祝福家庭と理想天国
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二 み言・人格・心情について

み 言

一 み 言

829 神様のみ言は、創造の価値として現れねばならない。ゆえに、神様のみ言を宣布したあと、聞かなければ審判を受けるようになる。

830 み言は万民のもの。すべてを与えなさい。

831 み言が財産である。

832 み言がみ言として残っていてはならない。そのみ言が実践されることによって、初めて発展があり、世界の完全伝道が可能となる。

833 公的なみ言は、語る人にも責任があるし、聞く人にも責任がある。

834 生命の問題は、生命によってのみ解決する。み言に生命があるので伝えるときには、生命の火花が飛ぶ感じで叫びなさい。

835 み言を語るとき、歴史的な因縁を想像しながら、宇宙性を帯びて語りなさい。汗を流しても天宙復帰の心情で復活の汗を流さねばならない。

836 み言を伝えるとき、真心でもって受けたので、真心でもって与えなさい。私の心情に天の心情を加えて与えなければならない。

837 先生が語るみ言はたやすく語るようであるが、これを語るために解体してみたり、合わせてみたり、実験してみたりして、間違いないという結論が出たので、自信をもって叫ぶのである。それゆえに統一教会のみ言は「そうであるだろう」ではなく「そうである」と自信をもって語れるのである。

838 床に就くとき原理を抱いて休み、起きるとき原理を中心として起きなさい。今皆さんは原理を知ったとしても、原理の活用法は研究しなかった。原理を活用する人は原理的生活をする人である。

839 み言を心と頭だけで知るのではなく、体で分かって行いなさい。我々は、み言で武装された実体、すなわち、み言の原子爆弾とならねばならない。それゆえ爆発すべき目的地に行って不発弾となってはならない。

840 原理をどれほど知ったかが問題でなく、どのぐらい実践したかが問題である。

841 神様のみ旨を知って神様に代わって責任をもち、神様の歴史的な恨みを晴らさなければならない。

842 イエス様がみ言は、永遠に渇くことのない生命の泉だと言ったではなかったか。皆さんも単にみ言を供給してもらっただけ語る噴水のようにならず、み言の実体となって尽きることのない生命の泉を掘りなさい。

843 原理を中心として神様を中心として侍って進むときは、先生も責任をもってくださる。

844 いついかなるとき、生命を懸けてみ言を伝えたことがあるか。

845 世界復帰のため、我々のみ言が学問的、思想的な基準を中心として、具体化されねばならない。そうするためには、思想を中心として、世界の思想を克服し統一された一つの方向に導かなければならないし、教会を中心として多くの難題を解決しなければならない。

846 言葉は聞いて鑑定しなさい。始めと終わりが同じであるか。誰の利益のためにやって、誰によってなしたかによって鑑定しなさい。

847 言葉は縦的に広がらない。私を中心として横的に遠くまで広がっていくので、勝手に語ってはいけない。

848 言葉で全体に支障をきたせばそれは困る。

849 み言を頭だけで知らずに、心で感じ、行動に移さなければならない。

850 先生が語るみ言は全部遺言にして、残さなければならない。

851 み言と一体となりなさい。心がみ言と一体となって行動的な面へと進めば、必ず繁殖は始まる。

852 最高の善なる人格、最高の幸福の実体、最高の愛の実体をつくり得るみ言。

853 言葉を必要以上話すことによって、み言の意味を傷つける者となってはいけない。神様のみ言を先に語りたい心はもったとしても、神様のみ言を傷つけることはやめなさい。

854 豊かな史料をもちなさい。先生は歴史と共に闘って勝利した実談を語るのである。それゆえ、いつも実感がわき出るのではないか。

855 終わりの日は言葉一つで天と地が行ったり来たりする時である。アルファで始まった悪の歴史がオメガで終わる時であり、エデンの園で人間たちに聞こえた神側とサタン側の二種類の言葉が聞こえてくる時であるので、しっかりと分別して従わねばならない。

856 原理は神様に会える道を教えてくれたが、神様と共に生活することについては教えてくれなかった。ゆえに先生が必要なのである。

857 み言を通じた実体的な価値は、実践的な価値を要求している。

858 私の心にみ言が臨在することができると同時に、み言の実体であるイエスと聖霊が臨在することができ、み言の主体である神様が臨在することのできるその日が、摂理の目的が終結する日である。

