祝福家庭と理想天国
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三 信仰について

教会・教会生活

一 教会・聖地

1127 教会は天国生活の訓練場である。

1128 教会に来たければ来なさい。そうでなければ食口に会いなさい。または他人を伝道しなさい。そうしなければ心霊が沈んでしまう。

1129 教会に入ってくれば心が切なくなる。それは、心の割礼を受けるからである。

1130 教会に訪ねてきた客を絶対に冷遇してはならない。

1131 三人以上は眠らないで教会を守りなさい。どんなときに、どんな命令が下るか誰も知らないからである。

1132 我々の教会は最高の栄光の立場にいる人と、最悪の立場で世界的な十字架を担う人がいる。ゆえに教会とは互いに敬い、互いに導き合うべき千態万象の人物が集った所である。

1133 統一教会に入ってくるときには歴史的な祖先の恵み(功労)をもって入るが、出るときにはもって入った恵みをおいて出てしまうことを知らねばならない。ゆえに最後まで残って天の祝福を受けて有終の美を飾りなさい。

1134 食口という名詞は時代が変わって世代が滅びてもなくならない名詞である。ゆえに真の食口とは国家的十字架のみならず、世界的な十字架を越えていかねばならない。ゆえに、現在、我々の教会で食口と呼ぶのは世界的な十字架を越えることを認めた上で呼ぶのである。

1135 教会を客観視するな。神様をほかの所において私が遠く離れた立場から眺めずに、その中に入っている心持ちをもちなさい。

1136 教会は我々の家であり、我々の本家である。本家が良くなるには分家がまず良くならなければならない。

1137 教会に朝早くから行きたい心が生じなければならない。
1138 我々食口は教会の看板であり、神様の看板である。礼拝時間はサタンの鎖を切って神様の世界に導いてくるための戦いの時間である。生命を復活させるために誠を尽くす深刻な時間であるので絶対に礼拝時間を破ってはいけない。礼拝時間に怠けると恵みを奪われてしまう。

1139 食口という名をもった者は、自分のものという所有観念を超えなければならない。すべてがお父様の名でなされなければならないし、父より再び分配を受けたそのような関係が結ばれなければならない。先生も私の体を自分のものとは考えない。ゆえに神の命令であれば何でもできるのである。

1140 集会のときには証と報告の時間をたくさんもちなさい。

1141 恵みがある所に行けば春の日のようである。新しい生命が芽生える時が春である。

1142 自分の生活をする前に教会の生活を考えなければならない。

1143 私一人を犠牲にして全体が生きることができるとすれば、誰もがその道を取ろうとしなければならない。そのような人が食口である。

1144 神様が勝利を認めて、勝利の栄光を万民に分け与えてあげることのできる統一教会の青年男女がいるか。

1145 三点が結び合ってこそ面積が生ずる。今は二点だけなので線にしかならない。今後は腰の紐をしっかり締めて決意しなさい。

1146 サタン勢力に支配されず、かえって押し出すことのできる主体的能力があってこそ、統一教会と関係を結ぶことができる。

1147 統一教会人となるためには、神様と先生の内情的な願いを相続しなければならない。

1148 教会生活において神様の公認を受けなければ、社会生活において神様のみ旨に代わる生活をすることはできない。

1149 本部は与える所であり、相手方は受ける所である。いまだに世界に食口が多くないのは本部の責任である。

1150 教会指導は手段方法でもってはできない。呼吸のような神様との生命が切れないようにしなければならない。根である本部と一つになりなさい。
1151 聖地は神様が訪ねてこられる中心の地。聖地は必ず買わなければならないし、そして売ることはできない地である。聖地にたびたび行きなさい。寝るのも聖地の近くで寝なさい。

1152 聖地は神様の子女たちの面会場所である。

1153 聖地は神様の保護を受ける地である。

1154 皆さんは死んだ肉体までも神様の聖地に埋めなければならない存在である。

1155 韓国で勝利した基準を世界まで因縁づけてあげなければならない。すなわち、韓国の子女によって全人類をアダム、エバの堕落直前まで昇格させてあげたので、ここに土地が必要なのである。これが世界に聖地を定めた理由である。

1156 聖地は三千里半島を縮小させたもの。

1157 聖地で所出される物は聖別しないで使える。

1158 聖地が自分のもっている土地より小さいときには讒訴を受ける。そして、聖地に対する我々の誠が、その村人全体がその地を大切にする誠よりもっと大きくなければならない。


二 生活指導

1159 指導者は食口に対するとき、関心と愛着をもって楽しく対しなさい。まず、自分自身がみ旨に酔っていてこそ相手の人に伝えられるのである。そして、食口に対する場合には恵みを高めるための貴い時間を失わず、時間観念を離れて最善を尽くしなさい。

1160 核心要員は夜を徹しても育ててあげなさい。このように三日間誠を尽くせばその人は一生涯忘れることのできない恵みの因縁を結ぶようになるだろう。

1161 人に対するとき、その長所を探し出して欠点をかばってあげれば人はついてくる。人の悪い面ばかりを見れば自分の心霊に損害を受ける。

1162 食口となれば、神様を中心とした生活の伝統と選民の伝統を確立しなければならない。
  @生活信条とその体系
  A先生の価値教育
  B先生との因縁
  C自己の存在位置

