み旨にかなった子女指導
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 第五節 ツルとサケと木の教訓

 一 ツルの教訓

 ツルを見ると、ツルはよく飛びますか? あまり飛ばないのです。しかし、ひと度飛び立つ日には、後について行くことのできるものはありません。これがすてきなのです。ツルが大股でのそりのそりと歩くのを見ると、上手に飛べそうにもありません。片足で立って昼寝しているのを見ると妖邪な感じがしませんか? 口ばしはいつもこのようにしています。(動作をされる)瞑想しているのです。片足でもってどれほど精誠を込めたのやら、このように微動だにしないので、神様も同情するというのです。けれども、ひと度飛べばついて行くことのできるものがありません。だれもツルに追いつけないのです。そのような権威を持っているのです。(一九八六・三・二、本部教会)

 皆さんはスズメのひなのような行動をしてはいけません。ツルでなければなりません。私はツルが好きなのです。ツルが飛ぶときはどのように飛びますか? ちっちゃな鳥はここで飛びますが、ここで飛ばなければなりません。長さが長いから。力を伝達しようとして羽をエス(S)字型に動かして飛んでいくのです。スズメのひなたちはこのように飛ぶのですが、これは拍子をおいて…。私はそう思うのです。8の字型にこのように飛ぶのです。(動作で表現しながら語られる)そうですか、そうではないですか? そして、高く舞い上がっては遠くのかなたを見渡すのです。

 ツルはどうして足が長いのですか? ツルは立つときにどうして片足で立ちますか? 立つ時は必ずこうして立つようになっています。なぜそうするのですか? (二本の足を両方上げたら倒れるからです)。そんな理屈がどこにありますか? 天地の度数を合わせようとするから、口が一つだから、垂直線に倣おうとするから、「われは垂直に立たなければならない」というのです。そう言わなければ答えになりません。

 宇宙の垂直線は、理想的垂直線は一つです。理想的垂直線とは何でしょうか? 高尚な思想を中心とした生命だとか高尚な愛を中心に宇宙は回るようになっています。ツルは横を見ていても面白くありません。ツルは頭を上げていてこそ格好がいいのです。長い首がどんなにか格好いいのです。それは長大な高いアンテナのようになります。高い所に向かって伸びていく力を持っているのです。その次は線が地球と垂直になります。その垂直になるとき、翼はツルの胴体が垂直になるので厚くありません。そっと流線型にサーッ。そしてツルの翼は水平線をなすようになります。

 そして、一度翼を広げると…。翼を動かさないで、一番長く飛べる鳥がツルです。タカではありません。高く上がっていくので、放っておいても高く飛ぶようになっています。だから、一番遠くを見渡すのです。それは理論にピッタリ合うのです。

 いくら「えい、こいつ! なぜキャーキャー鳴きながら飛ぶんだ? このツルめ!」と言っても「キャーキャー」と飛ぶのです。いくら悪口を言っても知ったことではないでしょう。どんなに、何を言おうが飛んでいくのです。飛んでいくというのです。飛んでいくのです。太陽に向かっていくのです。世の中が騒いで、スズメのひなたちが殺してやるぞとピーチクさえずっても、また千差万別で鳥たちが互いにひな鳥のように騒ぐとしても、それでもわれは飛ぶというのです。大洋を渡り大陸へ飛んでいってとまるときには、自分だけが主人だという所にとまるのです。取るに足らない雑種どもがいるところにはとまりません。最高に良い場所を見つけ出してとまるのです。それはどんなにすてきでしょうか?

 私はいまだに定着していません。先生はいまだに定着できずにいます。私が落ち着く定着地を捜して行くのです。それはどこですか? その定着地はどこですか? どこですか? 神様が主体だから神様の前に行かなければならないでしょう。どうですか? レバレンド・ムーンはそれを運命の道として行くのです。そのように生まれついたのかもしれませんね。

 だから、そのように生まれた人に師として侍り、そのように生まれた人がつくった統一教会に入ってきたら、ガチョウの子になるのですか、ツルの子になるのですか? ガチョウがどのくらいいいですか? ガチョウが尾を広げて歩きまわるときも格好いいでしょう? このごろはディスコ・ダンスをしています。それがどのくらいいいですか、どのくらい? どのくらいいいですか? ツルになるのを願いますか? ディスコ・ダンスをするチャンピオンのガチョウになりたいですか? (ツルになりたいです)。統一教会の連中どうですか? 統一教会の連中にも二つの種類があるのです。ガチョウになりたいですか、ツルになりたいですか? (ツルです)。ツルになりたいですか? (はい)。そんなに首が長いですか?

