のおじいさんとおばあさんを愛することができるかと言うときに、「イエス」と答えればそれは世界を救うことができるのです。

 自分が白人だからといって、「私は白人だけが好きだ。白人のおばあさんとおじいさんを愛しているから、黒人のおばあさんとおじいさん、アジア人のおばあさんとおじいさんは愛せない」と言ってはならないのです。そのおばあさんとおじいさんを自分のおばあさんとおじいさんのように愛さなければならないのです。それは公式です。人類がこの地上で行きながら訓練を受けるための公式だということを知らなければなりません。(一九八四・二・五、アメリカ)


 四 愛の王国に合格できる実験場

 愛の王国を成したいのが神様のみ意です。愛の理想世界を発展させて世界化させようとするのが神様のみ意であると言うとき、小学校卒業から大学院卒業までパスすることのできる実験場が、実験所がどこかと言うと家庭なのです。

 家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見ると、世界に何がありますか? おじいさんとおばあさんが住むところが世界である、正しいですか? (はい)。その次におじさんとおばさんたちが住むところが世界である、正しいですか? お兄さんとお姉さんのような人たちが住むところも世界です。次に青少年たちが住むところも世界であり、子供たちが住むところも世界です。そうではないですか? だから、老年から、壮年、中年、青年、少年たちが住むその場所が形が大きくなっただけだし、数が多いだけで家庭を拡大したものなのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)


 五 家庭は愛の修練所

 人はなぜ生まれたのでしょうか? 愛のために生まれました。それゆえに、真なる父母の愛に根を下ろし、腹中からお母さんとお父さんの保護の愛の懐から育っていって、生まれてから二十歳まで思慮分別なく、父母はおむつを替えるときにも咎めることなく、汚いものも汚いと思わずにすべて喜びとして消化できる真の愛がその底辺に宿り、その愛の中から育っていって次には愛の相対者と出会い、互いに為に生きる天理の愛に接ぎ木しなければなりません。そのような一生の過程を歩みつつ、神様の愛がどれほどかということを体験させてあげなければならない立場にあるので、その体験をしてはじめて神様の対象、愛の実体圏が完成されるので、息子・娘を生んで愛するようにさせるのです。

 息子・娘に対して持つ気持ちをそのまま神様の前に返して、そのまま夫、夫人、家族に返す、そのような過程は何でしょうか? 天国に入ることのできる最小単位の修練所であり、教材です。そこにはおじいさんの教室、お母さんの教室、夫婦の教室、兄弟の教室、すべてあります。これをおばあさんとおじいさん、あるいはお母さんとお父さんの年齢、その次は自分の年齢、息子・娘の年齢と拡大させたものが世界人類です。この人類を自分の妻とともに愛し、父母とともに愛し、息子・娘とともにために生きることのできる家庭だけが天国を相続できるのです。これは驚くべき事実です。神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続することのできる特権がここにあるというのです。

 世の中もそうではないですか? 昔、家柄のよい家庭でどんなに祖父母、父母から僕まで家族が多くとも、その家庭においてより苦労し、よりために生き家庭を愛している人が相続者になったでしょう? 同じ道理なのです。(一九八六・三・二〇、ヒルトン・ホテル)

 皆さん! 愛の起源が分かったでしょう? (はい)。だから、家庭を愛さなければなりません。家庭は死ぬ時に天の国、平和の王国へ入籍できる相続権にあずかることのできるテキスト・ブック(教科書)なのです。家庭が愛の修練場です。これを拡大したものが世界です。おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、妻のような世界があり、息子・娘のような世界があるというのです。これを拡大すれば直ちに世界になるのです。

 それゆえ、自分の家庭を愛するように、その家庭を中心として神様を愛するように全世界の人を愛すれば、それが天国へ行く最も正しい道になるのです。

 したがって、先ほど話したように「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」というのが第一の戒めです。第二は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」です。神様を愛し、人類を愛せばすべて終わるのです。修養など取るに足りません。それができなければ、いくら修養を積んでも全部無駄です。宗教がどんなに道を極めても、神様を愛することができず、人類を愛することができず、この全宇宙を愛することができなければ皆落第するのです。

