み旨にかなった子女指導
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 第四節 父母の愛

 一 父母の愛の心

 子どもを産んで育ててみた父母たちは分かるはずです。愛情込めて大切に育てた息子・娘を通して福を受けたいし幸福も感じたいことでしょう。また、喜び福を受けることのできる基準があるなら、その息子・娘に永遠に残してあげたいことでしょう。そんな希望の心を持って、その息子・娘が無事に育って万国から尊敬を受け、万世に称賛を受けうる息子・娘になることを、堕落した人間も願っています。夜でも昼でもその息子・娘が傷つくことを案じて保護し、切ない心情で居ても立ってもいられないのが父母の心です。堕落した父母の心もそうだというのです。

 懐の中でお乳を飲ませて育てる母親の切実な心、子どもがうんこをしておしっこをしてにおいがしても、愛でその環境を忘れてしまえるのが父母の心です。堕落した父母が子どもを思う心でさえそうなのに、まして愛の主体であられる神様が、本然の心情を通してアダムとエバを愛したかったその心はどれほど切実だったでしょうか? 皆さん一度考えてみてください。

 皆さんが赤ん坊を抱いて育てているときに、寝床でも歌を歌ってあげ、独り言で話もしてあげながらその子の将来を祈るその心は、父母ならだれでも持っていることでしょう。子どもに欠陥があれば父母の心は涙でずぶ濡れになるほど最高の苦痛を味わうのであり、これが解ければその苦痛に比例しただけ喜びが伴うのです。堕落した父母の心でさえそうなのに、まして神様の心はどうでしょうか?(一九六八・六・九、前本部教会)

 父母は息子が罪を犯して監獄に行けば「こいつ、ざまを見ろ」というのではなく、その子どもを許し涙を流して愛そうとするのです。それが父母の愛です。だから父母の愛が貴いというのです。分かりますか? もしその息子が死刑囚となり死ぬ時間を迎えたら、息子が処刑される時間を父母が知っていれば痛哭することでしょう。この世の中のあらゆる法をすべて変えさせてでも、息子を救うことのできるたった一つの道があるなら、どんな冒険でも生命を捨ててしようとするはずです。そんな変わらない愛を持っているので、父母の愛は貴いというのです。

 父母の心に死刑場に引かれていく息子を許す心がありますか、ありませんか? そのお母さんの愛が真のものなら、神様の愛はそれに劣るものですか、それ以上のものですか? 神様の愛がより大きいことを私たちはおのずと認定するのです。それゆえ神様の愛が父母の愛を凌駕するというのは当然な結論だということを知らなければなりません。(一九七七・二・六、ベルベディア修練所)

 皆さんの中で子どもを亡くしたことのある父母がいたならば、その痛みがどれほどかということは説明しなくてもよく分かるはずです。堕落した世界の鈍感な私たちの心がそうであるからには、本質的な世界の本然のそれ自体、純粋な神様の心の中の傷はどれほど大きかったことでしょうか?(一九八三・五・一、リトル・エンジェルス芸術会館)

 自分の体を打って自分の体を失っていきながら、自分を犠牲にしていきながら子どものためには死までも辞さないのが父母の心情です。(一九七一・一一・八、中央修練院)

 父母は愛する子どもに対して尽くしながらも、自ら恥ずかしさを感じるのです。「私がよその子ども並みにしてやれず、父母の責任を果たせなかったことをどうか許してくれ」と言うのです。(一九七三・一一・一二、中央修練院)

 子どもを愛する父母は子どもを愛してあげるとき「私はお前にいついつにゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したのだが、その価値は何千何百何十銭だ」と帳簿につけますか? 父母が子どもを愛する場合には、この世の王宮の王子・皇女以上にしてあげたいのだけれど、それ以上にしてあげたい心を感じながら、「私が精誠を尽くしてもこれしかなくてすまない」と言うのです。「それ以上にもっと良いものをやるからね」という心を父母は持っているというのです。分かりますか? だから父母の愛が好きなのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても足らなさを感じ、愛しても不足なところがないかと思い、もっと愛したい心、与えてから物足らなくて満たされない心、こういうものがあるので、これは永遠な愛と通じる本質に属することができるというのです。分かりますか? それが愛の出発の伝統的動機です。(一九七二・八・六、前本部教会)


 二 父母の心は時空を超越

 世の中の堕落した人間同士の間においても、親と子が離ればなれになった後、何かの巡り合わせによって壮年になってから再会するのを、皆さんは映画のようなもので見たことがあるでしょう。その父親が息子を捜すために苦痛を克服しながら苦労するのが、親たる道理ではないでしょうか? 子どもは(親の苦労を)知らないので、考えもしないでしょう。

 このように考えるとき、父母が数十年を越えて五十歳になる息子に会ったとするなら、父母がその息子に会うと同時に「おい、こいつ、五十歳になるまで私のことを一度も考えなかったのか?」こう言いますか? 「おい、お前と私とで一度歴史を話してみよう」こう言いますか? どうですか? 歴史はすべてを忘れさせるのです。歴史を超越させるものは何でしょうか? 心情です。自分の事情を超越させるのが心情です。父親だと分かれば過去はどうであれ、対面もお構いなしに子どもは「お父さん!」と言うのです。面目などはあると言えばあるし、ないと言えばないし、それを気にしないというのです。「お母さん、お父さん!」「お前!」と稲妻のように抱きしめるのです。そうですか、そうではないですか? 「おい、おい、おい、ちょっとストップ、考えてみよう」こう言いますか? 「おい、こいつ、お前が幼い時に私が苦労したことを少し理解してから会おう」そう言いますか? 「私がお前を捜して会うために涙をこのように流したのだから、お前も一度涙を流してから会おう」そう言いますか? そのようなことはすべて超越するのです。これを統一化して帰一化できるのは知識でもなく、事由でもなく、事情でもありません。それはひとえに父母が子どもを愛する心、子どもが父母を愛する心それだけです。この力だけが歴史を超越できるのです。これは否定できないのです。(一九七二・八・二〇、前本部教会)

 堕落したこの地上の父母たちを中心として見ても、自分の愛する息子が外国に行っていたら、その父母はいつも外国に行った息子を心にとめていますか、とめていませんか? (心にとめています)。息子が外国に行っているのですが、心にとめていますか? こんな言葉自体が全部宗教的な術語です。息子が外国に行っているのですが、「心にとめている」というのです。それを見れば、心は距離の支配を受けないということがわかります。

