祝福家庭と理想天国
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第二節 小羊の婚宴と最初の復活

  1、小羊の婚宴を通した神様の理想実現

 皆さんもご存じのとおり、神様は最初から地上に神様の王国を立てようとされたのです。すなわちアダムとエ

バを通じ、そのみ旨を成そうとされたのです。彼らが真実に神様の前に従っていたならば、そのとき、彼らは完成したはずですし、神様は完成した彼らを結婚させ、地上に最初の家庭をつくられたでしょう。この家庭は、地上に立てられた天の国のかしら石(礎石)となったでしょうし、アダムとエバは全人類の真の父、真の母になったでしょう。エデンの園はこのような天国の象徴的表現なのです。そして、この世界は神様に喜びを捧げる世界となったでしょう。

 しかし、最初のアダムとエバは失敗し、神様の理想は残されるようになりました。神様は本然の天国を立て、喜びの世界を完成しようとされたのです。ですから四千年後に神様は、もう一人の完成したアダムを通して地上に神様の国を回復しようとされました。イエス・キリストはその完成したアダムでした。

 コリントT一五章四五節にはイエス様を指して、後のアダムあるいは第二アダムという内容が記録されています。イエス様は二千年前に完成したアダムとして来て、失敗した最初のアダムの代身者の役割をされたのです。

 アダム一人の復帰では、天国は成就できなかったのです。新婦、すなわち一人の女性が必要であり、それはまた別のエバを選んだのです。そして神様は完成したアダムとして来られるイエス・キリストをして、彼の新婦、すなわち完成したエバを復帰するようにされました。そうなっていたなら、この家庭はエデンの園で失った最初のアダム家庭を復帰したでしょう。

 第二のアダムとエバの完成は、選民イスラエルの背信によって成就しませんでした。しかし、神様のみ旨は変わらないのでキリストの再臨を約束されたのです。

 イエス・キリストが亡くなられてから約二千年の時が流れました。すでに神様は第三アダムとしての息子を送る準備をしておられるのです。

 歴史路程を通して神様は、三次にわたる導きによって、目的を成就してこられました。三数は完成数なのです。今回こそは完成したアダムとエバを祝福しようと婚姻の宴を催され、地上天国の基礎を置かれることにより、長い長い歴史の目的を果たされるでしょう。

 このような終局的な最高の頂点が、黙示録に預言されています。これがすなわち「小羊の婚宴」です。再臨される主は、まさにその小羊であり、完成したアダムです。主は完成したアダムとして来られ、完成したエバを復帰されるでしょう。このとき、彼らは人類の最初の父母となり、神様の喜びも完全に成就するでしょう。(59)

 「小羊の婚宴」とは何かというと、神様が、愛と生命と理想の主体として完成した一人を、六千年前の罪のない父母の位置で祝福し、人類の前に善なる祖先として立てることです。

 人類の父母となられる無形の神様と実体の神様が一つとなって、息子や娘を生んでこそ、永遠なる霊をもつ実体の人が現れます。霊と実体が一つとなってこそ、息子や娘は永生できる霊をもって生まれるのです。

 霊的に父を呼ぶことができ、実体的に父を呼ぶことのできる息子・娘となるのです。

 このように神様とアダムとエバが永遠の生命と愛と理想を中心として、縦横において一つとなれなかったのを、人類の終末時代には必ず一つにしなければなりません。ですから霊的な神様と実体の真の父母が一つとなり、個人の霊肉はもちろん、天地が調和する場で子女の立場を復帰することにより、神様の愛を受けることのできる息子・娘の立場に帰るのです。

 罪のない父母から罪のない息子・娘、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない世界として統一しようとされた方がイエス様です。しかし、イスラエル民族の不信により十字架で亡くなられたため、主はもう一度来なければならないのです。ですから神様の愛と神様の生命と神様の理想を、個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、世界的に完成した世界となって初めて、この地上が天国になるのです。

 神様と主体、対象が完全に父子の関係としてみ旨の中で一致し、罪のない、聖別された、聖なる真の父母とともに真の子女、真の氏族、真の民族をつくり地上天国を建設することを願うのが、人間に対する神様の最大の願いです。したがって人間は、神様の永遠なる愛と生命と理想がどこにでも連結できる、地上天国をつくらなければならないのです。(60)