 家庭において全体宇宙を縮小させた、何と言いますか、修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を愛さなければなりません。それができる訓練所として引き継いだのが皆さんの育った、お母さんとお父さんが住む、皆さんが住む家庭だということを知らなければなりません。ましてや統一教会は、真のご父母様を中心として新しい家庭編成をしただけに、新しい家庭訓練所だということを知らなければなりません。

 それゆえ、自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子・娘を愛し、自分の妻を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上に神様を愛すれば、それでいいのです。だからといって、自分の妻を捨てろというのではありません。そのように皆を愛すれば、その愛されたすべての人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上に光栄なことがどこにありますか? 妻を愛そうと思うなら、そのようにしろというのです。(一九八六・三・一一、清州教会)

 家庭とは何だと言いましたか? 理想の国と理想の世界を愛で占領できる訓練場である、このように見るのです。けれども、これを知らずにいるのです。もっと言えば、天の国と神様までも占領できる訓練場です。ここで、そのような運動して、愛の力を投げ込んで引き寄せてみると、皆すべて、世界が駆け寄ってきて、霊界が駆け寄ってきて、神様までもぐっと駆け寄ってくるというのです。それを考えてみなさい。神様がにこにこ笑いながら、「ホホホ」と喜ぶ日を考えてみなさい。その後で「おお、わが子よ!」と言われるのです。

 それでは、理想的家庭とは何でしょうか? 宇宙を愛で吊り上げるところです。「愛で釣るための釣り堀なんだな!」一度考えてみなさい。この釣りには、目が引っ掛かっても「ハハハ」、ここが引っ掛かっても「ハハハ」、ここが引っ掛かっても「ハハハ」と言うのです。(笑い)そのために持つ家庭が、そのための家が何ですか? (アイディアル・ホーム=理想的な家庭)。アイディアル・ホームに住める人はアイディアル・マン(理想的な人)です。このような愛の因縁を持った男性と女性です。(一九七九・一一・四、ベルベディア修練所)


 六 家庭は心情的な訓練の場

 家庭では父母を中心にしなければならず、社会を代表する教育機関では先生を中心にしなければなりません。その先生が父母よりも、先生が知っている分野においては…。父母は自分を母乳で育て、すなわち生理的な発展を助け、こうして情緒的な面を助けてくれるのです。それでは、学校は何でしょうか? 社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練させる所です。家庭が情緒的な訓練場ならば、学校は社会においての実験的な訓練場なのです。

 その次には、社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのでしょうか? 国に帰結します。国には国の中心者がいます。人々が皆だれでも大統領を慕って、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか? 家庭から社会まですべてのことを知ってから、その次にどこに行くのかと言えば、大きな実に…。

 大統領をやるとなればですね、蘇生・長成段階を超えて三段階目の実です。根から始まって、種が根から始まって循環作用をして、このように分かれるのです。分かれてから、ここで総合して花が咲いて、実を結ばせるのです。実と同じものです。三段階を経てこのようになるというのです。

 それゆえに、学校も国のための貴重な指導者・人材を養成して、国に必要な人を育てなければなりません。学校でする勉強は何でしょうか? 訓練です。学校は訓練場所です。実験場です。訓練は実践ではありません。準備段階なのです。準備を誤ってはいけないのです。

 家庭とは何でしょうか? 心情的な訓練場所です。愛を中心として心情的に…。それゆえ、情を持って兄弟のように学校で生活しなければならないし、情を持って国でも兄弟のように生活しなければなりません。父母のそのような教育は、学校のための教育であり、社会のための教育であり、国のための教育になるというのです。父母は情緒的なすべてのことを子どもたち、後継者たちに対して伝授しなければなりません。父母が生きたのと同様に、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的資質を磨いてあげなければなりません。

