み旨にかなった子女指導
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 第二節 子女が必要な理由

 一 神様に似るために

 人間が本来堕落せずに備えるべきであった価値の内容が何かを、私たちははっきりと知らなければなりません。本来神様は私たちの心に入ってきて心の中心となり、私たち人間は(神様の)体のようになって、互いに内と外の関係のような立場に立ったというのです。そのように人間が神様のような立場に立ったとしても、また気づいてみれば、神様は天地を創造されたので創造の能力を持っているのです。人間はそれも欲しがるのです。

 人間がそのような神様の創造の力を持つためには神様のかたちに似なければなりません。聖書の創世記一章二十七節を見ると「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された…」このようになっています。帰納的に突き詰めていけば、神様は一男一女によってなっているというのです。神様は根本たる存在なので、結果的な存在は根本的なその母体に似て生まれなければならないのです。それですべての種は二つのかけらが一つの皮で覆われているのです。豆の類はこのようになっています。神様の形状に似たのです。豆を蒔けば双葉が出てきて新しい段階に入るのです。

 そのようにお一人の中にある二つの性稟が一つになって創造の能力を発したために、私たち人間も男性と女性に分けられたものが完全に一つとなり、縦的に一つとなりうる力が臨むことによって、愛を中心として神様が最高の傑作品である人間を創造したように、そのような傑作品を創造できる立場に立たなければならないのです。これが子女創造であることを皆さんは知らなければなりません。そんな創造の能力を私たち人間に付与すると同時に、神様が天地を創造されて喜ばれた心を感じられるようにするために与えたのが子女の愛なのです。

 それゆえ、愛は父母がいなければならないし、相対がいなければならないし、子女がいなければならないのです。したがって、そのような愛を完全に受けた人であってこそ愛の主体である神様の前に立てるのです。これが原則であり天理法度であるので、この原則と天理法度に合格しようと思えばこれを皆備えなければなりません。そうしなければこの宇宙がその人を歓迎しないし、この存在世界から追放されるので、彼には苦痛が訪れ、悲しみが訪れるというのです。これが人間が願う最高のものである神様の愛として、幸福の本郷であり幸福の基点だということを皆さんは知らなければならないというのです。(一九七二・三・九、在米クレアモント・ホテル)

 皆さんが朝食を済ませた後、気分がよくて「おい、だれだれちゃん」と子どもを呼ぶときは、世界を代表した子どもとして呼び、子どもを抱えて愛するときは世界を代表した子どもを訪ねる心を持って愛さなければなりません。そういう考え方をするのです。

 今も先生はそうです。どこかに行って帰ってきたら、できる限りぐるりと回りながら子どもたちにキスをしてあげます。それが私の生活の習慣になりました。また、私の子どもたちは父親にあいさつをするときも父親とキスをします。どこかに行くときも、父親に話してから行き、良いことがあれば父親のところに来て…。そういう思想を育てなければならないのです。そうすれば神様が喜んでご覧になるのです。

 神様のために、世界のために育ててあげなければなりません。自分の息子もその道を行かなければならないのです。子どもを産むのは私のためですか? 神様のためです。子どもを育てるのは? 世界のためです。(一九七一・八・二八、清平修練所)

 夫婦になぜ子どもが必要かというのです。神様の愛は三段階ですが、子どもがいなければ三段階になりません。だから中央線の均衡をとってあげるためには、子どもの基準が下に下りて接しなければなりません。そうしてはじめて全体が回ります。これが原則です。原則。分かりますか? そんな中で、息子の前にあって父親は神様の代身です。神様の内的形状、男性格形状を代表した実体が父親なので、父親は息子の神様となるのです。母親は娘の神様とならなければなりません。(一九八八・二・一八、漢南洞公館)


 二 縦的愛を体験するために

 レバレンド・ムーンという人は宇宙の愛をだれよりも…。そうしながら、そこで生まれ、そこで泳ぎ、そこで生きて生涯を終わろうとする人です。文先生はそのような立場にいるので、ある人をぎゅっとつかめば、その人の肩にのしかかれば、さっと抱きしめて愛の本部に行くことができるというのです。橋を架けて早く行けるので、結局は私を利用するために統一教会員たちが騒ぐのです。当たっていますね。

