真の御父母様の生涯路程 4
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真の御父母様の聖婚と第一次七年路程

第二節 一九六一年 父の代身者となろう

一 一九六一年出発と摂理的意義(一九六一・一・一、前本部教会)

年頭標語:父の代身者となろう

 私たちが今年一年間、標語としていくべき題目は「私たちは父の代身者となろう」です。皆さんは、これまでももちろんそうでしたが、今後、この一年間は特に父の代身者ということを、皆さんが自ら体験してくださるようお願いします。

 神様と私は本来どのような関係でしょうか。一体であるということを私たちは忘れてはなりません。神様と私は切っても切れない一体の関係にあります。

 それでは、一つになるには何が一つにならなければならないでしょうか。第一に、願いが一つにならなければならず、第二に、事情が一つにならなければならず、第三に、心情が一つにならなければなりません。すなわち、天が心情的に喜べば、私も喜び、天が悲しめば私も悲しみ、天が動けば私も動き、天が「静」であれば私も「静」とならなければなりません。このように心情から事情、願いがすべて一体とならなければならないということです。

 では、私たちは事情が同じで、望みが同じで、心情が同じになるためには、どのようにしなければならないでしょうか。神様自らが私たちに対し「お前は私の息子、娘だ」と認め、私たち自身も神様の息子、娘だと認めることができなければなりません。ひいては、天と地の前に造られた万物が、「あなたは間違いなく天の息子であり娘です」と認め得る、そういう立場にまで行かなければなりません。そうなるまでは、私たちは天の代身者として立つことができません。

 私たちは父の代身者であり、来られる真の父母の代身者です。男性は父の分身であり、女性は母の分身だというのです。すなわち、神様は男性と女性の二性性相の中和的主体としてあられるので、男は神様の男性性稟の代身として生まれ、女は神様の女性性稟の代身として生まれたのです。

 み旨と事情を知ったからには、父は後ろにお連れして、私たちが先頭に立たなければなりません。韓国を訪ねて来られる父に「どうか韓国だけは安心してくださいませ」と言えなければなりません。行動しても世界的な舞台で行動をしなければなりません。そのためには、民族的な環境を整備して、残された二年間は天のみ旨を抱き、泣いている同胞を訪ねていかなければなりません。彼らよりももっと困難な立場に入っていき「神様が戦ってこられた能力を私にください」と言わなければなりません。私たちは福を受ける良い立場ではなく、難しい立場に行かなければなりません。


二 一九六〇年冬季四十日伝道と譽進様誕生

年初、地方伝道地巡回
(一次:一月六日から、二次:一月二十三日〜二十五日)


 今年の夏の伝道地域を選定して報告しなさい。全国巡回に出発する前に伝道地域を配置しようと思います。今年は、一千五百から二千箇所以上の地域の責任者を出さなければなりません。今から準備しておきなさい。

 先生は今までは命令をしませんでした。しかし今からは、命令しなければなりません。歴史的な焦点を転換するか、しないかという、とてつもない使命を果たすため、先生は命令をせざるを得ません。ゆえに、命令する先生の覚悟は悲壮なものです。

 先生は今回の動員のために、数えきれないほど祈祷しました。それでも安心するのは、私が私を信じ、神様を信じ、皆さんを信じるからです。孝子は孝子をもつことができ、忠臣は忠臣をもつことができるのです。

 これからは祈祷の期間です。皆さんは今、厳粛な時間を送っています。心情の同伴者となるためには苦労をしなければなりません。皆さんの誇りは、父の代身として天を愛し、母の代身として地を愛し、神様が抱き締めて踊ることができる息子の代身として人類を愛することです。そのようにすれば、憤懣やるかたなく死んだ霊人たちも面目がなくて、地に向かって頭を下げるようになるのです。

 これまでは、三位神の解怨のために仕事をなしてきました。しかしこれからは、歴史的なみ旨を代身して苦労した先烈たちの解怨のために仕事をしなければなりません。ですから皆さんは祝福の条件を立て、精誠を込めて忠誠を尽くしなさい。

 あす(一月二十三日)から、先生が帰ってくる時まで、毎晩入浴して祈祷しなさい。今回のこのような意味での巡回は最後です。誠意を込めて料理でも作って食べ、和やかに過ごしなさい。先生が地方で語られているだろうと感じられる時間まで、夜遅くまで寝ずに、各自が精いっぱい、精誠を込めなければいけません。

 四日間、巡回しながら感じたことは、歴史上、君主を愛する忠臣、孝子、烈女は多かったのに比べて、神様のみ旨を愛する忠臣、孝子、烈女はいなかったという点です。彼らはすべて、地の基準に立脚した自由解放のために捧げてきたのですが、神様の前に憂いの対象にはなっても、慰安や喜びの対象にはなれなかったのです。しかし、今日の私たちは違うというのです。


譽進様誕生と奉献式
誕生:一九六一・一・二七、陰暦一九六〇・一二・一一・一九:一四
奉献:一九六一・二・二、四十日啓蒙伝道最終日


 一九六〇年陰暦十二月十一日(陽暦一月二十七日)、真の御父母様家庭の最初の御子女様誕生をもって、真の御父母様家庭の四位基台が成立した。譽進様誕生七日目になる日、女性を代表した奉献儀式が挙行された。

 神様の摂理は外的なものから取り戻してこられます。私が信仰の三人の息子を祝福しましたが、聖進君に対してはできませんでした。信仰の三人の息子を取り戻してくる途中で彼によく接すれば接するほど、彼が不幸になるためです。

 きょうは赤ん坊(譽進様)を神様に奉献する日です。昨年、重要なことをしようと言いましたが、四十日伝道が終わるきょうをもって、それが終結します。娘は生まれて七日目になる日に奉献し、息子は八日目になる日に行います。

 きょうこの時間においては、過去に子供を愛したその基準の上に立っていなければなりません。事実、誰でも自分の子を生んで、自分の子供以上に他の人を愛したという条件を立てなければなりません。「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である」(マタイ二四・九)という言葉の意味はここにあります。

 啓蒙に出るのは心情的因縁を結ぶためです。喜びで参加した人が自分の悲しみで式の喜びを失ってしまう時は、各自が責任を負うという条件のもとで、式に参加するようにしました。ゆえに彼らが落ちてもサタンの讒訴は受けません。きょうの式は女性を代表した式です。男性は聖進君がいて、立つことができる基台となっていますが、男性を代表した式があることでしょう。


天的四位基台復帰儀式(わかめスープ、御飯、牛乳、米、豆、栗、十圜硬貨を分配)

 既に肉身をもって生まれ成長してしまった私たちは、文字どおり完成したアダムの体中の種の立場に戻ることはできません。それゆえ私たちは真の父母、およびその父母から生まれた真の子女と一体化することによって、生まれ変わるための条件を立てていくのです。カインがアベルに完全に屈服することによって、両者がすべて復帰されるという原理があるので、この原理により私たちカインの立場にある人間は、アベルの立場にある真の父母、罪のない真の子女と一体化しなければならないのです。彼らと一体化することによって、私たちは復帰された子女として同じ恵沢を受けることができるのです。

 そのような理由で、罪のない真の子女が真の父母を通して生まれるようになる時、私たちは飲食物など、同じ成分のものを分けてもらったという条件を立てなければならないのです。このようにして、私たちは真の子女の立場に参与する路程を通過して行かなければならないのです。

 女性はすべて、真の父と真の母とその真の娘と一つにならないといけません。それでは男性はどうでしょうか。真の父母とその真の息子と一つにならないといけません。このような罪のない真の子女の誕生により、天的四位基台は歴史上初めて復帰されるのです。これが私たち統一教会においての天的四位基台の復帰です。

 先生は一九六〇年代に聖進、喜進、譽進、孝進を中心として、腹中から復帰してくることによって、すべてそのような条件を立てました。その時皆さん、わかめスープを食べたでしょう。そして牛乳も飲み、御飯も食べたでしょう。それが全部条件です。また、一九六一年度だったか、私が十圜(注:韓国の昔の貨幣単位)玉の硬貨を分け与えたことがありました。今それをもっている人は手を挙げてみてください。それをなくしてはなりません。


譽進様誕生記念地方巡回(一九六一・二・一五〜一八)

 きょう(二月十五日)は陰暦で正月の一日です。一九六一年一月一日、この日は復帰摂理のみ旨を知る皆さんにとっては、重大な日です。この世の人であれば、正月一日には福になる話をし、また良い贈り物もあげ、心が何かとても開かれて、やりとりしながら喜々として過ごします。私たちがそのように過ごすことができる環境になればいいのですが、そのようになってはいません。

 神様をお迎えして正月一日を過ごした人は多くはなかったのです。また、神様が自ら訪ねてこられて「誰それや、今日はお前が一つ年を取ったから、私に新年のあいさつをしなさい。餅を準備して、私と楽しく過ごそう」と言って、そのように過ごしたことがあるという人に会ったことがありますか。ないのです。