 キリスト教でいう「小羊の婚宴」とは何でしょうか。それは六千年前に神様が立てようとされた真の父母の姿を終末に再び立て、ここにもう一度兄弟の因縁と子女の因縁をつくろうとすることです。これが私たちの信じるイエス様の願いであり、私たちを導くため六千年間歴史とともに苦労してこられた神様の願いです。(61)

 アダムとエバが喜び神様が喜ばれる本然の世界を、悲惨な歴史の中から捜し出そうという救いの摂理が、すなわち「小羊の婚宴」の婚姻の場であったという事実を、皆さんははっきり知らなければなりません。(62)

 「捜し歩かれた父を慕い、父と呼べる息子・娘はどこに行ったのか」。そのような息子・娘を捜し出す日が願いの日であり、解怨の日です。その日を宗教の言い方を用いるならば「小羊の婚宴」と言います。(63)

 エデンの園で二人が神様と一つとなれず神様を裏切ったために僕となりました。ですから二人が完全に一つとなって初めて復帰が始まります。それが何かと言うと、「小羊の婚宴」です。聖書を見ると小羊の婚宴の日のことが出てきます。その小羊の婚宴の日というのは、二人が神様の愛を中心として初めて一つとなる、すなわち一つに結ばれる日です。またその日は永遠に祝すことのできる日なので、万民はその日を待ち望んできたのです。ですから、摂理の目的もそこに、人類の歴史もそこに、宗教の目的もそこに行って終結するのです。(64)

 統一は真の男性と真の女性が神様の公認を受ける立場に立ってこそ可能です。それがまさしく「小羊の婚宴」です。(65)


  2、小羊の婚宴の意義

 人間始祖の二人が神様と別れることによって天宙の宴が無残に崩れ去り、歴史を台なしにしてしまいました。これを再び収拾しようとすれば二人が一つにならなければなりませんが、彼らが結ばれるその日が小羊の婚宴の日です。イエス様が再臨して新婦を迎え、新郎新婦の婚宴を挙げる日なのです。六千年前に神様を中心とした真の始祖が生まれなければならなかったのに、そうできませんでした。それゆえ、小羊の婚宴の日は、六千年後に初めて、接ぎ木と同じように再びつないだ立場に立つことによって、神様が願った基準に向かって出発でき、人類が堕落した世界から本然の世界に復帰できる日なのです。(66)

 小羊の婚宴とは、神様が六千年前罪のない父母として、完成した一つの愛の実体として、生命と理想の主体として立てようとされた、そのような人を召して、人類の前に善なる祖先として立てることです。(67)

 聖書は神様のみ言です。神様は「わたしはアルパであり、オメガである」と言っています。創世記で成そうとしたみ旨を成せなかったために、黙示録に至って完成するというのです。堕落しなかったならば、そのままで、天国に行ける息子・娘を生むことのできる家庭を築いていたのです。その父母こそ真の父母です。神様と一つとなった真の家庭です。その息子・娘は神様の家庭の後孫です。これを再び黙示録に至って新郎新婦の名を立て、再び一つにしようというのです。その新郎とは完全な真の父の資格をもってこられる方であり、新婦とは神様が愛せる真の母として登場する方です。堕落しなければ神様を中心としてアダムとエバが結婚式を挙げたでしょうが、堕落によりサタンと結婚式を挙げたので、これを再び探し求め、神様を中心として聖婚式を挙げることが黙示録の小羊の婚宴であるということを、はっきりと知らなければなりません。(68)

 この地上の摂理の内容は、堕落したアダムやエバよりも素晴らしい男性と女性が現れることであり、メシヤ思想を中心として、再臨思想を通じて新郎新婦が互いに出会うことです。それが黙示録でいう小羊の婚宴です。イエス様の願いは真の父母となることです。父母の道を経て、万王の王となることです。(69)

