み旨にかなった子女指導
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 第三節 子女の指導方法

 一 子女指導のときの父母の心

 1 子どもが父母より優れることを願う

 父母の心情について見るとき、おばさんの顔が醜いとしても、そのおばさんが抱いている子どもを見て通りすがりのおじさんが、「おい! その子、お母さんより何千万倍も器量がいいね」と言ったなら、どれほどうれしいですか? うれしくて「えへへ」と笑います。(笑い)それでは、母親は子どもより何千万倍も器量がいいということですか、悪いということですか? 世の中で、どこの母親がこれを聞いて「何ですって? 私より何千万倍見栄えがいい? それなら私は何千万倍も器量が悪いということじゃないの?」と言うでしょうか? そう言って食ってかかる母親がいますか? いますか、いませんか? ただただうれしくて仕方がないのてす。これが母親の心です。そうでしょう? そのような心はだれに似たのでしょうか? 母親は結果的存在であって、動機的存在ではないというのです。

 息子が父親よりも劣ることを願う家庭があるとしたら、その家は滅びますか、栄えますか? 滅びるのです。父親は大統領なのに息子は親よりも劣るという場合、そのような形が何代も続いたならば、その家はだんだん落ちぶれていくのです。最後には、恥ずかしくて穴でもあれば入りたいような身の上になることでしょう。

 ですから、子どもが父親に「私がお父さんより劣っていて良いものでしょうか?」と言ったら、父親が「何だと、こいつ!」と言いますか、「よしよし、そうだとも」と言いますか? どうしますか? 後者を取るのてす。(一九七一・二・一七、城北教会)


 2 子どもが父母より善なることを願う

 いくら悪い父母だとしても、子どもたちに「私は殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になれ」と言う父母がいますか? 自分は悪人であっても子どもに教育するときは、絶対悪い人間になるなと言います。子どもに対して「お前は悪い人間になるな」と言うのは、父母である自分は悪いという話です。「お前はまともな人間になれ」と言うのは、自分はだめだったという話です。

 子どものためには、われを忘れて完全に投入することが善であり、そうでなければ残れないことを知っているというのです。それが教育の恒久不変の原則です。これを社会化させ、世界化させればいいのです。そうではないですか? 父母を悪いと言う人がどこにいますか? 少し前に、ある父母が自分の息子を孤児院に送っておいて世界遊覧に出かけたという報道を見たことがありますが、そういうことをするから子どもが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子どもを同伴しているのに、それでも子どもが悪くなる例を見たことがありますか?(一九七〇・一一・一五、前本部教会)

 父母が子どもに教訓を与えるときに、子どもに悪人になれと教えますか? 父母は心を備えられず与えるものがないとしても、自分が持っている善はそのままそっくり譲ってあげたいのです。自分が貴いと思うものはそのままそっくり与えたいし、そこに利子の利子、利息の利息を全部足して与えたいのです。それが父母の心です。そうですか、そうではありませんか?(一九六四・三・二三、大邱教会)


 3 子どものためには命懸け

 ある人が世の中で誇れるほどの金銀宝物を所有し、血と汗を流して多くの財産を集めましたが、父母が今にも死にそうだというとき、彼が父母を愛するという心を強調し、またそれを重要視する人であれば、父母が生きる道があったなら、そのためには自分が大切にしているすべての財産を投入することでしょう。自分が貴いと思う外的なすべてのものを捨てることができるのではないかというのです。また子どもを愛する父母も、子どもがそのような運命に直面したならば、子どもが生きるためには外的なものは問題にならず、自分の生命を投入してまでも生かしたいと思うことでしょう。(一九七〇・九・六、前本部教会)

 私が幼かったころ、カササギのような鳥の巣においてよく見かけました。もう殺されるとばかりに、こんなちっちゃな鳥がこの図体の大きな・・・。私たちのような人間は図体が大きいではないですか? その時、少年時代にも大きかったのです。登っていって巣を見ていると、飛んできて突っ突くのです。突っ突くときは命懸けでしょうか、遊び半分でしょうか。命懸けです。必死です、必死。一回だけではありません。払いのけると、手に当たって飛んでいきながらもまた来ます。ひゃ! 自分の生命を越えて、愛する子を保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。それを皆さんも見るでしょう?

