真の御父母様の生涯路程 1
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真のお父様の誕生と内的準備

第二節 幼少時代と初期学習
        一九二〇〜一九三八・三

一 自然探求と農村生活

故郷の山河

 先生は幼いときから山を見て、「あの山の名前は何だろうか。あの山に何がいるだろうか」と考えました。そのように考えれば、必ず行ってみました。また村中、およそ二里内外にあるものを詳しく調べました。その時は山河にあるすべてのもの、見える山ならば山のその向こう側には何があるか、知らずにはいられないのです。性格がそうでした。

 活動範囲が大きくて広かったのです。見える野原の中には行ってみなかった所がなく、山頂の高い所へは行ってみなかった所がありません。その向こう側までも行ってみるのです。それでこそ、朝の日の光に映える、あの中には何があるか、ということが頭に入るのです。そうして、それを眺めるのであって、行ってみずに眺めるのは嫌でした。そのため、どこにいても座っている時がないのです。そのようなすべての所で、先生は信仰的な情緒を育てたのです。それが故郷の山川です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の大地であり、故郷の春風であり、自分の過去のすべてのことが、生き生きとしているのです。

 韓国人として、韓国の故郷の山河にあるすべての動植物、自然界のものを教材として、自分の内的な人間が育ち、豊かさを備えるようになるのです。その多くの材料を残す所が故郷ではないでしょうか。それゆえに、故郷の山河が懐かしいのです。私は自然を本当に好みました。


植物探求と木登り

 私は幼い時、山に通いながら、花という花を調べてみました。知らない花がありません。家の裏の小山に行って、自然があまりにいいので家にも戻らず、日が沈むまで自然と交じわり、歩き回って、疲れてうつぶして寝たところ、夜十二時になって、母と父が捜しにきて、連れていくというようなことが多かったのです。自然をそのように好みました。

 また、草も数百種類を採集して、どんなものが毒草で、どんなものが薬草であるか、また、その構造はどのようになっているかということを知るために、熱心に研究しました。それゆえに、山菜のようなものも、私の知らないものがないのです。姉と、あるいは村のおばさんたちと山菜取りに行っても、いつでも先頭に立って山菜を取ったことを思い出します。

 そのうえ、幼い時自分の家の近くにあった木、例えば栗の木や、アカシアの木がありました。そのアカシアの花が咲くようになる時、その香りは本当に高尚ではありませんか。そうすると、そのアカシアの木も、眺めているだけではないのです。枝ごとに上りました。

 先生は、村で誰も上ることができない一番高い木があれば、それも上ってしまいました。夜でも眠らずに、そこに上るのです。

 我が家に行けば、大きい栗の木があります。およそ二百年になる美しい木です。私は申年生まれなので、木の枝ごとによく上りました。いが栗のある所に、ひたすらに上るのです(笑い)。枝が曲がって落ちれば、その下の枝に届くことを考えるのです。ですから、落ちる時は、他の枝に引っ掛けて落ちるのです。

 わざわざ枝の端に行って、枝が届く所まで行く試験までするのです。そのように行き来しながら、小さい木で杖を一つ作って、それでこつこつとたたい、ていが栗を取れば、本当におもしろいのです。その栗を落とさずに取ることがどれほどおもしろいか、それがとても新鮮なのです。これは、田舎で育っていない人には分かりません。その枝が数十本あって、その栗の木がものすごく大きいのです。

 それから私は五葉松を愛するのです。木に実がなければならないでしょう。五葉松には実があります。これは植えても、凍って裂けなければなりません。そして五つ葉です。これは、東西南北を中心として、一つの中央線をもっているのです。そのような意味で、先生は五葉松を愛するのです。また、この木はとてもよく伸びます。まっすぐに成長するからです。根もまっすぐで、芽もまっすぐに上がります。

 また、先生は竹を見る時は、本当に気分がいいのです。いくら風が吹いても、竹は折れません。「松竹のような何だ」と言うとき、なぜ、松を先にしたのでしょうか。竹松と言ったらいいでしょう。松は折れるのです。そして、また育つのを見れば、竹は一度に育つのです。一度に育って完成するのです。少しずつ少しずつ育つのではありません。一度に大きくなるのです。それを知っていますか。すっかり大きくなってから、枝が伸び始めるのです。竹を見てください。竹は芽が出て、すぐに大きくなるのです。一番最初は、枝もないのです。一年ですべて育つのです。


鳥たちの生態観察

 先生は幼い時、美しい鳥を見れば、その鳥に対して深い関心をもちました。その鳥が何を食べて生きるのか、どこに巣を作って雛をかえすのか、そのようなことを、何日かかっても、くまなく探して、必ず突き止めてしまいました。

 山に見えるすべてのもの、飛び回るすべての鳥は、私が鑑定してこそ飛び回るようにするのです。かわいらしい渡り鳥が来れば、初めて見るので、この鳥の雄はどのような姿で、雌はどのような姿か、それを知りたいのです。しかし、それを知ることのできる書物がありますか。ですからやむを得ず、渡り鳥を探して研究するのです。一週間、御飯を食べないで待つのです。

 ある時、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきり確かめるまで、夜も眠れないのです。前日の夕方に巣のある所まで上ってみて、また明け方に、かささぎが出てくる前に、こっそり上ってみるのです。そのように上ってみると、卵を一つ産んで、二つ産んで、三つ産んで、毎日卵が増えるのです。そのように、毎日のように上り下りするので、かささぎと親しくなりました。初めは、死にそうだとぎゃあぎゃあとやたらに騒いだのに、毎日のように上がってきても支障がないから、知らん顔をしていました。それでひなに、何を捕まえて食べさせ、何をするのかを全部観察しました。

 「ああ、先生は意地悪な先生だなあ!」と言うでしょう。私は意地悪なのです。意地悪なところもあるのです。鳥を捕まえて、カップルはみな、キスしないものもキスしろと、向き合わせたのです(笑い)。いくらやってもキスしないのです。「お前たち二匹で、喜んでキスして、ちゅんちゅんと歌を一度歌ってみろ、歌ってみろ、歌ってみろ!」と言いながら、いくらおいしいえさを持っていってあげて待っても、寒いのではないかと囲いをしてあげて、ありとあらゆることをしても、駄目だというのです。愛は、自然に成されなければならないのです。最高に自由な環境で、授け受けするのが愛だというのです。そのようなことは、先生がすべて実験してみて学んだことなのです。

 かささぎの巣を見れば、すぐにああ、今年は風がどこからどこに吹くなあということが分かるのです。東風が吹きそうであれば、方向をさっと変えて、行ったり来たりしながら穴を開けて、枝を引っ張ってきて巣を作ります。それを見れば、本当に誰が教えてあげたのか、傑作品を作るのです。

 これは枝を編んで作ったので、雨も漏れるのではないですか。ですから、あとで何をするかというと、土で下をすべて塗るのです。風が入り込まないように、このようにしておいて、本当に不思議なくらいに、雨が降れば、端の一箇所にすべて流れていって、雨が巣の中に落ちないようにするのです。端をできる限りそのように集めておくのです。雨が降れば、雨水が流れてそちらに落ちるようにするのです。これを誰が教えたのか、本当に素晴らしい腕前なのです。私たち人間が、そのような家を建てようとすれば、おそらく何年も学ばなければならないでしょう。ところが、枝を口にくわえて、さっさっさっとそのようにするのです。

 うぐいすの巣は、このように枝にぶらさがっているのです。それを見れば、本当に不思議です。どこからか絹糸のようなものをくわえてくるのです。うぐいすは、普通の木の枝に巣を掛けません。高い所、本当に高い所、はしばみの木のような頑丈な所に巣を掛けるのです。また、うぐいすが一番よく食べる虫は何かというと、松毛虫です。おいしいものの中でも、松毛虫が一番おいしいというのです。

 ひばりのようなものは、巣を作れば、私が十メートル前に座ります。ひばりは野原に巣を作ります。人に見つけられやすいため、芝の間に、本当に分からないように作るのです。普通の人には見つけられません。その横に行っても分からないのです。きっちり三角に作って、出入り口は二つ作っておくのです。

 すずめを見れば、誰が教育したのか、小さいすずめの雄と雌が出会って巣を作り、そして子供を産むのですが、子供を産むと母鳥は、自分は食べるものも食べずに子供にすべて食べさせてあげるのです。それを、誰がえさだと教えてあげたのですか。それを誰が説明できますか。

 また、小さいすずめたちを、じっと見てください。これがちゅんちゅんちゅんと言うと、子供たちがただのおもちゃだと思って捕まえて殺そうと思えば、思いどおりにできるすずめなのですが、このすずめは家を作ることができるのです。子供を産んで育てて、子供が危険になる時には、自分の生命を超越することができるのです。それは千年方年過ぎても、変わらないのです。

 本当に、子を愛する動物の強い母性愛、父性愛というのは大したものです。ある時は、そのことを考えるといじらしいのです。そのようなこと一つを中心として、すべての鳥ならば鳥に対し比較して、生態を研究することができます。そのように教材が多いのです。

