統一教会と食口たち
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第三節 統一教会の使命

一 世界の三大難問題と統一教会

 統一教会は何をしようと言うのですか? 私たちの欲望は国ではなく、世界ではなく、神様の荷を背負おうということであるのを知っています。では神様がいるならば、神様はどうですか? 考えるでしょうか、考えないでしょうか? 神様において重荷は一体何ですか? 考えてみたことがありますか? 皆さんは神様において重荷が何であるのか考えてみたことがありますか?(はい)何ですか?

 第一に何かと言えば、滅びていくキリスト教とたくさんの宗教が問題だというのです。宗教をどのように一つにするかということが一番の問題だというのです。神様は宗教をどのようにして一つにするかということゆえに、頭を痛めておられるのに、メソジストが「父なる神様! 他のキリスト教はやめて、わがメソジストに福を与え給え」と言えば、それが神様の耳に入るでしょうか? 四百余りの宗派の中の一つの宗派であるのにです。そういうのを見ると、神様は「えい、こいつら! この教派主義者たちめが! お前たちのために祈祷する前に、まずキリスト教を一つにしろ! 一つにして祈祷しろ」そのようにお考えになることでしょう。「そうすれば、私が一度祈祷を聞いてみよう」このようにお考えになるでしょうか、ならないでしょうか?

 キリスト教が一つとなった立場で「神よ! われらキリスト教を通して、あなたの一番頭の痛い重荷たる宗教を一つにする仕事のために、私たちに力をお与えください! 能力をお与えください! 一つにするようお助けください!」と言うとき、天が「ああ、お前の祈祷が正しい」と言われるのであり、「えい、こいつ、欲が深い、そんな祈祷はだめだ」そうおっしゃるでしょうか? 「お前は長老派を信じ、お前はカトリックを信じ、教派を持って私に祈祷しなければならない」そうおっしゃるでしょうか? ゆえに、神様は教派を壊すことのできる人が現れることを願われるというのです。教派を壊して一つにすることのできる人が現れることを待っておられるというのです。(拍手)そうです。神様に一番問題となるのは宗教です、宗教。

 その次、二つ目は世界の国をいかにして一つの国にすることができるかということです。そのように見るとき、アメリカが「ああ、神よ! 二百年の間わが国を祝福なさり、キリスト教圏をつくって、このように栄え、世界で第一にしてくださったので、神よ! 世界のことは全く知りません。世界を皆放棄してアメリカだけを中心として、アメリカだけに福をください!」と言えば、(神様は)その祈祷を聞かれるでしょうか?(いいえ)神様はどうなされるでしょうか? 耳を当てられるでしょうか、背を向けられるでしょうか?

 白人、黒人、黄色人種を意に介さず、世界の国を神様のみ名によって一つにしようというような人が現れ、「神よ! この世界の人類を一つにしてください。キリスト教を一つにし、キリスト教を通して世界を一つにしてください!」というそのような主張をすれば、神様はぱっと元気が出るでしょうか、出ないでしょうか? 氏族を超越し、黒人でもいいし、白人でもいいし・・・。アメリカでは「神の下の一つの国」ということは教えてくれましたが、「神の下の一つの世界」ということは教えてくれなかったというのです。神様の難題は世界の人々をどのようにして一つにするか、世界の国をどのようにして一つにするかということです。それがとても難題です。考えてみなさい。神様はそういうことを考えるのであり、他に何を考えられるでしょうか?

 その次、三つ目は何でしょうか? 三つ目として神様に一番の重荷は何でしょうか? どのようにして地獄を解放するか、霊界と地獄をどのようにして統一させるかということが問題だというのです。そうしてこそ神様は愛の神様でしょう。考えてみなさい。神様があの御座におられるとするなら、地獄に行って苦しくてたまらないと言いながら、「私を助け給え」と言う霊人たちを見るとき、神様が「おい! お前はそれでも当然だ」と思われるでしょうか、「あの者たちはかわいそうだ」と思われるでしょうか?(かわいそうです)地獄を開放しなければなりません。

 だから何をしなければならないでしょうか? 真なる愛は宗教を超越するのであり、真なる愛は世界を超越するのであり、真なる愛は地獄を超越するのです。すなわち、真なる愛で愛すれば神様と対等な立場に進むというのです。(板書されながら話される)分かりますか、何の話か? それゆえ、真の愛を持てば宗教も一つにすることができ、そのような真理を通して世界も一つにすることができ、地獄も開放することができるのです。神様はそのような能力を持っているというのです。だから神様の愛を中心として対等な立場に進むことができるのです。

 そのような真なる愛を模倣し、地上にその基盤を築こうとするので、愛を中心として文化圏が違ういろいろな形態の宗教をつくりました。宗教も世界的な幼稚園のような宗教があり、世界的な小学校のような宗教があり、世界的な中学校のような宗教があり、世界的な高等学校のような宗教があり、世界的な大学のような宗教があり、世界的な大学院のような宗教があり、世界的な博士コースのような宗教があるということを知らなければなりません。分かりますか?(はい)神様の目から見るとき、そうだというのです。反対するようにはなっていないというのです。分かれば反対するようにはなっていないというのです、互いに。大きな大学であるほど東洋研究科、西洋研究科、アフリカ研究科などいろいろ分科があり、何学科だ何学科だと、学科が多いのと同じように、そのような組織になっていかなければならないというのです。宗教も同じだというのです。

 それでは統一教会は何ですか? 高等学校ですか、中学校ですか、でなければ大学ですか、大学院ですか、博士コースですか? どれですか? 難しいほど、博士級であるほど易しいので人々が多く行くのですか?(違います)(笑い)けれども幼稚園と小学校は難しいのでだれも行けない!(違います)違います。よく知っていますね。いいです。(笑い)そう、統一教会はだれでもが入ってこられないというのです。ここはだれでも入ることができないのです。だれでも入れるでしょうか? 入ってこられないのです。さあ、これを勉強するのも、ああ、難しく、活動するのもそうだし、ああ、ああ・・・。(笑い)(一九七八・五・七、ベルベディア修練所)

 神様において一番頭の痛い問題が何かと言えば共産党です、共産党。共産党をどのようにこの地球星で神様のみ名によって食い止めるかが、一番頭の痛い問題なのです。次に二つ目の問題は、疲弊し、落後して滅亡に至りつつあるこの既成教会をだれがまた再建するかというのです。三つ目の問題が何でしょうか? 今、このアメリカの青年たちを見なさい。全部くずになったというのです。これは全部ごみ箱に入らなければなりません。全部皆麻薬中毒になって・・・。この民は滅びるのです。だれがこの青少年たちをここから新しい倫理体制を中心として神様のみ名の圏内に救ってくれるだろうか? 神様が頭を痛めるこの三大問題にだれが責任を持つのでしょうか? それをだれがするのでしょうか? 今のアメリカ政府にできますか? アメリカ政府もだめであり、国連もだめであり、だれもだめです。皆だめだというのです。神様が頭を痛めるこの難問題を解決できずに進み続ければ、地球星にいる人類は全部滅亡するようになるという結論が出てくるのです。

 このような三つの難問題に今日、レバレンド・ムーンを中心とした統一教会員たちが責任を持とうと乗り出したことを、皆さんは知らなければなりません。それゆえ、皆さんは神様のみ旨を徹頭徹尾はっきり知らなければならないのです。神様のみ旨は人類を解放するのです。人類解放のためのみ旨だというのです。ところが、このような難問題を処置しなくては解放がありえないので、このような問題に手を付け始めたのが統一教会だということを知らなければならないのです。(一九七六・一二・二五、マンハッタン・センター)


二 摂理的使命

1 復帰を通した救援の使命

 統一教会とは何でしょうか? 神様の目的を達成しようとする教会ですが、それがどういう教会でしょうか? 昔に帰って再び出発しなければならないと叫ぶ教会です。だから復帰をするための教会が統一教会です。

 本来の世界には神様がおられ、人がいました。ところが、神様と人とが分かれました。決裂したというのです。だから、(目標に向かって)撃ってみることもできなかったというのです。堕落したので撃ってみることもできなかったというのです。ですから、撃ってみることのできなかったその目標がここにあると言っても、それは必要ないというのです。それは落第です、落第。全部落第だというのです。だから、人が神様に侍っておき、ここに立って再び出発点を計って撃つ道しかないというのです。このように見るとき、統一教会とは何でしょうか? 復帰の原点をはっきりさせる教会であり、目的をはっきりして撃ち、その目的に向かって行くことのできる役事をする教会です。分かりますか?