 人も同じです。愛のために生命を投入することができなければなりません。そのような人が真なる人です。さっき、真と言ったでしょう? 本当に善なる人はどんな人でしょうか? 愛を根として、自分の生命を投げ出しながら愛する人を保護しようとする、そこに主体的善があるのであり、相対的善の論理を立てることができるのです。これは永遠不変です。それを認めますか? 善の真正なる愛・・・。(一九八九・一・二四、一和龍仁工場)

 私がダンベリーにいる時、おもしろいものを見ました。斜面をテニスコートにするためにブルドーザーで整える作業をしたのですが、長引いて冬も過ぎ、春になって、それから作業を中断したりもして、また雨期になれば乾期になるまで待つのです。約二〜四週間、雨期が過ぎた後に作業をするのですが、そこに水鳥が巣を作ったのです。そこに囚人たちが運動がてらに歩くコースがありますが、そこからほんの三メートル離れたところに水鳥が巣を作りました。その水鳥の色は、ちょっと見ただけでは見分けがつきません。通り過ぎる人には分からないのです。その保護色がなんともうまく出来ていて、卵を産んで孵化するまでは、人が通っても分からなかったのです。毎日のようにその道を歩いたにもかかわらず。うずくまっている様子を横から見ると、こげ茶色のような保護色なので分からなかったわけです。

 それから、卵が孵化しました。ひなが出てきて何かえさを与えなければならないので、鳴き声が「チッチッ」と聞こえるようになり、皆が知るところとなりました。囚人たちにすっかり知られてしまいました。意地の悪い連中は巣のあるところへ行って、やりたい放題いたずらをしたのです。

 ところで、その水鳥が自分のひなに対してどれほど保護力があるかと言えば、えさを捕ってくわえて来るとき、絶対に自分のひなの近くに飛んではきません。遠く別なところに下りて、ひながいるところまで這うようにして来るのです。ところが、それが毎日方向が違うというのです。なぜかと言うと、鷹がねらうときには、その飛んでくる方向を察知して、ひなをしっかり守ろうとするからです。だから方向を変えるわけです。そのようにして、ひなを育てていくのです。

 このひなたちが、だんだん大きくなるではないですか? ですから、人がそばに行っただけで、親鳥が目の前に出てきて大騒ぎするのです。ひなを見るなというわけです。(笑い)そのようなことをだれが教えてあげるのでしょうか。毎回そうなのです。このようにくるりと背を向けて去ろうとすれば静かにしていますが、さっと近づけばまた大騒ぎして。(笑い)だれかがそのように教えたのでしょうか? それは宇宙の力です。父子の関係・・・。神様の愛を軸にして、すべての万物が平面的な位置にあるために、位置は低いですが、その平行線上の基準は変わらないようになっているというのです。分かりますか、何の話か?(一九八五・一二・二〇、漢南洞公館)

 ミツバチがそうです。花を探してまわってミツをかぎつけたときには、足を使ってもぐり込み、羽が濡れようがおかまいなく、羽をばたつかせて尻をぐっと突き出して吸っているのです。私は養蜂の仕方をよく知っています。うちでは養蜂をたくさんやりました。ハチについて詳しいのです。ミツを味わっているハチをピンセットでぎゅっとつかんで引っ張ると、お尻がプツンと取れても離れないのです。おや! あのミツがどんなにうまくて、自分の命が絶えても頑張って放さずにいるのだろう!