859 万物は神様のみ言の象徴であり、地は我々の体の象徴であり、太陽は我々の心の象徴である。

860 み言と一つにならなくては、人格が形成されない。み言を実践しなくては、実体が現れない。

861 生命は愛がなくては生きていくことができない。

862 原理に添付されなければならないものは、統一教会の歴史と、その中に先生の歴史が入らなければならない。

863 病気になった人が、薬を飲まなければならないのは当然なことであるけれども、薬を嫌がるものである。医者の診察と投薬を有り難く思わなければならないにもかかわらず、堕落した人間は薬のような福音のみ言を等閑視している。

864 存在するものは蒔かれる時がある反面、収穫する時がある。収穫される時は、必ず結実を誓うようになり、新しく出発することができる動機的結実体になる。

865 いくら良いものをもっても、その価値を感じて効果が出るようにしなければ、何の関係もない。

866 貴いものをもちたいという人は、貴いものを愛することを知らなければならない。


二 法度(法律と制度)

867 原則を主張しなさい。原則は悪が永遠に主管することができない。

868 神様は今日まで闘ってこられたが無理な闘いはなさらなかった。天倫の法度を前に立たせた闘いであった。サタンに対して闘うことのできる法を悟りなさい。法に従わなければサタンも讒訴する。神様も認めることができない。

869 自分の前に天倫を先立たせていきなさい。そうでなければ倒れる。

870 自分を中心とするとかして天的法度に外れれば自然淘汰される。

871 怨讐は我々が直接打つ必要がない。天理原則に外れれば自然に滅ぶようになっている。

872 自分の前に理念を立てて、理念の前に天倫を立てなければならない。自分を天倫の前に立たせる者は、反逆者である。天倫を先頭に立てれば、サタンが天倫を打つことができないので、それが盾となるのである。

873 四数は三から生ずる。神様・アダム・エバ・子女を一直線にすれば三数であり、広げれば四数である。三数は一から生ずるが、その基本は三である。

874 三数の創造原則を立てる目的は円形を描くのと同じく、神様の実在の永遠性を立てるためである。

875 三数の縦が骨であり、横が肉である。

876 すべての真理は、天から探そうと努めないで地から探しなさい。すなわち、神様の真理は地上にある。さらに終わりの日には、み旨が地上になされるので地上で見つけなければならない。

877 奇跡というのは科学的な原理であるけれども、時間を短縮して一時に起こる現象である。

878 歴史的同時性から考察すれば、聖書の記者が各自異なるにもかかわらず、その方向性と目的が同一であるというのを見ても、神様の実在を否定することはできない。

879 歴史は偶然的に自然的にその方向性を取ってきたのではない。その背後に偉大な力が働いてその方向を決定してきたのである。

880 理念圏内に入ってくる神様は必要ない。人間の構想や論理でもって認めることのできる神様ではない。神様は有限なる人間の論理を超越しておられる無限なる存在である。


人 格

881 無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は千万の人によく用いられる材料となろう。

882 み言で理想を与え、人格で実践を示してあげ、心情で愛を与えなさい。

883 神様にも「あなたなしには生きられない」と言われるような人格者となりなさい。

884 完全なる人格者になれば生活自体が祈りである。多く祈って無限な霊力に接しなさい。これが原動力となって、生活する者とならねばならない。

885 自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても恥ずかしくない崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。

886 万民を抱いて与える者は、万民から受ける者である。

887 人を恥ずかしく思わせる私となって、神様に褒められる私となれば、相互関係において喜びでもって因縁づけられる。

888 み旨の前に変わることのない者となろう。神様は永遠に信ずることのできる不変の子女を探しておられる。

889 神様にとっては、きょうでなく、永遠を誇れる人、その一人が問題である。

890 心と体が一致した生活をしたとしても、それだけでは最善の生活とはいえない。それが、さらに神様のみ旨と一致してこそ善だといえる。

891 勝利的主管者になるためには、最高に悲惨な立場で勝利しなければならないし、それでありながらも、敵を愛することのできる寛大さをもたねばならない。

892 善なる人とは、神様のみ旨と一致した生活をする人をいう。すなわち、神様のみ旨の方向と人間生活の方向性が一致したとき、その生活は善として現れるのである。

893 我々の体は、聖地に代わり、我々の心は天に代わり、我々の心情は天の父に代わって、自分が位置した所を尊くしなければならない。

894 世界の人類を三種類に分類すれば、善の基準を標準として見るとき、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることができず、緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人の三者に分けることができる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。