 お父さんとお母さんが好きなのは、なぜ好きなのでしょうか? お父さんとお母さんを利用してより高い次元の愛を捜すためなのです。それはいいことです。お母さんお父さんは自分の息子・娘に対して、父母を愛せと言います。父母を愛せと言うのは何かと言えば、子どもが父母を橋にして世界の愛を捜していくためです。これを知らなかったのです。

 男性という動物にはなぜ女性が必要ですか? 女性という動物にはなぜ男性が必要ですか? 愛し合うためにです。愛し合うというのは人類との横的橋を架けようというのです。橋を架けようというのです。兄弟が愛し合うというのは、前後に橋を架けようというのです。その次に父母がなぜ必要で、子どもがなぜ必要でしょうか? 縦的な橋を架けようというのです。そうではないですか? 縦的関係、上下関係、前後関係、左右関係…。

 私たちが因縁を結ぶには何を持って因縁を結ぶのでしょうか? 愛を持って因縁を結ぶのです。人間自体が宇宙との関係を結ぶためには固定されたこの一つの場では不可能なので、拡大をしなければなりません。拡大した因縁によって…。ですから、皆さんは世界的な人になりたいのです。ああ私は高い人になりたい、そう思うのです。いくら素晴らしい人でも、下の方にいる悪い息子・娘を持ちたいのではなく、世界で一番優れた息子・娘を持ちたいと思うのです。そうではないですか? (一九八五・一二・二二、本部教会)

 彼のために生きるというとき、彼のために生きるのではありません。太初からある神様の本然の理想的な中心としてあった真なる愛の麹の塊を中心として生きるのです。そのような愛を中心として生きるのです。神様の代わりに生きてあげるのです。それはどんなにすてきでしょう。神様と暮らしたいけれども神様が見えないから、神様の代わりに妻と一緒に暮らしてあげるのです。また、夫と一緒に暮らしてあげるのです。夫と妻だけではいけません。男性と女性の愛だけでもだめです。これは横的愛にしかなりません。父母の愛が必要なのです、父母の愛。父母になってみなければなりません。父母になってみなければ縦的愛が分かりません。

 横的愛を知った後に、息子・娘をなぜ必要とするのでしょうか? 縦的愛を体験するためにです。息子・娘を産めなかった人々は縦的愛が分かりません。そういう人は理想的人間像においては落第生に該当するので、結婚した夫婦に子どもがなければ不幸だというのです。分かりますか? 何の話か分かりますか? (はい)。

 なぜ不幸でしょうか? 父母の位置に、上の位置に上がるようになれば、下と授け受けることのできる愛がなければなりません。それでこそ上下が連結されるのです。それゆえ、夫を愛するように妻を愛するように、ために生きる愛の世界ではそれ以上に愛しても不平がないのです。夫が妻を愛する以上に息子・娘を愛したとしても、ために生きる世界の版図圏内では、その妻曰く「あの老人ときたら、ひたすら息子・娘だけ愛して、私を昼夜いたわることを知らない。なぜああなのかしら」このように不平を言えません。不平を言わないのです。それがもっとうれしくて、ずっとうれしくて「私よりももっと愛するのね、そうよ、そのほうがうれしいわ、ずっといいわ」こう言うのです。(一九八八・二・二一、本部教会)


 三 関係の四方性とその拡大のために

 父母と子女間の愛は父母から来るのですが、父母の愛とはお父さんとお母さんの愛を意味するのです。私たちは生まれるときから父母の愛を受けます。そして父母が生存している限り少年時代、青年時代、壮年時代、時代を問わず愛を受けます。このように父母の愛を受けて成長すれば、横的な夫婦の愛が各自に起こるようになっています。夫婦の愛が継続するためには子女を産んでその子女を愛さなければなりません。

 このように見るとき、人類始祖は神様の愛を受けながら育ち夫婦になるのですが、愛を中心としてはすべてが二数で構成されています。このような観点から見れば、父母の愛を受ける人も受けさせる人も皆兄弟です。