 これまでの歴史路程では、数多くの正月一日を、天を悲しませた日として迎えましたが、今日ここに現れたこの一人の男は「きょう、この日だけは天が慰めを受ける日`としてお返ししなければならない」と言うのです。けさ先生は、巡回路程を出発しながら、とても大きな望みをもちました。皆さんに会うのがうれしくてそうなのではありません。先生が言葉に言い表せない一つの目的に向けて、眠りについている三千里半島(韓半島)に考えるところがあったからです。この考えを万民が記憶しなけれぱならないことでしょう。それゆえに、その考えをもっている神様は、この日が喜びの日として記憶できる日となるよう希望していらっしゃるのです。


三 「実体復活の日」宣布(一九六一・四・一七〔陰暦三・三〕、ソウル国立墓地裏山)

 教会では毎年四月十七日をイエス様の復活節として記念している。T九六〇年のこの日は、特に「心情復活の日」として宣布された。一九六一年のこの日は、その基盤の上に「実体復活の日」が宣布され、堕落前の実体の真の子女として復活することができる大きな恩賜の道が開かれた。


真の御父母様の実体復活圏

 真の父母の基準を中心として見るとき、堕落によって汚された心情的基準を越えて、神様の心情を中心として連結した最初の基準を設定したのが「父母の日」であることを皆さんが知らなければなりません。それで神様と心情で一つになった真の父母と因縁を結ぶことができる子女の基盤を広めるために、ここに「子女の日」を設定する業が起きるのです。

 縦的な立場で息子の位置を決定し、その次に中心の目的である父母の位置を決定しなければならないのです。それで先生を中心として、一九六〇年度にそのような父母の位置を縦的に決定づけて「父母の日」を設定し、横的な立場で「子女の日」を宣布するようになったのです。そうして先生を通して、み言復活、実体復活、心情復活がなされたのです。

 そのようになったがゆえに、ここで初めて一人の男性を中心として、祝福を成し、新しい歴史時代に入っていくことができるのです。そうして皆さんに対しては父母になったので、皆さんを新しい時代の息子、娘として祝福をしてあげるのです。それゆえに皆さんは、蕩減路程で先生のように実体復活の過程を経なくてもいいのです。なぜなら先生がそれをみな接ぎ木をしてきたので、先生について行きさえすれば、皆さんはサタンの讒訴を受けずに進むことができるのです。


子女たちの実体復活圏

 地上に顕現する神様の愛を中心とした心情的復活圏を成就しなくては、完成という基準を立てられないのです。そのような復活を中心として、私たち統一教会で「心情復活の日」を宣布しました。その心情復活を基盤にしなくては実体復活を探す道がないというのです。心情を中心として、神様の愛を中心として、心と神様が一つになり、その一つになった心と神様を中心としたその愛を中心として、横的に体が一つにならなければならないのです。横的に体が心情圏を成すためには、これまでサタン圏内から侵犯されていた讒訴基準を超越しなければなりません。越えなければならないというのです。

 それゆえに実体復活圏を成就させることなくして、神様の心情を横的に連結させることができないというのです。一九六〇年度と一九六一年度に各々「心情復活の日」と「実体復活の日」を宣布することによって初めて、完成したアダムならばアダム、完成したエバならばエバが、ここから現れることができるというのです。

 霊的な心情的復活を宣布したので、実体復活圏では、子女たちを中心とした父母が復活圏になっていますが、子女たちはどのように復帰するのでしょうか。実体復活圏に連結するのです。それで譽進が生まれることにより、一九六一年四月十七日、「実体復活の日」を宣布したのです。それによって、統一教会の信徒たちは再び生まれるのです。そうして家庭的基盤を中心としてこの家庭が三次七年路程を行くのです。

 ところで、堕落した順序を見れば、天使長が問題となり、その次は体と心を通じて心情まで問題になりました。全部引っ掛かってしまったのです。このように三段階がすべて引っ掛かっているのです。それゆえに復帰路程では反対にしなければならないのです。心情的復活を先に宣布し、実体復活を宣布して、その次は天使長の復活を宣布しなければならないのです。このようにして、息子の前に完全に一致しなければならないのです。心情復活、その次に実体復活、その次に洗礼ヨハネ策定、すなわち天使長を復活させなければならないのです。


実体復活を通じた完成復活

 四月十七日、この日はイエス様が復活された日です。イエス様の復活は霊的な復活なので、実体の復活を成し、彼の目的を達成したのちに祝わなければなりません。完全な復活をしてこそイエス様に対して「兄弟」と言うことができます。神様は涙と嘆息でこの日を迎えられました。

 一九六一年は天的に重大な意義のある年です。私たちはイエス様と天地を代表して行かなければなりません。皆さんは心と体が復活した実体として、天地の前にこの日を祝うことができる存在として立たなければなりません。

 統一教会に来ると不思議でしょう。ここに来れば、心が完全に荷物をまとめてここに入ってきたいと思うのです。家から荷物をまとめて来るのが、どんなに希望か知れないというのです。ひたすら反対されるのではないかと案じて、ほとんど逃げてくるようにするのです。そのようなことがなければなりません。そのような心の動きがなければならないというのです。そうなれば、それが実体復活です。体が天の圏内に入ったというしるしを受けるようになります。実体復活圏だというのです。そのようにして心情復活と実体復活圏が成されてこそ、神様の愛を通じた血統的な因縁が連結できる出発が成されるのです。そのようになれば、どこに行っても磁石のように、教会を中心として私が動いたり引っ張られたりするのであって、絶対に反対にはならないというのです。

 それゆえ実体復活のために統一教会で生活しなければなりません。心情復活を天から引き継ぎ、実体復活を中心として地上で最高になるためには、統一教会でなくてはならないようになっているというのです。

 皆さんは、再び誕生する実体復活の条件を立ててこそ、祝福を受け、神様の前に立てる恩賜圏内に移っていくことができるのです。そのようになれば絶対壊れないのです。

 皆さんは今後、「心情復活の日」をこの上なく神聖な名節として記念しなければなりません。また「実体復活の日」を記念しなければなりません。これまでそのようなことを知る人はいませんでした。これを復活節を中心として宣布しました。


四 三十六家庭(三十三双)合同祝福結婚式(一九六一・五・一五、前本部教会)

 一九六一年五月十五日早朝四時三十分より、青坡洞一街七一の三、前本部教会において、真の御父母様の主礼(媒酌)により、直接儀式を主管される中、三十六家庭(この日は三十三双、三双は前年度に)成婚式が挙行された。


復帰された人類の先祖

 三十六家庭が何を意味するのかというと、アダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭が失敗した歴史的な二千年の期間のすべてのことを初めて蕩減したということを意味するのです。これは歴史的全摂理を代表した型となるのです。摂理史観的な立場から見る時、これは人類の先祖たちだというのです。

 アダムからカインとアベル、そしてノアまでが十二数であり、ノアからアブラハム、イサク、ヤコブまで十二数であり、ヤコブには十二人の息子です。そのようにして三十六数です。三十六数は何かというと人類の先祖数です。

 六千年の歴史をアダム、ノア、ヤコブを中心として見れば、イエス様の時代はノアに該当し、再臨時代はヤコブに該当するのです。数的基準を中心として、同時性の歴史から見る時、それぞれの時代を象徴していると言うことができるのです。

 三千六家庭とは何を意味するのでしょうか。それはすなわち、実体で地上に再臨して、復帰路程において私たちの先祖たちが神様の前に召命されながら遂行できなかったすべての使命を勝利することによって、サタンによって蹂躙された歴史を再度神様によって縦的歴史性を復帰したことになるのです。

 すなわち、三十六家庭を復帰摂理に基づいて見るとき、神様の復帰摂理の心情を継承して完成した人類にならないといけないのです。すなわち、先祖とならなければなりません。神様の摂理において、失敗した先祖ではなぐ、勝利した先祖の基準を地上に確立させたのが三十六家庭です。復帰された人類の先祖です。

 ここにおいて初めて、天宙統一の基盤を地上に立てることができるようになったというのです。三時代を通して先祖が目的を果たせずに失敗してきた神様の恨めしく悔しい歴史を、現世において横的に勝利したのが、統一教会の先生が成し遂げた歴史なのです。霊界が地上に降臨した結果として見るべきです。そうして神様が御臨在される所は、天上ではなく地上圏であるという基準が成されたのです。それでここから神様が地上にいらっしゃるようになり、世界的発展基準が造成されるようになりました。

 三十六家庭は三十六代の先祖であり、縮小すれば十二部族を代表した蘇生、長成、完成を象徴した家庭です。三十六家庭はイエス様を中心として、あるいはイスラエル民族を中心とした十二部族の部族長です。

 十二数を蕩減しなければならないので、十二部族を選び、十二ヵ月を代表して天の国の十二の真珠門を代表した天道に合わせるために、十二数の方位を開門しなけれぱならないのですが、それが三時代に延長されてきたので、圧縮して一つにしなければならないというのです。