 それゆえ、家庭では「勉強しなさい、勉強しなさい」と言い、学校では「出世しなさい、出世しなさい」と言うのです。学校で教えてくれることは何かと言えば、国を指導することのできる人になれ、素晴らしい人になれというのです。素晴らしい教授たちが社会に素晴らしい基盤を築いているのです。だから、自分と心が合う人たちには自分の素晴らしい基盤を伝授してやろうとするのです。全部そうです。何かを残さなければなりません。伝授しなければだめだというのです。(一九八八・八・二二、漢南洞公館)




 第四節 家和して万事成る

 一 家庭がよい理由

 家庭はなぜいいのでしょうか? 家庭は愛を互いに自由に与えて受けることができる拠り所になっていて、発展することができるからです。それゆえ、人は自分の故郷を慕い、父母と兄弟がいる所を慕うのです。(一九七一・一・八、春川教会)

 家庭、家庭はいい所です。なぜいいでしょうか? お母さんとお父さんがいるからいい所であり、お姉さんとお兄さんがいるからいい所であり、弟妹がいるからいい所であり、親戚がいるからいい所なのです。だから、人間ならだれでも本郷の地、故郷を慕う郷愁の心情を持っているのです。国よりも故郷をもっと思うのです。大韓民国に住みながらも、慕うところは故郷です。大韓民国が好きで大韓民国に住みたがり、また大韓民国に住みながらも慕うところはどこでしょうか? 故郷です。故郷、故郷なのです。(一九六九・五・一八、水原教会)


 二 父母は自分に似た子ほどかわいい

 自分が持っている物がいくら取るに足らないとしても、奥深い自分の内情と一つになったとき、そのすべての内容が自分そのものと似たものとなり、切り離そうとしても切り離せないという立場でそのものに対する無限な価値を感ずるようになるとき、その価値が一層大きくなるのです。

 子どもも同じです。父母は自分に似た子どもをより愛します。皆さん、そう思いますか? 子供の中でお母さんに似た子供や、お父さんに似た子供がいるものです。もちろん、子どもを愛することは同じですが、それでも父母は自分に似た子どもをより愛するのです。子どもたちを育てながら、父母同士で、子どもがだれに似たかについて話をするでしょう? おじいさんなら、おじいさん同士で、おばさんなら、おばさん同士で、おじさんなら、おじさん同士で座って、子どもたちがだれに似たかについて話をします。顔立ちのよい子がいれば、お父さんは「あの子は父親似だ。どう見ても私に似ているな」と言います。すると、お母さんはとんでもないと思って「あの子は母親似ですよ。どう見ても私に似ているわ」と言うのです。それでもお父さんは自分に似ていると言うのです。

 似ているということは何かと言うと、素性が同じだというのです。素性が同じだということは、互いに完全に一つになることができるというのです。それは一時的にではなく、永遠に一つになりうる関係なので、その比例によって善し悪しが決定されるというのです。それだけに、自分に似たということは自分自身で分かるというのです。(一九七一・一・一五、麗水教会)

 人は、好きであれ嫌いであれ「あいつは父親、母親に似ている」と言われて気を悪くする人はいないのです。それゆえ、人は似ている素性を比例的にある程度所有していれば、その基準に比例して感情を感じるようになるのです。(一九八六・二・一六、本部教会)


 三 家和して万事成る

 東洋の教訓の中に「家和万事成(家和して万事成る)」という言葉がありますが、これは実によい言葉です。家庭が和睦すればですね…。家庭と言えば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子ども、このようにして一つの家になっているのですが、家といえばそれだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。ここに全部集まっているというのです。全部すべて。

 そのように考えるとき、私の家といえば普通に考えると「ここはお母さんとお父さんがいる所で、妻子がいる所が私の家ではないか」ということになります。しかし、私の家と言えばそれだけではないのです。その他にも家があって庭があって、すべてのものを縮小した中に環境がうまく調和を成していて、そしておじいさんがいて、おばあさんがいて…。そのようになってはじめて気持ちがいいと言えるのです。調和していない環境に、いびつな所におじいさんとおばあさんがいたら気持ちもよくないのです。

