祝福家庭と理想天国
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第四節 祝福を受けるための蕩減条件

  1、復活と蕩減条件

 堕落した世界では、いかなることにも、そこに蕩減条件を立てなければならない内容があります。蕩減条件を立てることは、自分が復活するために祭物を捧げるのと同じです。ですから、蕩減条件はありがたいものです。(185)

 復帰の道は人間が原状に戻る道なので、蕩減条件を立てなくては行くことができません。蕩減条件は神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければならないのです。

 病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲むのが嫌でも、飲まなければなりません。良い薬は苦いのです。苦いのが本当の薬になるというのです。蕩減条件を立てることは、苦い薬を飲むように難しいのです。しかし蕩減条件を立てなければ、復帰され得ません。(186)

 堕落した私たち人間は、神様を中心とした直系の血縁関係をもって生まれることができませんでした。ゆえにこれを否定し、神様と新しい因縁を結んで本然の位置に戻らなければ、祝福の場に出ることができないのです。言い換えれば、私たちは堕落した死亡の世界で生まれたので、神様を中心とした生命の世界に帰っていくためには、復活しなければならないのです。もう一度、新しく生まれなければならないというのです。

 ここで生まれて、生まれたことだけで終わるのではなく、私たちが成長し得る過程を経なければなりません。それを経るためには、諸般の蕩減条件を立てていかなければならないのです。諸般の蕩減条件を立てていくに当たっては、個人的な使命のみならず、国家的な使命と世界的な使命も合わせて責任を負っていかなければなりません。このような責任を中心として、どのように蕩減してきたかによって、祝福という問題が左右されるという事実を私たちは知らなければなりません。(187)

 皆さんは、神様のみ旨を深く知れば知るほど、サタンによって汚されたこの肉体、サタンの汚れた血が流れる自分の肉体を燃やしてしまいたい思いになるでしょう。サタンに利用された手と足、この体全体を、一度に吹き飛ばしてしまいたい思いになるでしょう。サタンによって汚された自分の姿をそのまま保存していこうとするのは、とんでもないことです。皆さんは、そのような心情を体恤してみましたか。しかし、私たちはそうして死んでしまうこともできないため、私たちにはサタンとかかわり合った過去の自分を清算するための条件が必要です。(188)

 蕩減条件を立てる方法については、先生から教えを受けなければなりません。もし、昔日本でそれを知ろうという考えをもった一人の人がいて、日本全部と交換してでもそれを買ったとするならば、既に日本は世界を統一したかもしれません。世界でそれより良い事業はないでしょう。聖書に「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というみ言があります。命とはそれほど貴いものです。私たちは蕩減条件を立てる方法を正しく悟って、自分の貴い生命を復活させていかなければなりません。(189)

 救いの道は蕩減して復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路に従い、さかのぼっていくことです。逆に行くのです。(190)

 歴史的な蕩減条件をすべて立てて勝利した先生は、サタンが善に対して今まで使用してきた手段と方法によってサタンを攻撃したとしても、問題になりません。スターリンが宗教者たちを粛清したのと同じ手段、それと同じ作戦をサタンに向かって立てると考えてごらんなさい。先生にもそのような面があります。(191)

 完成は自動的に成るのではなく、蕩減によって成されるのです。ですから、堕落世界に生きている人間は、蕩減条件を立てなければ、人格の完成を成すことができません。

 自己完成は、蕩減条件を通して成されます。蕩減の峠を越えない人には、絶対に完成の道はありません。それは、内的な意味から見れば個人完成を意味しますが、神様の立場から見れば復帰だと見ることができます。蕩減完成のその基準を復帰完成ということができます。復帰は蕩減を通して成されます。それゆえに、蕩減復帰だというのです。ですから、蕩減と復帰はもう切り離すことができません。(192)

 「蕩減復帰」と言うとき、それは「復帰のための蕩減」です。完成を中心として蕩減復帰して完成します。蕩減された後に復帰をします。復帰をして完成の道を行きます。ですから、蕩減と復帰は一つだと考えればよいのです。(193)


  2、蕩減条件は自分自身が立てなければならない

 人間が堕落することによって、どのような結果が現れたでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失い、その次には個人基準、家庭基準、氏族、民族、国家、世界基準をすべて失ってしまいました。失ってしまったというのは、結局、アダムとエバ自身が追放したということです。

 その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は神様にあるのでもなく、天使世界にあるのでもなく、万物にあるのでもなく、人間にあるというのです。このような結果が現れたのは、どこまでも人間の責任です。

 ですから人間は、自分たちが責任を負って復帰路程を歩むべき運命に置かれるようになりました。ところで、復帰路程は一人では行くことができません。必ず再創造の原理を通して、神様と霊界の協助を受けながら行かなければなりません。また、協助を受けながら行かなければならないのが救援摂理であるので、神様と霊界が動員され、再創造のみ業をしているのです。なぜなら、神様は人間を創造される前に天使世界をつくられ、天使たちの協助を受けつつ万物をつくられ、その万物を材料として人間をつくられたからです。(194)

 堕落は人間がしでかしたので、蕩減復帰も人間自らがしなければなりません。罪を負った者が罪を蕩減しなければならないのが原則だからです。父母が偽りの父母となったので、真の父母が来て、そのすべてを蕩減してあげなければ、神様のもとに立ち帰り得る道がありません。このすべてを解決してくださる方が真の父母なのです。真の父母は皆さんの生命の数千万個、数億個を捧げるとしても取り換えることのできない価値をもっておられる方です。それゆえ皆さんは、真の父母を尋ねて、「命を懸けて従います」と言うことができなければなりません。

 イエス様は「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言いました。出発点に向かって蕩減復帰していく道だからです。(195)

 蕩減条件は自分自身が立てなければなりません。他の人が、代わりに立ててあげられるものではありません。堕落は主管権を失ったことを意味します。

 復帰のためには、他人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固たる主体性をもっていかなければなりません。他人がどのような道を行こうとも、自分の行くべき道が忙しいのです。横で何を言っても、そこに神経を使う暇がありません。夜寝る時間がありません。落ち着いてゆっくり座ってご飯を食べる余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなくては、復帰の道を行くことができません。(196)


  3、サタン圏(堕落圏)を脱するには

 皆さんが完全に救われるには、自分の罪を清算しなければなりません。皆さんの過去と現在のすべての生活を通じて犯した罪を清算するのです。罪を清算するには、原理原則に外れないことをしなければなりません。(197)

 悪とは、サタンの讒訴し得る条件を提示することです。罪とは何でしょうか。サタンの讒訴し得る内容をもつようになれば罪です。ですから、誰よりもまずキリスト教徒たちは、罪の根をはっきりと知らなければなりません。

 悪は、サタン自身は言うまでもなく、エバにおいても「私が主体になってみよう、私が中心になろう」というところから出発しました。

 神様の創造の原則は、「相手のために生きよ」ということであり、「私のために生きよ」というのは、サタンの根性です。皆さんは善悪の起源をはっきり知らなければなりません。悪なる人は、私に仕えよと言います。神様もこれを打ち砕こうとするし、イエス様もこれを打ち砕こうとします。それゆえ、おごり高ぶるな、他のために犠牲になれ、奉仕せよと教えてきました。(198)

 堕落して故障したので、故障したのを直そうとすれば、故障する前の原理原則に合わせなければなりません。また、創造の法度に一致できるようにするためには、再創造歴史の過程を経なければならないのです。堕落は相手のために自分を投入しないで、反対に相手をして自分に投入せよと言ったところから生まれたので、反対に投入することを通じなければなりません。それゆえに、宗教は自分を犠牲にせよと言うのです。(199)

 アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気は何ですか。サタンを中心として愛の病にかかり、間違ったその愛の病によってサタンの血統を繁殖してきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受け、サタンの直系の子女として生まれたことが病気だというのです。