 父母は自分の子女がいなければ愛が何なのかを知ることができません。対象がいればこそ真なる愛を感じられるのです。兄弟同士では父母の愛がどのようなものかを知らずに育ちますが、成長して結婚し子女を持つようになれば、父母の愛が分かるようになるのです。言い換えれば、父母から始まって一周回って父母に帰ってみてはじめて分かるのです。ですから子女を産んでみてはじめて成熟した人だと言えるのです。

 完全で完成された人の基準をどこで定めるべきかということが問題です。父母自身が成熟した立場にいると見ることができますが、その父母が横的に縦的に成熟できなければ、完成した人だと見ることはできません。アダムとエバが神様の愛を受けて成熟し、神様を中心として横的に一つとなれば、すなわち異性関係において互いに相対的な立場で一つになりうる所に至れば、神様が完成を中心として目的とされた愛が実現されるのです。

 アダムとエバが神様を中心として一つになれば、一つの型が備わるのです。しかし平面的な型を成すためには必ず子女を産まなければなりません。これは横的関係となるのです。しかし縦的関係にはなりえないということを知らなければなりません。

 夫婦の愛は一つであり、父母の愛は縦的に二つ以上です。それではどんなものが重要かということが問題になりますが、夫婦の愛は相対的な関係を持ちましたが、一つなので縦的なものが中心にならなければなりません。

 縦的関係は父母と子女関係の愛を延長するのです。父母、夫婦、子女が縦的関係の原則になるのです。それが完全に合わされば一つの家庭となるのです。夫婦の愛を広げれば、それは父母の愛に連結されます。夫婦の関係を経て父母になれば子女たちも父母の愛と大きさが同じでなければならないし、長さも同じでなければなりません。それでは子女の間の愛はどうでなければならないでしょうか? 何を基準にして愛さなければならないでしょうか? お父さんとお母さんが愛したように兄弟たちも愛し合わなければなりません。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)

 今日、私たち人間はより大きな人、皆さんよりもっと良い人…。女の子たちに「お嬢さんはこれから成長して何になるの?」と尋ねると、「美しい娘になり、気立てが良くてかわいくて価値のある娘になり、より素晴らしい夫を配偶者として迎えることを望む」と答えることでしょう。そのように考えるのです。また男性たち、若い青年たちに「君は何を望むのか」と聞けば「より貴くより価値があり、より美しい男性になって、より素晴らしい女性を配偶者として迎えることを望む」と言うことでしょう。これは避けられない私たちの共通した欲求である、このように見るのです。

 このように考えるとき、二人が完全に一つになりうる真なる夫婦となるなら、その夫婦は真なる夫婦であり価値ある夫婦だ、このように言えます。そうすればその価値ある夫婦は、自分たちだけで停止するのでなく、環境的な立場でより良い環境を拡大するための子女を要求するというのです。そうではないですか?

 皆さんがよく映画などでも見るでしょうが、愛する妻が子どもを宿したというとき、その夫は自分も知らないうちに喜ぶというのです。なぜ喜ぶのでしょうか? それは自体の拡大を意味するのであり、自体をある大きな範囲と連結しうる一つの基台の拡大を意味するのです。そういうものが必要なのでそのような要求をするのです。息子・娘を産むことによって四方に連結されていくのです。夫婦なら夫婦同士、集中的に二人が愛し合っていたこの圏が拡散的愛圏内にだんだん拡大されていきます。

 では、家庭を持てば家庭だけで満足でしょうか? 家庭だけではだめです。より拡大することを望むのです。ここには必ず氏族が必要であり、民族が必要であり、国家が必要であり、世界が必要であり、さらには霊界があるなら霊界までも必要なのです。その次には霊界を越えて神様がおられるなら神様までも必要とするのです。このように拡大されるのです。

 拡大されるそのすべてのことが、自体の減少を意味するのではなく自体の拡大を意味するのであり、自体の不完全を意味するのではなく完全を意味するのです。だからそれが非常に高い位置に上がればあがるほど、「私」は平面的価値からより次元の高い立体的価値をもつようになるのです。立体的価値は静止的価値ではなく循環的価値です。これが運動をするときには目的のない運動ではなく内容のある、無目的の運動ではなく目的のある運動をします。どんな方向性を取ってもそれは目的と一致するしかありません。すべてのことは、そのように考えるのです。(一九八〇・一一・九、本部教会)

