み旨にかなった子女指導
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 第二節 父母の責任

 一 まず手本を示す

 皆さんは、いつ先生の家庭にアベル的家庭として侍り、一つになると同時に、皆さんの息子・娘が先生の子女と一つになることができるでしょうか? これが問題とならざるをえないのです。

 そのためには天の教育をしなければなりません。教えてあげるには、皆さんがまず手本にならなければなりません。まず孝子にならなければならないというのです。皆さん自身がまず天の法度に従って孝子となり、孝女となってはじめて、そこから天の伝統的な孝の因縁が成立するのです。

 皆さんはそうした立場で、天の国のためにみ旨の前に忠臣となることのできる道理を、皆さんの息子・娘に教えてあげなければなりません。大韓民国なら大韓民国のために息子・娘が泣くときには、「お前たちは国のない民だ。お前たちが住んでいるこの大韓民国は、お前たちの本当の国ではない。改めて侍るべきもう一つの国がある」ということを、手を握って涙ぐみながら教えてあげることのできる父母とならなければなりません。懐に抱いた赤ん坊の呼吸を感じるように、天の気遣いを一緒に感じながら涙を流すことのできる立場で教育しなければならないというのです。それでこそ恨を残した父母として、教育の幅が広がるのです。

 お父さんが家庭で孝を行うように、お前も孝を行わなければならないし、お父さんがその国のために追われながらも闘争の歴史を編んできたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。私はこれを皆さんの前にどのように残してあげるかということを、今まで終生の目標としてきました。(一九七〇・三・一七、統一産業寄宿舎講堂)

 父母が子どもに孝行しろと教えてあげて孝子をつくるのではありません。自ら孝行しようという心がわき出るようにしなければなりません。それゆえ、このようなことは一朝一夕になるものではありません。長い期間をかけて影響を及ぼさなければならないのです。 ここで影響を及ぼすということは何でしょうか? 父親がする通りに、子どもが従ってくることができるよう、生活で子どもに手本を見せてあげなければならないというのです。このようなことを実践する、み旨に対する専門家にならなければなりません。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)

 皆さんは皆さんの息子・娘の前に何を語るのですか? 皆さんは今にあって、過去を回想して公的な面で息子・娘に、夫たる人は妻に、妻たる人は夫に、自分のこのような伝統を受け継ぎうるよう、教えてあげ、見せてあげなければならないのです。そして、自ら進んで子どもたちがお母さんとお父さんの前に・・・。学校に行って教育を受けるのではありません。その伝統を受け継ぐためには、学校に行って教育を受けたものをお母さんとお父さんの前にすべて持ってきて誇り、皆持ってきて捧げなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。そうすれば愛の花が咲くのです。愛の家庭が成るというのです。(一九八一・二・二二、ベルベディア修練所)

 父母たちがみ旨の生活において模範とならなければなりません。家庭での祈祷生活や家庭礼拝や、どんな面でも既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せるべきなのです。また、敬礼の時間がどれほど重要なのかということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで済ませるのではなく、み旨を中心に父母として子女たちを教育しなければなりません。

 子女を教育するためには父母がまず実践しなければなりません。父母が手本となってみ旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そのようにして父母がどんなことを言っても、子女たちを一言半句も口答えしないで父母を畏敬することのできる立場に立てなければなりません。そうしなくては子女たちが従っていかないというのです。

 子女たちが、自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするにおいて父母たちが本部で指示する原則をなおざりにし、その指示に従って生活をしないくせに、子女にだけ原理原則通り生活しろと言えば鼻で笑うというのです。このような問題について見るとき、実質的な生活の再検討という問題を考えざるをえないのです。(一九七〇・六・四、前本部教会)

 私たちはこのような愛を原則として愛し、和合しながら、先に与えて犠牲になることができなければなりません。愛の主体はアベルであるので、主体が対象に先に与えなければなりません。それが愛の手本です。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)

 手本となる生活の基本は何でしょうか? 神様を尋ねていくのに必要な人、私たちの歴史を明らかにするために必要な人、この時代を開拓するために必要な人、未来の基盤を築くために参与する人となることです。そのような現実的基準で、自分が荷を背負って突き進まなければなりません。そうして十年なら十年の間に成し遂げておいたその業績を、歴史時代において自分の所有として残しておくことのできる財産にすることも必要なのです。皆さん、それをはっきり知らなければなりません。(一九六八・一一・二四、前本部教会)

 皆さんは、赤ん坊の面倒を見る中で赤ん坊にみ旨のために活動した伝統が教育できるよう、赤ん坊を産む前に良いチャンスをつくらなければなりません。そのためには皆さん、お母さんとお父さんが手本にならなけれぱならないでしょう。皆さんが赤ん坊の手を握って涙を流しながら過ぎた日々を回想するとき、皆さんの赤ん坊もその言葉を聞き分けて納得するのです。そのような思想を植えつけてあげなければなりません。(一九八三・三・一四、ベルベディア修練所)


 二 母親の役割

 生まれた赤ん坊は何が好きですか? もちろん食べることも好きです。赤ん坊が生まれたら母親のお乳を飲みたがります。しかし、母親のお乳を飲むことだけが好きなのではありません。母親のお乳を飲むことも好きですが、母親を見て喜ぶのです。結局は母親を見て喜ぶためにお乳を飲むというのです。だから母親も赤ん坊が自分を見て喜ぶので、お乳をあげても惜しくないというのです。因縁がそうなっています。

 母親としては、無限に与えたから会いたいのです。自己の命と精誠を注いだので、注いだだけ私に従ってくるはずだという絶対的関係でその赤ん坊に対するのです。赤ん坊を中心として見れば物質的な条件で関係が結ばれたかのようですが、母親を中心として見るときには、その反対だというのです。それではどちらが主体ですか? 母親が主体です。物質も与えることのできる位置にいる母親なので母親が主体だというのです。全部そうなっています。それゆえ人間は、二つの作用の欲望の中で、より高い境地にある欲望を中心として人生の道を行かなければなりません。(一九六九・一一・二三、前本部教会)