 真の愛はそのような愛だというのです。自分の生命までも忘れてしまいながら、捨てることができないのです。計算、打算していくら利益になるからというものではないのです。生命までも捨てて、忘れて去って行くことができる道が真の愛の道です。父母はその道を行くというのです。子どもを愛する父母は子どもが死地に赴くことになれば、子どものために死の場に行こうとします。愛の前に自分の命を埋葬して行こうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。分かりますか?( ? )


 二 子女の指導方法

 1 威厳ある家庭での子女教育

 皆さんの家庭が、「あの家は相当な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子どもたちは何をするにも気をつけなければなりません。つまり、立派な家門で育った子どもたちは何につけても注意しなければならないというのです。一歩を踏み出すにも注意しなければならないし、一言言うにも注意しなければならないし、どんな行動をするにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことが好きな人はいますか? このごろは自由が度を越して自堕落的な自由になり、今は飽和状態にまで至ってとても深刻になっています。このごろの若者たちはそのような礼法が好きですか? ですから、ただそのまま放っておいたら、皆滅びるのです。行くところがないという話です。

 威厳がある家庭では、子どもを教育できる資料がたくさんあります。目上の人に対する場合、兄弟に対する場合、父母に対する場合はどうしろと、育っていく子どもたちを集めておいて教えるのです。(一九七一・二・一九、西大門教会)


 2 精誠を尽くす

 私たちは礎石を正しく置かなければなりません。基準点をうまくつかまなければなりません。礎石を正しく据えてこそ全体がしっかり立ちます。ここにこのコーナーストーン(礎石)をどう置くかによって、宇宙の勝利と歴史的勝利が左右されるという事実を考えれば、今日皆さんが、何でもない私たちが、このコーナーストーンを置くにおいて、主役を演じているということは恐るべき事実です。

 それゆえ、精誠を尽くしては経過を見て、また直し、経過を見てはまた礎石を据えなければなりません。私たちが未熟なので何百倍何千倍精誠を込めて、直し、また直すという歩みをしてはじめて、完熟した理想の結果を持つことができると考えるのです。

 百年後に、三百年後に、千年後に見るとき、このコーナーストーンが間違っていたとなれば大変なことになります。これさえ正しければ、他の礎石がずれてもこれを中心として、いくらでも収拾していけるというのです。(一九七五・一二・三一、ベルベティア修練所)

 人々はだれでも素晴らしい子どもを持ちたがります。それでは素晴らしい人として育てるためには、どう教育しなければならないのでしょうか? ある人々は幼稚園から大学まで学校が多いので、そこで教育すればいいと言うかもしれません。しかし、教育は一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。(一九六九・八・二四、前本部教会)

 新しいことを起こしてくれる人が必要です。だから、悪に染まらない人たちをつかんで身もだえする人を、神様はより愛されます。赤ん坊のときから精誠を尽くして育ててくれる親たちがいなければなりません。今は若い人々のために生きる忠臣が必要です。統一教会は今までこのような人々をつくるために、皆さんを引っ張ってきました。

 私たちは中以上を見つめながら進みますが、中以下を知って、彼らから歓迎を受けなければなりません。祝福家庭が苦労することも、このような意味で意義があるのてす。

 自分の子どもが哀れに思えたら、三千万の子どももまた哀れだということに気がつかなければなりません。そうなれば、その子どもは滅びません。(一九六四・六・二〇、東九陵)

 父母は自分の後孫のために精誠を尽くさなければならないのです。自分の後孫たちを皆祝福してあげ、豊かに暮らせるようにしてあげてから、逝こうとしなければなりません。そのような家庭は滅びません。(一九七〇・六・二八、前本部教会)

 私たち祝福家庭の人々、祝福家庭の息子・娘たち、その息子・娘の息子・娘たち、すなわち三代が、どうしたら先生とともに生きることができるかということが大きな問題です。分かりますか、何の話か? 三代が功臣になるとすれは、天下にない天上世界の功臣になるということを考えてみましたか? それゆえ、自分の息子・娘を抱いていで立ち、今からそのような思想を入れるために教育し、精誠を尽くさなければなりません。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 子どもに正しく教えなければなりません、正しく。皆さんに食べる物がなかったならば、涙を流して神様に祈祷しなければなりません。その祈祷によって、飢えた父母の前に神様が同情して米を持ってきてくれる、そのような事実を、神様が生きておられることを見せてあげろというのです。見せてあげろというのです。お母さんとお父さんを神様が愛しているので、通りすがりの人がお金を持ってきてくれる、そのような事実を教えてあげろというのです。(一九八六・一・二六、本部教会)


