み旨にかなった子女指導
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 三 勉強はなぜしなければならないか

 1 勉強するのは簡単でない

 勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか? 皆初めは仕方なしに通うのです。まして小学校の生徒たちはお母さんとお父さんが恐くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通う子どもがいますか? 一番初めは皆そうだというのです。仕方なく通っていると、後になってその味を知り、学ぶために通うというのです。そうなれば、お母さんとお父さんがびっくりさせられるのです。その味を感じることにより、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知るときには、勉強することに楽しみを見いだすようになるのです。楽しみということそれ自体をおいてみるときは悪いのです。しかし相対的に勉強してみると、私が思いのままにできる範囲が広がるので、そこに味をしめて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人はー人もいません。眠ることが好きな人はいても、初めから勉強するのが好きな人はいないというのです。勉強することで自分の活動できる範囲が広がるので好きなのです。(一九七〇・一一・二二、前本部教会)

 学生たち、学校に行くのが好きですか? 学校で勉強するのが好きですか? 実際のところ勉強して何かおもしろいことがありますか? 考えてみなさい。朝早く学校に行って、五時間、六時間辛抱して座りながら先生の話を聞いて何になりますか、すぐさま運が開けるようでもないのに? 勉強すると言いますが、それはおなかがすいたときに食べるご飯のように味が出ますか? それはもどかしいというのです。このような立場で見た場合には、勉強することが皆嫌いになるのです。しかし、勉強しなければならないので仕方なくするのです。(一九七一・二・一九、西大門教会)

 学校に行く学生に対して父母は、一生懸命勉強しろと言います。それは楽な道ではありません。苦痛を伴う道です。しかし、それは未来のために準備せよという予告なのです。教授たちが壇上に立って、教え子たちに熱心に教えてあげるのも未来のための準備です。農夫が農地に出て一生懸命働くのも未来のための準備であり、この国に天国を建設するのための準備なのです。(一九八六・九・二一、本部教会)


 2 勉強する目的をどこに立ててあげるべきか

 統一教会の文先生だからといって、皆さんと何か違うところがあるわけではありません。体は少し太っているかもしれませんが違うところはありません。

 それでは何が違うでしょうか? 良心を中心として見る観点が違うというのです。行動してその結果の差が違うというのです。例を挙げて言えば、息子・娘を産んで育てるにおいて、自分たちが老いたので良い暮らしをするために勉強させる父母と、自分の町内を豊かにするために勉強させる父母がいるとするなら、どちらの父母がより善なる父母ですか? 「町内のために勉強させる父母です」それは皆知っているので教育が必要ないのです。

 さらに進んで、「町内のために勉強させる父母と国のため勉強させる父母のうち、どちらの父母が善なる父母ですか? 言い換えれば「お前が勉強するのはこの国、この民族の運命に責任を持ち、後代万民の復帰の土台を開拓するための一人の先覚者として立つためである」と言いながら、精誠を尽くして息子・娘の将来を追求する父母と、町内のために尽くす人になることを願って息子・娘の将来を追求する父母のうち、どちらの父母が素晴らしいですか? さあ、答えてご覧なさい。どちらの父母が素晴らしい父母ですか? そちらに座っている男性、一度答えてご覧なさい。(国のために勉強させる人です)。

 国のために勉強するのも素晴らしいです。しかし人間は一つの国の主人になるための資格で生まれたのではありません。それだけでなく、万民を主として生まれた世界的な人間だというのです。この地球星は人間のものなので人間はこの世界のために生きるべきです。

 それゆえ、子どもに勉強させるにおいても、「お前が勉強するのは大韓民国のためにもするのだが、これからの世界のためにするのだ。だから、民族を越え、氏族と人種を超越する博愛思想と兄弟の心情を持って、お前の体とお前の一生を大切に万民のために犠牲にし、万民の福祉のための開拓者になりなさい」と誓わせ勉強させなくてはなりません。そんな父母と、国のための忠臣の道理を教えながら勉強させる父母のうちどちらの父母がより素晴らしい父母ですか? おばさんたち、話してご覧なさい。そこの顔の丸いおばさん、答えてご覧なさい。どの父母がより素晴らしいですか? (世界のために勉強させる父母です)。みんな知っているのですね。そうだというのです。(一九七一・一・八、議政府教会)


