祝福家庭と理想天国
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苦労・祭物・従順

一 苦 労

576 楽な立場においては誰もが歩むことができる。一番困難なときにいかに歩むかという哲学が確立しているか。

577 苦労することはその地位、位置を確保することである。

578 苦労して植えておいた我々の根は、それ以上苦労する者でなければ引き出すことができない。

579 苦労の度合いは、繁栄の度合いに比例する。死なずに、くたびれずに、打たれても七代を掛けておいてその後孫に祝福を与えなさい。

580 先生は三十歳を過ぎるまでおなかが空かなかった日はない。神様に誓った基準がなされていないのにどうして安らかに食べて眠られようか。

581 歴史上に現れた全預言者、聖賢の苦労より、もっと苦労しなければ神様の前に立ち得る自分の位置を失いやすい。

582 我々は楽をするために入ったのではない。神様の代理としてむち打たれ、地獄と苦痛を共に引き受け勝利せねばならない。すなわち、神様の十字架を相続するために集った群れである。

583 天国は地獄の苦痛から勝利した者が行く所である。

584 当然受けるべきことを受けるのではなく、忍び難きことを受ける者は必ず勝利する時が来る。

585 苦生↓固生↓高生

586 萬苦之勝者
  榮高之王者

587 苦労した様子を表すな。そして隠れた宝を多く積みなさい。

588 神様の理念で全体を収拾しようとすれば高い位置ではできない。平均以下に低くならなければならない。

589 苦痛を克服しながら祝福を受ける地、約束された地を慕いながらその世界に向かって走っていきたいと、はしゃぐ群れとなろう。闘いの中で環境に押され倒れる群れとならずに、前進する心をもって残れる群れとな  らねばならない。

590 統一教会は理念の百科事典であるという事実が重大なのではなく、苦労の百科事典であるという事実が重大なのである。

591 あなたが食べられなくても、食べられない者のために稼いで与えなさい。骨髄までも響くであろう。誠を尽くして築いた塔がたやすく崩れることはない。(注:韓国の諺)それは神様も奪うことができず、サタンも奪うことができないだろう。

592 多く苦労をし、多く涙を流し、悔しいことを多く受ければ受けるほど、天のものとして残されるであろう。

593 現在あなた方を苦労させるのは永遠なる世界において永遠に残すことのできる財産として与えてくださるためである。

594 神様を迎え入れて涙しなさい。自分のためには、絶対に涙を流すな。

595 悲惨な事情があったら他人のことと思うな。そしてうれしいことがあっても自分だけのものと思うな。

596 苦難を受けても落ち着きなさい。窮地におかれても慌ててはいけない。

597 分かってくれることを望むな。苦労を密室に貯蔵しておきなさい。見えないことを見て喜びなさい。

598 心の基準がみ旨の基準と異なるとき、苦痛となって、生活基準に理念的な相克が起こるようになる。ゆえに宗教の道を通して犠牲になりながら耐える道を築いてきた。それゆえに善を築いてくるすべての人たちは、耐えることなくして善なる目的を達成した者は一人もいない。

599 おなかが空いてもみ旨を果たそうとする切ない心で空腹までも忘れて歩みなさい。我々が苦労するのは他人には苦労させないようにするための資料をつくってあげるためである。

600 堕落人間は、自分の存在目的のために心配せず、存在するために必要な要件のために気を配っている。しかし神様は公的な目的のために衣食住を顧みないで苦労する人に必ず干渉してくださる。

601 苦労だけが神とサタン、両方を屈服させることができる。

602 サタン世界で苦労をすれば災いであるが、神様の世界で苦労をすれば恵みである。

603 残れる道は苦労しかない。

604 我々が苦労した地を見て、万民が痛哭するその日を迎えてから死ぬという信念をもって戦いなさい。苦労しなさい。死なずにくたびれずに。

605 神様が我々に言い表せない苦労をさせるのは、復帰の道が難しいということを痛感させ、再び堕落を繰り返さないようにさせるためである。

606 イエス様は十字架上で「父よ、我が思いではなく、み意のままになさしめ給え」といった心情をもって苦労なさったし、神様はその心情を御覧になって、栄光の座まで導かれたので、イエス様は私と同じ心情をもって動く者はすべて私と同じ立場に立ててくださいと祈っていらっしゃる。