 ところで、その愛の病はどのようにして出発したのでしょうか。自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発したというのです。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてを否定し、自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出たというのです。それゆえに、この病を治そうとすれば、自分を否定して神様だけを絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を築いたでしょう。

 天国は、神様を絶対的な中心として侍り、神様を通して愛の因縁を結んで生活する所です。神様はこの根本を正しく立てるために救援摂理をされるので、自分を主張するようになれば、絶対いけないというのです。(200)

 自分を中心とした堕落圏、すなわちサタン圏を脱するには、神様を中心とした観念をもたなければなりません。そうしてこそ、脱することができるのです。それ以外には脱する道がないので、不可避的にこのような道を選ばざるを得ないというのです。(201)

 皆さんが統一教会員として伝道やいろいろな活動をするようになるとき、「ああ、大変でもうできない」と言うようになれば、どうなるかご存じですか。それは、神様を中心としたものになり得ず、自分を中心としたものになるのです。

 このような原則を考えるとき、皆さんが統一教会に入って仕事をするに当たって、行けないとか、不平を言いながら仕事をする人がいるならば、不合格的な仕事をしたことになるということをはっきり知らなければなりません。自分を中心として統一教会で仕事をする人は、困難に出くわすことになれば、いくらも行かずにレバレンド・ムーンと統一教会に対して不平を言いながら、今まで統一教会に入って仕事をしたものは自分のものだと主張するというのです。

 私の行くべき道は困難であるけれども、私に先立っていかれる神様がいるし、私のそばで共に行く友達がいるし、私たちの兄弟がいるということを考えるべきです。また、人類が行くべき未来の運命の道が、いまだに私たちの前に残っているということを考えなければならないというのです。私の生命が尽きるまで行くという考えをもたなければなりません。そのような考えをもつことによって、サタンが自分を中心として堕落した基準を越えるのです。私を中心としたものではなく、神様を中心とした考えをもつことによって、堕落圏を越えることができるというのです。それゆえ、統一教会で一番難しい時だということは、まさに一番困難な堕落圏を退けて、解放され得る日が近づいてきていることを意味します。(202)

 元来、堕落とは死の境地に陥ったことなので、救いのためには死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過するべき運命にあるならば、男らしく喜んで臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意を固めてみ旨の道を行く食口が多くなれば、世界は新しい方向に進んでいくでしょう。私たちはその母体を築く心情に燃え上がっています。皆さんの心の中には、生死の境地を超越できる信念がありますか。

 先生は数十、数百、数千、数万にもなる生死の境界線を見詰めながらサタンと対決してきました。名状し難い困難な環境が、波のように繰り返し繰り返し押し寄せてきても、先生が立てた基準は変わりません。たとえ足が折れたとしても、目玉が飛び出したとしても、首が折れたとしても、出発した時の心情基準から離脱しません。ですから、死にさえしなければ勝利します。(203)

 どのようにしたらサタン圏の愛とサタン圏の血統から脱出できるでしょうか。自分を愛し、自分だけを考えれば、いつでもサタンが引っ張っていくのです。反対に、「私」を否定し、神様を中心として考えて生活するようになれば、サタンは「私」を管理できず、神様が臨在して管理するようになるのです。こうすることによって、サタン世界の天使長圏から解放され得るというのです。堕落した天使長の立場から、堕落しなかった天使長の立場に上がっていくのです。(204)

 アダムは、単に一個人の立場で堕落したけれども、彼は全体の中心なので、世界を復帰しなければなりません。復帰しなければなりませんが、一時に復帰できません。一つ一つ復帰していかなければなりません。個人の立場を整備していかなければならず、家庭的な環境から氏族、民族、国家、世界、天宙的な環境まで整備しなければなりません。全部で八段階を経るのです。理想世界を探し求めていく人間は、必ずこのような問題を解決してこそ、愛の主体である神様に思いのままに出会うことができるのです。その中で、どこかがふさがれたならば、その基準以下には通じるかもしれませんが、それ以上の世界には通じません。絶対的な神様と一つになる道を得ることができないのです。ある段階まで行けば、蘇生圏と長成圏の霊界までは、霊人たちの協助を受けることができますが、神様と通ずるのは難しいのです。

 個人から神様に直通することのできる環境を、いかにして拡大するかというのです。これは、神様の悩みであり、堕落した世界にいる人間の悩みなのです。この二つの悩みは、結局、堕落した人間によって生まれたものです。

 人間は天使長によって堕落したので、これを正さなければなりません。これは、肯定する段階では絶対にそうすることができません。自己をまず否定しなければなりません。ですから、唯一絶対の主体を願う人は、絶対否定の位置を通過しなければなりません。唯一絶対の主体を願う人は、この環境圏内で否定という条件を充足させなければなりません。

 だから、蕩減復帰は肯定の条件が少しでも残っていれば成されません。絶対否定の条件によって蕩減条件が立てられます。そのように、絶対否定の基準が、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様に進む時まで立てられなければなりません。そうして八段階が充足されれば、人類歴史の理想郷に連結されます。その段階ごとに、必ず絶対否定の過程を経なければ、神様に通ずる理想郷を連結することができません。(205)

 神様はどこに現れますか。堕落していないアダムとエバに現れます。ここで私たちは神様を発見することができます。私たちはみんな、堕落以前のアダムとエバ、罪のないアダムとエバの立場に戻らなければなりません。そこで真の父母を迎え、真の氏族をつくり、真の国家をつくり、真の世界をつくらなければなりません。このような主張をするのは、統一思想以外にはないのです。

 ここまで到達しようとすれば、堕落した経路とは反対の経路を貫いていかなければなりません。蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ、原状に復帰することができないので、自己を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、国家、世界をどのように復帰するのかという、はっきりとした理論体系をもっていなければなりません。(206)


  4、祝福を受けるための基台

 罪悪世界は、個人から始まって、家庭、氏族、民族、国家、世界へと拡大されてきました。神様もそのような基台をつくっていこうとすれば、天使長圏、あるいは僕圏を広げていかなければなりません。そこから次第に、養子圏、実子圏にまで広げていかなければなりません。実子圏内にもカイン・アベルがあります。堕落した父母によって生まれたカインとアベルは、互いに争って落ちていきました。カインとアベルが完全に一つとなったという基準を立てなければ、堕落圏を越えることはできません。

 堕落圏は、実体基台を立てることによって初めて、克服することができます。そうして、完成基準に入ったといえども、サタンから受け継いだ血統的な原罪は、まだ清算されていない状態なのです。

 原罪を清算するためには、必ずメシヤが必要です。ですから、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台は、堕落した人間に絶対に必要なのです。最後の問題は、メシヤのための基台を造成して、メシヤを迎えて自分の血統転換を成さなければならないことです。そうして、神様の真の子女の立場に立てられなければなりません。(207)

 祝福は、カイン・アベルの基準を復帰した立場に立たなくては受けられないのです。父母の前に戻ろうとすれば、カインとアベルが一つにならなければなりません。そうでなければ、父母のもとに戻れないのです。復帰がそうだというのです。アダム家庭において、カインとアベルが一つになって復帰するのが原則です。(208)

 私たちの統一原理で、信仰基台と実体基台を中心として成そうとするのは何でしょうか。堕落する直前は、約婚の段階であるので、堕落しなかったアダムとエバの立場に復帰しなければならないというのです。それでは、堕落する前の約婚段階に復帰するには、どのようにしなければならないでしょうか。

 アダムとエバが偽りの愛で堕落して偽りの父母になり、この偽りの父母を中心として三人の息子であるカインとアベルとセツ、そして彼らの妻まで含めて八人の家族が堕落した立場なので、この八人の家族の形態を復帰するための内外の内容が、すなわち信仰基台と実体基台だというのです。これを復帰した後に、天の父母に侍って越えていかなければなりません。