 立派な母親たちは子どもを懐に抱いて、世界を動かせる善なる存在になるためには、どんなに難しい立場でも耐えることができなくてはならないとその子どもに教えます。それは母親たちが、善は滅びないという天理に通じたからです。(一九六四・三・二四、大田教会)

 母親がじっとしていても、子どもたちは皆来て母親の懐に無邪気に飛び込むのです。それは愛においてのみ可能なことです。父母がいくら困難で悲痛だとしても、愛する子どもが愛の懐に抱かれれば抱かれるほど力が生じるというのです。もっと困難で悲痛になるはずなのに、反対に力が生じるのです。それゆえ、そこでは喜びが生まれるのです。疲れてへとへとの状態にありますが、愛にぶつかることによって力が出るというのです。力が来てぶつかれば、一つの所を全部破壊するというのです。制圧して、制圧して全部こうなるのです。( ? )

 また、息子・娘を見るとき、自分の息子・娘が不幸な息子・娘になってはいけないと、父母の懐から追い出される息子・娘になってはいけないと神様にすがりついて「神様! アダムとエバを失ってしまい、無念であられたあなたの心情をよく知っておりますので、この子どもたちは決してアダムとエバのような人間にならないようにしてください。この子どもたちが天の前に蕩減できず、許しを乞わなければならない立場におりますなら、その子どもの責任までも私が代身して負えるようにしてください」と、涙の祈祷を捧げることのできる母親とならなければなりません。(一九七一・五・五、中央修練院)


 三 父親の役割

 動員された人は「うちのお母さんは私たちを捨ててどこに行ったのだろう? ご飯はだれがくれるのだろうか? ああ、大変なことになったな」と言っている子どものことだけを考えるそのような母親になるよりも、継ぎはぎの服を着ていても堂々と出かけて責任を果たすために切実な心を持って精誠を尽くしてきたのだと言いながら、息子・娘に向かって教育できる母親とならなければなりません。

 夫は子どもに対して、お前たちの母親は歴史的ないかなる偉人の妻よりも素晴らしい妻であり、国を愛し世界を愛することにおいて他の人々の母親たちとは違う。たとえ人より劣る貧しいわらぶきの家に暮らしていても、お前たちのお母さんは世界一のお母さんだ、ということを教育しなければならないというのです。

 全家族が母親のために精誠を尽くさなければなりません。子どもたちが、うちのお母さんは一番素晴らしいお母さんだ、国のために出かけていったお母さんが福を受けるようにと言ってお母さんの歌を歌うようでなければなりません。夫も、だれそれちゃんのお母さんが福を受けるようにと言って、妻のために涙を流して祈祷しなければなりません。そのようにする場から新しい歴史的な伝統が生まれるというのです。分かりましたか?(一九七〇・一二・二二、前本部教会)

 子どもを愛する妻を持った夫は、それを感謝しなければならないのです。(一九八五・八・一六、イースト・ガーデン)

 育ててあげ、守ってあげる責任をだれが負わなければならないでしょうか? 父親が負わなければならないのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)

 父親が先に息子を愛さなければなりません。父親が子どもに「こいつ、孝行しろ、孝行しろ」と言うだけではいけません。十年だけそうしてみなさい。孝行する子どもがどこにいるでしょうか? 父親は見えない愛の包みを休みなく持ってきては与えてあげなければならないのです。そうしてはじめて、子どもは孝行するのです。そうしてみろというのです。そうしなければ、父子関係は壊れることになるのです。(一九七一・一・三、前本部教会)


 四 父母の責任

 1 父母は子どものためにある

 父母はなぜ生まれたのでしょうか? 子どものために生まれました! これはとてもぴったり合った話だというのです。(一九八三・九・一一、アメリカ)

 私たちは個人を犠牲にするとしても家庭を立てなければなりません。父母が犠牲になっても息子・娘を生かさなければなりません。父母は死の道を行くとしても息子・娘を生かそうとします。父母が子どものために犠牲になる場合が多いのであって、子どもが父母のために犠牲になる場合が果たしてたくさんあるでしょうか? これが天法です。父母は子どもを生かさなければなりません。子どもを生かさなければ父母の行く道は塞がります。そして、その家庭の子どもには親戚が必要です。親戚のために犠牲にならなければなりません。そのような家庭は近所の人々から善なる家庭としてあがめられ、大事にされるようになっているのです。(一九七〇・一・一、前本部教会)

 さあ、考えてみなさい。お父さんとお母さんはだれのためにいるでしょうか? だれのためにいますか? お父さんとお母さんはお父さんとお母さんのためにいるのですか? お父さんとお母さんという名を持ったなら、すでに子どものためにいるというのです。そうでなければ天理原則に違反します。分かりましたか? それは原則だというのです。お父さんとお母さんはだれのためにいます? (子どものためです)。子どもとは何でしょうか? 愛の弟一対象です。そのほかにはないのです。そのほかには愛がないというのです。愛はそのようになっているというのです。人間世界で愛を見ることができないというのです。

 それゆえ、愛の道を捜して出かけていくにおいては、主体がいくら出来がよくても、対象に会えない場合には愛は絶対にないのです。そうでしょう? (はい)。結婚していくら年を取っても、七十になり年老いて死ぬまで息子・娘を産むことができなければ、子どもに対する愛が分かりますか? 子どもに対する愛を知って死にますか、知らずに死にますか? (知らずに死にます)。絶対的に知らずに死にますか、相対的に知らずに死にますか? どのように知らずに死にますか? (絶対的に・・・)。絶対的に分からないのです。説明を千年万年しても、分かります? (分かりません)。千年万年努力して、千年万年勉強しても分からないことを息子・娘を産めば・・・。おなかの中にいるときには分からなかったのに、息子・娘が生まれ落ちる瞬間にはそれが分かるようになるというのです。分かりますか?