 鳥たちの歌には、三つの種類があります。一番目は、おなかがすいた時に合図する歌で、それからお互いに愛する相手のために歌う歌で、それから危険な時に歌う歌があります。それは、みな違うのです。普通の人には分からないのですが、自分たちの世界では、すべて知っているというのです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるというのです。そのようになっているというのです。毎日の生活が何を中心としてなされているのですか。おなかがすくのは、一度食べれば終わるのです。だからといって、毎日のように危険な場所にいるのでもないのです。大部分の歌は、何を中心としているのかといえば、相手と受け答えする関係において、歌が行き交うのです。

 おもしろいことは何ですか。鳥を見ても雄と雌がいるのですが、じっと見てみると、鳥は雄のほうが美しいのです。雌はおめかししていないのです。きじを見ても、雄が美しいでしょう。ああ、これはどれほど素晴らしいでしょうか。とさかも色とりどりで、ここは紫色に光って、首にはネクタイをして、どれほど豪華にしているでしょうか。それはなぜですか。どうして、そのようになっているのかというのです。鳥たちは、たくさん繁殖しなければならないのです。繁殖するほど良いというのです。それゆえに、雄が訪ねていくのではなく、雌が訪ねていくというのです。


昆虫たちの生態探求

 さあ、鳥はこのように、私たちに愛を教えるための教材なのです。動物世界、植物世界はすべて教材なのです。ちょうが飛ぶのも、このように愛しなさいという教材なのです。すべての自然世界は、愛の教材です。

 虫たちや昆虫たちが生きていること、あるいは動物たちが生きているのを見れば、すべてカップルであるということを知ることができます。このように見ると、自然は何かというと、神様が人間を愛の対象として、相対理想を教育させるために展開させておいた教材、博物館だというのです。

 動物もそうではないですか。春になれば、みな愛の相対を求めてさまようのです。鳥もそうであり、昆虫もやはり同様なのです。夏になって昆虫の鳴く声を聞いてみてください。その鳴く声には、二つしかありません。一つはおなかがすいて鳴く声であり、他の一つは相対に会いたくて鳴く声です。合図は簡単なのです。

 先生は田舎で暮らしたので、昆虫をたくさん捕まえました。捕まえたことのない昆虫はいないほどです。

 せみが鳴く時は、晴れるのです。蒸し暑い夏にひぐらしが鳴く時、そのひぐらしの声がどれほどすがすがしいでしょうか。それをじっと見ていると、汗が流れることも忘れてしまいます。どれほどすがすがしいか知っていますか。天地の調和は、すべての環境に合うようになっているのです。せみの声を愛さなければならず、ひぐらしの声を愛さなければなりません。

 私のいる部屋の前に柿の木がありました。便所の前にあった大きな柿の木なのですが、その葉の光沢がどれほど青々しかったか分かりません。柿の木の葉がつやつやしていて、そこにひぐらしがいるのです。その近所では、そこが一番高い所なのです。そのひぐらしは、高い所で鳴かなければならないということを知っているのです。高い所で鳴いてこそ、効果があるのであって、穴の中で鳴いてなんの効果がありますか。それが鳴くのですが、ある時は、どれほど気分がいいか分かりません。どれほどすがすがしいか、一度聞いてみてください。

 そこには、針仕事をする女性たちが、暑さを忌む心を忘れ、針仕事の手を止めて引き込まれていく、そのような境地があるのです。どのようなせみがそうなのか、一度探してみたことがありますか。先生は、関心が旺盛で、そのようなことをたくさんしました。「ああ、このせみは、こうして鳴くのだなあ」と、捕まえてみたことのないものがありません。関心が旺盛なのです。

 それでは、彼らの歌は何ですか。愛を盛り上げようというのです。自分一人で「ミンミンミン」と鳴くのはなぜかというと、自分の相手もそうですが、天地のすべての環境的条件を和合させるためです。その環境の中で暮らす人々も、私たちのように歌いながら喜び得る理想をもって暮らしなさいというのです。それゆえに、自分が生まれた故郷の実を食べ、故郷の水を飲み、故郷で自然の動物たちを愛することのできる人にならなければなりません。そうなってこそ、世界的な人になるのです。

 昔、蟻を見たのですが、小さい蟻にも手があるのです。蟻のようなものにも、人間が感じることのできない所までも感じることのできる、敏捷でもっと高次的な繊細な器官があるというのです。イギリスのロンドン博物館が大きいと言いますが、博物館が何百個あっても、それは説明できないのです。小さく生まれたものが、博物館何千個を背負って歩き回っているということを考えてみてください。ですから、道理というものは恐ろしいのです。

 ふんころがしを知っているでしょう。この欲張りなふんころがしは、後ろ足や前足でしきりに糞を転がして大きく作ります。それを私は、よく楽しんで見ていました。ふんころがしを眺めていると分かりますが、作業するのがとても賢いのです。それをさっさっと丸めていくのです。率直に言うと、実に、素晴らしいというのです。この虫は、じっと見ていると、どんどん大きく作るのです。このくらいのものが、このくらい大きく作るのです。欲張ってです。大きくすると、押しても駄目なので、その次からは後ろに蹴っていくのです。そのようにして、それがごろごろ転がるようになると、それを離さずに一緒に転がっていくのです。

 私は養蜂もたくさんしましたが、アカシアの蜂蜜が本当においしいのです。アカシアの花に蜂が留まって、味わったならば、頭を押し込んで、吸い込む時は前後の足を突っ張って、尻は下に支えて吸い立てるのです。そのような時、ピンセットで尻を引っ張ると、尻が落ちても放さないのです。どんなにひどいですか。尻が落ちるように引っ張る者もひどいけれど、その味を知って放すことができないほうが、もっとひどいというのです。それを見て、「やあ! これは、私が教えられた。私もこのようにしなければならない」と思いました。


狩りと魚取り

 また、捕まえなかった動物、獣がありません。虎は捕まえてみることができませんでしたが。山猫から、たぬき、うさぎなど、みな捕まえたことがあります。興味津々です。それらは一匹で生きるだろうと思ったのに、みな相手がいました。全部カップルです。

 昔は雪が降れば、数里離れた小山を、夜でも杖を持って行き来しながら、いたち狩りをたくさんしました。昼にはうさぎ狩りをたくさんしました。うさぎがいなければ、その村の犬でもほえながらついてくるようにしておいて、一つ峠を越えると「やあ、あの後ろに行って棒で殴りつけろ」と言って犬を追い立てました。うさぎがいないので、犬でも追い立てるのです。そうして叱られたりしました。犬を棒で殴れば、足が折れざるを得ないのです。ですから、吠える犬をよく訓練しました。

 すずめの肉は本当においしいのです。食べてみたことのない肉がありません。ひくいながいるでしょう。ひくいなから、きじから、あおさぎ、蛇、捕まえたことのないものがありません。蛇というのは全部、毒蛇でも何でも、現れれば捕まえるのです。毒蛇が私をかみますか。私が毒蛇をかみますよ(笑い)。

 また、鳥の卵も、色とりどりなものが、本当にいろいろあります。それを焼いて食べたくなれば、一つ持ってきて焼いて食べてみました。鶏の卵と鳥の卵は同じです。何の卵でも、味は同じです。

 田舎に行けば大きいあまがえるがいます。子供たちが、はしかのようなものにかかれば食べることができず、熱病を患えばやつれるでしょう。そうすると、そのようなものを五匹くらい捕まえます。それは足の肌につやがあって、ぴんとしているのです。

 その皮をはがして、かぼちゃの葉に包んで焼くのです。三、四重に包んで焼けば、二枚目以上は焦げません。蒸し器で蒸したようです。どんなに柔らかいか分かりません。その味が最高です。また、腹が減った時も、かえるを捕まえて焼いて食べれば、どんなにいいでしょうか。食べるものが多いのです。一人で生活するならば、御飯を炊いて食べる、そのような必要はありません。

 私たちの村に行ってみれば、故郷は定州ですが、黄海の海は、我が家からおよそ一里行けば見えます。高い山に登れば、みな見えます。ところで、海に連結するその中間に、ずーっと池があり、小川があるのです。そこの焦が、四季ごとに変わります。それを取った話からはじまって、よく分かったでしよう。

 海に行けば、何でもできます。海の下にはどのようなかにが住み、どのような魚が住んでいるのかみな知っています。海が先生の故郷から少し離れているので、海を学ぶためには、長期の休みがある時、毎日のように海に出かけるのです。海辺に行って、汚水のにおいがする池から、泥沼から、うなぎを捕まえるとか、かにの穴をつついて、ありとあらゆる所をみなひっくり返すのです。そのように広々と知って、その次には釣りをするのです。どのような魚がどこに住んでいるのかを知っていて釣りをするのです。かにも捕まえるのです。田舎に行けば、しなもくずがにがいるのです。釣りのようなものをみな習いに通うのです。