 おじいさんとおばあさんが向かい合って笑う姿は、若い夫婦が仲よく「キャッキャッキャッ」「ヘヘヘ」と笑う姿とは比べ物になりません。「ホホホ」としわの寄ったおじいさんとおばあさんが笑うのはすてきだというのです。知らないからであって、すべて和合する、互いが相応する立場において笑うおじいさんとおばあさんの笑いがあることによって、すべてのものが和動するというのです。おじいさんの笑いは深い笑いで「ホホホ」と笑います。身振り手振りをしても動作がのろくて、こうは動きません。動いてもこのように動くのです。広く、高く、深く、大きく、そのように動くのです。

 それゆえ、おじいさんとおばあさん二人の老婦人が愛し合えば、そこにいるおじいさんとおばあさんの息子・娘は、そのおばあさんとおじいさんの息子・娘も中間のおばあさんとおじいさんなのです。これは間隔があってはならないというのです。すべてのものが上中下の三段階で連結されて、すべての調和が生まれなければなりません。

 それで、和する家庭、「家和万事成」だと言いますが、家和すればなぜ万事が成るのでしょうか? 家和すればすべてのことが成されると言いますが、なぜそう言ったのでしょうか? 言いやすくて、詩的に詠んでみたくて? それは違います。違うというのです。(一九八六・一・二六、本部教会)


 四 家族の中で良い人とは

 私たちは、良い人だというその定義をどこで見つけるのでしょうか? 自分から見つけるのでしょうか、どこかで見つけるのでしょうか? そのような問題が提起されるのです。私が、私が決定するのでしょうか、全体が決定するのでしょうか? このような問題が問題になるのです。それゆえ、公的な全体の雰囲気を中心として、これは良いか悪いかということを決定することがより価値があって良いことなのです。そのような結論が出てくるのです。

 自分の容貌がよいというときにはですね、目もときれいで鼻立ちもよく、口もすべて形がよいけれども、指一本だけこのようになった、指がないというときはどうなりますか? どのようになるかというのです。手で自慢できる権限はありません。これを隠そうとします。指を隠そうとするのです。そうですか、そうではないですか? それはどういうことでしょうか? 体の全体を構成するにおいて、全体の基準を代表できる公認された基盤の上に立たなければならないというのです。このような論理が裏付けしているという事実を知らなければならないのです。分かりますか? 伝統的なこのような基準が完全な基盤を代表する位置に立っているために、それを善と言うことができるし、良いと言うことができるし、誇ることができるのです。このような観点から見るとき、「私がわが家で一番よい人だ」と言うことができるでしょう? お母さんとお父さんは私が好きだけれども、お姉さんが見ると、「この子は本当にいつも意地が悪くて、欲張りで…」と言うこともあるというのです。だから、わが家で一番良いという私になるためには「私が一番良い」という主張は通じません。わが家全体が、良いという主張を、決定をしなければならないというのです。これは理論的に否定できません。

 さあ、それではお母さんをはじめ全体で十人の家族がいて、また家族が多ければ多いほどそこで良いと言われる人になろうと思えば、どのようにしなければならないでしょうか? 良くしてあげることのできる、より高い次元を持った私にならなければならないのです。そうすることなしには、「良い」と言う決定を受けることができないという事実を知らなければならないのです。そこにおいて、公的に善であり良いと公認されうる問題は何でしょうか? このような問題が起こるのです。

 犠牲と奉仕、これが絶対必要です。それが必要なことは必要なのですが、「犠牲と奉仕は私がするのではなく、お母さんとお父さんと家族全体が皆一緒にしなければならない」というのがよいでしょう? その人が善なる人だ、良い人だ、というのです。(違います)。どのようにする人が「良い人」ですか? (自分が犠牲になり奉仕する人です)。私が、私がしようとする人です。(一九七九・九・三〇、アメリカ)