 3 苦労をさせよ

 韓国の格言の中に「愛する人にはむちを与え、憎い人にはご飯を与えろ」という言葉があります。知っていますか? それはまた一理ある言葉なのです。なぜ? 正しい伝統を引き継いでいくためには、父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛の前に涙を流せる人にならなければなりません。それが理解できますか、何の話か? (はい)。(一九七七・一〇・二三、ベルベティア修練所)

 皆さん、甘いものから苦いものが生まれたのでしょうか、苦いものから甘いものが生まれたのでしょうか? どちらが先ですか? (苦いものです)。(笑われる)そうです。世の中の道理がそうなのです。では、夜から光が生まれたのでしょうか、光から夜が生まれたのでしょうか? (夜から光が生まれました)。(笑われる)そうなのです。だから、苦いものを好きになれば、甘いものはいくらでも生まれてくるのです。苦いものをいくらでも持とうとする人は、甘いものをいくらでも創造できるというのです。では、愛とは良いもの、愛とは甘いもの愛とは苦いもの、どのようなものですか? (甘いものてす)。それは西洋の人たちが言う愛で、東洋の人は、愛とは苦いものだと言うのです。(笑い)そうなのです。それゆえ、アジアの人は本当に甘美な味を知ることができますが、甘い味だけを知っていてはこの苦い味は消化できないというのです。

 一生の間働きたいという人が多いでしょうか、一生の間働かないで遊んて暮らしたい人が多いでしょうか? どちらですか? 働かないで暮らせるのがいいですか、働いて暮らせるのがいいですか? (働いて暮らすほうです)。さて、皆さん、アリとキリギリスの寓話、童話を知っているでしょう? 皆さんはどちらを尊敬しますか? キリギリスのように、ただ踊りでも踊って露を浴び、朝の日の光を見ながら歌でも歌って暮らすのと、それはもう朝に夕に暑いときも休まず働くアリと・・・。アリはそのまま真っ黒に焼けてしまったのです。真っ黒に焼けて腰がくびれてしまって、このように暮らすアリを見るとき、皆さんはアリになりたいですか、キリギリスになりたいですか? アリはとても働いて黒く焼けました。分かりますか?(笑い) キリギリスは口だけ大きくなったのです、口だけ。

 それでは、皆さんは教育する際にキリギリスになれと言いますか、アリになれと言いますか? どちらになれと言いますか? (アリです)。それはなぜでしょうか? では、若い青春時代はキリギリス時代だから遊んで、年を取ってからアリのように暮らせばいいというのは正しい考えですか、若い時代にはアリになって、年を取ってからはキリギリスになるのがいいというのか正しいですか? どちらですか? (若いときにアリのように働くことです)。本当ですか? (はい)。年老いてから歌って遊ぶ体力がありますか? (笑われる)歌うことができず、こうして眺めて笑っているだけでも歌うのよりはましだということを知らなければなりません。(一九七八・八・一、イギリス)


 4 ときには強制的に

 私たち人間世界では、私たち自体が思うままに生きようとし、思うままに行おうとすれば必ずブレーキが掛かるのです。それはなぜでしょうか? そのまま放っておけば、滅びるからです。真の道であるほど、そこに比例してブレーキが百パーセント掛かるようになります。なぜなら人間が堕落したからです。

 神様は人間がしようとすることを百パーセント阻む役事をなさるのですが、そうしなくては堕落した人間を救えないからです。神様と本質的に相反する立場に立った堕落人間を救う方法は、人間自体が模索できないのです。それは神様が模索されるのです。

 それでは、神様はどう模索されるのでしょうか? 人間自体をそのままおいてされるのではありません。どこにもいけないように引っ張って城内に閉じ込めて教えなくてはなりません。

 悪い人が善なる人を拉致して悪い人をつくればそれは悪です。しかし、善なる人が悪い人を拉致して善なる人をつくるのならばそれは善ですか、悪ですか? 悪なる人を拉致して言うことを聞かなかったら、体を打ってでも、その人が「ああ! 私は善なる人だ」と言えるようになったら、その人は善なる人なのです。反対に拉致してその人を悪くし、その人を滅ぼせばそれは悪です。(一九七一・二・一九、西大門教会)