895 人格者とは、自分のことを早く済ませて、他人のことをまず考える人のことをいうのである。

896 仕事をたくさんやって話が少なければ勝利し、仕事をやらないで話が多い人は失敗する。

897 熱い人、味のある人、必要な人、手本となる人、先犠後喜する人、情勢と使命を分別する人。

898 「神様を知ること」を生活の標語として、どこにおいても神様を探し、発見する生活をしなさい。

899 大木であるほど、各種の鳥が集まるように、糞をつけて歩いたとしても、内容を整えて歩めばよい。天地の拍子に合わせて快く踊れる素晴らしい人となりなさい。

900 体面を失うな。

901 先生は無一文である。しかし世界を驚かせようとする。先生に自慢があるとすればこれであろう。

902 私が食べて、寝て、なす一挙手一投足が何のためにあるかを常に考えなさい。

903 きのうを誇れる者、きょうを奪われない者、あすを待つ者。

904 人を判断するためには、三年以上研究しなさい。

905 百二十名の心に合わせることができて初めて、イエス様の家族の中に加わることができる。

906 天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ。これが私のスローガンである。神様の愛と生命と真理も自己主管の上で広げられていくようになる。

907 環境によって変わる葉となるな。

908 美しいものは単色ではない。多くの曲折をもってこそ人生は豊かになる。

909 み言より実体がもっと重要だと思って進みなさい。そして実体復帰運動に貢献しなさい。

910 人はこれからどうなるかが問題ではなく、私の心情・私の内的基準・私の主体的価値がどうなっているかが一番重要なのである。

911 自分が無限なる価値的基準の上で因縁を結んで立っていれば不変である。慌てたり性急な者は、大体相対的な価値や相対的になった目的のみを見つめているためである。

912 人間は神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ・しっと・驕慢のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。

913 私は私個人の所有物ではない。私は六千年歴史の結実体であるので、歴史的共同所有物なのである。

914 天も私の体、地も私の体、万民も私の体である。天と地と万民を私の体のごとく対することのできる人格がなければならない。

915 人より豊かな人生をもとうとすれば、人より豊かな(長い期間が過ぎても忘れられない)余韻をたくさんもたねばならない。

916 平坦な人生を歩もうと願うな。曲折が多い自然はかえって見るに美しいではないか。

917 人間は、まず必ず必要な人、いてもいなくてもいい人、いてはならない人とがある。

918 み旨の中で見物人となるな。祝いの席で不必要にうろうろする人は、全体に支障ばかりもたらす。

919 神様は私の生活を通して喜びを味わおうとして私を訪ねられた。

920 この世では、貧しかったら受けることを願うが、我々は貧しい中でも与えなければならない。

921 最後の勝利は、我々が一番貴重なものまでも無限に与え、無限に愛し、無限に犠牲になるところにある。今日アメリカが全世界を支配しようとすれば、自由陣営のみならず、その範囲を広げ、共産陣営にまで分け与えて屈服させなければならない。

922 この世を「コンパス」で測るごとく生きるな。

923 叱る前に、彼の立場に立って、彼よりは私がよくやるという自信をもつようになったとき、まず良い点を褒めてあげて叱りなさい。

924 我々は真理の開拓者であり、生命の開拓者であり、愛の開拓者である。ゆえに、私は新たに手に触ってみよう。この手を通して願いを果たそうとなさる神様がいらっしゃることを知ろう。私を通して、実体に触ってみたいし、兄弟を訪ねたいし、世界を救い出して、主管なさりたい神様がいらっしゃることを深く心に刻んで、目も鼻も耳も口も、全部私のものでなく神様のものであるという観念を徹底しよう。

925 天宙はあなたの材料。大きくて広いけれども、あなたの心の中に出入りする。

926 与えるべき時に受けようとすれば滅びてしまう。我々はもっているものがなくても与える心情で生活していこう。

927 我々は健康もお金もないが、他人を幸福にし、かつ善良にしよう。

928 神様は信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。

929 未来の私を誇れることと神様の前に立たなければならない未来の私を思いながら苦労をし、戦いなさい。

930 復活しなければならない私が残っていることを知って、未来に現れなければならない姿を重要視しなさい。

931 変わる善を中心としては一つの世界を成すことができない。中心は揺らがない。深いほど穏やかである。太平洋を見なさい。表面では嵐が起こり、波も立つが、深いところは静かである。それに学びなさい。

932 こまの中心は回るのか、回らないのか分からない地点である。この世がいかに混沌としようとも変わらない中心をもって生活していこう。

933 与えたものを覚えておくと、必ず返してもらいたいと思うようになる。与えながらも覚えまいと努めなさい。

934 天的な威信と体面と意地を立てようとしなければならない。

935 友人に与えると約束したものは必ず与えなさい。約束を破ることは、あなたの人格を損なうものである。

936 神様は無形の神様、アダム・エバは実体の神様。人間が完成したとしたら、神様の血と肉と心情をもった人となったであろう。最後の一番大きいものをもつ前には所有観念をもつな。

