統一教会と食口たち
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第二節 統一教会員の道

一 三つの類型の道

1 善悪を中心とした三つの類型の道

 人間は大体、三つの類型の道を行っています。その一つは、善に逆らいながら善と反対方向に行くのであり、また、一つはこれでもあれでもない緩衝地帯のような道を行くものであり、また他の一つは善の目的を指向しながらその責任を負おうというものがまさにそれです。言い換えれば、善と反対する道を行く人、無害無得な道を行く人、善の目的のために生命まで捧げる道を行く人がいるというのです。

 では私たちは、今どんな道を歩んでいるのでしょうか? 過去にはどうであり、現在はどうであって、今からはどんな道を行くべきなのでしょうか? 善の目的のために、生命を捧げる道に行かなければなりません。そうして、ある一時が来れば葬送曲を歌って、この人間世界にある悪の要素を追放させなければなりません。

 皆さんはとても難しい道に入ってきました。一旦入って知るべきことをを知ってみれば、行くまいとしても、行かざるをえない道だということが自ら分かるのです。この道は中間状態の道でもなく、善と反対する道でもありません。絶対者と因縁を結んでいくべき道であることを悟らなければならないのです。

 宗教的に見れば、悪を指向する反逆の道、ただ良心的な道を標ぼうする道、そして最高の善を指向する道があります。ここで良心的に生きるのは神様のために生きることとは違います。過去の歴史を通して見るとき、悪の道もあったし、良心に立脚した人倫道徳の道もありました。このような歴史的な背景は、私たちをして因習に染まって絶対的な道を行けなくさせます。過去の習性から抜け出られないようにします。皆さんはこのような習性を果敢に切ってしまい、いで立たなければなりません。

 どうせ人間はどこかに行かなければなりませんが、どこにどう行くべきなのでしょうか? 言うまでもなく、神様のための、絶対者のための道を行かなければなりません。これは、天地が変化するとしても、決して変わることができません。ところが皆さんは、今だに自分の一つの問題からも抜け出せずにいます。体は悪に近く、心は良心に近いです。まだ数多くの人々は、果たして神様がいらっしゃるのかと疑う立場にあります。しかし神様は妄想的な存在ではなく、実存され、活動されるお方です。

 三通りの道がありますが、この中で第一歩はどこに行くべきでしょうか? もちろん人は神様のため、絶対者のための道に行かなければなりません。それなら、神様のための道を行くのに、どう行くべきなのでしょうか? 国のために生きるにもいろいろな分野があるように、天の道を行くのにもいく通りかの道があります。僕の道もあり、養子の道もあり、子女の道もあり、父母の道もあります。では、どういう道に行くべきなのでしょうか? もう少し高尚に、もう少し価値あるように行こうとすれば、どういう立場を取るべきなのでしょうか? 僕の立場を取ることもできます。しかし、すべての犠牲を覚悟して進むときは、僕の立場で行きたくないはずです。神様もやはりそのように行けとは勧告されはしないでしょう。兄弟の立場? それでもありません。養子の立場? これもやはり神様も皆さん自身も願わないのです。(一九六一・一〇・二九、前本部教会)


2 三つの愛を成していく本然の人生の道

 今、行く道は三つの道があります。三種類の道があります。皆さんが父母の道をどう行くのか? それを知らなければなりません。私たちの復帰歴史がそうです。その次には新郎新婦の道をどう行くのか? その次には子女の道をどう行くのか? そうではないですか? その三つの愛が神様が訪ねてこられる重要なポイントだというのです。

 それゆえ、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの道を通して見るとき、皆さんは今どんな道を行っているのかというのです。それをいっぺんに行くことができないなら、子女として行くことのできる愛の道を行くとか、その次には先生を夫として皆さんは妻のような立場で夫婦の愛を持って行くことのできる道を行くとか、あるいは自分が父母の心情を持って代身して子女を育てるような愛の道を行くとかしなければなりません。このような三種類の愛が統一教会にあるようになっています。分かりますか、何の話か?(はい)(一九七二・一〇・一五、前本部教会)

 前に話した三つの道の中で、どういう道に行くかというのは、皆さんの決心いかんにかかっています。皆さんは十分に自分の行くべき道を行くことができなければなりません。

 「お父様、私のところにおいでください」と言うことのできる子女が多く現れなければなりません。来たくても子女がいなくて来られないお父様であられます。「今までサタンゆえに来ることができなかったお父様! 早くおいでください。どれほどご苦労されたでしょうか? 来られて栄光をお受けください」と言うことのできる勝利の王子にならなければなりません。そのような王子として神様の前に敬拝を捧げられる者であってこそ、天国に入ることができます。神様の来られる道を築き、ねぐらを用意するために、「お父様、私たちと相談され、私たちを指揮してください」と皆さんは進み出なければなりません。

 神様はこの美しい三千里綿繍江山(=韓国)を限りなくお訪ねになりたかったのに、サタンゆえに来ることができませんでした。今、皆さんが天国をつくっておき、「早く、おいでください」と言わなければなりません。そうしたいですか?(はい)ではそうしましょう。

 皆さん、これだけは忘れないでください。三通りの道があるということ、そして私たちは神様のみ旨を中心とした善の世界に責任を負う道を行かなければならないということをです。先生もこれを知ったので、今までこのことをしてきたのです。私は決してただでは死にません。たとえ私が死ぬとしても、小さな横枝が伸び、新芽が生えてみ旨は成されることでしょう。それなので、このみ旨の道を行くにおいて、先頭に立つのを少しも躊躇しないようにしましょう。(一九六一・一〇・二九、前本部教会)


二 統一教会員が行くべき道

1 神様と統一教会員の道

 統一教会が行く道は文先生のために行く道ではありません。皆さんは今まで文先生についてきましたが、文先生についてきたのではありません。神様についてきたのです。神様についていかなければならないのです。ここで神様を否定するようになれば怨讐です。もし文先生の前から神様を取ってしまえば、死ぬほうがましだというのです。文先生の前から人類を取ってしまえば死ぬほうがましだというのです。

 それゆえ、順応の法度においては、神様を中心としてこう行くべきだ、世界的に個人はこう行くべきだ、家庭はこう行くべきであり、氏族はこう行くべきであり、民族はこう行くべきであり、国家はこう行くべきであり、世界はこう行くべきだということを、論理的な思想体系をもって展開させるべき使命を背負ったのが、この文化世界に対する統一教会であることは間違いない事実です。文先生の終着点を踏むのを願うのではなく、神様にどのように出会うのかというのです。(一九七四・四・二八、前本部教会)