 皆さんの中にも、牛を育てながら飼い葉を食べさせたことのある人がいるでしょう。梅雨のときや天気の悪い日には、牛に飼い葉を食べさせるのは本当に嫌です。私も昔、牛の飼い葉を食べさせるために出かけて、牛にむちを打つこともしました。今笑っている人たちは、そういう経験があって通じるようですね。私だけがそんな体験をしたのではなかったわけです。私の両親が、牛を連れていって草を腹一杯食べさせ、何時までに帰ってこいと言ったのに、平地には草が一つもないのでどうしますか? そんなときは、「えい、知るもんか。裏山にお父さんが一番愛する草原があるから、そこに行って食べさせよう」とその急な山を引っ張って登るのです。ところが、この牛が登らないで、途中にある少しばかりの草を食べようとするのです。そのときは「この牛め!」とむち打って、棒で殴るのです。それでもかわいそうではないのです。そういう気持ちを感じたことがありますか? このように無理矢理に引っ張っていって、川を渡り山を登らせて、いざその場所に行って放してやれば、その牛がどうしますか? 食べるなと言ったところで、食べずにいますか? そのときには、舌はもちろん、唇、耳、目まで皆ありがたいと言いながら、その場を独り占めして食べているのです。

 先生はそうすることのできる所を知っているので、今まで皆さんを制裁しながら進んできたのですが、皆さんはそれを知らずにいるというのです。皆さんはそんな所があるということも知らないのです。皆さんがそれをはっきり知ったなら、かえって制裁してもらうことを願うことでしょう。何の話か分かりますか?

 また、昔六・二五動乱が起きた当時、避難する途中で私はこれと同じ場面をたくさん見ました。母親が数えで五歳くらいの子どもをおぶって出てきたのですが、まだ幼いために戦争が起こって避難しに行くことも知らずに、ただどこかに行くというので鼻唄を歌いながら喜んでついて来るのです。ところが、おぶって歩くうちに母親が疲れてしまい、子どもをおろして歩かせるのです。すると、子どもが「お母さん嫌だよ、おぶってくれなきゃ行かないよ。おぶって、おぶって」(笑い)というのです。

 このようなとき、子どもを愛する父母はどうしたらいいでしょうか? おぶってあげるべきです。それが情意です。しかし、おぶってあげれば二人とも死ぬのです。それではどうすべきですか? 歩いていかせなくてはならないのです。歩かないと言えば、脅してほほをなぐってでも行かせなければなりません。そして避難所まで行かなければならないのです。

 皆さんがその父母だったらどうしますか? 捨てて行きますか、殺しますか? あるいは強制的にでも引っ張ってつれて行きますか? どんな方法が一番良いでしょうか? 捨てる方法ですか? 殺す方法ですか? それが嫌ならどうしますか? 何としてでも連れていかなければなりません。耳をつかんで裂けても、鼻輪をつけてでも連れていかなければなりません。

 それが本当の愛です。そうして無事に着きさえすれば、自分の友達は皆死んだのに私だけが生き残った、「本当にお母さん、ありがとう」と言うのです。ところで、耳が裂けたために、せっかくの美人が台無しになってお嫁に行けないと不平を言う女がいたなら、雷に打たれて死ななければなりません。その裂けた耳を見れば見るほど「うちのお母さんの愛は偉大だったな、父母の愛は恐ろしいな」ということを感じながら、千年万年自分の父母を尊敬することのできる印にするのです。

 皆さん「先生は私たちがご飯さえ食べたら、すぐ苦労させようとする」と言うでしょう? そうです。私は皆さんに情けがありません。仕事をさせるときは情けがありません。しかし、ともに暮らすときは情けがあるというのです。

 働かせるときには、無慈悲に鼻に縄を付けてでも連れていかなければなりません。疲れて行けないと言えば足でけって、棒でなぐってでも追い立てなくてはならないのです。これが正当な方法です。