 3 「勉強をよくしろ」という催促も必要

 父母が子どもに対して「寝たいときには寝なさい、遊びなさい。いつも食べて寝て遊び回っていなさい」というほうがずっといいのに、なぜ「勉強しろ、兄弟げんかをしてはだめだし、父母を愛して、どうしろこうしろ」そういう話ばかりを皆するのかというのです。けんかするなとだけ言いたいのではありません。(一九七七・一〇・二三、ベルベディア修練所)

 皆さんは、分かっていても、私が話してあげなければ力が出ないのです。しょっちゅう話さなくてはだめなのです。学校に行く子どもたちに対して、勉強ができても「勉強しろ」というのと同じで、しょっちゅう話さなければだめだというのです。(笑い)ただ放っておいてはだめです。 (一九八四・五・四、イースト・ガーデン)

 見なさい。皆さんのお母さんとお父さんが「幼稚園に行って先生の話をよく聞き、勉強をよくやらなければならない」「小学校に行っても勉強をよくしろ」とプッシュして、「中学校に行っても勉強をよくしろ」とプッシュ、「高等学校に行っても勉強しろ」とプッシュして、大学に行ってプッシュするのです。博士学位の勉強をするときもまたプッシュするのです。(一九七九・二・二五、アメリカ)

 大部分の子どもたちは皆遊び回ろうとして、近所の子どもたちに会えば「ああ、いいなあ」と思い、近所の犬を見てもいいなあと言って、飛び回って遊ぼうとする子どもに「おい、こいつ! だめだ、こいつ!」と叱って、「エンエン」とこのように涙をポロポロ流しながら勉強するようになれば出世するのです。だれのために勉強しますか? 自分のために勉強するのではありません。国のために、世界のために勉強するのです。何の話か分かりますか? これが正しいことですか、悪いですか? 悪いことですか? (正しいことです)。

 皆さんはお母さんとお父さんにぶたれるのは好きですか? (はい)。子どもが勉強しないとそのお母さんが「おい、この子は! 私がお前のお父さんと出会って苦労しながら、ただひたすらお前に勉強させるのは、お前たちに幸福になってほしいからなのに、どうしてしないのか、この子は! 私の気持ちが分からないのか、この子は!」と言ってなぐるのは堕落した歴史ゆえなのです。この歴史を立て直し世界を立て直さなければならないというのは、皆さんと私との約束であることを知らなければなりません。 (一九七八・三・一、アメリカ)


 四 父母が教えるべきこと

 1 勉強よりもっと重要なこと

 さて、ここで私から祝福を受けた人、手を挙げてみなさい。お、おお! それでは君たちは、どこに向かっているのですか? 今先生の言葉を聞く前には、自分の思い通りに暮らしたのです。このごろ祝福家庭の人たちは、自分の二世たちに「勉強しろ、勉強、勉強・・・」と言うのです。自分たちが信仰の道を行くにおいて、本質を失ってしまったばか者たち! これは何というか、気の抜けた者になって・・・。自分の息子・娘に勉強しろと言って息子・娘が孝道をして、忠臣になると思いますか? とんでもないというのです。「統一教会でお母さんとお父さんは苦労をしたけれど、私はそんな道は行かない!」こう言うのです。それを消化させられる愛の道理を教えてあげなければなりません。

 それゆえ、母親と父親が息子・娘を連れて回り、引き連れて回りながら、ご飯も食べずに町内を愛し、国のために祈り、涙を流し、このようなことは物心つかないときは悪いことだと思っていたのに、成長したときには「私たちのお母さんとお父さんが一番だ」と言うのです。お母さんとお父さんは自分の子どものために涙を流すのではないことが分かります。自分の子どもを捨ててでも、国を愛そう、神様のみ旨のために生き、人類を救おうとした事実が、成長すれば成長するほど分かるというのです。私はそれを知りました。

 孝進について見ると、孝進が物心つかないときには分からなかったけれど、物心がつけばつくほど父親の前に顔を上げられずこうべを深々と垂れるのです。このごろはそうです。私がアメリカを離れるのに、自分の妻の兄弟に当たる人に電話―私に直接電話できるのに―して「おい、お父様が何をするのか日々全部調べておいて、私に報告してくれ」とそう言うのです。