 牛も子を産んだ後は、足でけ飛ばしても、歩いて(赤ん坊の所に)近づいてくるのです。背を向けてへその緒を(行動をしてみせられながら)こうしてこのようにするのです。そういうのを見たことがあるでしょう?(笑い)見ましたか、見ませんでしたか? (見ました)。はい、ご飯を食べていても、そのしゃぶっているのを見たら、箸を持つ手が上がりますか、上がりませんか? 気持ち悪くて・・・。牛の子を産んで一番初めに、お尻に何かついてるのをぺろぺろとなめて食べるのを見たら「うわっ!」箸が上がりません。それはなぜですか? 横の人たちが見るのには全くつまらないのですが、牛にとっては幸せな時間ですか、不幸な時間ですか? (幸せな時間です)。何がそんなに幸せですか? (笑い)なぜ幸せかというのです。牛の子も、牛というやつも子を産んだので子に対する愛を占有する主人公になりますから、不幸なのですか、幸福なのですか? だから幸福なのです。子どもを産んでみなければ、そんな話は分からないのです。

 いいですか、避難民村へ行ってみれば、狭い路地にりんごをちょっとずつ持ってきては売っている母親を見かけます。その横から子どもが「お母さん、お乳をちょうだい!」と言えば、このくらいの乳房を出して口に含ませ、子どもはそれをチュッチュッと吸うのです。(笑い)たとえりんごを売って生活していても、その子どもさえ見れば不幸だとは思わないのです。それが理解できますか? (はい)。

 同じく父母という人、父母という名を持った人は、子どものためにいるようになっています。だれのためにいるようになっでいます? (子どものためにです)。父母のためにいるようになっていますか、子どものためにいるようになっていますか? (子どものためです)。もし、父母のためにいるようになっていると言うなら、その人は父母ではありません。もうこれからは、統一教会においての倫理観が形成されるのです。これから原理を中心に倫理観が・・・。父母はどうするべきでしょうか? 子どもを産んで父母は子どものために全力を尽くさなければなりません。これが倫理の第一条です。

 なぜでしょうか? なぜそうしなければならないのか、説明は必要ありません。喜んでそうするのです。嫌々ながらそうするのではありません。いくら図体が大きくて、いくら立派でも、またいくら何かの学博士でノーベル賞を何度ももらったとしても、すべて忘れてしまうのです。喜んでその子のためにいようとするその場、そこでこそ・・・。相対のために、息子・娘のために存在しようとする父母の立場は不幸な立場ですか? (幸福な立場です)。幸福なのです。(一九七二・九・二五、中央修練院)


 2 子どもを育てるとき

 どんな父母でも息子・娘を産めば喜びます。しかし父母が責任を果たせなければ、子どもたちから、なぜ自分を産んだのかと抗議されることになります。父母には子どもを育ててあげるべき責任があり、社会に出て働いて活動することのできるすべての与件を持たせてあげなければならないのです。(一九七〇・六・二一、前本部教会)

 子どもを育てる際には、自分以上に愛さなければなりません。父母が子どものために犠牲になって、自分以上に子どもを愛し育てるのは子どもを立派に育てるためです。したがって自分以上に愛したので、子どもがその愛を引き継ぐのは当然のことです。もちろん自分以上の愛の因縁を現すことによって子どもは大きくなるのであり、発展するのです。

 木が育つためには、授け受ける作用が徐々に大きく、うまく展開しなければなりません。そうでなければ、より高い木になれないのです。同じように、子どもを育てるときは、自分を愛する以上の愛と心情を持って育てなければなりません。そのように父母の責任を果たせば、その子どもが父母の事情を理解し、彼がまた自分の子どもを持つようになれば、そのように育てることができるのです。そのようになるときに、はじめて彼は父母の悲しみが自分の悲しみであり、父母の喜びが自分の喜びであり、父母のする仕事が自分のすべき仕事であり、父母の責任遂行が自分の責任遂行だと言える子どもになるのです。そうして、父母が命令しなくても、その父母の怨讐に自分の怨讐として対し、父母の仕事を自分の仕事として、父母の責任を自分の責任として、父母の事情を自分の事情としてやり遂げようと進んで取り組むのです。そのような子どもを立てることが創造の原則だったのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)

 皆さんは家庭を持って、これから息子・娘を育てなければならないし、その次には教育をしなければなりません。それが人生なのです。そのように生きながら、すべての人々に好かれ、すべての人々に尊敬されて死んでいこうというのが、人の一生の中でその人生が指向する念願の道だというのです。皆さんもその道を行かなければならないというのです。いくら優れているとしてもその道を行かなければならないのです。そうでしょう?(はい)。

 ですから皆さん、良い夫を得たいでしょう? 良い妻を得たいでしょう? そして息子・娘を産むなら、良い息子・娘を産みたいでしょう? (はい)。そう、良い妻、良い夫、良い子女が何ですか? それはどのような人ですか? 見なさい、経済的に家庭の世話にならず、隣近所の世話にならず、国の世話にならず、世界の世話にならず、世話をしてあげることのできる人であってこそ、良い人間の部類に入ることができます。家庭と国と世界に負債を作らない人にならなければなりません。過ごしてみればそうなのです。考えてみなさい。そうではありませんか? (そうです)。

 その次には、何でしょうか? 思想的に影響を与える人です。母親と父親の立場で息子・娘に影響を与え、周囲に影響を与え、国に影響を与え、世界に影響を与える人です。分かりましたか? (はい)。(一九七八・一・二、アメリカ)


 3 子どもの生涯に対する父母の責任

 私たち人間はだれでも、胎中時代を十カ月間過ごしてから生まれ、物資の供給を十分に受けてもう必要ない、完全に形態を整えたというのです。第一の父母の懐から第二の父母として生まれるのが出生です。

 さあ、それではその間ここでは何をするのでしょうか? 父母が引き受けて人間としての勉強、人とならなければならないというのです。人間とはこういうものだと言って供給してあげるのです、すべて。父母が生きる世界で、このような人になれと供給してあげるのです。教育したりするのは、すべて父母を中心とした人によって供給される生涯です。生まれる時なのです。父母が供給してあげるのです。父母の国、父母の世界が供給してあげるのです。父母を通して全部供給してあげるのです。分かりますか? (はい)。世界を代表し、その次には世界の中で国を代表し、国の中で家庭を代表し、家庭の中で父母を代表して全体を供給してあげます、全部。ここに合うように。全部合わなければなりません。合うよう供給するのです。だから皆さんは良いものを供給しろというのです。