 なぜそうしなければならないでしょうか? 神様の最高の愛を受けることのできる圏内に入らせるためです。今までどんな宗教人も越えられなかったその基準を越え、どんな団体もできなかったほど精誠を尽くし、どんな国も備えられなかった形態を備え、神様が今まで愛したくても、どんな団体をも愛することができず、どんな国をも愛することができず、どんな世の中をも愛することができなかったその愛を、そっくり独り占めさせるためです。それゆえ、これは正当な教育方法であり、正当な作戦なのです。 (一九七〇・七・一九、前本部教会)


 5 愛のむち

 韓国のあらゆる風習もそうではないですか? 名家の子どもたちも、勉強しなければむちで打つのです。日課を、すべて厳命によって一日の過程を経ていかなければなりません。そして、できなければ、脱落するのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 優しい言葉を使ってでは教育になりません。おじいさんが孫を教育しようとむちを手元に置いて、タンタンたたきながら「こいつら、言うことを聞け!」と言うでしょう? それが教育する方法です。( ? )

 では皆さん、幼いとき両親にぶたれて、叱られたことは忘れられない・・・。おまけに先生からもですね、私が昔習字を習いに通っていた時、訓長というのかその先生が、訓長がたいてい論語のようなもの、孟子のようなものを何枚か読み上げて講義をし、生徒が次の日の朝に必ず先生の前で暗誦するのです。できなければ体罰を受けました、体罰。とにかく私は体罰を受けたことを思い出します。その時はどうか・・・。先生が振り上げているその手がピタッと張り付いたらいいのに、そんなことを考えるのです。(笑い)訓長がぶるぶる震えだしてむちを放り出したらいいのに、とあらゆる思いをめぐらすのです。(一九七八・一〇・二九、クムソン女子商業高等学校講堂)

 皆さんが息子・娘を呼ぶときも「おいっ!」と雷が落ちて天井が吹き飛ぶかのように呼ぶのと、ただ「おい」と呼ぶのと二種類あります。愛で「おいっ!」と呼ぶのと、怒りながら「おいっ!」と呼ぶのと、声は同じでも二つの世界に分かれます。一つは天国に、一つは地獄に。違いますか? むちもそうです。むち打つのにも二つの種類があります。愛のむちがあるというのです。そうですか? 愛のむち。

 夫婦が二人で暮らしながら、夫に対して女性たちがしきりにチクチクと突っ突くでしょう? 友達の間でチクチク突っ突けば毎日のようにけんかをするはずです。「こいつ! なぜチクチク突っ突くんだ?」と言いながら。けれども、妻がチクリと突っ突けばくすくす笑うでしょう。(笑い)自分を壊れるようにたたくのは、それだけ深く愛しているからです。違いますか? むちの中にも二種類のむちがあるというのです。(一九八七・一一・八、本部教会)

 愛のむちは即座に忘れてしまうのです。子どもたちを見なさい。私は子どもをたくさん育てていく中で、あるときには叱りつけることもあります。私なりに叱るときは大声を上げたりもしますが、それもほんの一日だけ過ぎればすっかり忘れてしまいます。それゆえ、子どもたちが貴いのです。成長してもそれを忘れずにいて、「そうだ、いつか私にこうしたでしょう」とは言いません。愛のむちは忘れてしまうのです。(一九八六・二・一六、本部教会)

 愛のむちは福がついてくるというのです。それが理解できますか? (はい)。愛のむちは何がついて来るって? 盗賊がついてきますか? (福がついてきます)。何ですか? (福です)。福が好きなんですね! (はい)。そうだというのです。父母が罪のない子どもをなぐったという場合には、父母の心臓、その大本の財産の根底がすべて溶けていくのです。ぶたれても喜ぶ立場に立てば、そのお母さんとお父さんはその子どもの前にこうべを垂れて痛哭しなければならないというのです。愛を中心としては、権勢のある王がありえず、権威を代表した父母がありえないのです。( ? )