 それは父親に聞いてみればいいのに、母親もここに来ているのだから聞いてみればいいのにです。父親に尋ねることが・・・。そう思えば思うほど、顔を上げるのではなく、ただ私さえ見れば・・・。昔、幼いときの父親と今でも変わりない父親なのに・・・。このようなことを見ると、私は逆にすまないと思います。それで私が先に顔を向けることがあります。

 気ままに生きてはだめなのです。宇宙がその道に追い込むというのです。皆さんが子どもたちを心配したからといって、その子どもたちが良くなると思いますか? 違います。愛の糧を食べさせて育てなければなりません。愛でもって行くことのできる方向感覚を教えてあげなければなりません。物心がつけばつくほど、年がいけばいくほど、そこに黄金板を発見するとき、一点の金しかない山だと思ったのに、掘り進めば進むほどその山自体が金の固まりになりうるというのです。掘れば掘るほど・・・。それでも疲れるからと掘らないのですか?(一九八六・一・二六、本部教会)


 2 愛を中心に教育する

 人間の価値基準は何に置かなければならないでしょうか? 理想世界に置くのではありません。理想的な世界に置くのではありません。理想的な人に置かなければなりません。だから、世界を愛そうとすれば、人を愛さなければならないと、このようになるのです。

 それでは人を愛するのに、どのように愛すべきでしょうか? 方法を知っていますか? どう愛さなければなりませんか? ただ愛するのではないのです。その愛する方法は何でしょうか? 男性が女性を愛するように、女性が男性を愛するように愛せというのです。

 また、私が生まれる時はどのように生まれたでしょうか? 母親と父親を中心として生まれるとき、新郎・新婦として生まれるのではありません。息子・娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではありませんか? 愛の教育を受けなければならないのです。その父母は、息子・娘に何の教育をすべきでしょうか? 知識の教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。母親と父親が争う愛の教育ですか? 争う愛という言葉はないでしょう。互いが一つになる教育をしなければならないというのです。天が好む母親と父親であり、また母親が好む父親であり、父親が好む母親であり、二人が互いに好むと同時に私が好きな母親と父親であり、母親と父親が私を好み・・・。私が父親だけを好むのではありません。

 そのように見れば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても四位基台でしょう? 全部四位基台だというのです。このように見ても、あのように見ても、皆四位基台だというのです。それゆえ神様の愛を中心として、神様の前に愛の教育を受けなければならないというのです。それでは、その起源はどこでしょうか? 人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのでしょうか? 神様の愛の教育からです。それでは、愛の教育を受けるのは、いつまで受けるのでしょうか? 父親が知っているすべての価値基準を察することのできる時まで、言い換えれば、成熟する時までは、父母の愛を受けて育たなければならないのです。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか? これを見つけましたか? ありますか、ありませんか? 愛されたという話はなく、気分悪くも堕落したという話から始まったというのです。これは誤ったということです。

 それでは、愛の神様を中心として愛の教育を受けるべきであったアダムとエバの愛の教育基準があったでしょうか、なかったでしょうか? なかったとしたら、神様の理想というものがありえないというのです。その愛の教育基準は何かということが問題だというのです。皆さん、天国に行きたいでしょう? しかし、天国に行ってからは、そんな教育を受けられません。この地で教育を受けて生きたのちに行かなければならないのです。この地でその教育をしなければ大変なことになるのです、受けなければ大変だというのです。その教育は何でしょうか? どのようなものが教育ですか? 皆さん、分かりますか?

 それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢を持たなければならないでしょうか? 父母と子どもの間ですから、父母が行く所にいつでもついて行かなければなりません。父母が行くとなれば、どこまでも、いつでもついて行かなければなりません。父母が山に登れば山について行き、谷に降りていけば谷について行き、穴に入っていけば穴について行かなければなりません。いつでも父母とー緒にいなければならないのです。会えずにいたら会いたいでしょうか、会いたくないでしょうか? もし、神様が息子と離れなければならないとしたら、離れることができるでしょうか? 神様は絶対的な方であるので、絶対的に会いたがるというのです。絶対的な方であるので、かわいがるにも絶対的にかわいがるというのです。「神様、来るなら来てください、来ないなら来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで・・・」それでいいですか? 絶対的でなければならないのです。