 これが完成したら何をしなければならないでしょうか? ここで全部供給した後は、次に何をすべきでしょうか? 愛を中心とした横的な基盤を連結させるのです。それが何であるか分かりますか? それが結婚だというのです。父母は結婚するときまで、理想的な結婚をする時までの責任を持つのです。さあ、それでは結婚をして何をするのでしょうか? 結婚とはいったい何でしょうか? お母さんとお父さんが愛してきたものを引き継ぐのです。引き継ぐことなのです。分かりますか、何の話か? (はい)。

 また、その次には何を引き継ぐのでしょうか? 自分をどれくらい愛し、どれくらい愛さなければならないのか、ということを引き継ぎます。教訓的なすべてのものを引き継ぎます。父母からの愛を・・・。父母があまりにも深く愛してくれたので、その愛を引き継ぐのです。また、私が愛され、愛されたことを知り、愛することのできる人になるというのです。愛されていることをはっきり知り、愛することのできるしっかりとした人になるのです。自分が愛を完全に受けることができ、完全に与えることのできる人になるのです。それが一人の完全な男性として、女性として成熟することです。(一九八〇・一・二〇、ベルベディア修練所)

 皆さん、考えてみなさい。皆さんは、男性あるいは女性として生まれてきましたね。さあ、これからどうなることでしょうか? どうなるのでしょうか? 将来、どうなるでしょうか? 女性は手を広げて何かを一つ求めなければなりません。男性も手を広げて求めなければなりません。相手を捕まえるためにそうするのです。

 さあ、それでは男性はなぜ生まれたのでしょうか? 女性と出会うためにです。また女性はなぜ生まれたのでしょうか? 男性と出会うためにです。だから、自分自身についてみれば、父母が私を男性として産んだのは女性に会わせるために・・・。父母が私を産むようになった動機もそこにあるのです。同じなのです。産んでくれたことも、結局は男性と女性が会うようにするために産んだのです。だから父母も自分もだれもが皆願うのです。結婚することを願うというのです。

 そうして何をするのでしょうか? 父母になれというのです。お母さんとお父さんになったら何をしろというのでしょうか? なぜ? 何を必要とするからですか? 変わらない愛を実現することができるからです。男性と女性が会うことによってはじめて変わらない父母の愛圏を発見でき、悟ることができるので、父母もそれを願わずにはいられないのです。お母さんとお父さんも、子女が結婚することになれば、結局は自分から去っていくだろうに、それを望むのはなぜでしょうか? より次元の高い父母の深い愛を、そこでまた蘇生させることができるからです。結婚することによって、子女を産むことによって、それができるからです。この愛だけは変わらないというのです。分かりましたか? (はい)。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)

 子女が成長したら何をしますか? もし夫と妻が一つになれば、彼らは神様の愛を受けた経験を土台として、家庭に愛の伝統を立てることでしょう。彼らは夫と妻として生きていくようになるでしょうし、それぞれが経験した愛を通して、愛の伝統を立てることでしょう。初段階で、個人は神様から縦的な愛を受けます。それから夫と妻として一つになるようになれば、彼らは互いに横的に愛を授け受けするようになります。その次に、子女を産めば、縦的な愛が注がれるのです。夫婦が子女を産めば、子女に対する神様の愛を体恤するようになります。(一九七一・一二・一四、トロント)


 4 愛の教育は父母から

 愛というものはどこから来るのでしょうか? 愛が自分から来るという道理はありません。愛とは相対から来るのです。これを知らなければなりません。愛はどこから来るのですか? (相対から来ます)。相対がいなくなる場合には、愛は来ることができません。神様も、私たち人間を中心として見れば相対的でしょう。男性の前の女性も相対的であり、また、父母の前の子どもも相対的です。愛というものは、相対なしには成されないのです。これを統一教会では「三対象の愛」と言います。

 三対象の愛を体恤できない者は、完成した神様の愛を代身して体験したという立場に立つことができないのです。そうなるのです。分かりますか? (はい)。神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、自分も息子・娘を産んで同じくらい喜ばうというのが統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバをつくって喜ばれ、「これから世界を主管するようになるぞ。わが家が世界の中心家庭になるぞ。早く大きくなれ、すくすくと大きくなれ」と言いながら、希望を持って保護育成する中で喜びと満足を感じながら、彼らが育って結婚する日を願われたのが神様の願いではなかったでしょうか? これと同じく、お父さんとお母さんは息子・娘を立派に育て、素晴らしい相手を選んで良い夫婦にしてあげなければならないというのです。良い夫婦を結び合わせてあげれば、その家は滅びますか? (栄えます)。栄えるのです。

 これと同じだというのです。神様と一つになり「神様がアダムとエバを創造して愛されたように、私たちも神様のその愛を手本にして息子・娘を愛さなければならない」と言いながら、どこにでも連れて行こうとし、いつも抱いて行こうとし、出勤するときも連れていこうとし、ご飯を食べるときも一緒に食べようとするなら、そんなお父さんとお母さんを息子・娘が嫌いますか、好きになりますか? (好きになります)。

 友の中の友はだれでしょうか? 隣の町のもじゃもじゃ髪の男の子が自分の息子・娘の友達ではありません。友の中の友はだれかと言うと、まさしくお父さんとお母さんだというのです。このようにならなければなりません。皆さんはこれを知らなければなりません。先生はそのような意味で、なるべく子どもたちを車に一緒に乗せて清平にも連れて行こうとします。それで人々が悪口を言うのです。あの人は朝から晩まで、どこにでも子どもたちを連れて歩こうとすると言ってです。だからこういうことを言うのです。友達よりももっと好かれる父母にならなければなりません。そうでしょう? そのように考えなくてはならないのです。

 友の中の友であり、先生の中の先生だ、こうならなければなりません。だれがですか? (お母さんとお父さんです)。お父さんとお母さんがそうならなければなりません。お父さんとお母さんが「おい、おい、お前そんなことをしたらだめだ」と言い、先生が「おい、こいつ、やらなければふくらはぎをたたくぞ。それではだめだ」と言って、エンエン(表情をされる)と泣かせるのは良くありません。愛の教育をしなければならないのです。「おいおい、お前、それでいいのか?」と言われたら、「そうだ、私がこんなことをしたらお母さんとお父さんが悲しむからいけないんだ」というようになっているのです。このように教育しなければならないのです。ですから父母は子どもにとって友の中の友であり、先生の中の先生にならなければなりません。

 エデンの園のアダムとエバに友達がいましたか? アダムに友がいたならだれですか? エバしかいません。その次には? 神様しかいません。天使長とは友にならないように願っていたのです。そうではないですか? 天使長は僕なのです。それなのに間違えて友になって滅びたのです。ですから何ですか? 先生の中の先生であり、友の中の友であり、その次には愛の中の愛にならなければなりません。そうではないですか?