1163 指導者の生命は心情的にプラスになることである。千人の指導者は千人の心情よりプラスになっていなければならない。

1164 愛の溶鉱炉となれ。

1165 人を研究しよう。私のそばにいる人が怒るとき、眠るとき、最高に喜ぶとき、責任をもって活動するとき、結婚するとき、すべて良い材料を得られよう。

1166 教職者は十分の一の時間を天の前に捧げなければならない。その次には、自分の家庭を愛し、国を大切にしなければならない。自分の時間の三分の一は徹底して活動しなさい。そして少なくとも一日に二時間二十四分(十分の一日)は祈らなければならない。祈りの時間の三分の二は早朝やるのが良い。

1167 教会を導くには上と下の層の心だけ合わせれば全部引っ張られてくる。

1168 指導者の足りなさを補強して育ててあげなさい。指導者を批評する者はカインである。

1169 指導者の足りなさ、欠点を包み責任をもとうとする者はいつかはアベルの立場に立つようになる。

1170 たとえ実力がもっとあるとしても、真なる忠臣は君主を補佐してあげる者である。

1171 実力がないと言うな。実力がなければ実力者を兄のように侍って代わりに立てて活動舞台を提供してあげられる心情を整えなさい。社会で侍っている以上に侍ってあげ敬ってあげて、彼から第二の土台を築くようにしなさい。

1172 食口は肉、指導者は骨である。骨は現れないのである。肉はよくかばってあげなければならない。

1173 間違ったことを気づかせて打ちなさい。

1174 人を指導しようとする者は、その人よりもっと苦労しなさい。より祭物となりなさい。そして丁重で切ない心情で対しなさい。

1175 指導者は、その地方の祭司長である。眠りを減らしても恵みを祈ってあげなければならない。多くの生命を生かすために、祭物を扱わなければならないので、誠を尽くす苦労をしなければならない。祭礼は実体(指導者)と主人(神様)と祭物が一体となって神様が応答なさる。教会員(食口)が祭物ではなく、自分(指導者)が祭物である。

1176 罪を調べるときは秘密にやらなければならないが、罪を審判するときには公開してしなければならない。

1177 今はだらだらと生きる時ではない。心も体も環境も整理して訓練しなければならない。ねじをしっかりと締めておけば、それを解く者も、回せる者もいない。このようなときが必ず到来するだろう。

1178 我々食口はどこに行っても師の立場に立たずに友人の立場に立ちなさい。友人の立場に立ったとしても自分の価値を十分に発揮することができる。

1179 自分の代身者を立てるようになるときは、まず天の前に「父よ! 私自身がやらねばならないのでありますが、より大きい仕事をするために代身者が必要なのでありますから許してください」という心をもって人を使わなければならない。そして、自分の代身者であり、外的な自己であるので愛で接して、理解させ、一つとなって大切にしてあげながら使わなければならない。そして、別れるとき、涙を流してまた来たいという心をもつようにしなければならない。

1180 特別な集会があるときには「私の誓い(家庭盟誓)」を唱和すること。

1181 食口たちを多く動かせる指導者となりなさい。

1182 互いに是非を言い合うな。

1183 先生は誰が正しく、誰が間違っているかを全部知っている。先生の計画に従いなさい。

1184 教会が仕事をつくるのは自分を神様に接ぎ木してくれる機会である。

1185 感動の涙がなく、感謝することを知らない人は本部にいる資格がない。本部という所は天国建設の総本部であるので、万民にみ旨を中心として喜びを分け与えることができなければならない。

1186 神様が助けてあげなさいという以上に十倍、百倍助けてあげれば神様はその人に十倍、百倍の褒賞を与えるのである。

1187 多くの人間は知ってくれなくても、神様に、「あなただけは、私を知らないとは言えない」と言える者は最高の勝利者となるだろう。

1188 皆さんを修練するのは信者にしようとするためではなく、民族を救う愛国者にしようとするためである。

1189 誰からでも接するたびに新しく学ぶ者となりなさい。

1190 み旨の道を歩むときは、両側に父母をおいて侍るようにして共に行かなければならない。

1191 毎日毎日なされたこと、なしたことを父母に報告し喜ばせてあげようとするところに発展がある。

1192 誰でも本部に来るとき、供え物をもってこなければならない。供え物というのはほかでもなく、国を愛した実績のことである。

1193 皆さんの生活には、先生の生活があり愛がある。二人で合わせて蕩減条件を立てていかなければならない。

1194 報告を徹頭徹尾しなければならない。悪いことから先にしなければならない。

1195 生きている種とならねばならない。

1196 父母は子女が父母よりもっと善くなることを願う。子供は親に似なければならない。しかし先生は親として子供に似てみたいほどに愛する。

1197 生活的な屈服で環境的な屈服をさせなければならない。その次は人格に代わる言葉に注意しなければならない。

1198 過去は何かを探すために犠牲と悲しみの道を歩んだが、今は何かをもつためにその道を歩まなければならない。

1199 天下をくれても換えることのできない生活をしなければならない。理念的な生活をしなければならない。

1200 どうでもいいように生きるのはたやすいが、良心のため神様のため生きようとすれば倍以上難しい。

1201 私は名勝地に行っても、それが神様の運勢を中心としてどれぐらい価値があるかという立場に立ってそれを眺める。そして神様の運勢を中心として関係を結ぶようにする。

1202 自分が生まれた地を愛することを知る者は、自分の体を愛することを知る者である。自分の体を愛する人は自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は神様を愛する人である。

