祝福家庭と理想天国
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第七章 真の夫婦と理想家庭

  第一節 真の夫婦
  第二節 理想家庭
  第三節 祝福家庭の生活
  第四節 真なる父母と子女
  第五節 子女教育


第一節 真の夫婦

  1、創造本然の夫婦関係

 一男と一女は、無形であられる神様の実体対象として現れた息子・娘です。男は神様のプラス(+)の性稟を、女は神様のマイナス(−)の性稟を代身した実体対象です。創造理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合成一体化するものです。一人の男と一人の女は、おのおの神様の一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、神様のプラス(+)の性稟とマイナス(−)の性稟が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。それゆえ、人間の二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体です。

 男は神様のプラス(+)の性稟を代身することによって真の父の分身となり、女は神様のマイナス(−)の性稟を代身することによって真の母の分身となるのです。彼らはおのおの神様の代身者でもあります。愛で一つになることは、天宙を抱くことと同じです。これは宇宙的な出会いです。

 夫は多くの男性を代表して現れた存在ですから、夫であると同時にお父さんの代身でありお兄さんの代身であり、妻は多くの女性を代表しているから、妻であると同時にお母さんを代身し、お姉さんを代身しているので、互いに愛し合い尊重せざるを得ないのです。(1)

 男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。(2)

 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平行線を成さなければなりません。(3)

 男性と女性の愛の完成が、宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台なしになります。(4)

 男女が一つとなることは、天地が一つとなることです。(5)

 男性と女性が互いに好きになって抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成された創造本然の姿はそうです。(6)

 アダムの願いは、天宙を支配することでした。アダムが抱き愛した夫婦の価値は、世界の中心価値を代身したものではないでしょうか。そのような立場で愛を占有すべきであったのに、今日の堕落した悪の社会相をごらんなさい。肉的な満足だけを求めているでしょう。そのような退廃的な皆さんとなってはなりません。(7)

 堕落しない神様のつくった本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛が、どれほど神聖で価値があるかを、はっきり知らなければなりません。(8)


  2、復帰されるべき真の夫婦の理想

 結婚をすれば、妻は自分の夫を神様の代身者だと思わなければなりません。妻は夫のもとで娘の立場とならなければなりません。神様が失った娘を、夫として復帰しなければなりません。神様は堕落によって三つを失いましたが、そのうちの一つである神様の娘の立場を、夫を通して復帰しなければなりません。そして、妻は夫をお父さん以上に信じなければなりません。今まで自分の体験を総合した価値よりももっと貴い価値を発見し得る基準に立って、向かい合わなければなりません。そのような心情基準を復帰することができなければ、サタンが破壊した理想相対の基準を取り戻すことができません。

 その反対に、夫は妻に自分のお母さんのような心情で対さなければなりません。そして、互いに離れては一日も過ごすことができないほど、夜も昼も絶対的に必要な間柄にならなければなりません。このように夫婦が一体となっていかなければ、復帰の条件は立てられません。(9)

 神様は堕落によって三つを失いました。それでその一つである神様の娘を、夫の立場で復帰しなければなりません。そして、妻は夫をお父さん以上に信じなければなりません。自分の今までの体験を総合した価値以上の価値を発見した基準に立って、向かい合わなければなりません。そのような心情基準を復帰することができなければ、サタンが破壊した理想相対の基準を回復することができません。

 それと反対に、男性は自分の妻に対して、自分は妻の息子だという心情をもたなければなりません。妻に対して自分のお母さんのような、自分は息子のような心情がわき上がらなくてはなりません。また、一つは、もし「私」がいなければ、一日も過ごすことができず、夜も昼も絶対的に必要な私たちだという心情をもたなければなりません。そのようにして、夫婦一体とならなければ、復帰の条件は立ちません。(10)

 男性には妻がお母さんの分身であり、お母さんの結集体です。同時に、お姉さんの結集体であり、妹の結集体です。そして、宇宙を代表した女性の結集体です。そのような内容をもっている妻を愛することは、すべての人類を愛した結果となります。それはまた、すべての女性を愛した立場に立つようになり、自分の家のお母さんとお姉さんと妹を愛したことになります。

 同様に、女性において、夫はお父さんの分身です。また、お兄さんの結集体であり、弟の結集体です。これが、私たちが成すべき家庭の理想です。(11)

 男性は真の父の分身であり。女性は真の母の分身です。それゆえに、夫が妻を無視すれば、真の母を無視するのであり、妻が夫を欺けば、天を欺くことになります。(12)

 妻は夫をお父さんのように思い、さらにはおじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければなりません。(13)

 妹のように育て、妻のように愛し、お母さんのように仕えてあげようという心持ちが必要です。愛は妹から、すなわち妹として愛し始めて、妻として愛さなければなりません。妹、姉、新婦、母のように愛さなければなりません。そうしてこそ、人間が堕落することによって失った、神様が果たせなかった愛をすべて復帰することができます。(14)

 結婚はなぜするのでしょうか。世界を愛する訓練を受けるためです。また、万民を愛することのできる資格をもつためです。(15)

 祝福は誰のために受けるのでしょうか。神様と世界のために受けるのです。それでは、愛するのは誰を愛するのでしょうか。世界を愛するために、世界を代表した一番近い人を愛するのです。

 女性は男性を、お父さんを代身し、夫を代身し、お兄さんを代身し、弟を代身した立場に立てて愛さなければならず、また男性は女性を、お母さんを代身し、妻を代身し、姉を代身し、妹を代身した立場に立てて愛さなければなりません。この四つの立場を代身し、世界を愛する心をもって一番近い立場で愛し尊敬しながら、相互いにその刺激を感じるように結んでくれる因縁が夫婦です。

 世界を愛する代身の立場として、世界的な愛を授け受けることのできる一番基本の単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表した立場で愛することのできる二人の男女が新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴をする場です。

 それゆえ、結婚すれば、妻をお母さんの代身として、お姉さんの代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫をお父さんの代身として、お兄さんの代身として、弟の代身として、それ以上愛する心をもち、愛さなければなりません。これが、理想相対を中心とした家庭的な夫婦の愛です。公式がそのようになっています。(16)

 皆さんは妻をお母さんのように思う心が必要です。そうしようとするなら、皆さんが子供にならなければならないでしょう? 子供になれというのです。子供になって悪くないというのです。女性たちは、男性が子供のように甘えればうれしがるのです。うれしがるか、うれしがらないか、やってみてください。子供のように、御飯も食べさせてくれとだだをこねてみなさい。幼子のようにしてみるのです。そうしたとしても、神様が物心のつかない奴とはいいません。復帰途上ではそのようにしなければならないので、仕方がないのです。ですから、妻に「母さん、御飯ちょうだい!」と言えば、女性は気分がよくて「ああ、大きな赤ん坊が現れたね!」と言いながら育てるというのです。そうしなければならないのです。