 ここで、天の父母が誰かといえば、すなわちメシヤです。ですから、実体基台を通過した後には、必ずメシヤのための基台が造成されなければなりません。堕落した人間の前に、このメシヤがいなくては、本然の位置に復帰できません。堕落したアダムとエバの後孫である人間は、誰かれを問わず、メシヤを迎えることができなければ、原罪を脱ぐことはできないのです。(209)

 人類の先祖であるアダムとエバは、自分たちを中心とした誤った愛で堕落しました。自分たち同士の愛を中心として、天使長を介入させ堕落することによって、神様を追放し、本然の真なるアダムの人格を追放し、本然の真なるエバの人格を追放した結果をもたらすようになったのです。

 このように神様の許さなかった愛の因縁を導入することによって、私たち人間には何が生まれたのかと言えば、原罪というものが生まれました。ですから、私たち人間はこの原罪を脱ぐことが問題です。ところが、私たち人間が偽りの父母によって生まれたので、真の父母の愛の因縁を再現させなくては、この原罪を脱ぐことができません。原罪は偽りの父母の愛によって植えられたので、この愛を否定するためには、真の父母を中心とした愛の基盤がなくてはならないのです。(210)

 原罪のある人は祝福の場に出られません。サタンの血統的内容を自分の体の中にそのままもっている立場なので、神様を中心とした祝福の場に出ようとしても、出るべき道理がないのです。ですから、必ず原罪を清算しなければなりません。この原罪は、偽りの父母の愛によって受け継がれたので、これを清算しようとすれば、真の父母の愛を中心として蕩減条件を踏んで立たなくては、脱ぐべき道理がないのです。この原罪を脱がなければ、完成した夫婦の立場での、神様の愛を中心とした祝福はあり得ないのです。

 生命は愛を起源として誕生するのですから、皆さんは真の父母の愛を中心として一体とならなければなりません。そうでなくては、復活の役事を体験できないのです。これを通過した後に、天国の法度を立てていくことのできる、堕落しなかったアダムとエバの資格を継承し、完成段階で神様から初めて「善なり」という公認を受けてこそ、祝福を受けることができるのです。それゆえ、このような三段階過程を経るのです。(211)


  5、祝福を受けるための蕩減条件

 人々は祝福という言葉をたやすく使用します。しかしこの祝福の裏には、どれほど多くの苦難と苦痛があり、また、それが存在するまでの過程が、どれほど難しいものであるかを知らないでいます。

 私たちに祝福を下さる方は神様です。そして、その祝福を受けたのは私たち人間、すなわち皆さんです。ところで、堕落した世界においては、人間が祝福を受けられる適切な条件を立てない限り、神様が人間に祝福をしてあげることはできません。(212)

 統一教会の祝福について見るとき、問題は何でしょうか。祝福を受けるために、蕩減条件を立てることが問題です。ここには、悲壮な内容が結びつけられています。歴史的に見ると、皆さんは堕落の血統を受け継ぎました。それゆえ、祝福を受けるためには、堕落の血統を刈り取り、基本的な問題を解決することのできる天的な条件が必要です。そのため、統一教会は今まで迫害を受けてきたし、心情的に十字架の道を歩んできたのです。だから統一教会に入れば、今までの私的な因縁をすべて切ってしまうのです。全部切ってしまうのです。(213)

 祝福を受けようとすれば、蕩減条件を立てなければなりません。昔、汚れたことがあれば、洗い流してしまわなければなりません。しかし、これは自分の力だけではできません。助けが必要です。弁護士に助けてもらうためには、心の中の事情まですべて告白して許しを請う必要があります。そうすれば弁護士は、それが自分の問題かのような立場に立って、それを弁護してくれます。そうしなければ、助けを受けることができません。

 先生は、神様の前に皆さんの立場を代弁する弁護士です。ですから皆さんは、先生には誰も知らない自分だけの秘密を全部告白できなければなりません。皆さんは悩みの種がまた生まれたと思うでしょう。先生がそのような話をすべて聞いてあげるということのほうが、もっと悩ましいことです。しかし、祝福を受けるためには、このような立場を通過しなければなりません。汚れたものなら消しゴムで消して、きれいな白紙になったという条件が成立してこそ、初めて祝福が成り立つのです。(214)

 祝福の時とは、受難の道を経て蕩減条件を提示しておき、サタンの讒訴条件を越えて、苦難の後に無事に突破した忠節の志操をもっているところにおいてのみ、迎えられるようになっています。(215)

 私たちは心情的に三つのものを復帰しなければ、祝福の基準が認定されません。神様を中心として、上には父母の心情、下には子女の心情、そして夫婦の心情を実現できる自信のある男性、女性でなければ、祝福を望むこと自体が神様の規則に逆行することになります。

 「そのような立場に私は立っている」と自信をもって言える人は手を挙げなさい。日本には祝福を受けるべき者がいませんね。いかなることにも、そこには蕩減という一つの問題があるのです。それは、皆さんの復活のための「献身」なのです。ですから、蕩減条件を立てなければなりません。それについて「感謝します」と言わなければなりません。(216)

 祝福を受けるためには、個体の復活がなければなりません。イエス様がゲッセマネの園で祈祷したように、皆さんも祈祷しなければなりません。(217)

 イエス様は人類の真の父、真の父母として来られました。イスカリオテのユダがイエス様を売って十字架の死の道を行くようにしたというその行動は、結局、世界万民が行ったのと同じことになってしまいました。それは、子孫の一人として摂理圏内にあるすべての民が、自分の父母を売り飛ばした結果になってしまいました。これを蕩減する条件として蕩減献金というものがあります。

 一人の人の誤った行動により、真の父として来られたイエス様をこの地上から追い出した立場となり、神様の摂理は四方八方に完全にふさがれてしまいました。これを蕩減する条件として、四年間三数に該当する金額を、イエス様を売り飛ばしたその実体の代価として、神様に返さなければなりません。四年間というのは東西南北に匹敵し、韓国では一年に三千ウォンずつ、四年間にわたって納めるという条件で、一万二千ウォンずつを献金します。そのお金は、イエス様を売り飛ばした過誤を蕩減する条件としては、あまりにも少ないものです。しかし、神様の聖なるみ旨を考えつつ、血と汗と涙のこもった最高の祭物を捧げるという精神が内包されていなければなりません。(218)


  6、祝福を受けるための蕩減期間

 祝福を受けるためには信仰の定期過程を経なければなりません。ところが、今までそうではない人を祝福してあげたあとで見てみると、結果が良くなかったというのです。必ずそれが的中していたというのです。(219)

 祝福よりもっと重要なことは、蕩減の路程が終わったのかということです。(220)

 今日まで先生が蕩減の道を歩み精誠を尽くしたので、半分ぐらいは皆さんが責任をもちなさいというのです。皆さんは見本どおりにやりさえすればいいので、簡単です。

 元来は三年半ずつ二回、すなわち七年の蕩減期間を経なければなりません。しかし、祝福を受ける前に三年半を経て、七数を経て越えていくのが蕩減復帰路程です。それが、すなわち再創造路程です。

 家庭を築こうとすれば、個性完成をしなければならず、そのあとに相対的な因縁を結ばなければなりません。そうして、相対的条件を成すことのできる位置に立って祝福を受け、三年路程を経ていかなければならないのが統一教会の原理です。

 先生が皆さんに伝道をさせるためだけにそうするのではありません。天法を守らなければならないのでそうしているのです。(221)

 皆さんもイエス様のように、死を覚悟して地上地獄の救世主として行きなさいというのです。そうして皆さんは、先生が歩んでいったその道に従って、同じ蕩減条件的道を行かなければならないのです。

 そのような理由で、先生が三十三年の間に歩んできたすべての蕩減の道を、今日、三年半、三年以内に、同じように従ってきなさいというのです。(222)

 三年半は、息子・娘を探し求め、その次には結婚して三年の期間探し求めて、その三年分立期間をつくっておいて息子・娘を生まなければならないというのです。それを七年間でしなければなりません。