 私たちと神様が、願いと事情において一致し、心情が通じるようになったとき、神様は何をしようとされるでしょうか? 万物を相続させてあげようというのです。そのような実体となって万物を従え、そのような立場で息子・娘を産み、その息子・娘にすべてのものを相続させてあげることを願われていたのです。このような人になってこそ前後、左右、上下を捜し立てる人になるのです。

 人はだれでも、父母がなく、夫婦になれず、子女がいなければ悲しいのです。これを中心として天下を抱かなければなりません。「天の父は私の父だ。だから父が創造された天宙は私のものだ」と言えなければなりません。「歴史的な願いの心情も私のものであり、現実的な事情も私のものであり、成そうとされる未来の世界も私のものだ」と言えなければなりません。(一九六三・二・五、前本部教会)


 四 宇宙の原則がそうなので

 皆さんは男性でも女性でも子どもを必要としますか? (はい)。どうしてですか? 歴史的伝統を残すためにです。そのように行くのが原則なので原則に従って結婚をするのだということを知らなければなりません。

 愛もですね、愛も二人が出会って結婚した後は、どんどん小さくなっていくようになっています。それを知らなければなりません。一度大きくなった後で小さくなるのが原則です。小さくなるようになっているのです。

 それでは均衡はどうなるでしょうか? この反対の形状を作ろうとするから子女たちは反対に大きくなるのです。夫は嫌いだけれど息子・娘は好きなのです。そうでしょう? お母さんとお父さんが愛でもって子女を産み、子女を中心とするとき「ああ、お母さんだけが好き!」と言いますか? 「お父さんが好き!」と言うのです。お母さんよりも「お父さん! お父さん!」と言うのです。なぜ夫が必要で息子が必要かと言うと、調和するためです。調和してこそ父母を中心に回っていくことができるのです。そのようにして父母が待つところに帰ろうというのです。それゆえ、子どもたちが絶対必要である、このような結論が出てきます。

 夫が嫌いで妻が嫌いだけれど、子どもたちは好きなので子どもたちを見て…。子どもたちが好きなお母さんとお父さんを捨てることはできません。「亭主は嫌いだけれど、このかわいい子どもはあの人の子どもだ。だから、あの人がいなければだめだ」こう考えるとき、子供を愛する女性は夫が必要であることが分かるのです。

 そして男性の愛がこのようにクライマックスになり、その次には下りていくのです。下りていくようになっています。ここに来ては子どもたちの愛を通して上がっていくのです。だから子どもを産むのです。分かりますか? それゆえ、これはプラスでこれはマイナスです。これがなければここでプラスの愛に向かって「おい、行こう!」と言えないのです。また、ここ、これがなければマイナスを見て「おい、下りていこう!」という力がないというのです。

 ここではお母さんも好きですが、お父さんがもっと…。「お父さんが好きだから、ああ! 次はまた下りていってお母さんを好きになろう!」と言うのです。それゆえ、子どもたちはお母さんとお父さんの手をつかんでいてこそ幸せなのです。なぜそれが幸せなのですか? 宇宙の原則がそうなっているからです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)


 五 霊界合格のために

 五色人種が真の父母を捜し立ててはじめて未来に希望があるのです。それゆえ、結婚もその基準を合わせるためにするのです。これを知らなければなりません。これからは結婚と家庭を誇らなければなりません。結婚と家庭を誇らなければならないのです。それ以上に私たちが願うものがありません。だれもがここに加担しなければなりません。これが千個なら千個、一万個なら一万個、自分の氏族になり民族になり国家となるのです。この原則によって大きくなれば、氏族から民族、国家、世界が形成されるのです。

 一番目は何でしたか? 神様を誇らなければならないし、二番目は心を誇り、その次には体を誇り、その次には愛を誇り、その次には家庭を誇らなければなりません。世界にはこれ以上に誇るものがありません。これは世界を与えたとしても取り換えることができないのです。そのようなものを私たちが持ったということを知らなければなりません。

 家庭が必要であることを知らなければなりません。家庭において縦横が連結されるのです。家庭で連結されるのです。それゆえ、息子・娘がいなければだめです。父母がいなければだめなのです。相対がいなければなりません。これが原則です。父母が必要であり、子どもが必要であり、夫婦が必要なのです。分かりますか? (はい)。