 神様は人間の霊的真の父母であり、心の真の父母としておられ、霊と心を合わせた父母の立場に立ち、内的な父母(真の父母)を捜して相まみえる日を人類の前に予告されたのです。これがキリスト教のいう小羊の婚宴の日なのです。(70)

 皆さんは小羊の婚宴をどのように理解していますか。小羊の婚宴とは、堕落せずに迎えなければならない真の父母を失ったため、これを復帰することによって、六千年前に成就しなければならなかった、人類の願いである真の父母を迎えようとすることです。これが神様の摂理です。(71)

 神様はあらかじめ人類始祖のために小羊の婚宴を設けられました。しかし、このような小羊の婚宴は誰でもできるものではなく、直系の息子や娘でなければできないのです。ところがキリスト教徒たちは、小羊の婚宴を挙げる、新郎を迎えると言って、祈祷しています。逆さまになっています、逆さまに。人間が堕落したことにより真の父母を失い、直系の子女となれなかったということが分からないためです。(72)

 小羊の婚宴は、人類歴史上初めて人間が祝福を受けて、家庭的な願いの基準を立てることを意味します。これが六千年の歴史が探し求めてきたことです。小羊の婚宴を挙げる新郎新婦は、真の父母の使命をもって現れるのです。(73)

 キリスト教の中心は何でしょうか。イエス様です。新郎であるイエス様が新婦を迎えることです。これがまさしく小羊の婚宴です。この小羊の婚宴とはイエス様と聖霊である一人の女性が実体をもって結婚式を挙げることです。(74)

 イエス様は再臨という課題を残して逝きました。それゆえに今まで数千年のキリスト教の歴史は再臨理想に従い、イエス様が再び来られるその時を待ち望んできたのです。その時の中心は何でしょうか。それはキリスト教でいう小羊の婚宴と見ることができます。それでは、小羊の婚宴とは何でしょうか。漠然としています。それは、神様と人間の一致した愛が出発を決めるのです。人として見れば、男性と女性が一つとなるのです。この二人の人が一つに結ばれて、理想的な世界に向かって神様の愛を探し求めることのできる土台を準備しなくては、神様の愛を中心とした世界的な目的を達成できないのです。(75)

 個人的なメシヤでは世界を救うことができません。世界を救おうとすれば、家庭的なメシヤにならなければなりません。ですから聖霊を迎え、父と子と聖霊の理念を立てなければなりません。新郎新婦の名で家庭を立てるのです。このような家庭をつくるために霊的に基盤を築いてきたので、今実際にそのような日を迎えなければなりません。その日が小羊の婚宴の日です。すなわち、イエス様が婚宴を挙げる日が小羊の婚宴の日です。既成教会の信者たちははっきり知らなければなりません。(76)

 小羊の婚宴の日は黒人にも必要であり、白人にも必要であり、韓国人にも必要であり、若い人だけでなく人類すべてに必要な日であり、霊界の霊人たちにも必要な日です。霊人たちも終わりの日には父母に侍らずして天国に入れないために、彼らにも小羊の婚宴の日が必要なのです。天国は、父が自分の妻子と共に入る所です。天の法則はそのようになっているのです。(77)


  3、小羊の婚宴は地上で成される

 今後、世界で新しい歴史が進行し、天地が開闢する事件が起こるとしたらそれはどのような事件でしょうか。戦争によって世界が統一されるような事件ではなく、天地の大運勢により天の偉業を相続する男性の前に一人の女性が現れ、神様がその男性と女性に結婚式を挙げてくださるという事件です。その日は天地が開闢する日であり、キリスト教でいう小羊の婚宴の日です。これを人々は今日まで知りませんでした。

 堕落によって人類は偽りの父母の血統を伝えてきました。世間でいくら偉いといっても、大学の学長になって数多くの学生たちが「私たちの師」と頭を下げる人、「このくらいの姿勢ならいいだろう」と自分なりに資格をもったと自慢する人でも、根本を探ってみると、全部が詐欺工場で印刷した偽のレッテルです。このような言葉を聞けば気分が悪いのです。しかしどうすることもできません。このような言葉は国の公認を受けて言うものではありません。