 それゆえ、統一教会の連中は垣の向こうを見るのです。韓国に住みながら日本を見渡すのです。韓国からアメリカを見渡して…。だから統一教会のこの者たち、癖を私が直そうにも直せないのです。私がアメリカに行っているので、韓国では「アメリカに行こう」とか言っています。それはいいのです。ですが、ツルになろうと思えば、ツルの格好で片足になってしっかりと立って並んで、こうしなくてはならないのに、足はこのようにしています。これは不合格です。それはどういうことでしょうか? この者たち、のんびりと勉強するために? それではだめなのです。飛ばなければなりません。飛ばなければならないのです。

 だから、ツルになろうと思えば、片足になって天地度数を垂直線に合わせられる心の姿勢を持たなければなりません。人が良心が正しいと言い、良心が真っ直ぐだと言うのはどういうことですか? どのように真っ直ぐだというその目印を、垂直線を前もって引いておいて言っている言葉です。それを知らなければならないのです。人の良心が真っ直ぐだというのはどこから出てきた言葉ですか? すでに天地の一つのセンターに垂直線を引いたところで、そこに対置した平行的基準で比較して真っ直ぐだ。曲がっている、と言うのです。ツルがそうなのです。動物の中でそういうのはツルしかいません。

 また、ツルは真っ白なところに真っ黒なものが重なっています。それは高く飛ぶけれども下水をもかき回すというのです。そのときには白いものではなく黒いものが必要です。低い所へ行って黒い群れが「あんた、昇っていくのが専門だろう、どうしてここに来たんだい?」と言えば「何だよ、こいつ! うるさいなあ。ぼくにも黒い所があるだろう、こっちに」、つまり相対的条件をすべて備えたと言えるのです。次に、赤いものもあるというのです。情熱があるというのです。何の情熱? 案内者の情熱が後についてくるのです。どんなにすてきですか? 解釈はそうでしょう。

 次に食べるのは何を食べますか? 陸地の物も食べますが海の物も食べるのです。両方の世界を兼ねることができます。統一教会の文某がツルならばですね、宗教街でも食べますが、事業世界でも食べるというのです。そうでしょう? 高い所にいるのに、汚い物をもほじくるのです。だから、魚釣りもするのです。そうだというのです。それはすべて格式に合うのです。だから、尻が黒いのです。尾がなぜ黒くなっていますか? 上がっていくときには全部上がり、下りていくときには尾が先につくからです。それはすべて天地の度数に合わせるためです。私はそう考えるのです。

 だから、韓国の民はツルを愛するのでまくらに…。まくら何々と言いますか? (まくら元)。まくら元というのかな? 違うでしょう? (ペゲンモ=まくらの両端につける刺しゅう)。ペゲンモ、ペゲンモにツルあるいはオシドリの刺しゅうが施されています。

 リトル・エンジェルス会館に行くとですね、あれは何ですか? (幕です)。幕がありますが、そこに四羽のツルがさっと出てきます。あれは民族を象徴するものです。統一教会の人の口からは「キャッ」という短音が出ます。言葉が少ないのです。「クゥィ」という声はガチョウの声です。タンチョウヅルが鳴く声はガチョウの鳴く声のようです。しかし、内容が違うというのです。

 皆同じように鳴きながら生きるのですが、その内容が違います。世の中をよく見るとガチョウの子どもは、彼らを皆見てみれば汚物の塊なのです。すごくたくさん食べるでしょう。だから、お尻が大きいでしょう。汚物の塊を作る行いをしようとして、食べるのはとてもたくさん食べるのです。そうして、大便もしっかり一塊しておくでしょう。そうではないですか? 鳥の中にも留守番をしようとする鳥がいます。留守番をしようとするのです。そのような一面があるでしょう。

 人にも二種類の人がいます。食べるために生きる人と飛ぶために生きる人、二通りあるのです。統一教会は食べるために生きるくそガチョウの群れですか、ツルの群れですか? 少し食べて? 少し飛んで? (たくさん飛びます)。たくさん飛ぶ。だから、体が太って? (違います)。ほっそりして遠くまで飛ぶのです。遠くまで飛ぼうというのです。それでは、レバレンド・ムーンは体が太っていますから、よく飛べないでしょうか? いいえ、飛ぶことも上手にできるのです。だから、ツル…。

 お母様は鶴子ですが、なぜ鶴子でしょうか? 鶴女になるのであって、なぜ鶴子になったのでしょうか? 私は「ああ! 息子の子の字を付けたのは、神様の息子と因縁を結んでやるためだったのだな。本来、生まれる時にそのように生まれついたために統一教会のお母様の名を持ったのだな」と、このように考えるのです。それはすてきでしょう? お母様! 「韓」と言えば韓国を代表することもできるし、宇宙を代表することもできるでしょう。「韓(ハン)」と言えば「ハナ(一つ)であって、第一という意味です。お母様が喜ぶことでしょう。私たちはそのように生きるのです。それが統一教会式です。そうでしょう? (はい)。私がただおもしろくない既成教会式に、原稿を書いてサーッと読むだけだったら統一教会員たちは消化できないのです。このようなやり方でようやく消化できるでしょう。そうでしょう? (はい)。よく似ましたね。