937 大きい器を準備しなさい。小さい器には早く水を入れることができるが、それからあふれ出る水は少ない。しかし、大きい器に水を入れるのは大変だが、黙ってあふれるときには莫大な水となる。

938 金の価値は、火の中に入れられても、その本質が変わらないところにある。人間の価値も同じである。もし苦労の道にぶつかって、その志が変質するとしたならば、人格者といえないだろう。

939 今日まで歴史はみ言を立ててきながら、実体を立てるための準備をなしてきた。しかし、我々は、み言と共に実体に対し、実体と共に心情の因縁を同時に結ぶことのできる環境圏内にいるので、歴史始まって以来一番恵まれた者だといえよう。

940 私が堂々と生きて堂々と最後を結ぶことは、ほかの何を得るよりも大きく、ほかの何を失うよりも貴いのである。

941 神様が求める人は無限に潤沢であり、無限に味のある人である。

942 ない中においてよく与える人なら、ありさえすればどれほどよく与えるだろうか。

943 私が因縁を結んでいく人には「マイナス」にならないようにしなければならない。

944 真理の神様として現れた聖霊、生命の神様として現れた聖子、愛の神様としておられる神様を遠い希望のところにおかないで、私の心を中心として引っ張ってこようとしなければならない。

945 柔和謙遜の高い価値の心の前に低い価値の人格がぶつかれば、壊されて吸収されるのである。

946 私が神様の性稟と型に合うためには、神様が悪人の心にも和合なされ得る高い価値の愛の本体であるので、私一個体もどのような悪人にも和合し得る人格を整えなければならない。

947 イエス様は麹であった。麹は和合の原料である。イエス様は神の愛を紹介しようとして来られた方であり、父の代わりになられる方であったので、サタンまでも愛して復帰しなければならない麹として来られた方である。
948 麹は和合の原料である。全体を溶かすことのできる麹となりなさい。

949 堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性および価値性を回復することである。

950 一言誤って三週間祈ったことがある。

951 善なる人とは犠牲になる人であり、愛を誘発させる人である。

952 円満な人とは、四方性が整った人のことである。

953 十年でなった木の実は、十年間の木の精髄が投入されたのである。

954 沃土は種が完全に生長することのできる土地である。沃土は自分のためにあるのではなく、種のためにある。

955 「言ってあげることがある」、「見せてあげることがある」、「残してあげることがある」と言えるようになれば、世界を主管することができる。
956 見せてあげることができ、自慢し得る者となろう。

957 神様が願う価値的な存在とは、永遠に共に語り、共に生き、共に行動したい人である。

958 人格の中心は、真理にあるのではなく心情にある。

959 心の闘いに勝利できない者は外敵との闘いに勝てない。

960 先生は、死んでも怨讐に対する敵対感情はもっていない。ゆえにみ旨は勝利する。

961 貴い宝物を預けることのできる人とならなければならない。

962 天宙が好む人となろう。

963 皆さんが歩んだ道に対して、あとについてくるすべての人々が頭を下げて礼をすることのできる道を残していかなければならない。

964 現れない生命力をもって、現せる私とならなければならない。

965 我々の目標は、堕落前のアダムに帰ることである。堕落前のアダムは、神様だけを知って恐れがなかったので、我々も神様だけに侍って恐れを知らない立場に帰らなければならない。

966 我々はどのような人とならなければならないのか。神様の代わりに生きる人とならなければならない。

967 み旨のために闘い倒れて死ねば、そこに香木を植えて、その香木を摘んで万民に向かって香をたいてあげられる人とならなければならない。

968 歴史的にいくら偉大な人を望んだとしても、現実に現れた一人の価値を知らなければならない。皆さんはなくてはならない一人として、このみ旨の道を出発した。主体性をもった現実的な自我を整えなければならない。個性真理体は宇宙史的な現実の焦点と同じである。

969 千遍万遍死んだとしても、神様が自慢することのできる息子、娘になろうとしなければならない。神様(天)を輝かせるのに、私が肥料になり土台になろうとしなければならない。

970 生命の源泉がどこにあるのか。自分がもっている価値を知らずにいて、それがほかの人の手に渡ったら、もったいなく思って痛哭する者となってはいけない。

971 先生が知っていることは、神様が私に同情せざるを得ないという事実だけである。

972 耳、目、口、鼻が整った顔が美しい顔ではなく、心と体が完全に良く和合された人が世界で最も美しい人である。

973 全体目的は個体目的を支配する。しかし個体目的を遂行しなければ立つ場がない。

974 一番高い頂上を占領しようとするのも良いけれど、深い谷間を占領して抱いていれば永遠なる主人となる。

975 仕事をしたあとでも、神様が自分に対してくれることを申し訳なく思わなければならない。

976 人格者は、見て聞いて行う人である。善を中心として見て聞いたことを行うことができないとき、悪主権内に立つしかない。生涯において善なる結果を残すことができなければ、これまた負債を負った者である。