1203 私が稼いで、自分は飢えながらでもそれをその国の人々に与えたとしたら、それは大きな影響を与えるだろう。

1204 何かのことに成功するということは、常に思いと関心をもたずしてはあり得ない。

1205 自信のない人の勝利は偽りの勝利である。

1206 誰かが忠告したら、一〇〇パーセント受け入れなければならない。

1207 決心は良いのであるが、その決心が失敗に終わるときは決心が私を拘束する。

1208 統一教会人が世界に出たときに、現実的な面、生活的な面から我々が必要とされればよい。

1209 過去と未来が連結され得るきょうが何よりも貴重である。きょうこの時間に誇れる何かをもとうと思わなければならない。

1210 誰を中心として好きであったか、それが問題である。全体に因縁を結ばなければ、芽が出て葉が出て花が咲き実を結べない。環境を無視して自分の自慢ばかりするのは滅びることである。

1211 他人に世話をさせる者は病人である。与えるために涙を流す者にならなければならない。

1212 知恵のある人は摂理の時をわきまえていく人である。環境を主として生きるのではなく、時を主にして生きるのである。

1213 時を予言するよりも、その時を私の時として迎え入れる人が、知恵ある人であり世界的な人物になり得る。

1214 私はどのような姿、どのような場において神様に出会うか。これを常に考えなければならない。

1215 鏡を見て自分の顔を眺めるたびに「誰々さん! 君は出発してからずーっとそのまま歩んでいるのか」と尋ねてみなければならない。

1216 環境に引っ張られていかずに、環境を私が引っ張っていかなければならない。

1217 出発したからには、勇ましく最後まで行きなさい。

1218 人生の交差路をすべて打破して、直行道を走る皆さんはどれほど素晴らしく幸福であろうか。

1219 思わないところで因縁を結ぶことはできないし、因縁を結ばないところに関係があるはずがない。

1220 信仰の道を行く人は自慢せず傲慢にならないようにしなさい。

1221 宗家の家の息子や嫁を務めるとしたら楽することができるか。宗家の家の子孫にならねばならない。

1222 現実の我々の内容が世界の何よりも価値があるという自覚がなければならない。現在の無限の価値を感じない人は、未来の無限なる価値を相続することができない。

1223 必ず与えなければならない。先に受けて与えるのは借金を返すことであって与えることではない。僕に対しては自分が食べなくても食べたとして与えるのが主人の立場である。

1224 与えて早く忘れなさい。そうしてこそ天に保管される。

1225 共に歩むとしても、最も成功する人は一人である。皆さんの周囲でも数多くの人が競争している。

1226 生まれたからには負債を残さず、世界に何かを与えていかなければならない。子女に対して父母が残してあげればその子女は死ぬときまで感謝する。

1227 無意味に日々を過ごす者はどこにも必要でない。

1228 入教年限が多いほど摂理的な現実を直視することを知らねばならない。

1229 気持ちの悪いことがあっても、それ以上うれしいことをやれば、すべての気持ちの悪かったことを忘れることができるから救われる。

1230 喜んで会った機会が喜びとして残らないときは、かえって会わなかったことよりも悪い。

1231 願望が遠ければ遠いほど希望は大きく長い。希望が近いところにあれば、それはすぐに終わってしまう。

1232 三人のうち二人が率直であれば争いはない。率直でないそれ自体が審判の基準となる。なぜならば二人でひそひそ話をするのは自分たちとは何の関係もないが、その人が来ることを好まないからである。

1233 良い立場において十の愛をもった人よりも、悪い立場において十の愛をもった人を万民は追慕し敬う。

1234 人が善をつくるのではなく、善が人をつくらなければならない。

1235 生活の中において人に会ったとき、神様を中心として心が合わないときはその場を離れなければならない。環境の支配から逃れなさい。

1236 ヤコブは未来主義者であり、エサウは現実主義者である。

1237 知らない人のために知っている人が精誠を尽くしてあげなければならない。

1238 父母が子女の前で僕の道を歩むのは、子女が父母を分かってくれるときまでである。

1239 根が抜かれたら風のせいにしないで、根を深く張ることができなかったせいにしなさい。

1240 最高の喜びを感じることができ、最高の懐かしさを感じることができ、貴いことと浅ましいことを教えてくれる所は監獄だけである。だから監獄だといってすべて悪いのではない。

1241 監獄においては怨讐がなく友達にならない人もいないので、道(悟り、修道)の教育を受けるならば最高の教育を受けることのできる所である。

1242 生きている時に忠と孝を尽くしなさい。死んだあとに忠孝をすると言って立派な物を供えても、それはずるいことである。

1243 別れるとき寂しい涙を流した人々が再び会ったとき、それ以上に喜びの涙を流すことを知らない人は人間生活を知らない人である。

1244 先生と三代を共に生きれば天下にない功臣となる。

1245 指導をしてみ旨がなされたとしても、時を知らなければ人にすべてを奪われる。

1246 先生の生活の三大指標は、
  @宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい。
  A一つ一つ問うてから行動しなさい。
  B命令によって行動しなさい。