 だから、皆さんの口からは「自分がいい生活をしよう」という言葉が出てこないのです。遥かに高く…。ツルは大空を飛びますが、私たちは大空を飛べなくても中空を飛ぶのです。中空(チュンゴン)といっても中共(チュンゴン)ではありません。中国人の中共ではなくて中間くらいの空中を飛ばなければならないというのです。飛ぶにはどう飛ぶのでしょうか? 頭はお母さんとお父さんについて行くために、高く上げて見なければなりません。地を見てはいけないというのです。どうですか? そうですか、そうではないですか? (そうです)。

 だから、飛ぶときには中空を飛ぶのですが、頭とくちばしはどこに行かなければなりませんか? (天)。上に行かなければなりません。では、飛べば飛ぶほど昇っていかなければなりませんか、平行線で行かなければなりませんか? 首をこのようにしてどう飛ぶのでしょうか? 首を中心として平行線にならなければならないというのです。昇っていかなければなりません。胴体で昇っていかなければならないのです。そうですか? 私が言うのも済まない気がしますが。すべて結論を知って座っているのですが、顔色を見ると「ああ、また苦労させようというのだな!」と思って座っています。そうです。そうなのです。それが皆さんたちの定めなのです。飛ぶのは中空を飛びますが、頭は上がっていかなければなりません。(一九八二・一〇・一七、本部教会)


 二 サケの教訓

 皆さん、人間は実に多くの反省をしなければなりません。海へ出てみると、海には魚類がたくさんいます。その魚類を見ると神秘的です、どのようにして旬になると訪ねてくるのか。海の近くに住んでいる人は知っているはずです。イワシならイワシ、イカならイカ、次にスケソウダラならスケソウダラ、そして一番多いサバならサバ、その群れが四月、五月になると決まって訪ねてくるのです。五大洋を舞台に流れる潮に乗って回遊しながら、旬になるとどうして間違うことなくその場所に訪ねてくるのかというのです。

 ましてや、皆さんよく知っているアラスカのサケもですね…。そのサケなんかの場合を考えてみなさい。これは一番最初に稚魚、小さな子どもを数カ月の間、半年ほど育ててですね、送り出すのです。送り出されるとその流れる潮に乗って行くのですが、その活動舞台が四千マイルです。そのような長大な舞台ですが、そこを離れた魚がですね、四年ぶりに卵を生む時期になるとその場所に必ずやってくるのです。それは今日の科学の力ではどうにも証明できません。

 それはどんなに神秘的なことでしょうか? 一つの小さな生物であるサケという魚でも、そんな神秘的な内容をもって一生を小躍りしながら行動するのに、この欲の多い人間がなぜ数千年の間一度もそれを成就できず、方向性を失ってしまい、複雑に社会環境の変遷とぶつかり、もう終わりにして助けてほしいと騒いでいるのかというのです。これは生かすべき希望もない人間です。これが問題です。

 それゆえ、皆さんはそれを知らなければなりません。この万物世界を見れば皆公的な道を持っています。そうではないですか? 太陽系を見れば太陽を中心に地球が回っていて、地球を中心として月が回っていませんか? 地球も公転する公路があるのです。その方向には変化がありません。千年歴史、万年歴史をあざ笑いながら「お前は変わるなら変われ、私は変わらない」こう言っているのです。

 また、小さなスズメたちもじっと見てみなさい。これが、まあチュンチュンチュンチュンと鳴くときには、子どもたちがただおもちゃくらいに思って、捕まえて殺そうとしてですね、好きなようにできるスズメですが、このスズメは家を作ることを知っているのです。ひなを生んで育てながら、危険が迫ったときには自分の生命を超越することを知っているのです。それは千年万年過ぎたとしても変わりません。

 ところが、人間の世界はなぜこのように変わりましたか? 「父母の愛がない、父母の愛がなぜ必要か」と言っています。(一九八六・二・八、漢南洞公館)

 皆さんサケを見ると、サケは卵を生んだ後で死んでしまうのです。ところが、卵を宿して生むために、雄・雌がただ一つになって…。それを見ると、死ぬ日を定められた死刑囚の立場で夫婦が愛し合う愛以上の愛で愛し合うのではないかというのです。雌が卵を生む時になると、雄は地面を掘って卵を保護してくれるのです。まさに理想的なカップルです。そして卵を生むと二匹は死んでしまいます。死んでいく雌・雄たちのさまざまな姿を見たとき、先生は実に大きな衝撃を受けました。その後、雌親の体は稚魚たちのえさになるのです。

 創造主がいるとすれば、なぜそのようにつくったのでしょうか? それを見れば子どもがいかに重要か、愛がいかに重要かということがわかります。愛が最高のものであり、子どもが最高のものだということを見せてあげるための、一つの標本としてつくったであろうという理論はきわめて当然だと言えます。生命を捨ててでも、愛と子どものためには行かなければならないというのです。( ? )

 皆さん、このサーモンのようなものは実に驚くべき人間の教材なのです。(一九八四・五・二〇、アメリカ)