 ですから、私たちはすべて成さなければなりません。これさえ持っていけば霊界に行こうがどこに行こうが皆パスです。どこに行ってもパスするのです。(一九八七・三・二二、ベルベディア修練所)

 この道を行こうと思えば男性と女性だけではいけません。息子・娘がいなければなりません。なぜでしょうか? 息子・娘がいなければ天の国に入って、東西南北の門が全部開きません。子女まで連結されることによってはじめて…。アダムとエバを創造された神様のように、皆さん夫婦になって息子・娘を産むことによって実体を創造するのです。(一九八八・八・二八、漢南洞公館)

 自分の夫と子どもたちと、自分のお父さんとお母さん、すなわちおじいさんは天国を案内する三天使だということを知らなければなりません。おじいさん、妻、息子・娘なので三天使でしょう。対になっているので三天使の代表者であることを知らなければなりません。だからお母さんとお父さんはおじいさんから学び、息子・娘から学ぶのです。分かりますか? 夫は妻から学び、妻は夫から学ぶのです。これは事実です。これが家庭の伝統です。

 息子・娘を産むのは、息子・娘のために生きるのは世界を愛することを学ぶためです。息子・娘は世界と連結され、未来と連結されます。息子・娘がいなければ未来と連結ができないのです。未来の世界と連結できる教育の材料として息子・娘を与えられたということを知らなければなりません。その次には先祖たち、おばあさんとおじいさんは霊界についての教育のためです。おじいさんとおばあさんに孝行をすれば…。霊界にそのシステムができているのです。霊界についての教育を受けるためです。これを知らなければなりません。(一九八五・一〇・四、ベルベディア修練所)


 六 子女が多いのは恵みである

 聖書を読むと、愛を中心とした話がたくさんあります。(その中に)父母が子どもを深く愛すれば愛するほど、父母と子どもが不幸になるような例があったでしょうか? そうではありません。このような法度があるので、愛のために苦労すればその愛を占領するようになります。それゆえ、神様のために苦労するのは神様の愛を飲むことなのです。(一九七〇・八・二三、中央修練院)

 皆さんは感謝する生活をしなければなりません。どのように感謝するのでしょうか? 子どもが多い人を見れば、その人は苦労が多いと思うでしょうが、ある面では、子どものいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子どもを育ててみた人はそれが分かるでしょう。子どもを育てたことのある人と子どもを育てたことのない人について見るとき、子どもを育てたことのある人は、自分の子どもがいくら駄々をこねたとしても生きがいを感じますが、子どもがいない人はそういうことを感じられないのです。

 子どもたちによって生きがいを感じるのです。その置かれている環境が複雑だからといって不幸なのではありません。そこには明日の希望が接ぎ木されているのです。人が持つことのできない息子・娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備えて新しい希望を持てるので、自分の困難な環境も克服できるという事実を知らなければなりません。(一九七〇・一〇・二五、前本部教会)

 愛することは貴いことなので、これが個人から家庭に展開し、氏族に展開し、民族に展開し、世界に展開しながら広がっていきます。何代もかけて、だんだんこれが広くなるのです。そしてこれがどこまで行くでしょうか? 世界まで…。何の話か分かりますか? ですから、息子・娘をたくさん持つことは不幸ではありません。息子・娘をたくさん持ってこそ、その氏族が世界を制覇するというのです。(一九八七・三・二二、ベルベディア修練所)

 子女が多いことは恵みだというのです。子女が多いことがなぜ恵みであり、子女を抱える人はなぜ恵みが多いのでしょうか? この心情圏を中心として大きくなるので、それだけ天の国の同位圏基準に近い、高い位置に上がるのです。このくらいの系列ができてくるのです。全部皆公式的です。(一九八七・一二・五、漢南洞公館)

 子供が多いほうがいいでしょうか、少ないほうがいいでしょうか? (多いほうがいいです)。なぜ、どうしてですか? どうしてたくさんの子どもを望むのですか? なぜかと言えば、四方にすべての性格を合わせることができ、コントロールできる訓練が可能だからです。また、たくさんいるほうがこの宇宙全体の理想的な型に近くなれるし、近い型に合わせることができるからです。だから子どもが多いことを望むというのです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)