977 サタンの讒訴条件に引っかかることがなくて初めて、神様は自分の息子として立てて命令することができる。

978 個人的な自慢の実績がなくては「我々」の自慢をすることができない。

979 物質を主管することができなければ、大きいことをなせない。最も窮地に追い込まれたとき、そこにおいて小さな物質が生涯の全人格を破綻させることが起こるものである。

980 愚かな者は姿形を見て喜び、知恵のある人は内容を見て喜ぶ。

981 不義を見てそのままにしておく者は良心家ではない。

982 すべてのものを最も貴く思える人は監獄にいる。

983 人間が無限なる人格の場を自分も知らずに望んでいるのは、主体的な立場におられる神様が無限なる人格の主体としておられるからである。

984 言葉で人格を評価するときは過ぎ去り、これからは愛でもって人格を評価するときである。

985 自慢は歴史的な自慢をしなさい。天道というのは見えない権威がある。人格者は歴史性をもっている。

986 恐ろしい人は神様を抱いて耐え忍ぶ人である。

987 信仰者は変わらぬ人格をもたねばならない。


心 情

988 心情の負債を負えば、その時から引っかかってしまう。神様が見るとき、同情せざるを得ない立場に立ちなさい。私一人が犠牲になっても、全体を生かそうとする心で神様に対しなさい。

989 真理のみ言は戸を開くもの、その次は心情で育ててあげなさい。

990 心情は願いであり、目的であり、事情は生活である。神様の心情を中心として、生活を展開していきなさい。

991 神様が訪ねてこられる心の土台を引き継いで進みなさい。神様は偽りで訪ねてこられるのではなく、骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄の心情をもって訪ねられる。私の血肉にも、このような心情が埋められていなければならない。このような原則的な基準に符合しない食口が多ければ多いほど、混乱を呼び起こす。

992 善なる人は、自然を見ても、人と会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。

993 神様が対することのできる新鮮で刺激的な味を匂わす心情的な材料を常に提示しなさい。

994 心情の世界には、発展がない。しかし何度反復しても嫌気のしない世界である。

995 心情を離れては生命がない。心情の谷間の道は苦痛で悲惨な道である。心情の谷間は、掘れば掘るほど涙であり、また自己はなくなってしまう。

996 神様は御自分がつくられた全地隅々までも訪ねたいと願われる。訪ねられるときは、子女が精誠の土台を築いて待っている所に行こうとなさる。ゆえに皆様は神様の子女として地の果てまで開拓して父を迎え入れなければならない。

997 これから神様の真の姿を知るように努めなさい。そして次には「お父様!」と叫ぶだけで痛哭する先生に学びなさい。

998 愛の主人公、心情の主人公として登場しなさい。いくら偉人が現れようとも人類の心情を征服できなければ失敗である。

999 堕落以後、摂理してこられた神様と因縁を結ぶのも重要であるが、堕落以前の神様と心情の因縁を結ぼうと努めるのがもっと重要である。

1000 知識の師を要求するより、心情の師を要求しなさい。

1001 先生が皆さんに対するのは、仕事の成果の問題を通してではなく、その心情的動機がいかなるかを見て対する。すなわち、自己中心的であるか、神様中心であるかが重要である。心情的基準が神様が立てたものと同じであれば、問題はすべて解決される。

1002 神様がいらして、私は彼によりつくられ、そして私は、神様と父子の因縁であるということを心と体で体恤するようになるとき、神様の心情を感じることができる。

1003 心情的な感覚をもってそれを実生活の中で骨髄にまで感じて生活する者でなければ堕落性を脱ぐことができない。

1004 神様の心情を中心として動いている人を批判してはならない。心情で武装された生活を大切に思いなさい。私より心情的な人は私のアベルである。

1005 み言や実践の時代には代わりがあり得る。しかし心情時代には代わりがあり得ない。

1006 み言の目的は実体であり、実体の目的は心情である。ゆえに、み言を伝えるとき、天の心情を伝えることにその目的をおかなければならないし、み言を聞く人もそのみ言を通して天の心情を知ろうと努めなければならない。