 三 木の教訓

 一つの種を植えたら、それが実を結ぶためにはいくつもの段階を経なければならないのです。芽が出てきて、幹が出てきて、枝が出てきて、葉が出てきて、花が咲いてはじめて実がなるのです。その双葉が出てきて幹が出てくることとは別なことです。葉から花が咲くこともまた別なことです。花から実を結ぶこともまた別なことです。しかし、その全体は一つの出来事なのです。

 双葉の状態から幹が出る、それが別なことだといってそれを否定する、別なことだと否定する人は葉を見ることができないでしょう。枝から葉が出る、それが別なことだと否定する人は結実を見ることができないでしょう。これは一つの出来事なのです。これは一つのことを完成するための必然的な運命の道なのです。新しい芽から幹が出なければなりません。いくら合わないとしても、出てこなければなりません。枝から葉が出てこなければならないのです。そして、花が咲かなければなりません。花には必ず一つの実がならなければなりません。これが正常な過程なのです。

 一つの木が芽から実を結ぶ時まで、このような過程が連結されて一つの望ましい結実を迎えるという事実から推してみるとき、私たち人間一人が完成というものに向かっていくにおいて、あるいは一つの国家が完成を望んで進む道において、あるいは世界が神様の摂理を中心としてひとときの完成を望み進む過程において、いつもよい時ばかり望んでいるとするなら、これは正常でないのです。(一九七二・七・二三、前本部教会)

 木を見ても木全体が根だけ必要なのではなく、芽だけ必要なのではありません。四方に伸びている枝と葉自体が完全に一つになり、それが東にあれば西・北・南と合わせようとして、枝々が全部一つの芽に合わせて均衡を取って成長しているのです。そうしてそこで実を結ぶことによってのみ、その木の完全形を成すことができるのです。どこか一方がゆがむと、木がこのように半分ゆがむとそれ自体にも欠如した部類を持った種ができるというのです。それを植えると、やはり同じになるのです。それゆえに均衡というものが絶対に必要なのです。(一九八六・二・二二、本部教会)

 きのう、リンゴ畑に行ってみました。ある場合にはそのようにしてはだめだと、素人ですが、私はある枝は全部切ってしまわなくてはならないと考えました。それは理知的に言ってもそうなのです。(板書しながら語られる)このように枝が出たら伸びていかなければなりません。このように見るとき、枝はこのように太くならなければなりません。ところが、これが太かった場合にはここでこれを比較して太い枝を切らなくてはなりません。これが伸びていくのにこちらの枝が太くなると頭の痛いことになります。そっと見ていて、これは私が手を加えてやらなければならないという気にさえなりました。この枝はこのように伸ばして、この枝も同じです。こちらの枝を切ったら、この太い幹はそのままにしておかなければならないのに、この二つを切ってしまえば木は死ぬのです。垂れていく枝、上っていく枝、この水平になる枝はできる限り空気をたくさん受けるように育てながら、(邪魔な枝を)切っていかなければなりません。約三分の二は、今よりもっと切らなければならないだろうと思いました。どう思いますか? いったい、なぜ切らなかったのですか? (つぼみが出てきたので…)。今年の実を願うのではなく、来年この木をどうするのか? 今、木がだめになる段階に入ったとみるのです。木を丸ごと切って捨てることになるのです。今からやり直せというのです。ある枝を見ると虫の巣のようなものがあって、この枝が育ちそうにないのでみな切ってしまわなければなりません。新しい枝を選んで、新しく育てていけるように手入れをしなければなりません。私はそのように思いました。これから、木はできるだけ空気をよく受けるように葉や小枝はみな切るのです。私は専門家ではないですが理屈からして…。きょうから直ちにしなければなりません。(一九七三・三・一七、ベルベディア修練所)

 皆さんが六千年の実だとすれば、六千年歴史という木には青い時代もあったことでしょうし、あるいは萎れた時代もあったことでしょう。そこに実がなってだんだん熟していく時にはどうなるでしょうか? 葉は乾いて落ちてしまい、後には実だけ残ることになります。

 実が熟せば秋にならなければならないし、秋になれば風が吹かなければなりません。その風は夏の風とは違います。すべての環境から試練を吸収できる、すべてのものを遮ってくれる助けになる風ではなくて、その隠されていた体を磨き上げ、洗い出してくれる風です。吹きつけるその風は全体をマイナスにする風であり、プラスにする風ではありません。そのような風が吹いてこなければならないでしょう。

 そのような真理、道理、宗教が現れる時は、悪なる世の中から秋の節気の霜のような打撃を受けなければなりません。先生はそのように考えます。統一教会は霜のような試練を実によく受けてきました。それだけでなく、一冬の寒い風が一遍に吹きつけてやつれた枝だけが残らなければなりません。そのような過程で果物の果肉まで全部落ちていったとしても、その果物の中に隠れている一つの種は残っているのです。