 五 家族の中の真なる人

 真なる人とはどんな人でしょうか? 真とはつまり善なるものですが、善なる人とはどんな人でしょうか? 自分を中心として全体が自分の前に屈伏することを願う立場において、善なる人だと言うことはできないのです。それでは、善なる人とはどんな人でしょうか? 善なる人は全体のために生きる人です。違いますか? 家庭でも一番おとなしくて、かわいくて望ましい子どもだというとき―子どもたちもたくさんいますが、その中で孫でもいいし息子でもいいです―その子どもたちを見るとき、未来に善を占めることのできる望ましい子どもだというとき、おじいさんも「そうだ」おばあさんも「そうだ」お母さんとお父さんは言うまでもなく、兄弟、家族、一家、親戚までも「そうだ」と言える子どもだというときには、その子どもは間違いなくおじいさんを喜ばせる子どもであるはずです。おじいさんに毎日のように「私によくしてください! 私によくしてください」と言う子どもではないのです。小さい子どもですが、年取ったおじいさんのために夜といわず、昼といわず、おじいさんが喜びうる道をいつも考えて、そのためにいつも行動し、いつも侍ろうとする子どもであるに違いないという結論が出ます。

 おじいさんにだけでなく、おばあさん、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんは言うまでもなく、一家親戚全体を助けようとする生活様式と、あるいは礼儀秩序に従う子どもが真なる希望の息子であるに違いなく、孫であるに違いないのです。この結論を否定することはできません。それはどういうことでしょうか? 全体のために、喜ぶことのできる環境の要件を作り、そのような内容を提示しようとする人が歴史時代を経て、善を引き継ぐことのできる真の位置に立っているというのです。

 三六〇度の中央線(真ん中を通る線)に一つの中心点があるなら、その中心点はどのようになっているでしょうか? すべてのものが訪ねてくるときもその点を経なければならず、訪ねていくときもその点を経なければなりません。それが問題です。ここに一つの中心点三六〇度を中心として球形が備わると、力の作用はどこを通して均衡をとるのかと言えば、要点です。角度を異にするすべての線がこの中央線を通る距離は全部同じです。千万の作用をしたとしても、距離は全部同じです。それゆえ、この中央線を通らざるをえません。

 では中央線というものは何でしょうか? 全体に行き来する力を支持してくれるものです。支えてくれるものです。言い換えれば、家庭にお母さんとお父さんがいて、あるいは夫婦がいます。また前後左右には兄弟がいるし、親戚がいて一つの球形を成した一族になります。その一族の中で望ましく真なる支柱、中心、地軸になれるような存在はどのような人でしょうか? おじいさんの気持ちもその子と一緒に行き来したい、おばあさんの気持もその子と一緒に行き来したい、お母さんの気持もその子と一緒に行き来したい、お兄さんの気持もその子と一緒に行き来したい、お姉さんの気持もその子と一緒に行き来したい、弟はもちろん親戚たちの気持ちも皆そうなのです。そのような人であってこそ「真」の中心になるのです。(一九八八・二・二三、本部教会)


 六 家族の中の主人―最も為に生きる人

 ある家庭の十人の家族の中で主人になれる人はだれでしょうか? 十人に苦労をさせて、自分の欲望のみを満たそうとする人が中心になるのではありません。十人の家族のために黙々と犠牲になる人を、十人が支持して中心に立てるのです。それが原則ではないでしょうか。父母までもその前にはひざまずいて千年万年の祝福を祈ってくれるのではないでしょうか。それが原則なのです。(一九七二・八・六、前本部教会)

 例えて言えば、一つの家庭に八人の家族、父母がいて六人の兄弟がいるのですが、その中で一番末っ子の弟が、だれよりもその家庭のために生きるというときにはどうなるでしょうか? そのお母さんとお父さんもその息子には頭を下げるのです。いくら小さい弟でも、時がたてばたつほど、そのお姉さんとお兄さんたちは家庭のために生きる弟を自然に中心存在として立てるようになるのです。自分の家の中心にだれがならなければならないかと言えば、自分のために生きる存在ではなくて、全体のために生きる弟でなければなりません。時がたてばたつほど、そのような存在が中心存在になるのを私たちはこの世の中で見ています。それゆえ、「良いことをしなさい! 良いことをしなさい!」と言うのです。良いことというのは何ですか、良いことというのは何ですか? ために生きることではないですか? ために生きればどうなるでしょうか? 中心存在になるということは私たちには思いもよらなかったのです。(一九七五・四・一四、全州室内体育館)