 6 愛の涙で治めなければならない

 今までの韓国語は偽物の言葉です。心情が備わっていない言葉でした。もう、きょうからは心情が備わっている言葉を使わなければなりません。真の父母の思想、神様の思想を中心とした言葉を使わなければなりません。むやみにけなすことはできません。家で息子・娘に向かって「こいつ!」と言えません。悪口はありえないというのです。むやみに手出しはできません。息子・娘は第二の神様です。また、息子・娘たちは父母に反対できません。父母は第一の神様です。おじいさんとおばあさんは、またその上の神様です。(一九八五・一二・二九、本部教会)

 情緒的分野において自分より相手がかわいそうだという心を持って、行く道を直くしていくようにすれば、自然に一つになれる道が生じるのです。父母が子どもに対して腹を立て、手でなぐったならばどうですか? 父母はすぐ悔い改めなければならないというのです。なぐらないで、ただ子どもを哀れんで、お母さんが涙をポロポロ流しながら愛せば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか? そのようにすれば、母親は屈伏しないで、いつでも勝利者として息子・娘を屈伏させることができるのです。むしろなぐれば効果が少ないというのです。兄が弟たちを最後まで憎んでいたら、兄は逆に屈伏させられます。そうなりうるでしょう? (はい)。それゆえ、統一するには何がなくてはなりませんか? 情緒的分野がなければなりません。( ? )

 先生の家庭も同じです。母親が子どもたちに対して手を出すには、先生から許可を得なければなりません。「一度叱ってやらなくてはなりません」と言えば、私が「おやりなさい」と言ってから叱ります。叱らなければならないときは、そのようにして叱るというのです。万一、そのような何かがなく子どもに手出しをした場合は、放っておかないというのです。それではいけないのです。どれだけ愛で対したのかというのです。それが問題になるのです。これらの問題を知らなければなりません。分かりますか? もう皆さんが個人生活をどうするべきか分かったでしょう?(一九七一・五・六、中央修練院)


 7 み旨に一致した子女に育てよ

 神様のみ言を責任なく語れば、力が抜けるようになるのです。神様のみ言を受けたら、そのみ言を信じなければなりません。語った内容の対象が自分自身であるにもかかわらず、自分がある対象的な内容を成しておかずに感じることを言ってしまえば、そのみ言が出るときにそのまま出ていきません。必ず自分の持った善の量を引っ張っていくというのです。

 それゆえ、昔の名家では子どもを教育する際に、朝はできるだけむやみにしゃべるなと教えました。朝は、なるべく先に話さないで聞けと教えたのです。このような態度は信仰生活においても必要だというのです。(一九七一・一・二四、前本部教会)

 祝福を受けた食口は神様の主権、神様の民族、神様の領土に対し観念的にではなく実体的につくり上げ、いつも考えなくてはなりません。これに責任を負った立場で活動する時です。だから一歩を踏み出すときも、この目標を成すために踏み出さなければなりません。

 子女たちを教育するときにも、どうすればみ旨に対する使命を果たす人に育てることができるかを考え、乳飲み子にお乳を飲ませるときも、このように考えながら飲ませなければなりません。(一九六三・一・二五、前本部教会)

 メシヤが必要とする夫婦となり、メシヤが必要とする子どもを産みなさい。「国の伝統を持つ国の息子になれ。主権者の伝統に従え」。それを成すことのできる教育をする父母にならなければなりません。愛するときも「かわいい、かわいい」という一般的なものではだめです。「ああ、神様は数千年間復帰路程を通して愛を受けることのできる男女をどれほど待ち焦がれて来ただろうか?」と思わなければなりません。その心情を持った愛する子女がいて、国があってこそ、世界が生まれると考えなければなりません。

 ですから、眠るときも正しく眠りなさい。そう考えて教育するのです。だから死ぬ時に遺言する父母ではなく、生きているときに教える父母にならなければなりません。子どもたちがよく教えてくれたと感謝しながら、死んでいく父母にならなければなりません。遺言する時、あわただしく「あっ、これこれしてはだめだ」と言う父母になってはなりません。秘密をともに分かち合って、ともに成す実績を見つめながら、どうか頑張ってくれと言いつつ、喜びながら逝くのが私たち父母の仕事です。(一九七二・四・二三、東京教会)





















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