607 先生は監獄に入っていくとき、苦労をしに行くと思うより、実力を現せるのは今からだという信念をもって入っていった。

608 天地が共にこの人はみ旨のために苦労したと認め、したがって、同情することのできる基盤を築き上げなければならない。そうしてこそ、初めて神もサタンも、いかなることをやっても讒訴することができなくなるのである。

609 我々の道は神様のため、天宙と全人類のために歩む道であるため、その苦難の期間は人類歴史の全体の期間に匹敵する。

610 自分が苦労の道にいるときは泣いたり騒いだりするな。生きておられる神様は話を伝えなくとも、私がおかれている立場をあまりにもよく御存じだからである。それなのに私がまた涙したりして悲しく祈れば、神様はより悲しむ。二重の十字架を背負うようになるだろう。神様は今日まで、より大きな歴史的な悲しみと苦痛を知ってくれる者もなく、一人で受けてこられた。その父をまず慰めなさい。このような者は神様が抱えて痛哭なさるだろう。

611 皆さんの苦労は先生がよく知っている。しかし父母が百の孝行をしたとして、子女に五十ぐらいだけ孝行しなさいと言う父母がどこにいようか。父母より百の中の一つでも余計にやってくれることを願うのが父母の心である。

612 先生が神様の前に百の孝行をしたとすれば、皆さんは九十九までの苦労をしたとしても、神様の前に堂々と自慢することのできない先生であることを皆さんは知らねばならない。

613 み旨のため既に捧げた者たちが集ったところであるために、一つのみ旨を中心として一つとなって和動でき  ないはずがない。悲しく困難な立場から一つにならなければならない。

614 おとなしく打たれ、おとなしく踏まれ、おとなしく刺されても、完全に死なずに生き残る者となりなさい。

615 サタンは昼夜闘っているが、皆さんも昼夜闘っているのか。

616 我々によって天地の間に新しい涙を流せるようにしよう。

617 サタンも行けないという道を行かなければならない。サタンを追い払うためである。

618 神様が覚え得る苦労だけをしなさい。苦労することによって重みのある人になる。

619 讒訴を免れさせようとして苦労をさせるのである。

620 これからは喜びの涙を流していかなければならない。

621 宇宙的な堕落によって、心は希望を指向し肉身は現実を指向するゆえ、人間の苦痛の生活は不可避なのである。

622 統一教会の食口は打たれて大きくなろう。大きくなるには正しくまっすぐに大きくなろう。

623 仮に皆さんの苦労に対して給料を払うとしよう。その金は誰がくれるのか。そのようにすれば皆さんは神様の雇われ者でしかない。

624 足りない自分を自慢することができないので苦労をさせようとしたのである。サタンが讒訴できない立場におくためである。

625 苦難を避けていく者とならずに迎えていく者が神様の道を行く者である。

626 血、汗、涙がある限り我々の資本は残っている。統一教会の財産は血と汗と涙しかない。

627 迫害する人がいなければ、蕩減することができない。

628 先生は苦労の百科事典である。

629 苦労こそが神様の審判とサタンの讒訴を越えることができる。

630 勝利者の気持ちは闘ったことのない人は感ずることができない。

631 宇宙よりもっと大きな悲しみを知って神様を呼ぶ人がいるとすれば、神様はその人を「私の息子よ、娘よ」と呼ばれるであろう。

632 負わされている重荷と負債を解き放つために、サタンと結ばれている、兄弟と父子の因縁を切らなければならない。

633 犠牲はすなわち闘いである。闘いは統一をさせるための方便であり方法である。

634 神様は「あなたは私のものである」という基準に到達するまで苦労させる。

635 大きい人であればあるほど、絶えず進むことによってこそ一つの責任をもつ人となる。神様の心の中でアブラハムが忠臣と決まっていたのではない。その時に信仰を立てたのは、アブラハム一人だけであったので約束的に祝福をされたが、最終的な祝福をしたのではなかった。

636 イエスの苦労は三十三年の苦労であり、モーセの苦労は百二十年の苦労であるが、一人の方の苦労は天と地が屈服するものであり、サタンも痛哭するものであり、したがって世界はその一人の方のものとなるであろ  う。これが神様の苦労なのである。