 神様に「あなたの願いは何ですか?」と聞いてみれば、「この世界人類を救済することが私の願いだ」と答えられるでしょう。「その救済をして何をするのですか? 万民を食い物にして税金を吸い上げる王様稼業でもするのですか?」と言えば、「そうではない。無限な愛を中心として千年万年感謝する生活をさせるために人類を救済しようというのだ。それが私の願いだ」と言われることでしょう。

 息子・娘たちが多ければ多いほど、その父母において愛の心情が広くなります。東西南北三六〇度すべての方向性において、その素性が豊かになるのです。したがって、息子・娘をたくさん産んで育てた人は、善良になりたくなくても善良にならざるをえないという結論が出るのです。

 お母様は本当に子どもが多いですから、その子どもたち全員を育てていると、困難なことや数多くの曲折にぶつかります。ですから隣近所に何か問題が起これば、それを他人のことだとは考えません。自分の子どものことを思い出し、近所のことまで手伝ってあげる、このようになるのです。心情的なこのような版図をたくさん感じて生きる人は、それだけ善になるというのです。

 皆さんは息子・娘が多いほうがいいですか、少ないほうがいいですか? 一つ聞いてみましょう。息子・娘が多いほうがいいですか、少ないほうがいいですか? (多いほうがいいです)。それでは、どんどん産みましょう。さあ、サタン世界の堕落の後孫も多いほうがいいと言うのに、堕落しないで神様の愛を丸ごと受けられる息子・娘をたくさん産んだらいいですか、悪いですか? (いいです)。どれほどいいですか? 東に行っても踊り西に行っても踊り、座っても踊り、寝ながらもごろごろ転げながら踊るのです。そうではないですか?(一九七六・二・一、前本部教会)


 七 統一教会員は産児制限をしてはならない

 1 完全な天国は子女から始まる

 さあ、神様を中心として見るとき、アダムとエバは縦的な中心に連結されます。このように見ると、ここでまたこれが縦的に連結されるためには必ずアダムとエバがこうならなければならず、その次にはここでとまってはならないのです。ここでこれが連結されなければなりません。ところが息子・娘がいなければこれが連結されないのです。分かりますか? こう見るとき、これはすべて四位基台…。さて、息子がいなければ縦的な基準ができません。これがなくなるのです。縦的な基準が連結されず、横的な基準が連結されません。これがありえないのです。

 このように見るとき、この点はアダムの願いにもなり、エバの願いにもなり、神様の願いにもなります。では、エバはどうですか? アダムとエバはそのような位置に立てなかったというのです。縦的な人は神様の愛を受け横的に展開します。横的に展開させるのです。これが父母です。これは神様の愛、これは父母の愛。縦的な父母の愛が神様の愛であり、横的な父母の愛が今日の肉身の父母の愛です。(板書したものを指して語られる)

 さて、神様から、アダムとエバから愛が伝授されなければなりません。神様、アダムとエバ、子女と伝授されなければならないのです。三段階を経てここも同じです。父母の愛、次に夫婦の愛、子女の愛、同じなのです。

 このように見るとき、天国はどこでしょうか? 天国はどこから始まるかというのです。もちろんアダムとエバから始まりますが、それより完全な天国はアダムとエバの息子・娘から始まるのです。このときには平面的な天国と縦的な天国が二つとも完成します。このように見るのです。

 さあ、そのように見るとき、皆さんが今地上に、堕落していない世界で生まれたとするなら、息子として、ある父母の息子として間違いなく生まれるというのです。だから息子の代に行ってはじめて縦横の天国が成されるため、私の代にはじめて、私が実体を持った父母を中心として神様と一つになる私の時代においてはじめて天国が始まるのです。(一九七七・四・一七、アメリカ)


 2 男女愛の目的は子女

 個人としての願いは何でしょうか? 個人の願いについて考えるとき、そこには男性の願いと女性の願いがあるはずです。その男性と女性が願うのは何でしょうか? 男性なら男性として、女性なら女性として成長し、成熟し、結婚ということを願ってきたのが、男性と女性の願ってきた歴史的な道ではないでしょうか? それが人生で行くことのできる希望の道として、多くの人々がその道に従ったのです。