人間像の代表型家庭

 この地上の人間像を眺めてみると、既成家庭がいると同時に、未婚の男女として愛したが、思いを遂げることができなかった者がたくさんいるというのです。それを連結させなければなりません。それと、純然たる未婚の男女がいます。それでこの三十六の家庭を引き抜いて、この世界に広がった全体の群像を、形態を代表して、どの級であっても救うことができる道を連結させなけれぱならないというのです。

 そのような意味で先祖たち、この地球にいるすべての人間像の代表的な先祖型として天国と連結させることができる道しるべを築いておかなければなりません。このような意味で十二家庭を三倍に拡大した三十六家庭を選択したのです。

 祝福を中心として家庭を三つに分ければ、その中にはどのような家庭があるでしょうか。横的に見れば既成家庭のような者たち、それから自分勝手に生きて自分勝手に愛の関係を結んだけれど思いを遂げることができなかった者たち、そして未婚の男女たちです。この三つの部類があるのです。

 それでは、三十六家庭の中の、第一家庭は何かといえば、自分勝手に結婚した者たちを連れてきて神様の前に連結させたものです。その次に第二家庭とは何でしょうか。愛の思いを遂げられなかった者たちを全部つなぐのです。ただむちゃくちゃにペアを組んで祝福するのではありません。どうしてでしょうか。世界の人々を救うためです。その次に第三家庭はどんな家庭でしょうか。未婚の男女たちです。

 三家庭はどの家庭を中心としたものでしょうか。ヤコブ家庭です。既成家庭が蘇生です。その次に第二家庭がノア家庭であって長成です。そしてヤコブ家庭が完成です。したがってヤコブ家庭が中心家庭です。そのようになっています。どこを中心として地上に連結するかといえば、ヤコブ家庭を中心として連結するのです。霊界と地上を抱き込もうとするので、三家庭、三十六家庭が出てきたのです。

 元来キリスト教文化圏が完全に一つになっていれば、そのようにする必要がないのです。キリスト教文化圏がそのようになれば、世界的に一遍に編成することができるのです。今日、この蕩減過程がないというのです。ヤコブ家庭の基盤を中心として未婚の男と女、神父、修道女を中心としてすべてくくるのです。

 三十六家庭の中で、第三家庭は手を挙げてみてください。あなた方三十六家庭が結婚をする時にした、その式が何かというと蕩減式です。あなた方が結婚式する時、聖進と金東淑(聖進様の相対)を前に立たせておいてしたことを覚えていますか。そのように条件を立てなければならないのです。

 それゆえに統一教会が越えていくべき道において、一時に三家庭が責任をとらなければなりません。三家庭が統一教会の協会長にもなり財団理事長にもならなければなりません。


三時代の氏族的蕩減基盤

 父母が結婚をして、その次には三家庭が結婚をして、その次には三十三家庭が結婚をしたのです。それによって先祖を救ったのです。ここから崩れることがないようになったのです。

 最初にイエス様は三弟子をそろえたでしょう。その次に十二数を満たして、十二の祝福数を立てなければなりません。イエス様の十二弟子の型を蘇生、長成、完成の三段階を延長させたのと同時に、横的に過去、現在、未来の三時代を延長させたのです。それが三十六家庭だというのです。

 どうして三十六家庭をつくったのでしょうか。十二家庭を中心として、その基盤の上に旧約時代、新約時代の氏族基盤を連結させるためです。完成基準の十二だけであれば、歴史的な蘇生、長成段階に連結されないのであって、三十六家庭は旧約時代と新約時代を代表した数として、縦的な基盤を連結させるために避けられない数なのです。

 このような基盤を築くことによって、統一教会においてはイエス様を中心として成し遂げるべき氏族的蕩減条件を立てて、国家時代に向かって前進できるのです。それゆえ、私たち統一教会は、今や一つの氏族基盤を中心として全国的な活動を展開しなければならない時へと移っていくのです。

 天の役事は、氏族から民族編成運動であるがゆえに、統一教会の先生を中心として一九六〇年代の聖婚式、祝福以後から本格的な氏族編成が起こるのです。それが三十六家庭から七十二家庭なのです。


約婚相対者の決定

 私が三十六家庭を祝福する時、私が「よくないから、絶対やめなさい」と言われてやめた人たちはみな良いのです。ところが「それでもします」と言い、(私に)「そうか、お前がしたければしなさい。私は責任をとらない」と言われた人たちはみな良くありません。結婚してみて良くなかったのです。それは三十六家庭がみな知っている事実です。それで先生に結んでもらうほうが理想的だという評判がたったのです。ほんの三年ほど暮らしてみなさいというのです。三年間暮らしてみてから評価しなさい。

 皆さんの目には、夏の青い木のように見えるのです。青い木であって、美しい実がなり、からすやかささぎが飛んできたりしているのでよく見えるのです。その実が何の実なのか分かりますか。松の木は松の木同士で接ぎ木しなければならないのですが、分科があるのです。分科の境界線があるのです。

 それゆえに、女性の運命というものは、どんなに勉強をしたところで、男性に従っていくのです。そのようなことを考えてみましたか。そのように考えている女性たちならば、自分がどのような道を行く人であるのかということと、自分がどのような女性であるのかということを知って、どのような男性を相対とすべきなのかを知らなければいけないのです。


既婚家庭の中で新しく結ばれた家庭

 劉孝永、劉孝敏、李耀翰牧師を結婚させて、それからもう一人は誰ですか。安昌成です。この四人を、世の中から見れば悪口をいわれるようなことをしたのです。この人たちにはぴんぴんしている妻たちが待っているのに、思いもよらない娘たちを迎えさせたのですから、それは悪口を言われるようになったのです。その中に柳光烈もいるのです。妻も教会に対して忠誠を立てているのに、そのような統一教会に反対しない、つつましい妻をそのままにして、祝福したのです。

 何のためにそのようにするのですか。なぜそうしなければならないのでしょうか。仕方なくそうしなければならないのです。蕩減条件なので仕方がないのです。そのような条件を立てたので、今はいくらやってもサタンが讒訴できないのです。

 それは世界の人のために、全体が行くべき道を切り開こうとするので仕方がなかったのです。道をつくるには、ハイウェイを通す所に宗家が王から号をもらって名前を刻んだ石碑があるとしても、それらは全部壊してしまわなければならないのです。氏族だろうが民族だろうが厳重に処理しなければならないのです。そうしようとするので仕方がないのです。

 安昌成と崔禮貞という共に暮らせない人が一緒に暮らし、李耀翰牧師と元心猿という共に暮らせない人が一緒に暮らし、柳光烈ときみ子という共に暮らせない人が一緒に暮らしたのではないですか。そう言われるとそうでしょう。息苦しいことが多かったでしょう。それはそうでしょう。でも仕方がないというのです。誰かがそうしなければならないのです。そうしなければ平坦な道をつくることができないのです。私が悪口をいわれても仕方がないのです。設計する人は、悪口を言われようが何をいわれようが、平坦な道をつくるためには、煙突が出てこようが王の財産である金塊が出てこようが、それを掘り返さなければならないのです。

 そのような門を開かなければ、世界のすべての家庭の行く道がないのです。三十六家庭のうちの既成家庭型の中に、そのような家庭がなくてはならないので、そうなっているのです。蕩減復帰して生かしてあげるための代表家庭として立ったならば、犠牲にならなくてはならないのです。


家族たちに一方的な通牒

 天の宇宙的な運勢をもって復帰路程を完結するのにおいて、誰に相談しなければなりませんか。三十六家庭は何かというと先祖たちです。先祖となる人間をつくりあげるのに、肉身の父と母に相談できますか。神様に相談しなければならないのです。先祖と同じなのですから、彼らが祝福を受ける時は、絶対自分たちの父母に相談してはいけないのです。相談するようになれば天法に引っ掛かるのです。人類の先祖たちが誤ったことを蕩減復帰しなければならない立場に立っているため、何百代、何千代の後孫のような立場の自分の父母であるのに、相談したらよいでしょうか。絶対いけません。

 神様が意図されたことは、サタン世界の誰にも知らせたり、相談できないようにすることです。それゆえに神様の特権で、皆さんが行くべき道を決定したのちに招請状を送ったのです。

 その息子、娘は、自分たちの息子、娘ではありません。天の息子、娘です。蕩減復帰しなければなりません。夜も昼も彼らを天の息子、娘にするために、私が彼らの父母以上に愛したのです。彼らの父母たちは寝ながら、世の中のことをすべてしましたが、私は昼夜を分かたず、ありったけの精力を全部投入したのです。心情的再創造のために、心情的相対圏をつくるために、環境の反対をものともせず、克服と打破を覚悟して前進を誓って出発した事実を知らなければなりません。