637 聖徒たちが苦労をして、霊人たちが泣き人々が泣くようになってこそ人類に光明が戻ってくるのである。

638 皆様が受ける苦労を材料として、サタンに一言も言わせず屈服させようとするのが先生の作戦である。

639 現実の苦しみを無視し、未来の幸福のために絶えず進むところに発展は訪れる。

640 先生が初めて使命を受けていで立つとき、細胞が泣くほどの峠を越えなければと思った。

641 最低の場においてその環境をすべて忘れて、そこに満足し得る者がいれば幸福な人である。

642 先生は皆さんを神様の息子、娘にしようとするし、皆さんもまた神様の息子、娘にならなければならないゆえ、そこには必然的に産みの苦しみすなわち苦労をしなければならない。つくろうとする側が勝たなければならない。皆さんは無条件に負けなければならない。そのあとには神様の息子、娘であるといえる。そのあとには神様の孝子孝女となり、烈男烈女となって神様の忠臣として、神様の創造理想の一面を担当しなければならない。

643 苦労をさせても、もっと苦労をしなければならないという思想の所有者であれば、この国を指導していくことができる。

644 蕩減解怨は涙から始まるのである。栄光なる場に出ることを遠慮し、恥ずかしい場において神様が覚えるようにならなければならない。

645 忠臣と烈女と孝子は平常時には現れない。難しい立場において現れるのである。苦労した結果がすぐ出ないと言って落胆するな。外的に戻ってくる。どれぐらい精誠を尽くしたかが問題である。

646 我々は歴史的な苦労を相続しなければならない。範囲が広くなればなるほど、内情的な心情にその歴史性が加担されているゆえにますます難しい。

647 「私はどうしてこのような姿になってしまったのか!」と嘆くな。それが歴史的に認定され保証される道であったかどうかが問題である。

648 苦労と曲折のない平坦な路程を歩んだ人の生活より、複雑で曲折の路程を歩んだ人の生活が、より深く広い味がある。

649 神様(天)以上に耐えた方もいないし、神様以上に苦労した方もいない。

650 苦い物を食べていて甘い物に接するときは、その甘さがほんの少しであっても実に刺激的である。

651 川の主流は、戻らずに川の筋から最も近い所を選んで先にぶつかって先に傷を負うものである。

652 試練と苦痛は私の怨讐ではなく、輝かしい価値を決定してくれる材料である。

653 み旨を中心として歩んできた険しい過去の道に対して絶対に後悔するな。それは私の財産である。険しい道の中においても険しい道を選ばなければならない。

654 神様の前の孝子は誰でもなれる。寂しく難しいことに責任もった人の道こそ孝子の行くべき道である。

655 開拓の道は冒険の道である。たった一つの武器があるとすれば、すなわち努力と闘志である。

656 開拓者が追求する道は現実を主とするのではなく、常に未来の価値の内容を追求しながら行く道である。ここにおいてのみ発展と希望が永続され得るのである。

657 苦労をするなと言うのにその人が苦労をするとき、それを制止する法はない。

658 悲しみの極点を越えたときに最高の喜びが来るのである。

659 蛇は脱皮しなければ大きくならない。脱皮するためには石垣の間を抜けなければならないのと同じように、罪悪の皮をかぶっている人間は、蕩減の路程を歩まずしては皮を脱ぐことができない。