1007 終わりの日には宗教は心情宗教、哲学は心情哲学、主義は心情主義、思想は心情思想で各々解明されねばならない。

1008 心情世界と結ぶことのできる宗教は、神様が一番かわいそうな方であることを実感でもって教えてくれる宗教である。

1009 時が要求する心情の前に、先に立った者がその心情を失えば、遅く入ってきてもその心情基準となった者を呼び寄せて使うしかない。

1010 心情の王者とならなければ、権勢の王者にもなれない。

1011 恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。

1012 敬天、人和、愛地の内的な心情基準を揺り動かされない者が恵まれた者である。

1013 侍る生活を通して天にほれられる者は、いつも天が指導してくださる。このような子女は、天の心情の瞳である。

1014 愛は与えて忘れなさい。

1015 愛は作用すればするほど、大きくなるのである。それゆえに愛からのみ永遠が生ずるのである。

1016 善なる人の道は、克服していく生活である。

1017 人間が最高のことを願うのは、本来最高の神様と関係を結んで生きるようになっているためである。

1018 愛の前に高低はない。

1019 常に神様の前に慟哭してのどが詰まる時が多くなければならない。

1020 愛の根は神様にある。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛が完全に一つとなれば、その中央に神様が臨在なさる。

1021 願いの一致、事情の一致があってこそ、心情世界が始まる。心情の源泉となれる資料をもちなさい。

1022 神様の前に至誠を尽くすことは、人から聞いたり、学んだり、導かれたりしてなせることではない。自動的に心情がわき出るからするのである。ゆえに、忠、孝、烈は教えてできるものではない。

1023 皆さんは誠を尽くして、先生の世話にならずにかえって先生の世話をしてあげたいという心持ちをもって歩みなさい。

1024 与えることに飢えた者となろう。決して世話になるな。

1025 心情を蹂躙した罪は許すことができず、サタンもサタン視する。

1026 心情を中心として、その人格の前に屈服させることのできる人とならなければならない。

1027 神様がもっておられる心情と、先生が(神様に対して)もっている心情の間には、無窮なる差異があるのを知っているがゆえに、先生は行っても行っても新鮮で疲れることができない。

1028 人間の全性稟を吸収することのできる性稟とならなければならない。復活は愛の春の園で、全細胞が溶けてしまうのと同じような深い愛の因縁の中でなされる。

1029 神様の心情を誘発することの一番良い方法は誠を尽くすことである。三代が同じ心情で誠を尽くせば、神様が共に働いてくださって、その後孫が滅びることはない。

1030 自分の息子が死んだとしても、それによる自己のつらさよりも天の父の悲しみがいかばかりかと慰めてあげることのできる心情をもった者には、神様もどうすることもできない。