 うなぎを捕まえるのは、先生がチャンピオンなのです。お客さんが来るとかして、うなぎの煮たのが食べたいといえば、三十分、一時間あればいいのです。先生は、早く走ることもできます。一・五里の道を走っていき、ある池で、およそ十五分あれば、うなぎを五匹くらいずつ捕まえてくるのです。

 夏休みの時に行けば、一日にうなぎを四十匹以上は毎日のように捕まえました。うなぎはこれくらいなのです。そのようなのがどこにいるのかというと、あの深い水の中に……。そのうなぎを見ると身を伏せているのは嫌うのです。保護してくれる穴がぴたっとふさがっている、そこに頭が出て、尾が出ていても、体を覆うことができれば、安定感を感じるのです。生理的に、生態的にそのようになっているのです。それで穴を探して入っていくのです。かに穴のような所を見れば、そこにいるのです。そのような穴をそっと見ると、穴が横に通っていて……。それはさっと触れば分かるのです。手をこのようにしてみれば、分かるのです。それに関しては専門家になりました。うなぎに対しては、それは間違いありません。


家畜への愛

 昔、私は牛に草を食べさせることが本当に嫌でした。それで、向こう側の村の野に結んでおくのです。そして半日くらい過ぎれば、自分に食べさせてくれる人が出てくるはずなのに出てこないから、牛が「モー」と鳴くのです。けれども牛は、主人が出てこないといって、向かってくるのではなく、遅く行ってもひたすらに懐かしがるのです。それで私は、み旨の前に、あのようでなければならないと考えたのです。

 皆さん、屠殺場に行ってみなさい。昔、私は屠殺場に何度も行ってみたのです。物心のつかない時は、おもしろいからです。私たちの村から、およそ四キロメートル行けば屠殺場がありました。誰かが牛を連れて行くというならば、朝から行って待つのです。屠殺屋が出てきて、鉄のハンマーを持って入ってきて、横から牛が入ってきて立つと、いつぶんなぐったのか分からないうちに、ぶんなぐってしまい、見るとあっという間に倒れるのです。すると、目がひっくり返るのです。それから、皮をはいで、足を取っても、その部分がぴくぴくぴくと動いているのです。そのように犠牲にするのです。かわいそうなのです。

 また、私が本当に愛していた犬がいたのです。この犬がどんなに利口か、私が学校から帰ってくる時間になれば、既にそれを知っています。本当に利口だったのです。人より優れているのです。三十分前に、さっと出てきて待つのです。遅くなる日には、きっちり知って遅く出るというのです。それは、どのようにして分かるのでしょうか。おそらくにおいをかぐのでしょう。そして、さっと来れば、私はいつも右手で触ってあげるのです。ですから、左側から来ても、右手の方にさっと回って触ってくれと、このようにこすりつけてくるのです。このように触ってあげ、顔をなでてあげないといけないのです。そうしないと、きゃんきゃんきゃんきゃんとついてきて、ぐるぐるぐるぐる回るのです。「やあ、愛が何なのか、お前もそんなに愛がいいか」。そのような思いがしました。

 私は昔興味があって、豚が子を産むのを見ました。一度「うーん!」と言えば、すーっと出てくるのです。本当なのです。私はそのようなことにとても興味があって、猫が子を産むのも、犬が子を産むのも、みな見たのです。私がそれらをみんな愛したのです。

 皆さんは、めんどりがひなをかえすために卵を抱いているのを見たことがありますか。目をじっと開け、足で抱えて一日中座っているのです。そうしていると、おなかのところの毛がすべて抜けてしまうのです。毛が抜けるほど座っているのですが、それは気分が良くて座っているのでしょうか、気分が悪くて座っているのでしょうか。(良くて)。私が幼かった時は、本当に関心が旺盛でした。毎日、のぞき込みました。最初は追い出そうとしたのですが、一日に三度以上のぞき込むと、追い出そうとはしなくなりました。そうでなければ、自分が逃げ出さなければなりませんが、それをしないのは、めんどりが卵を愛しているからなのです。何だか分からないままにもです。

 愛している卵に何かが起これば、黙っているでしょうか。見てみれば、堅い卵を抱いて、カチャカチャさせているのです。しかし、座っている姿勢は、「天下の誰であっても触ってみろ。容赦しない。許さない」と、大王の権威をもってにらんでいるのです。めんどりの権威には、おんどりも勝手にはできません。おんどりに、「その卵を抱け」と言ってみてください。おんどりでは、三時間もせずに逃げ出してしまうでしょう(笑い)。めんどりだから、抱いているのです。それは何の力ですか。愛の力です。


好奇心と探求力

 先生は数えの十二歳の時、曾祖父の墓を見ました。幼い時、墓を掘って死体を移葬するのを見て、はっと驚きました。「あ、人が死ねばあのようになるんだな。あ、この目と肉はみななくなって、このように骨だけになるんだな」とです。皆さん、骸骨を見たことがあるでしょう。「あれが人の骨なんだな」と感じました。母と父が、あるいは祖母と祖父が、「ああ、曾祖父はこのような人だった」と言っていましたが、それらの骨を見ると、形もありませんでした。「お母さんとお父さんがあのようになるのなら、私もそうだな」と、そのようなことで相当に悩みました。

 知らなくては我慢できません。村で高齢のおじいさんが死んだならば、何の病気で死んだのかと尋ねてみるのです。なぜ死んだのか分からなくて気になれば、必ず葬儀を行っている所に行って聞いてみるのです。どのようにして亡くなられたのかと。ですから村のことを詳しく知るのです。

 このように方事に興味津々なのです。ある村に行っても、ふん尿をくみ取るおじいさんがいれば、そのまま通り過ぎません。他の人々は、みなにおいがするので鼻をつまむのに、そのおじいさんの鼻はどのようにできていてにおいを感じないのだろうか。おじいさんの鼻はどうかなっているのだろうかと気になるのです。それで尋ねてみるのです。「おじいさん、においがしますか、しませんか」と尋ねてみると、「においがすることはするさ」と言うのです。それでは、「においは良いですか、悪いですか」と言うと、「良くもないし、悪くもない」と言うのです。それはそうだというのです。

 母が、りんごやまくわうりをくれても、母に「このまくわうりはどうしたのですか」と尋ねてみます。そうすると母は「どうしたかって、お兄さんが買ってきたんだ」と言います。そうすると、「どの畑で買ってきましたか。畑で買う時おばあさんが取りましたか、おじさんが取りましたか、でなければその家の兄さんが取りましたか、姉さんが取りましたか」と、また尋ねてみるのです。それが、とても気になるというのです。まくわうりでも、誇ることのできるまくわうりなら食べるのであって、盗んで売ったまくわうりなのかどうか、分からないではないですか。それをはっきり知らずに食べれば、気分が悪いというのです。私は、飢えて死ぬなら死ぬのであって、そのようなものは食べられないというのです。それで、食べずに過ごす時もありました。

 先生には、姉さんがたくさんいました。六人です。六人の女たちですが、ふろしき包みを持っていない人がいなかったというのです。一つの家に住みながらも、みな持っています。二重上の姉さんは、これくらい大きいのです。順序どおりに大きかったというのです。私は中間なので、それをひっくり返して見るのが、どんなにおもしろかったか分かりません。このはずくの巣を見ると、ないものがないのです。本当にそうです。それと同じように、姉さんのふろしきには生地でいえば、大きいものから、みな入っているのです。


農村環境の生活経験

 農村に行けば、できないことがありません。田を耕すことも、畑を耕すことも、田植えも、草取りも上手でした。草取りの中で、一番骨の折れるのは粟畑です。種をまいたのち、普通三度は草取りをするのです。三度草取りをする時、こんなに大きいものを抜くのです。粟畑が最も草取りが難しくて、次には綿花畑が難しいのです。

 どのようにすれば豆がよくなり、稲がよくなり、とうもろこしがよくなるかということを、みなよく知っていました。掘り出して置いてあるさつまいもを見れば、それが泥土で育ったのか、どこで育ったのか、直ちに分かるのです。泥土で育ったものはおいしくありません。泥土が三分の一程度混ざった砂場に植えれば、それは本当に甘いのです。

 ですから、どのような地に豆やあずきを植えなければならないのかということが、はっきりと分かるのです。土地を一目見て、「ここには、さつまいもがよく育つのに、なぜこれを植えたのですか」と言うと、「あなたはどうしてそれが分かるのか」と言うのです。どうして分かるのかといえば、それは経験を通して分かるのですo先生が農村に行けば、農夫の中の農夫なのです。

 私は農夫なのです。昔、お兄さんの仕事を手伝った時は、手で糞をこねて粉を作った人です。人糞は、とうもろこしには一番いいのです。それを運ぶことも私がチャンピオンでした。