660 蕩減は自分の愛する人を通してやってこそ善であるので、神様は聖徒たちを中心として蕩減させていくのである。

661 幸福の国を願うなら、不幸な国において犠牲になることを知らなければならない。

662 冬を克服することのできる生命力をもたない種は、新しい春と共に新しい希望の出発を見ることができない。

663 世の中で学ぼうとしても学ぶことのできないことを学ぶ所が監獄である。なぜ? 監獄の中には貴重でないものがないからである。あらゆるものが貴いことが分かる。

664 み旨がなされたあとに後悔する涙を流さないために、今涙を流し後悔する道を行くのである。深い谷を行かずしては高い山頂が現れない。

665 苦労のない恵みは流れてしまうのである。


二 祭 物

666 不平を言うな。蕩減は従順を通してなされていくのである。

667 自分が生まれつきもった天性よりも、もっと悔しい立場に下がれば(祭物的な立場)、神様が哀れに思い、またサタンも打つことができない。

668 「悪いものは私のもの、良いものはあなたのもの」、「悪いものは我々のもの、良いものは民族のもの」、このような精神があってこそ世界を復帰することができる。

669 蕩減路程は祭物の期間であるため、存在することは存在するが、存在意識をもってはならない期間である。

670 「私の力でやれることはすべてなしました」という基準を立てるのが一番重要である。

671 心情的な生活の前に、祭物的な生活の前に、誰よりも清い祭物になった方がイエス様である。

672 お互いに難しいこと、嫌いなことを奪い合うために争わなければならない。

673 祭物は事情を聞いてあげては祭物となり得ない。

674 栄光を受けたければ、心配の包みを責任もって引き受けなさい。

675 み旨に責任をもった者は、初めから楽をしたいと思うな。神様はサタンよりもっと大きい力で締めつけ、サタンが侵入できないように鍛錬なさる。

676 苦労とつらさが加われば加わるほど、苦難のむちは短縮される。

677 祭物となった私は祭物を受け取られる神様が喜び、祭物によって恩賜を受けた人たちが喜んだあとに喜ばねばならない。

678 朝の初めの気持ちが一日を決定する。ゆえに、朝最初の祭物として神様が喜ばれることを見るように努めなさい。

679 僕と養子と子女の立場で苦痛の過程を歩むことは自分自身の蕩減のため不可欠なことであり、父の仕事を代身した栄光の条件となるのである。

680 イエス様は純粋な祭物として過ごして他界なさった方である。純粋な祭物は他人が触れることなく、他人に見せることなく、清い初物を意味するもので、精神と心と思いを尽くすにおいて清いものとして捧げることのできる者とならねばならない。使い残した精神、使い残した心、使い残した思いをもって捧げるときには、決して神様の愛は体恤することができないだろう。

681 神様の胸を感動で締めつけるようにしなさい。神様が同情してくださる立場に立てばいつも解けていく。

682 皆さんが捧げる生命に未練が残っているか。神様の前に捧げる祭壇の祭物としては、微塵の傷があってもサタンが讒訴することだろう。

683 無条件に天の前に捧げ、み意のままに任せる心が必要である。神様は私の父であるので私がいなければならない所を一番よく知って、私が一番幸福になり、満足を感じ得る場所に私を導かれる。

684 死んでいた私を無償で生かしてくださったので、この生命は今、私のものではなく神様のもの、すなわちいかに死ねば神様が喜ばれるか、という心で栄光ある死に場所を訪ねていこうとしなければならない。

685 統一勇士は生活意識(生活観)を捨てなさい。ぶち当たるのがすなわち私の生活であると思いなさい。

686 再臨以後の時代は雌牛の時代である。雌牛は主人のため、生きている間全忠誠を捧げ、そして繁殖を尽くし、のみならず死んでも骨、皮、肉、捧げないところがない。

687 善なるみ旨を抱いて踏まれるなら、絶対に損害を出さない。いつ、どのようになされたかも知らないうちになされる。

688 神様は個人が祭物となるよりは、全体が祭物となることを願われる。祭物になろうとすれば、全体的な生活、行動、理念統一が必要である。

689 祭物は従順と屈服の象徴である。ゆえに祭物は、自己という所有観念がなく、死の前においても反抗することを知らないのが祭物である。

690 神様は私一人の個体を立てるために六千年間泣いてこられたがゆえに、み旨を探した我々食口たちは何の報酬もなしに六年以上七年の苦労をし、涙を流しながら奉仕しなければならない。先生が十六歳の時から出発して四十年間を標準としながら死を覚悟して出発した道がこの道である。

691 統一の理念の前に誰がステパノになれるか。楽な心をもたず栄光に会う前に苦難を探して担当しなさい。そこに神様が働いてくださり、同志が生まれるであろう。

692 無条件に神様の前に利用される身となってみなさい。利用されるぐらい神様の心情の中に入ってこそ恵みを奪ってくることができるのである。

693 十年で返すものを一年で返し、一生を通して返すものを十年で返すことができるような、むち打ちと暴風の中に押し込んでも「有り難く受けさせていただきます」と言える者を神は尋ねていらっしゃる。

694 国のために死ねば、国が復活する時、彼も復活することができるし、世界のために死ねば、世界が復活する時、彼も復活するであろう。険しい道であればあるほど神様が一番信じる人を送ってくださった。これが神様の愛する人がたくさん犠牲になった理由である。

695 条件的蕩減条件において、人間が小さな価値の蕩減条件をもって蕩減するときには、残りの足りない条件に対しては神様が責任をもっているという事実を知らねばならない。そして神様はその残りの条件を立てる場合において時間が必要であるから、その条件を神様がすべて準備なさるまではその蕩減は全うされず延長されてきた。