 ですから救い主が現れなければならないのです。イエス様も完全な救い主となれなかったので新しい救い主が現れなければなりません。どんな救い主が現れるべきでしょうか。イエス様は霊的な救い主でした。しかしそれだけでは救いの目的は完全に達成できません。神様のひとり子となろうとするなら、相対がいなくてはなりません。したがって父母としての救い主が来なければなりません。堕落によって人間は偽りの父母の血統を受けて生まれたので、真の父母が来なければならないというのです。このような言葉をキリスト教徒が聞けば、また異端だと言うでしょう。(78)

 新郎が新婦を迎える、小羊の婚宴が開かれなければなりません。六千年前に神様がアダムとエバを中心として結婚式を挙げてくださろうとしましたが、彼らは悪人によって崩れてしまいました。それを再復帰して、初めて神様の立ち会いのもとで彼らを真の人類の父母に就かせる瞬間が、婚宴の時なのです。これがまさに再臨思想です。

 その父母は真のオリーブの木として来て、堕落した人間である野生のオリーブの木を切ってしまい、真のオリーブの木の枝を接ぎ木します。それによって、この世の野生のオリーブの木を、真のオリーブの木としてつくりかえ、地上天国を完成するのです。これが神様の創造目的ではないでしょうか。ところが雲に乗ってきてどんな千年の祝宴をするというのでしょうか。新郎となる主が来られたら、食べ物は何を差し上げ、衣服は何を差し上げるのか、準備もしないで婚宴をしようと考えるだけのキリスト教徒たち、本当に情けないことです。(79)

 神様の第一王子が新婦を伴って小羊の婚宴をしたあと、雲に乗って天に昇らなければならないのでしょうか。地上で暮らさなければならないのでしょうか。探し求めてきた方を見いだしたなら、その場で踊りも踊らなくてはならないし、見物も一度はするでしょう。なぜ来てすぐよく信じるキリスト教徒たちをみんな連れて昇っていき、空中婚宴をしますか。空中婚宴とは、どんな婚宴ですか。昇っていくとは、どこに昇っていくのですか。このごろは人工衛星に乗って昇っていけますが、結局また降りてこなければなりません。地球の周りを回るために昇っていくのであって、どこかに行くために昇っていくのではないでしょう。

 結局イエス様の目的は、新婦を得て家庭をもつことです。これを分からない人は、「統一教会に行ったところ、文先生という人が、イエス様は家庭をもたなければならないと言っている。聞いてみたら気分が悪い」と言うかもしれません。自分たちはたぶん一等新婦とか特等新婦になって雲に乗って天国に昇っていくだろうと思っているようですね。しかし、原則はそのようになっているのでどうしようもありません。(80)

 今日、キリスト教の信者たちが小羊の婚宴を願ってはいますが、この小羊の婚宴は、空中に昇っていって行う婚宴ではありません。アダムとエバが堕落して家庭的基準を失ったため、代表として完成したアダムが完成したエバと出会い、家庭をもつことが小羊の婚宴です。出産の苦痛を通じて救いが開かれます。堕落した父母の血肉を通して生まれたために、野生のオリーブの木を切り、真のオリーブの木に接ぎ木して、神様が主管できる真の実を結ばなければなりません。(81)


  4、宗教はなぜ、独身生活を強調してきたか

 真の父母が現れるとするなら、まず真の男性が現れなければならないはずです。今までの宗教は、真の男性一人を探してきたのです。完成した真の男性を探し出す前までの愛は、天倫の法度が許さないため、独身生活を主張するのです。高等宗教であるキリスト教が、なぜ独身生活をするのでしょうか。仏教もなぜ独身生活をするのでしょうか。

 完全な男性が現れ、完全な女性に出会い、愛の法度を立てられなかったのに、ふしだらな男性たちと、ふしだらな女性たちが結婚することを神様が承諾されるでしょうか。いまだに本来の結婚式もできないのに……。堕落した結婚式をしたことが、神様の怨讐の中の怨讐であり、悲しみの中の悲しみなのに、そのうえ、ここでまた反発をするのかというのです。それゆえ高等宗教は独身生活を強調するのです。