 堕落によって失った女性の愛を、皆さんの一生の間に復帰しようという心をもたなくては、本然の家庭基準を復帰できないのです。分かりますか。

 神様は一人に対して、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛のすべてを成せなかったことが恨みです。それゆえ、そのような愛を一人に対してすべて誘発させる立場に立ってこそ、心情的な天国を復帰するのです。ですから、愛する問題しかありません。そうでしょう? 結果的に愛が問題だというのです。(17)

 新しい歴史は新郎新婦から始まるのです。そして、イエス様を信じることによって真に純粋な、純情な因縁を結ばなければなりません。そこから約婚段階にとどまるのではなく、彼は「私」の夫であり、彼女は「私」の妻だということのできる夫婦とならなければなりません。その夫婦は、過去の歴史を審判し、新しい先祖として新しい歴史を厳粛に出発することのできる立場に立たなければならないのです。そうする前には、人間として行くべき道をすべて行ったということができません。(18)

 新郎新婦が個人的に蕩減復帰をして、天地の法度を代身した夫婦となれば、神様が「お前は私の肉の中の肉であり、息子の中の息子であり、孝子の中の孝子、忠臣の中の忠臣だ」といえる、そのような夫婦となるのです。そうして、万国を代表する基準を立てることのできる資格者となります。(19)

 ここに祝福家庭がたくさんいますが、家庭生活はどうですか。夫婦げんかもしますか。人の夫や妻になるということは、易しいことではありません。神様が地上に自分の相対を捜すことが、どれほど難しいことであるかを知っていますか。息子・娘を失った後に、今まで歴史過程を経てきながら、とても大きな犠牲の代価を払って地上に宗教を立ててきました。その犠牲の代価をもって、皆さんは呼ばわれ、皆さんを愛する心で祝福をしてあげたのに、そのありがたさも分からずけんかをするなんて、あり得ることですか。一つの国の大統領は易しいかもしれませんが、一家庭の夫となり妻となることは、決して易しいことではありません。家庭において夫は、神様を代身する存在となります。結局、地上に神様が実体として現れるのが夫です。また、男性が天の代身だとすれば、女性は地を代身した実体なのです。そのような道理で見るならば、互いが一つとなってこそ調和が生まれるようになります。そこには理想が成就し、歌と喜びが充満するようになるのです。愛の力は無限なものであるがゆえに、神様の愛に酔うようになれば、神様と一体となって直接主管を受けるようになります。

 皆さんを祝福してあげたのは、神様の愛を受けられる相対的な家庭になるためなので、けんかをしてはなりません。妻が間違ったことに対して夫に責任がないのではなく、妻は悪いが夫だけは立派だということはありません。その夫に、その妻に、この国のどのような人よりも、この世界のどのような人よりも、神様を代身して侍ることができなければなりません。(20)

 統一教会の女性たちは、夫を神様の代身者と思わなければなりません。夫もまた同様です。夫に神様のように侍る人が真の愛をもって生きる人です。

 その次には、自分の夫に主のように侍らなければならないというのです。主は万王の王であるので、王のように侍ろうとしなければなりません。

 皆さんは、神様の代身であり、王の代身である夫と生きることが幸福でしょう? それゆえ、夫を見るとき、神様を見るように喜ばなければなりません。愛は変わらないがゆえに、何でもすべて通じることができます。愛の道……。愛は個人から家庭と国、そして世界を経て神様まで越えていくがゆえに、全部通じることができなければなりません。

 夫に出会うとき、妻が主に出会うように喜び、王に出会うように喜べば、その女性は神様の相対のような価値をもつようになるのです。神様の相対のように思えば、神様のような価値が現れるようになっています。夫はこのような立場で妻を愛せというのです。国を愛し、主と神様を完全に愛したというとき、この愛はどこでも通じるというのです。それゆえ、この三つの愛は、水晶体と同じです。真の愛は森羅万象を統合させることができます。

 そのような愛をもって霊界に行けば、神様と一つになることができるのです。なぜなら、真の愛は境界線がないからです。だから、あなたの夫はどこから来たかと尋ねるとき、神様の愛の包みを担い、神様が送ったので来て、主と王が送ったので来たと言うことができるのです。そのように来る客は、美男であろうとぶ男であろうと、自分の夫です。そのように思わなくては、結婚する資格がありません。だから、このような愛をもって四方に連結されるとき、世界がその愛の圏内に入るようになるのです。だから、王のように民を愛し、主のように世界の人を愛し、神様のように宇宙を愛するのです。そのように生きる人が天国に行くことができます。自分の妻と夫を愛するように、主を愛するように世界人類を愛するようになれば、そのような人が行く所が天国となるのです。結局は、神様と主と王、愛の面で三つは一つです。(21)

 世界が一つとなり、宇宙が一つとなる道はどこからでしょうか。それは男性と女性が一つになるところから始まると見ます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴しています。そして、男性は主体的な立場にあります。また、男性は誰かの干渉を受けることを嫌います。しかし、愛と真実は、どのような人でも支配することができます。また、女性たちは愛されることを好みます。だから受動的です。そのようなことを見るとき、男性は与えるタイプであり、女性は受けるタイプだということができます。そのような意味で、男性と女性が一つになることは、天地が一つになることと同じです。だから、自分の相対は、宇宙よりももっと大きいと思わなければなりません。なぜなら、愛だけが宇宙を支配するからです。自分を貴く思ってくれる相対を迎えたいのが人間の望みであり、目的となるのです。(22)

 人を愛さなければなりません。男性が男性を、女性が女性を愛するのではなく、男性は女性を愛し、女性は男性を愛するようになっていますが、その男性の代表と女性の代表が夫婦です。夫は、大韓民国の男性の中から一人を選んで、すべての男性の代表者として送ったのであり、妻は数多くの女性の中の代表として送ったのです。その範囲を広げるならば、世界の男性と女性は、歴史以後霊界まで、億千万の男性と女性を代表して出会うようにしました。(23)

 これから天国を築こうとすれば、夫婦同士が愛するのと同様に、結婚した男性は、世界のすべての女性たちを、自分の妻を愛する心をもって愛そうとしなければなりません。その「世界のすべての女性の中で、代表的な伴侶として私が妻を選び出したのだ」と、このように考えなさい。また女性たちは、自分の夫に対して、全世界の男性たちの中から代表として選び出した人だと考えるのです。(24)

 国を愛するためには、まず何を愛さなければならないでしょうか。国を愛そうとすれば、まず男性は一人の女性をこの国の代表的な女性として認め、愛することができる者とならなければなりません。分かりますか。女性なら女性、男性なら男性の中で一番代表的な人として認め、愛すればよいというのです。

 女性が男性を愛するときは、三千万を代表した男性として認め、愛さなければなりません。このように代表者の立場に立った男性と女性が一つとなって家庭を築くようになれば、この家庭は天の国の家庭となるのです。(25)

 未来に天国の感情を紹介し、これを教えてあげるために夫婦の愛が必要なのです。(26)

 統一教会の家庭は、家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜ、そうでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭で相対によってその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。それを体得するために、夫婦が必要なのです。分かりますか。その刺激によって、夫婦が永生することができます。発展は刺激がなくてはできないのです。

 夫婦の愛は、理想天国を建設することのできる刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給し、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。その愛の中には、国の愛も入っており、世界の愛も入っており、神様の愛も入っています。したがって、その愛はどこでも無事通過です。

 結局、天国には互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。それゆえ、この地でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は「天国はあなたの心の中にある」と言ったでしょう?

 けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」というのです。家庭で天国を築くことができないというときは、統一教会のみ旨が成されないのです。けれども、築くことができるというときは、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは原理を中心として正道の道を選んでいかなければなりません。(27)

 皆さん女性がどうしなければならないかといえば、一人の男性を愛しますが、ただの男性として愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性はお父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。

 それはどういう意味でしょうか。夫をお父さんのように思わなければならず、さらにはおじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように、弟のように思わなければならないということです。このような因縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんや弟を好きになることのできる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは神様の公約を外れた立場です。

 だから、どうしなければならないかといえば、全世界のすべての男性をも全部愛することができる心を内包し、その結実のような男性を「私」が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛することだという観念をもたなければなりません。「私」のお父さんのように、「私」のお兄さんのように、「私」の弟のように万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人は神様の息子、娘だと言うことができます。これが統一教会の思想です。(28)

 死ぬにおいても、家庭のために死のうとする人に、家庭を捨て国のために死ねと言えば、それは福を受けるという話です。その話は誤っていますか。誤った話でなければ、しなければなりません。生活に疲れている男に、家庭を犠牲にしなさいと言っても構わないというのです。家庭よりもっとよい、天国の門が開門され得る東方の曙光が差してくる土台があるとすれば、それが民族です。「私」の生活よりも民族の生活のために尽くしたというとき、その人を民族が擁護してくれるのです。彼が飢えれば、民族が涙を流すときが来るでしょう。家庭を越えて、民族と世界のために犠牲になったという群れが現れるようになるときには、間違いなく争わず世界を支配することができるでしょう。天はこの作戦を使ってこられたのです。

 それでは、鏡の前に自分の顔を映してみるとき、「お前は自分のために今までどのような夢をもってきたのか」と尋ねてごらんなさい。その夢は「私」のための夢ではなく、天のための夢であり、世界のための夢であり、人類のための夢でなければなりません。「私」の一生一代に、男女間で愛する愛よりも、世界を愛し、神様を愛し、人類を愛した後に、「私」を愛してくれ得る人を相対として迎えたがらなければなりません。そのように愛する人が理想的な男性であり、理想的な女性です。国はどのようになっても、今私たちが出会ったので、二人は別れてはならないといって、その人が忠臣となり得る歴史を編んできたにもかかわらず、妻が立ちはだかって妨害をしたならば、その妻は悪いのです。それゆえ、あなたの家の家族が怨讐だといったのです。天国に行くことのできる峠道で、首を切る人が愛する息子・娘であり、妻であり、父母なのです。(29)


  3、祝福を受けた夫婦の立場

 神様の性相は、男性的な父なる神様と、女性的な母なる神様でなっています。ですから、神様からつくられた人間と被造世界が、男性と女性格の二性でなっているのです。エバは、縦的な神様の前に横的なアダムの妻として、母なる神様でもあります。

 縦的な神様と横的な父なる、母なる神様が出会うときがいつでしょうか。縦的な神様と横的な神様が出会うときが、まさに祝福結婚をするときであり、場所は家庭なのです。神様と人間が一つになる条件ができるのが、家庭が形成されるときなのです。

 家庭が築かれる時と場は、縦的な神様だけでなく横的な父なる、母なる神様がすべて喜ぶのです。この出会う場は、枝と葉のように自然に同化されるようになっています。これが神様が理想として望まれる愛の種子なのです。(30)

 祝福結婚した家庭で、男性は神様のような権威をもって、女性は神様の妻のような権威をもって暮らさなければなりません。神様を中心として縦的に男性と女性が一つになれば、霊界に行っても、宇宙の中で愛をもって出会い、暮らしていくようになるでしょう。アメリカ人の男性と女性たちが授け受ける愛とは、根本的に違うといえます。

 真の愛をもち、男性と女性が神様の権威をもって暮らすことは、神様とこの宇宙の全体の関係に属することです。根本と結果が一つの愛であるからです。そのような愛の関係は、縦的愛の原則であり、横的愛の原則なのです。(31)

 エデンの園でアダムとエバが堕落することによってもたらされた、人類の悪なる父母の起源を越えて立ち、これを反対にたどって上がり、善なる父母の基準を決定し、善なる世界の善なる先祖の権利をもつ特権的な恩賜をもって現れたのが、祝福家庭を成す夫婦です。ですから、その夫婦が喜ぶことは、天と地が喜ぶことだと言えなければなりません。このような家庭とならなければなりません。(32)

 問題はどこにあるでしょうか。サタンがイエス様に「あなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言ったのは、あなたが神の子であるなら、堕落圏を越えなければならないのではないか、あなたが神の子であるなら、私の試験に勝利しなければならないのではないかということです。それはイエス様が神の息子としてこの地に来たのなら、神様の復帰摂理の過程にあった受難のすべての要件が、イエス様の中に一つもあってはならないということです。

 このような立場で、アダムを再び復帰するために訓練してきたのが、今までの六千年の歴史です。それでは、アダムを復帰した後には、何をするのでしょうか。エバを創造するのです。それでもって、エデンの園のアダムとエバのようにほうっておいてはなりません。よく管理をし、よく主管をしなければなりません。彼らが東に行けば東に行き、西に行けば西に行って、いつでもそばでよく管理しなければならないのです。皆さんが今そうです。現在、祝福を受けた家庭が、アダムとエバと同じだというのです。(33)

 エデンの園で兄妹が堕落したため、夫婦は兄妹のように神様の前に精誠を尽くし、神様の公認を受けて、蕩減の峠を越え、サタン世界を越えて解放圏内に入らなければなりません。だから、神様の愛を中心として再び春を迎えなければ、その夫婦は天国に入れません。それゆえ、今までの宗教を信じる夫婦たちは、すべて霊界に行くとき、互いに別れるというのです。

 しかし統一教会は、地上でも別れず、永遠なる世界でも共に暮らすことのできる方法を教えてくれます。先生がこの仕事をするのです。それが祝福なのです。(34)

 今日サタン世界のすべての人間たちは、全部天使長たちです。堕落した天使長と同じです。それゆえ、サタン世界の女性は、アダムを惑わしたエバの立場であり、サタン世界の男性は、反対にエバを惑わした天使長と同じ立場です。だから、堕落したエバと天使長と同じ立場から、堕落する前のアダムとエバと同じ立場に立ったというとき、彼らの管理をどのようにするかが問題です。

 皆さんもまた、そうです。広い広い天宙に人が多いと考えてはなりません。世界には人類が三十億いますが、彼らは全部私たちの怨讐です。ここで皆さんは、神様を中心とした父母の子女として四位基台を成しているのです。ですから私たちが、霊界や肉界から堕落の要素を全部引き抜いてしまわなければなりません。ここに向かってサタンが総攻撃をしますが、その攻撃を私たちが食い止めようとするなら、それ以上の力がなければなりません。