696 人間的な蕩減は物質的に蕩減することができる。時が成就する前に物質をまいて善なることをすれば良い。

697 世界のため蕩減を受ける者は、世界が受ける恵みと自分が受ける恵みを合わせたものを受けるようになる。

698 蕩減はぶつかって戦わずにはなされない。

699 先生は蕩減復帰の道を行くのであり、皆さんは原理の道を行くのである。

700 「打たれて奪ってきなさい」。良くやったのにサタンが三度打つようになれば、その時からは神様が手をつけてくださる。

701 我々は祭物である。まず受け取られる神と贖罪を受けた万民が喜び、その後祭物が喜ぶ。

702 祭物は平和な立場において捧げるのではなく、常に第一線において捧げるのが原則である。

703 創建は祭物なくしてはあり得ない。再建は在るものをもってなすが、創造はないところから出発する。

704 祭物は罪を犯した人の負債を清算するためのものであるために、与える立場なのである。

705 物質をもって祭物を捧げることが旧約時代を蕩減するのであり、肉身をもって犠牲となることが新約時代を蕩減するのであり、心情をもって涙でみ旨を支えていくことが成約時代を復帰するのである。

706 統一教会に入ってきたのは福を受けようとするためではなく、全部取り出して麹をつくって世界に分け与えるためである。


三 従 順

707 命令に従順でありなさい。たとえその命令が正しくなくても従順であってみなさい。そうしたら、その命令を守ることによってその権限を代行するようになる。

708 神様が個人的な基準で命令したのにその命令を不履行したら、そのような人をおいていかに家庭的な基準で祝福ができようか。

709 絶対従順、絶対服従する場合には、自然と対象の立場に立つようになって相応するようになる。ねたみ、しっとなどは相克の立場を造成する。

710 忠臣と奸臣は本来同級の人物に属する。ただ忠臣は王様のみ意に従順であるが、奸臣は自分を立てようとする。忠臣は常に直線上を歩み、する仕事も始めと終わりが同じである。

711 心情からわきいずる心の前に頭を下げて、私をしてそのような心を呼び起こし、その方とそのみ言の前に申し訳ない心をもとう。

712 神様は歴史的な従順な者を探しておられる。それゆえ、命令に従順な者と、より大きい命令に待機する者になろう。

713 上の人の命令に頭を下げるのは普通である。しかし、子供の命令にも頭を下げて、恥ずかしがることを知らねばならない。

714 服従するのは主体と一つになって主体の栄光に参与するためである。

715 今まで神様は勧告はなさったが命令はなさらなかった。今は命令する時が来た。しかしその命令を受ける範囲はごく制限されるだろう。

716 成敗を決定する最後の方法は忠誠のみである。

717 忠誠を尽くす者は神様が絶対にそのまま踏み越えていくことができない。

718 最後の問題は知識や階級が問題でなく、神様が与えた環境を愛し、時を大事にする誠が問題である。柳寛順(注:韓国の独立運動を叫んだ少女の名)を見なさい。自慢する何ものもない。しかし民族が忠誠を尽くせないそのときに忠誠を尽くし、忠誠を尽くすことのできない環境におかれても忠誠を尽くしたために、民族の前に忠誠の指標として現れたのではないか。

719 忠誠する時代が過ぎれば最後に成敗を分ける祭物を捧げる時が来る。今日までの復帰歴史を担当していた聖賢たちは忠誠時代に失敗したのではなく、祭物時代に失敗したのである。

720 真なる喜びと栄光は一番悲しみ、一番哀痛し、また一番苦しんでいた立場から芽生え出てきたというのが真理である。我々の民族は一番悲しみ、一番哀痛し、また一番苦しんできた民族である。ここに希望がある。

721 国家の上下が一つの目的をつかんで涙で交流すれば滅びることがないのに、いわんや神様の涙と人間の涙が交流すれば人間が滅ぶはずがあろうか。どうせ終わりの日には悲しみの涙であれ、喜びの涙であれ、涙を流すようになっている。あなたはどの涙を流すのか。

722 天は忠誠と真心を尽くす人にはそれ以上で対してくださる。

723 誠を尽くした敬礼を先生はむやみには受けない。私の誠がそれより低ければかえって私が打たれる。

724 真実でなければ歴史に残れない。偽りなく与えなさい。イスラエル民族はカナン七族を滅ぼすときまでモーセに絶対服従しなければならない。終わりの日の皆さんも主様が一国の主権を立てて、その主権を通じて他国を復帰なさるまで絶対に服従しなければならない。

725 銀行に貯金をしておいてそれを再び出すにも手続きが必要であり、ややこしい順序がある。いわんや、既に死んだ生命を再び見いだす永生路程は、どれほど複雑であろうか。その手続きをすべて知らないがゆえ、また難しいゆえ、従順の道理が一番貴重であり、賢明である。