 それではどのくらい心にとめておきたいですか? 自分の息子を愛するにおいてどのくらい愛したいですか? 自分の息子を愛するのにこのくらい愛したいですか? 「一応、朴氏の姓を持つ女性として私は金某の家に嫁いできたけれど、その金某という夫の人間的器が十両くらいの価値でしかないから、子どもがいくら素晴らしかったとしてもそれより良くなるだろうか? だから九両程度で愛そう」そう考えますか? 父親のだらしない姿は、まるでタコのように骨なしで目も当てられないというのに、子どもはどれほど大きく考えようとしますか? 天地よりもさらに大きく考えようとします。これはすべて矛盾だというのです。突き詰めていけば問題が多いというのです。いくら小さい存在でも、それが心の中にとどめておきたい本当の愛の因縁を結ぶようになるときには、大きな存在として侍りたいのが私たち人間の心です。(一九七一・九・一九、前本部教会)

 愛の力はすべてのことを洞察するというのです。愛の力だけが可能だというのです。父母の愛の心は距離を超越します。距離を超越して連絡するのです。皆さんが映画を見れば、子どもが交通事故に遭うとき、父母が夢の中で交通事故の起こるのを見て「あっ!」と驚き、目を覚ます現象が起こるのを見ることができるでしょう。愛の筋を通して反応するのです。愛の縁を通して、実像がそのまま移っていくのです。実像だけでなく実体が交流するのです。それゆえ、地上で愛の縁に乗って神様の実体に接することができるというのです。これは驚くべき事実です。(一九八七・四・一七、本部教会)


 三 父母の心の流れ

 皆さんは世の中でよく目にして知っているでしょうが、ある父母の息子の中に障害者がいたとして、彼が父母の愛を理解できなかったら、どれほど悲惨だろうかというのです。百愛しても百の愛が分からず、一の愛も分からない立場に立っている子どもに対する父母、そうであっても、子どもを愛すまいとしても愛さずにはいられない父母、いつも与える立場にいるので愛を与えるにもかかわらず、受け止めることのできる立場に立てない息子を見るとき、百の愛を注いだ父母は百以上何倍もの悲しみを感じるのです。たった一つだけの愛を持った子どもを愛そうとするとき、その愛に対することのできる子どもを持てない父母は、それ以上に悲しいことはないというのです。それ以上、胸の詰まることはないのではないでしょうか。

 もし、百に相当する愛を与えようとするとき、百以上の愛を受けられる相対者が、もしも息子として娘として現れたとき、その父母はどれほどうれしいことでしょうか? 千を与える以上の喜びをその位置で感じることができるのです。そこから反対の与件が成立することを私たちは知っています。

 そのような観点から見るとき、自分が与えるものを受け止められる子どもを持てない父母はかわいそうなのです。それが一度だけでなく、永遠にそのような立場に立つことになるなら、その父母はかわいそうで悲惨なだけでなく、胸が詰まってしまうのではないでしょうか?(一九七二・九・一〇、前本部教会)

 愛する父母が見るとき、自分の息子が病人になっていて、障害者になっているときには、高く深い愛の心情がその障害のある子どもに流れるのが原則です。違いますか? そういう身体障害者の心情は渓谷です。父母の心情は山頂の大きな位置です。そのような父母の心情が山頂からその深い谷間に流れていきます。(一九八六・九・七、ベルベディア修練所)

 子どもに尽くす父母の心には悪いものがありません。母親の服がぼろぼろであるほど、悲惨であればあるほど、それが涙の深い谷をつくっているというのです。(一九八八・二・二一、本部教会)

 愛する子どもに対する父母は、子どもに欠点があってもその欠点を先に指摘しません。自分の良い点だけ似ることを願います。子どもの悪い面を見てほおを引っぱたいても、同情し、後悔するのが父母の心情なのです。それは、そのときの悪い与件を基準にしてなぐったのではないからです。自分に似た小さい部分でもあれば、それを悪い面より大きく見ようとする基準を中心として、理解しようとするのが子どもに対する父母の心情です。(一九六六・三・一三、前本部教会)

 一つの家庭で、兄弟が互いに意見の違いで争うとき、父母はどちらを支持するでしょうか? 先に手を出し、自分の欲心のために争う子どものほうを支持する父母はどこにもいません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は「善良であれ」ということでした。(一九七〇・六・四、前本部教会)

 世の中に二つとない大きな農場を持つお金持ちの家に生まれた子どもがいるとして、その子どもが毎日のように馬に乗って走るからといって、父母がその子どもを愛するでしょうか? そうではないというのです。家の中で何もせずに、ごろごろして遊んでいるけれど、お母さんとお父さんが骨のおれる仕事をするときに手伝ってあげ、父母と心情の因縁を結んでいく子どもを愛するのです。そのような人が知恵ある人です。これはエサウとヤコブのような立場なのです。(一九七〇・八・二三、中央修練院)

 神様は私たち自身を見るとき、不足だからといって足らない立場に置きたいとはお思いになりません。子どもは出来が悪くても、父母の心はいつも、より高い位置に立てたいと思うのです。世の中においては友だちや、あるいは師匠が弟子を見るとき、出来が悪ければそれ相応な位置に立てようとするかもしれませんが、神様はより高い立場に、貴い位置に立てようとお思いになるのです。出来の悪い人は、神様が自分たちに対して少ししか気に掛けてくださらないと思うかも知れませんが、神様は出来が悪い人に対してこそ、深く心配されていることを皆さんは知らなければなりません。(一九六九・七・二七、前本部教会)


 四 父母の愛は垂直である

 父母の愛は垂直です。愛は直短距離(直線からなる最短距離)を通るので、神様と通じることができる垂直線の前に距離は遠く離れていますが、これは平衡線です。今話した父母から子どもを愛するこの線は、平衡線にならなければなりません。これが狂えばすべてだめになってしまうのです。父母の愛はこの宇宙も遮ることができないのです。それゆえ、孝子の道とその次に忠臣の道も同じです。忠臣も垂直を中心として平衡線に立つのです、位置は違いますが。分かりますか?(一九八九・一・二四、一和龍仁工場)