 それゆえ、神様は子どもたちの生命の母体です。そうではありませんか? 父母は子どもの生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれ、育ててくれ、愛してくれるのです。それゆえ、幸福はどこから生じるのかというのです。保護圏が成立しなければ、生命がおびやかされるのです。

 神様自身は一つの体です。二性性相の主体としていまし給うので自体内で愛するといいますが、神様が考えるに「男性的主体の位置だ。女性的対象だ」と言って愛を感じられるように思うかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じられないというのです。それゆえ、アダムとエバが神様自身を抜きにして自分たちだけでより衝撃的に愛するのを見ても、愛の主体であられる神様は気を悪くされないというのです。なぜ? その二人が一つになるその場を相対にして、喜びを感じられる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるようになるとき、神様も幸福を感じるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。ですから、そのような愛の教育を受けずにはその場に出られないのです。

 そうなれば統一教会に、私たち統一教会に、エデンの園でアダムとエバが堕落しないで受けるべきだった愛の教育をさせうる心情的内容が宿っているなら、これは世界的宗教になるなと言ってもなることでしょう。そのようになるのです。統一教会に入ってくれば、そのような何かを感じなければなりません。感じるにはどう感じるべきでしょうか? 女性は最高の父親を見つけたという喜びを感じなければなりません。(神様をも)最高の価値の相対にできたらいいという願いの基準を感じなければならないのです。その次には、世界で一番のお兄さんを見つけた喜びを感じなければなりません。(一九七一・一一・二一、前本部教会)

 万物の願いは何でしょうか? 神様の愛を完成したアダムとエバの愛を受けると同時に完成したアダムとエバの息子・娘、神様の愛と父母の愛を合わせた愛を受けて生まれた息子・娘の愛を受けようというのが万物の願いです。

 それゆえ、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか? 神様の愛と真なる父母の愛を子女に相続してあげるのが最も偉大な、この世にない相続物であることを私たちは知らなければなりません。神様をよく紹介しなければなりません。神様の愛はどうであるかということをよく紹介してあげなければならないということを知らなくてはなりません。それが分からないので神様を代身して神様のように愛し、神様を自分の父母を通して捜し出すことのできる、そのような父母にならなければなりません。(一九七七・六・一七、アメリカ)

 皆さんは頭がふらついてはいけません。この頭が揺れてはいけないのです。共産党がささやき、あらゆる人が皆ささやくのです。皆さん、統一教会をそのように信じますか? 統一教会員はどのくらい信じますか? 先生くらい信じますか、先生くらい? (はい)。では先生は成功しましたか?

 さあ、人格、絶対人格! 絶対人格は愛を中心として、男女問題においても絶対深く入っていかないという基準です。皆さん、昔あらゆることをしたでしょう? 統一教会に入っても「ああ、昔はあのようにしていたのに、またあのように暮らせたらいいな」と考えませんか? (ノー)。何がノーですか? そうして祝福を受ければ大きな事故だというのですよ。それゆえ、統一教会は結婚してから、三年路程を行かなければなりません。三年間を経なければならないのです。夢にも考えるなというのです。分かりますか、何の話か?

 絶対愛、絶対愛をだれから行うのでしょうか? だれを愛するのですか? (神様)。その次は? (真のご父母様)。その次は? (真の子女)。知っていることは知っているのですね。それをはっきり知らなければなりません。はっきり知らなければならないのです。これが成立しなくては四位基台になりません。

 だれかが皆さんのお母さんとお父さんについて説明し、皆さんのお母さんとお父さんではないと言えますか?(言えません)。それは絶対的です。絶対的です。同じです。夫婦になればそう考えなければならないのです。それは絶対的です。私がお母さんとお父さんを否定できないように、自分の妻を否定できないということを知らなければならないのです。そのような夫婦なので、そのような夫婦の子どもを否定することはできません。子どもを否定できないのです。伝統を立てるべきではないですか、伝統を?(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)


 3 先生が教える教訓

 父母が子どもたちに孝子になれと言い、勉強しろと言い、未来の伝統を引き継げるようにしなければならないのであって、すべてのことをただ放っておいては父母が責任を果たせないことになるので、嫌だと言ったら殴ってでもそれを引き継げるようにしなければならないのです。

 さあ、それではレバレンド・ムーンが教える教訓は何でしょうか? 自分を愛する以上に国を愛し、世界を愛し、天を愛せというのです。(一九七七・一〇・二三、ベルベディア修練所)