 そうして、アダムが堕落したのを復帰することのできる立場に立っている自分を自覚したとき、復帰されたエバの立場も見いだすようになるのです。そうして、解放された夫婦として、神様に侍ることのできる天道を正さなければなりません。天道を立てなければならないというのです。そうすれば、そこから新しい氏族が出発するのです。(35)

 今までの歴史過程においては、神様と父子の関係たる愛の法度、息子・娘との愛の法度を見せてくれましたが、男女間の愛の法度は見せてあげられませんでした、イエスと聖霊、新郎新婦が愛することのできる、その法度的内容は見せてあげられなかったというのです。このような新しい事実を、私たちが見せてあげなければなりません。それを見せてあげれば、その基準を中心として生活していけばよいのです。(36)

 神様が、六千年間愛する息子・娘を探してこられながら、愛の姿勢を見せてくださいましたが、男性が女性に、女性が男性に尽くす愛を、万民に見せてあげられなかったというのです。神様は縦的な基準で、ご自身の息子と娘である人類を愛するその心を中心として、愛の価値を見せてくれましたが、横的な基準で、男性と女性が愛することのできる、男女間の愛の価値を立てられなかったのが恨みだというのです。

 それゆえ、イエスと聖霊の実体を立て、万国が歓迎し、万民が侍る中で愛の価値を全天上世界に輝かせ、全宇宙いっぱいに証すことのできる土台を備えることが神様の望みなのです。これを成すことができなかったことが神様の恨みであり、イエスと聖霊の恨みだということを知り、皆さんの時代に、そのようなイエスと聖霊の恨みを解いてさしあげなければなりません。

 皆さんは、新しい時代にそのような一つの伝統を立てなければなりません。そのために女性を探さなければならないのであり、男性を探さなければならないのです。(37)


  4、理想的夫婦

 なぜ神様は、男性の前に女性が必要なようになさり、女性の前に男性が必要なようになさったのでしょうか。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて、彼らが完全に一つの望みを中心として神様の愛をもち、未来の世界に向かって共に暮らせるようにするためです。生活を引き込んで、現実の生活で互いに感知しながら暮らしていかなければなりませんが、そうすることのできる存在が何かといえば、夫婦だというのです。

 そのような家庭で互いに手を取り合い、幸福を歌いながら未来を約束し、未来の世界を確約しながら、現実を否定し、未来の世界を肯定していくこのような夫婦がいるなら、どのような生活環境であっても彼らを支配できないでしょう。現実の生活がいくら困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、それは未来の世界に対するビジョンを加えてくれるようになるのです。そうなるときには、どのような現実の困難であっても、彼らを拘束できないということを知らなければなりません。

 男性と女性が皆そうすることのできる立場に立って、未来を愛し、互いに尊重し合いながら、未来のための心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させ、尊重視することのできる夫婦の因縁を備えたとするなら、ここから幸福の土台が築かれるでしょう。

 神様はアダムにはエバが必要で、エバにはアダムが必要なので、彼らを理想相対として立てたという事実を知らなければなりません。その相対たる存在は、現実的に主体と因縁を結ばなくては、未来と連結させることができないのです。イエスと聖霊を主体と対象の立場に立てておいたのも、この天宙の事由に通ずるための内的事情があったからです。これは誰も否定することができません。(38)

 家庭を中心として見るとき、互いに主管圏を広げるために相対を求めて結婚するのが夫婦なのです。(39)

 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が生活圏を越え、生涯を越えて、神様の目的と一致したに違いないという家庭を築かなければなりません。そうでないならば、永遠の神様がおられる天国に入ることができません。それが結論となるのです。これが創造なさった神様の目的なのです。(40)

 神様は縦的二性性相であり、人間は横的二性性相として、二つが一つとなって完全なるまろやかなリンゴのような形を成し、四つの性相形態をもった東西南北に、愛の理想を引き付けることのできる母体を結ぼうというのが、夫婦の理想です。(41)

 夫と妻が互いに愛し合うにおいても、神様の代身者として夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。(42)

 夫婦間において、夫や妻が非を犯したといって、みんな離婚をするならば、家庭制度も破壊され、社会秩序は混沌に陥るしかありません。その非の軽重によって、蕩減期間を与えて反省するようにし、分からなければ教えてあげて、家庭の調和を成していくべきでしょう。だから、再びそのような非を犯さないよう、導いていかなければなりません。(43)

 真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人はある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていくことのできる、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、夫婦が神様の愛に同参できるのです。(44)

 真の夫は「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもつことのできる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭であらざるを得ません。(45)

 ここに来られた皆さんは、バーミンガムでも重鎮であられる方ですが、今まで自分が社会でこれほど出世したのを、男性たちは全部が自分ゆえだと考えるかもしれません。しかし男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性ゆえに生まれたというのです。女性がいなければ男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、「私」がアメリカのある俳優だと誇っても、その女性は女性ゆえに生まれたのではありません。だから男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを持ってきて合わせれば、よく合うようになっています。

 それゆえ、真なる愛の妻、真なる理想的な、幸福なる妻と夫はどこにいるのかといえば、「私」のためにではなく互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。それは間違いない事実です。このような原則を置いてみるとき、理想的な愛や、また幸福で善なる人をどこで探すことができるかといえば、自分のために生きようとするところでは探すことができず、人のために生きようというところに根拠を置いてこそ探すことができるのです。この原理原則を、今日人類は知らなかったというのです。(46)

 夫は妻のために生命を捧げることができ、妻は夫のために生命を捧げることができなければなりません。その夫婦は神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので、堕落はあり得ません。夫婦間において「私があなたをもっと愛しているでしょう、あなたは私をもっと愛しますか」という言葉は必要ありません。(47)

 真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫は、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。(48)

 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、力がわき出る妻を見て夫も力が出るようになっています。だから、彼らはお金を稼げなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。

 真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。(49)

 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。(50)

 愛を中心として、漸進的発展を成していかなければならないというのです。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中、二人の夫婦が神様を愛する家庭をつくりあげていかなければならないというのです。(51)

 統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体をもって展開させられる夫婦です。最高の文学を展開させられる夫婦なのです。最高の理想、世界最高の文化世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受ける甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。(52)

 妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた因縁が最高の因縁です。人が何を言おうと最高です。このようなものは何億あげても買うことができないのです。このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、これはどれほど素晴らしいことでしょうか。すべての人がその程度にはならなければならないというのです。

 妻は夫によく従い、よく助けなければならないのです。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。現実で一生の間そのように暮らさなければならないというのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために新しい歴史を創造してきたのです。(53)

 夫婦が互いに愛し合うにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若いときだけ愛すると言うなら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」ともいいますが、死ぬときまで、その次に永遠に愛することを望むというのです。永遠は未来を中心として、全体を代身するのです。死ぬときまで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬとき」まではすべて愛するということです。そうしてこそ(相対が)喜ぶのです。