 男性と女性の関係を横的に捕らえれば、父子の関係は垂直線で成されるのです。分かりますか? 垂直、垂直線で。だから東洋思想で、父子の関係は変わりえないというのです。それは永遠なるものですが、自分の母親との相対的関係、それは変わりえないのです。垂直線に従って、垂直が東西になれば南北に位置が変わるのです。

 しかし、本質的垂直は変わりえないというのです。ですから父子の関係、これは一つしかないので父親と息子の関係は天理の道理です。天宙のすべての存在はこれを否定しようとはしません。認めて肯定するのです。自然に肯定しようとするのです。それゆえ、子どもは父母の言葉に自然に従わなければなりません。

 いくら母親と父親が殺人強盗だとしても、子どもに対しては「お前も、殺人強盗をしろ!」と教える父母は絶対にいないというのです。自分はマフィアになったが「お前はマフィアになるな」と言います。だれか人を使ってでも、その街から移して他の所に移動させようとします。私が今回監獄に入って、そのような人たちと一緒にいながら見かけましたが、いくら悪い父母でも子どもに対して「お前、悪い人間に、私のような人間になれ」とは言わないというのです。なぜでしょうか? 天理の本性的基準が、根がそうなっているからです。根から離れられない人間なので、子どもに対して「お前はこれこれこういう私のような人間になるな」と言うようになっています。

 さあ、このようなことをすべて…。神様も天地を創造する時、なぜエバからつくらなかったのですか? 易しい問題です。このような観点から見るとき、神様が父親なら縦的な基準である息子を先につくらなければなりません。縦的基準をつくってはじめて、横的基準を定めることができるのです。縦的基準さえしっかり立ててしまえば、横的基準が回りうるのです。そのような観点から「なぜ、男性からつくったのか? それは不公平なことではないか?」と言うでしょうが、違います! 垂直的概念が先です。それは神様が考える理想的目的の概念を立てておいて、創造的概念を投入したのです。

 それでは、創造するときの根源がありますが、その根源の基準は何でしょうか? その基準が愛だというのです、愛。それゆえ、人は生まれた時から父母の愛を慕うのです。また父母は子どもの愛を慕うのです。これを離れることができません。これを離れれば苦痛です。

 ですから、幼い時はそうではないですか? 母親について行き、父親について行き…。子どもの時代に第一の神様に侍るというのです。現れた神様が父母だというのです。現れた最大の師が母親と父親だというのです。現れた生活のすべての幸福の基地が父母だというのです。そこから幸福を感じるようになるのです。なぜ? 愛を中心とするから。愛を離れるときには破綻が起こるのです。

 父母の愛とは何を言うのでしょうか? それは垂直関係において根になるのです、根に。ですから、上下関係は必ず垂直関係です。くねくねではなく直線関係です。くねくねしたら、第三の基準が介在したということです。自然な力ではありません。第三の力が介在してくねくねしたというのです。(一九八六・五・四、本部教会)


 五 父母の愛の起源

 父母が子どもを愛する、その愛の起源と動機はどこから始まったのでしょうか? 男性と女性を中心とした愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子・娘を中心とした愛はなぜ変わらないのかという問題を見るとき、これは男女を中心とした愛に起源をもったものではなく、横的な夫婦の因縁によってもたらされたものではなく、縦的なある流れの起源を通して関係しているからです。それは間違いないというのです。

 では、その縦的な愛の主体はだれでしょうか? そのような主体を私たちは神と言います。変わらない愛の主体として因縁づけられうる関係で、連続的に相対を追求できる、そのような本然の位置に立っている、ある絶対的な主体を必要とするのです。その愛は夫婦が気ままにできる愛ではありません。その愛は自分が愛したければ愛し、愛したくなければ愛さない、そのような愛ではありません。その愛は切っても切れないのです。横的な人間としては、どうにもタッチできないのです。それゆえ、父母が子どもを愛するのは永久不変だというのです。それが変わると思いますか?(一九七一・九・一二、前本部教会)

 今日、民主主義の世界で個人主義思想がわき上がっているこの時において、子どもたちは「父母は旧世代だ、私たちの新世代とは次元が違う」と言います。子どもたちはそのように変わりましたが、父母の心は変わるものではありません。子どもたちが旧世代だのと言い張るからといって、「お前はそう考えるのか? 私もそうしよう!」そうなってはいません。父母の愛はそうではないというのです。それは小さな動物も同じです。子どもを愛することにおいては、自分の生命を超越するのです。

 それでは、そのような愛はどこから来たのでしょうか? 私自身が第一のある相対的な結果の存在ならば、それは第一のある力の因縁の中から来たのです。それは私たち人間としてはタッチできるものではありません。それゆえ「父母が子どもを愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」という人を見たことがありますか? もしある父母が、進み出たとしましょう。しかし、その父母は子どものへその緒が取れる瞬間、子どもを愛する心が自然に発生することでしょう。

 すべての生物は高等下等を問わず、自分の子どもを愛さずにはいられないようになっています。愛することに生命を投入し、生命を支え石のようにしてでも愛したがる作用があるのを見るとき、永遠不変に近いと言えるのが父母の愛です。それは絶対性を捜していくにおいて、「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支え石にはなれます。ただ一つの足掛かりになることができます。二つになってはいけないのです。ただ一つの足掛かりになれるのです。次に、これが人間の世の中においてはそうであっても、歴史を見るときは、永遠な足掛かりになっているのではないかというのです。

 そのような父母の愛はどこから来たのでしょうか? それは父親から何かの助言として学んだものでもなく、自分の相対から忠告として学んだものでもなく、自分自身がそうだろうと考えて出てきたものでもありません。自然にそうなるのです。愛というのは自然にそうなるところで成立するのです。(一九七一・九・一二、前本部教会)


 六 父母の愛の特性

 父母は子どもの前にすべての面で主体となり基準となりますが、愛の前でだけは弱いのです。愛を持ち出してくるとき、父母の権威はないと言えばないのです。かえって父母の権威が逆さまになります。そのように逆さまになったとしても、権威を失ってしまうのでなく、逆さまになった位置から再び本然の姿勢を整えて進んでいける道を持つことができるのです。それゆえ、愛を中心として下りていったとしても、そこで行きづまるのではなく、下りていったその位置から永遠に向かって進むことができると見るのです。