 七数を完成できなかったことによって霊界と肉界を失ってしまったので、七年の期間で霊的肉的蕩減復帰を完成すべき使命があるという事実を知らなければなりません。そうしなくては、先生について行くことはできません。(223)

 先生は入教して三年以上になった人は、できる限りみんな祝福してあげようとします。それ以下の人は、先生もどうすることもできません。(224)

 皆さんは、祝福を受けるという問題について見ても、「三年路程を行かなければならないし、三人の息子をみ旨の前に立てなければならない」という程度の、常識的な使命だけを遂行するのではいけません。(225)

 統一教会に入った人は、修養の過程を経なければなりません。できなくても、七年以上の試練の過程を経るべきです。これから、これを公式化させるのです。(226)

 未婚の青年男女たちは、自分の体や自分の家庭のために血と汗を流してはなりません。ただみ旨だけのために三年以上、心から忠誠を尽くしてみなさい。絶対に滅びません。そうすれば、真に忠誠を尽くし得る立派な子女を生むことができます。(227)


  7、修練の過程と七日断食

 統一教会では、二日修練と七日修練、二十一日修練、四十日修練を合わせて、原則では六カ月以内に七十日の修練を受けなければなりません。これはみ言であり、法の条項です。そうしてこそ、統一教会がどうであるのかが分かります。(228)

 統一教会に入ってくる人は修練の過程を経ます。二日、七日、二十一日、四十日の修練会をすべて経て、七十日間の修練を受けることが必要です。この修練を通して、無知により堕落した人々が、知ることによって復帰できるというのです。その時までもっていた思想観念を新しい方向に転換するために修練するのです。

 これは復帰摂理で見れば、復帰基台摂理時代と同じです。また、七日修練から蘇生時代に入ります。旧約時代の完成摂理圏に該当します。ここに入ることによって、新約時代のメシヤを迎えに行かなければなりません。七日修練は旧約時代に該当するものであり、蘇生の人格を回復する期間です。二十一日修練は新約時代に該当します。この修練を受け、イエス様を救世主として侍ることのできる人にならなければなりません。すなわち、実体的メシヤの前に、洗礼ヨハネ的人格を完成するのです。それは養子の資格を完成する立場です。ここでもう一度四十日修練を受ければ、成約時代に該当する立場となり、メシヤを迎えて接ぎ木する立場となるので、初めて天国の血統を継ぐことのできる息子の立場となるのです。このようにして、堕落しなかったアダムよりも優れた立場に上がった神様の息子の立場を引き継ぐのです。しかし、引き継いだだけで終わるのではなく、息子の資格を備えて初めて、天国に行くことができます。(229)

 百二十日修練を受ければ、統一教会の威信と体面を立てることのできる人になります。(230)

 百二十日修練を受けていない人は、統一教会の正会員として扱いません。(231)

 二日から百二十日修練までを制度化しておいたので、世界に行っても共通です。(232)

 終わりの日には三大審判を経なければなりません。三大審判は真理審判と人格審判と心情審判です。この三大審判を経て初めて、真の父母と因縁を結ぶ場に参席できる権限をもつようになるのです。

 原理にパスできなかった人は、祝福も受けられないのが原則です。神様のみ言が分からない人に祝福をしてあげて、自分の勝手気ままにありとあらゆる遊びごとをし尽くして回ればどうするのですか。法を知らない人を裁判官として立てれば、自分勝手に判決を下すというのです。それで、法を教えてあげるのです。(233)

 原理には三大審判があります。真理審判、人格審判、心情審判です。堕落が三大要件を犯したからです。先生はこれを通過して、皆さんに教えています。復帰の道は自分がまず成して教えなければなりません。なぜならば、ここに原則があるからです。父母がまず知らなければなりません。実行するのも父母がまずしなければなりません。父母が実行しなかったので、父母がまずしなければならないのが原則です。ですから原理は、先生によって既にこのようなことを成した基準が立っていなければ、教えることができません。

 皆さんは、原理にパスしなければなりません。原理にパスして原理基準に引っかからないだけの自分にならなければなりません。そうして、原理の実体者とならなければなりません。蕩減原則に外れる人の実体復帰は成し遂げられません。そのような条件が残っている場合には、サタンがいつでも自分のものだと言って引っ張っていきます。ですから、実体基準を立てようとするならば、サタンに正面から対抗して勝利しなければなりません。(234)

 私たちは怨讐の血を受けて生まれたので、この血を引き出してなくさなければなりません。それゆえに、宗教は「断食をしなさい。謙遜でありなさい」というように、自らの肉身を打つ役事をしてきました。(235)

 皆さんが霊界に行くとき、一週間以上天のために断食できなかったならば、あの世に行って入籍することができなくなります。なぜでしょうか。神様は六千年復帰歴史路程で苦労したので、それを考えながら断食をしなければならないというのです。それで、統一教会には七日断食の期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、天の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためのものです。

 それゆえに、肉身を打たなければなりません。私たち人間が、「この怨讐の体、この肉のかたまりめ! その中に血がうごめいているな」と言いながら刀で刺してしまうべきものを、有り難くもイエス様が代身して刺されたのです。では、イエス様は私たちに何を残してくれましたか。イエス様の血と肉を残してくれました。私たちはそのようなイエス様を代身できる人にならなければなりません。(236)

 昔は、信徒たちが祈祷する中でイエス様に出会おうとすれば、昼夜となく七年以上精誠を尽くさなければなりませんでした。そうしなくては、出会うことができませんでした。しかし、最近は七日だけ精誠を尽くせば、先生に出会うことができます。ある問題をかけて、七日の間だけ断食しながら精誠を尽くせば、先生が間違いなく教えてくれます。

 皆さんは、神様が訪ねてきた道がいかに苦労多き道であったかを知らなければなりません。先生はこの道を訪ねてはきましたが、訪ねてきた道を、さらに訪ねていかなければなりません。「私」を探し求めるために今まで苦労された神様に侍り、誤ったことを蕩減しながら行かなければなりません。それでは、神様に侍っていく時には、いかなる立場で行かなければならないのでしょうか。皆さんを中心として行くのではありません。霊界から天の因縁を通して決定された基準をもって、この世界の前に先頭に立って走っていくのです。(237)

 先生の生活に対して悪く批評する人は、先生の生涯を知らず、天の事情を知らない人です。先生の周囲にいる人々の中で、八〇パーセントは天に通ずる人でなければなりません。皆さんは、特別断食祈祷をしてでもその基準に上がっていかなければなりません。そうでなければ、先生の願う食口を探します。(238)

 皆さんの中で一週間断食祈祷をした人は手を挙げてごらんなさい。一週間断食祈祷をしてみた経験のない人には、七日目の夜の十二時三分前の気分がどうであるのか、数百冊の本を書いて説明してあげたとしても分からないでしょう。砂糖の味についていくら説明を聞いても、一かけらの砂糖をなめてみるのには及びません。十字架の道を信じようとする人は、十字架の道を実際に実行してみなければなりません。神様の心情が分からない人は、神様の分身のような立場に立たなければなりません。復帰摂理の中心人物になろうとすれば、自分の愛する人を怨讐に譲り渡しても、耐えられるだけの決心が必要です。(239)


  8、信仰の三子女

 蕩減条件を立てるなら、まず信仰の三人の息子・娘が絶対に必要です。なぜなら、アダムとエバが堕落することによって、アダムの八人家族が堕落したので、その八人の家族を代表し得る基準を越えなくては、行くことができないのです。それを備えず、「民族のために、国家のために、世界のために」という言葉は、ただ形式にすぎません。このように見ると、出発基点からこの基準は絶対的だというのです。その絶対的基準を解決して行くべき運命の道にあるのが、祝福の位置であるのを、皆さんははっきりと知らなければなりません。(240)

 祝福を受けた立場は、アダムとエバが堕落する直前の状態に復帰された立場です。ゆえに、アダムとエバが成長する時、三天使が彼らに侍るべきだったように、三天使の実体である信仰の三子女から侍られる立場に立ってこそ、祝福を受けられます。ですから、祝福を受ける前に、必ず信仰の三子女を立てなければなりません。