 では、この直線は何でしょうか? 何を通してこの直線を描いていくのでしょうか? それが問題です。何を持って直線の道であると言えるのでしょうか? ここで全部が確実に百パーセント的中し、それが連結していっても、一直線に結論に到達しうる道が何かというのです。それが何でしょうか? 歴史を指向するその指向性が、本来撃つ本来の線が何でなっているのでしょうか? 力を持って撃てばそれが当たるかというのです。さあ、お金を持って撃ったとして当たるかというのです。次に知識を持って撃てば当たるのでしょうか? このようなことが問題だというのです。

 それゆえ、統一教会が人々に「本来の出発点に帰れ」とお話しするのが歴史的な善であり、世界的な善であるというのは間違いないということを知らなければなりません。それは間違いないでしょう?(はい)

 ここに行ってオリジナル・ポイント(=原点)がなければ何をするのでしょうか? 撃つ場合に何を持って合わせるのかというのです。出発点から撃つのにターゲット(=目標)が世界ほどのターゲットだとするなら、その直線距離を延長した場所に小さいターゲットを立てておいても、それは全部同様です。これくらいのターゲットを置いて撃ったとしても、当たればそれはこの世界ほどのターゲットに通じるというのです。(黒板に絵を描きながら語られる)これくらいの看板を置いて撃ったとしても、この中心はここと通じるのです。
 ここでこの世界的ターゲットに向かって撃てといって、当てたときはどうなるでしょうか? これは宇宙全部を意味します。目的を全部成したというのです。こうなりうる何かがあるので、神様と人間との総力を通して・・・。神様も「ダーン」と撃つのです。銃でするか、何でするかしてです。(一九八五・一・四、ベルベディア修練所)

 復帰の道を変更することができたなら、神様が今まで苦労する必要もなく、この地上に多くの聖人たちを送って、血を流させる必要もなかったのです。ゆえに、統一教会は何をする教会でしょうか? 復帰の道を真っすぐ行こうという教会だというのです。それを知らなければなりません。(一九七八・三・四、米・パサデナ教会)

 今、新しく出発すべき時代が来ました。統一教会において貴いものは何でしょうか? 誤って出発した恨みを解くことができるというのが貴いのです。この恨みを解くことのできる、天地が一致しうるその願いの基準は皆さんの個体ではありません。個人を越え、世界全体の国家を連結させうる使命を果たさなければならないのです。

 この使命を成就するときまでは命を懸けても最後まで残り、この道を開拓しようという信念を持って、先生は歩んできました。先生の個人の目標を掲げて現れたのではないというのです。ですから、皆さんはこの道に同参しなければならないのです。この道の途中においてより貴いと思えるものがあるなら、死ぬときまでも従っていかなければなりません。そうでなければ罪悪の世界をだれが収拾できるでしょうか? 皆さん自身が収拾し、世界を料理できなければなりません。(一九六八・七・一四、前本部教会)


2 イエス様の恨みを解いて差し上げようという宗教

 私たち統一教会でするのは何でしょうか? 統一教会がしようとするのは何でしょうか? イエス様の恨みの積もったものを解いて差し上げようというのです。それが目的です。イエス様は国家から歓迎されなかっただけでなく、民族の前からも歓迎されなかっただけでなく、氏族と家庭、兄弟からも歓迎されませんでした。そうでしょう? ヨハネの福音書を見なさい。イエス様の兄弟たちが仮庵の祭に、(公に)現れることを願いながら、「はっきり世にあらわしなさい」と言ったでしょう? イエスの恨みが積もったというのです。(一九七八・九・二五、本部教会)

 私たちの責任というのはどこから果たさなければならないでしょうか? 外的なことからするのではなく、内的なことからしなければならないというのです。外的な人格体制を私たちの責任だとしてはなりません。内的な人格を装ってこそ・・・。外的に、見せるために動くことはすべて一掃してしまい、内的に隠れて、人知れず胸が張り裂けるような痛みを感じながら、全体が同情しうる環境で寝入り目覚め、その場を浸食していく生活をする群れとまずなるべきではないかというのです。家に帰って気ままに暮らしてから現れては・・・。そんな憎たらしい群れが多いでしょう? それゆえ、外的な責任が問題ではありません。外的な責任は全部流れていくのです。

 今日、統一教会ではイエスの内的な心情を解怨し、神様の内的な心情を解怨しなければなりません。これがこの時代においてイエスが何よりも願うことです。神様の前に痛い心情を残した、不孝なる死の道を行ったイエスの心は、今日この時代において(神様を)私たちによって解怨して差し上げるのを願うのではないだろうかというのです。だからイエスが後援してくれ、天が後援してくれ、使徒たちが後援してくれ、キリスト教が後援してくれ、歴史的な先祖たちが後援してくれてこそ成されるのではないかというのです。(一九七二・六・一、前本部教会)

 神様はイエス様を死の場に立てるようになるとき、どれほど胸がお詰まりになったでしょうか? イエス様を死地に放り出したのは神様の解怨をするためではありません。人類の解怨をするためにイエス様を死地に放り出したのです。神様の解怨は人類によってなされるのではなく、神様の息子によってなされるものであるにもかかわらず、人類が神様の息子であるイエス様を背信し反対したので、神様がこの人類を再び救うことのできる道を築くために、イエス様を人類の罪を蕩減してくれる祭物的立場で渡したのです。言い換えれば、人類を解怨させてあげるためにイエス様を渡したのです。

 では神様の恨みはだれが解いてあげるのでしょうか? 人類は解いてあげられないのです。イエス様が解いて差し上げなければならないのです。イエス様がその怨恨を解くことができるのは国でもなく、世界でもなく、まさにこの体です。この体を中心として解いて差し上げなければなりません。体に連結されているサタンの根本の根を抜いてしまう勝利の基盤を築き、神様の前に堂々と進み出て、愛される息子として神様を慰労して差し上げる責任がイエス様にあったというのです。ところが、イエス様は神様の恨みを解いて差し上げられなかったのです。それゆえ、過ぎ去った歴史を踏まえて再臨予備期という数千年の期間を経て現れたという事実を知らなければなりません。

 それでは今日私たち統一教会の使命とは何でしょうか? イエス様が解怨成就して差し上げられなかったその責任を私たちが代身しなければならないのです。ですから、私たちの使命は人類のために犠牲となる祭物の立場に立つのではなく、神様が今まで悲惨な歴史を経てこられながら解怨成就できなかったその恨みを解いて差し上げ、神様を喜ばせて差し上げた後に人類を喜ばそうというのです。これが統一教会が背負った使命なのです。一般のキリスト教とはその使命が違うのです。分かりますか?(はい)(一九七一・八・一九、中央修練院)


3 三時代の使命を完結すべき統一教会

 統一教会は歴史的使命を背負ったのを知らなければなりません。原理の勉強をしたでしょう?(はい)原理の勉強、それは全部信号にしかなりません。その背後のすべてのことは分からないでしょう? 皆さんは「きょう食膳に良い料理を出したね」と言ってご飯を食べますが、その背後で料理を作るためにけんかをしたのか何をしたのか皆分からないではないですか? 食べるのがおいしいといってつまんで食べるでしょう。食べる人はそれで通じますが、作る人はそれでは通じないのです。事情全部が。同じだというのです。

 ご飯をどのように作って、そのお米が盗んだものなのか、どこから持ってきたものなのか、仕事をする女性たちがどんな女性たちなのかということも知らないのです。そのご飯は自分の妻の怨讐が作ったご飯にもなりうるし、悪党である怨讐たちが作った、因縁のあるような品物を持ってきてご飯を炊くこともできるのです。そういうことがすべて分かるようになれば食べられないのです。神様は皆ご存じなので、それを隠さなければならないのです。神様は全知全能なるお方なのでそれを皆知っているのです。それゆえ、サタン世界で天を求めていく人々はそれをすべて知って、きれいに整備しなくては、浄化させなくては天の前に行くことができません。(一九八六・一・二一、本部教会)

 再臨時代は世界的基準です。国家的基準ではなく世界的基準です。それを知らなければなりません。だから、五色人種を中心として全部、アフリカや南米やアジアを問わず全部万物復帰しろというのです。全部皆出掛けろというのです。全部皆犠牲になれというのです。悪口を言われろというのです。

 それゆえ、統一教会は旧約時代の復活であり、新約時代の復活であり、そして成約時代の復活なのです。分かりますか、何の話か? だから実体とならなければなりません。ここで失敗してはならないのです。三時代に侵犯された歴史的なすべてのものを蕩減しなければならないのです。それは理論に合っていますか、合っていませんか? 合っていますか?(はい)この蕩減復帰をするのでサタン世界は退き、天の世界が誕生するという理論的根拠が、ここで確定されるということを知らなければなりません。

 それが統一教会の使命です。それがレバレンド・ムーンが中心としてする仕事だということを知らなければなりません。統一教会員たちは、今まで自分のものを持つようにはなっていないのです。私も今まで私のものがありません。(?)