726 神様の前では冒険と忠誠と従順の三つの種類の人がいなければならない。この三つの中のうちの一種類にも属さずしては天国に入れない。

727 従順は誰もができるし、できなければならないのであるが、服従は誰もができるのではなく、服従を通して蕩減されるのである。

728 神様に対して不平を言うな。その不平は解くことのできない罪過となる。

729 あることで讒訴を受けるようになるときは、讒訴を受けたよりも、もっと大きい蕩減的な誠を尽くしなさい。


審 判

730 審判の基準は法の道理を立てて見せてあげてから審判する。審判は力でもってやるのではなく、血と汗と涙で神様の愛をもってやる。

731 審判は人を打とうとするのではなく、怨讐を打とうとするのであり、万物を解放しようとするのであり、また人を解放しようとするものである。

732 個人の審判は、物質、家族、心情をいかに解決したかにかかっている。

733 神様の前に審判を恐れるな。あなたが審判の使命を引き受けて責任をもって進む神様の代身者となることを願う。

734 審判をしなかったら、一番怨讐である人の子供が我々の側に来る。これよりもっと大きい審判がどこにあろうか。

735 イエス様は理念が異なった国籍をもった方である。イエス様の理念、言語、行動と同一であれば私も国籍が同じくなる。イエス様を信じ、体で投入し、その愛を実践せねばならない。

736 この世を貫けるほどの恨みがあるとしても、神様と因縁を結べなければ一代で終わってしまう。

737 善人が悪人を打って、その悪人が善人になったあとは、自分を打ってくれた人に無限に感謝する。しかし悪人が打つ場合には最後まで敵の立場になる。

738 神様が敵だと宣言なさる前に、あなたがどうして口を開いて怨讐視できようか。

739 あなたは死亡世界を切る剣となりなさい。

740 審判は罪人たちを全部地獄に押し込めるのではない。敵とサタンまでも復帰しようとするのである。

741 善と悪、神様とサタンは、方向が一八〇度異なる相克の世界である。ゆえに罪悪の世界で一番嫌がり悪口を言う所に行ってみなさい。そこに神様と神様のみ旨があるだろう。そして終わりの日に審判を免れる道も、サタン世界で一番良いものを捨てて、一番嫌がるものを取る者となればよい。

742 死の立場におかれても敵のため祈れたイエス様はどんなにか痛快だったろう。(征服した立場から)

743 神様が立ててくださる以前には安心せず、カイン・アベルの峠を少なくとも七つ越えなければならないことを忘れるな。

744 どんなとき、どんな瞬間に神様は私を中心として最後の結びを結ぶことを願うか分からない。人によって決定的な峠を越える時間はみんな異なる。

745 統一教会に入教してから死ぬまでのものはすべて審判を受ける資料となる。

746 過去が今日の善に符合しなければ、無慈悲に審判することができなければならない。

747 統一教会は過去の歴史を清算して未来の新しい歴史を創造するところである。

748 より打たれる者は残るし、より打った者は滅びる。

749 終末は収穫する秋の季節と同じである。各教団には数多くの種類の穀物が自分なりの価値でもって実を結んでいる。しかし、いくらよく熟れた穀物だとしても、主人のかまを握った手によって切られ、収穫されない物は秋の鳥たちのえじきになるしかない。ゆえにキリスト教は現在の立場で分かれ放題に分かれていく。それは穀物が訪ねるべき収穫の倉庫を見つけなければならない時だからである。

750 神様が六千年摂理なさったものを、種類を分けて納める収穫期が終末である。ゆえに私という個体はどのような実を結ぼうとしているかが問題である。

751 終わりの日に神様とイエス様の審判がある前に、聖徒たちによる審判が先に来る(コリントT六・三)。ゆえに聖徒の証が貴重であるので、私を証してくれる三人がなければならない。私を証してくれるものは、悲しみと苦痛と喜びをどの程度共に分かち合ったかどうかによって決められるのである。

752 創造時になかった審判をしようとするので神様はひとり子(イエス)から打ってその条件でもってサタンを打つ。そうすればサタンは讒訴できないのである。我々は神様の前に「イエス様を打ったように我々を打つことにより、サタンを打ってください」と祈らなければならない。そして霊界にいる霊人までもこれを見て、かえって地上の人間たちに対し慰めの心情が生まれるようにしたなら、霊人たちの悔しい恨みも解かれる。
  しかし神様は打ったあとは涙していることを知らねばならない。