 それでは、二人の男女が出会って愛し合おうとする目的はどこにあるでしょうか? 愛の目的はどこで終わるでしょうか? 夫婦なら夫婦を中心として彼らが愛する目的はどこにあるでしょうか? 自己の前にだけその結果が及んでくることを願って愛するのでしょうか? 愛を自分たちだけのものとして、残そうとして愛するのでしょうか? それはそのようには考えません。愛するときには必ずその結果が全体に因縁を持ちうる、そういう何かを願うのです。それが子女ではないでしょうか? 夫婦自体でいることだけを願うのではなく、必ず愛が結実した何かが残ることを願うのですが、それが子女ではないでしょうか?

 子女をなぜ残そうとするのでしょうか? 自分に一番近い相手を中心とし、それだけで満足しないでなぜ子女を残そうとするのでしょうか?

 子女を残すにおいて子女が少ないほどいいか、多いほどいいかという問題について見るときに、人の欲心は自分が善なる立場に立ったとか、自分が高貴な立場に立ったとか、自分が価値ある存在だと考えれば考えるほど、その価値的存在を中心としてその後孫をたくさん残したがるものです。それが人間の本性です。

 今の時代は産児制限だの何だのとこのような言葉を語る時です。言い換えれば、人倫道徳の根本たる家庭を中心とした血縁が多くなり、その血縁が相対的環境において広く増えていくことを本性では願っているにもかかわらず、これを妨げるのが産児制限だと見ることができます。

 それでは、産児制限をするこの時において、子女を制限することは子女を願わなくてそうするのでしょうか? 子女を願わない人はいないのです。子女を願うことにおいては人と同じでなければなりません。息子がいれば娘もいなければなりません。息子・娘を産んだらその産んだことで満足するのではなく、より優れた息子・娘を願うのです。すなわち、他のすべての息子・娘の中心に立つことのできる息子・娘を願うのではないか? それはどのような父母、悪い父母でも子女に対してそう願うのが本心ではないか? それが愛ではないか? このような問題について見るとき、すべての人々に従っていく息子・娘を残したいのではなく、すべての人あるいはあらゆる息子・娘の中で一等になるのを願うのが父母の心ではないかというのです。(一九七二・一一・一、前本部教会)


 3 子女は神様がくださる贈り物

 私たちの家庭で生まれた子どもたちを見ると、だんだんだんだん頭が良くなるし、天才たちなのです。神様がくれる贈り物があるなら、ふろしきを大きくして贈り物をたくさんもらいましょうか。少しだけもらいましょうか? 贈り物、少しだけもらいますか、たくさんもらいますか? (たくさんもらいます)。

 その贈り物が何ですか? (息子・娘です)。お母様はざっと二十人は産むだろう、四十人は産むだろう、こう思うのです。(笑い)神様がそうなのです。百人でも二百人でもあげたいけれどもそうもいかないし、子どもを産む数は何人という限界があるので、やむをえず最後には(優れた性稟を)全部総合して四十人の息子・娘に匹敵するだけの息子・娘を誕生させることでしょう。

 もし、神様が与えようとした子どもを急に産むのをやめてしまったら、切ってしまったらどうなりますか? 今世界を治め天地をすべて牛耳ることのできる子どもを送ろうとしたのに、産児制限でプッツリ切ってしまったら…。さあ、だから神様が「レバレンド・ムーン、ミセス・ムーン、こちらに来なさい」と呼んで「私はこれこれこういう祝福をしてあげようと思う」そういうものなのです。そういうことは西洋人たちには理解できないでしょう。(笑い)そのように考える人と、「その程度のものが何だ、あってもいいし、なくてもいい」と考える人のうち、どちらの人を通して神様が愛の基台を広げ、与えるだろうかというのです。(一九八一・一・二五、ベルベディア修練所)