 信仰の三子女は、アダム、ノア、アブラハム三時代の三子女(八人家族のための)と、この三時代のカインを象徴します。(241)

 まず三名の天使長が一体化した基準、すなわち三名の信仰の子女が皆さんの祝福のために協助し、準備してくれなければなりません。ですから、三名の信仰の子女がいなければ、復帰されません。三名の信仰の子女がいなければ、三名の天使長を完全に協助させた基準に立ち得ないので、そのまま堕落圏内にとどまるようになり、サタンがいつでも相対して引っ張っていけるようになるのです。だから、信仰の子女が絶対的に一体化した基盤の上で、すべてのものを犠牲にして、祝福を受けることのできる環境を造成しなければなりません。三名の天使長は、アダムとエバに仕えなければなりません。その段階を通過した後に神様の認定を受け、三名の天使長が「アダムは成熟したので、対象と祝福を受けさせてください」と言うことができなければなりません。ですから、三名の信仰の子女がいなければ、絶対に祝福できないというのが原理原則なのです。それをもたずに結婚した者は、まだ堕落圏内にとどまっているのです。(242)

 祝福を受けるためには、イエス様が失敗したその基準以上を乗り越えなければなりません。また同じように、イエス様が死ぬときに三弟子まで反対したので、皆さんは死ぬ境地に入っても三弟子と一つになり得る、そのような皆さんの四位基台をもたなければなりません。それがすべて公式的なので、皆さんも絶対的に信仰の子女三人がいなければ、祝福を受けられないのです。(243)

 統一教会で祝福を受けるなら、三人を伝道しなければなりません。イエス様も同様に、変貌山頂に登っていくとき三弟子と一緒にいましたが、その弟子たちと完全に一つとなれなかった状況で、「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」と言いました。(244)

 祝福対象者は自ら資格を整えなさい。

 三子女復帰、勝利的復活体としてのアベルは、勝利的長子なので、第一の怨讐の子供を奪ってこなければなりません。三子女復帰は、

 @霊的には三大天使長を復帰させること、
 A父母の位置を決定するための絶対要件、
 B子供を完全な勝利の位置に立てることのできる絶対要件です。これをもたなくては、天国に入れません。(245)

 ここで五年以上になる人は手を挙げてごらんなさい。日本から百五十名がロンドンに来ましたが、六〇パーセント以上が五年以上になったというのです。その間、み旨のためにどれほどの仕事をしたのかと聞いてみると、今までずっとみ旨のために仕事をしてきたというのです。実績は何かと聞いてみました。み旨のためにするということは、世界を救うということですが、み旨のために仕事をしたとするなら、全世界をみ旨の中に導いて、世界が救いを受けられるようにならなければならないのではないかと言うと、そうだと言うのです。それなら何人伝道したのかと聞くと、二人しか伝道できませんでしたとか、伝道はしようとしましたが、一人もできませんでしたという人がいました。それでみ旨のために仕事をしたと言えますか。入教してから五年以上になったという人は、何人伝道しましたか。祝福を受けようと準備した娘たちは、何人ぐらいいましたか。三人以上伝道できなかった人は、推薦状を書いてほしいと言うことができません。そのような人を協助していては滅びます。一線に立った将兵は、敗者がどれほど悲惨であるかを知っています。それを知る人は、死ぬなら死んだとしても、敗者にはなるなというのです。先生は敗者の悲しみを知っています。基盤がなく、実力がない人の肩をもってくれる人はいません。(246)


  9、祝福の本来の基準

 人類始祖が養子圏である長成期完成級で堕落したので、その息子の外的な形態と因縁を備えて、もう一度つくって長成期完成級の位置にまで上げておいて初めて、実子圏を相続できるのです。すなわち、人類始祖が長成期完成級で落ちてしまったため、この長成期完成級に行ってこそ復帰できるというのです。(247)

 皆さんの姿を見ると、顔には目鼻耳口がすべて備わっています。また体には四肢五体がすべて備わっています。このすべてが合わさって神様の前に現れるようになるとき、神様は皆さんのどのような部分を愛されるでしょうか。神様は皆さんのある一部分だけを中心として愛されるのではありません。(神様が)そのすべてを愛することのできる息子となり、娘となることを、神様は願われるのです。神様が願われる基準は、五十点ではありません。六十点でもありません。七十点や八十点でもないというのです。百点以上を願われるのです。

 その百点以上の基準というのは何でしょうか。アダムとエバが堕落した基準の位置ではありません。堕落の悲しみを見てこられた神様の前に、そのすべてのものを蕩減復帰してさしあげられる、堕落した時の基準以上の価値を追求できる位置なのです。言い換えれば、エデンの園で堕落する前のアダムとエバ以上の価値を追求するのが父の心ではないだろうかというのです。

 もし、このような条件を成立させられなくては、今までの神様の威信は地に落ちることになるのです。サタンがアダムとエバを侵犯してその栄光の一日を蹂躙した事実について見るとき、それを凌駕する新しい祝福を受けられる夫婦を、神様はもたなければなりません。サタンが神様の息子・娘を訪ねていって、再び奪うことのできる立場になれば、神様は威信を捜し立てることができなくなるというのです。このようなとてつもない基準があるということを思うとき、ここにおいて皆さんが、自分のある事情をもって祝福を受けようとしてはだめだというのです。(248)

 復帰摂理を完成するには、歴史上に現れて未完成として残されたすべての内容を現実へ引っ張り出し、もう一度解明して蕩減し、復帰していかなければなりません。これを実現しようといって出発したのが統一教会です。先生の使命は、自らそれを実行し、あとに従ってくる世界のすべての統一食口に、これを実行するようにさせることです。皆さんの使命は、み言に従い復帰摂理の完成に向かって前進することです。男性は堕落前のアダム以上の基準に立たなければならず、イエス様を代身した体として不足なところがあってはなりません。女性は堕落前のエバ以上の基準の上に立たなければならず、イエス様の新婦として不足なところがあってはなりません。統一教会の使命は、そのような男女を誕生させることです。(249)

 神様の息子・娘としての権威をもって、いかなる逆境があっても、サタンの本拠地に堂々と立ち向かっていける基準を備えなければなりません。アダムとエバを犯した、そのサタンを屈服させられる過程を通過してこそ、祝福の基準を立てられるようになります。(250)

 統一教会に従ってきた皆さんは、真の父母の因縁だとか、新しい天の家庭だとか、祝福だとかという言葉を使いますが、その祝福というのは、死亡線内にあるものではありません。祝福は蕩減圏内で、死亡線以下で受けるものではありません。それは、エデンの園での堕落しなかった範囲です。これが祝福です。(251)

 食口たちが祝福を受けるのは、一九六〇年に先生が聖婚した基準に該当するものです。皆さんは、先生が完成基準で国家基台を立てた道をあとに従って歩んでいくので、迫害がないのです。

 皆さんが受ける祝福の基準は、イエス様が二千年間願ってきたことを、実体で成し遂げた立場です。ですから、結婚した食口を自分の氏族に戻らせるのは、イエス様が聖霊を地上に送って役事するのと同じことです。(252)

 失敗によって先祖たちがサタンの讒訴条件に引っかかったのですが、それを追放するものは何ですか。祝福です。祝福という勝利的条件を立て、サタンを追放するのです。サタンがアダムとエバの二人を侵犯したので、私たちが祝福家庭を成すことによって、過去のすべての先祖たちの失敗を蕩減し、地上で復活勝利圏に向かって出発することができます。それで、今まで霊界で讒訴してきたサタンの門を開くことができたのです。(253)

 堕落は長成期完成基準以下であり、祝福は長成期完成基準以上です。それゆえ、祝福はサタンと関係がありません。したがって、サタンは反対できず、侵犯できません。(254)