 田植えのようなことも、先生は本当に上手です。大慨ここでは、苗を縦横に整然と植えるでしょう。平安道のような所では、南より農地が相当に発展しているのです。キリスト教の文物が先に入ってきたためです。苗を一つの棒に十二間間隔に置いて、それに印をつけて、二人がそれぞれ六列ずつ移動しながら植えていくのが早いのです。ここでは、列を作って一列に人が何十名ずつ入っていって、ざぶんざぶんと行ったり来たりするので、足跡がついて困るというのです。足を踏み締めるのに、二指尺の間隔を、きちっと守ることができるように訓練しなければならないのです。そこで、誰が多く植えたでしょうか。先生が早いというのです。本当に早いのです。ですから、農作業の季節に、苗を植えてあげれば少々かせぐことは問題ないというのです。学費も問題ないのです。

 また山に行って落葉をかく時、普通の人はこのようにかくでしょう。先生はこのようにつかんでかくのです。一方の手でこのようにつかみ、他の一方の手でこのようにつかむのです。全部研究したのです。それゆえ、今も落葉をかくのに誰も私についてこれません。桧の木畑に行って、落ち葉をかき始めれば、他の人が一時間かかるところを、私は四十分で終えてしまうのです。研究するのです。そのような生活背景が、今、世界を動かすこの時代に、敷石となり、材料となり、原料となっているのです。

 くつしたや服のようなものは、みな私が編んで着たのです。寒くなれば、帽子も、さっさっさっと、作ります。私の姉たちに、編物を私がみな教えてあげました。パンツのようなものも、大きな綿の布をもってきて、型を書いて片側だけ縫ってきれば、自分にぴったりになっているのです。母のポソン(注・韓国固有の足袋)も作ったのです。それで、母が「やあやあ、ポソンの形をどのようにしたのか、いたずら半分にするのだろうと思ったのに、ぴったり合うもんだ!」と言ったのです。ポソンはふつう周りをこのように切らなければなりません。前をまっすぐにして、ここは少し高めにするのです。ここだけ短くしておけば、ぴったりと合うのです。足がさっと入れば、ぴったり合います。

 また、先生が田舎の寺の手洗いに行って、大便をするようになればですね、その落ちる音が「どぽーん! どぽーん!」そうなのです(笑い)。それはじっと聞いてみると、どんなに詩的か分かりません。「どぼーん!」という音と、風鈴の「チリン」という音が合わさって、どんなに詩的かというのです。三十分、一時間、ある時は二時間ずっと座っている時があるのです。とてもおもしろいのです。少しずつぽたり、ぽたり、ぽたり……。それはすべて詩的なのです。いくらその音を聞いても、あきないのです。詩がそこに含まれているのです。お坊さんもそのにおいのする所に三十分もいることができないのです。十分もいることができないのです。私は三十分以上いたのです。そうです、出てくる時には私が一等です。便所も「お前、私を知っているだろう。私が一等だろう」と尋ねれば、便所が「そうだ」と言うのです。便所も幸福に思うのです。ですから、友達がいないのではありません。考え方次第なのです。すべてのものが私の同志になり私の友達になるのです。文学の友、芸術の友に、すべてなるのです。


懐かしい故郷の味

 先生は、生のきゅうりも、なんでもよく食べます。とうもろこしもよく食べ、生のじゃがいもも、よく食べることができるように訓練をした人です。生の豆まで食べる訓練をしたのです。生豆が、どんなにおいしいかしれません。

 母の実家が二里離れた所にあったのですが、そこに初めて行った時に、さつまいもを初めて見ました。そこではさつまいものことを、土地の果実という意味で、「地果」と呼んでいました。幼い時、母の里で歩き回っていてふと見ると、つるが伸びているものがあるので、「これは何か」と聞くと、「さつまいもだ」と言うのです。「さつまいもとは何ですか。初めて聞く名前ですが、どのように食べるのですか」と聞くと、掘って蒸して食べるということでした。それで、「それをゆでてください」と言いました。初めて食べるので、そのさつまいもの味がどんなに食欲をそそったでしょうか。それで、一人でみな食べる」と言って、さつまいもをざるごと持っていって、座って食べました。

 その翌年からは、さつまいもの季節になれば、待ちきれないと、夕方になれば二里の道を「お母さん、私ちょっと出てきます」と言ってマラソンをしました。それで、さつまいもを食べてきたりしました。

 田舎に行くと、五月ごろは、じゃがいもの盛りです。じゃがいもばかり食べて、それから麦めしを作るのです。その麦めしも、最近の平麦めしではなく、丸麦めしです。丸麦の精麦を、水におよそ二日ふやかして御飯を炊けば、さじでぎゅうぎゅう押さえてすくっても、粒ごとに離れ出ます。それを唐辛子みそで交ぜ合わせて食べたことを思い出します。それが今も懐かしいのです。他のもので混ぜてもおいしくないのです。ひりひりする唐辛子で混ぜて、赤みがかったものを口に入れると、歯の間からどんどん出てくるのです。それで、口をつぐんでもぐもぐ食べたことが、今でも懐かしいのです。

 苦菜もおいしいのです。苦菜知っていますか。苦菜のたれを少し塩辛くして、唐辛子みそで和えて食べるとおいしいのです。この苦菜を食べるのに、口に入れる時に、ぴたっと息を止めて、息をするなというのです。甘い味が出てくるのを待つのです。すると、甘い味が出てくるのです。それを食べてみなさい。それがあれば、御飯一杯をおいしく食べられるのです。度胸のない人は、一度も食べられないのです。食べてみなさい。においをかいだりするから駄目なのです。そのままさっと飲み込んでしまえば、おいしいのににおいがする余地がありますか。


二 生まれつきの同情心と家族愛

やるせない童心の涙

 物心がついてからは、鳥たちに食べるものを持っていってやり、井戸を掘ってやったのです。私が精誠を込めて泉の水を掘り、「鳥よ、お前はここに来て水を飲みなさい」と言えば、来て飲んだのです。私が食べるものを持っていってやればそれを食べて、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきませんでした。鳥は人を好むようになっています。

 ある時は、水たまりを掘って、魚は水の中ではみな生きるだろうと思っていたのです。このようにしておいて、捕まえて入れて、一夜たったらみな仰向けになって死んでいました。それで「精誠を込めてお前を生かしてあげようとするのに、なぜ死んだ?」と言いました。事情も知らないでです。それを見れば先生は情的な人です。魚を見て、「やあ、お前のお母さんが泣くだろうなあ」といって泣くのです。「私が泣いてあげるよ」といって一人で泣くのです。

 先生の幼い時のことですが、私の父は、犬を捕まえて食べることを一番嫌っていました。ところが、ある時、私が学校から帰ってくると、村の人々が母を押し立てて、私が愛する犬の首に縄を掛けてつるしているではないですか。その犬が死にそうになりながらも、私を見て、自分の首が引っ掛けられているのも忘れ、ひたすらに喜ぶ姿を見て、私はその犬をつかんで痛哭しました。この時、「人間は信じられないけれど、犬は信じることができるな」と思ったのです。

 先生は木石のような男ではありません。情的な人です、涙の多い人です、同情心の豊かな人です。幼い時代に、弱い友達を困らせる意地悪い友達とけんかしでも、その友達の服が裂ければ、先生の服を脱いで着せてから帰った、そのような心をもった人です。


貧しい家庭を助ける

 先生は天性がそうであるからでしょうが、冬に震えて過ぎ行く乞食を見ると、家に入って御飯を食べることができず、眠ることができませんでした。そのような性格があります。母と父に言って、その乞食を奥の間に連れてきて、たくさん食べさせて送ろうとしたのです。そのような素質は、天が愛することのできる素質ではないでしょうか。

 村で、御飯に飢える人がいるといううわさをよく聞きました。聞かなかったならば別ですが、聞けば、どのように助けてやるかと、夜眠れないのです。それで母に話すのです。そうすると母も父も、「お前は村の人まで全部食べさせるのか」と言うのです。そのような時には、私は母と父に内緒で、米びつから米をすくって、持っていってあげました。

 陰暦の十二月十五日になって、村ではどこでも宴会するのに、貧しい人々は、もちを食べたくても、食べられるでしょうか。そうすると、内緒で餅米を持っていってあげたり、魚を持っていってあげたりしたのです。村での悲しい事柄を認識して、貧しい人が赤ちゃんを産んだのにわかめがなかったり、米がなくて御飯を炊けない人がいれば、持っていって、あげたのです。

 その時、数えの十一歳くらいでしたが、米を一斗売って、誰かを助けると父に宣布しました。また、父に内緒で米を一斗担いで、二里の道を歩いたことを今も思い出します。それを持っていくのに、縄や綱がないので、そのまま背負って行くのですが、心がそわそわしているために胸がどれほどドキドキするか、数えきれないほどドキドキします。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないことです。そのすべてのことが、み旨のために行くことのできる立場に立たせたのです。