753 原理の条件が讒訴しないように原理基準の上で生活しなさい。

754 許される者が許しを得て感謝するより、許されざる者が許されて感謝するのがもっと大きい。先生はすべてを全部復帰したあとにはサタンまでも許せる心情をもっている。

755 死ぬ時に後悔と未練を残すかどうかを心配しなさい。

756 宇宙的な善の種を蒔いて、再び結実の実体を探し出そうとする日が、我々信者たちの前に恐怖と苦痛の象徴として残されている審判の日である。

757 神様の怨恨、万物の怨恨、人類の怨恨までも皆さんが引き受け清算することができない以上は、末世において言うに言えないほどの恐怖と嘆きと怨恨の大審判を免れることはできない。

758 死ぬ時に後悔の条件を残さない皆さんとなるよう努力しなさい。

759 完全に至れば、過程にあるものを審判できる。

760 天理の公法の前にサタンを置いて審判しよう。

761 公的な世界観をもってこられたので創造主は審判をしなければならない。

762 私をして神様の心情を再び誘発させる中において審判が決定される。

763 統一教会の歴史は短いが、数千年経た歴史の内容を審判するのに不足がないようにならなければならない。

764 世界を救うために、世界の審判のその日を待ってくださいと言う我々にならなければならない。

765 何も知らずにみ旨の道を歩んだ人よりもっと優れた道を行かずには、審判のその日をつくることはできない。

766 審判をするとすれば統一教会を先に審判して、次にこの世を審判するのである。


天 国

767 天国は子女のような心情、夫婦のような心情、父母のような心情で因縁づけられた世界が、一つの家庭をなした社会である。

768 天国を探し求めていく秘訣は家庭を尋ね求めていくことである。父母に侍り、子女を連れて、ヨルダン川を渡って勝利の歌を歌おう。

769 今日まで天国に入ることを願った人は多かったが、天国を責任をもって建てようとする人はいなかった。我々は天国の理念をもって、食べたり着たり飲んだり、その何よりもその国を先に考えなければならない。

770 天国は家庭生活の拡大である。

771 天国は地獄を通過していく道。

772 天国は家庭復帰。すなわち、神様を中心とした夫婦をなして四位基台を復帰しなければ入ることができない。

773 韓国を神様の前に、世界を神様の前に返して、天におられる父を地上に迎え、共に住める天国をなさねばならない。

774 人を一番愛し、高め、大切にできる所が天国である。

775 理想社会は愛の理想が完成した世界であり、神様の愛の実体たちが情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。
  内なる人は完成すればみな同じである。

776 一つになろう。世の中にいるすべての父母、兄弟、子女を自分の実の父母、兄弟、子女として思えるならば彼は天国の門の鍵をもった者である。

777 本然の世界は条件を越えた自由の世界である。どうせ訪ねていかなければならないし、訪ねてこなければならないし、互いに会わなければならない因縁がある。笑顔で訪ねよう。

778 相克性を避けて、相応性をなしていこう。本然の世界は相応の世界である。相応性が最適の生活方法である。

779 天国生活は相談し報告する生活である。

780 他人同士が集まっても兄弟以上に愛さずには天国に入れない。神様を愛するごとく人を愛さねばならない。

781 天国は心情の世界である。我々は天国に行くためにイエス様を信じるのではなく、地獄の門を解放するためにイエス様を信じなければならない。

782 天国に行くとしても、自分のために行かずに、六千年間子女を失って天の宝座をサタンの暗黒権力に囲まれたまま、悲しみと孤独と苦痛を受けてこられた神様を慰めるため、私が天国に行かなければならないという心情をもって行かなければならない。

783 今日、キリスト教信徒たちは天国に行くことを願うが、自分が天国の民となって義務を果たそうとは思わない。

784 一生の間、神様のみ旨のためにいかに生活したかによって、天国における彼の座が決定する。ゆえに、天国に行くか行かないかは自分自身がよく分かる。食べたり、寝たり、好いたり、嫌ったり、行ったり、来たりするのを何のためにしたかによって天国に行くか行けないかが決定される。

785 七カ国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ天国に入れる。

786 家庭生活で、社会生活で、神様に侍る生活で、すなわち三つの面において、サタンから神様の子女であるという証拠を受けなければならない。そうしてこそ天国に入れる。