 成婚式というのは、夫婦が自分勝手にするものではありません。必ず、神様の真の愛を代表して、男性として完全に愛を受け、女性として完全に愛を受けることのできる位置でするのです。(255)

 今までの皆さんは、男女間で互いに手紙を書くのは普通であり、交際するのも普通でしょう。ウインクなどは、通りすがりに鉛筆を買うかのように平気な顔でしています。そのような人が祝福を受けようというのですから、先生は気分が悪いです。本来の祝福の基準は、そのように気分が悪いものではありません。原理的に見れば、皆さんには資格がないのです。したがって堕落した後孫として、本然の基準を取り戻さなければなりません。(256)

 神様がアダムの代わりに召命することのできる立場に「私」は立っているのでしょうか。あるいは、イエス様の代わりに召命することのできる立場に「私」は立っているのでしょうか。新しく来られる主を代身できる立場に「私」は立ったと認定できるのだろうかということが、問題にならざるを得ないのです。このような立場から見るとき、祝福を目の前に控えている皆さんは、自分の過去から現在に至るまで、自分の生活を批判してみなければなりません。

 今日、皆さんの中には、自分なりに考える人がたくさんいます。「教会で恒例として行うのが祝福だ。私自身もこれこれの条件が成立したので、または、教会に入ってから数年を越えたので、そこに該当し得る資格者になっただろう」と考えるでしょうが、そのように考えてはいけないというのです。

 この日には、神様が六千年の間願われた一日を迎えることによって、失われた息子を取り戻すことになるのであり、失われた娘を取り戻すことになるのです。彼らを通して、神様の愛を連結させ得る一致点がつくられるのであり、ここから神様のみ旨を広げることのできる横的な基盤がつくられるという、このとてつもない事実を私たちは知ることができます。このように、神様の内心に一致できる心をもって、祝福の一日を迎えるために準備する息子や娘がどのくらいいるのかという問題を、私たちはここでもう一度考えざるを得ないのです。(257)


  10、祝福を受けられる資格基準

 皆さんを見ると、ぐれん隊のようなのに、何の資格がありますか。祝福を受けられる資格があるのかというのです。祝福を受けようといって、来て座っていますが、皆さんが統一教会に入って数年の間に何かしたことがありますか。祝福というものは、そのようにただ来て座っていて受けられるものではありません。千年、功を積み、万年の間、功を立てたその次に、その後孫たちが来て厳粛に千万遍のお礼を捧げながら、同様に天上世界と地上世界の万民が仰ぎ見つつ、その日の栄光を称賛する中で祝福を受けなければならないのです。果たして、皆さんはそうすることができるでしょうか。(258)

 明日に勝利の旗を掲げ、神様の前に称賛され得る孝子・孝女にどのようにしてなるのかという問題を中心として、内的外的にすべてを備え、サタンが讒訴できない人格をもって参席しなければならないにもかかわらず、じっと見れば、めちゃくちゃだというのです。ですから皆さんは、この場から新しい信念をもたなければならないというのです。分かりますか。

 イエス様の時のペテロ、ヨハネ、ヤコブのような背信者の末裔になってはなりません。もし先生が死地に行くとすれば、皆さんが果たして、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ以上の立場を越えて、先生の死の道を防ぎ、代わりに死の道に行けるのかということを、自ら自問してみなければなりません。老若男女を問わず、間違いなくそのようにするという誓いが立っていなければなりません。そうでなくては、イエス様の恨みを解くことができません。イエス様の恨みを解けなくては、祝福の場に出られないのです。(259)

 今まで皆さんは、この程度だけすればすべてのことが成るだろうと考えてきたでしょう。ところで、今日、皆さんは先生に出会いましたが、先生と皆さんの間には距離があるのです。父母様に出会えばそこですべてのことが解決されるものと考えたなら、大きな誤算です。神様がそうであるように、先生もやはり、地上で十分に成し遂げなければならない責任を背負っているのです。持っていたものをすべて使い果たしてしまい、乞食の格好で帰ってくる放蕩息子のような立場ではなく、神様が願われる孝子の立場で怨讐を訪ねていき、自分の子女を復帰し自分の財産を復帰して帰ったヤコブのような立場にならなければなりません。そうでなくては、本郷に帰っても、神様の前に面目を立てられず、祝福を受けられないという事実を、皆さんは知らなければなりません。(260)

 皆さんは、家庭にあっては家庭的アダムであり、社会にあっては社会的アダムであり、国家にあっては国家的アダムです。各自の分野でサタンを屈服させなければならないアダム的な立場であり、エバ的な立場だということをはっきり知らなければなりません。サタンを屈服させて勝利した立場でこそ、天の祝福を受けられるというのです。成婚式をすることができるのです。原則はそういうものではないでしょうか。サタンを屈服させられなかった者が、どうして天の祝福を受けられるでしょうか。これが復帰歴史の大筋です。(261)

 堕落した人間が神様の祝福を受けられる位置に進んでいくためには、僕として忠誠を尽くしたという条件を立てなければならないのです。僕の立場で忠誠を尽くした後には、養子の立場で忠誠を尽くさなければなりません。

 養子の立場を経ていくためには、養子の基準をすべて立てたという条件がなければなりません。養子は相続を受けることができますが、血統を代身することはできません。養子の資格では、楽園級の霊界にしか行けません。それゆえ、養子の基準を乗り越えるために直系の息子・娘によって接ぎ木されなければならないのです。(262)

 自分の天国を成し遂げた後に初めて、祝福を受けられます。不平不満のある人が祝福を願うことは、その相対者を滅ぼす結果を招きます。

 自分一人の中にも天国を築けない者が祝福を願うとすれば、その人は盗賊です。蕩減の路程を終わらせることが、祝福よりもっと重要です。祝福を願う前に、蕩減の路程を終えることをより懇切に願わなければならないし、神様の恨みを解いてさしあげるべき子供としての道理を尽くさなければならないのです。(263)

 復帰の路程を完全に通過しなければ、祝福を受けられません。個人、家庭、氏族、民族、国家、天宙など、すべての圏内に入って、サタンに讒訴されない基準を立ててこそ、祝福の隊列に入ることができます。(264)

 サタンが痼疾的な血統的因縁を掲げて現れ、数千年の間神様に損害を与えて私たちの先祖をそのように蹂躙した鉄の鎖を、完全に断ち切ってしまい、解放の旗を掲げて自由・平等な立場で、万国、万民、全宇宙が互いに調和することのできる位置に、祝福があります。(265)

 私たちは心情的に三つの立場を復帰しなければ、祝福の基準が認定されません。神様を中心として父母の心情、子女の心情、そして夫婦の心情を実現させられる自信のある男性、女性でなければ、祝福に参与する資格がありません。(266)

 二十代に近い青少年として、汚されず染まっていない聖なる純情を大切に保管し、これをどこに供えるべきでしょうか。天が一番喜ぶことのできる祭壇に供え、神様が喜ぶことのできる純情をもった男性と女性が出会って一つに結ばれ得る聖なる位置が、新郎新婦の出会う場ではないでしょうか。(267)

 世の中の男性を伝道し、あるいは女性を伝道したとするならば、自分の弟妹のように育てなさい。アダムがエバを誤って育て、またエバが兄(アダム)に言葉を誤ってかけたのを、全部是正して天の公約を立てられなければなりません。ここにおいて自分の理想を超越して神様の公約を立て、兄さんと姉さんのような立場に立って、父母の前に父母の愛を中心として天理の法度に順応しようといって進むのが、今、祝福を受ける前の統一教会の食口たちの立場です。(268)


  11、祝福を受けられるただ一つの資格

 私たちが立つ場は世の中とは違います。サタンの讒訴を防ぎ、勝利圏を成すことのできる内容を皆さんに教えてあげました。皆さんはどのような基準にありますか。長成期完成級の基準にも上がってこれなかったので、どうしたら祝福をしてあげられるかということが問題です。(269)