 愛は神様から始まるのです。だから、結局、相対愛もだれに基づいているかと言えば、父母に基づくのです。それゆえ、父母が「おいおい、お前たちが好むのはお前たちゆえではなく、父母の恩徳によるものだ」と言うとき、子どもたちが「お父さんとお母さんが私をこのように育ててくれて、このような相対をもらってくれなかったら大変なことになっていた」と言うようでなければなりません。それゆえ、恋愛結婚は落第だというのです。分かりますか? (はい)。

 その愛の教育はだれから受けなければならないでしょうか? 父母からです。お父さんとお母さんが一つになって、ハトのように楽しく「クククク」と愛し合うのを見て、それを手本にしなければならないのです。「おい、うちのお父さんとお母さんがあんなに仲良くしているのを見ると、僕も一人では寂しい。僕もお母さんとお父さんのように、ククククと愛し合える相対が必要だ」こうならなければならないし、父母はそうなるように教えてあげなければなりません。そうなれば、その息子・娘たちは父母が行ってきた真の愛を反復するようになるので、世界は善なる世界になり、人類歴史は善なる歴史になるのです。そうですか、そうではないですか? 統一教会でこれをやろうというのです。分かりましたか? (はい)。(一九七二・五・二九、中央修練院)


 5 信仰指導も父母の責任

 皆さんの子女たちもいつかは原理のみ言を聴くでしょう。そうしたら、聴いただけで放っておいてはいけません。彼らが十代の青少年の時に原理のみ言を聴いたなら、聴いてから、原理の範囲と内容を口では認定するかもしれませんが、(彼らが)対社会関係で影響を与えられる水準までは理解できません。そこまで至るためには、必ず時間的過程を経なければなりません。少なくとも二十歳を越えなければならないというのです。ところが、十五、六歳の時に原理のみ言を聴いた子女たちに無関心のままでいて、彼らが二十歳を越えたなら、その中間過程で原理の内容とは掛け離れた生活形態を模索するようになるというのです。

 まして、私たちは今、家庭を主として活動するのでなく社会を主として活動しているので、若い子どもたちはそれに対して批判したり軽視しがちな活動体制を持っています。このような実情にあるだけに、父母たる皆さんが子女たちに責任を持たなければなりません。

 ですから、子女が十代の時に原理のみ言を聴いたなら、聴いて知ったことだけで放っておかないで、家庭でお父さんとお母さんが息子・娘を友達のように思って討論もしろというのです。一週間なら一週間、ひと月ならひと月に一回ずつ信仰生活における何かの問題を中心として、息子・娘は父母に父母は息子・娘に、質問し合い答えながら討論をしろというのです。そうすれば家庭で十代の青少年時期に聴いたその言葉が、それで終わるのではなく、二十代に入ってからは、その原理のみ言を生活環境に適用できるのです。そうなるように皆さんが面倒を見て、足場を整えてあげなければならないというのです。

 ところが皆さんはこれができずにいます。教会に出てくることだけで終わるのではなく、家庭の中でも普遍化しなければならないのに、これをなおざりにすることによって・・・。教会に来てはああだこうだと言うのに、家庭の中ではああだこうだと言わないというのです。それでは、私たちの家庭が他の家庭の模範にならなければなりませんが、そのような刺激を与えることのできる動機はだれがつくらなければならないでしょうか? 息子・娘はつくることができません。父母がつくらなければなりません。(一九七〇・六・四、前本部教会)


 6 息子・娘を神様の前に

 たとえサタン世界で生きるとしても、天に対する気概と志操は守らなければならないというのです。自分が育てている息子・娘をお父様の子どもだと思ってきましたか? またさらに、自分と相対がお父様のものだと考えてみましたか? 私の父母、私の先祖、私の民族、私の国をそのように考えてみましたか? 無知なこの地上の人間たちは、天がこのような基準に向けて動くという事実を知らずにいます。静かに考えてみなさい。うそか本当か。よく考えてみれば、本当だというのです。(一九五九・一一・八、前本部教会)

 それゆえ、皆さんが持っている物をだれのものとして考えなさいって? 天のお父様のものだと考えなければなりません。息子・娘はだれに捧げなければなりませんか? お父様に捧げなければなりません。イエス様を代身して、天のために忠誠を尽くせる息子・娘に育てなければなりません。

 父母になったら、どういうことをしてでも、息子・娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。そうしなければいけません。(一九六九・六・八、前本部教会)

 カインの家庭を早く復帰しなければなりません。それは、カインの世界において孝行するのでなければ、将来ここに帰ってきてはなりません。地方に行って、日本全国に行って孝行する者を捜し、伝道をしなければなりません。時がくればそのような人は動いてきます。また、兄弟がともに互いに愛し合う人を捜しなさい。そのような人を選び出しなさい。このように考えると、皆さんも家族を連れてこなければならないはずです。妻は夫を、夫は妻を。

 父母同士、本当に死んでもこの道を行かざるをえないということを知ったとすれば、子どもを神様の側に連れて行かなければなりません。父母の使命を果たせないのは、分からないからであり、知ったなら祭物としてでも連れて行かなければなりません。それはむちで打っても善なのです。(一九六五・一〇・九、東京教会)