 父母が子どもを愛するにおいては、「父母はこうでなくてはならない」という、ある固定した形態をもって、自分を主張する立場で子どもを愛するのではなく、自分を主張しない、自分を否定する、すなわち自分がない立場で子どもを愛するのです。言い換えれば、父母は父母の権限を持っていつも堂々とした立場で子どもを愛するのではなく、父母の権限を忘れ去った立場で、それ以上の立場においてさえ子どもを愛するのです。そのような愛を持って子どもの前に臨むのが父母ではないかというのです。

 父母に愛があるというのは父母のためにあるのではなく、子どものためにあるのです。その愛というのは父母の愛だからといって父母だけのためにあるのではなく、父母の相対のためにあるのです。子どもも同じです。子どもが父母を愛するというとき、その愛は子どものためにあるのではなく、父母のためにあるのです。結局愛という言葉は自分を中心として成立するのではなく、相対を自分以上に尊重するところに成立するのです。それゆえ、愛のために生まれたということ自体は、相対のために生まれたということに通じるのです。(一九七二・七・三〇、前本部教会)

 家庭を中心としてみるとき、子どもは「お母さんは永遠に私のものだ」と言います。母親は子どもに自分の血肉を分けてあげながらも喜びます。これを見るとき、どんなところが良いですか? 他人のために犠牲になるところです。友達が好きだというのも犠牲になるからです。人に与えながらも喜ぶというのです。喜ぶというのは、人のために犠牲になりながらも、自分が一番大切にしているものを与えても、なお与えたいと思うのです。後で返せと言いながら与えるのではなく、与えながらも足らなさと恥ずかしさを感じるのです。それが父母の愛です。

 しかし、子どもの愛はそうではありません。ですから、父母の愛と子どもの愛は違います。父母は与えながらも、もっと良いものを与えられないことを無念に思い、子どもは「私は孝子だ」と言いながら満足に思うというのです。だから父母の愛と子女の愛は違うのです。「私はこのようにしたのに、お母さんとお父さんは何をしましたか?」と言うというのです。子どもの愛には限界があります。自分という限界線を超えられないというのです。けれども父母の愛は自分という限界線を超えるのです。(一九七〇・一二・一三、前本部教会)

 父母の立場で子女を愛するとき、あるいは夫婦間や兄弟間において、いつも主体の立場にいる人が先に与えなければなりません。父母が子女を愛するのに、その愛を子女たちが分からないとしても、ただただ喜びの中で自然な愛が流れるのです。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)

 なぜそうでしょうか? 父母は子どもを愛しますが、自分が愛を受けるために愛するのではありません。後孫をさらに愛する元手にしてあげるために愛するのです。未来の愛のために…。(一九八四・二・五、アメリカ)

 父子間の因縁もそうです。息子・娘が幼い時には、ひざに座らせてかわいがりながら大事に育てますが、その子どもが年を取ってくるとそうはいきません。しかし、父母の愛は子どもが年を取ったからといって、切れるものではありません。その愛はよりいっそう立体的に現れるのです。自身の生涯とも変えることのできない内容を中心に精誠を込める価値は、日がたてばたつほど現れるようになるというのです。そのような父母の愛の価値を発見できる息子になるなら、孝子という名を持たなくても孝子です。(一九七〇・八・九、トンミョンジャン旅館)

 さて、それでは父母が子どもを愛する心は頻繁に変わりうるかというのです。発展がありうるかというのです。愛する人の愛は変わりうるかというのです。発展しえないのです。また、そのような真なる愛が取り戻された立場にあっては変わることも許しませんが、だれかが来て補うことを願いますか? だれかが来て付け加えることを歓迎するかというのです。加えることもできないし、減らすこともできないというのです。皆さんの母親と父親を「ああ、うちのお母さんとお父さんは本当に醜いから、あなたのお母さんとお父さんと取り換える。きょう取り換えるぞ」と言えば、それで交換できるでしょうか? (いいえ)。したがって、加えることもできないし、替えることもできないのです。それだけがよいというのです、それだけが。(一九七三・五・五、ベルベディア修練所)


 七 父母の愛の境地と深さ

 愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成立しないのです。父子関係の愛について見ても、そこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中に望みを持っている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の関係を結べないというのです。

 ですから、愛には必ず生命の因縁が投入されなければならないというのです。また、生命をどのくらい投入して愛するかによって、より価値があるように感じるか感じないかという問題が決定するのです。

 例えば、子どもに対する父母の愛は、ただそのまま生活的な因縁だけを通して愛する愛ではなく、骨髄からにじみ出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切っても切れない愛の心を父母は持っているのです。だから生命の余力が残っている限り、父母は子どもを愛するのです。子どもと生命の因縁が結ばれているということを感じるとき、父母には子どもを愛する心が自然にわき上がってくるのです。あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりもその因縁よりも先立つ、自分の生命力が子どもと連結されているので、愛すまいとしても愛さずにはいられないのです。このような事実を、私たちは家庭生活でよく感じていることでしょう。(一九七〇・六・一四、前本部教会)

 それでは神様はどのようなお方かと言うとき、千年万年与えてもまた与えたい、そんな心を絶えず持っておられる方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであり、与えてから「おい、これは何円何銭だ」と言う商売人の神様だったら、そういう神様は必要ありません。

 万民はなぜ神様を愛してついて行かなければなりませんか? 神様をなぜ愛さなければならないのかという問題を見るとき、神様は万民のためにすべてのものを与えてくださり、また与えながらも恥ずかしがられて、「今は、これしかできないが、もう少しだけ待ちなさい。何百倍何千倍もっといいものをあげるから…」と言われながら、きょう現在与えたもので満足するのではなく、与えながらも将来もっと良いものを与えると約束なさり、与えることのできる心の余裕を持っておられる方だからです。そのような方と一緒にいれば、たとえ食べられず、貧しくとも幸福だというのです。食べられない立場に立つなら、未来への希望の刺激が現実圏内で衝撃的に感じられるのです。どういうことかと言うと、かえって新しい決心ができるというのです。

 与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母を持った子どもが「お母さん」と言って抱き寄せるなら、体だけ抱き寄せますか? どれだけ有難いでしょうか? その場は未来のために、互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望がともにあるのではなく、明日の希望を現在の刺激にし、互いに決意して、互いにぶつかり合って激励できる場はそのような愛圏内でのみ成されるのです。それゆえ、その愛圏内に生きる人には、不幸がないという結論が出てくるのです。何の話か分かりますか?(一九七〇・一二・一三、前本部教会)

