統一教会と食口たち
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第一章 宗教の意義と使命

第一節 宗教の意義と目的

一 宗教の意義

1 宗教の語義

 宗教と言えば、韓国、東洋の言葉としては棟となる教えです。家で言うならば、棟を言うのです。すべての教えに、すべての学びにおいて原理的で、原則的で、中心となる教えだという意味です。家を見れば、家のビーム(beam=大梁)を言うのです。センター・ビーム(centerbeam=中心の大梁)を言うというのです。それゆえ、神様を取り除けば、全宇宙が完全に崩壊してしまうというのです。宗教というものは家を、新しい宇宙の家を作るための摂理の基盤であるとみるので、土台を築き柱を立てて、すべてのものを備えても、この棟木を上げておかなければすべてがものにならないのです。(一九七九・一・一、ベルベディア修練所)

2 宗教の根本となる教えは

 今まで世界的に多くの宗教がありますが、その宗教は何を教えてあげなければなりませんか? すべての宗教では一番最初に神について教えてあげなければなりません。神について教えてくれない宗教は宗教ではありません。神について教えてあげるのにも漠然と教えてあげる宗教は確かな宗教ではありません。

 それでは、どのように教えてくれる宗教が真なる宗教でしょうか? 神様がおられるとするならどのようなお方としておられるのか、神様の人格はどのようなものか、また神様の愛はどのようなものかなどについて教えてくれる宗教が真なる宗教です。(一九六七・五・二八、前本部教会)

 宗教が初めに教えてくれるのが何でしょうか? 神様を教えてくれます。その次には何を教えてくれるでしょうか? 神様の目的を教えてくれます。また、その次には何を教えてくれるでしょうか? 神様の愛を教えてくれます。宗教の教えからみると、人間は神様の目的の実体にならなければなりません。すなわち、神様のものとならなければならないのです。そのような因縁の中で良心が永遠に安息することのできる基地を準備して、その場所に永遠にいたいというのが私たちの心です。それゆえ、皆さんが復帰されつつあるということを知らなければなりません。このような事実を知ってみれば、良心は真にありがたいものです。だから、初めて教会に入ってきた人は「ああ! 人生の価値はこうなんだなあ!」と感銘深く感じるようになります。(一九六五・一二・二六、前本部教会)

 人間の良心は世界を征服し、天と地の上に神様の目的を成し、また神様まで征服するとしても満足できないのです。神様まで征服した後でも、満足することができないというのです。一つの目的世界の主権者であられる神様をとりこにするとしても、また足らないという事実を皆さんは知らなければなりません。それでは、何まで征服しなければならないでしょうか? 神様の心情の中に隠れている愛まで征服しなければならないのです。良心は休もうとしません。それゆえ、今日の宗教はそれを教えてあげなければならないのです。(一九六五・一二・二六、前本部教会)

 宗教は神様の愛を占領しうる方法を教えてくれます。それは宗教の教えを通してだけ可能なのです。一番近い神様と人間の愛の内容を、より徹底的に教えてくれる宗教であるほど高次的な宗教であり、世界的な宗教なのです。このような観点から宗教を比較してみると、キリスト教がそのような内容を最も多く含んでいます。

 キリスト教では神様を「父」だと教えます。またイエス様は新郎で、私たちは新婦だと教えます。新郎・新婦になるなら神様の息子・娘になるのです。このように神様の愛を中心として家庭を立てようとした宗教はキリスト教しかありません。それゆえ、キリスト教は名実ともに神様が立てた世界的な宗教だという結論が出てくるのです。

 宗教は神様がおられることを明らかにし、神様の愛を占領する方法を教えます。(一九六七・八・一三、前本部教会)

 宗教は何を教えてくれるのでしょうか? 神様の愛を教えてくれ、神様の愛の目的を達成すべき使命を持っているので、宗教は犠牲を教えてくれるのです。それは当然なことです。宗教が自体を中心として世界を制覇しようとしてはいけないのです。
 統一教会は犠牲になれと教えています。統一教会員たちをすべて束ねて、統一教会より大きな国のために犠牲になれというのです。この国、この民族に今まで現れた以上の犠牲の心を持って、国のために犠牲になるようになれば、今まで歴史上に現れた以上の愛国精神がここにおいてはっきり現れるようになるのです。分かりますか? 国民を愛する新しい伝統がここに立てられるようになるとき、その伝統を立てた団体は滅びないのです。それは理論的です。盲目的ではないというのです。今日統一教会が国のために生きるのは、国を完全に抱いて、その国をして世界のために犠牲になるようにさせようというのです。(一九七二・五・二一、前本部教会)

