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宗族的メシヤ
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四 回帰性

P180
1 人間

 さあ、もし皆さんにどこで死にたいのかと聞けば、どのように返事をしますか? (故郷)。そう、故郷なのです、故郷。どこで死にたいのかと言えば、「祖国で死にたい」と言わなければならないのです。そこは局限されたどこかではなくして、全世界なのです、全世界。私の国と私の故郷は、世界、地球だというのです。皆さんは、故郷に埋められなければなりません。

 それで故郷を訪れますか? (はい)。それを経ずしては故郷、祖国、天国を探し求められないのです。(一九七九・一・一、ベルベディア修練所)

 すべての宇宙は、回っていかなければなりません。循環しなければなりません。ですから、幼い人がのちに父母になり、おじいさんになって死んでいくのです。愛を中心として回っていくのです。その次にはまた、その人の息子、娘たちがそのようになり、またその次には、その孫たちがそのようになり、こうしながら回っていくのです。これが一サイクルです。おじいさん、お父さん、自分が一サイクルを描きながら発展していくのです。これは変わることができません。

 本来、人間が真なる父母を通して、真なる愛を中心として連結された子女として生まれたならば、そこから愛でもって一つになって生活するすべての方法が公式化され、自動的に循環しながら生き、人間世界のどこにあっても和合するのです。生きて年を取れば和合する永遠なる世界へ帰っていくことができるようになっていたはずです。

 なぜ帰っていかなければならないのでしょうか? 神様が無形の父としておられますから、無形の父の世界に行って生きなければならないというのです。なぜ行って生きなければならないのでしょうか? 愛の世界だからです。人間が地上世界で生きるときは、自分を中心とした方向の愛のサイクルをもちますが、神様の世界に行っては、神様を中心として円形的なサイクル圏内へ入っていくのです。方向がありません。東西南北に、みな通ずるというのです。

 私たちが行く霊界は、時間を超越しています。時空を超越しているので東に行ったものが西と、西へ行ったものが南と、南へ行ったものが北と通ずるようになっています。ですから神様の愛を中心として、球形的な理想郷に着陸するために人生生活をしているという事実を知らなければなりません。

 それを何でもって知るのでしょうか? 鮭みたいなものも、自分が生まれた所を探し求めていくのに、万物の霊長である人間が、愛を中心として自分の本宮を探し求めていくことができないということがあり得るのかというのです。神様が鮭もそのようにつくったのに、人間にそのような素性を入れておかなかったのでしょうか? その素性が愛なのです、愛。本質的愛のにおい、神様から出てくる本質的愛のにおいを、真に満ちた父母の血統を通じて受け継いだならば、自動的にその心や体は、神様のにおいをかぐことができるのです。(一九八七・一〇・三一、漢南洞公館)

2 こうもり

 皆さん、こうもりを知っているでしょう? こうもりは夜に出てきて木の枝の間をすいすい飛び回りますが、ぶつかりません。行く道を知っているのですね。皆さんも天の国へ帰っていくことのできる本性の心、愛の心が動いて、本性が和動して自分の方向性を失わずに行くことのできる皆さんになりましたか?

 ですから、絶対的な信仰をしなければなりません。絶対的なその法度に順応しなければなりません。鮭は絶対的に順応するのであって、相対的に自分の思いどおりにすると思いますか? その次には、絶対的な愛です。愛以外には道がありません。直行しなければなりません。心と体が直行しなければなりません。(一九八七・一〇・三一、漢南洞公館)

3 鮭

 皆さん、アラスカに行けば鮭が多くいます。鮭を知っていますね、鮭。鮭は桃色をしていますか? 五種の種類がいます。桃色をしているのもいますし、赤色をしているのもいますし、いろいろな種類がいます。鮭は、淡水で稚魚をふ化して海に出ていくのですが、四〇〇〇匹、五〇〇〇匹が五大洋を経てくるのです。そのように回り歩くのです。そのように回り歩いて、稚魚は四年たてば卵を産むほどになるのです。成熟した鮭になって卵を産む時になったならば、どこに行って真の愛の対象に会うのでしょうか? 自分が生まれた所を探していって会おうという条約ができています。そのような法度ができているというのです。それを誰が立てたのでしょうか?その鮭たちが立てたのでしょうか? それは、神秘に満ちた問題なのです。

 鮭は生まれた所に行って子を産むと、誰が定めたのかというのです。自分の祖先の一匹ぐらいがそうだということにしましょう。祖先の一匹ぐらいそうだとしてもそれが千年万年、歴史が変わるとしても変わらず、そのような法度に従って動かなければならないという論理は立てることができないというのです。(一九八七・一〇・三一、漢南洞公館)

 子供のために一度死のうと考えてみましたか? それ、サーモン・フィッシュ(Salmon fish:鮭)なのです。それで私がサーモンをサルヴェーション・フィッシュ(Salvation fish:救世魚)という言葉も作ってあげたのです。犠牲になるのは一番なのです。神様の調和がそのように深いというのです。子のために四〇〇〇マイルを……。四年前に、このように小さい子が離れ去って、四〇〇〇マイルの大洋を回り、郷愁に浸り家族を探し求めて、自分が昔、小さい時に離れ去った故郷へ戻ってくるというのです。そこで自分の父、母が自分を生んでくれて死んだのと同じく、自分も子供のために犠牲になり、父、母のそばに行くために探し求めてくるというのです。人間世界にこのような教育の材料がどこにありますか?(一九八七・七・一四、アラスカ)

 見なさい。アラスカの鮭は、四〇〇〇マイルにもなる道を行っても、四年たてば戻ってきて子を産むのです。どのように戻ってきますか。そのような小さい生物もそうなのに、万物の霊長である人間が神様を探し求めていくことができないのかというのです。(一九八八・七・三、ベルベディア修練所)












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