1247 人の居間に出入りしようとすれば、その家の主人か息子の友達にならなければならない。

1248 喜ばしいことがあったら見上げないで下の方を見なさい。

1249 悲しんでいる人は悲しみでもって蕩減して喜びを迎えるし、喜んでいる人は喜びでもって蕩減して悲しみの方へ行かなければならない。

1250 率直でありなさい! 率直な人は残される。率直な人は環境を継承することができる。

1251 神様をもって立つことのできる装置が心である。心は奪われることがない。心は自分だけが知るのである。

1252 審判官は、法を守りながら闘う人が勝つことを願う。そのような人には勝てる秘訣を教えてあげることができる。

1253 幸福な国のために生きようとすれば、不幸な国のために死ぬことを知らねばならない。


三 カイン・アベル

1254 カインはアベルを通さずに、み旨の道を歩むことができない。

1255 アベルになる内的基準は「天を愛すること」、そして「天の仕事を愛すること」、そして「その仕事のために祭物になること」である。それゆえに、私がアベルの立場にいたら他人が避ける嫌がること、難しいことを全部受けて担当しても、良いものは自分にくれてもくれなくてもいい、という態度をもつことができなければならない。

1256 アベルを立てた理由はカインを救うためである。カインを救うためには、神様から受けたその愛を全部与えると同時に自己の愛までも合わせて与えなければならない。

1257 生活する中においてカイン、アベルを分別しなさい。ぶつぶつ言えばカインである。アベルを中心として団結しなければならない。

1258 アベルがカインを屈服できなかったのが失敗である。三年間は子女の名分を立てるときであり、四年はエサウを屈服させるときである。ヤコブがヤボク川で天使と戦って勝利したように肉的勝利の基準を立てなければならない。そうしてアベルを中心とした地を訪ねて、民族を訪ね、父母に侍って第三イスラエルの祝福を受けなければならない。このような戦いにおいて脅かしたり、殴ってはいけない。アベルが殴る法度があるか。

1259 アベルを立てようとしたら、カインを立てざるを得なかった。カインを立てたのはアベルを立ててアベルを育てるためである。

1260 キリスト教人は内的なカイン、民族は外的なカイン。これからカインを屈服させる仕事を始めよう。

1261 ヤコブと同じようにあずきがゆの知恵を学びなさい。飢えて苦労しても彼らを大事にしなさい。ヤコブが二十一年間稼いだ財産を惜しんだならば、打たれて死んだであろう。私が生きれば子女が生き、僕が生き、物質が生きる。

1262 アベルと祭物は神様に捧げなければならないし、その祭物が受け入れられたあとには、それを父母でいらっしゃるアダム、エバに返さなければならない。すなわち、アベルと祭物はアダム、エバの解放のためのものである。

1263 ペテロ(信仰の使徒)=アダムの立場(カイン)
  ヤコブ(希望の使徒)=イエスの立場(アベル)
  ヨハネ(愛の使徒)=再臨主(セツ)

1264 ペテロはアダムが天地の法度をひっくり返したことを蕩減するために、逆さになって死んだのであり、ヨハネは再臨主の型であるので死んではいけない。

1265 この世はカインの世である。カインが喜んで捧げてこそアベルのものとなる。


信仰生活

1266 信仰生活は、いつも春の雰囲気をもった生活である。

1267 寝ること、起きること、行くこと、来ること、与えること、受けること、全部が神様と共に隔たりなく平和な思いでやりなさい。

1268 統一教会の食口として一番安全な生活方法は、前線ですべての十字架を負って越えていく道である。これが統一教会の信仰の正道である。この路程で孝子、忠臣、烈女が決定される。

1269 我々は、自己の位置、前後関係、カイン・アベルの原則に神経を使わねばならない。

1270 アベルは自分の心配も引き受けたが、人の心配まで引き受けた人であり、カインは自分の苦痛まで人に譲ろうという人である。

1271 アベルになろうとすれば、第一に神様の愛を受けなければならないし、神様と一つにならなければならない。このために神様の思想を身につけなければならないし、伝道地に行ってその思想を実践しなければならない。
  その次には神様の愛を見習ってカインを愛して屈服させなければならない。

1272 カイン・アベル復帰は、互いが自ら進んで苦労しようと言って、涙を流しながら天の前に立つなら問題はない。

1273 神様を中心として、切ない人がアベルである。より少なく寝て、より少なく食べて、より苦労する者には不平を言う者はないだろう。

1274 アベルになるためには、カインの前に三大試練と三大迫害を受けなければならない。

1275 「私」という観念を超越して、贖罪者の使命を果たして善の土台を築きなさい。私は個人であるが歴史的な心情の復活体である。

1276 恵みは動的なので静的な自己をつくって、大きな恵みを受け消化していきなさい。恵みを受けても、節度なくはしゃげばむなしくなり、全部こぼしてしまうようになる。

1277 神様の前に権能よりも知恵を求めなさい。

1278 霊的な役事をする瞬間を飛行機に乗った場合に例えれば、その行く方向(目的観)を正確にして、再び着陸できる基地(自己整備)がなければならない。

1279 立体的な生活に引っかからない人となりなさい。まず霊的な勝利の基台をなしておいて生活しなさい。

1280 信仰よりももっと大きい力はないだろう。なぜか? 神様も一番怖がってみ業をなさるゆえに……真実に信じる信仰は偽を真なるものに変える力をもっている。

1281 人が分かってくれないと言って怒るな。先生は「『苦難』が染み込んだこの地を掘り進んでいったあとに天の宝座の前に出るとき、分かってください」と天のお父様に祈る。

1282 堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。対してあげる価値を分かってもらえなければ、その人の恵みを奪ってくる。