 それでは、皆さんは皆さんの家庭の主人をだれにしたいですか? どんな人を主人の席に座らせたいでしょうか? お父さんやおばあさんは言うまでもなく、家族全体はどんな人を相続者にしたいでしょうか? より愛する人です。おじいさんが一番その家庭全体を愛するなら、家族はおじいさんにすべて報告するのです、お父さんを差しおいて。それは仕方のないことです。したがって、ある家の主人になれる人は愛の心を持ってために生きる人です。愛の心を持って、よりために生きる人がその愛の家庭の伝統を引き継ぐのです。より愛を持ってために生きる人が永遠なる相続系列に同参するということを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。それは間違っていません。

 ところで、今日人々はこれを知らずにいます。若い子どもたちはこの邪悪な世界に対して「なぜ犠牲になろうとするのか? 目を開けていても、目を奪っていこうとするこの世の中では闘争しなければ生き残れない」と考えるのですが、これは間違った考えです。友達の中でよい友達とは、自分のために生きろという人ではありません。全体のために自分が犠牲になろうとし、手伝ってあげようとする人です。その本質がどこにあるかと言うと知識の世界にもなく、権力の世界にもありません。お金の世界にもありません。上下高低すべてに通ずることの、できる方向感覚を超越して、どこでも可能な作用を提示できるのは愛以外にはないのです。分かりますか? これを知らなければなりません。

 家庭でどんなに世間知らずで幼い少女だとしても、おじいさんを愛して、食べる物があれば大切に取っておいておじいさんにあげようと言えば、その少女はその家庭で愛の的として登場するのです。分かりますか? だから、その家庭の相続者にだれがなるのかと言えば、全体をより愛してために生きる人がなるのです。これを知らなければなりません。より愛してために生きる人…。(一九八六・三・二、本部教会)

 もし、十人の家族がいるというとき、その十人の家族が全員生きられればいいでしょうが、この十人の家族を生かすためにその中の一人が犠牲になるしかなければ、その一人を犠牲にすることは十人の家族が生きるための道です。それは一般の歴史的な常識として分かることです。だから、その十人の家族が互いに自分が先に死ぬと言って争えばどうなるでしょうか、争えば? 神様が見るとき「さあ争いなさい、争いなさい」と言いますか?(はい)。すぐに争って殴り倒して、全部殴り倒して一番最後に力の強い者が犠牲になろうとするのを望みますか? (はい)。それも望むでしょう。それも望むのです。

 その代わりに十人の兄弟の中で九人の兄弟が殴り掛かって「おい、こいつ、お前は供え物になったらだめだ」と言ってその兄弟たちが犠牲させまいとするのに、ひたすら犠牲になろうとして「私が死にます。神様、私が家庭のために死にます」と言ったらどうなるでしょうか? 「私は家庭のために罰を受けて死ぬとしても、全体のために犠牲になります」と言えばどうですか? その兄弟たちが「お前は犠牲になってはだめだ。こいつめ、お前は犠牲になるな。お前は蕩減する必要がない。蕩減はうちの家庭全体がするから。こいつ、お前みたいな小さいのがなぜ蕩減するのか」と言うのに「私は全体のために犠牲になります」と言うときにはどうしますか?

 それは二種類です。一つはただ殴り倒して皆放り出して私が犠牲になろうという者で、もう一人は罰を受けても私が犠牲になろうという人ですが、二人のうちでどちらの人が勝っているかというのです。どちらですか? (二番目です)。私は分かりませんよ。多様なのです。最初の方ですか? (はい)。二番目ですか? (はい)。どちらですか? (よく分かりません)。それがよく分からないと言う人は勝手にしろというのです。(最初の方です)。(二番目です)。これを決定しなければだめなのです。この二種類の人がいるとするなら神様はどちらを好み、どちらを支持するのでしょう? サタンはどちらを嫌い、どちらを好むだろうかというのです。どちらですか? (両方とも…)。困った人たちですね。どちらですか? それは重要なことなのです。どちらですか? 最初ですか? (はい)。二番目ですか? (はい)。