 愛は左手でこのように打てばどこに行きますか? 右側に行きます。また右手でこのように打てばどこに行きますか? 左側に行きます。それゆえ、善なる人の左側を打って右側に行くようにするというのです。

 悪なる人もやはり善なる人と同じです。ところで悪なる人たちはだれが打つのでしょうか? 神様が打つのです。「世の中がやるようにしてはだめだ。お前、そうするつもりか」と異邦の国をしてまでも打つのです。「正しい方に行け」と言うのです。この世の中の善と天の国の善とは違うというのです。

 それゆえ、私たちはこの稜線を越えなければなりませんが、そのためには荷物を背負っていてはだめです。食べ物をおなか一杯食べてもだめです。おなかが減ってぺこぺこになって、死が間際に迫っているときに、三十八度線のような分水嶺を越えなければならないというのです。

 それはどうしてでしょうか? サタン世界を完全に清算するためにです。それゆえ、サタン世界の何か一つでも持って越えるのでなく、完全に清算して越えろというのです。これが神様が統一世界を成すために最高に愛する子どもに教える教訓です。そのような思想を受けた家庭はそのような立場に立たなければならず、その思想を受けた民族もその立場に立たなければならず、その思想を受けた国家もその立場に立たなければなりません。(一九六七・六・一一、前本部教会)


 4 子女に教えるときに言うこと

 自分の子どもに教えるとき、「お前、立派な人になれ」と教えるのではなく、「立派な人になるためには、これこれこういう道を経なければならない」と教えなければならないのです。父親なら父親としての責任を果たし、兄なら兄としての責任を果たし、姉なら姉としての責任を果たし、言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことのできる、真の兄、真の兄弟、真の夫婦、真の親族の因縁を見極めていくことができなければなりません。そして、そのような法度に外れない皆さんになってこそ、道理にかなった路程を経て一つの国の民となりうる道が生まれるのです。分かりますか?(一九七三・八・五、前本部教会)

 霊的な基準において、真の人類が追求すべき最後の福とは何でしようか? 最後の福とはほかでもありません。父母を早く亡くした孤児のような立場にある息子・娘の願いは何でしょうか? お金ではありません。法でもありません。そのような人の願いは、ただ死んだお父さんとお母さんがまた生き返ることだけです。それと同じように、人類の前に贈り物を与えようとすれば、本当の意味において、最高の贈り物を与えようというのです。また、彼らに紹介してあげる場合には、真なるものを紹介してあげようというのであり、見せてあげる場合には正当なものを見せてあげようというのであり、間違いのないものを教えてあげようというのです。

 教えてあげる場合には、何を教えてあげようというのでしょうか? お金もうけを教えてあげようというのではありません。勉強ができて、出世することを教えてあげようというのでもありません。今日のこの時代において、人類万民が願う真の父母と、その真の父母と因縁で結ばれた真の子どもの道理を完全に教えてあげようというのです。それ以上に価値があることはありません。(一九六九・一〇・一八、大邱教会)

 子どもをこのような立場で教育しなければなりません。「私が死んでも、お前は私のこの走るリレーバトンをもって走らなければならない。私が貧しくて苦労したのは、すべて世界を生かすためだ。そうしてはじめて、そのような世界が来るのだ。それは神様の願いであり、真の父母の願いであり、お前のお父さんの願いであり、お前のお母さんの願いであり、お前の願いであることに間違いないので、万世に永遠不変、天下の人々が皆讃揚することのできる願いであることに間違いないので、この道を行かなければならない」という、そのような教育ができる真なる母親と父親にならなければなりません。死んでいきながらでも、このことを残して逝かなければならないという事実を知らなければなりません。分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。しますか、しませんか? (します)。( ? )

 家庭の父母は神様を代身した家庭の父母とならなければなりません。その父母が子女たちに教育して言うのに、「おい、わが子たち! お前たちが私を愛する以上にお前たちの兄弟を愛さなければならないし、お前たちの隣近所と国と世界を愛しなさい!」と言わなければなりません。このように教育する人であればこそ、父母のうちでも真なる父母の資格を持つことができるというのです。それはなぜでしょうか? そうすれば、自分の息子・娘が、自分の家がより大きな善なる立場、善の中心として発展していくからです。これに参席する皆さんの父母はそのような父母ですか? (はい)。それを知らなければなりません。(一九七七・一一・一一、ベルベディア修練所)