 しかも、父母のところに行って、相談したとしても、どこの父母がその子のことを喜ぶでしょうか。それは分かりきっていることです。父親や母親が来れば、それがとげとなり、目のごみとなるに決まっているのに、先生ともあろう人がそれを重々承知の上で、その父親、母親に聞いてみてから紹介してあげるようなことをするでしょうか。通牒はしなければならないので、結婚式をする前日の数時間前くらいにちょうど到着するようにするのです。「あなた様の息子、娘の神聖なる結婚式をいたしますので、御来臨賜りますようお願いいたします」(笑い)そのように通牒はすべてしたのです。

 一週間前に招待状を送るのですが、内容をどのように書くのでしょうか。何月何日に新郎誰々と新婦誰々が結婚しますが、嫁が誰で婿が誰でと、全部記録して送るのです。来なさいと言うのですから来ないわけにはいきません。来るようになっています。ところが、来るには条件があるというのです。「統一教会で着る礼服をどうにかして手に入れて着て来てください」というのです。それは来るなという話です。(笑い)来てはならないというのです。来れば大騒ぎになるのです。統一教会の礼服というのは真っ白い服なのですが、それを見たことがあるでしょうか。夢にも見たことがないでしょう。そのように自分の息子、娘が結婚式をするのに、「何々を着て来なさい」と命令する人がいったいどこにいますか。


奪う戦いであった祝福式

 結婚式をする時、一つは夜に、一つは昼に、一つは夜明けにしたのです。神様のみ旨から見る時、偽りの父母から出発したがゆえに、真の父母の立場からすべてのことをコーチしなければならないのです。父母たちも反対しましたが、国も反対をしました。

 新聞にも出て大騒ぎになりましたが、結婚式を三回しました。十二家庭ずつ三回したのです。戦いながらしたのです。親戚や父親、母親が来て大騒ぎし、遠い姻戚や友達が来て大騒ぎしたのです。けれども、あなた方はけんかをしなさい、私は結婚式をするからと言ってしたのです。

 アダムとエバが堕落する時、天地が真っ暗であったので、それを蕩減復帰するために、統一教会の三十六家庭の祝福も真っ暗な夜中にしなければならなかったので、門を閉めて成婚式をしたのです。その時「私の息子を出せ、私の夫を出せ、ひとの息子、娘を連れていって何をするつもりだ」などと、ありとあらゆることを言われました。自分の子供を結婚させるのが父母の思いであるのに、統一教会の先生が独断で結婚させてしまうといって騒ぎ立てるのです。神様の息子、娘をサタンが奪っていったので、先生がサタン世界の父母から再び奪って蕩減復帰するのです。歴史的に失った息子、娘を再び捜し出して蕩減復帰するためでした。それで式を早く終わらせたのです。

 龍山署の警察官に、「怪しげな反対する輩たちが来るから守ってくれ。殺人事件が起きたら警察署の責任だ」と言ったので、守らないでいられるでしょうか。それで、警備員を立てたのです。また、うちのでかい男を二人、ばしっとやればひっくり返せるような、そんな見張りを置いてから取りかかったのです。何に取りかかるのですか。結婚式に取りかかったのです。

 だからといって、私がお金を一銭でももらうでしょうか。私のお金を使って、結婚式の指輪から、服からみな私が用意してあげたのです。私が何かお金をもらって、何かの商売をするのですか。そんなことをしてレバレンド・ムーンに何の利益がありますか。どんな利益があるのですか。悪口を言われるだけです。人類が必要とするもの、愛の秩序が必要であるためにするのです。天命として人類の願いに基づく神聖な仕事を進行するのです。それに反対する人々は、十年もしないでみな屈服するのです。

 さて、結婚させてみると、あれほど悪口を言って大騒ぎした父母であったので、全部統一教会と怨讐になると思っていたのに、今はみな「文先生! 本当に良かったです」と言うのです。「本当に、統一教会の嫁のような嫁はいない。一番だ」と言うのです。「統一教会の婿みたいな婿はいない」と言うのです。

 郭錠煥牧師の夫人は姉妹で教会に来ていました。その父親は江陵師範学校の先生でした。(結婚式の時)誰が反対しに来たのかと見ると、その父親が、自分の娘が結婚するというので入って来ようとしているのです。しかし、礼服を持ってこなかったということで中に入れないのです。仕方がないので、知り合いの所へ行って礼服を借りてきて、下は黒の洋服を着て、それが見えているという格好で座っているのです。結婚式の時、私が祝祷をしてあげて立っているのですが、それがどれほど憎かったでしょうか。悪口を言おうとしても自分の体面があるので、悪口が言えるでしょうか。いわゆる師範学校の校長だという人がそのようなことができるでしょうか。体面があるのです。

 私を見て悪口を言おうとして手を「えいっ」と、このようにしているのです。(笑い)ところが近ごろでは、仁川統一教会の情熱分子になって活動しているのです。「うちの婿が一番だ。あの婿でなかったら大変なことになっていた」と、そう言っているのです。「過ぎてみれば、良い婿を与えてもらったの、悪い婿を与えられたの?」と尋ねてみれば、「本当にすみません」と言っています。


祝福過程での復帰儀式

 約婚式をしたあとは聖酒式があって、その次に結婚式があります。それでは、この約婚式と聖酒式、そして結婚式とは、そもそも何でしょうか。これは前例によって行われる式ではありません。堕落したすべての内容をもう一度象徴的に再現させ、それを蕩減するために行う、避けることができない行事なのです。

 堕落したアダムとエバの後孫である人間たちは、どこの誰を問わずメシヤを迎えられなければ原罪を脱ぐことができないのです。それではそのメシヤとは誰でしょうか。真の父母です。それでは真の父母がなぜ必要でしょうか。真の父母の愛で再び接ぎ木しなければならないからです。それゆえにメシヤである真の父母が現れることなくしては、堕落した人間が原罪を脱ぎ捨てて、罪のない解放された立場で、完成段階の祝福を受けることができる位置に出られないのです。

 そのため、約婚式は、人間の先祖アダムとエバが約婚段階で堕落したことを復帰する式です。そして聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜き取ってしまう式です。言い換えれば、原罪を取り除いてしまう式だというのです。

 天使長を通じてエバが堕落したので、復帰歴史においてはエバがアダムを通して天の前に立ち、天使長復帰をしなければならないのです。そのためにするのが聖酒式です。聖酒式をする時、先生は先に女性に(聖酒を)あげるでしょう。なぜそうなのか分かりますか。それは失ったエバを復帰する式なのです。聖酒式をすることによって霊的に一つとなり、心情的に一つとなり、肉的に一つとなるのです。絶対的な内約なのです。

 聖酒は意味もなくつくられたものではありません。サタンと神様の立ち会いのもとで、霊界にいる数多くの天使たちの立ち会いのもとでつくられるのです。そしてそこには、皆さんの知らない二十一種類の物が入っています。万物世界と人間の復帰歴史過程で形成されるすべての物が入っているのです。聖酒をつくる時は、霊界の霊人たちが来て、「どうか一杯だけ注いで自分に飲ませてください」と言うのです。聖酒を飲めば復帰されることを知っているからです。

 この酒にはイエス様が、「生命水を飲んだ者は永生する(わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう)」とおっしゃったみ言のようなものが入っています。この時間の前と後では異なります。この酒を飲むことは新郎新婦が愛の因縁を結ぶことよりも重要です。これは生命的な因縁を代表できるものです。この聖酒は酒ですが、生命の原液と同じです。この式のあとには、偽りがあってはいけません。過去を問うことなく、これからは祝福の夫婦とならなければなりません。

 聖酒式は三人の母から生まれた条件を立てる式です。聖酒には蕩減の血が入っているのです。

 祝福行事の時に、蘇生、長成、完成を意味する十二人の付き添いを立てます。これは三数を代表するものであり、また、イエス様の十二弟子を意味するものです。十二部族の二十四長老の霊的基準を立てるため、付き添いを立てるのです。敬拝をすることによって蕩減条件が立てられるのです。

 真の父母が聖水をふりまくのは、皆さんが蕩減復帰したという条件を立てるためです。また、霊界の先祖たちが築いた基盤を越える条件を立てようとするものです。

 そして祝福をする時、最初に、「君たちが過ちを犯す時は君たちが責任を負いますか」と尋ねるのです。ゆえに条件的な祝福です。


祝福式後の復帰儀式

 蕩減棒という言葉を聞いたでしょう。男女間においては、これまで姦通したり、非常に多くのありとあらゆる歴史が繰り広げられてきたので、これを一度に取り除いてしまわなければなりません。尻を間違って使ったがゆえに、打たれるのでしょう。それは遊びではありません。三時代の血統を汚した怨恨の峠を越えるための条件物です。この痛みが引くようになる時、息子、娘が解放兵の立場から天の前に両手を挙げて万歳を叫ぶことができるのです。その時には天地万物と天の国全体が「万歳!」と叫んで和合しなければなりません。