 ここの娘たちは、今から嫁に行くようになれば、夫に間違いなく「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。愛すると言えば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、すべてを愛すると返答してこそ、気分をよくするというのです。男性もそうだというのです。仕方ありません。神様の調和がそのようになっているというのです。(54)

 人々は結婚するとき、互いに死ぬまで愛するといいます。愛するという言葉を語るとき、ただ死ぬまで愛すると言うのと、百年、億万年愛すると言うのと、どちらを願いますか。女性たち、返答してごらんなさい。ただ死ぬまで愛すると言うよりも、億万年愛すると言うほうが喜ぶことでしょう。

 これが十年、百年、千年、このように長くなるほど、もっとよいというのです。夫が妻と出会い、「ずーっと」、その次に十年が過ぎても「ずーっと」、また五十歳、年をとっても「死ぬまで愛する」と言うことができるなら、その妻は、自分の年とった旦那さんがどれほどいいか分からないと言うでしょう。そういうものです。おなかが出てきても、喜ぶというのです。(55)

 男性が女性一人を扱えなければ、死ななければなりません。ところが、女性だといって無視してはなりません。「私の愛はこうだ」というのでは、通じないというのです。だから、互いの間をあまねく研究しなければなりません。神様がごらんになるとき、聖別された生活ができず、家庭復帰がうまくいかないでいるなら、だめだということを知らなければなりません。(56)

 本来、孝子は心が変わらずに父母に真っすぐにいく人であり、忠臣は心が王に真っすぐいく人です。同様に、聖人は心が変わらずに神様に真っすぐいく人です。言い換えれば、死の場に出ていくとしても、その心が変わらずに真っすぐであってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人となることができます。

 このように見るとき、真なる夫婦は、妻の心が夫に、夫の心が妻に真っすぐにいくことができなければなりません。だから統一教会の運動は、東洋の人でも西洋の人でも、みんな神様に向かう心が変わらないように真っすぐに立てようという運動です。それゆえ、先生に対する東西洋の食口たちの心は、皆同じだということが分かります。(57)

 夫は妻が貴く、妻は夫が貴いですが、互いに自分たちだけで出会った相対ではなく、公的な天道を前に置いて出会った人々です。そのような道であるほど、精誠を尽くして神様の前に節義と気概をもって行くようになれば、必ず私たちの行く道は打開されます。(58)

 み旨のために神様のために、「私」が世界のために行かなければならないというとき、早く行きなさいと激励する群れとなってこそ、理想的な夫婦だといえます。(59)

 とてつもない天理の軌道の前に輝く太陽と満月のように輝ける夫婦となるべきであり、真っ暗な天地や真っ黒な雲に覆われた日の光や月となってはなりません。(60)

 純粋な男性と女性として赤い愛の情熱の心をもち、天地を代表することのできる男性と女性、そのように束ねられた夫婦を天は探しています。

 再び先生に会うときまで、愛らしい記録の内容を残しなさい。そのような夫婦の愛をもち、そのような愛で息子・娘を育てなければなりません。(61)

 父母としての心情を備え、神様の垣根になることのできる夫婦とならなければなりません。(62)

 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入れることはできません。有識と無学が夫婦の愛を曇らせることはできません。「私」の夫は何かの勉強をしなければならないと考える妻がいるかもしれませんが、先生はそのようには思いません。(63)

 最近済州道の娘が嫁ぐとき田畑を与えれば、登記するのに娘の名でするというでしょう、いつでも夫と別れれば自分の主張をするために。それは本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金……。女性たちはそうするでしょう。お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金……。

 それは愛ではありません。お金の包みを広げておいて、使っても「どうなった?」「私が使った」「そう? よいときに使ったわね」これでこそいいのです。口をぷるぷる震わせ「ああ、また使ったわね!」これは落第者です。

 それゆえ、いつも与えても、無限に与えることができ、いつも思いのまま深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授け受けることができるようになるときに、幸福なのです。それゆえ、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときは不幸なのです。目配せをすればさっと受け止め……。気分がいいですか、悪いですか。

 幸福とは何でしょうか。無限に与えたいときに与え、無限に受けたいときに受けることが幸福です。それが事実なら、今日人間もこの世界のために、与えたいときに与え、受けたいときに受けるのが幸福なのです。(64)


  5、夫婦の愛

 夫婦の愛とは、男性と女性の愛が一つとなることをいいます。夫婦の愛は、父母の愛を中心として子女の愛と一つとなって、その愛を中心として神様の愛と一つとなることができるのです。完全なる夫婦愛の起源が成されるときは、神様の愛が宿るようになるのです。(65)

 夫婦が神様を愛し、人類を愛する心の基盤の上で、爆発するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であらざるを得ないのであり、人類のための愛であらざるを得ないのです。

 その愛の根はどこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様の愛が根源であり、人類の愛が根源なのです。(66)

 ハトも互いに「クックックッ」と声を出して呼び合いますが、皆さんも夫婦だけで会うときはどうしたらいいか分からないでしょう? 本当に愛し合う人同士が出会うときの音があるとすれば、雷が落ちる音より決して小さくはないことでしょう。

 そのような観点から、神様の愛を中心として強い愛をもったとするなら、この世で反対し迫害することは、楽しみにしかならないというのです。初恋にはダイナマイトのような力があります。アダムとエバは最近の若者たちのように、結婚もしないまま生きてみたでしょうか。真の愛は初めであるとともに終わりであり、永遠です。そのような強力で理想的な愛を求めているというその心が、いつもすべての困難をかき分けていくことのできる力となるのです。そうして愛の場にだけ出ていけば、サタンだけでなく、すべてのものをみんな退けることができます。(67)

 堕落とは、縦的な愛と横的な愛が出合って一つとなれる中心(センター)を失ったことです。それゆえ、堕落した世界において、夫婦の愛は現実で一瞬に別れ得る不安定な位置に置かれるようになりました。今日、夫婦の愛が死よりも濃いといっても、一言で三六十度背を向けるのが現実なのです。それは夫婦の愛が到達すべき所がどこなのか知らないからです。今日の世界が滅亡に向かって走っているのも、夫婦愛の秩序が壊れたからだといえます。(68)

 本当の愛は、体全体が一つとなり、心情と血管が全部一つとなって愛し合うのです。このように愛し合うことのできる人は誰でしょうか。夫婦です。夫婦のいない世の中に、生きる面白みがありますか。(69)

 いいのはすべていいですが、その中で一番いいのは何でしょうか。相対者しかありません。自分が「おい」と呼べば、相対的に「はい」と返答し、「やあ」と呼べば、「うん」と返答するのです。夫が愛する妻に、親しくもの柔らかく「お前」と呼べば、親しくもの柔らかく「何ですか」と返答します。けれども無愛想にして呼べば、同じように「何よ」と返答するのです。山びこと同じように、すべて相対的だというのです。(70)

 相手方を愛するとき、女性が男性の胸深くに入っていくときには、男性は反対しません。そのような女性を好むのです。愛するためにすべてのものを犠牲にし、全体を投入し、向かっていくそこには、すべての塀が崩れていくのです。同じ道理です。(71)