 神様は皆さんが行く道の前で、闘いに責任を負い、皆さんを引っ張って行くべき責任を負っているのです。それが易しいでしょうか? その闘いがどんな闘いなのか考えてみなさい。私一人の個体を守るためにはどんな闘いをしなければならないでしょうか? 世界を防ぎ止めなければならないのです。そうではないですか? 世界だけではなくその国を防備しなければなりません。また、国だけではなく氏族とか、家庭の環境を防備しなければなりません。それらを防備する前には神様が私を連れていけないのです。ですから、神様は私一人を導くために世界的な戦線を死守しなければならないのです。(一九七一・一一・一四、前本部教会)

 今、レバレンド・ムーンが教え、レバレンド・ムーンが行きたいのは、神様が宇宙とともに作用し、宇宙とともに住み、宇宙とともに一つになりうるその道です。その道を捜し出そうというのです。それが統一教会です。分かりますか? それは理論的に認定しないわけにはいかないのです。摂理ということ、分かるでしょう? 摂理はこのような道を言うのです。(一九八二・二・二一、アメリカ)

 神様が行く道と人間が行く道は、異なることができないのです。もちろん、サタンと人間は違います。(一九七一・一一・一四、前本部教会)


2 統一教会員が行くべき運命の道

 今日、皆さんが行くべき道はどんな道でしょうか? 失ってしまった歴史的な私の祖国解放のために、祖国光復(=祖国の主権回復)の日を迎えるために、失ってしまった本郷の地を訪ねていく道です。その日を迎えることは、古今東西を問わず、歴史的なすべての人の願いであるので、文化の最高の目的であり、人類の望みの中の望みであるので、その日は必ず来なければなりません。神様ゆえに来なければなりません。(一九六四・一〇・六、全州教会)

 宗教を信じる人々は、神様の国を成すために行く群れたちです。それゆえ、犠牲を本質にしない宗教は偽の宗教です。さっとこんな結論が出てくるのです。分かりますか? これを知らなければならないのです。「ああ、私的なことはこのようになっているな・・・」体は地獄に直行する何ですって? 鉄道、レールです。心は天国に行く何ですって? 鉄道です。もう、分かったのです。ですから、今、鉄道運転手にならなければなりません。そうなろうとすればどうすべきでしょうか? 人のために犠牲になっていかなければならないというのです。運転手になるのに、個人的に運転し、個人を早く通過すべきでしょうか、個人にとどまるべきでしょうか? 個人を通過しなければならないというのです。

 個人が犠牲にならなくては家庭を引き継げず、家庭が犠牲にならなくては氏族を引き継げず、氏族が犠牲にならなくては民族を引き継げず、民族が犠牲にならなくては世界を引き継げないのが原則です。それゆえ、宗教は犠牲になるようになっているのです。終わりの日までです。世界的な宗教国家圏が成されるときまで、耐える者は救いを受けると言ったのです。

 私たち統一教会はこの公式的な法度に従うのです。個人は家庭のために犠牲になれというのです。サタン世界の家庭ではありません。神様が理想とする家庭のために犠牲になれというのです。神様が理想とする家庭というのは、今日大韓民国圏内にあるそんな家族ではありません。そんな意味から、統一教会では世界的な国民たちが一つになって祝宴をするのです。家庭をつくるのです。違っているというのです。(一九七二・五・一四、水澤里)

 統一教会員たちはどこに行くのですか? どこに行くのですか? ああ、統一教会の教会員たちはどこに行くのですか? どこに行くのですか? 自分の運命のふろしきがまだらなのは、すべて個人の運命ですが、統一教会に所属すれば、統一教会の運命の道を行かなければならないのです。それは正しいですか、正しくないですか?(正しいです)正しくないです、この人たち。本当に、合っていますか? 私もよく分かりません。本当に合っていますか?(はい)

 そう、それでは本当にどう合っているのか少し話してみなさい。それ、合っているというのです。今、話した内容をよく見れば正しいでしょう。統一教会の運命の道は、皆さんがふろしきを包んで行く個人の運命の道と違うというのです。ところが、個人の運命の道で私が青い眼鏡をかけたので、統一教会員も青い眼鏡をかけなければならない!」こんなのではありません。

 多くの宗教は全部、天国に行って自分の福を受けるためのものですが、統一教会の運命の道は違います。福を受けて行くのではなく、罰を受けて行くのです。どうしますか、それが運命なのに? 分かりますか? 福を受けて行きたいのですが、罰を受けて行く運命ならばどうするかというのです。

 さあ、皆さんたちはどこに属していますか? 自分の運命の道に属していますか、統一教会の運命の道に属していますか?(統一教会の運命の道)統一教会の運命の道。分が時間に属していますか、時間が分に属していますか? 分が?(時間に)分かるには分かっているのですね。また、時間が日に属していますか、日が時間に属していますか?(時間が日に属しています)時間が日に属しています。また、日が月に属していますか、月が日に属していますか?(日が月に属しています)分かるにはよく分かっていますね。そうなのです。(?)

 統一教会員たちが座って「全部、伝道に出て開拓伝道をし、ああ、それ、なぜ毎日するのか。それをしなくてもいいのに、何、先生に全部ついていけばいいじゃないか。ああ、私は蕩減復帰、嫌だ。蕩減復帰、嫌だ。ただ、人のように暮らして、世の中で人のように、やることをすべてやりながら行けば、どんなにいいか。それ、何、いたずらに統一教会、蕩減、蕩減! それは足らなく、間抜けなやつがして、私たちのように利口で、博士のような人は何、やれない」と言うのです。しかし、こんな運命の道を私たちが行くのです。(一九八一・一〇・一八、本部教会)

 私たちは行ってから背を向けることができません。どうせ、永遠を置いて世界の果てまで行ってから回り回ってもとに帰らなければならないのです。回り回ってもとに帰ってくるようになっているのであり、果てに行けなくては、回り回ってもとに帰ってくるようになっていないのです。それが神様の愛が作用する法則です。分かりますか? ですから死んでも行かなければなりません。死んで霊魂があったなら、その霊魂も行かなければならないというのです。これをパスしてこそ神様が創造した本然の理想天国に入るのです。死んで再臨復活してやりますか、今やりますか?(今です)(笑い)

 さあ、この公式が分かりました。私を愛し、お前を愛し、あの人たちを愛して、その次にはどうしなければならないでしょうか? このような愛、すなわち父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三大神様の愛を家庭の垣根の中に持つのではなく、世界全体に作用するのが、統一信徒たちの生活様相だということを知らなければなりません。

 皆さんは、ユニバース(=宇宙)をもっと愛さなければなりません。夫よりもユニバースを、子女よりもユニバースをもっと愛さなければならないのです。「ああ、私をもっと中心にしてしてほしい」これでは、神様の愛が来ないというのです。私を中心にしては、神様の愛に到達できません。神様の愛に到達するために私たちは行くのです。それゆえ、お金をもうけても、子どもたちのために私たちの家のためにもうけるのではなく、世界のために宇宙のために神様のためにもうけなければならないというのです。これはどんなに素晴らしいですか?