 本然の真なる主人は果物を要求するのではなく種を要求するのです。果樹園を相手にする商売人は果物の果肉を要求します。本物の真なる主人はその実の中の真の種を要求するのです。

 わが統一教会が数多くの苦難を受けて、周囲の環境から迫害を受けてやつれた枝にぶらさがった実になったとしても、その実の果肉を見て喜ぶのではなく、その実の中に種を持ったのかが問題です。これが来る春三月に再び種まきをするときに、その種が間違いなく統一教会の第一素性の生命力を持った存在として誕生できるかというのです。それがなければ、それは生命力を持たないのです。

 それが生命力を持つためには、その木が育つまでに、体験すべきあらゆる風雪の試練を経なければなりません。風雪の歴史を持っていなければならないというのです。その険しい試練過程を通過できる生命力を持ち、未来に対する希望をもってはじめて、新しい春の節気を迎えて新しい生命の芽が出てくることができるのです。そうして、夏が過ぎて秋の節気になると生命力を持った種になるのです。

 皆さん、そのような種になっていますか? 種になっているだけでなく、これから無限に発展できる原動力、だれも取っていくことのできない自然な原動力を持っていますか? 新しい時が来れば自体内に刺激を発動させうる生命の原動力を持っているかということが問題です。それがない人は死んだ人です。種のようなもの、実のようなものなど、「ようなもの」たちはすべて肥料の山に入っていくのです。分かりましたか?

 先生がこれまで苦労したのは、まさにこのような種をつくるためです。夏の節気の暴風雨が吹きつけ、秋の節気の冷風が吹いてきて、冬の節気の吹雪が一遍に押し寄せるそのような過程を経るとしても、それが問題ではありません。それをすべて過ごしてしまえば、それ以上の生命力を持った種が芽吹かなければならないのです。

 先生が今まで闘ってきながら、そのすべての歴史の絶頂の道で神様が背後で協助してくださったのと同じ因縁を、ここで再び誘発させることができますか? 今から統一教会が新しく出発するのと同じ立場で、皆さんをどの天地に追いやっても、そこに暴風雨の降り注ぐ日々が介在するとしても、皆さんは先生の代わりにこのような苛酷な環境をすべて踏み越えて余りある生命体に成長できるかというのです。皆さん、できますか?(一九六七・一二・二四、前本部教会)



 第六節 手本を示す先生の家庭

 一 先生の家庭の家訓

 私は自分の両親に対し今さらながらに有難く思いますが、両親からの家訓があって、家に出たり入ったりする人を決して何もしないで送り返してはならないというものがありました。いつも食べさせてから送り出せといいました。こじきが来たといって迫害するなというのです。おじいさんもそう言いました。伝統がそうなのです。

 冬にこじきが食べ物をくれと言って来れば、食事をしていて台所からお母さんとか嫁が直ちに出ていくのですが、準備をしなかったらおじいさんやお父さんは自分の食卓を持っていくのです。ご飯を食べることができません。こじきにご飯をあげて自分は食べられなくてもよいというのです。だから、私が世界の人々のためにそういう行動をするのです。

 全羅道地方、慶尚道地方など、八道江山(=現在の韓国各地)のすべての人々が北へ行くときは国道を通って行きます。そうして、私の村に来て一晩寝ていこうと言えば「あそこに行けば文さんの家があるから、そこで寝なさい」と言うのです。だから、私の家は春夏秋冬四季、居間が空くことがありませんでした。部屋が三つでもぎっしり詰まっていました。それで、ご飯を作る私のお母さんは一生涯悩まされていたことを私は知っています。

 八道の人々にご飯を食べさせたその家庭は滅びません。八道から歓迎されうる後裔が誕生するというのです。だから、悪口を言われるレバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。私もそうなのです。私も世界の人にご飯を食べさせるのです。ご飯を食べるとき、食べられない人がいると私の箸は動きません。ストップします。そうしてみると、たとえ悪口を言われようとも、悪口を言った人々は皆滅んでいきますが、言われ続けた統一教会人は朝の太陽のように昇っていくのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)

 だから、先生の家庭を通してもすべてそうです。見てみれば、家訓がなにやら八道江山の人々にご飯を食べさせてやれとなっています。皆そう言ったのです。東拓会社(東洋拓殖株式会社)が出てきて、日本の人たちが土地を皆奪って満州に全部送るので、全羅道の人、慶尚道の人たちが満州へ行くとき、旅費がなくて私の家へ…。私の家は国道からいくらも離れていませんでした。

 また、村中はおろか遠くの村々、数十里前後ではこじきが来ると、みな私の家が集合所でした。いつも居間にはこじきが寝ていたもので…。私の村に、牛に引かせて回す臼がありました、大きな臼が。そこには、こじきがいつも集まっていたものです。私はそのこじきの中に友達をたくさんつくりました。家で餅をつくと、かわいそうなので持っていってあげるのです。朝、出てきてどこかへ行ったとして、昼食をだれがくれますか? 昼食をだれもくれる人がいないので、私が昼食も持っていってやったのを思い出します。お母さんに内緒でそのようにして…。それは良いことなのです。お母さんは私に食べさせようとしましたが、私は分けて食べようと思って、お母さんに尋ねる前に持っていって食べさせたのです。今、考えてみても、良いことをしました。それで良かったのです。