 神様も夫婦が情熱的に愛することを願うでしょう。だから、処女、童貞が結婚する前に手を握るなというのは、百ボルトなら百ボルトで愛し合うために、漏電する行動をしてはならないということです。

 そうなれば、全精誠を尽くして夫を愛することができるでしょう。どの程度かといえば、自分の夫が遠く離れていても、その妻は、自分が夫のもとに行こうと考えるより先に、夫のもとに行ってしまう程度にならなければなりません。夫が遠くに離れていても、何も言わずその夫についていくのです。(72)

 私たち個々人は体と心が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中に神様が臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けながら喜びを享受するとき、神様がごらんになるに、地上に咲いた花のようだというのです。

 また、彼らの愛によって築かれたすべての調和の万象は、神様には香りのようなものです。このような美しい花と香りの中に神様は暮らしたくて、訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一原理です。(73)

 神様が最高に喜ぶメロディーが何かといえば、男性と女性が互いに喜ぶ永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となります。そのような男女の美しい姿が、神様の前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本来の世界を語っているだけです。(74)

 夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生まれたのだと答えるのです。夫婦はまさにこのようなものです。この宇宙の存在価値を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。

 夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は同じ道に行くのです。そうでしょう? 田舎者の娘だといっても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道に行くのです。同じ道に行きますか、行きませんか。その田舎者の女性が小学校も出ていないといっても、すべての人が大臣の奥様だと言いながら、頭を下げなければならないのです。下げますか、下げませんか。下げます。このように夫婦はともに行くのです。夫婦に「あなた」の愛が別にあり、「私」の愛が別にありますか。「あなた」の愛であるとともに「私」の愛なのです。「お前」の愛であるとともに「私」の愛なのです。夫婦が互いに、あなたが私をどれほど愛するかと聞くとき、どれくらい愛するなら気分がいいですか。一番たくさん愛すると言ってこそ、気分がいいのです。そうでしょう?(75)

 愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は笑うとき目を一層大きく開けるのに、女性は笑うときそっと(目を)閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だということができるでしょう。(76)

 愛する夫婦同士、一般的に相手方の顔がどうだと規定しないようにしなければなりません。自分の相対の顔が一つの様子としてだけ感じられるとするならば、そのように飽きが来ることはありません。相手方の顔は、喜ばしい心でいれば、喜ばしい状態として現れ、愛の心をもって見るときは、美しく見えるのです。水が流れるとき、曲がりくねるように、一つ曲がりくねるごとに新しい形が現れるのと同様に、いつも相対の顔を新しく感じなさい。(77)

 男性が幸福なときはいつであり、女性が幸福なときはいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授け受けるときを、幸福なときだということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょう。男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。男性と女性間の愛において、力だけでもだめであり、心で愛するといって、(それだけで)いいのでもありません。愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょうし、また、女性が男性に対して体と心で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(78)

 愛はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというのです。いつも食べるご飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、味が新しいように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。妻と夫が互いに見詰め合えば見詰め合うほど、もっと見詰めたいし、一日中共にいたくなければなりません。そのためには、「私」に対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければならないというのです。(79)

 一番いいことは何でしょうか。食べることでしょうか。それが一番いいことではありません。御飯を見れば食べますが、そのようなことは一時的だというのです。いやと言うほど食べた後は、食べ物を与えたら嫌がります。

 けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしよう? 見ても見てもまた見たくなるのです。だから互いが、お前が前に立ち、私が後ろに立つと言いながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。(80)

 子供たちも嫁に行けば、夫を迎えるようになります。嫁に行く前は「ああ! 意地悪なこの男、私がどうして必要でしょう?」と言っても、一度嫁に行って、愛にがっちり掛かってしまえば、「ああ、あなたでなければ……」と、男性にしがみつきます。なぜそうでしょうか。愛がどうだということを知ったからです。知ってみると、自分より貴かったというのです。そのようなことを発見したので、そうなるのです。(81)

 結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしがることでもありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れていきました。(82)

 エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人がいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊りを踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸になって踊るのみでなく、どういうことをしたとしても誰が干渉するでしょうか。ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊ってみなさい。夫婦同士なのに何の問題がありますか。(83)

 この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。(84)

 愛は互いに恋しがるとき、価値があります。口があれば口を開け、目があれば目を開けて愛をくれと言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであり、ぼやぼやしていると、愛がやって来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻でなく、消極的に現れるとき、どれほど気分が悪いでしょうか。

 皆さんは愛する人同士が一緒にいるのがいいですか、離れているのがいいですか。近くにいるほどいいのです。どうしてですか。すべてが、一度に作用するからです。(85)

 愛する人が互いに出会って「ああ! 私はあなたを愛します」と大声で叫ぶよりも、無言で愛を示すほうがもっといいでしょう。言葉に出さず、心で深い愛を抱いているなら、それが貴いでしょう。

 西洋式愛は積極的であり、行動的な愛です。反面、東洋式の愛は内で、心で愛します。水深が浅い所では波が高く、深い所は穏やかなように、愛の水深も深いほど静かです。このように見るとき、はっきりと現れる愛より、見えない愛が貴いのです。もし、愛がはっきり現れるなら、どうなるでしょうか。もし、歩き回る神様がちょうどお一人でおられるなら、各国で互いにその神様に仕えますといって、争いが起こるかもしれません。しかし貴いものであるほど見えず、見えないものほど価値的です。私たちの心は見えませんが、見えない心の中に神様がおられるので、神様は貴いお方です。だから、心の中におられる神様を奪っていく人がないと見ます。

 愛の中でも見えない愛が最高の愛です。愛が見えるなら、おもしろくないことでしょう。愛は見えないので、最高に高くもなれるし、最高に広くもなれるし、深くもなれます。だから、「愛はロッキー山脈のようだ、愛はナイアガラの滝のようだ」という話は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えない所におられる神様も貴いお方です。その貴い神様を見いだすためには、無我の境地に、すなわち「私」のない境地に入らなければならないというのは合っています。神様は私たちが見ることのできるものよりももっと深い、見えない静かな世界におられます。(86)

 皆さんが暮らしているアメリカ式愛は、とても熱いように見えますが、実はぬるいのです。アメリカの人々を見れば、夫婦同士、朝起きて互いにキスをしますが、過ぎ行くハエが軽くとまってから行くようなものです。東洋の人々の夫婦を見るとき、夫が妻にキスをしてあげるとなると、愛する目で向き合って、恥ずかしくて顔を赤らめ、頭をそっと下げますが、その姿が絵になるようにすてきです。また、夫がどこかに旅行に行くときには、(妻は)カバンを持って後ろに従いながら、愛らしい心で見送るのも、とても甘く神秘的な姿なのです。ところが、アメリカの女性たちを見れば、部屋からついて出ていかず、あるときは顔も向けずに見送る光景が見られます。ですから、西洋をよく知っている東洋人たちは、アメリカの女性を妻に迎えようとはしません。(87)