 ユニバースが生きれば私たちの家庭は自然に生き、神様が喜べば私は自然にうれしくなるのが原則です。愛を中心としてすべて与えたので、そこから私に補充してくれるようになっているのです、自動的に。分かりますか、何の話か?(はい)
 その原則は間違いありません。絶対的にそうなっています。これが統一教会の教会員たちが持つことのできる公式です。(一九八三・三・一三、ベルベディア修練所)


3 復帰の道と原理の道

イ)復帰の道とは

 この世界をただそのままにすれば、神様が立てようとされた創造理想の永遠なる愛の世界を成せないので、絶対者であられる神様は、本来意図された創造理想を実現させてこそ、神様の本来の権威を取り戻すことができるので、その立場を基準にし、悪なる世界を収拾して本来理想とした本然の世界に導いてこられるのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理なのです。

 このような摂理路程に必要なのが復帰の道だということを皆さんは知らなければなりません。言い換えれば、堕落した人間は、復帰の道を行かなくては個人完成の道を越えることができないのであり、復帰の道を行かなくては家庭完成のみ旨を立てることができないというのです。また、家庭完成の道を越えなくては、民族完成や世界完成はありえないのです。復帰の道を通じてのみ個人、家庭、民族、国家、世界が完成されるということを考えるとき、この復帰の道を行くことが堕落した人間においては、必然的な運命だということを知ることができます。これを私たちは原理を通して習っているのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

 復帰の道を行こうとすればメシヤが必要なのであり、病気が治るためには条件物が必要なのです。こうなるのです。分かりますか?(はい)復帰するには医者が必要であり、その次には条件物が必要であり、期間が必要です。「薬を三日は飲みなさい。一週間治療をしなければならない」そうですか、そうではないですか? そうなっているのです。それなら、病気になった人はメシヤを代身して、救い主を代身して、信念を持てというのです。代身者になれ。分かりますか? 救い主が言う言葉、医者が言う言葉を自分の言葉以上に信じなければなりません。

 それゆえ、私たち統一教会の原理を見れば、復帰するためには祭物が必要です。祭物には期間が必要で、その次には条件物が必要です。その次には、アダムを代身する存在が必要だと言ったでしょう? 息子の代身の存在、メシヤの代身の存在、それを代行できる存在、それは何かと言えば・・・。

 医者が指示したことを死んでも守ることのできる人になれば、彼はアベル的な存在になるのです。実感できますか? 実感しますか、しませんか?(します)それゆえ、統一教会の文先生が嫌いでも、好きでも、先生が言う言葉を絶対視し、「私は先生の代身者だ」というようになれば、統一教会のアベルになるのです。

 その次には何をしなければならないって? 条件物を立てなければなりません。薬を飲まなければなりません。薬を飲むとき、横になって飲めと言えば横になって飲み、跳ねながら飲めと言えば跳ねながら飲まなければならないのです。なぜ、跳ねながら飲めと言うのか、それは自分がその立場に置かれてみる前には、分からないのです。医者に直接なってみる前には分からないのです。そうでしょう? かんで飲めと言えばかんで飲み、中身を取り出して飲めと言えばそう飲まなければなりません。夜に飲めと言えば、夜に飲まなければならず、あのポプラの木のてっぺんに上がって飲めと言えば上がって飲まなければなりません。(笑い)なぜ笑いますか? 条件物を立てる場合は、絶対順応しなければなりません。このようにする場合は期間が必要です。これを皆さんが知らなければなりません。

 復帰する場合は救い主が必要であり、すなわち医者が必要であり、その医者の言葉を中心として絶対条件を、期間を・・・。これが統一教会で言う、いわゆる蕩減復帰の道です。分かりますか? 復帰する場合はただ復帰しないのです。何をすると言いましたか? 蕩減復帰をするのです。十ぐらい使えないようになったなら、それを直すためには十ぐらいの苦労をしなければなりません。十年かけてかかった病気なら、その病気が治るためには、十年以上の年月がかかったとしてもしなければなりません。

 では、復帰するにはどうするのでしょうか? ただするのではなく、原理原則に従ってするのです。条件を提示するときは医者が勝手にするのではありません。薬を調剤するとき、この薬、あの薬気ままに入れるのではありません。原理原則に従って入れるのです。このように行く道が復帰の道です。そうなるのです。

 さあ、もう結論を出しましょう。復帰の道を行こうとすれば、どう行かなければならないでしょうか? 一人で行けないのです。分かりますか?(はい)復帰の道を訪ねていかなければなりませんが、一人では行けないので、メシヤに出会って訪ねていかなければならないのです。分かりますか?(はい)

 そのメシヤに会ったらどうしなければならないでしょうか? 復帰の道に入ったら原理原則を選んでいかなければならないのです。救世主、医者に出会った後は、その医者の言葉を中心として原理原則を選んでいかなければならないのです。復帰の道は訪ねていくべき道であり、原理の道は踏んでいくべき道である、結論出ました。分かりますか、何の話か? このようにしなくては、神様の理想世界、あるいは神様が喜ばれうる理想的な相対世界、愛の世界は私たちの妄想に過ぎません。これを知らなければなりません。

 ですから復帰の道に入った私たちは、その道を訪ねていかなければならないのです。では、皆さんは復帰の道をどう行かなければならないでしょうか? 復帰の道には、個人を復帰するための道があり、家庭を復帰するための道があり、国を復帰するための道があり、世界を復帰するための道があります。天と地、霊界でもため息をついています。統一教会の術語で言えば、天宙復帰すべき責任があります。そして神様がどんなお方なのか、神様をよく知らなければなりません。神様を復帰してこそ神様の愛の段階まで行くのです。復帰の道がこのように残っていたんだ、というのです。分かりますか? 「何、私はイエスを信じて天国にさえ行けばいい」と言うのは、幼稚園だけ行けばいいという話と同じです。