 父母は愛する子どもに対して全体を投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を意味しているでしょうか? 神様は神様のために投入するのではありません。このように、自分のためにいるのではなく、相対のために存在しようという、相対のために神様の立場に立とうというのです。神様が神様のためにいようとするなら、真なる愛ではありません。自分をすべて子どもに投入して、その子どもと一緒にいようとするところで愛が、生命が、希望が成されるのではないかというのです。(一九七三・九・一〇、ロッキー山脈山荘)

 父母というのは、子どものことしか考えません。私が興南の監獄にいるとき…。興南から定州に行くには汽車で十四時間かかります。そこに行こうと思い、通行証をもらうために毎月共産党の輩たちの前に…。しかも先生が共産党をぶっつぶすチャンピオンとしてうわさが広まっていたので、私を憎む者たちが意地悪く振る舞い、物を持ってくるのを妨害していたはずです。そんな環境でも先生の母親は千辛万苦して、面会のために、ひと月一回ずつ来るのです。

 来るのですが、子どもがおなかをすかせて困っているだろうと、精誠を尽くしてはったい粉のようなものを作ってきます。北韓のどこに食べる物があるでしょうか? それを私はよく知っています。そのような困難な環境であらゆる手を尽くしてはったい粉を作り、息子だからと言って訪ねてきてはぱっと出して見せるのです。面会するとき約三十人が、一つの刑務所の囚人たちが出てきてするのですが、親が訪ねてくる人もいれば、何年たっても訪ねてこない人もいます。自分の故郷からだれかが来るというその知らせを願う心、それはこの世では想像もできません。そこで過ごしてみた人でなければ、どんなに説明しても分かりません。どれほど切実なのか、どれほど慕わしいかしれません。そのような事実を私はよく知っていますが、母親が一カ月に一度ずつ訪ねてきますから、どんなにうれしく慕わしくてよかったでしょうか?

 はったい粉をしっかりと渡して言うことには、あなただけ食べて他の人に上げてはいけないというのです。(笑い)母はいい教育ができましたか、できませんでしたか? できましたか、できませんでしたか? (できませんでした)。違います! 母親としてはいい教育をしたのです。けれども息子としてはですね、息子としては立場が違います。そこにいる囚人たちの所から、同僚たちの所から、それをそのまま持って私は部屋の中にはいることはできません。本にもそう書かれています。足を踏み出せません。死ぬなら死ぬで、それを口に入れて一人では食べられないというのです。ですから、どうせ人にあげるのだから、ここでお前たちたっぷり食べなさいと言いながらあげるのです。(一九八八・五・二〇、全州教会)


 八 父母の愛の威力

一生の間子どものために愛の絆を結んで生きる父母は、血と汗を流して背が曲がり、外見がいくら悲惨でも、その心の世界に燃え上がる希望はだれもへし折ることができません。打ち寄せる困難がいかに激しいものでも、それをこつこつと踏み越えていける偉大な力がそこにあるのです。そうですか、そうではないですか? (その通りです)。そうなのです。(一九八八・四・一七、本部教会)

 自分が滅ぼうがどうなろうが、興亡の要件を超えて責任を負える立場、生死の問題を超越して責任を持つことのできる立場で残されうる愛の階層は、いったい人間社会のどこでしょうか? どこがその起点になるでしょうか? それは男女間の愛でもなく、兄弟間の愛でもありません。国のための愛でもなく、世界のための愛でもありません。その立場を捜しに捜してみても、これは父母が子どもを愛する立場のほかにはない、このようになるのです。

 それでは、人の世で父子関係を中心とした愛が絶対的かというときに、そこにも問題があるというのです。それでもその中で一番優位に立てる愛は、父母が子どもを愛する愛です。愛という問題を中心として見れば、その愛が起源です。私たち人間の世の中では、それを無視してはならないのです。人間の喜怒哀楽というのは情緒的な面を中心としてなされるものですが、その起点はそこからなのです。

 それでは、その起点は絶対的でしょうか? これが問題です。私たちはどのようにして生まれたでしょうか? 父母によって生まれました。その父母はどのように構成されているでしょうか? 神様の男性と女性で構成されています。その男性と女性の愛によって生まれたのが息子・娘ですが、その息子・娘を愛するその愛は男性と女性が愛するそれと同じかというとき、そうでありうると言うなら、それは論理的に矛盾になります。

 では、この愛がどこから来たのかということが問題にならざるをえません。そうではないですか? 父親と母親は一人の男性と女性ですが、彼らが相対的関係の下で愛し合うことによって息子・娘が生まれました。その息子・娘を中心として父母と子どもの関係が結ばれましたが、そこで結ばれた愛が夫婦間で結ばれた愛よりも強い愛として現れたとしたなら、これは弁証法的論理を肯定しなければならないのです。今日、進化論を肯定しなくてはならないという立場になるのです。

 子どもは男性の愛と女性の愛が合わさって生まれたものですが、合わさって生まれてきたそれが強い力を持っているので、それが主体でしょうか? 子どもが強い愛を持ったから、それで父母が引かれていくのか、そうでなければ父母が主体となる立場で子どもを引っ張っていくのでしょうか? このような問題を見るとき、その愛が男女間で結ばれる愛だけでできたものだというなら、そのような愛が出てくることはありえないのです。より強くより原則的なものが出てくることはできないというのです。(一九七一・九・一二、前本部教会)

 父母が涙を流し「私の愛が不足だからそうなのだ。すべてのことは私がお前をもっと愛せなかったせいだ」と言いながら、その子どもの骨髄が溶けるほど涙を流しながら、より大きな愛をもって子どもの前に出るとき、その子どもがどうなりますか? 振り返りますか、振り返りませんか? 振り返るのです。より大きな愛は、弱い愛を全部消化、統合させうる主動性がないですか、ありますか? (あります)。(一九七一・九・一二、前本部教会)

 子どもを愛する父母の心は美しいものです。自分のおなかがすくのを我慢して、子どものために懐にある食べ物を温めて子どもにあげるという、その父母の愛の前には天下が頭を下げるというのです、天下が。その息子・娘を間違いなく宇宙が協助します。天下が頭を下げるのです。子どもが出来がよくて出世すると考えますが、父母の愛が、ために生きる功徳がそこに埋まっているために、それを無視することができないために、その後孫たちは一時に出世するのです。父母が頭もよく顔立ちも良いからといって良いわけではありません。ために生きる愛の前には天下が頭を下げます。神様もそれには頭を下げるのです。(一九八六・一〇・二六、本部教会)