 今、皆さんは祝福を受けようとして集まりましたが、祝福というのは何でしょうか。今まで六千年の間、宗教は一人の男性を探し求めるための役事をしてきたので、女性として生まれた皆さんが統一教会に入ってこなかったなら、神様を中心とした祝福を受けられないのです。千年、万年いかに精誠を尽くしても、神様を中心とした祝福は受けられないというのです。統一教会が現れなかったならば、祝福ということもあり得ないのです。先生がいなければ、見当だにつかないことです。

 堕落とは何でしょうか。自分たち同士愛し合ったことです。サタンゆえにそのようになったのです。ですから、神様を中心として愛の因縁を結んだ新しい夫婦が、新天地で新しい歴史の旗を掲げて出発するのは、歴史始まって以来、この時代に初めてあることなのです。

 それでは、皆さんはここに同参する資格がありますか。ありません。ただ一つ、資格があるとすれば何でしょうか。真の父母を知ったということです。真の父母を知ったという、それがまさしくその資格なのです。

 今まで復帰摂理の途上で生まれ死んでいった先祖たちを中心として見るとき、皆さんがその先祖たちに対し得る立派な資格者になったのかと言えば、そうではないというのです。しかし、彼らは父母を知りませんでした。イエス様もこの地上に来られて、真の父母の資格を教えてあげられずに逝きました。昔の先祖たちは、すなわちアブラハム、モーセ、そのほか誰も真の父母を知りませんでした。

 今日、統一教会員たちが、彼らとただ一つ違うことは何かといえば、真の父母を知ったということです。だから、皆さんは、「私たちは真の父母の息子・娘だ。世の中の何者もこれを否定することはできない。これは神様も否定することができない。絶対的だ」という信念をもてばよいのです。(270)

 皆さんは先生が分かりますか。先生が分かりますか、分かりませんか。どう分かりますか。先生の何が分かりますか。顔だけ分かるでしょう。皆さんが分かる原理を教えるその程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。先生の歴史が分かりますか。「分かりません」。分からないなら、何をしにこの場に来ましたか。皆さんは孝子になりましたか、なれませんでしたか。「なれませんでした」。孝子にもなれなかった者が、ここに来て座る資格がありますか。忠臣になりましたか、なれませんでしたか。「なれませんでした」。忠臣にもなれなかった者が、ここに来て座っているのですか。

 それでは、神様は先生について分かるでしょうか、分からないでしょうか。「分かります」。霊界に行った先祖たちは、先生について分かるでしょうか、分からないでしょうか。「分かります」。神様と先祖たちが先生を敬う以上に、先生を敬うことのできる皆さんにならなければなりません。どうだこうだと疑う者たち、そのようなつまらない偽者たちは、一名もここに座る資格がありません。

 先生は四十年の生涯を闘って、一九六〇年に聖婚式をしました。そうするまで、監獄にも数限りなく行きました。むちも無数受けたし、血も数十回吐きながら闘争してきたのです。ところで、皆さんはいつ冷遇を受け、いつ残忍にむち打たれ、いつ血を流しましたか。いつそのような迫害を受けてみましたか。生命を投入して数多くの国境を出入りしながら土台を築いたものを、この乞食の群れのような者たちに全部譲り渡さなければならないとは……。

 皆さんには祝福を受けられる資格は何もないというのです。サタンたちが皆さんの首を全部切って太平洋に投げ込み、水中の鬼神にしてしまっても(=皆さんがどんな犠牲の祭物になっても)、先生は皆さんを認定できません。仕方なく祝福をさせるのです。(271)

 皆さんは祝福を受けられる、そのような位置に立っていますか。「立っています」。立っていますか。「はい」。立っているとは、何が立っていますか。先生が今までみんな病身のような者たちを連れてきて、教えてあげてみ旨に従うようにし、祝福してあげたのです。だから、どれほど有り難い祝福ですか。

 サタンを打ち砕いて、終わりの日に天の前に栄光なる勝利を捧げ奉る人になると主張して出発しなければならない人たちであるにもかかわらず、何の準備もなく、裸の状態で来た人たちだというのです。それゆえに、皆さんは祝福に対する心情的な姿勢を歴史的な観点から看破し、自らの不足な点をもう一度再検討して分析しなければなりません。今まで自分自身がどれほど不足だったかを知らなければなりません。今までは、副作用がたくさんありました。許し難いことですが、先生は特権的な恵沢を付与して、許してあげたのです。(272)

 父母の心は、死地に向かう子供を呪うことはできません。十字架を背負ったとしても、子供を生かしてあげられる道をかき分けていくのが父母の心なのです。ですから、すべての十字架を先生が背負い、子供である皆さんを生かしてあげ、行かなければならなかったのです。しかし、それが伝統であるとばかり思っていれば滅びます。言うに言えない一文無しになるというのです。父母が愛の門を開く前に、自らを省みなければなりません。天地の前に出ても恥ずかしくない姿を、どのようにして備えるべきなのかを考えなければならないのです。(273)


  12、私たちがもつべき信念と姿勢

 皆さんはここで、誰を中心として祝福を受けることができますか。父母です。絶対的に信じることのできる真の父母なのです。「私は真の父母の因縁を中心とした血肉をもって生まれた。いかなる力も、この因縁を断つことができない」と言える絶対的な信念をもたずに祝福を受ければ、罰を受けるのです。

 将来、皆さんがこの条件に引っかかって倒れる日には、悲惨なことになるでしょう。今まで祝福を受けた家庭も、見ていなさい。結果がどのようになるかというのです。その時が来るでしょう。そのような人たちは、サタン世界に帰りました。彼らの後孫たちは、将来どのようになるでしょうか。それは、今言いません。彼らの親族と霊界にいる先祖まで巻き込んでいくのです。このようなとてつもない問題がかかっているのです。

 皆さんは歴史を代表し、善なる先祖たちを代表して現れたのです。善なる先祖たちとこの時代の自分の氏族を代表して現れた、厳粛な立場にいるというのです。

 私たちが一九六〇年度に伝道しに行った時、しつこく統一教会に反対していた人々は、みんな罰を受けました。みんな(木のように)へし折られました。誰が何と言おうと、そのような人々はみんなへし折られたのです。私たちが地位を勝ち取る日には、見ていなさいというのです。私たちの家庭が地位を勝ち取る日には、烈火のような怒りが落ちるでしょう。彼らは自分勝手にからかったのですが、天は利用されないというのです。このようなとてつもない内的な約束のもとに、私たちは厳粛な行事をしているのです。

 私たちのただ一つの信念は何でしょうか。真の父母の血肉を受けて生まれたということです。それゆえ、サタン世界の億万のサタンが私たちを取り囲んでいるとしても、私たちを侵犯できません。私たちは昔のアダムとエバとは違うのです。私利私欲を中心として行く人々ではないというのです。

 自分の欲望ゆえに堕落の起源を残してしまった怨恨を踏み越えなければならないのが、私たちの運命です。それゆえ、そのような恨みの峠を越えて、復帰の聖なる日を迎えるためにいで立った私たちは、いかなる危険やいかなる死の峠が行き交うとしても、放棄することはできないという信念が確固たるものでなければなりません。このような信念もなく祝福を受けるのは、天をもてあそぶことです。そのような人は、むしろ祝福を受けないほうがよいのです。(274)

 皆さんの中で、祝福を受ける資格があると思う人は手を挙げてごらんなさい。原理的観点から祝福を受ける資格があると思う人は手を挙げてみなさい。(静まりかえる)では、今まで自分勝手に生きましたが、今からは先生のみ言を絶対的に信じつつ生きますか。「はい」。はっきり分からなければなりません。信じますか。「はい」。結婚した後に、妻を送り出しても有り難いと言えなければならないし、夫を送り出しても有り難いと言えなければなりません。喜んで行ってこなければなりません。そうしなくては、サタン世界を占領できません。先生も以北に行ってきたでしょう。一度だけ行ってきたのではありません。私が行ってきたので、皆さんも行ってこなければなりません。私が共産党員からむち打たれて血を流したので、皆さんもむち打たれ血を流さなければなりません。