 人間が堕落することによって、復帰の道を行かなければなりませんが、その復帰の道を行くためにはメシヤを捜さなければなりません。ところが、メシヤに似ている者たちがたくさんいます。けれども真は一つです。神様が個人を中心として世界代表、歴史代表、あるいは人類代表の道として行くことのできる道は一つです。その道は一つであり、二つになることができますか? 一つだというのです。そのような一つ、一番最高を中心として糾合してきたのです。

 今日、堕落した世界では似たものはたくさんありますが、真なる一人の人が現れなかったために再臨理想があるのです。終わりの日に来られるそのお方は過去を代表し、現在を代表し、未来を代表して個人完成の標準として来られるのです。そうして、個人完成することのできる調剤と投薬の方法を教えるのです。その次に家庭完成し、氏族完成、民族完成、世界完成の方法を教えるのです。そんな総責任を負って来られるお方がメシヤです。分かりますか?(はい)

 個人が完成をするためには、個人的な十字架の道を行かなければなりませんが、その十字架の道は祭物の道です。もし、皆さんがその十字架の道を嫌だと言えば、個人完成の道を見いだせないのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

ロ)復帰の道を行くためには

 復帰の道を行くためには、どう行かなければならないでしょうか? 復帰の道はむやみに行けません。必ず神様が願われる復帰の目的を達成するためには、まず個人の完成のための標準型を立てて行かなければならないのです。その標準型は本来意図した基準をすべて越えたものでなければなりません。神様は、標準的な個人を通して、標準として立てることのできる家庭と、標準として立てることのできる国と、標準として立てることのできる世界を願われるのです。このような道が今日、復帰の道において神様が私たち人間に追求なさろうとするみ旨の道だというのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

 神様はどう生きるのでしょうか? 神様は全世界のために生きるのです。神様はどう愛するのでしょうか? 全世界を同様に愛します。神様はどう幸福なのでしょうか? 全世界の人々が授け受けながら喜ぶのを見て幸福に思います。それが神様の生きる方式です。神様もこのようにしてくるのです。

 だから復帰路程は反対に上がっていくのです。堕落しなかったなら、ここからこれが全部このように出てくるでしょうが、堕落したために筋が分かれました。ですから、これを殺してしまってこれを肥料にして、ここから逆さまにして、ここにくっつけなければならないのです。これを反対に発展させようとすれば、私よりも全体のためにしなければなりません。私より以上に全体のためにすることのできる理想がなくては、逆さまに上がっていく道がないというのです。私たちは個人的に強力でなければならず、家庭的に強力でなければならず、氏族的に強力でなければなりません。そうして、反対に突破して上がっていかなければなりません。(一九七五・八・三、アメリカ)


ハ)復帰は個人から

 今日、皆さんが復帰の使命の分野を拡大してみれば、個人復帰の使命の時代があります。まずは、個人復帰を完成しなければなりません。個人復帰を完成することは個人復帰完成のみで終わるのではありません。個人復帰を完成するのは家庭復帰完成のためです。そういうことです。お尻にぶら下がったものを全部、引っ張り出さなければならないのです。私一人、引っ張り出したなら、それを拡大させて家庭を引っ張り出し、氏族を引っ張り出し、民族を引っ張り出さなければなりません。これがサタンを追い出す方法です。すなわち、奪い取ってくるとか、追い出すとかしなければならないというのです。(一九七三・九・二三、中央修練院)

 統一世界観はどこから出発するのでしょうか? 皆さん個人から出発します。個人もやはり分かれています。体と心に分かれていますが、いつも害を加えるのが何かと言えば、体です。いつも害を加えるのが体なので、心が体のしようという通りに従っていけば、必ず心の世界は征服されてしまいます。いつも害を被らせるのが体だというのです。(一九七二・五・一四、前本部教会)

 神様に目的点を置くにおいて、「ああ、私はこの宇宙を訪ねなければならない」と言いながら宇宙から始められるでしょうか? 違います。それなら宇宙まで行くにおいては、一番直短距離がどういう道かということを考えてみましょう。どこから出発しなければなりませんか?(個人から)個人が問題なのです。では個人が出発するにおいて個人が勝手に出発できますか? 違います。神様がいるなら、神様と個人は墨糸を弾くのと同様に・・・。これは目的点であり、これは出発点だというのです。

 ですから、一番直短距離がどこでしょうか? ですから、どんなに広いといっても私個人からです。それならば、私の心が一つにならなければなりません。だから、神様が私たちの心に「世界復帰のために体と一つになれ」と命令するのです。
 心と体が一つにならなければ、心は心の通り行き、体は体の通り行き、別に行き来するのです。それでは一つの目的地に向かって行けません。ああしたりこうしたりする人は、成功できません。ですから、皆さんが遠い所を出発する前にまずすべきことは、体と心が一つになることです。

 それゆえ、私たちが行くべき道において、初めの段階が何かと言えば、体と心が一つになることです。心は体の道を通して行くのです。そうして、どこに行くべきでしょうか? 方向がどうなっているかというのです。一番近い方向がどこでしょうか? 家庭です。家庭には父母がおり、妻子がいるということを知らなければなりません。これらが一つにならなければなりません。これが一つにならなければなりません。相対圏が一つにならなければならないという結論が出てきます。(一九七四・一・六、ベルベディア修練所)


二)復帰の道は定められている

 復帰の道は本来、しっかり定められています。そのプログラムは、たった一歩も譲歩できません。一歩も譲歩できません。それを知り、皆さんの中に適当に考えて自分が出世しようと考える人がいるなら、消え去るのです。私がそこに巻き込まれません。先生が初めは、いくらか足並みをそろえてあげますが、結局後で彼が利用されたという結果に陥るようになるならなるで、私が利用され、ひっくり返りはしないというのです。だからと言って、統一教会の文先生個人の目的のためにそうするのではありません。世界と天と地のためにです。この思想を皆さんが持って進んでいかなければなりません。

 皆さんが個人標準とか家庭標準をすべて達成することはできません。果たしきれません。皆さんの一生の間に、それをすべて果たせますか? このくらい来るのに六千年がかかりました。数千年の間、天と地が人類を動員して成してきたのを、一代に果たしきれないというのです。ですから何をしなければならないでしょうか? もっと大きな世界のために死ね、み旨のために犠牲になれというのです。神様のみ旨のために犠牲になろうというのです。犠牲になってからよい暮らしをしようというのです。よい暮らしをしますが、「私一人よく暮らすのは嫌だ。お父様と全体がよい暮らしをしなければならない」と言わなければなりません。これがみ旨の道です。そう生きる人は、犠牲になりになって、さらに犠牲になっても、滅びそうでも滅びないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)