1283 大きな願いをもった者であればあるほど長く忍耐する者である。

1284 恵みは生命の源泉である。

1285 目を覚ますときに見るもの考えること、すべてを神様と結びつけなさい。そうでなければ悔い改めなさい。最初の言葉を神様のために捧げなさい。

1286 悔い改める方法は、心ではなく体を打たなければならない。体を打つためには、体が嫌がる険しい道を行かなければならない。キリスト教は苦難の宗教である。険しい道を行くので、深くない宗教は全部折れてしまう。

1287 罪は歴史を占領してきているが、罪の拠点は人間の体である。肉の欲望を克服してこそ罪悪を退けられる。

1288 体を中心として占領されればサタン世界であり、心を中心として占領すれば天の側である。良心は神様が訪ねてこられる最前線である。

1289 平和と幸福の世界はあとに来るものである。まず、罪をなくしなさい。罪をなくさなければ平和と幸福の世界が追い出される。

1290 誰にもいかに小さなことでも、善なる言葉で気持ち良く接してあげなさい。十度やれば十人が私の味方になる。これが習慣になれば良い。そうすれば自分の信仰基準を失わないだろう。そうすることさえできれば祈りも必要なくなるのではないか。

1291 憂うつな表情をつくるな。常に心を明るくしなさい。平和な心、真実なる心で歩むとき真実と平和が始まるのである。聖書にある愛、恩恵、救いという言葉は実に恐ろしい言葉である。

1292 神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和相応のみがある。聖書に、平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう、というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。

1293 恵みがあれば自慢せずに収拾する祈りをしなさい。そして一時間祈ったら三時間は収拾する行動がなければならない。

1294 信仰の道は船(航海)の道と同じである。艪をこぐことを信仰生活にたとえることができる。やめれば直ちに後退するのである。悪の社会ではいかなる条件も信仰それ自体には直接的に助けとなり得ない逆境ばかりである。

1295 私をしかるのは私を相手にしているサタンをしかるのであるから、私も同一なる位置で私を打たなければならない。

1296 堕落性を脱ぐのは従順屈服に限る。人間が神様のみ言に従順屈服にしなかったこと、天使長がアダムに従順屈服しなかったことが罪悪歴史をなしてしまったので、これを蕩減復帰する道は従順屈服のみである。従順屈服は一番嫌なことからしなければならない。

1297 信仰生活が秤と同じであるならば、一日一日の生活は善なる重さを重ねてだんだん高めていく生活とならなければならない。

1298 あらん限りの誠を尽くして、誠の種を蒔けば実を結ぶ。誠を尽くしたものは征服することができない。誠を尽くしたものは誠を尽くした人のものである。誠の基台は決してサタンも奪うことができない。

1299 死ぬとき、最小限度、自分自らを嘲笑しないようにしなさい。

1300 実が実り始めれば花びらは落ちてしまう。同じように心の中に神性が成長すればすべての弱点は落ちてしまう。

1301 自分を主として、自分が動機となるときには五パーセントの責任が必要であり、神様を主として動機となるときには五パーセントの責任は必要ない。

1302 自分たちだけで話し合ってうまくやったとしても、それだけでは絶対に神様の前に出られない。報告と連絡で神様の前に通達され、認定されねばならない。常に神様を中心とした四位基台を造成して働き、生活しなさい。

1303 心の動くままに生活すれば八〇パーセントは当たる。

1304 切ない神様の事情を知る者なら悔い改める前に身をおく場所を失って、自分の足りなさに涙するであろうし、お父様と呼ぶ前に痛哭するだろう。

1305 いくら敵が現れても腹立たしく思うな。「君(敵)は悔しさをもって現れるが、私は生涯の路程の中に勝利の一ページを記録することのできる材料と思って神様に感謝する」という心をもちなさい。

1306 虚偽の仮面の中に自分を隠すな。サタンに攻撃される良いすきまを与えることになる。

1307 私一人においても、私を大切にしてくれる人、私の代わりに蕩減を受ける人、私に反対する人の三つに区分されるのを知らなければならない。

1308 一日の生活が善の側に傾いているかを常に反省しなさい。

1309 恵みは神様の宝座の前にあるのではなく、サタンの前にある。

1310 惨めな位置に落ちて、それ以上下がらなかったら転換する。極と極は遠いようであるが互いに通じる。サタンの後ろには神様がいらっしゃる。

1311 本心が動くとき、これはアベル(善)的であるので、その本心が喜ぶ方向を失わず進んでいきなさい。

1312 自嘆のうめきが聞こえる所がすなわち地獄である。

1313 私が神様を信ずる前に、私を信じてくださった内的な因縁があったので、私が信じたいのである。ゆえに、恐縮し申し訳なく思いながら、み旨に対し信じて、愛して、忠誠を尽くしなさい。もし、み旨を抱いて後悔する者があれば、その人は理想世界で存在基台を探し出せなくなる。