 宗教の教えとはどのような教えを言うのでしょうか? 堕落で二つのレールが生じたので、悪の道に行くのを行けなくするというのです。自分を主張することのできる方法を考えようとするので、それを完全にできなくするためには、「やあ、お前は死地に行け。他人のために死ね」と言うのです。他人のために死んだというようになれば、世界まで直行するのです。分かりますか? 生命を捧げて、公的な問題を中心として犠牲になったと言うときには、世界のどこにでもはばかりなく行くことができるのです。

 それゆえ、イエス様がこの地に来て教えるのには、死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬと言ったのです。これをこの世的に考えれば、ばかみたいな話だというのです。それは気抜けした人の言葉のやり取りだというのです。しかしながら、この原則を踏まえて(暮らして)みれば、「やあ、これが(本当に)こうなったんだなあ」と言うことでしょう。死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬというのです。(一九七二・五・一四、水澤里)


3 真なる宗教とは

 真なる宗教とはどのような宗教でしょうか?
 第一には、神様の愛を独り占めする宗教です。それでは、その宗教を主管する存在、または神様の愛を独り占めできなければなりませんが、神様の愛を独り占めにできる存在とはどのような存在でしょうか? 人間は自分が作った創作品を愛します。それゆえ、自分の作品を愛し好む人がいるなら、(作者は)その人をやはり好み愛することでしょう。同じように神様もご自分の創作品をご自分以上に愛し好む人がいるなら、その人を一番愛されるでしょうし、その人にすべての財産と権力、そして愛までも完全に相続させようとなさることでしょう。

 ところが、神様のすべてのものを神様以上に愛し大切にしてくれる存在は、神様の息子しかいないはずです。それゆえ、神様が最も愛する存在は、神様にお父さんとして仕える息子であり、その息子は神様の愛を独り占めできる存在です。

 神様の愛を独り占めする息子は、神様と同等な主管権を持つのです。それゆえ、エデンの園のアダム、すなわち人類の真の父となる存在は、神様と同等権を持つ神様の実体であることが分かります。このような息子の宗教、神様の愛を独り占めする息子の宗教が一番真なる宗教なのです。

 第二に、神様の愛を独り占めする傑作品を探そうとする宗教が真なる宗教です。すなわち、神様の息子を探し、彼と因縁を結ぼうとする宗教が真なる宗教だというのです。新しい因縁を結ぶために、心を中心として体を否定し、新しい因縁を中心として過去の因縁を否定し、新しい家庭、新しい民族、新しい国家、新しい世界を中心としてこの世を否定する宗教が真の宗教なのです。

 第三に、神様の愛を知らせてあげる宗教が真なる宗教です。神様の愛を父母の愛として知らせてあげ、夫婦の愛として知らせてあげ、子女の愛として知らせてあげる宗教が真なる宗教だというのです。

 それでは、神様の息子を探すためにこの世を否定し、神様の愛を知らせてあげる宗教とはどのような宗教でしょうか? それはキリスト教です。イエス様は神様を「父」だと宣布なさり、ご自分は神様の「息子」であるとおっしゃいましたが、これは悟りの深い境地を言ったのです。またイエス様は「私に従う者はすべてを捨て、十字架を負うて従え」と話され、「だれよりも私を一層愛せよ」と話されました。

 また終わりの日に万王の王として、父の栄光をもって、そして愛をもって再び来られると言われたのをみると、キリスト教が一番真なる宗教であることが分かります。それゆえ、私たちは真の父母の名によって祈祷するのです。(一九六九・五・一九、春川教会)

 宗教のうち最も真なる宗教はどのような宗教なのでしょうか? 神様を中心として父子の関係を結ぶようにし、さらにその上に兄弟の関係を結ぶようにして、世界を神様を中心に一つの家庭として作り上げるという、そのような真理の内容を備えた宗教です。そのような宗教であればあるほど神様が願われる偉大な宗教であり、人間が主張する最高の宗教だというのです。

 さあ、今、私たちは真なる宗教の核心的な内容を記憶しなければなりません。仏教もここに合格とならなければならないし、回教もそうであり、キリスト教もそうです。どの宗教であれ、ここに近づくことのできる宗教が神様の前に近い宗教です。そのような宗教は神様がおられる限り、世界的な発展をすることでしょう。その宗教は世界を動かすことのできる基盤を築くことでしょう。これは最も理論的です。(一九七七・二・二〇、ベルベディア修練所)

 宗教の中でどのような宗教が最高の宗教でしょうか? どのような宗教が真なる宗教でしょうか? 真の宗教になろうとすれば幸福の与件を完全に具備しなければなりません。幸福の与件を具備しなければならないというのです。その幸福の与件とは何でしょうか? 幸福の絶対与件とは何でしょうか? 神様の愛です。そうなるでしょう?(はい)神様の愛を中心として完全な内容を具備することのできるこのような与件を備え、教えてあげる宗教でなくては、それが真なる宗教となることができない、そのような結論が出てきます。(一九六九・五・一七、清州教会)