 皆さんの財産と皆さんと皆さんの息子・娘すべてを神様の前にお返ししなければなりません。お返ししてまた神様の名で・・・。今までこれはサタンの名で汚されたものなのです。全部きれいにしてお返しして、もう一度伝受されなければ、皆さんは地上で天国生活したという基盤がないのです。そのようにしたならば、皆さんの地上天国が始まるのです。分かりますか、何の話か? 皆さん自身の地上天国基地がそうして生まれるのです。神様の所有権を中心として。サタンの所有を復帰する復帰的条件ではないですか? それが何の話か分かりますか? 今までそれができなかったのです。それがまだ清算できていません。清算できなかったというのです。

 王は旧約を意味し、息子は新約を意味し、父母は成約を意味するのです。この三つが一つになれば、本然の神様の位置に進むというのです。そうすることによって、自分の所有が始まるというのです。(一九八四・四・二九、イースト・ガーデン)

 愛を持って生きる人も最後には死にます。愛の実を結んで、必ず死ななければならないのです。そうせずしては、その愛が自分のところに帰ってこないのです。

 例を挙げて言えば、二つの実を考えてみることができます。その種をまけば、このごろ春になって畑を耕してその種をまけば、芽が出てきてすくすく成長するでしょう? 今の季節は葉がたくさん出ます。いろいろな葉が出てきます。自分の種別に該当する葉と枝が伸びていきながら、その間から花が咲くのです。花が咲いて実を結ぶのです。その実を結んではじめて主人の喜びとなるのです。

 同じことです。農業をする人の実が何かと言えば、収穫することではないですか? 神様も同じです。私たち人類という種をまいたとき、その種をまくとき男性だけまいたでしょうか、男性と女性合わせてまいたでしょうか? (合わせてです)。男性と女性合わせてまいてみたら、そこから赤ん坊たちが芽のように出てきて木になり、文氏なら文氏、朴氏なら朴氏、すくすく幹を伸ばしながら東西南北に枝を伸ばし、春夏秋冬の季節に合わせて葉が出て花が咲くのです。うまくいく家もあるし、だめな家もあるし、うまくいかないと夏でも葉がやせています。葉が生い茂っている時は夏で、その時はうまくいっているようですが、秋になったら散ってしまうのです。葉が散っていくからと言って悪いことではありません。葉が散っていくことによって、そこに隠れていた実が熟する時には、葉が落ちることが喜びになりうるというのです。何の話か分かりますか?

 その実を取った主人は、いくらその木が雪に埋もれて死んだようになっても希望があるのです。「お前一つからこのような実を取って、さらに千万倍わが園を緑で包むことができ、実を取り入れることのできる果樹園を作ることができるであろう」と言うのです。堂々たるものです。

 それと同じく、愛の道には必ず実がなければなりません。その実は何ですか、人間にとっては? (子女です)。子女、その子女をどうしなければなりませんか? 自然に返さなければなりません。自分の息子・娘ではありません。人間たちは宇宙の主人の前に実を取り入れ、それ自体を繁殖させることのできる共通の責任を背負ったのです。

 それゆえ、その子女を国の倉庫に納めなければなりません。自分の倉庫に入れ、自分だけ食べて消耗させながら喜ぶのではなく、その中で一番良いものを国の倉庫に運んで納め、国の園の種になってほしいという考えを持たなければなりません。それがいわゆる、子どもが国の重要な人になってほしいという父母たちの心なのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。(一九八八・五・一七、釜山教会)

 統一教会に入ることで何をしようというのでしょうか? 神様の形状に似ようというのです。それが栄光の日です。その次にはアダムとエバの形状に似ようというのです。これが希望です。だから皆さんは「先生に似よう」という話をしているのです。それゆえ、似てくるにつれて神様は、アダムを愛したように自動的にそのよく似た孫を愛するようになっているというのです。愛されようとする必要はないというのです。ここからは帰っていけません。アダム一代だけからは帰って行けません。必ず三代を経て帰るのです。なぜ? 天地の道理が三段階だからです。分かりましたか? (はい)。

 人はいつ死ぬべきでしょうか? 息子・娘を皆結婚させて、その次には孫までも結婚させてから逝く人が栄光を受けて逝く人です。何の話か分かりますか? それゆえ、三代を愛そうというのです。三代を愛することができなければならないというのです。また、人は父母の立場にも立ってみて、息子・娘の立場にも立ってみて、その次には神様の立場にも立ってみなければなりません。神様の立場に立とうとすれば、孫がいなければならないのです。なぜですか? 神様とアダムとエバが縦的な関係なら、ここの横的な関係から生まれた息子・娘は何でしょうか? 孫です。そうではないですか? 神様とアダムが一つになるなら、横的だというのは、左右では息子・娘です。アダムとエバが一つになれば息子・娘が生まれるのです。三代でこのようになるのです。

 だから孫の時から四方に送られるのです。そうではないですか? 四方に・・・。三代からそうなのです。(一九七八・一・二二、ベルベディア修練所)


 7 父母の責任は重い

 さあ、夫として夫の責任を果たしましたか? 家庭の夫たち、あなたたちは責任を果たしたのかというのです。教会や何かの責任はさておき、妻に対する責任、子どもに対する責任、自分の一族に対する責任を果たしましたか? 恥ずかしさを感じなければなりません。恥ずかしさを感じなければならないのです。みっともない面構えになって、落第してお母さんとお父さんが近所に来てとがめるのは嫌だという連中は滅びなければなりません。犬や豚にも劣るというのです。そのとがめを聞かなければならないのです。それを甘受する人は希望があるのです。それを忌避する人は滅びるのです。ぽろぞうきんでさえ腐れば肥やしになるでしょう。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 今、皆さん自身もそうですが、これから祝福を受けた家庭は息子・娘たちをしっかり育てなければなりません。しっかり育てなければならないのです。元来はこの世の中に対して完全に垣根を作り、接触できないようにして育てなければならないのです。ですから父母の責任はいかに重要でしょうか? 父母がそれについては頭を使わなければならないというのです。