ホ)三段階復帰の公式

 皆さんはサタンから自らを分立してサタンに勝たなければならず、神様の愛圏内に入らなければなりません。そうしてから神様が皆さんの隣人と兄弟と全世界を救われるために皆さんを犠牲にさせようとなさるその心情を体恤しなければなりません。この三段階が神様の公式です。(一九七一・一二・一四、カナダ・トロント)

 皆さんは三段階の公式を記憶しなければなりません。すなわち、 サタンから自らを分立させた後に神様の愛圏内に入って 他の人のために自らを犠牲にしなければならないというこの三段階公式を記憶しなければならないのです。勉強をするときにも、皆さん自身だけのためにするのではなく、神様のために全世界を救う目的で勉強しなければなりません。(一九七一・一二・一四、カナダ・トロント)


ヘ)復帰の道は開拓していく道

 復帰摂理の道は悔しい道であり、恨めしい道であり、かわいそうな道です。その上、善を訪ねていく者には犠牲の道です。このような道に私を導くために、天は先にどれほど多くの苦労をしたでしょうか? 今、皆さんたちはこれを知って、神様と直接的な関係を結ばなければなりません。また、神様を推してみるときに、どれほどかわいそうな神様であられるかを知らなければなりません。かわいそうな神様、その神様の哀れさがどれほどでしょうか?

 また、神様のみ旨を抱き、万民を救うためにこの地上に来られたイエスの悲しみは、どれほどのものだったでしょうか? 憤まんやるかたないイエスであり、かわいそうなイエスでした。どんなに悔しく、どんなにかわいそうだったか分かりますか? そのイエスに従った聖徒たちもかわいそうな道を行きました。ですから、どれほどかわいそうですか? これを皆さんが思い出さなければなりません。

 皆さんは神様と統一教会の関係を考えないで、神様と皆さんの関係を考えつつ行かなければなりません。(一九六三・一〇・一六、大邱教会)

 皆さん、統一教会に入ってどれほど深刻になったことがありますか? 深刻になったことがありますか、なったことがありませんか? 先生はこの道を開拓するためにどんなに深刻になったでしょうか? それは分からないでしょう? 原理を探す道がどれほど深刻であり、それを探して知った後に、それを実践する過程でどれほど困難を選んできたか・・・。男が決心をしたなら、それを実践しなければならないのです。実践過程において億万のサタン、見えない霊界のサタンが動員され、サタンの操縦を受ける見える実体が動員されて総攻撃をしました。そんな過程を乗り越えていくべき復帰の道を考えるとき、先生は胸が詰まったでしょうか、詰まらなかったでしょうか?(一九八七・一一・一、龍仁研修院)

 復帰路程は下から出発しなければなりません。打たれて奪ってくるのです。打たれるということはめちゃくちゃになるのです。いわば、存在価値を失ってしまうことを意味します。しかし、自分の本性以下に下りていけば、サタンが打つことができません。自分の本性以下に下りていった者は、天が哀れに思うからです。そんな人を打つようになれば、天が対策を立ててくださいます。

 万宇宙を復帰するためには、福を復帰しなければなりません。福は公的な物です。ですから、皆さんは世界的な公的基準で祭物にならなければなりません。先生はこじきを見ても同情しませんでした。しかし、今からは彼らの話に同情して、彼らに新しい道を開いてあげようと思います。(一九六一・一一・一、前本部教会)

 皆さんは「真の生命を与えようとする。受けたそれ以上の数百倍のものを与えようとする」と言わなければなりません。また、「サタン、お前もこれを知っているので、讒訴できないだろう」と言わなければなりません。このような条件を立てておいてこそ別事がないというのです。

 復帰は受けてするものではありません。復帰の道は開拓していく道です。サタン世界のものを受けては復帰の歴史を成せません。天の物を与えなければならないのです。与えるときは、何を与えなければならないでしょうか? 真なる心情を与えなければならないのであり、真なる人格を与えなければならないのであり、真なるみ言を与えなければならないのです。(一九六四・四・一九、大邱教会)

 復帰の道には、値引きというものがない。私たちがこの世の中に来るときは一人で来たけれど、行くときは一人では行けないのです。たくさんの人たちをつれていかなければなりません。人間は社会を離れて生きられないのです。イエス様が、裏切った弟子たちを訪ねていった理由もここにあるのです。強盗一人だけをつれていくしかなかったイエス様の悲しみを、私たちは知らなければなりません。このような事情を知る立場から、私たちは自らを整えなければなりません。(一九六四・六・二〇、東九陵)

 個人が犠牲を覚悟し、前後左右の歴史的な存在を生かすために、個人を無慈悲に打って追いやるべき運命の道が復帰の道であり、今まで神様が訪ねてくる行路になっているというのは、歴史に照らしてみるとき、否定できない事実です。

 民族を動かすなら、民族を動かして世界的な闘争過程に、世界的な舞台の上に立たせて私たちは世界に散らばっている怨讐を早く待ち受けようというのです。打たれるときはどう打たれるべきでしょうか? 非難、嘲笑、すべて受けろ、無視されろ、蔑視、疎外されろというのです。(?)


ト)原理の道は一つだけ

 レバレンド・ムーンは「私は行く」と言うのです。どこに行くのでしょうか? 一つの道を訪ねていくというのです。では統一教会の教会員たちはどこに行くのでしょうか? 一つの道を訪ねていけますか?(はい)皆さんが原理の道を訪ねていくことができますか? 皆さんはついていかなければなりません。ついていくのです。「ついていくのに、夜になろうと、どうなろうとおなかがすけば、ご飯でも食べてついていこう」と言えば、だめなのです。夜、ご飯を食べたらサタンの条件に引っかかるというのです。これは大変です。夜、ご飯を食べたら条件に引っかかって、パスになったとしても落第するのです。そうしてもいいなら、私が夜、はなっから宴会をしながらこの仕事をするのであり、夜眠らずに目を赤くしながら狂った人の役割をなぜするのですか? 条件に引っかからないためにです。これを知らなければなりません。

 統一教会を創始した文某が行くべきそのような道があるのです。その道は前にだれが行くのでしょうか? 神様が行くのです。そして後ろにはサタンがついてくるのです。サタンは条件さえあれば、引っかけて打つというのです。この条件をどう逃れるかという闘いです。言い換えれば、三十八度線を越えるためには地雷でも、何でも、すべての妨害物を踏まずに行かなければなりません。それ、ために生きようというとき、自分勝手に行くべきですか? 地雷があるというときは、地雷がないところに回っていくべきであり、勝手に行ってはならないのです。