 その次に、この式をしたのちには、四十日間の聖別期間が必要です。それが何かというと、四十年期間に該当するのです。先生の四十年期間に匹敵するのです。皆さんは四十数を越えなければならないのです。復帰路程ではヤコブから四千年後に再臨主を迎えるのです。その四千年の数を越えなければいけないというのです。

 ですから四十日は、その蕩減的な条件を立てる期間です。この期間は、全体のみ旨を思い、天の国を恋い慕うのであって、自分の妻や夫のことを考えるのではありません。共同的な立場で、その国とみ旨のために精誠を尽くすのです。四十日間は夫婦関係を結ぶのではないのです。

 それでは今、どのような立場に立たなければならないかというと、夫婦と言えば夫と妻のことですが、妻が母の立場にならなければなりません。母となり、夫を愛で生んであげなければなりません。結局は、再臨主までエバが生んであげなければならないのです。

 先生を通して、妻は母の使命を再び付与されるのです。それで、これを三段階をもって産んであげる形式の愛をしなければなりません。それをする時は「完成した息子として分娩されました」というようにして進行しなければなりません。それは女性が祈祷するのです。


祝福家庭の道

 祝福がどれほど恐ろしいものかを考えてみなさい。皆さんは祝福が、偶然にどうにかして、一瞬にしてなされたものと考えるかもしれませんが、その祝福が成されるまで探し求めてきた道、そこには創世以後の人類歴史が関与しているのです。この時代だけではありません。

 これからは侍ることによって救いを受けるのです。侍義時代が来るというのです。個人救援時代は過ぎ去りました。今は、家庭を中心とした家庭救援時代です。

 今後はすべて越えていかなければなりません。越えていく時は整備しなければなりません。自分たちで心を合わせ夫婦の日記を書かなければなりません。その次に息子、娘の公認を受けて、皆、入籍をしなければなりません。入籍時代が来るのです。清算して越えていかなければなりません。その時はサタンはついてきません。そのような深刻な時が来ます。祝福を受けた家庭は今後すべて日記を書かなければなりません。こっそり越えていってはいけないのです。祝福は貴いというのです。

 祝福も三回受けなければなりません。まず教会で受けなければなりません。そして国家基準、世界基準を経なければなりません。この地上で受けることができなければ霊界に行ってでも受けなければなりません。それが統一教会の伝統的な家庭の道なのです。

 祝福がどうして遊び人や売春の仲介人のまねですか。神様の愛の圏、神様の生命圏、神様の血統圏を植えるための、途方もない天地の大道を明らかにするための光明の道なのです。解放の道なのです。すべての圏内に現れないことがない確実な道であるにもかかわらず、これを蹂躙するようになれば、悪魔よりも、もっとひどいというのです。悪魔は長成期完成級で堕落しましたが、完成期完成級にいる祝福の子女たちがこれを汚すようになれば、その目と手足を刃物で切ってしまわなければなりません。私、文総裁がこれを明らかにするための歴史を蕩減するために、どのような受難の道を歩んだのか皆さんは分からないことでしょう。


三十六家庭の立場と使命

 三十六家庭を愛することにおいては私の息子よりも、もっと愛しました。それは三十六家庭自身が証することでしょう。私は三十六家庭を偶像のように崇拝したのです。お金がなければ私が食べさせてあげ、着せてあげたのです。私はこのようにむやみに生きながらも、Jそのように愛してあげたのです。なぜでしょうか。世界のすべての人に施すことはできないので、代表を立てて愛してあげたのです。しかし、それを「いつも必ずそうしてくれるだろうから」と思ったら困るのです。

 私が三十六家庭にそのようにしてあげれば、三十六家庭が先生の息子と娘をみな愛して、私に向かって「先生の息子、娘を私たちよりもっと愛してください」と言えるようにしなければならないのです。それが原理的なのです。アダムとエバを天使長が教育するのと同様に、先生の息子、娘はこの三家庭と三十六家庭が教育するのが原則なのです。

 本来、三十六家庭の三人の息子は先生の縦的基準に連結しなければなりません。それゆえ、元弼は聖進の責任をもち、劉協会長は喜進の責任をもち、金協会長が孝進の責任をもち、二代が一つとなり、カインとアベルが一つとなって、先生の息子、娘に侍らなければならないのです。それが分からなかったのです。ですから統一教会が受難を経たのです。三十六家庭が、三家庭が代表し、三十六家庭がまた垣根となって、その中で生きるようになっているのに、三十六家庭ができないことによってサタンが自由勝手に狼藉を働いたのです。

 先生の家庭に困難があれば、皆さんがその困難を中断させ、先生の家庭が負わなければならない十字架があれば、皆さんの家庭でその十字架に責任を負い、金城鉄壁なる垣根をつくらなければならないのです。皆さんが背後で垣根となり、肥料となって、先生の家庭が発展できるようあらゆる精誠を尽くさなければなりません。そうなってこそ、皆さんの家庭が発展するようになるのです。

 そして、三十六家庭が縦的三位基台、横的三位基台を成すようになるのです。そのように見る時、兄が豊かに暮らしながら弟の事情を分かってあげなかったり、弟が豊かに暮らして兄の事情を分かってあげないとしたら駄目です。天の前には共同運命なのです。今は、家庭を中心として行く時です。家庭を中心として私たちは氏族編成をして一つとなり、愛で絡み合っていかなければならないと見る時、三十六家庭がそれをしたのかというのです。

 金寅哲が立派なのはそこです。「み旨のためにあなたの家を出しなさい」と言う前に、彼は家を明け渡したのです。それは私が忘れないのです。自分のすべての月給袋は、はたいて出して、食口を食べさせるために苦労したのです。私は忘れないというのです。

 三位基台の家庭を通じて、いかに共同生活の体制を成すかというのが問題です。三位基台を中心として、生活も共になし、生活感情も同じでなければなりません。三年ならば一年ずつ順に回りながら三位基台の責任を負って生きなければなりません。それで天宙主義なのです。家庭天国を成せなければ天国には入れません。皆さんはすべての家庭を救うことができる救世主のような立場です。

 統一教会の三十六家庭を見てみると、小学校も出られなかった人もいるでしょう。また、一対一で見れば、生活でそれほど際立つものが何もないというのです。しかしながら、この統一教会の歴史を立てるにおいて、迫害され反対されたその時代において、統一教会を愛するところにおいては、心情的基準においてはいかなる人よりも代表的な立場で愛したために偉大だというのです。このようなことを知らずに、個人的に「何だ、誰々を見てみろ。三十六家庭なのにあのざまは何だ」と批判する人は、間違った人です。先生の思考方式はこうなのです。

 先生を幹に例えるならば、その中心の枝のような三十六家庭を通じて皆さんがそこにぶら下がっているがゆえに今祝福の場にいるのであって、そうでなければ存在していないのです。絶対不可能だというのです。本来、既成家庭を祝福してあげるのは、切り捨てて代わりに接ぎ木をしてあげるのと同じことなのです。それを知らなければなりません。そのような意味で皆さんはどのような立場にあるのかを知って、先祖家庭、先輩の家庭をいつも尊重視しなければなりません。この伝統を受け継いで、それを現在から未来に、いつでも厳粛に引き継いでいく使命をなさなければならないのです。

 しかしながら、祝福を受けた三十六家庭が「私たちはアベル家庭なのだ。君たちは私に仕えなさい!」と言ったら、それは駄目なのです。七十二家庭に向かってカイン家庭であるといって「私が先に生まれたから、君たちは弟の立場に立ちなさい」と言うのではなく、「私は兄の位置にいますが、弟の位置に行っても良いです」と言うことができる立場に立ってこそ、サタンの讒訴から抜け出るのです・反対にしなければならないのです。


三十六家庭任地派遣(一九六一・五・一八、前本部教会)

 皆さんは神様を中心とした一つの家族であるということを徹底的に認識しなさい。心は天を代表し、体は地を代表したものです。ゆえに天と地が私を中心としているということを知って、すべての生活を天地のために、大きな私を生かすために、祭物となる生活をしなければいけません。私たち一人を立てるために、神様には悔しい曲折があったのです。

 天と地が動員されるにも、自らの価値が決定されなければ駄目です。私たちは後代のすべてのものの前に模範とならなければなりません。私たちいかんによって統一の理念が決定されるのです。神様は私たちを信じて立てました。私たちに価値があって立てたのではありません。ゆえに、出発のいかんが私たちの運命を左右します。

 韓国各地にいる食口たちが今、飢えています。歯を食いしばって、逆境を切り抜けていきなさい。霊界の善霊人たちもこれを見て悔しがり無念がっています。復讐のその日を思いつつ敵愾心を抱かなければなりません。このようなことを思えば、御飯を食べていても痛哭する人にならなければなりません。

 天民とならなければなりません。すべての人類が、私たちに命を懸けています。神様は、御自身が祝福した基準と、責任を負わせたその基準から皆さんに対そうとされます。縦的な面で恩恵を受けたならば横的な面で基台を立てなければなりません。