1314 本物の宝は心の中においておくものである。ゆえに、最高の貴い神様を心の中に迎えるのである。

1315 恵みというものは世界を救うために神様が与えてくださる恩徳である。ゆえに、自分だけのものとして考えてはならない。

1316 誠を尽くした以上は欲張るな。

1317 我々は聖地のために、聖殿のために、祝福家庭のために、父母のために誠を尽くそう。

1318 死ぬとしても信じて死に、滅びるとしても信じて滅びよう。

1319 得たものも失ったものも知らない者には、それ以上の勧告は必要ない。我々の歴史は感謝感激の涙を流すところからなされた。

1320 全体の前にプラスになる人とならねばならないし、またプラスになる生活をする人とならねばならない。

1321 善なることをしては絶対に覚えておかず、世話になったことは絶対に忘れるな。

1322 一緒にしようとする心、一緒に集まろうとする心、一緒に一つの方向を取ろうとする心、その心が貴重である。その心を天の前に捧げなければならない。

1323 恵みを与えたのに、それに対する誠を尽くせなければ、その恵みは全部奪われていく。

1324 積善というのは、他人に与えて忘れてしまうことである。自分は思わないが、自分のために祈ってくれる人を多くもてば、その人は絶対に滅びない。

1325 最高の権威意識に上がった個人や社会は滅びるのである。高いところでは下がってくる準備をしなければならない。

1326 皆さんは侍義により救いを受けるということをどのぐらい実感して生活しているか。

1327 信仰の道は生きて死の道を行くのである。

1328 人間は最高のものを願う。

1329 人に見せてあげて「あなたもそのようになりなさい」という意図で誇ることは良いことである。

1330 生死の問題を超越できる力の主体性をもったものが宗教である。

1331 天使長は神様から完全な愛を受けたことがなく、完成したアダム、エバからも完全な愛を受けたことがなかった。そのために、サタンは今まで神様に対して反抗しながらきたし神様もそのように接するしかなかった。敵を愛しなさいという理由がここにある。

1332 神様が完全に捨てるときには、サタンが取る。終わりの日、一番かわいそうな者は、主を信じて従い、主から審判を受ける聖徒たちである。新郎を信じて生きてきて、彼から捨てられた新婦がいかにかわいそうか。

1333 信仰生活は冒険の道である。他人のできないことをしてこそ、歴史的天の系図に残るのである。

1334 信じるということは限界がある。ゆえに、信じることは一体化したあとには必要のない名詞である。

1335 キリスト教信徒が多いと自慢するな。今日のキリスト教信者は、イエス様を乗せて天国に行こうとする者はなく、全部イエス様の背中に乗って天国へ行こうと思う欲張りたちである。

1336 未来的復活の価値を保有する者となるために努めなければならない。

1337 生活は結びつけないで、解きながら進みなさい。

1338 信仰生活は、他人が感得できない中で一人で感謝する生活、一人で満足する生活をしなければならない。そうでないときには、私は罪人であります。私に逃れ得る力を与えてください、と悲しみながら悔い改める立場に入らなければならない。この二つを全部失えば信仰生活をしていくことができない。

1339 新しい心をもちなさい。信仰はいつも楽しくなければならないし、感謝しなければならない。祈って喜んで常に愛がわきいずる心が新しい心である。

1340 信仰の目的は地上で死亡を踏んで立つことである。死に対する意識が少なければ、信仰生活を力強くできない。

1341 死の主人は誰であろうか。そして、生命の主人は誰であるか。世の人たちは普通、生命の主人は知らないと言う。しかし、我々は生命の真なる主人である神様を知って、侍って、死の主人を現実の中で探して征服しなければならない。そうして、死が占領した所を整理して、そこに生命の旗を立てなければならない。

1342 死ぬ瞬間に恨みを残すな。

1343 地上で三人以上の敵をもって死ねば天国に行けない。地上で全部解いて三日以上祈ってあげなければならない。

1344 死と闘って勝利する道を行くのが宗教人である。寝床に就くときにも、これが私にとって最後の病床に横たわる瞬間だとしたらどうするだろうか。そして、朝、目を覚ますときにも、これが私にとって霊界に入って初めて目覚めるときだとしたらどうするだろうか。皆さんは一時も死に対する問題をおろそかにしてはならない。

1345 死は本郷を訪ねていく道である。行く場合に際して何を贈り物として持っていくか。このようなことを一度考えれば寸分たりといえどもおろそかにできない。霊界に行って合格できる人をつくるのが、我々統一教会の教育目標である。

1346 天国に入るためには、最後の談判祈祷を三度はして越えていかねばならない。

1347 我々は「どのようにすれば死亡線の前に素晴らしい勝利の決定をなして越えていけるか」という問題についていつも祈らなければならない。父がいらっしゃる本郷に対してどのぐらい考えてみたのか。我々の原因がそこなのに……。堕落した人間たちは自分自身の永遠なる生命問題を雑巾ほどにも考えないのに、誰が自分を尊重してくれることか。

1348 すべての人は各自の心霊状態に該当する霊界に行ってとどまるようになる。霊界に行けば普通の人は十二の峠の試験を経なければならないし、功労の多い人でも三つの峠の試験を経なければならない。第一、霊界に行けば、地上で自分の一番敵であった者が現れる。第二、歴史的な敵であるサタンが現れて讒訴する。あなたの祖先であるノア、アブラハム、モーセ、イエスがこのように忠誠をし、先生がそんなにもみ言を教えてあげたのに、あなたはそのみ言と一つになって、そのとおりに実践したのか。第三、天使界の試験がある。
  我々の道理と法度はこうなっているのに、あなたはそのような忠臣の道理を立ててきたか。その次に、主の子女の峠を越えるためにイエス様と聖霊との問答があって、これを越えて完成である。

1349 恵みを受けた人がもっと渇いてたまらなくなるのは、体のない霊と同じようなものであるので、実績を立てなければならない。そうできないときには恵みは離れてしまう。

1350 恵みを回復することのできる道は、一度祈ったことを十度以上実践するところにある。

1351 信仰の道には、信仰の真なる友が必要である。互いが支えることができ、愛することができる、そのような美しい姿をもって周囲の人々がうらやましがるようになれば、神様のみ旨は自動的に繁殖されるのである。