 父母が息子・娘を呼んでおいて「お前はこんな人になり、またこれこれこういう仕事をしろ」と教えたとしても、「お前は神様を知る人になれ」と教えることには及びません。神様を知る人になれというのは最高の教えです。死ぬ前に「神様!」と言うのは数多くの人々が残すべき遺言です。悲しみが連続する中ででも最後の言葉は「神様を知っている」ということでなければなりません。(一九六二・三・五、前本部教会)

 宗教というのは宗(韓国語の宗には峰の意がある)たる教えですが、家庭の宗たる教えだというのはどういうことでしょうか? 父母は子どもに対して「この子はまったく! お前はやりたいように育ったが、一つだけは忘れてはいけない。父母を愛する以上に神様を愛さなければならないし、父母を愛する以上に国を愛さなければならないのだ」と教えてあげなければなりません。また、子どもはそのような父母が本当の父母だということを受け入れなければなりません。(一九八三・五・一五、本部教会)

 人間たちは人倫を立てて、自分の一家を中心として父母の前に孝行し、夫婦が互いに尽くし合って子女を愛せと教えています。しかし天倫はそれより範囲が広いのです。人倫は自分を中心として教えますが、天倫は天を中心として教えます。愛することは愛しますが、神様のように愛せと言います。「私(天)が慕わしさの主人公であり、私が慕うこの地でありこの世界なので、このすべてを抱いても余りある心情を持って愛しなさい」と言います。それが天倫です。天倫の帰着点はそこです。人類の帰着点は一介の家庭ですが、天倫の帰着点は終わりの日に現れる宇宙的な家庭です。(一九五九・一一・二二、前本部教会)

 正しい父母になり、正しい父母として正しい子女教育をしなければなりません。過去のいかなる人よりも、現在において悲しい苦痛を与えながらでも「お前は未来のために、世界のために生きろ」という思想の下にする教育は正しい教育です。そうするのが社会のためになり、国のためになり、世界のためになるのです。(一九七八・三・一、アメリカ)


 5 貴いものは教育を超越

 皆さん、父母の愛を受けてきた息子・娘がいたとして、彼らが愛を受けられなかった息子・娘に百日説明してみたところで、それを理解できますか? 千年説明しても・・・。「父母の愛はこうだ。父母が子どもを愛するその愛はこうだ。夫婦が愛するその愛はこうだ」と言う説明でもって通じますか? 何億年説明したところで、それを理解できますか? 知りうる道がありそうですか? ないのです。それは体験してはじめて分かるものであり、子どもを持ってはじめて「ああ、子息の愛はこうなのか」と分かるのであって、それは子どものない人にいくら説明してあげても分かりません。分からないというのです。そのような経験を通さなければ分からないようになっているのです。学んで分かるものではありません。学んで分かりますか? 知識や何かで学んで分かるようなものが愛でしょうか? 違います。これはそうですか、そうではないですか? これは学ぶこと、教育を超越しています。こうなるのです。(一九七二・八・六、前本部教会)

 お母さんとお父さんが子どもたちを愛するのは学校で学んで分かるものですか? そんなことを教える学校を見たことがありますか? また、それを学んでみた人がいますか? それは学ばなくても分かるのです。男性と女性が出会って子どもを産む方法は学びませんでした。家庭においても、他人同士が出会って夫婦の因縁を結び、一つの家庭を成せるのも、だれかに学んでするのではありません。愛はだれかが教えてくれて分かるものでもなく、こんなものだと言って持ってきて食べさせてあげて味が分かるものでもありません。実験をしてみて分かるものでもありません。

 昔もこんなことを教えてくれる所はなかったし、今から数千万代の後孫においてもこれを教えてくれる学校は現れえません。(一九六九・五・一八、水原教会)

 人がおなかの中にいる時から学んで出てきますか? おなかの中で学んでおいて、生まれてからスプーンを使いますか? 箸を使いますか? 生まれてから始めるのです。そうなのです。スプーンを使うことはできなかったでしょう?(一九八八・一・二一、前本部教会)

 水も同じです。だれかにもらって水を飲むとき、こうやって飲むものだと学びましたか? 学びましたか、学びませんでしたか? それも学びませんでした。一番貴いことについては学ばなかったというのです。(一九六九・五・一一、前本部教会)