 父母が子どもを愛するのを打つ法はありません。打つことができないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子どもを抱いて喜ぶその場を、この宇宙の法は攻撃することができません。攻撃がありえないし、保護するようになっていると言うのです。これを知らなかったのです。これを知らずにいるというのです。(一九八四・一・八、アメリカ)


 九 父母の愛が貴い理由

 皆さん、父母の愛がなぜ貴いのでしょうか? 心から子どもを愛する父母は一生の間…。母親は九十歳を越え、その息子が七十歳を越えておばあさんとおじいさんになっても、おばあさんになった母親は息子に「外に出るときはバスに注意しなさい。道が混むから気をつけて行ってきなさい」と言います。七十年をそのようにして、なお、疲れを知りません。それはどれほど長い期間ですか? あの世、霊界にいって一緒に暮らしても、永遠に疲れを知らない愛だというのです。(一九八六・一・二八、シェラトン・ウォーカーヒル・ホテル)

 人間が個人として情緒的な問題を中心として要求するものは何でしょうか? この問いに結論として行きあたる答えは何でしょうか? 父母の愛を要求するのです。父母の愛が現実的に世界に展開できる形成体があるとするなら、それは国家を形成でき、世界を形成できる家庭ではないでしょうか? どんな国家や世界も家庭を基盤にせずには形成されません。家庭が問題です。

 それでは家庭は何を基盤にしなければならないでしょうか? 家庭の構成要素である個人の愛を最も必要としますが、それは父母の愛です。父母の愛には父親の愛と母親の愛があります。父母の愛はなぜ貴いのでしょうか? 自分の生命よりも、さらに高いものとなりうるからです。父母の愛は自分の生命も忘れてしまい、自分の幸せと願いさえも投げ出すことのできる愛です。

 父母の愛がなければいくら幸福だといっても、それは自分たちだけで喜ぶことにしかなりません。父母の愛を感じられない人たちは何によって喜ぶのでしょうか? きれいな服でも着て、おいしい食べ物を食べることしか考えられないのです。孤児の心情がそうなのです。内心奥深くに染み込む、情緒的な面においての喜びがありえないのです。(一九七一・四・一一、前本部教会)

 それゆえ、父母が子どもを愛する場合、体と心が別々に愛するのではありません。一つです、一つ。だから貴いというのです。しかし、子どもが父母を愛する愛は、体と心が一つになったものではありません。体と心が一つになっていません。違うというのです。夫婦だけで愛するのも、やはり自分を擁護し弁明する立場で愛するので、一つにならないのです。しかし、唯一父母が子どもを愛する場合は、生命を超えて愛するのです。これはすでに愛を中心として一つになったということです。それゆえ、この地上において人間世界がたとえ堕落した世界であっても、父母の愛が一つの情緒的な根になっているというのです。(一九七二・九・一、南山聖地)

 父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか? 見返りを願わずに克服を追及し、見返りを願わないで犠牲になるからです。そこにおいてはどんな結果も願わないのです。それで満足だというのです。それで十分に幸せだというのです。与えることが幸福だというのです。受けることで幸福なのではありません。だから与えるものが受けるものよりも恵みがあります。なぜ恵みがあるのでしょうか? 神側を代身できるからです。こうなるのです。(一九七一・七・一八、前本部教会)




 第五節 父母が子どもを愛する理由

 一 神様の創造的権限を引き継ぐために

 堕落していない本来のアダムとエバになったとすれば、その位置はどのような位置でしょうか? 結局、その位置は祝福される位置です。恵みを受ける位置、神様が恵みを祈ってくださる位置だというのです。

 その恵みの中で一番貴い恵みは何かと言うとき、それは神様の愛です。第一に、神様の愛の恵みを受けるのです。その次には、私たちは何の祝福を受けるでしょうか? 神様の創造の権限を私たちが引き継ぐのです。神様の愛を中心として神様がアダムとエバを創造したのと同様に、私たちは平面的な、横的な基準において、神様がアダムとエバをつくって喜び、アダムとエバをつくって希望を持ったのと同様に、私たち人間にも創造的権限が付与されるというのです。その喜びを付与されるのが子女なのです。

 皆さんは子女をなぜ愛するのでしょうか? なぜ愛しますか? なぜ愛さずにいられないのでしょうか? それは神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏において引き継ぐのと同じだからです。アダムとエバを創造して神様が喜ばれたその喜びを、私たちも感じるのです。神様の愛を引き継ぎ、神様の創造的権限を引き継ぐのです。(一九七五・一・二六、前本部教会)


 二 縦的愛圏内にあるので

 人は愛ゆえに来て、愛でもって生きて、愛の目的である父親の前に再び帰っていくのです。

 父親の種で来たので、愛の種で出発したので、枝を伸ばして世界のすべてのものと関係を結び、愛で種を取り入れなければならないのです。これがこの地上に生きている間にすべきことです。愛の種を取り入れるのです。その愛の種には妻を愛することができ、父母を愛することができ、子供を愛することができ、天を愛することのできるすべての要素がぎっしり詰まっているのです。そのような種のような存在として生きるのです。そのような種のような存在として結実を収めるためにあるのが、神様が地上の人間に付与した生活であることを知らなければなりません。そのような生活であればこそ、神様の前に刈り取られるというのです。

 父母はこの地上で、なぜ子女をより深く愛さなければならないのでしょうか? 父母がなぜ子どもを犠牲的に、より深く愛するのかと言えば、縦的愛圏内にあるからです。縦的につながっているからです。鳥や動物もみな自分の子のためには父母が生命を捧げるのが原則です。なぜそうしなければならないのでしょうか? これは縦的愛の因縁の系統を連結させるためです。横的立場である父母が犠牲になってでも縦は立てなければならないからです。そういう歴史的な作用が、今日、被造万物世界、動物世界にもあるという事実を知らなければならないのです。ですから人間はなおさらそうでしょう。

 夫婦は横です。この横が九〇度にならなければなりません。これが四五度になったとしても、縦は絶対このように九〇度に合わせてくれません。だれが合わせなければならないのかと言うと、夫婦自体が合わせなければなりません。この横的な愛が合わせなければならないというのです。

 だから神様を自分の夫以上に愛せという論理が成り立つのです。なぜ神様を自分の夫より、自分の妻より以上に愛せという論理が成り立ちますか? これを九〇角度にするためです。なぜ? 縦的だからです、縦的愛だからです。夫婦の愛は横的です。それが九〇度にならなければなりません。九〇度を作らなければならないので仕方がないのです。そうしながら自分の相対を愛すれば、これが自然に水平線になるのです。分かりますか?