 我が家は、その時貧しくはありませんでした。養蜂をするのに、数百の養蜂箱をもっていました。原版の切れ端に姫萩の芽を挿しておくのですが、そのようにしておくと、そこに蜂が押し寄せてきて巣を作り、蜜を貯蔵する所を作るのです。巣は自分が作るというのです。原版の元になるものは高いのです。それをキャビネットのようなところに積んでおきます。

 田舎に行けば、油がなくて、火をつけることができない所があります。ですから家にろうそくを置いていました。石油はあげることができなくても、ろうそくの火でもつけてあげなければと思うと、心が安らかでないのです。それを我慢できるでしょうか。それでそのキャビネットの扉を開け、大騒ぎをしてこね回すのです。全部養蜂箱を散々にこね返して(注・昔蜂蜜を集めたあとに出る残りかすを集めて、ろうそくの代わりに灯をともし代用したりした)、いちいち配給をしてあげたのです。その当時、それがお金でいくらするか、その時私は世間知らずだったのです。それで結局、父に叱られました。

 自分の家を中心とした故郷の村があります。そこには友達もいます。その村の中に文氏だけが住みますか。他の姓の人が入ってきて、李氏も、金氏もいます。そうすると、故郷の大人たちはみな、よそ者をないがしろにするのです、一軒しかないですから。しかし、父や祖父が何かを貸してあげることができなければ、私が担いででも持っていってあげたのです。

 その時、私がこのみ旨を知る前から考えていたこととは何かというと、村なら村のかわいそうな人の友達になろうということです。貧しく暮らす人に関心をもったのです。子供に対しても、豊かに暮らす、その近辺で勢力の強い家の子とは親しくなろうとしなかったのです。反対の生活をしたのです。

 村に貧しくて、御飯を食べられない人がいれば、私は寝ずにどんなことをしてでも、それを解決してあげようとしたのです。そのようにすべての人の友達になり、すべての人の友達以上の道を行かなければならないと考えたのです。


同情心と義侠心

 また名節の時になれば、同志の中に、他の人と同じようには服を準備できない環境にいる同志がいれば、そのような貧しい同志たちのために積極的に動く少年でした。

 村にいる貧しい友達が、弁当に粟飯や麦飯を包んできて食べれば、それを見て、私は御飯をそのまま食べることができません。取り換えなければ、食べないのです。また友達のお母さん、お父さんが具合が悪くて、病院に行くお金がない時には、私は母や父に涙を流しながら、誰々の友達の家のお母さん、お父さんが病院に行けるようにお金を出してくださいと言います。「出しますか、出しませんか」と言って、出さない時には、母と父に「私はお金を使う所があります。これこれの物を持っていって売るから、そのつもりでいてください」と宣布するのです。

 また、もちのようなものですが、田舎に行けばポンボクトク(注・穀物の粉にかぼちゃなどを混ぜて糊状に炊いたもち)を蒸しかごにたくさん作ります。それを木のようなものでこのようにしておいて、犬や猫が誤って上がらないようにしておけば、冬になるとかちかちに凍るのです。それを、御飯を弱火で蒸す時、釜ぶたの下にさっと入れておけば柔らかくなるのです。それを子供たちにあげて、みんなで食べるのです。1ヶ月分を作っておくのに、数日でなくなるのです。それで大騒ぎになるのです。

 友達や多くの人を本当にたくさん助けてあげたのです。ですから、誰がどのように暮らしているのか詳しいのです。その村だけでなく、数里内外のことは詳しいのです。私の性格がそうなので、知らないでは生きていけないのです。

 私は数えの十二歳の時、賭博場に通ってチッコテン(注・花札などでする賭博の一つ)を全部せしめたのです。三局すれば、最後の局に取ってしまいます。一局すれば、その時のお金で百二十円を取るのです。日本帝国主義時代の百二十円ならば、大きいお金です。その時の大学生たちの一年の学費が、八十円から百二十円でした。その時、牛一匹が七十円から八十円でした。米一斗は一円十銭でした。

 この人たちは、父親からもらったお金で何をするのかというと、賭事をするのです。名節の時や、十二月の大晦日と正月の十五日は、近所の賭博場の全盛期です。家ごとに巡査が来て、それを見ても捕まえません。そのようなところに、私は明るいのです。小さい私が尋ねていき、場を見て具合が悪ければ、後ろに行って寝るのです。そして、明け方に起きて、三度だけするのです。「賭けなさい」と言うのです。「私が勝つ」と言えば、間違いなく勝つのです。

 それで、私は村のかわいそうな貧乏人の子供たちのために、博打でお金をもうけて、水飴を瓶のまま買い、「お前も食べていけ、お前も食べていけ」と、みんなが食べることができるようにしてあげました。悪いことはしませんでした。

 ところで叔父は欲が深かったのです。村の子供たちが行ったり来たりする道に、まくわうり畑がありましたが、毎日このまくわうりのにおいのためにみな気も狂わんばかりでした。しかし、番小屋を道端に造って見張っていて、一つもくれないのです。それで私はある日、「まくわうりを食べてみたい子供たちは、全部布の袋を持って、いついつに来い!」と言いました。夜十二時ごろになって、「一献ずつ全部抜き取れ」と言いました。「このようにして萩の畑に持っていって積んでおき、何時に来て食べて行け」と言えば、朝早くから来て思いきり食べて行くのです。そうして、大騒ぎになりました。いくら考えても、甥の私しかいませんからね。「私がしました。叔父さん! 食べたがる人々に、時折まくわうり一個ずつあげるべきですか、絶対あげてはなりませんか」と言うと、「あげるべきだろう」と言うのです。

 それから、姉の夫たちが来るようになれば、財布にあるお金を勝手に取り出して使っても、認めるように約束したのです。そして姉の夫たちに頻繁に来いと言いました。来ればあらかじめ約束をしたために、お金が必要ならば取り出して、村のかわいそうな子供たちに大きな飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげたのです。そのようなことは悪いことではありません。


家族に対する愛情

 私のおばあさんは本当に純粋だったのです。人が良くて、例えば餅を作って市場に行って売るとすれば、そこで餅売りの商いをするのではありません。朝に広げておいてどこかに行き、夕方に来れば誰かがお金を置いていってくれるだろうと思うおばあさんなのです。餅はみななくなって、お金は一銭もないことも関係なく、そのようにするのです。そのような面では、とても善良な人なのです。そのようなおばあさんが蔑視されれば、私は夜眠ることができないのです。私はそのような人なのです。

 私は、おばあさんと母の心を、何度も溶かしてしまいました。何をもってでしょうか。愛をもってです。おばあさんが年老いても一番好きなのは、どういうことでしょうか。昔、子供を育てていた時の心を忘れないのです。おばあさんが寝ていたら、気づかれないようにさっと入っていって、おばあさんの乳首を触りながら吸うと、おばあさんは「こいつ」とは言わないのです。おしりを軽くたたいてくれるのです。そうしてから、おばあさんのポケットにあるお金もそのまま自分のポケットに突っ込むのです。おばあさんの目を見て笑いながら、ここに入れたり、あそこに入れたりと、そのようにするのです。そうするとおばあさんは、「しょうがないわね、ふふふ」と言いながら、喜んでいるのです。舌を出して喜ぶのを見たのです。それは実験した、経験したことなのです。

 私はそうでした。よその土地に行って帰ってくると、母親のところに行って毎日赤ん坊のようにしたのです。昔は私が母親の乳をたくさん吸ったのです。乳を吸うと「この子は、気味が悪い」と言うのですが、喜ぶのです。今でもしてみてください、私の言うことが本当なのか、そうでないのか。

 そして、私の一番上の姉がいるのですが、病気になり、私が半年、夜通し治療をしてあげたのです。皆さんはお灸のやり方を知っていますか。

 私の家には姉妹がたくさんいたのです。上に四人いて、下に二人いました。そして長期の休みに入れば、姉が住んでいる村に行くのです。姉たちはみな、田舎では中流以上の家に嫁に行きました。姉の家に行けば、食べるものもあり、海で使う網もあり、投網もあり、船もあって、すべてあるのです。行けば、じっとしていないのです。一日中近辺に出ていって、姻戚のいとこを呼び出し、そこで大将になるのです。そして魚を捕まえるのです。田舎の子供たちも、魚はうまく捕まえることができないのです。それで私が魚を捕まえて、一たらいずつ配給してあげると、「姻戚のお人!」と言うのです。

 このようにしていとこ、親戚まで呼んで、「おい、お前の家では餅を作れ! お前の家では鶏を捕まえろ!」と言うのです。そうだからといって、誰かの家で毎日のように鶏を捕まえろとか、餅を作れとか言うでしょうか。一度言ったら、それで終わりです。そのようにして、仲間を集めて十日ずつ、姉の嫁ぎ先の三軒に行って遊べば、一ヵ月になるのです。姉妹の夫の家がたくさんあるので、長期の休みになれば、家にいる時間がありません。