 アダムとエバが横的な真の愛の父母の立場に立てば、縦的な基準は自然に現れるのです。縦的な基準が完全に設定されれば、父母の愛する子女たちが存在できるようになっています。皆さんは息子・娘を産んで愛することをだれかに学びましたか? 学んだことがありますか、ありませんか? (ありません)。ないのに愛することを知っていますか、知りませんか? 自分の生命を超えて愛するのです。それはなぜでしょうか? これは天理原則です。根です、根。

 皆さんが本然の人間の境地に入るようになればそうです。神様は私の心の中心です。心というのは天の縦的な父母を引き継ぎ生まれたのですが、縦的な父母を通して生まれた心は横的父母を通して生まれた体と一つにならなければなりません。どこでですか? これが九〇度の角度で一つになるとき、この場にさっと入って行けば全部見えます。神様がだれなのか、地獄がどこにあるのか、天地天下が全部見えるのです。教育が必要ないというのです。

 動物世界、この小さな昆虫世界も愛するでしょう? 雄・雌のないものはないのです。鉱物世界も同じです。それはだれかが教えてくれるのではありません。自然に分かるようになっています。(一九八九・二・五、本部教会)

 皆さん、どの大学を出て、どの大学院を出て・・・。勉強をするのが本当に大変でしょう? もし、神様と内外一つになった立場にいたなら、学ばなくても皆博物君子(物知り)になるというのです。研究して知るのよりもです。天地がどうなっているのか、霊界がどうなっているのか、人生がどうなっているのか? 学ぶだなんて何を学びますか? 生まれるすべての昆虫の子も、生まれれば食べるものを探すのに、生きようとして探していくのに、万物の霊長が何を学んでから食べるものを探しますか? 学んで死ぬこと生きることが皆分かりますか? いざその時になれば、ちゃんと分かるようになっているというのです。そのように素晴らしい人にならなければならなかったにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落ゆえです。

 堕落をしたとはいえ、この二つの間、主体と対象関係において、本性は作用しているというのです。作用するこの間には、今まで積もってきた汚いものがかぶさっているので、これを取ってしまえば次第に作用が強くなるはずです。完全に取り除いたという日には、ぱっと爆発するのです。それができる道を今まで人間たちは追求してきたというのです。分かりますか? これを知らなければなりません。(一九七二・五・一四、水澤里)


 6 教える際に心がける点

 統一教会の皆さんは鬼神たちですか、霊神ですか? 生霊体ですか、生神体ですか? 生霊体になると言ったでしょう? 霊神たちです。霊神の霊(れい)は零(れい)の字ではありません。神霊の霊の字です、霊神。大宇宙をつくられた神様がどこにおられるかというとき、他のところにいるのではありません。縦的な真の愛の因縁を受けて生まれた後孫、真の愛の父母、縦的な真の愛の父母の因縁で出発して引き継がれた血統に生まれた男性と女性の中にいるだろうというのです。

 神様はどこにいますか? 愛の中にいます、愛の中に。真の愛の中にいます。私の心と体が真の愛に立てば神様がそこにおられるのです。神様の家はどこでしょうか? 真の愛が神様の家です。そして本然の堕落していない、人間の堕落がなかったその基準に行くようになれば、人類の父母は何かと言えば、この縦的な父母(神様)です。真の愛を中心とした縦的な父母の前に真の愛を中心とした横的父母はだれですか? (真の父母です)。これがメシヤ思想です。メシヤとは一体何ですか? これを知らなければなりません。(一九八九・二・二六、本部教会)

 だから、私がしっかりと教えてあげなければなりません。教えてあげなければ、あの霊界にまで行って「ひどいな、真の父母という言葉を持っているお母さんとお父さんが、なぜ教えてくれなかったんだろう?」と言うのです。お母様が教えてあげないなら、せめて私だけでも教えてあげなければ讒訴条件を免れないではないですか?( ? )

 それでは、生きるのに何を中心として生きるのでしょうか? 父母が自分の息子・娘を中心として「お前と私が離れてはいけない」と教育するとしたら、その家庭は滅びるのです。しかし、その社会、国とともに離れられないように教育する家庭は栄えるのです。こうなるのです。「私が屠殺業をしているから、子どものお前も屠殺業をしなければならない」「私が商人だから、お前も商人になれ」とこんな教育をすれば滅びるのです。