 その道は一つしかありません。天国に入っていく道は、二つではありません。一つしかありません。今日、堕落した世界において、この世界を全部収拾して一つの道に行けるよう、天の使者を送って道を築くなら、その築いた道は二つの道ではありえないのです。統一教会の道が二つありえないのです。お分かりですか、何の話か?(一九八五・一二・一五、本部教会)

 統一教会は、こうしても一つの道を行かなければならず、ああしても一つの道を行かなければなりません。どんなにくるくる回って行ったとしても、結局はその道を行かなければなりません。千年万年億万年かかったとしても、この道を行くべき人生であるのは誤った話ではありません。

 堕落した後孫は、その編み針の先に全部かかっています。ここで生きて行けない日には、死んでも行けないのです。それをはっきり知らなければなりません。千年万年かかっても、回り回っても行かなければなりません。分かりますか?(はい)

 原理の道が一つであるからには間違いなく・・・。この道を行く場合は一つだといって、勝手に行けません。勝手に走っていけません。雲の柱が導き、火の柱が導いて荒野を経ていった歴史的事実を知らなければなりません。

 神様が前に立たなければなりません。その民族にサタンの讒訴条件があるときは、神様が前に立てないのです。それを知らなければなりません。民族を引っ張っていくにおいて、民族が、サタンが讒訴しうる落とし穴に引っかかっている限り、引っ張っていけないというのです。

 イスラエル民族が四十年の間、荒野に停止したのは・・・。イスラエル民族は神様が立ててくださった絶対的な目標、カナン復帰を中心として一心団結し、千年万年の事情を踏み越えることのできる決意の下で、その距離が遠くても突破しようという決意を誓うべき民族でした。それにもかかわらず、民族的決意が鈍るようになったとき、サタンが侵犯するようになって、すべての大衆が前進できなかった歴史的事実を知らなければなりません。

 だから原理の道を踏んでいかなければなりません。六十万という群衆が行くときは、モーセが行くその歩みに合わせて行かなければならないのです。分かりますか? 自分勝手にする人は落後者になります。落後者になれば、荒野時代が再び回って来なくては、霊界で行く道がないということを知らなければなりません。それが周期的に回ってきます。何百年ぶりに、あるいは何年ぶりに。待ってから行かなければならない霊界のむごたらしい実情をはっきり知らなければならないのです。それを私がはっきり知っているのでこのことをしているのです。(一九八五・一二・一五、本部教会)


4 七年路程

 私たち統一教会の教会員たちは、だれかれなしに七年路程を越えていかなければなりません。聖書に七年大患難があるでしょう? 個人的な七年大患難、家庭的な七年大患難、民族的な七年大患難、国家的な七年大患難を経なければなりません。この七年大患難を一度に収拾して個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に越えていく期間がまさにこの期間です。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 七年大患難、その大患難という言葉が本当に合うというのです。そのとき、耐えて残される人がないというくらいに本当に難しい道です。皆さんがもしその道を始める日には一遍に迫害がきます。一遍に迫害が来るというのです。すべてのことが自分の思う通りになりません。全部、反対です。だから僕の立場、僕のような人になるまいとしてもならざるをえません。なるまいとしてもならざるをえない立場にまで追い込むというのです。それでこそ終わるのです。(一九七七・五・一、ベルベディア修練所)

 今日、統一教会の信徒と今後この理念を訪ねてくるたくさんの人々は、すべてこの七年路程を越えなければなりません。行かなければならないというのです。そうでなくては、失ってしまった天的な心情を取り戻してくる復帰の心情を継いでいくことができません。神様がそうしてきたし、先祖たちがそうしてきたし、先生がそうしてきたので、皆さんもその道をたどっていかなければなりません。これが国家的な基準まで越えれば、短くすることができます。七年が七カ月になりうるし、七カ月が七日になりうるというのです。この使命が完結される前までは、世界史的な七年大患難が残っているのです。

 皆さんが、この七年期間にすべき使命は何でしょうか? 個人的な勝利の主管権を備えなければならず、家庭的な勝利の主管権を備えなければならず、氏族的な勝利の主管権を備えなければならず、民族的、国家的な勝利の主管権を備えなければなりません。しかし、堕落した後孫である皆さんは直接七年路程の道を行くことができません。だから、神様は主を立てて、霊界と肉界にそのような道を築くようにし、皆さんを行かせるのです。復帰路程がこのようになっているという事実を皆さんは知らなければなりません。(一九六五・一・一、前本部教会)

 統一教会の食口たちにおいて七年路程は、先生が民族の運命を決定づけることのできるアベル的な路程に同参する期間です。先生が東に行けば東についていき、西に行けば西についていって、皆さんは葉になっても、枝になっても、落ちずに折れずにいなければなりません。(一九六六・一二・一一、前本部教会)

 「統一教会に入ってから何年になりましたか?」「入ってから十年になっただろう」「十年になったなら年数は私より多いけれど、何をしたの?」「何をするって、統一教会を信じたさ」「信じたけどどうなったの?」「どうなったって、何がどうなる、おいてみればただそのままだ」えい、こいつ! 信じないより劣るというのです。こぶを取らなければなりません。そして膏薬を張らなければなりません。嫌でもよくても引っくり返さなければならないのです。じっとしていていいでしょうか? だめなのです。

 それゆえ、統一教会が行くには、個人が行く道、家庭で行く道、氏族で行く道、国家で行く道、世界で行く道、天地で行く道、神様の愛で行く道、このようにさっと出ているというのです。間違いなく、選んで行かなければならないのなら、世の中は統一されずにいますが、霊界に行っては何億千万年かかったとしてもその道についていかざるをえない原則になるのです。

 ところが、死んでから行けば億千万年かかるけれど、生きて行けば七年の間に行ける! どちらを選びますか? 生きて? 生きて行くのにただ笑って踊りを踊りながら行けばどれほどいいでしょうか? そうなってはいません。(一九七二・六・四、前本部教会)