 統一教会は既成教会よりも一段階さらに高い世界を追求していこうというのです。既成教会が平面性を帯びていくなら、統一教会は立体性を帯びていこうというのです。

 ではどこがより偉大でしょうか? このように話をすれば自画自賛だと言うかもしれませんが、どこがより偉大ですか? 統一教会と既成教会とどちらがより偉大ですか? 統一教会がより偉大です。天宙主義がより偉大です。統一教会は「天宙とともに生きよう」というのです。

 それゆえ、私たち統一教会は三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日この罪悪の世に生きている人々を解放し、これから来る後代の人々もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏を掲げて出てきたのです。

 これは膨大でとてつもないことです。このように夢のような内容が事実として現れればどうなるでしょうか? 目が真ん丸く開き、口はとめどなく開き、耳をそばだてるでしょうが、頭は下げるようになっているというのです。

 どこかに急いで走っていくときに、腰をぴんと立てて走る人は今まで見たことかありません。皆腰をかがめて走ります。今、統一教会が行くのは何かを見物しに行くのではありません。急進的に走っています。走るので人々は統一教会の教理やみ言はいいのですが、行く方法が間違ったと言います。その道に従っていこうとしましたが自分の足が裂けそうだからです。

 ところでそれがなぜ違うのでしょうか? 現実と違うからです。しかし、私たちは世界的な足取りで行かなければなりません。このように生きれば滅びません。そのように生きたのに滅びるならば、この世に神様はいないというのです。

 それがなぜそうなのでしょうか? 私が世界とともに生きるからです。これが素晴らしいのです。(?)


三 宗教統一

1 すべての宗教が求めていく目的は一つ

 この世にはたくさんの宗教があります。その宗教は最高の目的を願い、またそれを追求していっているのを私たちは知っているのです。これは真なる人によって成されるのです。真なる人々が一つになって真なる目的を追求するために、歴史上には多くの宗教が現れました。

 それなら真だとか、あるいは宗教の目的だとかいうものがいろいろになってはならないはずです。歴史の流れに従ってある時代圏内に宗教があるとしても、その宗教はその時代を経ていき、未来に連結される善の目的を中心として見るとき、その宗教が行く道はいろいろあり、宗教があるとしても、一つの道を通してのみ一つの目的の世界に帰結されるのは間違いないのです。

 ところがキリスト教について見てもたくさんの宗派があります。仏教も宗派がたくさんあります。私たちが知っている世界的宗教を中心として見ても、たくさんの宗派が生じているのです。では多くの宗派が生じるようになった目的は何ですか? それはより善なる目的を誓い、より善なる目的を現実的に自分たちの宗派圏内で成就させる内的な要求から出発したのは間違いないのです。

 それゆえ、宗派間の紛争をするとしても、それは現在前進している立場を後退させるのではなく、より次元を高めて革新するための紛争にならなければなりません。それにもかかわらず、そうできなくなるときには、紛争する二つの宗教の目的観は相反する立場に立つのです。

 どんな大きな宗教でも、その宗教は一つの最高の目的を指向して行くのは間違いありません。宗教の目的、あるいは宗教を中心として行くのは、絶対的な神を中心として出発したものであるのを私たちは知っています。自分たちが崇め尊ぶ神だけが、この宇宙で最後に勝利の神として登場することのできるお方であり、そしてその方が自分を通して、自分の宗団を通して提示しておいた教理、あるいは経書に紹介されたその道を通して必ず一つの勝利の世界に帰結されるという、そのような信仰生活をしているのです。ところが、神というものは二つありえません。一つしかありえない神ではないか。その神が願うのは一つの目的であり、一つの結果を固く誓うことであらざるをえないのです。(一九七二・一〇・一、前本部教会)


2 神様のみ旨は宗派や教派の救いではなくこの世の救い

 では真なる宗教、真なる宗教はどんな宗教でしょうか? 簡単だというのです。神様のみ旨のままに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか? 神様のみ旨は宇宙を救うことです。言い換えれば世界を救うことです。キリスト教徒たちはこれを知らなければなりません。神様のみ旨はキリスト教、何、長老教会の大韓イエス教長老会を救うことではありません。世界を救うためのものです。イエス教長老会を犠牲にしても世界を救わなければならず、キリスト教を犠牲にしても世界を救わなければなりません。これが神様のみ旨です。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 聖書にあるではないですか? ヨハネの福音書三章十六節は日曜学校のときからすらすらとそらんじるように皆教えます。ヨハネの福音書三章十六節では何と言っていますか? 神はそのひとり子を賜わったほどに、わが長老教会を愛して下さったと言いましたか、そのひとり子を賜わったほどに、メソジスト教会を愛して下さったと言いましたか、そのひとり子を賜わったほどに、カトリック教会を愛して下さったと言いましたか? そうではありません。神様は何とおっしゃいましたか? 「この世を愛して下さった・・・」この世です。その教えをすべて無にして、教会第一主義、教派第一主義を主張するよこしまな群れたちは終わりの日にがちゃんがちゃんと全部破綻するというのです。それゆえ、教派主義は皆壊れていくのです。ローマ教皇庁の教派主義、全能権を行使するすべてのもの・・・。統一教会の文先生は何を? 「神はこの世を愛して下さった・・・」 イエスが来たのはこの世を愛するために来たのです。イエスが死んだのはこの世を救うために死んだのです。長老教会の人だけのためではありません。

 このような思想的根拠が全部食い違っているというのです。これを革新しようとするので、反対されながら(不変の)心で行くのです。真の道は反対されながらも歩んでいくのです。すべての宗教の和合運動を今私がしているのです。例を挙げてみれば、イスラム教はいろいろな教派があります。三大教派に分かれて闘っています。彼らを一つにするために、私がお金をあげて統一運動をさせているのです。なんとまあ、そんなことができますか? キリスト教が争っていますが、その教派統一運動を私がさせているのです、反対されながら。(一九八六・四・二四、春川教会)

 キリスト教の本然の使命は神様のみ旨を成すことですが、神様のみ旨を成すためには、人類救道の責任を果たさなければなりません。できなければ審判台の前に立って、行くべき道を行くことができません。私が知ってみたら、そうだというのです。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。真なる宗教はどこにあるのでしょうか? 人類のために自分の国はもちろん、自分の教団や自分の教会を投入することのできる主張を持った宗教です。このような宗教は滅びません。滅ばないというのです。二段(イーダン=異端)がとても多く、三段(=異端に掛けた言葉)がとても多い信じられないこの現実社会で、私たちがわきまえて行くべきことは・・・。だれがより国のために、だれがより世界人類のために生きるかという原則を踏まえてみるときに、真と偽りははっきり分かれるのを皆さんは知らなければなりません。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)


3 宗教統一の必然性

イ)絶対的神は一つ

 皆さん、統一というその言葉はだれでも皆願う言葉でしょう?(はい)今日、教会に宗派が多くて、何がどうだこうだと言いながら争い、社会の指弾を受けて騒々しいでしょう?

 皆さんも考えてみなさい。宗教は神様を中心として進むのですが、その神様は何人ですか? 神様が何人にならなければならないでしょうか?(一人です)一人です、一人。絶対的神は一人です。一人でなければならないのに、長老教会の神様、メソジスト教会の神様、何、ホーリネス教会の神様、今日の統一教会の神様、また何か仏教の神様、儒教の神様、イスラム教の神様があるので、どうなっているのですか? 絶対的神の位置を喪失し、相対的神の位置にいる、そのような「宗団の神」に侍るそこでは、絶対的価値の理想郷というものは見いだすことはできません。そのような結論が出てくるのです。

 そのような宗教を通じて人類の救道や、理想世界や、地上楽園や天上楽園などというものを夢みるのはすべてたわごとです。イスラム教の神も神様の属性の一部分に属する、神の属性を表す神であると主張できるかもしれませんが、それは可能でしょうが、絶対神として代置することはできません。絶対的神の位置は一つしかないのです。

 それゆえ、絶対神と言うことのできる神様の前に出ていくためには、すべての宗教は一つに帰結されなければなりません。そうならない限り、そのような宗団は終わりの日になればなるほど、皆壊れていくというのです。それゆえ、相対的神を追求する宗教では絶対的価値で成り立つ一つの世界は現れてこないというのです。このような宗教概念を持った宗教圏内に立っているなら、その宗教も再び革命の運命を避けられない立場に立っていると結論づけることができます。(一九八二・一〇・二四、リトルエンジェルス芸術会館)


ロ)神様はいろいろな宗教を必要としない

 神様はいろいろな宗教を必要としないというのです。仏教があることを願ったり、イスラム教があることを願ったり、儒教があることを願ったり、キリスト教があることを願ったりはしないというのです。神様は宗教があるとするなら、その宗教が神様のみ旨に基づいて相互いに一つとなり、世界の解放のために生き、この地上の悪を撤廃させ、善の世界を成すにおいて一つの目的を中心として前進していくことを願うのであり、宗派的な立場で争い、世界はどうなるのか、世界を忘却したような宗教は願わないというのです。