 それでは、いつまで独身生活をしなければならないのでしょうか。神様の愛の前に完全に一つとなることのできる完成した男性、真の男性が現れて、真の女性に出会う時までです。このようにして現れたのが、真の父母です。それでキリスト教思想は、再臨思想なのです。再臨主は人類の祖先となる真の父として来られる方です。(82)

 宗教が現れて、してきたことは何でしょうか。神様のパターンによって、理想的な一人の男性を再び探し出すための基準に従って、その基準と一体となる対象(真の母)の実体を慕い描いてみるために、数多くの宗教の教祖たちは努力してきましたが、いまだにできていません。そのために、再臨思想があるのです。男性を一人も探し出せませんでした。男性を探し出せないこの圏内では、父母が立つことはできません。それで、独身生活をするようになるのです。国家は必要ありません。国家も真の個人から成就するのです。家庭も必要ないのです。真の男性と真の女性によってつくられた家庭が必要なのです。まず必要なのは、真の男性と真の女性です。歴史上では、とうとう真の男性と真の女性のモデルを探し出せなかったのです。(83)

 今まで、結婚に関する天の伝統が公表されませんでした。それは、人間始祖が結婚できなかったためです。偽りの子孫として生まれたので、真の父母の血統の因縁を立てることができませんでした。イエスは、生まれてもいないようなおまえたちが、結婚とは何事かと言いました。そのため、すべての人に独身生活を強調しました。(84)

 イエス様は、二千年前に、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」、さらに、「自分の十字架を背負ってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」と話しました。

 イエス様は、一体全体どんな方だったのでしょうか。イエス様は愛の王者なのです。天国の愛の王者なので、愛の王者に仕えるには、サタン世界の汚い愛の場で転がり回った、そのままの体をもってはできません。それで、それ以上に愛さなくては、行く道がないのです。それゆえに天を探す道は、この世に属する愛以上の愛でなくてはならないのです。そのような内容があるために、道理の道を行くには独身生活をしなさいというのです。独身生活は、嫌々ながらやってはなりません。それを越えて立つことのできる、天とささやくそのような道を行きながら、独身生活をしたとしても、不幸を感じない生活をしなければなりません。そうではなく、不幸や不満を感じながら、合わない独身生活をするようになれば、死んだ後には、地獄の中でも最も悪い所へ行くのです。(85)

 皆さん、ここに家庭をもった方もいますが、その家庭は誰の保護のもとにつくられた家庭でしょうか。ある人は、「私が今日住んでいる所がこれくらいなら、良心的であり、私は社会的に言っても、誰にも負けない人物である。だからどこへ行っても良心の呵責を受けず、やましくもなく、自信がある」と考えるかもしれません。しかし、その根本を暴いてみれば、人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内で解かれずにいます。それなのに、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を得ることができますか。それで宗教では、独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子や娘をたくさん生みましたが、独身生活をしなければなりません。

 これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているのです。皆さんがご存じのように、仏教もカトリックもそうです。なぜそうなのか知っていますか。神様に近づいていくために、そのように教えてくださったのです。人類の真の祖先となるべきだった人たちが、まだ結婚式を挙げられずにいるのです。それなのにどうして生まれてもいないような立場にいる人間たちが、結婚式をするのですか。堕落した後孫から生まれた息子や娘は、すべて救いの手にあずかって復帰の道を行かなければならないのです。(86)

 愛の理想をもっている天は、仕方なく歴史的に宗教を立て、独身生活を強調してきました。夫婦が真の愛に従って、天の基準の前に立つことができればいいのですが、間違えて天の愛を失ってしまう心配があったので、(もし可能なら)一人だけでも天の前に愛を受けることができるように、独身生活の原則を立てたのです。(87)

 カトリックの神父や修道女、仏教の尼僧はどのようになるでしょうか。これが問題でないはずはありません。では、その宗教が志向している目的が、間違ったのでしょうか。間違ったとすれば、その宗教が今まで苦労してきた基台や、その宗教の背後で役事してきた神様自体も、すべて否定されるようになるのです。歴史上にそのような現象が現れたのは、将来的に真の家庭が現れなければならないので、その家庭を迎えるための準備なのです。