三 天の道を行くための私たちの姿勢

1 先生が見られた統一教会員の道

 統一教会の信徒たちが訪ねていくべき道はどんな道か? いわゆる人間たちが唱えている、平和の旗が翻ると主張するそのような場ではなく、人間たちが一番嫌う場、人間たちが一番避けていく場を訪ねていかなければなりません。訪ねていくときはどんな格好で? 六千年間訪ねてこられたお父様の格好を代身して訪ねていかなければなりません。私たちが涙を流すときともに涙を流されながら、涙を流す私たちを慰労しようとするお父様であることを知らなければなりません。ですから皆さんは、涙を流すその心情を抱きしめ、皆さん自身がたとえ涙を流す場に置かれているとしても、涙を流すかわいそうな者を抱きしめ、「泣くな、お前の前途には希望があるので泣くな」と慰めながら彼らに幸福を、彼らに希望を、彼らに事情を、彼らに心情を移してあげることのできる群れにならなければなりません。それでこそ、天の相続を受けることができます。天地の相続を受けることができるというのです。そうしてこそ、地と天の権勢はもちろん、地獄の権勢までも支配できるのです。

 それゆえ、私たちは行かなければなりません。歴史的な思潮が私たちの目前に近づいているのが事実であるからには、皆さんは行く所ごとに、心と思いと精誠を尽くして行かなければなりません。心と思いと精誠を尽くす所には、どんな問題もすべて解決されます。世の中のすべてのことが皆解決されるという話です。そのほかのことは問題がないというのです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日、私たち統一教会の教会員たちはどうすべきなのでしょうか? 開拓していかなければなりません。開拓していくときは個人的な願いの道を開拓し、個人的な事情の道を開拓し、個人的な心情の道を開拓しなければなりません。そうしてこそ、家庭の道、氏族の道、民族の道を・・・。それでこそ、来られる主が一段階先立っていくというのです。先立っていけば、その後ろ盾になるため、民族的時代を迎えたなら、自分の氏族的な責任を完結して天の願いの基準を中心として一体化しうる統一された位置に立っていなければなりませんが、それがまさに統一教会員たちが行くべき道だということを、はっきり知らなければなりません。(一九六四・五・一、前本部教会)


2 統一教会員の道は難しい道

 統一教会は「世界を復帰しよう! 世界を導き、神様を先に立たせて行こう! 神様が統一教会を導いて行くのと同時に、統一教会は世界を導いて行こう!」と言うのです。ですから、大変だというのです。易しいことですか、難しいことですか?(難しいことです)どれくらい難しいことですか? 「私一人は犠牲にならなければ。私一人死んで世界を生かさなければならない」全部がそうであるべきです、全部が。統一教会の連中は、「私一人犠牲になって世界を神様の前に導けるようにしなければならない。神様にあの人たちがついていけるように、世界のために私を犠牲にしてもそれをしなければならない。夜でも昼でも一生の間、私を投入して生きながら、死ぬときまでしなければならない」そうであるべきです。そんな結論が出てくるのです。分かりますか?(はい)

 統一教会を信じることが易しい道だ、難しい道だ? どうですか?(難しい道です)どのくらい難しいですか?(とてもです)耳を塞がなければならず・・・。五官のすべての感覚が生きていてはぶつかるというのです。生きて死んだしかばねのように行くのです。生きて死んだ人のようになったので、いつでも行くのです。死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬと言ったのがその話なのです。(一九八一・四・五、アメリカ)

 これから私たち統一教会の教会員たちはどんな方向に引っぱっていくのでしょうか? ここで先生は、皆さんに率直に話します。統一教会の行く道はついていくのが難しいので、固く腰ひもをしめなければなりません。はらわたがあるのかないのか分からないくらいに、しめなければならないようになっています。そうして、何か、いい服を着ては行けないようになっているのです。家庭なら、家庭の女中の足の一番端から出発です。皆さん、女中をよく使うでしょう? 「おい、水持って来い!」、「はい、王様」それをすべて改めなければならないのです。そのような新しい思想的な何かが出て来なければならないのです。あの糞尿を汲み取る人たちの足もとから出発しなければなりません。そこからどこまで出て行くのでしょうか? そこから自分を磨いて、どこまで? 世界の端まで行ける、このような試験過程を経なければならないのです。それゆえ、ここに入ってきてよくよく知ってみれば行かざるをえません。(?)

 さあ、統一教会の行く道が易しければ、皆さんが残っていそうですか? 皆さんのように、足らない者たちがです。それを知らなければなりません。(一九七八・一一・一九、ベルベディア修練所)

 神様を訪ねていく道は難しい道です。難しくなければいけません。そうでしょう? 難しい道が福を受ける道です。難しいことに私が責任を持つと言うのが、神様の息子、娘になる近道です。先生も労働をしてみたし、物乞いをする人にもなってみたし、袋だたきにも遭ってもみたし、冷遇を受けてもみました。貧民窟に入っていって暮らしてもみたし、乞食を助けてあげたりもしました。とはいえ、安物の先生ではありません。(一九六一・七・一七、前本部教会)


3 天の道を行くとき、取るべき心の姿勢

 統一教会の教会員として真なる道を行く人は、天をつかんで地をつかんでおこうとしてもおけません。神様の息子・娘になる道を訪ねて行く人は、統一教会の文先生がいくら意地悪くしたとしても、放そうとしても、放すことができません。また、神様もこの世界を復帰するためには、文先生を放そうとしても放すことができないのです。手をつかんだとするなら、しっかり握れというのです。しっかりと握ってこれを成さなければならないというのです。世界の人たちもそうしなければなりません。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 皆さんが愛せない人に対して「私が神様の名前でだれよりも愛する」として、天地に対して宣言することができる自己を発見できる境地にまで、歯を食いしばって行かなければならないというのです。接することのできない人を真心で接することのできる立場まで私が行こうと、神様の名前で行くことができると言って、努力しなければなりません。(一九七六・六・一三、ベルベディア修練所)

 皆さんは人が分からない迫害の道を自ら進んで訪ねてきました。出発した道が滅びる道ならしりませんが、そうではないと言うならば、この道をはじめて進み出たその日の決心を捨てないでください。その日の決心を・・・。

 この道を行くところには暴風雨が強く吹き寄せ、いばらの道があるでしょう。しかし皆さんが望んでいくその道には、天の血痕がにじんでいるのを知らなければなりません。皆さんが行く道は、決して皆さん自身だけが行く道ではありません。皆さん自身は初めて行く道ですが、神様はその道を何千万回も歩まれました。その道にはその方が歩かれながら流した血痕があるということを知らなければなりません。

 アブラハムもその道を行ったし、ノアもその道を行ったし、モーセもその道を行ったし、イエスもその道を行ったし、イエス以後に数多くの聖徒たちもその道を行ったとするなら、皆さんはその道を行くのが嫌ですか? それなら、天上に行って罰を受けなければなりません。その道を行こうとすれば、天的な伝統を立てるという心情がなければなりません。一歩を踏み出す度ごとに、先祖の血が煮え返るということを感じ、とげが私の体にかするときには、先祖の血肉を裂いたそのとげが私の体を裂くのを感じなければなりません。