787 心情……侍義の中心
  事情……生活の中心
  希望……社会活動の中心

788 天国に行ける人よりも、天国を築ける人でなければならない。天国に行ける人は神様に頼ろうとする人であり、天国をなせる人は神様の頼りとなってあげようとする人である。

789 天国に行ける証明書は神様を愛することが御飯を食べることより、眠ることより、自分の子女を愛することより、それ以上にあったかどうかを見ればすぐ分かる。

790 神様は天国を建設するために、み言による真理復帰運動と生命による愛の復帰運動とを展開しておられるのである。

791 天国は人間のものであると同時に神様のものであるから、個人より宇宙に至るまで人間を通して天国の理念をこの地上に建設しない限り、神様のみ旨はなされないのである。

792 本然のエデンの園は神様が楽しまれる園であり、永遠なる生命の園であり、愛の園である。

793 完全な愛には距離がない。永遠なる世界を管理することのできる本質は愛である。

794 我々は天国を建設する材料とならなければならない。

795 理想世界は「ために生きる」世界である。

796 三千里(韓半島)山河に天国をつくっておいて「どうぞおいでください」と言える我々とならなければならない。

797 幸福は勝利的な心情の権限をもってこそ獲得することができる。

798 天国はあすからでなく、今の瞬間からである。

799 何ももっていなくても一番立派な人のように食べているということが幸福である。

800 相対的なものによって幸福を探そうとするな。自分を見いだすことがもっと重要なことである。

801 イエス様が「私の思いどおりではなく父のみ旨のとおりなさしめ給え」と言った孝子の基準を立てたあと、サタンに「あなたの前に屈服いたしました」と言われて天国に入ることができる。

802 天国は神様の愛を中心として一体となった夫婦と、その子女が共に入っていく所である。相対的な要件が符合されればされるほど幸福なのである。神様も一人では寂しいのである。

803 天国の内容を知っている人は多いけれど、天国に行ける人はそう多くはない。まず原理の条件が讒訴しない基準に立たねばならない。

804 生活をし、教育をして伝統を立てることによって天国に行ける。自分を中心としたみ旨であってはならない。

805 過去、現在、未来が完全に一致され得ること自体が理想である。

806 家庭的天国をなせなければ天国に入れない。全家庭を救える救世主と同じ立場に立たなければならない。

807 神様を中心としてすべてを分神殿とし、社会化させてこそ天国になる。個人から家庭、国家まで自由に往来できるところが天国である。

808 迫害時代に食口たちを愛していた心を平和な時代に維持できなければ、永遠なる天国生活はできない。

809 天国は家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は天国に入れない。

810 天国は悔い改めるところから始まる。歴史時代において身もだえしたノア、アブラハム、イエス以上の悲しみを自覚することが悔い改めることである。

811 善なる父母の真の愛を中心として、善なる子女と共に幸福に生きることのできる基台の上に家庭の幸福がつくられ、その上に氏族と民族と国家がなされたとき、初めて天国がつくられるのである。しかし今までの宗  教は、個人を追い求める宗教であった。

812 世界の人々が三代(過去、現在、未来)を経て自慢し得る存在とならなければ天国に入れない。

813 中心は人間ではなく神様であるゆえに、人間を中心とした理想世界は成就されない。

814 人間の頭を中心として理想世界がなされるのではなく、神様の愛を中心としてなされるのである。

815 天国は神様の愛が中心となっている所である。

816 み旨が動機とならなければならない。私が動機となっては天国は訪れない。

817 体と心が水平をなすとき、心の天国が成就されるのである。

818 愛の世界は上下を区別しない。

819 人を愛することが天国の起源である。

820 天国に行くために信じるのではない。天国をつくるために信じるのである。天国をつくる道は平坦な道ではなく犠牲の道である。

821 サタンに勝利しなければならない。我々は、サタンを神様の息子の立場に立って主管しなければならないので、サタンに勝利しなければ天国は成されない。

822 天国は愛の軌道に乗っていくのである。

823 人情と天情の合一点が幸福の出発点である。

824 良心は神様の最前線であり、天国の起源である。

825 天国に行く手続きは地においてなさなければならない。

826 見たい所は行きたい所であり、行きたい所はいたい所であり、いたい所は住みたい所である。

827 神様の心に記憶される人が地獄に行くだろうか。死してもみ旨をなそうとする人であればこそ天国に行ける。

828 個人の悲しみが全体世界の悲しみとして現れるときが理想世界である。














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