1031 父の願いだけが私の願いであり、父の事情だけが私の事情であり、父の心情だけが私の心情でなければならない。

1032 父母は子女たちに「あなたたちの兄さんを見習え」と言いたいのである。結局は心情問題である。

1033 心情は生命の源泉である。そのまま霊界に直結される。

1034 私はあなたたちと同じでないという心情をもたねばならない。

1035 イエス様が神様の切ない心情を身代わりして悲しんでいた、三倍以上の切ない心をもちなさい。

1036 神様の心情には、創造理想を失われた悲しみと、このみ旨をなすために預言者、聖人たちを送ってサタンと闘わせた歴史的な悲しみがある。

1037 神様の息子であるイエス様もこの地上で神様の心情に代わって生涯を捧げて闘い死んだので、私たちもイエス様に代わって証し、闘って死ぬ者となるべきである。

1038 母親を探し求める幼子の心情があれば、神様の道がいくら難しくとも行くことができる。

1039 アダム、エバが堕落するとき感じていた神様との悲しい心情的内縁を、凌駕してこそ喜びがあり得る。

1040 完全な愛は与えたことを記憶するのではなく、かえって恥ずかしいと思うものである。

1041 すべての問題を父の心情にかけて考えれば解けないものがない。

1042 相対基準という言葉は、心情を中心としていった言葉である。完成というのもすなわち心情の完成をいうのである。

1043 苦痛の事情を知らせたくなくて、悲しい姿を見せたくなくて、神様は伏してこられたのである。

1044 統一信徒がもつべき、たった一つの所有観念は、神様の心情である。

1045 この世のことは適当に越えていくことができるが、心情の世界ではそうはいかない。

1046 郷愁のような心情の歴史を整えておきなさい。

1047 愛の根本は、父子の情の縦的な愛と兄弟の情の横的な愛である。

1048 心情の境地においては、立派でない人はいないし、愚かな人はいない。

1049 心情の世界は時空を超越する。み言も祈りも究極には愛である。

1050 私よりももっと心情的に熱い人が主体である。

1051 食口として食口を知らなければ滅びる。

1052 先生は一日に三回以上涙を流した。涙でつづられた歴史であるゆえに涙で洗わなければならない。

1053 先生が受けた愛の基準を探し求めるために、眠ることもできずに身もだえしなければならない。

1054 心情の基盤がなければ不幸な者である。

1055 一番近ければあらを見いだすことができないのが鉄則である。ゆえに神様の一番近い存在となろう。

1056 悲しみに閉ざされた人を慰めることのできる人は、それ以上の悲しみを経験した人のみが可能である。

1057 内的には隠れて誰にも知られないように胸が詰まる痛さを感じながら、全体が同情し得る環境において、眠り目覚めることのできる生活の群れとならねばならない。

1058 先生は本部にいるが全国各地方をみな回ってみたいし、そればかりでなく全世界と天上までもみな回ってみたい心である。

1059 天地間に絡み合った心情を開拓することが、道の中の道を歩む人の道である。

1060 終末に処しているすべての人は最高の負債をもった者であり、孤独な者であり悲しい者である。これを解決する方法はただ心情だけである。

1061 すべての真という名詞は、心情を抜きにしては成立しない。真の孝子というのは心情を懸けて言う言葉である。

1062 涙を流したとしても、求めるための涙ではなく与えるための涙を流さなければならない。

1063 天が見せたいし地が誇りたいものは何であろうか。天地の心情的な因縁をもってつくられた「私」なのである。

1064 心情的な世界は平等である。天国は家庭の拡大であり兄弟愛の世界である。

1065 あなたと私と共に住みたいし共に語りたいし働きたい。これが神様の歴史的な心情である。

1066 国を愛したいと思えば人類を愛し、人類を愛したいと思えば神様を愛しなさい。

1067 私たちは理念と忠誠と行動で人類の心を征服せねばならない。

1068 心情的な基準を中心として、経済的な文化的な基準を整えなければならない。そうして世界的な主体性の公認を受けてこそ初めて理想世界がなされるのである。

1069 後孫たちが追慕することのできる源泉とならねばならない。残してあげるべきものは父の心情と、それを思慕する愛である。

1070 一番大きい山、川、地域を誇る国があるかもしれないが、それをつくられた神様の心情と一致しないで、サタンが喜ぶ心情であるとすれば神様が喜ばれるだろうか。

1071 統一教会は神様の愛の運勢に従わねばならない。

1072 天(神様)が前で引っ張っていくのではなく、真ん中におられなければならない。

1073 イエス様は悲惨な中においても、未来にまで広がるあふれるほどの希望があったので、十字架の峠を越えることができた。

1074 歴史的なすべての失敗を私の失敗として悔い改め、自ら従わなければ、歴史的な内情的心情を相続できない。

1075 いつ私が神様の仕事のためにふらふらになるほどの歩みをしたことがあるか、それが問題である。夫婦が年老いて一人の息子を生んだが死なせてしまった、そのような心情以上の思いが神様の心情である。

1076 先生は青少年期に既に願いの標準を立てて決心した。しかし、悲しいことにはアダムとエバがエデン時代に神様を父と呼べなかったように、先生も青少年時代に完成して、神様を父と呼べなかった。

1077 愛を受けなかったことを恨みとせずに、愛を授けられなかったことを恨みとしなければならない。

1078 因縁の世界を創建しよう。

1079 個人の涙は個人で終わるが、中心者の涙は歴史と共に全体に影響を及ぼす。

1080 主を愛していたよりももっと世界を愛する心がなければならない。

1081 愛を中心としては同等である。愛を中心として主管し主管される。愛は万人の希望の起点である。

1082 心情的に連結されている人が信ずる人より先に立つ。

1083 心情的な問題において専門家となりなさい。童心になって父母の胸に抱かれるような心情をつくってあげることができなければならない。

1084 出掛けてよくやることによって先生に褒められることが問題ではなく、内的な心情問題でいかに因縁を結ぶか、それが問題である。民族が誤っても責任は自分がもたねばならない。

1085 先生を神様が愛するのではなく、愛さざるを得ないようにやってきた。

1086 先生は千年後のことのために祈る。

1087 孝子は父母の前に最高の良いものを持ってきて差し上げながら、もっと良いものを差し上げることができないことを恥ずかしく思わなければならない。

1088 父母の前に二人の息子がいて弟が誤ってむちを受けるとき、兄が父母を止めればむちをやめるしかない。我々は兄のような立場に立って、人類に対するむちをやめさせるようにしなければならない。誤った弟をしかるのではなく、弟の分までやるからむちをやめてくださいと言えるようにならなければならない。