 こう見るとき、高次的な文化が低級の文化を吸収したのと同様に、高次的な宗教は低級の宗教を吸収するようになります。強制的にそうなるのではなく、自然にそうなるしかないというのです。なぜなら、それは善い世界に発展するために不可避なのです。そのような観点で神様のみ旨、神様を中心として見るとき、神様が中心なら、神様は必ず地上に宗教を立てて世界救援摂理をすると私たちが考えるとき、必ずその宗教は世界性を帯びるというのです。一つの宗教を模索しなければならないのです。その宗教の教理は一つの世界を成すという内容でなければならないというのです。一つの世界になるというのは神様と関係のない一つの世界ではありません。神様を主体として天と地が完全に密接した、一つとなったそのような宗教的教理を持った内容がなければならないはずです。そしてすべての主義、思想と闘うのではなく、それを自動的な立場で消化させうる主体的能力がなければならないはずです。

 そこでは自分の側の人、自分の民族だけ、自分の文化背景だけを持ったそのような内容とともに一つになるのではなく、別個の、反対のすべての内容を吸収することができる、消化的な能力がなくては不可能だというのです。ですから、そこでは自分が好きな人だけ一つになるのではないというのです。自分の怨讐は除去してしまい、自分の仲間だけ一つになるためのそのような主張ではなく、怨讐までも逃さず一つになろうというそのような宗教の内容がなければなりません。このような宗教を神様が願うでしょうし、イエス・キリストはそのような宗教を目標として来たはずです。(一九七七・六・一、アメリカ)


ハ)最後にはすべての宗教が一つとなってこそ

 神様は摂理の中で、そのみ旨を成すために数多くの屈折の歴史過程を経てきたのです。歴史過程の数多くの人々は風習と習慣が違うと同時に、地域的な環境あるいは気候の差による環境であるとか、いろいろな環境に伴う文化背景を異にして生きているのです。

 それゆえ、神様は救援摂理を完成させるためにこのすべての人類の背後において、私たち自身では推し量ることはできませんが、その文化背景に適当な摂理の道を選んで行きながら、その環境に生きている個人を収拾し、家庭を収拾し、社会、国家を収拾してきたと見ざるをえません。このような立場で見るとき、神様の摂理のみ旨の中において歴史が発展するならば、その発展する歴史過程に神様の摂理歴史を成就することのできる主流あるいは非主流の摂理路程がありそうだということは、当然の結論なのです。

 こう見るとき、世界には数多くの宗教があります。まず最初には不完全な迷信宗教をして歴史過程を経て神を求めるようにしながら、だんだんに高次元的な宗教に連合させ、最後には一つの宗教理想を通じた救済摂理の完成時代に至るようにするのです。この世を愛される神様であるなら、そのような摂理をしてこられなければならないという結論が成り立つのです。(一九八二・一〇・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)

 世界の数多くの文化の背景であるとか民族的な環境が違うものを中心として、そこに合うように数多くの宗教をつくって集めて、手の指、足の指のように広がっているものをだんだんに統合して、今は四大宗教文化圏として形成されたのを皆さんは知っています。これがキリスト教文化圏、仏教文化圏、イスラム教文化圏、儒教文化圏です。人間たちは非真理の宗教は追い払いました。最後には一つにならなければなりません。

 すべての結果は蒔いたごとくに現れるのです。私たち人間の先祖が体と心が分かれて争う悲劇を蒔いたので、それと同じ結果の世界が現れなければならないので、心の人を中心とした世界と体の人を中心とした世界が成立したのです。結局は先ほど話したように、心は神様の居住地になりました。反対に体は悪神の居住地になりました。善神と悪神は共存することができないのです。共存する限りいつまでも闘うのです。

 それゆえ、今日の世界を見れば、民主世界でも共産世界でも、新しい一つの世界を模索することのできる指導者を願っているのです。数多くの宗教も自分なりに再臨思想があって、全部皆、世界人類がよく暮らして、宗教を一つにさせることのできる指導者を願っているのです。
 今後において世界の問題は何でしょうか? 宗教問題です。思想的な問題をどんなに解決したとしても、宗教問題を解決できない思想ではだめなのです。このような複雑な問題を解決する場合において、盲目的にしては解決できません。原則に従ってしなければなりません。神様がおられるなら、その神様は原則に合う公式路程に従って解決しうる道を模索しなければならないのです。(一九七二・三・九、米・クレアモント・ホテル)

 今日、私たち統一教会は何をする教団にならなければならないでしょうか? 教会を統合できる教団にならなければなりません。教会を統一できる教会にならなければなりません。そうするためには、統合させて一つにするためにはどうしなければならないかという問題を踏まえてみるときに、まず神様の前に責任分担を完遂することができるという信念を持って立たなければなりません。そうしなくては、統一教会の名前を持った統一教会としての使命を果たす道がないのです。(一九七二・一〇・二二、前本部教会)


4 宗教統一の方案

 ここに立っている文さんという人は、世界統一教会とか、世界統一神霊教会とか、でっかい名前をつけました。一体、統一は可能なるものでしょうか? キリスト教にしても、四百以上の教派が互いに、歴史的に闘ってきたということは、歴史の事実でみんな知っていることだと思います。

 こういうような結果において、キリスト教自身なりに、もうすでに崩壊の段階に立っております。こういう限界に立っているのにかかわらず、統一教会、ミスター文という男はちょっと頭がどうにかなっているのではないかと考える人がいるかもしれません。私としてそう難しいとは思いません。この鉄則でもって「為に存在する」というある教派があったら、他の教派に対して、その教派以上に尽くせ。そうすれば、そこにおいては一つになる。あるいは異教の信徒に対して、その宗教が主張するその精神以上の尽くし方をするならば、その宗教まで一つとすることができるのです。

 この文という男はできないけれども、神様がそういうお方であるから、主体なる神様がそういうお方であるから、そういうお方の相対的位置を保つようになれば、それは自然に、神様のところにおいて、一つになるということは、理論的であります。(一九七四・五・七、帝国ホテル)

 皆さんが何かユニフィケーション・チャーチ(=統一教会)という言葉を聞けば、「おお、そのユニフィケーション・チャーチというものが、それが何か歴史時代に数多くの人々が夢を見、やってみようとして失敗したことなのに、今になってすべて失敗した後なのに、ユニフィケーション・チャーチとは何か」と嘲笑するかもしれませんが、「(統一教会が)どのようにするか」という方案に対しては考えはしなかったはずです。しかし、この「為に生きる」という原則を中心として最後まで出ていく群れがあるならば、キリスト教が四百教派になるとしても、それは一つになることでしょう。

 今のアメリカが世界のために、このアメリカがなくなるときまで真に世界のために存在するとするなら、このアメリカを中心として世界は一つになることでしょう。一時ではなく永遠を基準とするのです、永遠を。そのような国があれば、その国は世界を指導するのです。それだけでなく、神様までも私たちを歓待することができるというのです。(?)

 私が統一教会を中心として統一しようとする秘法は何でしょうか? 問題は簡単だと思います。私は複雑には見ません。簡単に見て複雑に分析すべきだというのです。どのように簡単に見るのでしょうか? 二人いれば額を突き合わせて私の教派が正しいだのお前の教派が正しいだのと言って争う場合に、相手が「異端だ、サタン、悪魔だ」と言っても絶えず訪ねていこう、絶えず会おうというのです。一年過ぎ、二年過ぎ、三年過ぎ、そうして、よくよく考えてみると、あまりにもやり過ぎたのです。人には良心があり、三度以上過激に対した後には自分の良心の声が聞こえるのです。「やあ、こいつ! 道義的な面でも考えなきゃ、人間というのは、そういうものではないじゃないか? やり過ぎた」こうなのです。そのように自ら悟るようになるのです。(一九八三・五・一、リトルエンジェルス芸術会館)

 考えてみなさい。ローマ・カトリックとギリシア正教とが九百五十年間ほど闘いました。こうして今混乱の渦中で一つになろうとしますが、一つになるのは不可能なことだというのです。また新教がいろいろな宗派に分かれて、四百余派ががんとして互いに(自分が)優れていると言いますが、互いに(自分が)優れていると言うので、これが一つとなる道はないというのです。
 では、統一教会はどのようにして統一するのでしょうか? 簡単なのです。統一方法は簡単なのです。既成教会の牧師が信徒を愛するより以上に、統一教会の文先生が(既成教会の)信徒を愛すれば、一つにすることができるというのです。問題はそこにあるというのです。さらに既成教会の信徒が牧師を愛するより以上に、私たち統一教会員がその牧師を愛すれば、一つにすることができるのです。これがイエス様が残してくれた真なる教訓の道理ではなかったかというのです。「アバ、父よ、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」自分の意志がありえないというのです。百パーセントために存在するそれ以外には天倫を立てることができないのがキリスト教の骨髄だというのです。探ってみると、霊界に行って全部試験してみると、それしかないというのです。(一九七五・四・六、慶北室内体育館)