 ですから、世界のために生きて、そのような考えを持っていたことが、福を受けたこのような基盤になったのです。それゆえ、そのような家門から私たちのような人々が生まれたのです。またそれだから、大韓民国が福を受けることができ、世界の福を引き入れることができる起源になったのではないかと思います。今思えば、先祖たちに対して感謝する気持を持っています。しかし、私はこのような先祖たちに対して責任は一つも果たせなかったのです。(一九八三・五・五、中央修練院)

 国民にご飯を食べさせようとする人であってこそ王になるのです。分かりますか? 食べさせ、着せようとするような王にならなければならないのです。同じく、かわいそうな人、おなかのすいた人にご飯を食べさせたといって罰を受けた例はありません。それゆえ、多くの人にご飯を食べさせてあげろというのです。

 私のおじいさんやお父さんのような両班たちはですね、冬の朝のような時にこじきが来て、「いやあ、通りがかりの者ですが、朝から寄らせて頂きました」と言えば、既に食卓をさっと持ち上げているのです。女房が動かなければ、自分で持っていくのです。私もそのような教育を受けたので世界の人々にご飯をたくさん食べさせました。(一九八六・一・一九、本部教会)


 二 愛の手本を示すお母様

 私がお母様から聞いた話があります。お母様は子どもをたくさん産みました。ざっと十の峠を越えて、なお三つの峠を越えましたから何人産みましたか? (十三人です)。十三人生みましたからイエス様の一党派を備えたことになります。十二弟子とイエス様まで合わせると十三人になるのです。そのように十三人を産んだのですが、お母様が言われたことがあります。「世の中であれが楽しい、これが楽しいと言っても、ほかに楽しいことなどありませんでした。子どもを産んでお乳を飲ませて育てる時のそれ以上の楽しみはなかったのです。年を取って子どもを産めないので、万事がつまらなくてたまりません」このように話しました。

 お母様の顔をみると、苦労してかさかさになった顔です。数多くの風雪を皆経てきた顔です。しかし、愛らしい子どもを育ててきた苦労の道がよかったというのです。愛は困難で犠牲を伴うものですが、その犠牲を忘れてしまうのです。真の愛で愛すると犠牲になることを忘れてしまうのです。そのような犠牲が肥やし、肥料になるのです。また、自分の肉となり骨となり、そして喜びとなるのです。愛になるというのです。

 ところで夫が自分の愛する妻に「あなたの因縁を見ると百の愛の因縁を持っているけれど、私を愛するときには千の愛で愛しなさい」このように言ったらどうなりますか? そのときは愛が成立しないのです。くれと言われてから与える愛は真なる愛ではありません。本物の愛は「私が君を愛する。さあ、始まりだ」と言うのではなく、自然にわれ知らず会いたく思うのです。そうなるのです。来るのか行くのか、知らせもなく始まるのが愛だというのです。命令によって、これから始まるというのではありません。それは愛ではありません。そんな愛はないのです。

 それゆえ、妻に「あなたは私に百、千の愛をよこしなさい」と言うのではないというのです。本当に愛するなら「百の愛をもって生まれついても、百の愛を尽くさないで十だけ愛してくれても私は十分です」こう言えば百の愛を与えても、もっと与えたいというのです。

 おかしいでしょう? そうなるのです。くれと言う人にはあげたくなくて、くれと言わない人にはあげたいのです。これが愛です。愛を与えるにおいて、暴れ回っている連中には与えたくないのです。しかし礼儀正しくもの静かに、いるのかいないのか分からないようにしている人には愛が訪ねていくのです。愛は人知れずそっと密かに繁殖するものなのです。夫婦同士愛し合うのに、人が見るのはいいですか? 愛というものは人知れず自然に強制もなく、自然に流れていくのです。

 それだから、愛を中心として行くにおいて、十の愛の因縁を持っている人が百、千、万の愛を与えたとしても滅びる道理はありません。損害が出る道理がないというのです。(一九七一・五・七、中央修練院)


 三 お母様の苦労

 それで、聖人たちの妻は悪妻にならなければなりません。分かりますか? なぜそうならなければならないかは皆分からないでしょう? それを皆知らなければ歴史が解けません。いずれにせよ、そうです。いずれにせよ、そうなのです。

 それでは、私たちのお母様は素晴らしいお母様ですか? (はい)。素晴らしいお母様だというのは、蕩減復帰したから素晴らしいのでしょう。(一九八九・三・一、本部教会)