1352 信仰者は常に新しい心が生じてこそ発展する。朝も新鮮だから良いのである。

1353 信仰生活は呼吸をするように常に平穏で、正常的でなければならない。そして、信仰生活をするにも、私はこれ以上下がらないという線を引いておいて人に対し、対社会的活動をしなければならない。

1354 神様を病を忘れるほど慕い思えば、病も治る。

1355 先に入ってきた人がカインになることもある。入って間もない人でも、恵みを受けた人ならば、彼を前に立てて時代的蕩減の役事を復帰させることがある。そうだとしても、先に入ってきた人は寂しく思ってはいけない。

1356 罪を治めることができ、自己を平和に保つことができ、サタンを自然屈服させることができてこそ、天の人となることができる。

1357 歴史を抱いて、宇宙を抱いて、涙を流し、汗を流し、血を流さなければならない。

1358 誠を尽くしておいて後悔するのは、愚かなことであり、天法に引っかかる。

1359 先生のために誠を尽くそうとするならば、まず、先生の愛する国と人類のため誠を尽くし、そして実績をもったあとに、先生のために誠を尽くしなさい。

1360 死ぬとき、神様の前に感謝し、このみ旨の前に感謝し、先生の前にみ旨をなさずに行くことを恐縮に思わなければならない。

1361 死に対する恐怖が来るのは、この世でやるべきことを果たせなかったためであり、すべて果たせば何の恐怖も来ない。

1362 礼拝の時間に遅れて出るときには、頭を上げることができないほど悔い改めの心情をもって出なさい。讒訴を避ける道は死ぬほど苦労するしかない。み旨のために死ぬと覚悟し、涙を流すのに対して、誰が讒訴しようか。

1363 皆さんは、み旨を中心として復帰の責任をもってどのぐらいの期間戦ってみたか。この道は先生に従っていこうともがくか、一線についていくために身もだえするか、いずれかがなかったら行けない道である。

1364 朝笑いながら「お父様!」と言って床から起き、夜にまた笑いながら「お父様!」と言って床に就きなさい。

1365 細密な部分まで父と相談しながら生きる息子が孝子である。父母の手を固く握っていかなければならない。

1366 自分を低く見、世の中のすべての罪悪は私によって生じていると思って、これに対して心配しながら痛哀する心をもって、すべての責任をまとめて背負うことができる人となろう。

1367 イエス様を信じることを知りながら、イエス様の心を知らないようであってはいけない。

1368 歴史を支配してきた人間の理念と、天的な理念を一致させるために出てきたのが宗教生活である。

1369 天倫的な創造の理念を生活的な面で実践させるため、六千年間神様は摂理してこられたのである。

1370 怨讐サタンまでも歓迎して恵みを祈ってあげなさいというのが、キリスト教の教えである。

1371 礼というのは前後左右が整っていることをいう。

1372 信仰者は恥ずかしさの涙と、感謝の涙と、喜びの涙のこの三大涙を流さなければならない。

1373 絶対的信仰は運命を革新することができる。

1374 いくら苦労をし実績をあげたとしても、父と共にしなければならないし、自分一人でやればサタンがもっていってしまう。

1375 侍ることによって救われる。それをどれぐらい実感したのか。

1376 家庭のために与え、国のために与え、世界のために与えなさい。

1377 信仰生活の目的は自己完成をなして無限なる愛を感じ、それで無限な幸福を享受しようとすることである。

1378 信仰生活は心情の世界において懐かしさを連結させることである。

1379 一度しかない生涯なのに、なぜ負債をもっていくのか。負債を負わせていかなければ7

1380 自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。

1381 罰を受ける人のために、呪わないで祈ってあげなさい。呪えばかえって呪われる。

1382 良心作用の目的は、神様の子女を完全な立場に到達させるためである。良心の安息所を探さなければならない。

1383 統一教会の食口は涙と汗の連結の中に生きなければならない。

1384 良心にすがって生きるのではなく、良心の土台を開発して生きよう。

1385 信仰の道は、立体的な世界だけを中心としては完成することができず、必ず相対的条件を備えて完成される。

1386 神様の前に近い場は極めて恐ろしい場である。

1387 「神様、あなただけは御存じでいらっしゃいます」と言える立場、これは人間の帰結点である。

1388 神様が人類を愛されたとしたら、どのような基準において愛されたのか。考えたことがあるか。

1389 信仰生活の基準はメシヤである。メシヤに似ることが信仰である。

1390 メシヤの受けた涙と痛哭の苦痛を引き受けるために、ゴルゴタについていく道が信仰の道である。

1391 皆さんは、六千年の血統的罪の結実体である。六千年罪悪史の展示品である。細胞には六千年の罪が入り交じっている。これをほどくために悔い改めが必要なのである。

1392 眠らず休まず祈ってゲッセマネの園を守る者となりなさい。

1393 私は死んだとしても一つの部分を残していかなければならない。死んだとしても私の髪の毛一本でも聖殿の近くに落とさせてくださいと言わなければならない。

1394 この地上を離れるとき、何をもっていくべきかが問題である。ただ一つの存在になるためには、すなわちもっていくものを備えなければならない。家庭においてただ一つの存在になるためには家庭の恵みを受け、国家においてただ一つの存在になれば国家の恵みを受ける。

1395 天が私をこのような立場に立たせてくださったのは、天の悲しみを払って買い入れたのであり、天の悲しみを払って交換したのであり、神様の悲しみを払って探し求めてこられたことを忘れてはならない。