 また、自分の息子・娘を自分の夫より、妻より以上に愛さなければなりません。そうしてこそ垂直線が連結されるのです。もし、息子をこのように愛し、夫や妻をより深く愛したらこうなるのです。それでは垂直線になるはずなのが、そうならないというのです。さあ、これがもし子どもよりも夫のほうをより深く愛し、妻をより深く愛したらこれが歪んでしまうので、このように行けないというのです。だから神様を愛するように自分の息子・娘を愛せというのです。(板書しながら語られる)そうすれば、この父母を中心として家庭、氏族、民族、国家、世界が連結されるというのです。神様を中心として。何の話か分かりますか? (はい)。(一九八四・一・八、アメリカ)


 三 より大きな目的基準に一致するために

 一つの因縁が成立するためには一人でいてはいけません。因縁という言葉自体は、相対的要件を備えるときに、成立する言葉です。相対的要件というのは必ず主体と対象があって、関係を結べる条件を前提にして言うのです。相対的関係が成立するためには、必ず主体と対象が共通して要求する内容がなければなりません。皆一緒に願うものがなければ相対的因縁を追求できないのです。願うときには、今自分が相対している基準以下のものは願いません。二つが合わさって、より大きなものを願っていくのです。

 相対的要件を考えるとき、ここには必ず主体と対象があるのです。そして、それは互いに授け受けるのです。授け受けるときには、ただ授け受けるのではありません。また、授け受けるにおいて、損をするために授け受ける人はいないのです。授け受けるにおいては、受けることより授けることがより価値があるのです。より以上に大きな、ある目的とするところがあるために授け受けるという事実を私たちは知っています。

 父母が子どもを愛するのは、その子どもを愛することによって父母の前に帰結する何かを願ってと言うよりも、より高次的で立体的な面で子どもを愛するためになのです。

 それでは、父母が子どもを愛する目的はどこにあるでしょうか? 自分に帰ってくることを願って愛するのではなく、より大きな目的の基準に一致できることを願って愛するのです。

 それゆえ、父母が子どもを愛する心と合わせていつも考えるのは、自分の子どもが自分にだけ必要な人になるのを願うのではなく、国と世界人類に必要な人、さらには、それよりもっと貴いお方がいればその方に必要な人になってほしいのです。父母はそういう心を持って子どもを愛するのです。その愛は自分に限った愛ではありません。愛しますが、その愛はより次元が高い目的の帰結点に到達することを願っての愛なのです。(一九七一・一〇・一〇、前本部教会)


 四 第二の自分であるがゆえに

 息子・娘とは何でしょうか? 母親と父親の愛の中に同参した同参者です。それゆえ、母親と父親と一体です、一体。愛を中心として。愛を抜き出せば、父母の生命、皆さんの生命がずうっと引っ張られていくというのです。どうして息子・娘のために父母が犠牲になり、息子・娘を愛さずにいられないのでしょうか? それは自分自身だからです、自分。自分の愛です、自分の愛。母親と父親が結合した愛の実体です。

 母親と父親が愛を中心として合わさった実体的証拠として現れた存在が自分の息子・娘だというのです。その子どもを見つめてみれば神様のようでもあり、自分の妻のようでもあり、自分のようでもあり、ただただ見るほどに神秘的なのです。神秘的なのです。愛はそういうものです。皆さんは父母に親不孝ができるかというのです。父母と別れることができますか? 別れることができますか? (できません)。(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)

 子どもたちはなぜ父母を恋しがりますか? そこに愛の家庭があるからです。父母たちはなぜ子どもを恋しがりますか? そこには愛の家庭があるからです。このように完全な愛の家庭があるからなのです。(一九八六・一・一、本部教会)


 五 存続するために

 あらゆる万物世界を見るとき、植物や動物を見るとき全部相対関係になっています。そのような立場から見ると、男性と女性は形態が違います。木を見てもそうです。木を見ても実を結ぶ木があり、実を結ばない木があります。花の中にもそういう花があります。また哺乳類とか鳥類とかいう動物界を見ても、全部が相対関係になっています。人も同じです。

 では、なぜそのように相対関係を持たなければならないのでしょうか? なぜ相対関係が必要かというのです。(真の愛を授け受けるためです)。真の愛を授け受けることがなぜ必要かというのです。なぜ相対が必要ですか? 一番簡単なことを知らずにいるというのです。授受作用、原理、調和など、あらゆることを口にしますが一番簡単なことを知らずにいるのです。一番簡単で一番重要なことを知らずにいます。シンプル・ポイント(簡単な要点)は何でしょうか? 存続するためです。生き残るためです。歴史性を連結するためです。

 さて、植物世界にそのような関係がなかったなら、すべてなくなっていたでしょうし、動物世界にもそのような関係がなかったなら、すべてなくなっていたはずです。人間世界も同様です。皆さんも存在しないでしょう。すべて存在しません。

 種を残さなければなりません。残すには良いものを残さなければなりません。それが理想です。良いものを残さなければなりません。では良いものを残そうと思えば、どうしなければならないでしょうか? 良い相対が必要です。良い種が必要だし、良い相対が必要だという答えが出てくるのです。グッド・フィアンセ(良い相対)。

 それで、男性に聞けば何と答えるでしょうか? 皆同じです。「私は良い相対が欲しい」こう答えます。なぜ? なぜですか? 良い種を残すためにです。どうして良い相対が必要でしょうか? 良い種子、より良い種子を残すためにです。結論はそうなるのです。そうではありませんか? 事実ではないかというのです。それは間違っていますか? 皆さんもそのように考えますか? やはり、今までは考えたことがなくて、先生の話を聞いてから考えたのですね?

 このように見るとき、「神様がアダムとエバをつくった目的は何か?」と言うと、「アダムとエバをつくって愛するためだ。夫婦をつくるためだ」こう答えるべきですか? 「良い種を残すためだ」こう答えるべきですか? どちらですか?