 それでは、なぜ仏教とカトリックでは、独身を強調したのでしょうか。それが、完全に人間の幸福の基台だと言えますか。いいえ。この地上のいかなる宗教も幸福の基盤が何かを示せず、家庭の基台を中心とする計画もなく、そのような家庭自体も現れなかったのです。しかし、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知っていたために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ人間たちは純潔な正しい家庭を建設することができるのです。(88)

 昔は、道を極める上で、結婚は許されませんでした。それはなぜでしょうか。父母がいまだに祝宴を挙げていないのに、僕でありながら祝宴を挙げることができますか。そのために、結婚は許されなかったのです。(89)

 天使長というのは、どんな存在でしょうか。天使長には、結婚が許されませんでした。皆さんが聖書を見れば、「一人の女性が七人の兄弟を夫として生活し、死んだ後、来世で復活する際に、その七人の夫の中で、誰の妻になるのでしょうか」と、サドカイ派の人たちがイエスに質問したとき、イエス様は、「霊界では、めとったり、とついだりすることはない」と言われました。なぜ、そんな言葉を語ったのかというと、天使長圏復帰の時代であったため、そう言わざるを得なかったのです。まだ結婚相手をもてないのが天使長圏です。天使長の使命圏内に立っているので、結婚相手を見つけてあげることができないのが、宗教の道でした。高等宗教であるほど独身生活を強調した理由が、ここにあるということを皆さんは知らなければなりません。(90)

 原理から見るとき、世の中の男性は天使長の後孫であるため、結婚する資格がありません。そのため、独身生活をしなさいと言うのです。いまだに、本然の父母が結婚できないのに、ふしだらで、下水の水たまりに入っていった人たちが自分勝手に愛せますか。その愛は非法です。そのため高等宗教は、独身生活を強調したのです。(91)

 天使には相対などいません。それでいまだに、(天使長的立場の)宗教では独身生活をするのです。本来は、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。事実キリスト教会の牧師たちはすべて不合格者です。(92)

 女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しいですか、妖しくはないですか。女性は今まで罰を受けましたか、恵みを受けましたか。「罰を受けました」。妖しいものだから、罰を受けたのです。今まで女性たちがなぜ苦労してきたのかというと、夫が自分の本当の夫でないために苦労をしたのです。分かりますか。男性たちは天使長型です。本来男性たちは新婦を迎えるようにはなっていません。そのため、レベルの高い宗教であるほど、独身生活を強調するのです。

 男性は天使長型です。本来、天使長には、相対が許されていませんでした。それにもかかわらず、その時非原理的に愛したのです。ですから、天使長が女性の夫ではありません。天使長は、自分の妻でないのに自分勝手に蹂躙したのです。そのため女性は、本当の夫でない天使長に不当な扱いを受けるようになったのです。そのようになったのです。(93)

 今日まで宗教が追い求めてきたのは、相対に対する不可侵圏でした。ですからすべての宗教が独身生活を強調してきたのです。家庭的相対理想は、先生によって初めて宣布された祝福です。(94)


  5、最初の復活にあずかる者

 ヨハネの黙示録一四章一節を見ると、「小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」と記録されています。すなわち、父の選びを受ける子女となるためには、小羊の名前だけではなく、父の名前までもっていなければならないのです。

 それでは、その十四万四千名に入っていく者は誰でしょうか。イエス様の印だけをもっていても無理です。皆さんは新郎となられるイエス様が新婦と呼んでくださっても、父が祝福してくださらなければならないのです。したがって、皆さんは、神様が手を取って、「この人はエデンの園で堕落しない永遠なる人類の主人公」と祝され得る人となって初めて、十四万四千の群れに加わることができるのです。(95)