二 宗教の必要性

1 宗教が必要な理由

 皆さんも宗教人の一人です。宗教の中にはいろいろな宗教がありますが、わが統一教会はその中の一つの教派だとみるのです。数多くの宗教の背景はその文化と環境的基盤に従って、歴史的な変革を経てきたことを私たちはみることができます。
 では一体このような宗教がなぜ必要なのでしょうか? これはあらゆる万物の中で人にだけ必要なのです。宗教というのは何を主体として行く道なのでしょうか? これは人だけを中心として行く道ではありません。神を中心として、神と人間との関係の中で成されたものが宗教だというのです。それでは宗教を人がまず始めたのでしょうか、神がいるなら神がまず始めたのでしょうか? それはいろいろと考えが異なります。どちらでしょうか? 神です。

 本来、堕落がなかったならば、宗教は必要ないのです。それでは、堕落はだれがしたのでしょうか? その宗教をもたらしたその主動的な存在は何かという問題を踏まえてみると、人に帰結されるのです。それでは堕落した人を神様の前に・・・。神様との関係を結ぶために、この事を始めたということを考えてみると、それは人間ではなく神様がまず始めたという話も成立するのです。

 このように見ると、おおよそ宗教の発生の重要な要因は何でしょうか? もちろん人間が堕落することによってそのような原因を提示したと見ることもできますが、神様が提示する、そのような根本的な動機が主動的な動機になっていると私たちは見ざるをえません。(一九七七・四・二四、ベルベディア修練所)

 人間が堕落したので、宗教も必要であり救世主も必要なのです。人間が堕落しなかったなら、イエスも救世主も宗教も皆必要ないというのです。一気に神様と一つとなって永遠な神様の愛を中心としてこの地に生きるでしょうし、そのようなお母さんとお父さんから生まれた息子・娘、後孫、その国が全部天の国に入るのです。そのように地上で生きてから天の国に入るので、地上天国から天上天国に入るのです。人間の堕落によって地獄が生まれ、イエスや救世主や宗教というものが生まれたのです。(一九七二・三・四、米・サンフランシスコ)


2 宗教は万民に必要

 では宗教というものは万民に必要なものでしょうか? でなければ、ある特殊な人にだけ必要なのでしょうか? どうでしょうか? ある人は年老いて死ぬようになったとき教会を訪れて、ひたすらイエス様を信じてから天国に行けばいいと言う人がいます。そのような人は絶対に天国に行くことができません。神様は統一された神様として数千年を引き継いでこられたので、神様の善の要素と一致することのできない人は、統一された世界である天の国に行くことができないです。

 手段と方法をもってでは、その世界に接近することができないのが天理です。それゆえ、神様が人間世界の傷悼(=胸が痛いほどとても悲しいこと)を解決し、人間を救うための一つの方便として立てておいたのが宗教だというのです。

 それでは宗教はどのような人に必要なのでしょうか? 今日の大学教授たち、あるいは知識層にいる人たちの中の何人かの人々は宗教とは弱者が信じるものだと言います。その人々を本質的な立場で分析してみれば、彼らは人でもありません。彼らは大部分、統一の与件に反対する悪党たちなのです。そのような人々が存在する限り世界平和はありえません。

 宗教は特別な少数の人にだけ必要なものではなく、万民に皆必要なのです。また現在の人にだけ必要なものではなく、過去の人にも必要だったのです。しかし、彼らはこのような内容を知らずに死んでいっただけです。また未来の人々も知るべきであり、彼らにも必要であるはずです。(一九六七・八・一三、前本部教会)


三 宗教の目的

1 宗教の目的は

 宗教を立てた目的は何でしょうか? 全世界の野生のオリブの枝をなくすためです。今までこれを知らなかったというのです。これを宗教が知らなかったというのです。ゆえに、宗教者たちの使命とは何でしょうか? 野生のオリブを真のオリブとして完成させることが数多くの宗教の責任であり、宗教者たちの使命です。それで何をしようというのでしょうか? 神様から離れて罪人となったので、善人となって神様のもとに帰ろうというのです。神様に帰る運動です。それゆえ、宗教の目的とは何でしょうか? 人類を救って神様のもとに帰ることです。

 では、宗教者たちが信仰生活をするその個体目的はどこにあるのでしょうか? 今まで宗教者たちは「ああ、私が宗教を信じて救いを得て、私がうまくいきたい」と、こうでした。さて、私が宗教を信じるのは世界人類を救うため、人類を連れて神様のもとに帰るためだというのが正しい信仰者の道です。