 宗教を統一しなければなりません。何で? 拳で? 脅迫恐喝で? 独裁力で? 違います。簡単なのです。それを教えてあげましょうか? 方法は簡単です。そうなるときまで努力を続ければできるのです。成るまで努力を続けるのです。人が寝るとき寝ず、人が食べるとき食べず、人が遊ぶとき遊ばなければできます。そうして一人が二人となり、二人が倍倍倍・・・。掛けて掛けて千万になり、一億が越え、数億になるときには終わるのです。既成教会も間違いなく統一教会の手先となることでしょう。私がそのようにすることでしょう。とうていできないと言ってみろというのです。そのあらゆる人々を私が皆調査しているのです。

 ではどのようにしてするのでしょうか? 簡単です。彼らができないほど彼らの宗団のためにしてあげるのです。簡単なのです。今私が超教派運動をしながら既成教会のある宗団が一年に支払うお金の何倍かを使っているのです。私たち統一教会のために一カ月に四千四百万ウォン使います。それは私の何日の費用にもなりません。ところが超教派のためには数十億を使ったというのです。それが正しいことですか、間違いですか?(正しいことです)間違いでしょう。生活できないのです。統一教会が今までしたことの中で統一教会のためにしたのは・・・。統一教会を今見なさい。地方の教会を見なさい。ただ国と世界のために・・・。(一九八八・一・一、本部教会)

 それゆえ、天の法度は何でもある程度育った後にぴゅうっと吹きつけるのです。吹きつけるとき、生命の源泉、愛と生命力が伝統的基準と一致すれば、そこには大きな節目が生じるようになり、また育って・・・。そのような節目を突破して出ていくことのできるその節目の道を・・・。交差するその点が・・・。これに従っていこうとすれば全部滅びます。このように行き、このように行き、これはどこに行くか分かりません。けれども愛はこの中心をもって突破して行くというのです。迫害は顔負けだというのです。

 そのような道理を知ったので、統一教会は滅びる運勢圏内でも持ちこたえて、今日の発展を誇るだけでなく、明日の栄えある発展の世界を夢見て希望の道を走っています。これが統一信徒たちが行く道です。だから、安着するようになるときは王宮に住む輩となります。分かりますか?(はい)本宮を中心とした東西南北の宮、本宮に住めなくなれば、支宮(本宮から離れた宮)で住むことのできる愛のろうそくをともしているのです。ろうそくの火は同じです、大きいか小さいかだけで。それでは、このろうそくをさらに大きく集めれば、これが宇宙を照らすことのできるろうそくと化すというのです。

 統一は愛から来るというのです。それゆえ統一教会です。統一教会が既成教会、宗教を統一し、万民族の雑多なすべてを統一することができるのは、ために生きに生きて忘れてしまい、またために生きて忘れてしまい、またために生きて忘れてしまい・・・。角度が一度二度三度四度・・・。三六〇度すべて満たすようになって〇に帰るようになるときには、これが新しい立場で三六〇度の度数が逆になるのです。このようにして反対の理想世界に転換させることができるのです。これは必ず愛の王宮的な王と王妃と王子・王女たちの愛の圏を成して、連続させることが可能なので、このようなことを知って皆さんがどんな立場に置かれるだろうかという問題は・・・。(一九八八・八・一、本部教会)


5 霊界の協助と宗教統一

 私たちは教派を統一しなければなりません。教派を統一するにおいては正しいか正しくないかを分別できる能力がなくては統一できません。むやみに統一を主張してはなりません。統一させることのできる内容を持っていなければならないというのです。また思想を統一しなければなりません。ところが、教派を統一できなくては思想を統一することができません。そのような意味で統一教会は世界史的な責任の旗を掲げて現れたことを知らなければなりません。だから、教会を統一しようというのです。

 教会を統一するにおいては、霊界が協助してくれます。このような事実は統一教会に来た人々であるなら皆分かるはずです。皆さん分かりますか、分かりませんか? 霊界が統一教会を協助しているのが分かりますか、分かりませんか? 霊界がどれほど大きいでしょうか? 霊人たちがどれほど私たちの仲間になってくれているでしょうか? 約三十二億になるでしょうか? 今まで地上に来ては逝ったすべての人々は、皆霊界で引っ掛かっています。逆さまに引っ掛かったり横に引っ掛かったり、どのように引っ掛かっているにしても、皆霊界に行って引っ掛かっています。彼らが今後皆、統一教会を協力するようになっています。協肋しようとしても参与させないので(霊人たちは)心配だというのです。だから今霊界では大騒ぎです。皆さん、そのような内容を知っていますか?

 霊界には仏教を信じていた霊人もおり、儒教を信じていた霊人、イスラム教を信じていた霊人などあらゆる宗教を信じていた霊人たちが皆集まっています。このような群れたちが協助するようになっています。霊界に統一の運勢が起こっています。こうなれば、地上でもどんなに嫌だといっても統一の運勢が来るようになるというのです。

 冬が過ぎ春が来るようになっているのに、春が来たらいけないので春を防御しようといって、来る春を阻むことができますか? 冬の間に防御するといってもだめです。春はほかの所から飛んでくるようになっています。自体内では解決できません。解決しようとするなら、自体内ではなく、ほかの所でしなければならないのです。統一教会が統一しようと主張はしていますが、その統一の方案は自体内にあるのではなく、ほかの所にあるというのです。そのほかの所がまさに霊界です。統一は必ず成さなければなりません。キリスト教を統一しようというのです。統一できそうですか、できなさそうですか?(できます)

 皆さんみたいでできるでしょうか? 統一できると思う人、手を挙げてご覧なさい。そうするためには私たちすべてが代身者とならなければなりません。問題はそこにあります。(一九六九・八・二四、前本部教会)

統一教会が先に立って教派統一をしなければなりません。韓国で私たちが悪口を言われましたが、統一教会を皆があくどい所であると言っていますが、新聞記者たちも統一教会が超教派運動の雰囲気を造成するのに実力を持っていることは認めざるをえないというのです。霊界が背後で間違いなく協助してくれるということを知らなければなりません。(一九六九・八・二四、前本部教会)


6 宗派間の和睦は世界平和に向かう必須条件

 この世俗的時代に宗教のできることが何であるかを尋ねる方がたくさんいます。それに対する私の所見は、世界の宗教が価値観の普遍的かつ不変的な土台、すなわち絶対価値を提示して、すべての政府がその上で真なる調和を遂げるようにすべきでしょうし、科学技術が正しい価値観の下で人類に有益な方向に進んでいくよう案内すべきでしょうし、地上のすべての文化圏が神中心の伝統下に昇華され高揚され万人に共有され、道が後代に伝承されるようにすべきだというのです。

 真に、私が言うこのような理想は、地上に神様の王国を立てることだと言うこともできます。そして、私はこのことが可能だと信じています。ある方々は私がとても理想主義的だと評していますし、私もこれを認めます。しかし、私には他の選択の余地がありえません。神様が私をお呼びになり、このような使命をお与えになったからです。

 私は今まで神様の理想を教えることだけにとどまったのではなく、地上に神様のみ旨を実現することに生涯を捧げてきました。これまで私が推進して来た宣教、教育、学術、勝共、宗団および教団間の和解、社会奉仕などの活動がそれです。この中でも特に強調したいのは、宗団および教団間の和解運動です。
 今日人類が当面している一つの大きな問題は、間で、いろいろな世界の宗教の間で、そして各世界宗教の内部でもたらされている相互不理解の現状です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教共同体間の対立と敵対感は相変わらず継承されています。過ぎし数世紀の間に起こった宗教戦争は、今日も終わらないでいます。相互一致のための数多くの運動が試みられて来ましたが、篤実な信仰者たちの間にはいまだ不寛容、宗教的偏狭および宗教的高慢の風潮がみなぎっています。だから、大部分の宗教が同じ神様に仕え、甚だしくは同じ教理を持っている場合が頻繁であったにもかかわらず、宗教人たちは相互弾圧と敵対行為を継続してきました。

 私たちは神様が教団主義や教理や党派主義を超越しておられるという事実を悟らなければなりません。神様の目的はいつも全人類を救われるところにあって、特定民族や人種や宗教団体だけを救われようというものではなかったし、これは今この時間にも変わりはありません。宗教人として私たちが相互間の闘いと敵対行為を終息させないなら、この世を救われようとする神様を助けることができません。多くの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、さまざまな複雑な理由のためにこの問題の解決はいつも挫折してきました。

 私が強調してきたのは、世界平和のための必須的な条件がまさに宗教間の和睦だというものでした。今まである一つの宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教が持っている多様な見解は必然的な産物です。しかし、私たちすべては一つの天の父母の子女たちであるがゆえに、私たちは一つの大家族の中の兄弟姉妹たちなのであり、したがって宗教間の葛藤と憎悪は不必要なものです。(一九八四・八・一三、ロッテ・ホテル)


四 世界の救いと世界統一

1 世界を救う使命

 どういうものが神様のみ旨でしょうか? もちろん一個人を救うのも神様のみ旨でしょうが、世界を救うのが神様のみ旨です。また、ある個人が救われ神様の前に立てられても、神様には世界のために天を信じて救われようという個人が必要です。

 家庭の代表者を願いますが、世界を救うための家庭の代表者として立てたいのです。民族の代表者を立てますが、その単一民族だけのためでなく、世界のすべての民族を指導することのできる代表者を立て、国家の代表者を立てますが、世界のすべての国家を救ってあげうるそのような使命を果たそうという国家的代表者を願うのではないでしょうか?