 心情は父母の心情で、体は僕の体でなしてこそ主人になるのです。それが神様の遺業です。これは父の心情をもって、涙と汗と沸きたつ血を流してこそ得ることができるのです。真なる指導者になろうとすれば、真なる指導を受けなくてはなりません。私の個体のために涙を流すなというのです。天の道を行く真の父母の涙、真の父母の汗、真の父母の血を受け継がなければなりません。伝統として残す涙と汗と血を流さなければなりません。

 皆さんは山河の至る所に、自らが流した涙の因縁を多く残さなければなりません。み旨のために、どの程度忠誠を尽くすかによって、どれくらい良い子女が生まれてくるかが決定されるのです。

 先生がアダム格の家庭に苦労させようとするのは、ノア格の家庭やヤコブ格の家庭が、自分も知らないうちにそれに乗って越えていき、他の家庭もその家庭に乗って越えていくようにするためです。それで韓国各地に任地を与えて派遣したのです。血と汗を流し、戦う家庭がなくてはなりません。


三十六家庭四十日期間終了集会(一九六一・六・二四、前本部教会)

 後代に見せてあげ、残してあげ、証することができる条件がなければなりません。先生はこれまで、父の代身者になれと教えてきました。祝福後には贖罪の使命を果たさなければなりません。皆さんは、自分の先祖を代表して立つことができる祭司長です。「苦労して教会を立てなさい」と言いました。皆さんは、皆さん自身に代わって「やります」と言う、自発的に進み出る三人の人を立てなければなりません。

 これからは実体の子女を繁殖しなければなりません。父と心情的な因縁を結ぶことができる子女を生ませてくださいと祈祷しなければなりません。心情的な祭司長になれる子女を生むために祈祷しなければなりません。先生は、天と地を代表することができる心情的基準の上に子女を生んでくれることを望みます。

 先生が一度祝福をすれば、責任を負うのです。その間の四十日間は四千年を蕩減する期間に該当します。実際の結婚生活は、きょうからです。これまでは蕩減期間でした。

 四十日期間を終えたきょうからは新しい出発をしなければなりません。栄光は自分を中心としたものではありません。三年、四年、涙を流しなさいというのです。アダム、イエス様に続き再臨主の時代であるので天の血統を汚してはなりません。罪の中の罪が天の血統を汚すことです。


五 全国伝道師修練会

第五回伝道師修練会(一九六一・二・一二〜三・二三、前本部教会、百十八名)

 今から四十日間の修練を終えて民族の前に現れる時には、一人の人格者として現れるようになろうというところに今回の修練会を開く意義があります。

 この四十日間は歴史的な勝利者を養成する期間です。私たちの勝利の目標は、個人や部分的な面での勝利ではなく、全体的な面における勝利です。全体的な勝利者にならなければなりません。いかなる環境の中でも勝利するという確固たる信念をもった人格者にならなければなりません。

 三年間は飢えの中で涙を流し、お父様のみ旨に向かって命を懸けて戦っていかなければなりません。生命の因縁と祝福の因縁をもって、三千万民族(韓民族)をみ旨と連結させ、祝福してあげるために進まなければなりません。過去の学生時代の基準や、その他、既成信仰の観念をもっていてはいけません。皆さんは新しい荒野に向かって進んでいます。そこは涙の種類も違い、血の種類も異なる所です。民族的な勝利の隊列に立つためには指導者に絶対的に従わなければなりません。

 この期間は歴史的な四十数を蕩減する時であるので、天と地、人類と私をもって四位基台を成しなさい。御飯を食べても、そのことを思いつつ食べなければなりません。どんなにおかずがない御飯であっても、ここで食べる御飯は最高の御飯です。ここが正にそのような場所です。

 今回の啓蒙期間において、勝利するという一念で耐えて戦って勝利し、それによって、反対していた者たちも頭を下げたという報告を受け、痛快に思いました。民族が反対すれば民族を代表しても戦わなければなりません。修練は戦いです。民族を代表し、世界を代表し、天地を代表して戦わなければなりません。先生も個人的な戦いで勝利したのちにおいてこそ、戦いの舞台が広がったのです。

 ここに百十八人いても、みな同じではあり得ません。神様は百十七人を除いてしまった一人であっても、真の息子、娘を望まれるのです。三千万の中に一人しかいないとしても、神様は真なる息子、娘をお望みになるのです。

 今回の第五回修練会は一九六一年に行われ、特別に意義があるのです。父を愛することにおいて、誰にも負けてはなりません。私が食べて、着て、見て、寝て、聞く、すべてのことは父を愛するためにしなければなりません。そこに反対となるものは容赦なく切るべきです。

 これから皆さんが地方に行けば、その地方のすべてのものに対し「これは私のものだ」と、あたかも主人の代身のように振る舞わなければなりません。天地に散在しているすべてのものは、父のものであると同時に私のものであり、私のものであると同時に父のものです。すべてのものは私たちのものです。

 皆さんが地方に行ったら、その面(韓国の地方行政区画)や部落を包囲する気持ちで祈祷しながら回らなければなりません。お前たちは私の中にあり、私の中にいるお前たちはこのように生きなけれぱならないという腹をもって実践しなければなりません。言葉なく戦おうとすれば、その間神様と先生が戦ってきた方法を使わざるを得ないのです。すなわち、僕のように実践して、心の主人、行動の主人、心情の主人として認定を受けなければなりません。今は難しいことはありません。時が来たのです。


第六回伝道師修練会(一九六一・四・七〜五・一三、前本部教会、百十五名)

 一九六一年四月七日より五月十三日まで進められた第六回伝道師修練会の特徴は、現役伝道師(未了者)も参加が許された点と、四十日の全期間制と、二十一日の半期間制の二部に、分別実施するようになった点である。修了資格が異なったのはもちろんである。百十五名が修了したが、三十六家庭祝福行事の関係で、五月十六日に予定されていた終了式は、三日繰り上げられ十三日になった。

 私たちの目的は最高の責任者になることです。ですから先生は、皆さんを社会、国家、世界、天地、絶対者の前に、一時的でない永遠なる責任者になるように指導しようというのです。

 皆さんが各地方へ行くようになる時は、責任を負うことができる創造主の立場、父母の立場、主人の立場を代表して行かなければなりません。万物は神様がなくて嘆息しているのではなく、神様の代わりに責任を負ってあげられる人間がいなくて嘆息しているのです。皆さんは自分自らに責任を負わなくてはなりません。責任を負うべき所があれば、雪が降ろうが雨が降ろうが行かなくてはならないのです。

 今回の第六回修練会は、他の時より特別な意義があります。創造や復帰においても六数は非常に大きな意義をもっています。この期間に修練を受けた皆さんは格別なる使命を感じなければなりません。天と地の罪悪を清算することにおいても六数は重要であり、サタンとの戦いにおいても六数は意義が大きいのです。皆さんが各自散らばって戦っても第六回修練生だということを忘れてはなりません。神様が人間を造られたあと、祝福なさろうとされた価値的な基準も六数でした。この期間は歴史的に、天宙的に重要な期間です。この期間を過ごした皆さんは中心的な責任を負わなければいけません。皆さん、第六回修練生を中心として、新しい活動が展開されるということを感じなければなりません。

 四十日伝道師修練会を終えるこの場において、皆さんにお願いしたいことは、「自覚してほしい」ということです。皆さんは自分自身を知りませんでした。そうした中で、み旨を知ってからは、自覚の心情をもってこの門をたたいてきました。皆さんは、歴史を経て、時代を越えて、未来を立てていく「私」であるということを自覚しなければなりません。

 常に自分自身を自覚し、天に不忠不孝な自分であるということを忘れてはなりません。不忠不孝の姿であることを感じるたびに、忠臣の名、孝子の名でも呼びながら「忠誠を尽くします」と誓わなければなりません。

 皆さんがここを発ち、第一歩を踏み出すときには、涙と希望と懇切なる心にあふれなければなりません。そうでなければ、まだ忘却の立場にあるのです。どこにいるとしても、皆さんは共通の心をもたなければなりません。各自が自覚した位置で、三千里の山河に向かって出発しなければなりません。命あるこの国土、この民族、この主権のために、忠誠を尽くし、闘争しなければなりません。


第七回伝道師修練会(一九六一・六・一〜七・一〇、前本部教会、百三十二名)

 皆さんが修練を受けるのは、皆さんの前にいる怨讐を退け、怨讐を審判するためです。そのためには第一にみ言を勉強しなければなりません。このみ言はどこから出てきたのですか。創造当時の心情から始まり、復帰の路程を経て出てきたのです。この事実を忘れてはなりません。み言を身につけることなくしては実体を立てられず、実体を立てることなしには心情を立てられないので、み言を聞く時は体で聞き、心で聞き、心情で聞かなければなりません。