 今日、サタンが主管している世界に、キリスト教徒がどれほどいますか。このキリスト教徒たちはすべて、主が来られる時最初の復活にあずかるべきですが、最初の復活がそれほどたやすいことですか。それも分からずに、どのように復活するのですか。彼らの中の何パーセントが復活しますか。その人たちだけ残しておいて、世界人類をすべて一掃しますか。そのような雲をつかむような信仰をもっては、絶対にいけません。地を救わなければなりません。地を救わなければならないのです。そのためには、まず地上で個人をサタン世界の中から完全に救い出さなければなりません。家庭も地上で完全に救わなければなりません。天の氏族、民族、さらに国家を地上で救わなければなりません。空中ではないのです。地上で救うべきなのです。堕落する時も、空中で失ったのではありません。地で失ったのです。復帰というのは、失ったものを取り戻すことを言います。失ったものは、失った所で捜すべきでしょう。地で失ったのですから、地で取り戻さなければなりません。

 実体を使って、体と心をもった人間が堕落をしました。それで、人間を中心として、サタンを完全に否認し、天の側に立って、神様の愛を受けることのできる息子・娘の立場にいたアダムとエバの代身者とならなければなりません。そのような人をサタンは支配することができません。サタンを支配するのです。サタンは本来天使長でした。天使長は、人間に支配を受けるようになっています。私たちは、そのような基準を取り戻していくのです。(96)

 今日、キリスト教徒と同じく、聖書をそのように信じてはいけません。また彼らが信じているとおりになるとすれば、人類の前に希望の神様となり得ません。万民が審判を受け、キリスト教徒十四万四千の群れだけが救いを受けること、それは利己主義の中でも並の利己主義ではありません。(97)

 今日、キリスト教徒たちが言う、十四万四千の群れ、天の印を受けた息子・娘、その言葉はいいけれど、解怨復帰の条件を造成し、天倫の摂理を代行する天の息子・娘は、彼らの言葉どおりでしょうか。知ってみるに、天が印を押せる息子・娘は、天の代わりに地に対し泣くことのできる心情をもっていなければなりません。(98)

 イエス様は神様の祝福圏内で過ごせる、一つの新郎新婦の理念を慕い希望されました。そして、神様の祝福を成就しえる小羊の婚宴を中心として、十四万四千の群れを抱き、息子(イエス様)と一緒に歓喜の歌と栄光を父の前に帰することを願われました。これが、イエス様の切なる願いだったのです。(99)

 今日、キリスト教徒たちが小羊の婚宴に来て第一次の復活にあずかろうとすれば、礼服を準備しなければなりません。礼服を準備するためには、精誠と忍耐が必要です。あらんかぎりの精誠を尽くさなければなりません。目で見る視線も精誠を尽くした視線で、鼻でにおいをかぐことも精誠を尽くし、聞くことも精誠を尽くし、そして肉身で感じるすべての感覚も精誠を尽くさなければならないのです。このように、精誠の関門を通過して、心が、精誠を尽くした体の前に感謝すると言うことのできる自身にならなければ、神様に仕えられないのが原理原則です。(100)

 これから、真の息子・娘が尽くさなければならない精誠は何でしょうか。現実的な生活舞台での精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍ることの精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を越えていってのみ、天国が私の天国となり、天国の父が私の父となることができるのです。今までの精誠は蕩減途上での精誠でしたが、これからの精誠は天に仕えるための精誠でなくてはならず、仕える位置にあずかるための精誠でなければなりません。ここに同参する群れは、最初の復活にあずかる人たちなのです。(101)

 最初の復活にあずかることのできる資格を備えた人たちは、どんな人たちでしょうか。祝福の門を通過した人たちです。それで八十歳の老人たちも返り咲かなければなりません。変に聞こえるかも知れませんが、おばあさん、おじいさんも、また直接嫁いだり、めとったりしなければならないのです。なぜなら、第三イスラエル国家を形成するためには、また第三イスラエル国家の国民となるためには、祝福の門を通らなければならないからです。

 この過程を通過しようとしながら亡くなられたイエス様の希望が何か分かりますか。すると、それはイエス様一人だけの希望ですか。違います。それは、私たちすべての希望でもあります。また、神様の希望でもあります。それは小羊の婚宴です。神様の息子・娘に生まれて成長し、天地の間に初めて神様の希望を立て、個性を完成した一男一女となった後に、神様が「私の懐で永遠無限に生きなさい」とおっしゃりつつ結婚させてくださることが、小羊の婚宴です。皆さんはこれを知らなければなりません。(102)















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