 先生は三カ国から艱難を受けた人です。ソ連の共産党からまでも迫害を受けた人です。以北の金日成集団はもちろん、日本からも迫害を受け、大韓民国からも迫害を受けました。国でいえば、四カ国を出入りしながら受難の道を経なければならなかったのです。大韓民国は、三政権からの受難の道を経なければなりませんでした。数多くの教派の中で、三大教派以上から受難を受けなければなりませんでした。そこには数千万が動員されているのです。三千万以上が動員されているのです。そのような試練と苦痛を経なくては、蕩減復帰ができないのです。

 このような話をすれば、皆さんは目を丸くして、ぱちぱちさせるでしょう。先生のような道を経てきた人は、今までいませんでした。皆さんは、いつ夜を明かしながら、ご飯を食べずにみ旨のために心配してみましたか。生命を失うことがあっても、み旨のために誓いをしてみましたか。そのようにできなかったのは、神様に対する冒Bです。先祖たちに対する冒Bです。先生に対する冒Bです。背信行為です。堕落とは何ですか。自分を中心として生活するために、生活の巣をつくることではないですか。

 どんな男性、どんな女性に出会うとしても、いかなる苦痛や試練があるとしても、皆さんはまず、真の父母に対する絶対的な信念をもたなければなりません。絶対的な信念をもたなければなりません。「真の父母に向かう私の心は、何が誘惑をするとしても変わらない。私の生命を十回失うことがあるとしても、これを否定できない」と言える信念をもたなければなりません。それが問題です。こうなっていなければ、悔い改めなければなりません。何の話か分かりますか。絶対的信念をもちなさいということです。(275)

 先生は生涯を捧げて、さまざまな試練の路程を経ながら闘ってきました。それを克服しようとする心情、その一片丹心をもって闘ってきたのです。絶頂を越えるその瞬間を仰ぎ見ながら、聖なる本然のみ旨を中心として進んできたのです。怨讐の刀に千万遍倒れても、有り難く思うことのできる心を保ってきました。私の願う原則に外れることなく、絶対的な父母を中心として、真の父母の血縁を中心として兄弟の因縁を結んだのです。

 それは誰も侵犯できません。「あなたの兄弟は誰か」と言えば、「誰々です」と言えなければなりません。また、「あなたの息子・娘は誰か」と言えば、「誰々です」と言えなければなりません。そうであってこそ復帰できるのです。先生はそのような仕事をしたというのです。

 イエス様は、この仕事をしている途中で亡くなられたのです。ここにいる皆さんは、今、イエス様より優れた位置にいます。そうでしょう。父母に侍っているという特権的な恩賜を受けているのです。だから、皆さんは孝子になるべきです。兄弟たちの中で、誰よりも孝子にならなければなりません。放蕩息子になるのでなく、孝子になるのです。父母を中心として孝子にならなければなりません。放蕩息子になるのでなく、本当の意味で、真なる息子・娘にならなければなりません。

 そのようにして、兄弟たちの手本になるのです。兄弟たちのすべての十字架を一人で背負い、彼らが父の前に孝行できるように教えるため、身もだえする代表者となるべきです。ここに集まった皆さんが、そのようにならなければならないというのです。ぼんやりして、目だけぱちぱちさせながらただ楽に暮らそうとするでしょう。そのような人たちは、偽りの者たちです。怨讐の一族です。皆さんも自ら反省してみて、そういうことについて呵責を感じるなら、悔い改めてください。ご飯を食べますか。断食をしながら悔い改めなければなりません。分かりますか。

 それは神様に対する冒Bであり、先祖に対する冒Bであり、父母に対する冒Bです。三世界に対する冒Bです。天使世界とアダムの世界、そして本然の世界、すなわち本郷の世界に対する冒Bだというのです。そのような者は、許される道がありません。

 しかし、先生はこのような者たちを集めて約婚してあげました。子供を間違ってもった父母の悲しみを感じながら、皆さんに対しているのです。ところが皆さんは、このようなことは夢にも思っていません。

 それゆえ、皆さんは、ただ一つの信念をもたなければなりません。悲しみを受けても、真の父母の前に変わらない孝子となり、忠臣となりますという信念をもたなければなりません。分かりますか。それこそ重要なのです。今までそのような信念をもてなかったならば、悔い改めなければなりません。備えられなかった身でここに来たのなら、恥ずかしさを感じて自重しながら天の同情と哀れみを請う一念が必要なのです。皆さん自身について見れば、ああだこうだと言える余地はありません。

 祝福はこのようにとてつもないのです。先生もそこに引っかかって一生の間、闘争してきたのです。そうするために、花のような青春をすべて失ってしまいました。五十歳を越え、六十歳に手が届く今まで、白髪がなびく今まで、この仕事をしているのです。あきれ返るでしょう。

 先生がいなければ全部滅んでしまうので、第一次七年路程で残った群れがいるとすれば、彼らを引っ張って行かなければならない父母としての責任を締めくくるために、この仕事をするのです。それで皆さんも集めておいたのです。それゆえ、皆さんは、骨が溶けるようなことがあっても必ず行きますという信念をもたなければなりません。「私はここに属した人である。この法度と原則を通して、その国の創建のための役軍としてその国に向かって行くのである。天の仰せと命令により、忠臣のように死の道を自任しながらも、数多くの先祖たちの前に、神様の前に道理を立てていかなければならないのが、今日の私自身である」と新たに覚悟しなければなりません。そのようにして、この仕事は始められなければなりません。(276)

 祝福の位置は、天との一番勝負の立場に立って、神様が認定せざるを得ない位置から出発しなければならないのです。これが堕落人間として取るべき態度です。そうであるにもかかわらず、そうできない時には、敗者として残される位置がこの位置であるのを、皆さんは知らなければなりません。皆さんがこの位置で一度失敗することになれば、皆さんの億千万代の後孫が引っかかっていくようになるのであり、同様に、先祖まで引っかかっていくようになるのです。(277)

 祝福される前に、先生が皆さんを呼んで問答する時間は、皆さんにとって最も貴い時間です。将来、その多くの人々を祝福してあげるために、このような期間を本部でもとうと思います。そうしようとすれば、相当多くの時間がかるだろうと本部で心配しますが、数カ月かかるとしても、先生は毎日のようにその仕事をしなければならないというのです。それはたやすい仕事ではありません。だから、皆さんはその代わりに多くの祈祷をしなければなりません。精誠を尽くし、この場に来なさいというのです。(278)

 日本でも、祝福だ何だというので、男女関係が活発になっています。自分たちが勝手に約束しても、先生は知っています。知らせたくなくても、どうせ先生に告白しなければなりません。兄弟以上の男女関係で互いに会うのは、サタンの実体と同じです。そのようなことは絶対に許されません。そのような要素が少しでもあれば、切っていかなければなりません。(279)

 皆さんは、六千年歴史の血統的罪の総合実体です。六千年罪悪史の展示品です。皆さんの細胞一つひとつには、六千年の罪が絡み合っています。これを解くために、歴史的な悔い改めが必要なのです。(280)

 皆さんの血の中には、サタンの血がざわめいています。それゆえ、神様が近づくことのできる要素の全部を備えられなかった自分自身の恥ずかしさを自嘆し、これを呪い、踏み越えてきた後に、ここ、この場に来なければならないというのです。ところで、皆さんはそのような考えをしてみましたか。(281)

 皆さんが真の父母から相続を受けるためには、サタン世界でもっていた野生のオリーブ的な性稟が残っていてはならないということを、はっきり知らなければなりません。自分の欲心を充足させるために、善悪を見分けずに実行したりしてはなりません。そのような人は、神様とは無関係ですから、サタン世界の人であらざるを得ないのです。(282)













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