 私たちの時代はきれいな血統、きれいな血統、きれいな血統を・・・。それが理想的です。それが理想ではないですか? 皆さんの息子・娘が頭がいいのは、その夫婦がどれだけ愛し合ったか、どれだけ希望を持って愛して産んだかによって聡明な子が生まれるのです。深い美の性稟を持って生まれるというのです。皆さんの息子・娘は皆さんより優秀でなければいけないでしょう? それではどうやって、より優秀な子に産みますか? どのようにしてより優秀な子を産むことができますか? さっき先生が話したこと、その動機は愛ですが、純粋な愛であるほど純粋な子どもを産めると言ったでしょう?(一九七三・五・一二、ベルベディア修練所)

 皆さんは今、交替時代にいるだけに、皆さんの方向性をはっきりとつかまなければならないのです。私はどこに行かなければならないか? 実になって、実になったら種になって、このように芽が出てこのように育ち、このような幹と枝になり、そこから根が伸びて花が咲く、そのような公式路程があるのと同様に、統一教会の皆さんもこのように過去・現在・未来の公式路程の軌道を経ずしては、永存できる心情圏に到達できないという事実をはっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい)。

 そのようになろうと思えば、皆さんは先生を慕ってきたその心を中心として、祝福を受けた夫婦が互いに先生を慕う以上に慕い合わなければならないし、その次に、父母は子どもに対して先生以上に・・・。先生はそれを接ぎ木してあげなければならない責任があります。人間がそのような愛の因縁を失ってしまったので、先生はそのみ旨を中心として、皆さんの体と心を中心として関連した愛圏をつくってあげるべき使命を持って来ました。それゆえ、このような活動をするのです。(一九八六・二・一六、本部教会)


 五 父母が残すべきもの

 1 何を残すのか

 そのような意味で、自分はどのような生涯を残すのかということが問題です。今日、皆さんの生涯についてみるとき、ある者は六十歳に近い人もいるでしょうし、あるいは四十歳を越えた人もいるでしょうし、あるいはとても若い人もいることでしょう。

 このような立場で皆さん自身はどんな生涯を残すのですか? 皆さんは、この民族の行く道を心配する心を持たなければならないでしょうし、自分たちが果たすべき使命を自ら感じなければならないでしょう。年取った人は、自分の過去を振り返ってみたとき、自分の過去の生涯には何の結実もなかったことに気がつくでしょうし、今どんなに努力し身もだえしたとしても、自分が考えるその限界点までは至ることができないのを感じることでしょう。しかし、そのようなことを知れば知るほど、感じれば感じるほど、そこで落胆せずに、自分の残りの短い生涯によりいっそう自分のすべての精力を投入し、最後の決着をつけようと決意を固めなければなりません。

 年を取ったからと心配するのではなく、残った人生をすべて集約させ、この民族と歴史の前にどのように投入するかという問題をめぐって新たに決意を固めなければならないのです。(一九七〇・九・二七、前本部教会)

 自己の一生について見るとき、何を残すべきでしょうか? 何を残しますか? これが大きな問題です。皆さんがこの土台を踏んで立ったとき、堂々としていられるでしょうか? 皆さんが一つの行動でもうまくやったなら堂々とできるでしょう? 一生を生きて、終わりの瞬間に善か悪かと言うとき、「お父様、私はお父様の前に善なる息子です」と言えなければなりません。そのような資格を持った人とならなければなりません。そのような人は、この地上で百勝将軍の栄光を持った、国家と世界の歴史を変革させた英雄よりもっと偉大なのです。(一九七一・七・四、前本部教会)

 永遠に残るものは何でしょうか? 善たりうる基準を残しておくことです。統一教会に従う人はそうしろというのです。しかし、それができるかできないかという問題が後に残ります。疲れて昼寝をしてしまったなら、悔い改める人になろうとしなければなりません。間違った心を持ちながらも幸福な人はいないはずです。皆さんはそれを知らなければなりません。(一九六九・六・二二、前本部教会)

 よいものを食べ、いい暮らしをする人は世界にたくさんいます。頭のいい人、美男・美女はたくさんいます。あちこちに、あらゆる若者たちが夢として望みうる人はたくさんいましたが、その多くの人々は世界に影響を及ぼせないのです。よいものを食べていい暮らしをしようとするこの世の中で、(私たちは)よいものは食べずにいい暮らしをしようというのです。分かりますか? ひもじく貧しく暮らしながら、いい暮らしをしようというのです。それはどういうことかと言うと、人間と言えば自分の家庭のためであるとか、国のためであるとか、世界のために生きるようになっているのです。

 人が生まれた目的は、人生の行く道で必ず何かを残さなければなりませんね? 残すにおいて白頭山のてっぺん、一番高い所に登って精誠を尽くしたと言って残すのではありません。残すことのできる記念物というのは、国民全体が敬うことのできる精神的な面を残さなけれぱならないというのです。

 例を挙げて言えば、愛国者がある戦いをして死んだとしましょう。その時、その死んだ所が悲惨であるほど、地形も悪く山が険しいほど、深い洞窟であるほど価値があるというのです。何の話か分かりますか? 価値は反比例するのです。歴史を動かすものは目に見えるものではありません。目に見えないものが歴史を動かしているのです。そうではないですか?(一九八八・八・二八、漢南洞公館)

 だから、統一教会員たちは・・・。私は化け物のような人です。人々は私を素晴らしいと言いますが、行き当たりばったりの暮らしが好きで、虚飾が好きではありません。自然そのものが好きなのです。洋服を着てどこかに出かけても、座るときにはふうっとほこりをはらったりしません。糞があるならあるで、よく見もしないで座ってしまうのです。ほこりをはらうなんて、まったく・・・。人が生きることは自然と同じくらい純朴ですか? 虚偽がどれほど多いですか? 分かりますか? (はい)。

 統一教会はこのような観点から、真なる愛の道、真なる神様の愛圏内に行くためには、自分を主張してはならないということを知らなければなりません。これは私が実験を通してすべてテストしたのです。