1396 私を通して神様を慰めることができないのかと身もだえしなければならない。

1397 あることに当面したとき、それを自分のものとして解決せずに、神様であればどのように解決されるかを考えれば自然に答えが出てくる。

1398 東西洋の昼夜が異なることを考えてみた。皆寝てしまえばサタンが一時に占領するかもしれないから、寝る人を安らかに寝かせるため東西半球をつくったと思われるときもあった。

1399 統一教会に入ってくるときの喜び以上の喜びをもっていてこそ、今のあなたは、正常といえる。

1400 今あなたの心の中心がどこにあるのか! これが問題である。
1401 一週間節約し計画を立てて、食口たちが喜び得る何かを与える日が聖日である。

1402 信仰生活において力が出ないのは、神様の内的な臨在地を決定できないためである。神様の臨在地あるいは臨在点と一致しなければならない。中心に対する関心が宇宙より大きくあってみなさい。神様が離れると思うか。

1403 よく信じよう。よく信じようというのは、子女を愛し世界をよく愛そうということである。

1404 終わりの日の聖徒たちは、聖人たちができなかったことすべてを完成していかなければならない。

1405 率直であるという言葉はまっすぐに治めていくという言葉である。それゆえ率直な信仰者になるためには、心をまっすぐに治めていかなければならない。

1406 弁明することは私が目的とする道の前に何の助けにもならず、関係のない終着点に帰結される。十ぐらいの罪を犯したと見たとき、自分は百ぐらいの罪悪感をもってあえて神様の前に立つことができないというとき、神様は十ぐらいの忠誠として見てあげることができる。そのために信仰者は弁明する必要がなく、より率直でなければならない。

1407 開拓者は打ち寄せる試練と苦痛の前に不平を言わない。それゆえ信仰は人生の開拓であるから、信仰生活において不平を言う人は開拓者でもなく信仰する人でもない。

1408 希望があるところには発展がある。希望がなくなるときは、停止でなければ後退の一路にある。希望がないところには停止があるのであり、希望があるところには発展がある。それゆえ不幸と幸福は希望に左右される。あすの希望に向かって進む信仰者に希望がないとすれば、彼は極めて不幸である。それは言わば皮だけの信仰である。

1409 開拓者がぶつかるすべての事柄は思いがけないことであるから、深刻な立場において判断し分別することを身につけねばならない。

1410 神様が我々に霊的体験をさせるとき、神様が好むからそうするのではなく私をして絶対的な信仰をもたせるためにするのである。所望を連結してあげなければならないゆえに霊的な体験をさせてくださるのである。

1411 絶対的な信仰は自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。信仰生活というのは我々の心の生活だけにとどまるのではなく、その心に感じられた事実が相対的な環境にいかに適応するかどうか、これが重要なのである。

1412 知識は生を支配することはできない。ただ宗教のみが生を主管することができる。

1413 医者になるのは病人を救ってあげるためと同じように、私がイエス様を信じるのは、信じない人を天国に行かせるために信じるのである。

1414 自分のためにやることは良いことであると言う人はいない。他人のためにやるとき、良いことであるという言葉が成立する。

1415 神様の救援摂理は楽な人から救援するのではない。苦労する人から救援しなければならないので信仰者たちは苦労し、貧しく、飢えている人が多いのである。

1416 信仰の生活は私一身のための生活ではなく、売られていった僕の生活と同じである。なぜなら僕は僕の子として生まれたので、僕としての生活を経て初めて主人の認定を受け、その後主人の愛を受けるからである。

1417 信仰は道案内の役割をする。門の前までは案内してくれるが、それだけで部屋に入ることはできない。

1418 神様が行く道は開拓の道であり、信仰者はついていく道である。

1419 信仰の道は長い期間が必要なのではなく、一日が問題であると同時に、その一日の一時間が問題である。

1420 信仰はみ言を通じた神様と人間との契約である。

1421 信仰は飢えのある信仰をもたねばならない。そうして常に不足な姿を自認しながら歩んだら不平不満がない。そうすることによって、指導者が疲れていたら後ろから押してあげられる人になりなさい。

1422 木が枯れるとしても一時に枯れてしまうのではない。枯れるかどうか感覚しないうちにいつのまにか死亡へと押し出されていくのである。信仰も同じである。

1423 涙のない人は正統の信仰の道を歩む者ではない。悲しみの涙、申し訳ないという涙、感謝の涙を流さなければならない。これが心情の土台を開発するのである。

1424 信仰の道においては、頂上から引っ張ってくれる人がいなければ、そばにいて捕まえてくれる人、あるいは下にいて支えてくれる人がいなければならないゆえ、信仰の同志が必要である。

1425 引っ張られていくのではなく先頭に立っていこう。

1426 若いときから深い信仰の土台をもった人は幸福である。信仰生活において一度力をなくしてしまえば、再びその道において蘇生することができない。

1427 信仰の道は心の中で千回万回誓って立たねばならない。頂上の峰を突破するために材料を収集する期間が信仰生活である。

1428 信念を生活を通して実践することが信仰生活である。

1429 命令されたから歩むのではなく、私が自分から行くべき道を代わりに先生が命令してくださるので感謝しますと思わなければならない。

1430 信仰者は打撃を受けるな。打撃を受けるようなことがあったときは、私の時が来たのであると思って謙遜に受け入れなければならない。















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