 また、私の妹が数えの十三歳の時、私はよくからかったのです。「おい、お前の新郎になる人がこのような男だったらどうするのか、まぶたがこうで、何がこうで……」と言うと、「ええ、何ですって!」と言ったのです。ところが、数えの十八歳くらいになった時、遠い親戚にあたるおばさんが来て、「仲立ちしてあげるから、嫁に行くのなら会ってみなさい」と言うのです。母が「あすくらいに誰かが見合いに来るかもしれないから、そのつもりでいなさい」と言うと、翌朝、先に起きて髪の毛をくしでとかし、おしろいまで塗るのです。服も着替え、それだけではありません。家の内外を一人ですべて掃除するのです。なぜ、そうするのでしょうか。嫁に行きたいからなのです。


三 恐ろしい闘志と義憤心

正しい事に対する固執

 先生は泣き始めると、一時間では終わりません。それであだ名が何かといえば、「一日泣き」です。一日中、泣くので、「一日泣き」というあだ名がつきました。村のおじいさん、おばあさんたち、みな出てきて見物しろというのです。このように、すべての村を騒がせては、寝ていた人々まで覚めるように泣いたのであって、穏やかに「えんえん」と泣きはしませんでした。大事が起きたように、泣き続けました。それで、のどがはれてかれるようになり、のちには声が出ないほどでした。それから、じっと座って泣くのではありません。しきりに跳び跳ねながら、傷ができ、肉が裂け、部屋が血だらけになるようにしました。それくらいなら、先生がどんな性格かということが分かるでしょう。

 譲歩しません。骨が折れても譲歩をしません。死んでも譲歩をしないというのです。物心がつく前、十代になる前です。母が明らかに間違ったのに、子供に忠告すれば「いいえ!」と言うのです。例えば、私を見て、「一方通行はいけない」と言うならば、張り合って争うのです。すさまじいでしょう。「間違った」と一こと言いなさいと言っても答えないのです。間違っていないのに、なぜ間違ったと答えるのですか。母の性格も大変なものです。一度何かをすれば、最後まで見届けなければならないのです。「どこの子供が、父母が答えなさいと言っているのに、答えないでいいと思うのか」と言って、激しくたたくのです。その母親の子供として生まれた私は、その母親よりももっと激しいのです。後退することができますか。耐えるというのです。何と言ったらいいでしょうか。大したものでしょう。一度はどれほどたたかれたのか、私は気絶してひっくり返ったのです。そのようになりながらも、降伏しないのです。ですから、家で夭折(若死に)したと大騒ぎしたのです。何時間もたたいて気絶したので、父と母が私の前で「オンオン」と泣いたのです。その時私は、「間違っていたのなら、泣くのが当然でしょう」と言ったのです。

 おじいさんもそうでした。祖父も私から忠告を受けたのです。孫を教えるといって、キセルを持って何とか言うので、「おじいさんが孫を訓示するのに、キセルを持って訓示できますか。それがこの家門の伝統ですか」と激しく言い放つから、祖父もどうすることもできないのです。幼い孫を侮ったのですが、「お前の話が合っている。片づけよう」と言うのです。それゆえ、既に数えの十二歳の時から、祖父、母と父、兄弟をみな、私の手で掌握して暮らしました。


勝負根性

 私は誰にも負けない粘り強い性質をもっていたのです。幼い時には戦って降参させきれなければ、三ヵ月、四ヵ月、眠れなかった人です。その人のお母さん、お父さんまで降参しなければ、その家をそのまま置いておきませんでした。しつこい男なのです。恐ろしいといえば、誰よりも恐ろしい男なのです。他人に負けることを絶対嫌う人です。負けたことがないのです。どんなことをしてでも、必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。前もって、負けること勝つこと、すべて分かるのです。私が一度手を出せば、死ななければ勝つのです。そのような性格の所有者なのです。

 「五山の家の下の子、そいつは一度決心すれば必ずやる」と言ったのです。「家にも火を付ける」と言えば、火を付け、「おので柱を切る」と言えば、切ってしまうのです。「牛を殺す」と言えば、殺すのです。「する」と言ったならば、必ずします。そのように知られているのです。それゆえに、私が乗り出せば屈服しなくてはなりません。おばあさん、おじいさんから三代が来て屈服してこそ、私の気持ちが晴れました。

 私は数えの八歳の時、一度ある一家にむちで打たれたため、その一家を屈服させた人なのです。「火を放つ」と言うならば、火を放つのです。どんなにすごい人なのか分かりません。目を見なさい。もぐらの目のように空が見えないくらいに小さいのです(笑い)。

 一度、ある者が、私に鼻血を出させて逃げてしまったのです。それで、その家の門前で三十日間待って、ついには彼のお母さん、お父さんを降参させました。また、餅まで一かごもらってきました(笑い)。

 私たちくらいの年齢の人は、昔めんこ遊びが本当に上手でした。めんこを打つのを知っていますか。めんこ遊び、本当に上手なのです。また銭打ち、お金を壁に打って遠くに行くようにするものと、穴を掘っておいて、たたき入れるもののチャンピオンです。「ある村の誰々がうまい」と言えば、その子と試合をするのです。お金を賭けて村同士の団体戦をするのです゜ある時は、鶏を何羽ずつ賭けてそれを殺し、そばに入れて食べたこともあります。平安道に行けば、鶏を殺して、冷麺に入れて食べます。

 私が若い時は、私の同年輩の者と腕相撲して負けたことがなく、相撲をして負けたことがありません。このくらいならば男として、使いどころがあるでしょう。その例を挙げてみましょう。

 私より三歳上の者が、私たちの村にいましたが、彼と相撲をして、私が一度負けました。田舎で住んだことのある人たちは知っていることですが、アカシアの木は、春になれば水分を吸い上げて、皮をはがせば、松の皮がはがれるように全部はがれます。これが固いのです。それで春になると、ひたすら曲げて、皮をずーっとはがして、負けてから六ヵ月間、このアカシアの木と相撲をしたのです。「こいつ! 私がお前を組み伏せるまでは御飯を食べない!」と言いながら、六ヵ月以内に彼を組み伏せて、ようやく寝たのであって、その前には御飯を食べることも忘れてしまい、眠ることも忘れてしまったのです。そのように、忍耐強い人です。


正義感と義憤心

 先生が幼い時は、他人と請け負いげんかをたくさんしました。村に行って、大きい者が小さい者にげんこつを振るうようになれば、私が代わりに引き受けて戦いました。

 道を通り過ぎるとき、けんかをする者がいれば、しばらく見て、聞いてみて、間違った者が優勢ならば、私が引き受けて戦ってあげるのです。「こいつ。お前が間違っている。これは駄目だ」と言うのです。正しいとなれば、私は命懸けで戦う人なのです。村で私をみな恐れたのです。村で威張り散らす子供がいれば、その子のおじいさん、おばあさんの腹を私がこのように小突きながら、「おじいさん、孫にこのように教えてあげたのでしょう」と忠告をしたのです。とても有名だったのです。

 数えの十歳にもならなかったころ、村の二里内外にいる子供たちは、全部私の手下でした。「やー、いついつにお前たちの部落に行く」と言って、子供たちを全部集め、集団で行ってけんかをしたのです。そのようなこともしました。むちで打たれて、悔しくて泣きながら親分が誰だと私に報告をすれば、「そうか」と言って、夜寝ないで一人で行くのです。行って呼び出すのです。「こいつ、お前、誰をどのように殴っただろう。何回殴っただろう。こいつめ」と言って食ってかかるのです。

 年を取った独身の男たちが、通り過ぎる乙女をひやかすとかすれば、それを私の妹のように思い、「こいつ、お前の妹であれば、そのようにできるか」と激しく反対しました。

 昔、私たちの村に、クァンソクという、目がちょっと不自由な人がいたのです。私の親戚になるのですが、その人は、還暦の日だとか祝宴の日になれば、誰の許しもなく、ずうずうしく、さじと箸を持ってきて座っているのです。昔、田舎には、宴会の膳に餅を盛る、木製の四角い盆がありました。木製の器ですが、「こいつ」と言って、それで彼をぶん殴ったのです。数えの八歳の時ですが、それが忘れられません。何親等かの兄に当たります。そのように強く殴ったのですが、この男は客間で昼寝しているのです。それで、また「この男、昼寝までしているのか」と言いながら、襟首を激しく締めてたたくと、その男は殴られて鼻血が出たのです。そして、「その家に火を付ける」と言ったのです。私が「火を付ける」と言ったら、本当に火を付けることを知っているのです。ですから、その母親の一族がみな許しを請うので、私が許してあげたこともありました。私は、そのようなことを見ると、我慢できない人なのです。

 性格がせっかちで激しいのです。正しいと判断すれば絶対待ちません。私は、決定してしまってこそ眠るのであって、そうでなくては眠れません。ですから、仕方なくどのようにするかというと、部屋の壁を引っかくのです。一度、二度。それでこそ忘れてしまうのです。部屋の壁を引っかいて、壁をみな壊してしまうのです。