 そのように行った人は、時代的な個人とはいえ、一時代にとどまる人物ではありません。六千年の間、父とともに行った者になるのです。ですから皆さん、この道を行ってから手錠に縛りつけられて捕らわれの身になったとしても、恐れ多く涙を流す人になるようお願いします。「あなたが訪ねられたこの道、この場に不肖で滅亡するしかない罪人の後孫であるこの身が、こんな栄光なる場に参席できるとは、恐れ多く存じます。数多くの殉教者たちが神聖な血を流したこの基盤の上に、汚らわしいこの身が足を入れることができるとは、恐れ多く存じます」と言わなければなりません。(一九六〇・一〇・二、前本部教会)

 先生の命令ゆえに行くのではなく、皆さんが行くべき道を行くのです。それゆえ、「先生が命令してくださるので感謝します」と言わなければなりません。(一九六九・一二・二二、前本部教会)

 私たち統一教会員たちは自ら進んでその道を行かなければなりません。神様が追いたてて行くよりも、自ら進んで行こうというのです。イエス様は弟子たちが責任を果たせず悲しかったので、私たちは自ら進んで責任を果たそうというのです。自ら進んで家庭を離れ、自ら進んで教会を離れ、自ら進んで国を遠ざけるようになれば、それがすぐみ旨のために闘う一線になるのです。(一九七〇・一二・二〇、前本部教会)

 では、天の聖門に行くには行かなければなりませんが、それをどう訪ねていきますか? どのように訪ねていくのかというのです。ですから、絶望であり、失望です。いつ、どこでも行けと言えば、行かなければならないのです。行かなければならないのです。このようにすべて準備しておいたのに、行くのが嫌ですか? では、泣きながら行きますか、笑いながら行きますか?(笑いながら行きます)落胆して行きますか、希望に満ちて行きますか? どうなのですか?(希望に満ちて行きます)仕方なく行きますか? 無理やりに行きますか、自ら願って行きますか?(自ら願って行きます)返答はうまい! そこに行くときには勇気がなければないのです。(一九七九・一一・一一、アメリカ)


4 天の道を行く秘訣

 私たち統一教会が行く復帰摂理の道において、その骨髄の思想は何でしょうか? 祭物についていく道です。これを皆さんは知らなければなりません。祭物はどんな物でしょうか? 「あなたは心をつくし、思いをつくし、精神をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」といいました。心をつくし、思いをつくし、精神をつくせというのは、どういうことでしょうか? 首を差し出せというのです。結論は簡単です。首を差し出せというのです。生命を差し出して神様を愛するのです。

 生命を差し出すときに嫌がりながら無理やりに差し出すのではなく、気が狂うほど喜んで差し出せというのです。(一九七一・九・五、前本部教会)

 どうせ、人間が行かなければならない本然のその道を行くために乗り出した私たちは、すべてのものを捨てて行かなければなりません。まずは物質を捨てなければならず、次には父母と子女、すなわち家庭を失ってしまわなければならず、そして国家と世界まで失ってしまうという道を行かなければなりません。(一九五七・九・二二、前本部教会)

 皆さんが統一教会の原理を聞いたとして統一教会員になるのではありません。そんな人は順番にも入れません。統一教会員になろうとすれば、どうしなければならないでしょうか? 直行しなければなりません。原理のみ言を聞いて直行して復帰すべきことを全部踏んで上がっていかなければなりません。皆さんが原理のみ言を聞けば何をしなければならないでしょうか? 活動をしなければならず、命令に順応すると同時に先生について研究しなければなりません。先生の胸をつき抜けて直行できなければ、神様の前に行ける直行の道を捜せないのです。(一九六九・九・三〇、前本部教会)

 いずれにしても、皆さんはこの道を行かなければなりません。行くときには直行しますか、回り道をしますか?(直行します)回り道をするのはだれでも行けます。そんな道は、そのまま行けるし、だれも干渉しない道です。けれども直行する道は峠の道です。直行する道は待ってあげる時間がないのです。(一九六九・一一・一五、前本部教会)

 先生自身も生活をしていくときに、信仰をしていくときも必ずある標準を中心としてそこに一致しうる行路を歩いていかなければなりません。それは絶対的な標準なので、絶対的な立場、深刻な立場で対していかなければなりません。万一、その標準と方向が行き違うようになるときは、統一教会も長くないということは言うまでもないのです。

 それゆえ、私たちの生活環境においても、歴史時代においても、いつでも個人が一つの標準を中心として、一体にならないときには、除かれるのが原則です。万一、甲という人がある標準を中心として出ていって、その標準と一致しえず、中間で断ち切れるようになるときには、自分よりその標準にもっと近い立場で一致しうる人がいるなら、その人にその立場を譲ってあげなければなりません。このようにして、発展していくのです。

 今日、私たち統一教会の行く道を中心としてみるとき、ここには、個人として行くべき道があるでしょう。個人個人として信仰していくべき道があるでしょう。その次には、家庭が行くべき統一教会のある標準があるでしょう。統一教会の食口なら食口として、氏族なら氏族として。統一教会員たちが行くべき道の標準があるでしょう。のみならず、統一教会員たちが成すべき社会があるなら、社会としての行くべき道があるでしょうし、統一教会員が成すことを願う国として行くべき変わらない標準があるでしょう。その基準に一致しうる国家がなければならないでしょう。統一教会が夢見る理想の国、すなわち地上の天国がなければならないでしょう。歴史とともに変わるのではなく、歴史は変わったとしても変わらない確定的な、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界が行くべき絶対的な標準が制定されるべきでしょう。

 それなら今日、私たちが統一教会員として行くべき道をどう行かなければならないでしょうか? 個人が行くべき、個人はこうこう生きるべきだという個人の標準があるでしょう。家庭はこうこうに生きるべきだという家庭の標準があるでしょう。あるいは、国家ならば国家の標準があるでしょう。その世界の標準と神様の標準が一致するとき、神様のみ旨の成就と私たち人類のみ旨の成就が一致するのではないのかというのです。

 このような問題をおいてみるときに、皆さんが統一教会員として個人的標準に一致しうる生活をするのか、家庭的標準に一致しうる生活をするのか、あるいは、氏族が行くべき標準に一致しうる生活をするのか、あるいは民族として行くべき標準、国家として行くべき標準、世界として行くべき標準の中のどんな標準に一致しうる生活をしているのかというのです。このような問題が信仰者にあっては重要な問題でないはずはないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)




















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