 今日、そのような神様のみ旨の立場から見れば、私が個人的に救われても、世界を救うために救われなければならず、家庭的に救われても、世界を救うために、氏族的に、民族的に、あるいは国家的に救われても、世界を救うために救われようというそのような家庭と個人がなければならないのです。(?)

 統一教会が何をしようというのですか? 世界を一つにしようというのです。一つにして滅ぼさせようというのですか? それなら、それは悪党でしょう。一つにして善なる世界に、善の世界に到達しようというのです。それゆえ、理論的に見るときにも、必然的な宗教として統一教会は現れなければならないというのです。この統一教会でなくても理想的で理論的に合う教会は現れなければならないのです。このような教会が現れうるとするなら、そのようなことが顕現するなら、神様がいるというのは間違いない事実だというのです。そうではないですか? その神様がいるという側面で、神様の愛を表せば、すべてのことが解決するというのです。では神愛、神様の愛の顕現をどのようにして実現させるのでしょうか? これが統一教会の宿命的課題だということを知らなければならないのです。(一九七七・一〇・九、ベルベディア修練所)

 もし主が来られるなら、一つの国を救うためには来ません。一つの国を救うためには来ないのです。世界を救うために来るのです。そのようなときが近づけば、終わりの日なので国家を越えてより愛することのできる世界を発見し、国家を越えて天の人をより尊重視し、国家を越えて神様を愛することのできる運動をしなくては、世界は滅びるという結論が出てくるのです。これが今後、世界人類が願いうる統一の道であり、思想の道だということを私たちは知らなければなりません。

 ここでは皮膚の色が問題となるのではありません。ここでは文化の背景が問題となるのではありません。神様を愛し、神様のみ旨の世界のために一つとなることだけが私たちの望みであり、私たちの目的となるのです。そうして、世界が一つになることによって、神様と人間が願う理想世界が生まれるだろうと見ているのです。したがって、個人として行く道、家庭として行く道、氏族として行く道、民族として行く道、国家として行く道、世界として行く方法を教えてあげるのを統一教会の使命と思っているのです。(一九七二・二・四、リンカーン・センター)

 私たち統一教会は世界を救うための宗教です。キリスト教とアメリカを犠牲にしても世界を救わなければならないという、このような伝統的思想を統一教会は主張したのです。統一教会で私が教えて語るその伝統は、レバレンド・ムーンの伝統の伝統ではありません。すべてのものが神様の伝統だというのです。今、皆さんがレバレンド・ムーンの思想を受けましたが、神様の伝統とレバレンド・ムーンの伝統を受け継ぐために、不可避的に行かなければなりません。これは運命です、運命。(一九八四・一・二九、ベルベディア修練所)

 私たち統一教会は今苦労しているのです。私たちは苦労をだれのためにするのでしょうか? 「私」のためですか?(いいえ)世界のためです。目的が違うというのです。私が救われようというのではなく、世界を救って死のうというのです。今私たちがする仕事は霊界の霊人たちがする仕事と同じです。霊界で霊人たちは何をするのですか? 世界を救おうとしています。そこに合わせて地上でそれをしようというのが統一教会です。したがって、数千年の間このような代価を支払ってきたのを、数十年の間に圧縮して引き上げるべき責任が統一教会の責任です。(一九七四・六・九、ベルベディア修練所)

 神様は一つの国を犠牲にしても世界を救うことに目的を置いています。結局、国家観念に固着し、間に合わせの国家観念に処しては世界を復帰することができないというのです。それゆえ、私たちは世界を復帰するために国家的な観念を超越しなければならないというのです。

 このような思想が中心とならなくては、世界がみ旨の前に帰ってくるとしても、自分の民族を中心として、自分の氏族を中心として、自分の国家を中心として再び争うというのです。昔、争った民族的感情を持って「イギリス野郎、ドイツ野郎、フランス野郎」これではみ旨を成すことはできないというのです。世界がみ旨の前に一つとなれば、ドイツも救われ、イギリスも救われ、皆救われるのです。そうでないときには、自分の国を主張することによって皆壊れていくというのです。

 私たちの目的は、国家観念を超越して世界を愛してこそ生きるという信念を投じるのです。(一九七二・三・二三、独・エッセン教会)

 皆さん、統一教会は世界的な使命を背負い、これを人類の前に渡してあげるべき最後の恩賜を受け継いで行く道に立っているのです。これはとてつもない恩賜だというのです。皆さんがこの時点において担った責任を全うし、環境的に切迫する世界的なあらゆる世の荒波と数多くの歴史過程を越えに越え、今日に出会ったという、この驚くべき事実は、皆さんが一つの国を持つことよりも、世界を占領して治めることよりも、天地をすべて持つことよりももっと驚くべきとてつもないことであるのを知らなければなりません。(一九七一・五・二、前本部教会)


2 東西文明の結束を通した中和文明の創建

 アダムは自分を中心として考えて堕落しました。アブラハムも自分の福を夢見て滅び、イスラエル民族も自分の民族的な福を夢見て滅びました。今日、キリスト教もこの世界においてキリスト教だけを中心として夢を見ては滅びるのです。世界を踏んで立つことのできる新しい文化を創造して、その上に福地を求めて出発していくことのできるある噴火口をつくっておかなければなりません。これが統一教会が指向するものです。今後、統一教会という名詞の通りに、この世界が統一されうる日が来ることでしょう。その日が終わりの日です。(一九六六・三・一三、前本部教会)

 統一教会が東洋と西欧文化圏を連結する橋の使命を果たさなければなりません。統一教会にはそうすることのできる内容が十分にあります。そのような時が必ず来ることに備えて、私たちは主体性を備えていかなければなりません。民族と国家と世界の前に展開されうる母体をつくらなければなりません。私たちが活動体制を強化すべき理由がここにあるのです。(一九六九・一二・一四、前本部教会)

 統一教会とは何でしょうか? 精神の下に物質を置きます。これが一つにならなければなりませんが、今、西洋と東洋とは異なっています。反対です。これがどのようにして一つになるのでしょうか? これが分かれていったのですが、どのようにして一つになるかというのです。

 さあ、それでは精神的分野を代表した東洋が西洋に来ておんぶされなければなりませんか、物質的、外的分野を代表してきた西洋が東洋に行っておんぶされなければなりませんか? どうしなければなりませんか?(西洋が東洋に行っておんぶされなければ・・・)それはなぜでしょうか? 心が中心です。心を中心として、心に体が従わなければならないのです。心の前に体が一つとならなければならないというのです。心は中心ですが、中心が行っておんぶされるのは破壊的です。中心は立っていて、体が来て一つとなって、この中心を中心として回らなければならないのです。その話は正しいですか?(はい)私が東洋人なので西洋を屈服させるためにこのような話をするのですか、道理がそうだからこのような話をするのですか?(道理がそうだからです)(一九八六・八・三一、ベルベディア修練所)

 では、終局に行って文明は何によって結実するでしょうか? それは宗教を通じて結実するのです。政治によってなるのでもなく、経済あるいはその何かによって結実するのではありません。文化というものは必ず宗教思想を基盤として発展してくるので、宗教によって結実しなければならないのです。(一九七五・六・一〇、前本部教会)

 統一教会は四大文化圏を消化して立ってこそ中央に入ってくるのです。それが統一教会でいう中和文明、レバレンド・ムーンが主張する中和文明圏だというのです。中和文明圏というのは中心文明だというのです。四方の角度を合わせてそれが主体的立場で調整支配できる主体的な能力を持った圏を言うのです。お分かりですか、何の話か?(はい)結論は簡単です。天の作戦は何ですって?(打たれて奪ってくること)奪ってくるのです。(一九八一・五・一、本部教会)