 真なる宗教者、真なる信仰者たちとはどのような人でしょうか? 「私が宗教を信じるのはこの国を神様に帰し、この世界を神様に帰するためだ。私の息子・娘、私の子孫をまず救うのではなく、国をまず救い世界を救おう」という人です。これをまず解決して私の息子・娘を見いだそうというのです。国家が救われれば、私の家庭と息子・娘がすべて救われるのです。世界が救われれば私の国も一度に救われるのです。

 それゆえ、真なる宗教は人類を救おうとする宗教です。人類を救って、その人類を連れて神様のもとに帰ろうとする人が真なる宗教者です。神様はこの世界を救うにおいて、アメリカの国をまず救いたいでしょうか、世界をまず救いたいでしょうか?(世界をまず・・・)(一九七五・一〇・二三、米・シカゴ)

 では、真なる宗教をどのように区別するのでしょうか? キリスト教も長老教会なら長老教会が正しいと言い、メソジスト教会ならメソジスト教会が正しいと言い、このようにキリスト教の四〇〇の教派が互いに争い、カトリックもカトリックが正しいと、ありとあらゆる・・・。だから、宗教戦争で五十余万名が虐殺され、互いに皆正しいといって争うのに、どれが真であるのか分かりますか? また仏教、儒教、回教全部自分たちが一番だというのに、どちらが真なる宗教者なのか分かりますか?

 真なる宗教とは何でしょうか? 本然の世界に帰ろうと主張しなければならないのです。神様の救援摂理が・・・。救いとは何でしょうか? 病気になった人を救うということは、病気になる前に戻るということです。今まで、救いの目的が何かということをだれも知らなかったというのです。定義を下せなかったのです。このような混乱した世界において統一教会は宗教の定義を下しました。

 だから、救援摂理とは何でしょうか? 救援摂理は復帰摂理である! 復帰という言葉を発見したというのは偉大な発見だというのです。復帰はどのようにするのでしょうか? アダムとエバが罪を犯す前、神様の愛を直接受けることのできるその世界に帰ろう! これが救援摂理の究極的な目的です。それは万民だけではなく天と地まで全部が・・・。それゆえ、神様の救いの目的やメシヤの救いの目的や私たちが救われるようになる目的は一つだというのです。皆同じだというのです。

 私たちが宗教を信じる目的は何でしょうか? 罪のない世界、神様と本然の世界を捜していくため以外にないというのです。世界人類は兄弟です。兄弟だというのです。彼らとともに一つとなって、いっしょに帰ろう、神様の愛の世界に帰ろうというのです。(一九七五・一〇・二三、米・シカゴ)

 神様が救援摂理をする目的は、この世界を取り戻すことです。では、メシヤをなぜ送ったのでしょうか? メシヤを送った目的もこの世界を取り戻すことです。今、宗教の目的が分かったというのです。宗教は世界のために・・・。それを見いだして、その次にはメシヤのために・・・。だからメシヤが来て、ここにいる人々に全部息子・娘の資格を与えてはじめて・・・。天国は本来、神様の息子・娘となってはじめて入るのであって、養子が入るのではありません。息子・娘の資格を備えてこそ入るようになっているというのです。(一九七五・一一・二、ベルベディア修練所)


2 宗教が指向する最高の目的点

 それでは、今まで創造主が人間に与えようとされた遺業とは何でしょうか? 人間たちが暮らしている地球ではありません。この地球ではありません。私たちが相続すべきものは、この地に限定されたものではありません。この地を土台として永遠無窮な世界、広大無辺な世界を私たち人間に相続させようとなさるのです。それだけではありません。天と地はもちろんのこと、天宙を創造された創造主まで与えようというのです。真の宗教の目的地はどこでしょうか? 地ではありません。地ではないのです。全部一つの中心である唯一神を指向します。宗教を立て、それを指向する個人、家庭、社会、民族、国家の形態として歴史を導いてこられました。

 このような神様はいまだに天と地、そこに神様ご自身まで合わせて、「このすべてのものを永遠にお前たちに与えり」という祝福をなさることができませんでした。祝福をなさることができなかったのです。

 選民思想を誇ったイスラエル民族に神様は何を与えようとしましたか? 神様ご自身を与える前に、ご自身の息子を与えようとなさいました。ところが、彼らはその息子を打ち殺しました。神様の選民だといって、その息子を通して遺業を全部与えようとなさいました。ご覧なさい、イスラエル民族を立てるまで神様がどれほど苦労をなさったか。民族を立てておいて何を与えようとしたでしょうか? 神様の愛するひとり子を与えようとなさいました。そこで終わるのではなく、後には神様ご自身までも与えようというのです。これが信仰の最高の目的点です。(一九六〇・一一・二七、前本部教会)




















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