四 注目された少年

天賦的な霊的感覚

 幼い時、私が「きょう雨が降る」と言えば、雨が降りました。「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ」、「あの上の村で、おばあさんが一人死ぬだろう」と言えば、死にました。そのようなエピソードが多いのです。

 幼い時から既に人と違っていました。村にちょんと座って、「きょう、あの上の村の誰々の家のなにがしおじいさん、具合が悪そうだな、病気になりそうだが」と言うならば間違いありません。みな知っているのです。私は数えの八歳の時から、村中の見合いをさせてあげるチャンピオンだったのです。二枚の写真を見てあげて、「この人と結婚すると悪い」と言えば間違いありません。結婚してみなさい。全部、がらがらと壊れていくのです。そのような歴史があるのです。

 写真を持って見て、投げれば悪くて、置けばいいということです。つかんで投げられた者と結婚すれば、必ず急死します。みな悪いのです。そして、そのまま置かれた人と結婚した人は、みな息子、娘をよく生んで、豊かに暮らしました。それを、数えの八歳からし始め、今は八十歳近いので、どんなにかこのことの専門家になったでしょうか。私は見れば分かります。取って見るとは、何を取って見ますか。においをかいで全部分かるのです。さっと見ればみな分かります。さっと座るのを見て、笑うのを見て、はっきりとみな分かるのです。

 皆さんも、自分が行くべき道を知らなければなりません。ありも長雨が降ることを知っているではないですか。ありが行列を作って引っ越しするのを見たでしょう。ですから冷静になってみれば、人は心の深い所に心が落ち着く場があるのです。心が集中することのできる所があるのです。その所まで入って行かなければならないのです。そこで集中して、そこから元に戻る時には鋭敏になっているのです。その時に雑念を抱かずに精神を集中すれば、すべてのことが通じるのです。

 「ああ、きょうは父と母は間違いなく出掛けるだろう!」と、学校から帰ってくる前に、父と母が家にいるかいないかみな分かるのです。五時くらいに終わるなら、四時半くらいに精神をさっと統一して調べてみるのです。それで分かるのです。「どこに行ってきたのだな」「今、けんかしているようだ」と分かるのです。それを何度かしてみるのです。そして、私が一言でも言えば、父と母は私を恐ろしがるのです。

 精神統一は、本当に恐ろしいのです。私の姉が何をしているのかと思いながら見ると、すべて見えるのです。それゆえに、兄弟たちは私のことを好きでありながらも、一番恐ろしがったのです。いつも自分たちが必要な時はさっと現れて「私が必要か!」と言うのです。

 牛もそうです。販売場で「あの牛は悪い」と一言言うと、それは売れないのです。私は牛も見ることができるのです。牛は、首筋の形が良くなければならなず、前足の形が良くなければならず、後ろの形が良くなければならず、腰の形が良くなければなりません。この四つの形が良くなければなりません。昔、父が牛を買いにいけば、私がさっと鑑定してあげるのです。その事実を父は知らないのですが、話をしてあげると「お前、それをどうして知っているのか」と言うのです。私は、既に腹の中から学んで出てきたのです(笑い)。それゆえに、今日、世界で誰もできないことをしているのです。


一族と村の評価

 私は、二番目ですから、五山の家の下の子です。「五山の家の下の子は、今後私たち門中を生かすことができ、門中で誇ることができる天のかわいい子として生まれた」と言ったのです。聞いて見れば、みな分かります。

 私の一族、私の叔父の家までも、自分の息子、娘よりも、私を尊重視しました。歌の上手な龍基、その彼のお母さん(金慶基氏)は叔母になりますが、自分の息子、娘より私をもっと愛したのです。学校に行ってくれば、自分の息子、娘が大きい飴玉を買ってくれと言っても買ってあげないのに、お金をさっと数えて、ぱりぱりしたお金を私も知らないうちに持ってきます。私が、「これ何」と言うと、「何とは何だ。お前の学費にしろと私があげるのだ」と言うのです。「自分の息子、娘は勉強もさせられないのに何ですか」と言うと、「私の息子、娘はそこそこだから、お前がうまくやれば私の息子、娘が福を受ける」と言うのです。

 ある観相を見る医者のおじいさんが、私が書堂(注・漢文などを教える私塾)に行くと、私をちらっと見て「やあ、あのような男がいるのか」と……。その医者のおじいさんは、書堂の年老いた先生に「あの子はあなたの息子か」と尋ねるのです。それで「近所の誰々の家の息子だ」と言うと、うちのおじいさんを知っているので、「ああ、そうなのか」と言うのです。そして私を婿にするというのです。「私の娘が数えの十八歳なので……」。十八歳ならば、私よりも二つ上です。「私の娘は風采もよく美人だが、あの若者を見ればほれるだろう、婿にする」と言うのです・その時ヽ私は十数歳でしたが、気分は悪くありませんでした。

 文社長のお父さん(文慶天)が、私の五親等で、父の従弟です。背が低くてずんぐりしていました。我が家が本家であり、私が二番目、下の者なのです。その父の従弟が、「本家の下の者は、時代を誤って生まれた。あれは、王でなければ逆賊にしかなれない。なのに、王になる道はなく、逆賊になるしか道がない」と言ったのです。文社長(文昇龍)も時々話すでしょう。

 皆さん、「生而知之 学而知之」という言葉を知っているでしょう。私は幼い時も、理解が早かったのです。

 私の親戚は多かったのです。私は、我が家の八人兄弟姉妹の中ではもちろん、村でも一番優秀でした。頭も良くて、相撲も上手ですから。相撲も強いのです。運動はもちろん、万事に一番なのです。それで、近所に私のために、嫁に行かないという娘たちが多かったのです。


五 初期学習と信仰入門

漢文書堂で勉強(一九二六〜一九三二)

 本来、韓国は儒教に近いでしょう。先生も儒教の『論語』、『孟子』を、みな読んでみました。多方面に素質のある人なのです。絵を描いても、上手に描くのです。私は、数えの十二歳で書堂(注・漢文などを教える私塾)に行って、手本の字を書いてあげた人です。

 私が数えの十歳の時、書堂に通った時には、本を一日に一ページだけ学べばいいのです。それはもう三十分以内で、みな学んでしまうのです。しっかり精神を集中してすれば、三十分で、みな頭に入れられるのです。そうしてから、訓長(注・書堂の先生)の前に行って、ごにゃごにゃ唱えればいいのです。三十分だけすればみな覚えるのに、それを一日中、「孔子曰く、孟子曰く」と言って座っていられますか。訓長は骨が折れるから、昼寝をよくします。訓長が昼寝をする時、私は山を歩き回るのです。

 私は、昼食を食べずに暮らす人になりました。なぜですか。山に行って、食べられるものがどこにあるのか、どんどん分かるようになったので、そこで多くのものを取って食べたのです。このようにしていると、夕食の時までおなかがすかないのです。ですから、昼食がどうして必要であり、夕食がどうして必要でしょうか。そして、疲れれば、その山で寝るのです。すると、家では大変なことになったと言って、明かりをともして捜し回ったのです。そして、私を発見して起こすと、私は有り難く思うのではなく、「誰が明かりをともして捜しにくるのか。私は気分良く寝ているのに。人が気分良く寝ているのに、なぜ、起こして大騒ぎするのか。私が虎にかみつかれるなんてことはないのに。あなた方のように悪い人でもなく、愚かな人でもないのだから、虎が来たら、においをかいですぐに逃げ出すはずなのに」と言ったのです。

 私が書堂に通った時、そこでは訓長が、大概『論語』のようなもの、『孟子』のようなものを数枚さっと書いて講義をするのです。翌朝必ず、私は習った文章を先生の前で暗唱させられるのです。暗唱することができなければ、むちでしりやふくらはぎを打たれます。とにかく、むちでしりやふくらはぎを打たれたことが思い出されます。その時は、先生の挙げた手が、ぴたっとくっついたらいい、このように思うのです(笑い)。ぶるぶる震えて、それを手放したらいい、ありとあらゆることを考えるのです。


圓峰の学院で受講

 昔も、学校に行くための予備校(学院)がありました。ソウルにも、大学に入るための予備校があるのと同じようにです。その時で言えば小学校です。国家が認める、そのような学校に入るための前段階として、中間教育機関として予備校がありました。その予備校に行って勉強して、編入試験を受けなければならなかったのです。その予備校に行くために、従弟をそそのかして革命をしたのです。

 四月には学校に入らなければならないので、学校に行く前に調査をしました。しかし、母と父は書堂に「訓料」、学費のようなものをみな支払ったのです。その時は「訓料」と言いました。その月謝金をみな出したのに、一年にもならないで逃げようとするからには、母と父から説得しなければならないのです。それで、母と父を説得して、祖父まで説得したのです。従弟まで説得しました。「他の人々は飛行機を飛ばしているのに、孔子曰く、孟子曰くでは駄目だ」と言ったのです。全部私が開拓したのです。