 わが統一教会の子どもたちを見ると、願って産んだ子どもであればあるほど、初めての子より二番目が優秀で、三番目が優秀で…。だんだんより優れた子どもが生まれます。間違いありません。心情的により優れた息子・娘が生まれるのです。これからどのような息子・娘を産むと思いますか? 将来世界を統治することができ、世界と神様をテレビジョンを通して見る研究ができるそんな息子を産ませようと神様が準備しておいたのに…。死んで霊界に行ったとき、地上の人間や霊界の人間がレバレンド・ムーンが立派にやったと言いますか、十分にできなかったと言いますか? そんなことを考えると産児制限できますか、できませんか? (できません)。

 ですから、サタン世界は産児制限をしても私たちは産児制限をしてはなりません。自分が美人でいい生活のできる立場にいたとしても、神様の愛を受けられる夫がいたら、神様のみ旨に従って心情の谷間について行き、苦労のぼろふろしきを背負い、冷遇されても自分の体を通して天と地を愛し世界を統治できる息子を産めるなら「私はそれに同意します。行きます」と言って志願できなければなりません。(一九七八・三・二六、ベルベディア修練所)


 4 産児制限をしてはならない

 私たち統一教会の女性たちには産児制限をさせません。「どんどん産みなさい、産みなさい」と言っています。アメリカでは豚にまで麦を食べさせ、とうもろこしの粉を食べさせていますが、それは「たくさん産め」ということです。「どんどん産め!」こう言いましたから、私はアメリカに来て模範を見せなくてはならないので、お母様に「子どもをどんどん産みなさい」と言いました。どうですか?(一九八三・一・二、アメリカ)

 崔金順、朴鐘九、来ましたか? 朴鐘九! 来ていませんね。崔金順は息子が何人ですか? (七人です)。娘は? (一人です)。あなたのところは子どもを産まないことにしたそうですね? (もう一人産むつもりです)。なぜあと一人しか産みませんか? なぜ産児制限をするのかというのです。統一教会員たちは産児制限してはいけません。ヤコブの十二人の息子の中でヨセフは十一人目なのです。もしヤコブが産児制限をしていたら、ヨセフは総理大臣になりましたか? (笑い)時が、月日がたてばたつほど、よりよい子女を産むのです。これから時がたてばたつほど統一教会の運勢、統一教会の運に乗った、統一教会の道運に乗った子女が生まれるのです。本当です。あとで霊界に行って「お前の家庭を通して天下を動かせる男、勇士を送ろうとしたのに、お前が首を切った」と言われたら、その時になってどうするつもりですか?

 産んでおいたら、皆さんがご飯を食べさせなくても自分で食べて生きるのです。一日に十人産んでも大丈夫です。産みなさい! (笑い)皆さん、三七が二十一(3×7=21)、二十一人まで産めます。毎年産めばですよ。(どうやって皆食べていくのですか?)。食べさせ生かすことなど、神様がしてくださるのです。そんな心配はやめなさい、私が食べさせてあげますから。それだけ、食べさせるだけのお金は私が持っています。そうです。

 産児制限をしてはいけません。サタン世界はますます産児制限をして、私たちはますますどんどん産んで…。(笑い)お母様もそうです。ざっと十二人は産まなければと、今それを中心に走っているのです。たくさん産んだでしょう? 今八人の兄弟姉妹を生みましたから、もう十二人に近づきました。娘はやめて息子だけ産むことになれば、十五人でも十六人でも生むかもしれません。そんな課題を与えたところ、お母様がとても心配しているのです。子どもを産む前から(次の子を)妊娠できればいいのにと、こんな話をします。お母様はそうしているのに、皆さんの家庭は何の権利があって産児制限をするのかというのです。

 息子七人の兄弟を与えられたら、とてもありがたくて感謝するでしょう。その息子たちが大きくなると、皆活発でしょう? 活発でしょう? 食べるものがなければ、お母さんにせがんで絞り取ってでも生きようとします。それでこそ良いのです。最近、私が報告を聞いたところでは、狭い部屋に…。そんな報告も聞いています。「何と、朴鐘九の家に行ってみると、部屋一つに…。二部屋でしたか、一部屋でしたか? (三部屋です)。三部屋だったら部屋数が多いですね。小さい部屋三つですか? 何ですか、部屋が狭くごみごみして、何だのかんだのと…。そんなふうに暮らす時が一番おもしろいのです。(一九七五・六・二二、前本部教会)

























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