1089 先生は外的なことに関心をもつとすれば、皆さんは内的な先生に対して関心をもたねばならない。

1090 神様の息子になろうとすれば神様の心情に似なければならない。神様の心情は世界に植えられているゆえに、世界の人々を愛さねばならない。

1091 心情を占領する日には、体は自由には動けない。心情のままに動く。神様の心情を占領しよう。

1092 神様は万民を気が狂うほどに愛したい方であり、神様の息子は万民を狂ったように愛する人である。

1093 愛を中心として人類の祖先として来られた方がメシヤである。

1094 霊界は愛の世界であるゆえ、時空を超越する。

1095 「私よりもあなたの子女をもっと愛しなさい」という最期の遺言をする祖先が最高である。

1096 愛には盲目的な突破力がある。宗教は愛の道であるから生死を超越することができる。

1097 神様の念願成就は心情の世界においてなされる。

1098 サタンの讒訴条件に引っかかることがなくてこそ、神様は自分の息子として立てて命令することができる。

1099 この世で一番かわいそうな人は財産をもっていない人ではなく、妻と子をもっていない人である。そのために神様がかわいそうだというのは、愛することのできる対象をもてなかったことであり、愛することのできる子女をもてなかったことである。それが神様の悲しい事情であったゆえに、それを探し求めてきたのが神様であり、宗教の歴史である。

1100 神様は福を受けて分け与えることのできる人にこそ福を与える。今までの宗教人たちは自分のために福を受けようとしたために、いくら精誠を尽くしたとしても神様は福を与えなかった。

1101 女性は感性が豊かであるから神様を慰めることができる。女性から堕落が始まり恨みとなったゆえに、この恨みを女性たちが晴らしてあげなければならない。

1102 心情の基盤は家庭にある前に私になければならない。

1103 愛の根拠地は神様(天)である。神様から始まったのである。

1104 愛には克服と犠牲が伴っている。

1105 愛は新しい美をいっそう感ずることができるので、人の美しい美しくないは問題とならない。

1106 愛の主体であり、この上なく愛の豊かな神様がサタンを許すことができないのは、愛の怨讐だからである。

1107 生命よりも貴いものは愛である。なぜなら、愛なくして生命はあり得ないからである。

1108 主管は創造の権限をもたずにはできない。ところが、創造の権限は、権力や経済にあるのではなく、愛によって創造されているゆえに、世界は愛でもってのみ主管することができるのである。

1109 愛は統一の核心である。ゆえに愛によって統一することができる。

1110 イエス様は愛したという言葉を言うことができずに、かえって愛したかと問う立場に立った。愛そうとしても愛することのできない立場で逝かれた。

1111 怨讐だといってみんな悪いのではない。怨讐の立場から愛に回ってくるときには、かえって鑑になることがあり、学べる道がある。

1112 先生を愛する心があれば、三千万民族を握って先生の代わりに涙を流すことができなければならない。それが統一教会の食口たちが行くべき道である。

1113 勝利のその日を迎えて喜び賛美する人より、その日を迎えたら地に顔を伏せて痛哭するような群れを、神様はもっと探しておられる。

1114 子女たちが責任をなせずに死ぬことはあるだろうが、それを見て克服せねばならない神様がどれほどかわいそうであるかを知って、その悲しみを慰めてあげなければならない。

1115 心情は人を知るということだけでは感ずることができない。心情を知ろうとすれば共に愛し住んでみなければ分からない。

1116 父母の前における孝子の一言の反抗の言葉は、親不孝者の千の反抗の言葉よりも傷が大きい。

1117 神様の愛を現そうとしたのが人間創造の動機である。愛は知識を超越している。

1118 愛の場は同等であり、平等である。干渉を受けないものであるから素晴らしいのである。

1119 人間が無限なる愛を願うのは、神様の愛に到達しようとする本性の心があるからである。

1120 神様の悲しみを知って出発する立場は、たとえ倒れても死ぬことはない。

1121 聖書は神様の愛を紹介してくれるものとはなるけれど、それだけでは神様の愛を感じることはできない。神様の心情を知って体恤しなければならない。

1122 先に立った者として、あとの者のため、神様の前に「待ってください」と言える人が必要である。

1123 堕落した人間に神様が救いの綱を与えてくださることはできても、落ちた所まで直接行って引き上げることはできない。それゆえ、与えてくださった宗教の綱を捕まえて、自らの力を尽くしてぶら下がらなければならない。それが心情である。その心情がどれほど懇切であるかどうかによって距離が近くなる。

1124 神様の心情と、父母の心情と、個人の心情が一直線にならなければならない。

1125 宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命であり、生命の根本は愛であり、愛の根本は神様である。

1126 骨髄に染み込んだ情は法を越えることができる。
















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