 愛する夫婦間の対話を聞いてみるなら、この世のどのような詩よりも美しく、その姿はどのような絵よりも美しいのです。また、「愛する人同士、我々同士、我々二人で」という言葉は、どれほど美しくすてきな言葉でしょうか。(88)

 神様は人間をおつくりになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようになさいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、入るや否やけんかをしはしません。愛の門に入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互いが讃揚し合う甘い話だけだというのです。この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。

 夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。夫婦がささやく言葉の中で、「あなたは私を愛さなければ、だめ」とは言えないのです。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものであるからです。(89)

 愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こりもします。それは幸福に酔って、精神を正しくもてないからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出したりもします。

 愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして眠りたがります。だから昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間が空けば家に飛んできたりします。また、結婚する前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化だといえます。(90)

 男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手を口で覆うのです。愛の始まりが口づけだからです。

 愛が次第に成熟すれば、その結実として息子・娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできる鍵は、夫だけがもっているのです。夫が愛の聖所を開ける鍵を二つ以上もっているなら、その夫はサタンです。また妻の聖所が開くのは、夫がもっている鍵だけでなければならないにもかかわらず、どんな鍵でも開くならば、それもまたサタンなのです。

 夫がもった愛の鍵が妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子・娘が誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子・娘を通して、神様が人間の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体恤するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見てもわが愛する人……(パンソリ『春香伝』のb愛の歌aの歌詞)」と歌い、喜ぶようになるのです。

 愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ひたすらかわいく愛らしいのみなのです。それらの中に愛が染まっているからです。

 夫と妻の関係でも、強力な愛で結ばれたなら、相対がどのようなことをしても、うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だと言ったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。(91)


  6、夫婦の運命の道

 結婚とは何でしょうか。夫婦が行くべき運命の道を尋ねていくことです。現在の個々人の運命の道を越えて、加重された運命の道を追求することをいうのです。一度の結婚によって、二人の男女が一つの運命の道に束ねられれば、自分の思いどおりにできないのです。

 男性として生まれれば、男性の運命の道を行くのであり、女性として生まれれば、女性の運命の道を行くべきで、自分の思いどおりに運命の道を逃れて行くことはできないのです。自分の思いどおりにするのは、通じないというのです。運命の道を自分の思いどおりにできないので、嫌であろうとよかろうと、横に行こうと逆に行こうと、運命の道を行かなければならないのです。

 一度結婚をした後には、自分の思いどおりにできません。結婚して家庭をもった運命の道は、生命を懸けて行かなければならないのです。(92)

 人間が行く心情の道、男性と女性が一つとなって行く心情の道を拡大すれば、その焦点が神様の正道の道と連結され、一致しますが、それが男性と女性が一つとなってつくった家庭的愛の理想の決着点です。

 男性なら男性として、行くことのできるその一点を求めなければならず、女性なら女性として、神様の心情に帰着することのできる一点を求めて、それを延長して家庭的愛を中心として、夫婦が共に行く決着点を求めなければなりません。(93)

 愛が成される瞬間から、皆さんは二人ではなく一人なのです。夫婦となれば、独自的な行動はできませんし、連帯責任を負わなければなりません。(94)

 夫婦は対だと見ることができます。顔がおのおの違うように、人の運も異なります。一生の運命が異なります。夫の運命が悪くても、妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなり得ます。反対に妻の運命が悪くても、夫の運命が良ければ、それによってやはり良くなります。ですから、夫婦の運命は、山と谷を崩して平地をつくるのと同じだと考えることができます。平和をつくり、そこに夫婦の理想をもって、木を植えたり、畑を耕したり、いろいろな計画を推進することができるのです。

 そのような道理を考えてみるとき、相対を外面的にだけ見て、結合してはならないのです。結婚とは恐ろしいのです。(95)

 結婚がうまくなされなかったときには、男性が死んだり、女性が死んだり、二人が一緒に死ぬ場合があります。このようなことは、いくらでも見ることができます。皆さんが知らない所で、このような法則が適用されているということをよく知らなければなりません。そして、自分一代が繁栄するといって、これからもそうだとはいうことができません。少なくとも三代、七代以上を見なければなりません。そう考えたとき、皆さんの目で見たときは互いに合わないようですが、三年以上暮らしてみれば分かります。先生は歴史を置いて、伝統的側面からこのような話をしているので、夫婦が一つとなるよう努力しなければなりません。(96)

 皆さん夫婦は、昔のイエス様と聖霊の立場と同じです。皆さんが一つとなって、神様を中心として生命を懸けて痛哭すれば、必ず繁殖がなされるのです。そうか、そうでないか、やってみなさいというのです。そのようにならなければ、私の話はうそです。ですから皆さんはみ旨の前に自分の生命を懸け、残すべき後代の栄光のために、み旨の栄光のために一致団結し、一心に統一され、神様と授け受けることのできる基盤をつくるのです。完全に授受作用をすれば、繁殖が起こるのです。これが原理です。そのような原理的な生活を、皆さんの実体生活で培ってみてください。できますか、できませんか。そうできなかったから、今までこうなっているのです。(97)

 相対的な自分の愛を先に完成しなくては、絶対的な主体の愛の圏に到達できません。人間たちにはこのような運命が、創造のときから付与されたのです。ですから、その目的を果たせなければ破綻が生じるのです。(98)

 夫は体と心が変わってはなりません。一度約束すれば、千年万年であるべきであり、適当にごまかすなら、誰が審判するでしょうか。霊界に行けば、神様が審判するのではなく、妻が審判するのです。妻も、同様です。体と心が一つとなった状態、神様と一つとなった状態、夫と一つとなることのできる心、三段階を経て現れるとき、原理を完成した人です。(99)

 愛はただ一つしかありません。(100)

 夫婦として行くことのできる心情基準は、一つしかありません。(101)

 夫婦とは、百年だけでなく、永遠まで一心同体でなければなりません。(102)

 人間において、愛は永遠なものです。愛は、二つではなく一つです。男性と女性の間で愛が結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならず、死んでも永遠に共に暮らすようになっています。体は二つですが、一つとなって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つとなれば、神様と回るようになって、愛の四位基台を成すようになるので、それがまさに理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛だけが臨在するようになります。(103)

 祝福を受けた人の中に、自分の相対が気に入らないといって、自分は不幸だと嘆息する人がいるかもしれませんが、もし、そのような人がいるなら、その人は未来の天国のために歩んでこられた、神様の悲しみが分からない人であると言わざるを得ません。数多くの家庭の中で、もし「私」の相対がそのような立場にあるならば、神様はその相対の基準と「私」の基準の差を知っておられるので、その相対は満足しなくとも、自分が満足する心をもって神様の前に感謝を捧げるなら、神様が遠くない将来に福をくださることのできる一つの絶対的な条件となるのです。ですから、私たちはそのような人とならなければなりません。(104)

 最初、三年間は、接ぎ木しようとしても、一つとなるときまでは合いません。家柄が異なり、風習が異なり、礼節が異なった男性と女性が一致するのは何ですか。合わせるようにしてこそ、合うようになります。(105)