 なぜ愛し合うのでしょうか? 愛の結果は何ですか? (ハッピネス=幸福)。ハッピネスですか? 愛の結果は何ですか? チルドレン(子女)です。チルドレン。チルドレンが何ですか? チルドレンが何ですか? それは残さなければならないものです。存続するための結果的存在だというのです。

 それではフィアンセがなぜ必要ですか? 皆さんは愛ゆえだと言うでしょうが、それも合ってはいます。しかし、それよりもっと次元の高い目的は何でしょうか? それが何かと言うとチルドレンなのです。子女だというのです。愛の結果が子女だというのです。

 なぜ子女を愛さなければならないのでしょうか? 父母は子女を愛さずにはいられません。なぜ愛さなければならないのでしょうか? 父母がフィアンセを愛するところから得る結果が子女なので、その子女を愛さずにはいられないのです。こういう理論です。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)


 六 愛が介在しているので

 私たち人間が一番好きなものは何でしょうか? これは人類歴史について考える上で最も重要な問題です。最も貴いものは何であり、最も良いものは何でしょうか? ある人は自分を中心として一番良かったらと言います。こういう考え方をする人が大多数です。また、自分の家庭を中心として一番良かったら、さらに自分の国を中心として自分の国が一番良い国になったら、自分の住むこの世界が一番良い世界になったら、こういう考え方をしがちです。

 それでは、その中で一番良いものは何でしょうか? これはどこまでも自分が主体となる、自分を中心としたものではなく、相対的概念なのです。相対的関係から逃れられないのです。そのように見るとき、家庭において一番良いものは何でしょうか? ここで結論づけて言えば、父母が一番良いものではないでしょうか? お金もいいし、子どももいいし、権力もいいでしょうが、私自身において最も良いものは、最も貴いのは父母ではないでしょうか? もう一つ質問して、その次は何かと言えば愛する妻であり、愛する夫ではないでしょうか? もう一つ質問して、その次は何かと言えば愛する子女であるという結論を下すしかないのではないか、こう見るのです。

 それでは、なぜ父母が良いものであり、夫・妻が良いものであり、子女が良いものでしょうか? そこには愛が介在しているからです。父母の愛、それは子どもにとって絶対必要な愛です。夫婦間の真なる愛、それは夫と妻にとっては絶対に必要な愛です。兄弟愛や父母に対する子女の孝行の心が最も貴いものだと見るのです。(一九八一・四・二五、利川研修院)

 磁石で言えば、磁石成分のない鉄よりも磁石成分のある鉄が引き寄せる力がより強いのと同じく、その因縁の強度に従って千態万状に感じ方が違ってくるのです。それゆえ、同族同士で愛したいと思うのは、連綿たる歴史的因縁があるからだというのです。

 皆さん、父母はなぜ子どもを愛するのでしょうか? 息子はどこから生まれたかと言えば、父親と母親から生まれました。そして、その父親と母親の性稟を皆除けばその息子の性稟はないのです。そうではありませんか? あるいは娘がいればその娘は父母を通して生まれたのであって、父母がいないところで生まれたのではありません。父母の性稟を土台として生まれたので、それをすべて取り去ることになれば、その娘はいかなる性稟もいかなる因縁もない存在となるのです。(一九七一・一一・八、中央修練院)


 七 愛の証し人として生まれたので

 私はなぜ生まれたのでしょうか? なぜ生まれましたか? 私はなぜ人間として生まれましたか? なぜ男性として生まれ、なぜ女性として生まれましたか? ご飯を食べるために生まれたでしょう? ご飯、ご飯、ご飯? (いいえ)。それならどんなに哀れな話でしょうか? どんなに哀れな話でしょうか? 次に「私は学校の勉強をするために生まれまた」と言うとき、それはどんなに頭の痛いことでしょう? けれども「私は愛のために生まれた」と言えば、これは当然「ほう!」と感動するのです。

 それでは、皆さんはどのように生まれた人かというのです。愛に同参する立場で愛の同参者として生まれたのです。愛の動機によって生まれたのです。愛の動機から愛の結果として生まれたということを知らなければなりません。そうでしょう?

 そのように生まれて、さらにお母さんとお父さんの愛を受けます。お母さんとお父さんは私をなぜ愛するのでしょうか? 私をなぜ愛するのかというのです。考えてみましたか? なぜちっぽけな鳥の子やあらゆる動物たちも、なぜ自分の子を愛するのかというのです。それは愛の証し人として生まれたからです、愛の証し人として生まれたから。さらに、愛の根本から生まれたからです。根本と結果を無視することは天下を無視することになるので、人間がそうできないので、人間は愛を尊重視すべき運命にあるために息子・娘を愛さずにはいられないというのです。何の話か分かりますか? (はい)。

 それは愛のための愛です。だからお母さんとお父さんが皆愛しながら生きていくのです。お母さんとお父さんが愛に酔って生きるのは良いことです。良いことなのです。父母の愛によって生きる子どもたちは良い子どもです。良い子どもなのです。皆さん、このアメリカの子どもたちはどうですか? お母さんとお父さんは皆必要ない、無用だ、と言うのです。そうなればどうなるでしょうか? 自分たちが社会に出ていくことのできる愛の根拠地が家庭なのですが、その愛の根拠地を失ってしまうのです。(一九七九・三・二五、ベルベディア修練所)

 皆さんがなぜ息子・娘を重要視するのか分かりますか? 自分の精力を傾けて死の道を越えながらも、なぜそれほど愛したいと思うのか分かりますか? それだけ偉大な存在だからです。天と地を代身して現れた存在だからです。このように見るとき、果たして天が暮らしたいとお思いになる所、天が慕われる所はどこでしょうか? 天はまさしくこのような息子・娘とともに暮らすことのできる家庭を慕ってこられたというのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)


 八 神様ゆえに

 人倫は父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛せと教えます。皆さんはだれのために父母を愛さなければならないのか、考えたことがありますか? だれのために夫婦同士が愛し合わなければならず、だれのために子女を愛さなければならないのか、考えたことがありますか?

 愛することに責任を持ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限なる愛を語られました。最後に残るものは愛だと言われました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕い求める目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。だれのために愛しますか? 神様のためにです。神様のために愛さなければなりません。自分のために愛する者、死んでご覧なさい、どこへ行くか。(一九五九・一一・二二、前本部教会)























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