三つ以上の博士学位という夢

 皆さんは今、自分なりに多くの夢をもっていることでしょう。石垣を積もうか、何々の壁を積もうか、と。先生にも夢が多くありました。三つ以上の学位を取れなければ生きていかないと、刀を腹に当てて決心した人なのです。先生の性格は、三つ以上の学位を取らなければ、誰にも教えず何も話さない人なのです。

 先生は欲張りなのです。「私が生きている間に、博士を三つ以上取らなければ死ぬ」と考えた人なのです。ところで今見ると、博士が一番易しいのです。このごろは、何かの栄誉博士だか、名誉博士だか、博士学位を与えるという所がとても多いのです。

 みな計算して秤で計ってみると、それが包括性がないために、みなほうり投げて、統一教会の文先生という仕事をするのです。

 私が自分を見ても、頭は悪くなく、何の勉強をしても世界的な学者になっていただろうと思います。そのような頭をもっていたので、私が勉強して世界に名の通った学者になったなら何をするのか、このような問題を深刻に考えたのです。学者になっても、黒板の前で白墨を吸い込みながら、一生腰が曲がるほど、ただ研究に明け暮れて死ぬのではないか。そのようにして、すべての根本問題が解決するのかというと、解決しないというのです。そのような問題を考えてみる時、人間として行くべき道の中で、どの道が一番難しく、困難な道なのか。「行くのは困難な道だ」という道を、私は行きたかったというのです。「人間として、今まで歴史時代において過去、現在、未来のどこの誰もできないことを、私が一度しなければならない」。そのように考えたのです。


定州私立五山普通学校三年編入(一九三四)

 それで予備校に入って勉強して、その時で言えば普通学校に入ったのです。五山小学校、その時は五山普通学校です。その学校の三年に、編入試験を受けて入りました。そこで一年勉強しますが、熱心にしないわけにいかないでしょう。命懸けでしたところ、成績が良くて、五年に飛び級できる許可を得たのです。

 私は、小学校には、二里の道を歩いて通ったのです。それは、どのくらいの距離でしょうか。八キロメートルです。八キロメートルを毎日のように歩いて通ったのです。それゆえに、中間くらいに住む子供たちは、私がきっちりその時間に通り過ぎるから、その時出てくれば絶対遅刻しません。みな科学的なのです。それで、ずーっと峠ごとに、子供たちが待っているのです。私は、道を本当に早く歩くのです。八キロメートルを一時間以内に、四十五分で行くのです。さささーと行くのです。そうするとあとからついてくるのが忙しいのです。

 私にそのようなエピソードが多いのです。母と父が、学校に行きなさいと準備することなく、私が全部準備したのです。学校の校長先生のところで、口述試験を受けるのも私がみな交渉してしたのです。全部開拓したのです。

 夕方くらいになれば、おなかもぺこぺこです。二里を行こうとすれば、かなりの道のりです。ある雨の日、仲間はみな行って私が一人残りました。その時に何を買って食べたのかというと、中華料理屋に入っていき、まんじゅうを買って食べたのです。その小豆まんじゅうがどれほどおいしかったか! その時は、五銭したのです。十五銭で三つ買って食べました。三つ食べるとおなかが一杯で、それ以上食べられません。お茶とその三つをもってそこに座り、少しずつ食べて時間を過ごしながら、雨がやむのを待つのです。そうして十一時くらいになると、何度も追い出されました(笑い)。

 ですから、十一時を越えたら走るのです。峠を越えて……。その時は、狼も多く、虎も多かったのです。ある山中で誰かが捕まって食べられたという、そのような時でした。平安道には虎が多かったのです。そのような田舎道を走り回りながら、学校に通いました。今考えると、それはすべて訓練でした。

 その時、訓練したので、先生は今でも道をきちんと歩けるのです。するするとです。おそらく、今でも皆さんはついてこれません。


モルム村の徳興長老教会入教

 先生は北朝鮮にある、地方の篤実な儒教の家庭で生まれました。十歳余りの時、全家族がキリスト教に改宗しました。先生は改宗と共に深い感銘を受けました。先生は、この新しい信仰に愛着をもって、以前に誰かを愛したことより、もっとイエス様を愛しました。

 先生が幼くして教会に通った時は、礼拝時間に遅れれば、顔を上げることができませんでした。数日間悔い改めなくては、顔を上げることができずに歩くほどでした。それが今も記憶の中から消えません。遅い時間に行けば、多くの人が礼拝を捧げるのに失礼になるのではないかと思い、いつも礼拝が始まる前に、先に行ってプラスになるようにしました。


定州公立普通学校四年に転校(一九三五・四〜一九三八・三・二五)

 過去、我が国(韓国)は、アジアの小さな半島の一国として、日本治下にあった悲惨な実情の国だったということを、皆さんはよく知っています。先生は少年時代を、大韓民国の自主的国家圏内で育つことができず、日本の圧制圏内で、日本の統治下で育ちました。二十五歳までそのように育ちました。ですから、徐々に世の中を知るようになって、若者として過ごすことができる、難しいすべての事情を測定できる、そのような重要な時期に、国のない民として育ったので、その時代が回想されます。

 ところが、よく見てみると、五山小学校では日本語を話せないようにするのです。日本語を使えないようにします。皆さんが知っているように、三十三人(注・三・一運動の時、独立宣言書に署名した三十三人の民族代表)の中の一人とともに、日本の怨讐の立場で闘争した代表的な人である李昇薫氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるために、日本語を話せないようにするのです。

 私がよく考えてみると、問題は私たちが相手を知らなければならないということでした。相手を細密に知らなくては、戦おうにも対策を立てることができないという気がするのです。それで定州普通学校(注・公立普通学校)に、編入試験を受けて、四年に入りました。そこに入って、日本語を流暢に話すようになって卒業をしたのです。そのような過程を経ながら、信仰の道だとか、人生の根本問題だとか、難しいすべての問題を考えるようになったのです。

 学校に行くようになれば、全部日本語を習わなければならなかったのです。カタカナ、ひらがなを勉強したことが、きのうのことのようです。一朝一夕にみな覚えてしまいました。そうしてから、雷のように一年、二年、三年、四年のすべての本をひたすらに読み、半月でみな覚えてしまいました。そうしてしまうと、耳で分かるようになったのです。

 また私は最初に行って、絵を描いたものを貼り付けました。習いもしなかったのに、既に三等分して測定するのです。あの絵が、あの平原に、何等分の中に入っているなとぴったりつかみ出します。センターを中心として測定していくのです。この画用紙が三倍だから、三倍をぴったり定めて、センターを中心として、三倍に全部ちょんちょんちょんと点だけ打てば、絵がみな描かれるのです。

 先生が幼かった時、ノートを使うときには、線が引かれた部分から使うのでなく、一番上から使いました。ある時は、一枚に二度ずつ書いたりもしました。そうすると、ノート一冊にたくさん書くことができるのです。物を惜しんで使わなければなりません。

 そして、本を読めば、その後ろ側まで見えたというのです。昔、小学生の時……。日本語国語読本というものを五、六年の時は二巻ずつ学んだのです。一巻が百八十ページなのですが、それを一晩ですべて覚えてしまいました。人間とは、そのように恐ろしいものなのです。

 皆さん、灯火を知っていますか。油に火をともして勉強したことが、きのうのことのようです。二時、三時、夜を明かして勉強すれば、母と父は、「もう寝なさい。体を壊してはいけない」と言いました。いつもそうだったのです。その時、私が一番友達としたのは夜の虫たちでした。夏には、夜の虫を友達としたのです。このようにでんと座って、二時、三時までいたのです。静かな夜に……。田舎の夜は、本当に静かなのです。虫たちが月夜に鳴くその声は、とても神秘的なのです。山をさっと歩き回っていたことが、きのうのことのようです。


卒業式の時に特別所見を発表(一九三八・三・二五 第二十九回卒業)

 今も忘れられないのは、その定州普通学校での卒業式の時のことです。その時は邑だったのですが、その定州邑の有志たちや多くの父兄と先生が卒業式にお祝いのために集まりました。その卒業式では、校長の訓示があって、その次にお客さんの祝辞がありましたが、その次に私が志願してその壇上に立ち、日本に対して反駁したことが、今でも忘れられません。人々がたくさん集まったその前で、そうしたことが、今も記憶に残っています。そのようなことを見れば、少年時代の気質が、普通でなかったようです。

 先生は、そのような場を望んでいました。それで、堂々と壇上に上がりました。そして、言いたいことがあると言いながら、少年時代の教育に対する批判と今までの学校の先生に対する批判をすべて言ってしまいました。「この先生はこのような性質があります。歴史の先生はこのような性格で、これこれこのような思考をしているので、このような結果にしかなりません」と言い、先生たちを批判しました。そして、時代的な批判もし、また、「この時代の責任者は、これこれこのような覚悟をもたなければなりません」と、一時間近く話したのですが、それが大問題になりました。学校を卒業する学生が、そのようなことを言うとは誰も考えることができませんでした。それで先生は、その時からレッテルが貼られたのです。警察から目星をつけられるようになりました。














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