3 五色人種を一つの兄弟姉妹として

 統一教会が今後、世界を統一できるかできないかという問題は、だれも愛せずにいる五色の人類を愛するか愛せないかにかかっています。愛する場合には個人を犠牲にして氏族を愛し、氏族を犠牲にして民族を愛し、民族を犠牲にして国家を愛し、国家を犠牲にして世界を愛し、世界を犠牲にして天地を愛することができるか? 徹頭徹尾そうすることができると結論づけることができれば、このような運動は世界的に永遠に残されるのです。

 だから、今日統一教会が天宙主義だという話をするようになったのです。統一教会が新しい言葉を多く作りました。天宙主義というのは世界を一つの家にしようというのです。では、この家にはお母さんお父さんがいなければなりませんが、ここで天はお父さんで、地はお母さんです。その次に兄弟がいなければなりません。父母は天地であり、兄弟は人です。それゆえ、統一教会員たちの行く方向はほかの人たちと違うというのです。(一九七〇・一二・一三、前本部教会)

 統一教会とは何ですか、統一教会とは? 統一教会とは何をするところですか? 何をしようというのですか? 一つにしようというのです、一つ。一つにするのです。白人が正しいと言って、黒人がそうではないと言えば、これは一つになったのですか? ですから一つになろうとすれば、黒人をこうしてもオーケー、白人がこうなって黒人が下になってもオーケー、どのようにしてもいいとならなければならないのです。そうしなくては統一された世界、統一を見ることができません。統一の世界、平和の世界、一つの世界、それは皆妄想です。ありえません。(一九八七・一・一、世界宣教本部)

 私たち統一教会が何かと言うと、「五色人種が一つになれ。全部消化しろ。ハーモニー(=調和)になれ」と言って騒がしいでしょう。統一教会は宗教だけ信じればいいのに、何、船を造り、何もして何もして、海に出ていって魚も捕まえ、なぜこの騒ぎですか? 海に行って魚を捕まえるのは朝飯前だというのです。これからは鉱山に行って全部石炭を掘るだろうし、ダイヤモンドを掘るだろうし、金を掘るだろうというのです。そうなればどうしますか? トンネルを掘っても何千フィート、何百マイル掘って入らなければならないのです。(笑い)(一九八一・二・一、アメリカ)

 現世で生きる私たちが、今後民族性を超越し、人種性を超越することのできるそれは何でしょうか?今日の国家観ではできません。国家観だとか、今日この世の主義では不可能です。神様を中心とした愛でなくてはだめだという結論が出てくるのです。
 それゆえ、真なる宗教だけが国家を超越することができ、人種を超越することができます。すなわち、神様を中心とした愛から始めなければならないというのです。そう見るとき、私たち統一教会が一度やってみようというのです。

 神様の側からこの世界人類を縦的に見れば全部階級がありますが、横的に見ればどうなるでしょうか? 皆兄弟です。兄弟だというのです。そう見るとき、これは神様の息子です。兄弟です、兄弟。父母を喜ばせ、父母を中心として一つになろうとすれば、どうしなければならないでしょうか? 兄弟たちが互いに愛し合わなければなりません。一人の兄弟が貧しく、着られず、哀れに暮らすなら、裕福に暮らす兄さん、その次の兄さん、全部分けてあげて、その弟を自分たちのようにしてあげなければなりません。これが一つとなる役事です。(一九七六・三・二八、ベルベディア修練所)


4 神様を中心とした一つの世界建設

 今日、キリスト教は名実ともに世界的な宗教になりました。ところが、世界的な宗教となったキリスト教の前に世界的な障壁が残っているのです。真正な意味で世界を愛し、世界のために闘ってきたでしょうか? 一つの基本的な障壁が今日全世界のキリスト教が行くべき途上に塞がっているというのです。単にキリスト教だけではなく、数多くの宗教の前にそのような障壁が残っているのです。

 この障壁をどう打開すべきでしょうか? これが現時点におかれている宗教人たちが、または宗教が解決すべき重大な問題だというのです。この障壁をかき分け越えていこうとするには、どうすべきでしょうか? 自分の民族を主張する宗教になってはなりません。自分の一民族を主とする宗教を持って、世界的なみ旨を成就しようとするのは到底不可能だというのです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のすべての慣習を全部打破してしまい、世界人を中心とした社会、神様のみ旨と一致しうる一つの世界を模索しなければならないというのです。そこにすべての心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させる役事を断行しなくては宗教として残ることはできないでしょう。

 このような観点から、今日統一教会が、このような問題を提示する重大な責任を負わなければならないというのです。民族を主とする宗教的な闘いを展開するのではなく、世界を主とする宗教的な闘いを展開しなければなりません。民族を主とする幸福の理念を見いだそうとするのではなく、世界を主とする幸福の理念を見いだそうとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心としてみるときに、現在がそのような時点だということを、私たちは知らなければなりません。

 自分を主とする観念、自分の家庭を主とする観念、自分の国家、すなわち大韓民国なら大韓民国だけを主とする観念を持っては世界化はできません。世界化を可能にしようとすれば、大韓民国内からそうすることのできる人が現れなければならないというのです。統一教会がそうなるためには、神様を中心として、世界化できる生活的な基盤が皆さん自体内においてどれほど強固化されるかという問題が解決すべきでしょう。(一九六九・一二・一四、前本部教会)


五 地上天国建設

1 神様のみ旨は地上に天国の王権を立てること

 神様のみ旨とは何でしょうか? この世界人類をご自身が愛する民にし、この地球星をご自身が愛する国土にし、この国土と民を合わせて一つの主権国家をつくり、理想世界をつくることです。分かりますか、何の話なのか?

 その理想世界の主権をだれが来て処理するのでしょうか? 来られる主と神様が合同して永遠不変なる一つの理想的な主権国家をつくることでしょう。そのような場に入っていくようになれば、皆さんが直接主管圏内に入るので、そのときになれば神様を知らないと言う時代ではなく、だれでも霊界を通して神様を感じるようになることでしょう。心までは神様がいたとしても、神様が能力を一度も発揮できなかったというのです。

 今までは神様がいてもサタン世界からいつも追われ、犠牲になり追い回されたのであり、このサタン世界を支配し、サタン世界を審判する神様とはなれなかったというのです。なぜそうでしょうか? 国がないからです。サタン世界の国よりも優れた国がないので、神様が神様の役を果たせなかったのです。

 イエス様を送られたのはサタン世界の国家よりも優位に立てる一つの世界的な国家基準を中心として、サタン世界の天使長国家よりももっと優れた一つの主権国家を持たせるためでした。そうしてこそ主人たるアダムが支配することができ、本来の威信を立てることができるようになるのであり、神様が主管しても体面を立てることができるのであって、サタン世界の国より劣る国、あるいは氏族、家庭の位置に入ってきて成りすます神様であるなら、そのような神様は体面と威信を立てることができないというのです。(?)

 今日、統一教会の使命は何でしょうか? 私たちはたとえ地上世界に生きていても、天上世界である天国の王権を中心とした恨みを解怨する道を築いているのです。神様が霊界から見ると、霊界は天宙史的なそのような先祖たちでいっぱいであるべきなのにもかかわらず、天国は空いていて、全部楽園や地獄がぎっしり詰まっているというのです。それをご覧になる神様がどれほどつらいでしょう。

 ですから、再臨のひと日が来れば、天国ではない楽園と地獄のそのどん底に新しい理想園をつくっていくのです。地獄のどん底に連結されたそこでカイン・アベルを捜して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を成して、地上にいる人々を全部蕩減復帰しなければなりません。地上でカイン・アベルを中心として蕩減復帰をし、すべてのものを吸収・消化して統一された世界を成し、空いている霊界を地上世界で編成してひっくり返して合わせなくては、神様が天国を中心とした願いのみ旨を解怨成就できる道がありません。

 だから、イエス様も「あなたがたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれるであろう」と言いました。地上に天国を成さずに天上世界に天国が生まれるでしょうか?(いいえ)地上に天の国の主権を立てなくては霊界で善なる主権を回復できないというとてつもない事情が内在しているというのです。(一九八六・三・一五、西光州教会)


2 教会の目的は国を救うところにある

 教会の目的とは何でしょうか? 教会は国を救うためにあるのです。しかし、キリスト教はこれを知りません。キリスト教では教会が存在する目的を天国に行くためだと言います。それもだれを中心としているかと言えば、自分個人を中心としているというのです。結局、アメリカのような個人主義の国をつくったのです。

 このような世の中を新しく開拓しようというのが統一教会です。統一教会員たちが伝道するのは統一教会をうまくいかせるためではありません。国をうまくいかせるためです。国の中にとどまっている宗教であってはなりません。ユダヤ教がイスラエルの国を救うことのできる主導的な役割を失ってしまったので、ユダヤ教が滅びたのです。