 さあ、私がお母様の話を一つしましょう。お母様は早朝に起きて、敬礼式が終るとコーヒーを飲みます。私はそれは良くないと、おばあさんが話した、コーヒーを三カ月飲んだ人が胃を悪くして胃腸の手術をしたという話をしながら、コーヒーを飲まないようにと言うと、どうしましょうかと言います。飲まなければ、もうしきりに目が閉じてしまうのですが、子どもたちは皆出かけることができても、私はこの席に座っているので出かけることができません。だから眠気が来ないようにするために仕方なく飲むというのです。そうして見るとかわいそうです。かわいそうだというのです。人と同じように安心して寝て、昼寝もグーグーして、眠くなれば二十四時間でも寝ていられたらよいですが、それができないからかわいそうだというのです。かわいそうです。(一九七七・三・一、ベルベディア修練所)

 お母様は子どもたちに対して心配をしますが、私は心配しません。子どもを心配する前に人類を心配しなければならないのです。人類を愛する前に神様を愛することに狂わなければなりません。子どものことは夢にだに、一年に一度さえも考えません。そうすると人類を抱いて膨らんでいく宇宙力が保護し、一つの主体的愛が保護してくれるのです。そうです、すくすくと育ちます。私が干渉をしなくてもすくすく育つのです。私は今、そうしています。(一九八八・一・一、本部教会)

 自分を強要して、自分を中心としてこの活動体制を考える前に、全体を強要して先生との上下関係を重要視するような人が必要なのです。新しく整備体制を備えなければならない段階に入ってきたのです。

 先生なら先生を中心として見ると、家庭ではお母様をそのような面で教育しようと今まで努力しました。そういう意味で、お母様がお父様よりもっと素晴らしいのです。それで、私がお母様に指示するときに「あなたはこのような立場に立っているので、あなたの内的な面が現れるのが子女たちですが、子女たちの教育はあなたが責任を持ちなさい」こう言いました。先生がそう指示したのです。(一九八三・一・六、イースト・ガーデン)


 四 お父様の子女に対する愛

 先生は孝進、譽進が十二歳までは、いくら疲れてどこかに行ってきたとしても、寝床で祈祷してやったのです。それはどういうことか分かりますか? 父母の役目を果たすことは容易なことではありません。それによって、お父さんが自分を愛するように自分の息子・娘を愛さなければならないということを自動的に学ぶのです。また、自分のお父さんは世界で一番よい人だということを分からせなければなりません。皆さんもそのようにしなければなりません。分かりますね? (はい)。(一九七八・三・二六、ベルベディア修練所)

 先生の息子・娘七人が韓国で待っていました。その子どもたちに対してこんな考えを持ちました。「お前達が今サタン世界で汚されて、飢えに震えるのは本来のみ旨ではないのではないか? 今はやむをえず、そうなっていることを私がよく知っている。しかし、お前たちは困難でも耐えなければならない」と思う度に、一日でも私が一緒にいる日には、休むときに部屋へ入っていって彼らにキスしてあげるのです。なぜでしょうか? そういう条件をもってでも、お前たちに会って私がかわいがる度に、その日を早く成すための刺激を受けて、忘れないぞという決心からそのような行動をしているのです。天国が問題なので…。

 それゆえ、何とか彼らを天国で生きるようにしてあげ、天国で結婚できるその日を願って、これをしてあげなければならない責任感があるのです。その子どもたちが父母に対して、父母があまりに苦労するのを見て「私は天国へ行って祈祷と祝福を受けられなくても、ここで祝福を受けたことを天国で祝福を受ける以上の価値として考えます」と言って、父母に対し、残念に思わないでください、と慰めることのできる立場に立つことができなければならないのです。そうでなければ大変なことになるというのです。そうしてその子どもたちがそれを伝統として受け継いで走れるようにしておかなければならないというのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)

 私は子どもたちを中心として、今まで十五、六年の間、三人の子、四人の子と対しては十二歳になる時までいくら忙しくとも、毎日のように一日も欠かさずに、行って祈祷してあげるのです。父親の役割を果たすのは簡単ではありません。貴い生命の前にお父さんとお母さんの役割を果たすのは簡単ではありません。「私はお前に何を与えることができるだろうか? お前に負債は負わない。お前が寝ている間に私が福を祈り、お前が寝ている間に必ず抱いてキスをしてやろう。私が時間がなくて、二十四時間お前の手を握って動きまわるわけにはいかないが、私が済まないという気持をもって身の置き所のない罪人のように、お前を抱いてキスをしてやることは永遠であろう」このように生活をしているのです。(一九七六・三・二、清州教会)


 五 子女の前ではけんかをしない

 統一教会を信じている皆さん、何年になりましたか? 十年、二十年、三十年になっても先生について行きたいのですね。それはなぜですか? そのような本心の道が、天理の正しい目的の道と現在私が行く道が、皆異なったものでないがゆえに、神様がそれを皆保護してくれるのです。脱線したら大変なことになります。そのように思ってこれからは、けんかをしないで、模範的な家庭になって…。