 修練生の皆さんに、歴史始まって以来なかった、うんざりするような肉体的訓練をさせるのです。それをみ言と心情で耐えて打ち勝たなければなりません。皆さんはアダムを学び、モーセを学び、イエス様を学び、先生を学んで、アダムやノア、アブラハム、モーセ、イエス様、先生の立場に立ってみなければならないのであり、み言と体と心が一つとなって神様の心情を体恤しなければなりません。

 皆さんが今回受ける修練は第一次の修練です。第二次はこの民族の前で、飢えと死の恐怖にも屈しない修練を受けなければならず、三次は世界の前で、四次は霊界の前でこのような修練を受けなければなりません。

 復帰原理において、天地はもちろん神様までも悲しみに満ちていると言いました。第七回修練生の皆さんは、愛着心をもった人々になるようお願いします。この地は太初から私たちの地であったのに、先祖が息子、娘の資格を失ってしまったので、六千年の間失っていました。今や再び取り戻さなければならないこの地です。この地をつかんで痛哭しなければなりません。


第八回伝道師修練会(一九六一・九・二〇〜一〇・二九、前本部教会、三十五名)

 一九六一年九月二十日より前本部教会で始まった四十日伝道師修練会は、男性二十九名、女性六名、合計三十五名参加のこぢんまりした修練会となった。

 皆さんがここに来た目的は何でしょうか。それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本の問題を解明し、絶対者から認められ確定を受け、その絶対者の前に立つことができるために来たのです。

 父母が孝子を愛するように、神様も、人類の悲しみや苦痛を自分のものとして感じる人を愛されるはずです。皆さんは善だけを追求する人よりも、苦痛を追い出す実戦の闘士とならなければなりません。悲しみの世界と苦痛の世界を打破するのに必要な人とならなければなりません。後ろから従っていく人になってはいけません。喜びを謳歌する資格がある人とは、悲しい環境を永遠に取り除いた人です。

 神様の涙の谷間を経なくては、父の前には立てません。父母の悲しみが分かる人が孝子であり、国の悲しみが分かる人が忠臣です。涙を流してこそ歴史的な人物となり、宇宙的な人物になれるのです。復帰歴史は条件の歴史です。ゆえに、許しを受けようとすれば、神様の涙の谷間を埋めなければなりません。

 今正に出発する修練生の皆さんに願うことは、僕と養子の立場を越えて、少なくとも息子、娘の立場で行きなさいということです。息子、娘になってこそ、父の栄光の立場に同参できるのです。私たち統一信徒は、これまで困難な道を歩んできましたが、消えてなくならないでいます。最後まで残る人が父の代身者です。

 神様は、「息子、娘として、そして代身者として、この国の三千万同胞のために行け」と、のどが痛くなるほど泣き叫んでいらっしゃいます。あらゆる所に、父の代身者、父に愛された息子、娘を送りたがっていらっしゃるのです。神様は「お前は私の代身者であり、息子、娘である」と言える、サタンを退け、天の真の愛を受ける者となることを願っていらっしゃるのです。


第九回伝道師修練会(一九六一・一一・五〜一二・一四、前本部教会、六十名)

 皆さんにとって、第一の問題は神様のみ旨を知ることです。み旨を知ろうとすれば、歴史がどのように流れてきて、この時代がどのように流れているのか、未来はどのようになるのかを知らなければなりません。また、神様はいかなる方なのかを知らなければなりません。歴史的な神様はどのような神様であり、いかなる闘争の歴史を編んでこられたのでしょうか。この時代においてはどのような闘争をされているか、その神様のみ旨は必ず未来へと連結するはずなので、そのみ旨の内容は何であるかということを知らなくてはなりません。

 ここに入れば一週間断食をしなければいけません。強制ではありません。自ら実行するのです。私は、私自らが父から受けた訓練を皆さんにもそのまま見事にさせたいのです。そうして見事に天国を建設したいのです。

 今は三年伝道期間中の二年目を越える時であり、今回の第九回修練会は今年最後の修練会になります。また、九数はすべてのものを清算しなければならない意味をもっています。今夜、第九回修練生の皆さんにお願いしたいことは、永遠に残る者となれということです。

 今年は、民族の前で殴られても、しっかりと殴られなければならない時です。ですから強い覚悟と誓いをなさなければなりません。最後の戦いの峠で、「私が砲弾の先になる」という覚悟をしなければならないのです。心情を中心としてみ言を伝え、心情を中心として生活し、み言を中心として行動して、み言を中心として理念を広げなければなりません。純粋な心で分け与えてあげなければなりません。


六 四十日伝道と地区巡回

全国地区巡回(一九六一・七・一三〜七・一八)

 韓国各地をくまなく回り、五日ぶりに帰ってきました。大田を経て、全州を経て、光州を経て、馬山に行き、大邱を経て、三陸へ、その次は提川を経て春川に行って帰ってきました。

 今回巡回をしながら感じたことは、今、私たちは戦うべき時にあるということです。地方にいる青年男女たちが大変な決意をしているのを見て、今回の戦いは勝利の成果をもたらすだろうと見ています。

 ところで今回、胸痛く感じたことは、食口たちが、先生が行くという場所に数十里の道のりを歩いてくるということでした。世の中の人々はお金もあり、車に乗ってくることもできるのですが、ここに来るのが嫌なので来ないのです。ところが、統一教会の青年たちは数十里の道を歩いてくるのです。

 光州に行ってみると、木浦から、あるいは務安から二、三日、「昼も夜もずっと歩いて来ました」と言うのです。このようなことを見た時、私たちの教会が目標とし、立てようとしているみ旨は成されると感じます。

 二十歳前後のまだ若い人が、我知らずみ旨のために命を捧げる覚悟をなしている姿を見る時、どんなに殊勝に見えたか知れません。そのような食口が本当にたくさんいるのです。

 今回、ずっと巡回をしてみると声もたくさん枯れました。行く先々で約三、四時間以上み言を語り、初めて会った食口たちと夜が明けるのも忘れて話をしたのです。

 ある時はこんなことがありました。夜九時に三陸に到着することになっていたのですが、途中で車が故障してしまい、その日の夜が過ぎ、翌日の明け方四時四十分に到着したのです。ですから、三陸の食口たちがどんなに待ったことでしょうか。とても疲れていたのです。夜明けに集会をもったのですが、東海(日本海)に位置しているため警備が厳しく、長い時間話すこともできませんでした。一時間ほど話してから原州へ行き、春川に行ったあと、きょうの朝、皆さんに会うようになったのです。

 そのようなことがある時、先生は何を思い、どのような祈祷をしたと思いますか。今年は青年食口たちが先生の命令を受けて伝道に出て、神様のみ旨を共同の使命と感じ、それを成していくために苦労とでいます。そのようなことを心配しながら、「皆さんの困難を身代わりするため祈祷しますので、分かってください」という祈祷をしたのです。


夏季四十日伝道(一九六一・七・二〇〜八・三一、千四百五十の面に千六百名動員)

 教会の本格的三年国内伝道の期間中、第二次年度を迎える一九六一年夏の四十日伝道は、七月二十日より八月末までを期限とし、全国千四百五十地域を計画、一斉に出動した。中間報告による統計では、事情により赴くことができなかった場所もあり、千二百地域となっており、教会設立が可能な中間予想教会数は五百箇所に達している。

 ソウルの食口を一番苦労できる地域に送ろうと思います。伝道や啓蒙を良くやったことを誇りたいのではなく、涙を流し、飢えて震えて、石の角をつかんで祈祷したことを誇りたいのです。

 今回、伝道に出かけていき、物質に対する苦衷と人に対する苦衷と心情に対する苦衷を体験しなさい。悪い人にまでも同情心を起こさせ、後援してもらって帰ってこなければなりません。今回の夏はお金をたくさんもっていってはいけません。

 統一信徒は血と汗と涙を壁に塗らなければなりません。それが家を建てるのです。自分の名前の字が刻まれた場所を訪ねていきなさい。そうでなければ自分から三代以上の父祖の名前のある場所を訪ねていきなさい。津々浦々へと、祝福を受ける場所を探し求めていかなければなりません。先生は、皆さんが建てるわらぶき三間の家(小さな家)で祝福したいのです。教会を建てるのに後援を受けてはなりません。

 今回十八歳以上六十歳以下の年齢に該当する人は伝道に参加しなければいけません。今回の伝道は、まだ若い人も出ていくのです。幼い皆さんは、昔、幼い人をたぶらかした怨讐を撃破するぞという信念をもって出ていかなければなりません。

 皆さんは今回の四十日期間は麦飯を食べなければなりません。皆さんは祭物にならなければなりません。祭物には自我意識と所有観念があってはなりません。一九六〇年一月一日の朝、先生は皆さんに「三年間服役する立場に立て」と言いました。

 今回の夏季伝道期間中に動員される巡回師の数は、地区長、地域長、一般巡回師、特別巡回師を合わせ、全部で百二名です。この百二名が四十日間巡回するとしたら四千八十回になります。