 父母ならだれでも、子どもに「お前は国のために国の偉大な人物にならなければならない」こう教えるでしょう。しかし、今は世界が私たちの目前に近づく時代です。「お前は国の人物になれ」と教える時代はすでに過ぎ去りました。今は「お前は世界的な人物にならなければならない」とこのように教育しなければなりません。そう教育しますか、しませんか? そうするようになっています。世界とともに生きなさい! 私は皆さんの心理がどうなのかを知っているので、このように結論づけて話すのです。(一九七〇・一・一一、前本部教会)

 父母が愛する子どもを育てるのに多くの困難があります。けれども、その困難を耐えて明日の希望だけを心に確かめながら子どもを育てるのです。その父母が国を愛するがゆえに、その子どもを国よりもっと貴く思うなら、それは罪ではありません。未来の国を守らせようという願いを持って、国以上にその子どもを愛するときは罪ではありません。言い換えれば、自分が国に対して忠臣になれなかったので、自分の子どもを代わりに未来の忠臣として育てるために、現在の国よりもその息子をもっと愛するのは罪ではないというのです。

 しかし、未来の忠臣をつくろうとするのでなく、自分に孝行することを願ってその息子を国よりもっと愛するようになれば、それは罪になるのです。すべての公式がこうなっています。(一九七〇・八・二三、中央修練院)

 皆さん、そして家庭のお母さんはなおさら、心情的な母親にならなければなりません。心情的情意の母親にならなければなりません。子どもに接する際に、自分が言葉を間違ったら悔い改めるべきだというのです。自分が夫に一度文句を言われると、悔しがって子どもに冷たくあたる人がいるでしょう? そんな妻は・・・。

 天が好む、愛することのできる、天と地が愛することのできる子どもを送ってくれたなら、それ以上の愛で抱いてあげ、福を願ってあげ、母親も天の心情的因縁を深めてあげることのできる基盤にならなければならないのであって、そうできなければ・・・。母親の立場がどれほど重要なのかをよく知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(一九八七・五・二〇、本部教会)

 皆さんが家庭で子女を育てるのに、その子女たちが私の家庭を中心として私を愛してくれる息子・娘になるだろうと考えないでください。統一教会の食口なら、子どもにお乳を飲ませるときにも、その子どもが天と地のために生きることを願うようでなければなりません。その息子・娘の因縁を突き詰めてみれば、堕落前のアダムとエバを創造しようとされていた神様の心情まで連結されます。だから、皆さんが産んだ息子・娘は歴史的な再創造を代身する存在です。しかし、息子・娘たちを抱いて、ただ私の息子だ、娘だと言っています。

 だから、統一教会の食口たちは、子どもを育てる際にもその子どもを高めてあげることができなければなりません。父母だからといって、こいつはああだこうだと言えないようになっているのです。そうできないようになっているのです。皆さんに希望があるというのですが、その希望は彼らを通して継承されるのです。子どもを通してだとか、夫婦を通してだとか、父母を通してだとか、ある道を通して連結されるというのです。人間に残っている希望が天が立ててくれる希望だとするならば、それは天倫の道を通してのみ連絡されるというのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)

 子どもを産んだら、子どもに涙を見せてはなりません。けんかする声を聞かせてはなりません。それは恐ろしいことです。(子どもを育てることは)自分の父母を心配することよりも、天よりも、その国よりも、だれよりも心配なのです。そのきれいな道を汚すなというのです。子どもを持つのはいいですが、彼らを正しく育てられなければその父母は落第です。深刻なことなのです。丁重に扱わなければなりません。子どもは第二の神様です。そうでしょう? 皆さんは子どもを抱いて、立派に国の代表として、世界の代身として、天を通して世界に希望を与えられるように育て、立派な父母として、心情を中心として万民を神様の立場で懐に抱くかのように育てろというのです。父母に孝行する息子として、神様を慰める子どもをつくって差し上げます。宇宙に差し上げます、天宙に所属させます、このような偉大な偉業のために、今から二人が背負っていかなければなりません。でこぼこと横についたこぶのように取り扱ってはなりません。(一九八八・一〇・三一、一和龍仁工場)

























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