 サタン世界に誇れるものが祝福を受けた家庭です。先生から祝福を受けたことがいかに貴いかがよく分かりますか、分かりませんか? (分かります)。分かりますか? (はい)。

 そして、息子・娘たちが、「お母さんとお父さんが一生の間けんかをするのを見ることができずに育った」と言わなければなりません。先ほど、ここでお母様の話も出てきましたけれど、生活してみればあらゆる…。そうではないですか? 小言も言わなければならないだろうし、うまくいかないこともあるでしょう? だからといって、けんかするのをしつこくやめないで、手を出して…。そんなときは、話をしていても教育をしていてもですね、子どもたちが入ってきたらピタリとやめなければなりません。元の状態に戻らなければならないのです。いくら、夫に不満が残っても赤い顔をして息子に対するなというのです。これは先生の哲学です。だから、うちの子どもたちはいつも平和で仲むつまじいお母さんとお父さんだと思うのです。お母さんの中で一番であり、お父さんの中で一番だと思うのです。だから、お母さんとお父さんは第二の神様です。「神様を取るか、お母さんとお父さんを取るか?」というとき、お母さんとお父さんを取ると言うのを神様も良く思われるというのです。それが貴いのです。教育の中で一番貴いのです。教育の中で一番貴いものはそれなのです。

 人の情緒的な面において…。お母さんとお父さんがけんかをして涙を流して、紛争を起こして、子どもたちが泣きじゃくって…。そんなことがあっても良いですか? 何の話か分かりますか? (はい)。子どもたちに対して恥ずかしいのです。

 子どもたちは自分の第一の未来の神様です。未来の神様なのです。それを知らなければなりません。未来の神様です。そうではないですか? 神様の理想をだれが? 未来の後継者たちが相続していかなければなりません。未来の神様にならなければならないのです。未来の神様に。神様の対象の実体にならなければなりません。彼らは未来の神様です。それゆえに、師の中の師なのです、子どもたちが。子どもたちはだませません。だませないのです。絶対にだませません。すでに、お母さんとお父さんがうそをついていることを知っているのです、口に出さなくても。

 それゆえ、父母は師の中の師にならなければなりません。父母は第二の神様の立場に立って師の中の師にならなければなりません。

 彼らの情緒的な基準が、情緒的な方向がお父さんとお母さんを基準として全部準備されなければなりません。「私もあんなお父さんのような夫になり、あんなお母さんのような妻を迎えるだろう。万一、そうでなければ、育ててでもそのようにするだろう」というような教育をするのです。心情的教育はそこからしなければなりません。だから、けんかをする振る舞いは神様を追い出してしまうことであり、その次は夫と妻を追い出してしまい、父母を追い出してしまうことなのです。その次は子どもまで追い出してしまう振る舞いなのです。破綻が始まるというのです。(一九八七・五・二〇、本部教会)


 六 子女の前では涙を見せない

 子どもたちの教育というものはお母様のように…。そう、私とお母様は息子・娘の前では絶対に涙を流さないのです。涙を流すのを見せてはいけないのです。その子女たちは神様です。生きてみればだれでも、先生に言わせると、先生がお母様を教育しなければならないことが多いのです。また、訓戒もしなければならないことが多いのです。しかし、お母さんとお父さんは絶対、自分の息子・娘に涙を流すそのようなところを見せてはいけません。分かりますか、何の話か? (はい)。

 息子・娘を愛するでしょう? (はい)。愛する幼い心には、お母さんとお父さんが一番です。この世で最も貴いものとして、神様の次に来るものがお母さんとお父さんだと知っているのです。その国の大統領よりも、世界の聖人よりも、先生よりもだれよりも最も貴いと知っているのです。家庭ならば家庭がそのような心情の下に進まなければなりません。(一九八一・一一・一五、本部教会)


 七 許可を受けてから出入りする

 私の息子・娘も同じです。どこに行くとしても自分勝手には行けません。お父さんの許しをもらって、行かなければなりません。なぜでしょうか? 出掛ければ、全部が鼓を鳴らしてあらゆる振る舞いをしようとするのです。全部が後押ししてあげ擁護しようとする、そのような環境ではないではないですか? そのような環境では、いまだに真の愛を中心とした真なる父母の立場で「私の息子だ。私の妻だ」と言えるような立場には到達できずにいます。

 それゆえ、息子・娘は勝手に寝て、勝手に食べて、勝手に行ったり来たりしますが、お母さまもそうかもしれませんが、私は思い通りに行ったり来たりできません。多くの日々を同じ場所で見張りをしなければならない、番人の使命を果たさなければなりません。意識が残っていて、意識がなくなるまではその生活を継続しなければなりません。それが先生です。神様が休むでしょうか? 神様はいまだにレバレンド・ムーンを「わが息子である」と天上天下の万民全体の前に立たせて、王権を伝授させようと言うことができません。いつ変わるか分かりますか? 今でも変わりうるのです。違いますか?(一九八八・一〇・三、一和龍仁工場)























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