 世の中でお金を持っている人は自分の息子・娘たちに残してあげようと包みを包んで待っていますが、世界のために残してあげうるものから先に残しておいてから、自分の息子・娘のために残しておかなければなりません、それが順序だというのです。こんな話は初めて聞いたでしょう? それでこそ連結されるのです。(一九八三・一二・一一、本部教会)

 皆さんはこれから成長する子どもたちの前に何を残すべきでしょうか? 「私は民族のために、世界のために生きたことしか残してあげるものがない」と言うとき、これが一番偉大なる遺業です。物質や学博士の看板が問題ではありません。「世界のため生きよ」と、そのような遺言を子どもに残さなければなりません。「お前は大韓民国で生まれたが大韓民国人ではない。お前は世界人だから、世界のため生きなければならない。それだけでなく、天地のために生きなければならない」と言わなければなりません。これは宇宙主義です。このようなとてつもない理念を持っていて、また聞いて分かったという人が、つまらないものであってはいけません。(一九七〇・二、統一産業寄宿舎講堂)


 2 残すべき生涯路程

 自分はどのような道を行くべきか、ということが問題です。皆さんはこれをよく知らなければなりません。皆さんが祈祷するにおいて、ある者は外的環境を恋しがりながら祈祷することでしょう。そのような人は外的世界に流れていくことでしょう。自己の利益を追求してきた人々は、統一教会から皆離れていきました。国と民族と人類のために、未来世界の一人の開拓者としての使命を完結させ、神の真なる因縁を連結させようという皆さんにならなければなりません。

 そこでは、だれかが見ていてくれるところに価値があるのではありません。見えない中で、深い内的な心情の骨髄において神様と因縁が結ばれることを思うとき、だれかが見ていても見ていなくても、神様と因縁を結ぶために自分一人で血と汗を流し、責任を持って苦労の道を行くことのできる人とならなければならないのです。そのような人々によって、新しい天的な摂理の因縁が結ばれるのであり、歴史的な勝利の基台が築かれるのです。皆さんはそのような立場に立ってはじめて残されうるのです。

 それゆえ、祈祷するにも、人知れずしなければなりません。精誠を尽くすときも人知れず尽くさなければなりません。終わりの日になれば、頭に油をぬって密室に入って祈祷しろというのです。世の中に、風が吹いて揺れが起こり、すべてのものが崩れ落ちるとしても、私自身がはっきり残されるそのような歴史的因縁でも残してから死ななければならないはずです。これがまさに統一教会員たちが生きるべき生涯であり、残すべき生涯路程なのです。

 皆さん、残してあげるものは何ですか? 愛する息子・娘に遺物として残してあげるにおいて、すっかり使い古した、捨てるしかないぞうきんの切れ端を残してあげる父母はいないというのです。自分が精誠を尽くして培った物、お母さんとお父さんだけが知っている宝物、そのような宝物を残してあげるのです。良い物をすべて選んで売りはらい、使い道のないような物を残すのではなく、すべて売ったとしてもこれだけは最後まで残しておき、それまで売った全体よりもっと価値があるように思う、そのような宝物を残してあげるというのです。

 それが何でしょうか? 宝物として残したものが何でしょうか? 宝物それ自体が問題ではありません。その宝物に宿っている父母の愛、鉄石のように精誠を尽くしたその父母の心と一つになって、その心が自分の父母だけでなく、世界と天地を感動させ、歴史的人物たちを屈伏させられる精誠を尽くした心が宿っているとき、これが歴史上にない偉大な宝物なのです。(一九七〇・九・二七、前本部教会)


 3 真なる息子・娘を残して逝かなければならない

 人間の生涯の精力をすべて注いで息絶えるとしても、その燃えて残った愛の津液(生物体内から染み出る液)を一つの実として残して逝こうと言わなければなりません。そうやって生まれた息子・娘を残して逝かなければならないのです。そのような息子・娘が生まれましたか? 駄犬の子、駄犬の子が生まれました。それを連れてきて先生に見せてあげようと、プープー・・・。恥を知らなくてはなりません。勝手に生まれ出たものたち・・・。(一九八六・六・一、中央修練所)


 4 愛の墓を残していこう

 皆さん、ひたすら心に残さなければならないのは本然の理想圏の愛です。その愛を中心とした真なる血統的基準、真なる愛の一念による理想的家庭、理想的社会、理想的世界、理想的天国理念が、私たちが本来の心の基から千年万年歴史の悲運を経てきながら呻吟し屈折を経てきたそのすべてのものの解怨、解放のかなめです。(一九八六・六・一、水澤里)

 皆さんが何かを残したいとき、何か仕事をよくして、大学をつくって学校を残すことも皆良いですが、何を残すべきでしょうか? 愛を通した実績と基盤を残せというのです。そのほかにはないのです。( ? )

 私の生涯で何をすべきでしょうか? 愛の墓を残して逝こうというのです。それが結論です。愛の墓を残して逝こう! 今、愛の墓の中で生きても恨みがないというのです。墓のようなところでいくら悲惨な暮らしをしても、愛の中で生きるなら恨みはないというのです。分かりますか? 生きているときに愛の墓を残して逝こう! そうすれば人生は、永遠の成功を収めるのです。皆さんがそのように生きて死ぬときは、神様が祝福してくれるでしょうし、神様が息子・娘を連れてきて歓迎することでしょう。そのときには、指輪をはめたことのない手なら、天の国のダイヤモンドをはめてくれるでしょうし、良い服を着られなかったなら天の国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれることでしょう。

 世界中の人々もこれを知ったなら、だれもがこの愛の墓の中で暮らそうと、塀をも越えて入ってこようとすることでしょう。悲劇のようなことが頻繁に起こります。極めて悲劇のような所から、極めて幸福な位置に入るようになることでしょう。そのようなことを知っているので、先生は今までこのような活動をしてきたのです。分かりますか、何の話か? (はい)。

 自分の一生で何を残すのですか? (愛の墓です)。そのように心得て、忘れないようにしなさい。さあ、一度そのように生きてみようという人は手を挙げてみましょう。皆挙げましたね。神様の祝福が皆さんとともにあることでしょう。(一九七八・三・一二、アメリカ)




以上 み旨にかなった子女指導 2004.02.03 裏道
























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