 おや、女性がちょっとましですね。重要なことです。笑いごとではないのです。根本問題を決定しなくてはなりません。根本問題。これが根本問題です。一方は罰を受けながら死んでゆきながらも自分が蕩減しようとする人、もう一方は殴り倒して自分が蕩減しようとする人なのですが、どちら側が天の側ですか? 二種類のうちどちらが…。一つはサタン側であり、一つは天の側になるということを知らなければなりません。二つとも良いことは良いのですが、一つは天の側であり、もう一つはサタン側になるのです。分かりますか? だから、はっきり答えろというのです。一番目ですか、二番目ですか? 一番目ですか、二番目ですか? (一番目です、二番目です)。先生はどうでしょうか? では、先生が話してみましょうか? 私は一番目だと言う人? 皆さん、自信がないですね、自信がない! (ナンバー・ツー、ツー、ツー、…)。分かりますか? 皆さんがツー、ツー、ツーと言いますが、それは、より犠牲になろうというのです。より犠牲になるというのです。より犠牲になるという、そこにはより大きな愛があるという事実を知らなければなりません。より犠牲になるという所に、より大きな神的な愛が内在する事実を知らなければならないというのです。(一九八四・一・二九、ベルベディア修練所)


 七 因縁圏のために生きる訓練場として

 今まで皆さん、お兄さんとお姉さんとけんかをして、兄弟同士けんかをしてプイと背を向けて出てきたなら、後で行ってご馳走して満足させてあげ、自分を許してほしいと、もうお母さんとお父さんを愛するように愛し合おうと言わなければなりません。それはどんなに美しいことですか? お母さんとお父さんが皆霊界へ行った後に、兄弟達に侍ることは、残されたお母さんとお父さんに自分が侍るのだと考える人はどんなに幸せだろうかというのです。兄弟がお母さんとお父さんの代身ですから、残されたお母さんとお父さんに侍ろうとして、兄弟の生活が苦しければ自分が助けてあげて、お母さんのためにしたようにために生きてあげる、それはどんなに美しいでしょうか? そこから、天国が始まるのです。分かりますか? (はい)。

 皆さん、おじいさんがいるでしょう? お母さんとお父さんがいるでしょう? おじいさんがいるでしょう? おばさんとかたくさんいるはずです。この三代圏を中心としたすべての親戚を中心に生まれたすべてのものは、皆さんに、皆さんのお母さんとお父さんを見せてあげるためのものなのです。もっと言うと、神様を見せてあげるために私にくれた贈り物だと思って生きる人はどんなに…。おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを愛することのできる愛をそこに広げておいて教えてあげ、後々まで(その愛を)残してあげるために、自分が死ぬ時までもために生きることのできる愛を持っていく、そのように生きる所が天国なのです。

 皆さんはですね、おばさんとおじさんとがいれば、おじさんがどうだとか、おばさんがこうだとか言うでしょう? それはおじいさんとおばあさんを見せてくれているのです。おじいさんとおばあさんを見せてくれていると思えというのです。おばさんはおばあさんですね。それを学ぶのです。

 このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したものが世界なので、社会を見ると、おじいさんとおばあさんの年齢、おばさんの年齢、おじさんの年齢、お母さんとお父さんの年齢、お兄さんの年齢、お姉さんの年齢、弟妹の年齢、全部がそうです。社会が大きいだけでこれは同じなのです。丸いものは同じなのです。サークルは同じです。年取った人にはおじいさんとおばあさんとして侍り、ために生きて愛してあげ、その次にお母さんとお父さんのように、お兄さんと弟のようにために生きようとしなければなりません。神様も同じです。神様は私たちのお父さんではないですか? 世界の人を見せてあげて、兄弟として愛せと言うのです。かわいそうなこじきがいれば、そのこじきがお父さんの年齢ならお父さんのように愛してあげようとする心、それはどんなに美しいですか? また、お兄さんのように弟のように思う心…。

 さあ、神様から見るとき、全部が自分の息子なのに争ってもいいですか? 同じ道理です。同じだというのです。全人類が神様の息子です。同じ概念なのです。分かりましたか?(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)























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