 国のためにしようというのが統一教会の方針です。統一教会が多くの宗教を統一しようとすれば、多くの信徒を愛さなくてはなりません。私たちが他の教会を、その信徒たちが愛するより以上愛さなければなりません。統一教会の統一方針が何ですか? 愛です。愛さなくてはこの悪の世界を征服することができないのです。イエス様は右の頬を打たれればどうしろと言いましたか?(ほかの頬をも向けてやりなさい、と言いました)だれのためにそうしろと言いましたか? お前と私は天国の民であり、お前と私の前には越えるべき死の道が残っているというのです。このように天の国を中心として愛すれば許すことができるのです。分かりますか? 甲と乙は個人個人ではありません。お前もかわいそうな人であり、私もかわいそうな人ですが、かわいそうな人同士闘うべきでしょうか? 皆が国のないかわいそうな立場で国を取り戻していくべき立場にあるので、私がまず知ったならむち打たれながらも取り戻してあげるべき責任があるのです。それゆえ、右の頬を打たれたら、ほか(左)の頬をも向けてやってでも、その国を取り戻さなければならないというのです。(一九七〇・九・二〇、春川教会)

 統一教会は何をしなければならないでしょうか? これが重要です。宗教は国家を指導しなければならず、世界を指導しなければならないと見ます。世界を指導しなければならないというのです。それゆえ、統一教会は国を救おうというのです。国のために働かなければならない、世界のために働かなければならないという観念がはっきりしているというのです。(一九七四・八・一六、ベリータウン修練所)

 私たち統一教会の願うものが何かと言えば、善なる一つの国をどう神様のみ旨の前に立てるかというのです。もし一つの国がみ旨の前に立つ日には、いくら暴悪で、いくら悪辣なサタン世界圏であっても必ず善なる国の前に屈服しなければなりません。それが本来、天地創造の原則なのです。だから、メシヤを送るのです。(一九七五・一・五、前本部教会)


3 祖国光復を成すべき統一教会

 私たち統一教会が統一という名詞を掲げて現れたのは何ゆえでしょうか? 私の個体の福のためではありません。私たちの心にある一片丹心の願いは何でしょうか? 祖国光復(祖国の主権復帰)だというのです。神様が願った祖国、イエス・キリストが願った祖国、聖霊が願った祖国、歴史的な数多くの私たちの先祖たちが願った祖国、その祖国が私たちの中心に位置を占めるようになり、その祖国を成すために神様が築いてきた道のため忠誠を尽くし、孝行することのできる個人と、孝行することのできる家族と、孝行することのできる氏族と、孝行することのできる民族をどのように立てるか? これが現下の統一教会の使命です。(一九六五・一〇・三〇、大邱教会)

 統一教会は何をしようというのですか? 何を統一しようというのですか? 統一の宗教ですから宗教を統一しようというのです。そうして何をしようというのですか? 祖国光復を神様のみ名によって、地球星の祖国光復を神様のみ名によってしようというのです。それゆえ、私たち統一教会員は、宣教師なら、もはやその国に骨を埋めなければならないということを知って、骨を埋める覚悟をして行くのです。行って、その民族に、その国においての祖国創建のための部分的使命を担当し、郡と道と行政組織も逆に編成してきたのです。それで今、どこまで行ったのかと言えば、今後、世界で政治をする連中が、私たちの手を経なくてはすることのできない時代圏まで今上がってきているというのです。今、数がどんどん増えているのです。

 私たちは、天と地が統一されたそのような原則によっては憲法を備えることができませんでした。大韓民国の憲法に、神様のみ名によって天の国の憲法と地上の理想天国を中心とした統一世界の基準を抱えることのできるそのような法に一致しうる内容がありません。一致しうる内容になっていません。神様がいません。何の話か分かりますか?(はい)

 ですから、私たちはそのような使命を背負っているのです。私たちの定着地は地球星です。私たちの兄弟は五十億人類です。それゆえ、私たちは合同結婚式をするのです。愛の縁をどこでもより遠い所に錨を下ろすことを願うのが人間の欲望です。それが神様の願うことです。(一九八六・一〇・五、本部教会)


4 私たちは国を持った国民とならなければならない

 今日、私たちが生きているこの国とこの世界は、エデンの園の復帰型なので、罪のない世界、平和の世界として天が喜びうる世界とならなければならないのに、そうならなかったがゆえに皆さんは考えなければなりません。「ああ、私が持つべき世界にサタンが仮住まいするのを見ると、私が忘れずに国を持って誇るべきなのに、国を持って誇るべきなのに・・・」こう考えなければなりません。皆さん、国を持って誇ってみましたか? サタンは国を持って誇りますが、私たちはサタンに対して氏族だけを持った立場にあります。国を持ったサタンの前において優勢な立場でのふるまいができないので、いつもサタンの前に追われる立場に立つようになったのを、皆さんは知らなければなりません。

 このような天宙の恨みを解こうとすれば、私たちは国を持った国民とならなければならないのです。堂々と天の国に戸籍を載せて入籍した基盤の上に、皆さんの息子・娘が堂々たる国の権威を割り当てられ、天の保護の下で天の国を愛する忠臣の道理をわきまえることのできる環境を持たなければなりません。そうしてこそ、はじめて本来の人として行くべき道を求め、行くことのできる家庭の基盤を成して、復帰された位置に接ぎ木することができるのです。これを今日カインである皆さんが知らなければなりません。

 「何、息子の教育問題もあり、また妻が何で・・・」こうですが、もちろん経済復帰も考えなければならないでしょう。しかし、家庭が協助して国に責任を持たなければならないというのです。国を生かすためには民族が犠牲にならなければなりません。国を生かすためには氏族も犠牲にならなければならず、国を生かすためには家庭も犠牲にならなければならないのです。そのような立場から見ると、統一教会自体はその国を取り戻すために正常的に、原理に立脚した活動を展開しようとするのです。分かりますか? それゆえ、滅びません。そのような立場に立ったことをはっきり知り、今後はその一つの一念を中心として進まなければなりません。(一九七二・六・一一、中央修練院)

 では私たち統一教会信徒たちにおいて統一教会の国がありますか? ありますか、ありませんか? 統一教会はありますか、ありませんか? 教会はあるでしょう? この教団自体が死のうとするときは? どうですか? 生きるでしょうし、生きようとするときは死ぬでしょう。キリスト教、あなたがたは死のうとするのでしょうか、生きようとするのでしょうか? 終わりの日に来ては、それを比較することでしょう。国のために教団を犠牲にしようとする教団は国とともに生きますが、国を避けて行く教団は国とともに滅びるのです。これは歴史的な鉄則です。ですから今日私たちはこれを標準としていで立つ群れであることを、堂々と悟らなければなりません。何の話か分かりますか?(はい)(一九七二・五・九、中央修練院)


5 天の国の市民にしようとする所

 では統一教会とは何ですか、統一教会とは? 統一教会が何をしようというのですか? 理想国家を建設しようというのです。
 皆さん、ユニフィケーション、ユニフィケーション・チャーチが何ですか? ユニフィケーションといえば主体性を持ったものですか、これが相対的な立場で従っていくのですか? 「統一」と言えば、「統」の字は「率いる統」の字です。率いるという意味です。それが何の話か分かりますか? したがって、ユニフィケーション・チャーチといえば、すべての教会を一つにするというのです。教会は家庭を代表しながら国を代表するのです。だからこれ自体が氏族と同じなのです。氏族圏内だというのです。中間の立場です。ここに国家を代表したすべての氏族を全部集めておいたのです。

 神様がこのような教育機関をつくっておいた目的は何でしょうか? ここにすべての人種を集めて教育訓練を・・・。これが訓練場所です、訓練場所。精神的な訓練場所、未来の国民と未来の家庭のための訓練場所だというのです。教会が家庭の行く道、氏族の行く道、国の行く道を正しく教育しなければなりません。このようにして過去のすべての預言者たちは、その国の責任者を、君主が誤れば君主を全部引っ張っていくのです。控訴して引っ張っていくのです。だから、神様は教会という母体を中心として、未来の家庭と未来の氏族と未来の世界の民に、市民にしようというのです。

 どのような市民にするのでしょうか? 神様が理想とする国の市民にしようというのです。神様の理想の国の家庭をつくり、理想の国の氏族を通して理想の国の市民をつくろうというのです。それが、神様の理想的市民というものが、過去のある市民ではなく、現在の市民ではなく、未来に存在しうる市民だということを知らなければなりません。

 また白色人種、黄色人種、黒色人種を中心として神様はどのように考えるでしょうか? これを三兄弟にしてみよう、三兄弟にしようというのです。それが統一教会の神様です。私はほかの教会の神様は知りません。ほかの教会は知りませんが、私が知っている神様が一番いいというのです。(拍手)違うと思います。(一九七九・一一・一一、アメリカ)




















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