 「心では父母の心情をもち、体では僕の立場に立ち、血と汗と涙で祭物になり、祭司長の位置に立って贖罪の責任を負い、息子、娘の位置に立って父の代身者となり、サタンを審判しよう」。

これが私たちの標語であり、実践要綱です。

 この一九六一年は三年期間の中でも総進軍をしなければならない年です。各面(注:郡の下の行政単位)の単位まで私たちの歩哨所がなければなりません。そうして人間をつかんで苦しめるサタンを監視し、一時に追い出さなければなりません。来年は里(注:地方行政区域の最小単位、面の下)の単位まで計画しています。このようなみ旨のため、皆さんは幼い体であっても、祭物になると言えなければなりません。先生は裸足で三千里山河(韓半島全土)を回りたい心情です。それも着た切り雀の格好で回りたいのです。復興団はそのような心情を見せてあげるためのものです。子女を探し求める父母の姿です。


冬季四十日伝道(一九六一・一二・二〇〜一九六二・一・二八、二千六百余名派遣)

 一九六〇年の冬、全国七百七十箇所に九百九十三名が派遣され、啓蒙運動を行い、有終の美を飾った。また、
 一九六一年十二月二十日より二千六百余名が動員され、啓蒙と伝道が行われた。
 各隊員たちには、出発するとき、各所在の地区長発行の隊員証(身元証明書)が与えられ、その他、ポスターが一箇所につき四枚、挨拶状が二、三枚、「啓蒙教本」が一人一冊ずつ与えられた。


 公的な仕事に責任を負ってでることが、どれほど貴いことか! 今回の動員は全体動員です。特別の事情がある家庭は、夫婦のうち一人でも出なければなりません。

 皆さんが地方に行って啓蒙をする時、たとえ「か」の字、一文字を黒板の上に書きながら講義するとしても、前に座っている数少ない人に対して講義をするのではなく、全天宙に対して講義をしなければなりません。汗を流すにも天宙復帰の心情で「復活の汗」を流さなければなりません。そうすれば、歴史的な因縁をもっている後孫であるので、善霊を感動させ、善霊の良心と因縁を結び、実を結ぶようになるのです。

 今回の期間、皆さんが受け持った地域に行ったら「面の人たちよ、みんな来い。この面出身の霊人たちよ、みんな集まれ。忠誠大会をしよう」と言える覚悟で仕事をしなければいけません。ある反対者が生じたら、皆さんは、その人が自分の子女にも与えられない大きな愛で、父母の立場からその人に対してください。被造物の生命の要素となるのが神様の愛なので、極致の愛はそのような者を屈服させることができるのです。また、父母が自分の子女のために仕事をするよりも、もっと大きな奉仕をもって、その反対者のために仕事ができる子女の立場に立ちなさい。そうすれば、その反対者を屈服させることができるようになります。

 定めておいた三年は、歴史的な蕩減期間を縮めた最小限の年数であり、個人の蕩減期間です。それゆえ今後、統一教会の食口は誰もがこの三年期間を経なければなりません。心情一体であると言ったので、皆さんはすべて先生の心情が分からなければなりません。今晩、先生は何をされるだろうか、今夜は寝ないで明かすのではないだろうかと考え、先生の代身の立場に立って形だけでもまねて感じてみなさいといって、承諾したのが三年という特赦期間なのです。三年の間、一年に四十日の啓蒙伝道を二回実施して三年間合わせても一年にならないのに、それさえもできないと言うならば話になりません。本来この期間は、断食しながら越えなければならないのです。

 皆さんにこのような因縁の時は一回しかありません。どうか今回の期間で皆さんが立つ所を探し出し、目的を探し立てるようお願いします。


七 全国教会食口組織管理

家庭三位基台編成

 私たち食口には、これから三位基台の編成が出てきます。今から三位基台編成が出てくるようになれば、これら三家庭が必ず一つの家の暮らしをしなければなりません。これまでは堕落した人間なので全部別れていったのですが、その別れていったものが今は、復帰時代を通過して、合わさっていくというのです。

 それゆえ、皆さんが「私を中心として私の家庭だけ良ければいい」という時代は過ぎ去りました。そのような時はすべて過ぎ去りました。今は、皆さんが一つの家庭を中心として、三家庭が一つの暮らしをしなければならないのです。三位基台を中心として一つの暮らしをしなくてはなりません。そして、その三つが合わさって、少なくとも最小限十二家庭が一つにならなければならないのです。三×四=十二、十二家庭が一つの家となって同じ生活ができる基準を経ていかなければならない時です。

 そうすれば、生活方式と制度はみな同じです。三家庭があれば、もちろん各々自分の家で誠意を尽くし、毎日、朝食・昼食・夕食、自分の食べるものまでも全部準備しておかなければなりません。食事を作っても年上の方のものを一番最初によそるのであり、その家に別の家族の人が訪ねていけば、自分の生活基準に従って、いつでも真心のこもった態度で接しなければならないのです。誰が行っても、例えば、お父さんが行って「御飯をくれ」と言えば、どんな時でも即席で準備してあげることができるくらいにならなければならないのです。

 それゆえ、今後そのような準備をしたという時には、公的な概念をはっきりさせなければならないことでしょう。天の父の代わりに大きなみ旨に責任を負っていく食口たちがいるからには、ある村があればその村において、統一食口がいるということを道端に必ず表示しておかなければなりません。これからはそれを知らなければなりません。

 全国に散らばっている我々の信徒を中心として、これからそれを実践しようというのです。各地域のあちこちに大きな道があれば、その大通りに必ず看板を掲げなさい。看板を掲げるときは、必ず案内図を描かなければなりません。自分の教会がどこに位置し、どちらの方向だという案内図を詳しく描くのです。それから、教会周辺の通りの内容をすべて明示しておかなければなりません。

 そうすれば、今後、食口たちが公的なみ旨のために行き来している途中で、あるいは、み旨の道を歩んでいる途中で、昼食時となり、その家を訪ねてくれば、いつでも昼食を接待できるのです。父に捧げるためのものを、公的なみ旨のために苦労する子女たちへと、父の代わりに捧げるのです。すなわち、父の代わりに来て食べてくれる食口を恋しがりながら生活していかなければならないのです。三家庭ならば三家庭、自分一家庭ならば一家庭において準備したものを食口たちにもてなし、父をもてなすための準備をすることが原則だということです。ですから自分たちが先に食べるのをいつも恥ずかしく感じなければなりません。


教会を守る

 今後は霊力が増えて、霊が明るくなります。そこに汚点があってはなりません。公的な立場を離れて生活してはなりません。教会を守るにおいては、祝福を受けた者同士が三位基台を編成して守らなければならず、そこで寝てはなりません。サタンが主管する夜まで私たちが主管するために、徹夜して守らなければなりません。教会を空けてはなりません。四方を見ても、安心できるまでそうしなければなりません。

 ですから暗号訓練をしなければなりません。全国にいる食口たちは三日から七日以内にお互いに連絡できなければなりません。暗号はサタンが知ってはなりません。それでサタンを審判しなければなりません。食口が七十名、百二十名になる所では夜があってはいけません。居眠りしてもいけません。三年が過ぎたのちには、絶対に夜を徹してしなければなりません。

 今後、集会は夜にするでしょう。暗やみの世界をかき分けていかなければならないためです。そのようにするためには切実な心情をもたなければなりません。

 今後は公開的な命令ではなくて、系統的な命令をしなければなりません。ゆえに系統を失ってはいけません。組織を離れては生命が存在できないのです。上下、前後、左右の関係を失ったら存在価値がなくなります。


食口たちの質的向上運動

 これからは、少なくとも自分の地域においては、世界のどこに出しても信仰者として不足なしと誇れる人をたくさんもちなさい。それを、責任もってしなければなりません。いたずらに実情を知らずに過ごしては駄目なのです。

 先生も今後はこれをなすため、ここ本部に特別命令を下し、巡回に出すのです。「どこどこの地域長のところへ行って把握してきなさい」と、そのように地方を巡回させることでしょう。その実情を把握して報告させれば、教会の実情を知らないはずがないというのです。くまなく探り出して全部知らなければならないのです。

 皆さんがどこかの村に行ったら、里長ならばその里長を中心として親戚のおじいさんが何親等で、どうなっていて、どんな家に住んでいるか、その家の環境がどうで、どんな人がどんなふうに住んでいて、質がどうだということを全部知らなければならないのです。漏れなくそれを知らなければなりません。知らなくてどのようにするのですか。教会の責任者はそのように動かなければなりません。そのように動き、そこに責任をもった食口たちを誇れるようにしなければなりません。

 「サタン世界に誇れる息子、娘をたくさんもて、サタン世界に誇れる食口をたくさんもて」というのです。これからはそのような運動をしなければなりません。そのような運動をすることにより、今後私たちの運動においては、次第に実績をもって団結し、質的に向上するというのです。
















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