 妻というものは、夫に対して順応し、彼のために助けることのできる人とならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりませんが……。夫は妻に対して、原理がどのようなものであるかを教えてあげなければなりません。だから、結婚して三年間は、互いが神様のみ旨に一致することを望み、訓練する期間だと先生は考えています。神様を中心として一つになろうとすれば、どうしても三年はかかるだろうと私は見ます。

 神様のみ旨と原則に立脚し、恥ずかしくない父母の形態を備え、息子・娘を生んでみましょう! そうして家庭生活をするのが原理形だと見るのです。

 父母の役をするのも易しくはありません。夫の役、妻の役、すべてそうです。皆さんは統一教会の伝統を受け継がなければなりません。(106)

 女性がもっているすべてのものは、人のものです。したがって、女性には人のものをよく保管すべき責任があるのです。

 考えてみなさい! 女性の乳房、おしり、陰部などすべてそうではないですか。

 お客さん、使いの人、召使などは、すべて女性の立場です。初めは人の家に召使のような立場で入って、夫や舅・姑に仕えるような立場を経て、お客さんになって、最後には女王になります。

 女性は元来、男性の平均の声以下の声を出さなければなりません。女性はその声が愛のささやきのようでなければなりません。(107)

 東洋では、女性が話を聞かなければ、夫が殴ってでも癖を直すこともあります。アメリカの女性たちであれば、一遍に離婚するでしょう? そのような愛で愛して何をしますか。殴られても、「ああ、そうするな」と、つかんで泣くことができてこそ、愛するといえるのです。「私」の首を断ち切られたとしても、あなたを捨てることができないと言ってこそ、真の愛だといえます。私は皆さんをそのような女性にしたいです。

 皆さんはどのような女性になりたいですか。げんこつを一発食らって離婚する愛をもちたいですか。いくらそうだとしても、生命を捧げ愛そうという女性になりたいことでしょう。そうなりたい女性、手を挙げてみてください。本当にそうなら、アメリカの男性たちは、みんな統一教会の娘たちと結婚しようとすることでしょう。そうなれば、外部のいい新郎を求めますか、統一教会内にいる男性の中で新郎を迎えますか。統一教会から迎えたいはずです。なぜそうかと言えば、あだを討つのに、同参者となることができるからよいというのです。

 この世には名が通り、立派だという男性たちがたくさんいますが、愛のあだを討つにおいて、同参者となることができません。その神様の愛を求め、神様の愛をもつようになるときは、この宇宙が平和な世界になるというのです。(108)

 私たちは何の因縁をもっている人々ですか。愛のあだを討つべき因縁をもっているというのです。(109)

 人生世界の因縁を結ぼうとすれば、男性と女性は世界の平和のために出ていかなければなりません。一人だけ立派にするといって、平和は来ません。男性と女性の力が合わさって回らなければなりません。回るには、中央に突進しなければなりません。中央に向かって突進する力は、愛の力です。相対が現れれば、愛そうとする心が生じるのです。(110)

 胸が詰まるほどの痛みを感じるとき、誰もそれを解くことができません。神様ご自身もそれをどうすることもできません。しかしただ一人、自分の心情を理解する横的相対がいるなら、どれほど貴いことでしょうか。そして、相対に欠点があれば、神様に感謝できる条件となります。それは神様の重い荷を減らしてさしあげる条件となります。相対が一から十まで自分より足らないときには、かえって神様の前に、自分を表すことのできる条件となり得ます。(111)

 個人が滅びるのは構いませんが、家庭が滅んではなりません。

 夫においては妻となる人が、妻においては夫となる人が、世界で一番必要な人です。互いに勧告してあげながら、つえとなり、同役者とならなければなりません。(112)

 対象は、いいときでも悪いときでも対象なのです。夫が死ぬ場に行けば、妻も死ぬ運命にぶつかるのです。夫が死ぬ場に行ったのに、「あなたは死ぬ場によく行った」と言う、そのような人は滅びる妻です。夫も、同様です。

 為に生きる対象や為に生きる主体は滅びません。為に生きる主体がいるのに、為に生きる一人の対象がいないといっても、その対象は現れるようになっています。また為に生きる対象がいるのに、その主体がいなくても、最後まで行けば現れるようになっています。皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。何日かやってみて、やめてはなりません。始めたので「死ぬときまで、私の一代でだめなら、何代か、かかってもなるだろう」という心をもたなければなりません。何代か待てば待つほど、悪いのではなく、それは世界的な祝福を天がしてあげようと待っているのです。「粘り強い一族だから、お前の後孫はだいたい十代でも二十代でも待って、世界的な、歴史的な四季をお前たちの家庭にしてやろう」と、天はこのように考えるのです。(113)

 人間は堕落によって、神様の愛を失ってしまいました。神様の愛がない状態で関係を結んだのが堕落なので、今日私たちがこの世で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕うことのできない愛です。その愛は、全部地上で溶けてなくなる愛です。

 それゆえ霊界に行けば、地上でいくら仲むつまじかった夫婦も、他人になってしまいます。間違いなく別れます。しかし、もとから堕落せず、神様の愛で結合して出発した夫婦なら、永遠に別れ得ないのです。(114)


  7、愛する人が死ねばなぜ悲しいか

 愛する人が死ねば、なぜ悲しいのでしょうか。愛する人が死ねば、それを即時に感じますが、それはこの宇宙に満ちている超人的な力の作用によってです。人は自分にこの力が入ってくれば入ってくるほど、神様との縦的関係を中心として、宇宙的な力を感じるようになるのです。ところで、愛する人が死ねば、その力が自分から離れるようになります。そして、離れた結果を即時に感じるようになるのです。

 これは悲痛なことです。自分が完全な合格品にならなければならないのに、それによって不合格品に決められるのです。私たちの人生は、完成を追求します。ところが、それと反対の不合格の要素をもつときは、そこに比例する要件を宇宙の力が追い出すのです。そうなれば、それが苦痛として現れるのです。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。(115)

 地球上から消えるということは苦痛であり、痛みです。夫がいなければ、かえっていいと考えるのも、相対的な原理原則に外れ、宇宙公法に反するのです。それゆえ、夫が死ねば、私も死ぬと言うようになるのです。それがとりもなおさず苦痛です。すべての相対的な要件に符合するほど幸福なのです。いくら懇切であっても簡単なら面白くありません。(116)

 皆さんの夫や妻が死ねば悲しむことでしょう。なぜなら、宇宙の原則は父母と夫婦と子女……。三段階が一つとなって、神様を中心として四位基台を形成するようになっています。この宇宙の原則によって、不合格者は合格圏内から追放されるので、苦痛と悲しみを感じるようになるのです。なぜなら、三段階を中心として、神様とアダム・エバを中心として、縦的横的世界が生じるからです。これが公式です。だからアダムとエバ、息子・娘がいてこそ、横的世界が生じます。これが広がれば、横的な世界は自然に生まれていくのです。だから体を中心とした、体の横的基準が息子・娘であり、心の横的基準が霊界です。すなわち、二つが一つとならなければなりません。そこから、初めて神様が霊肉界を一つにすることができるので、地上に天国が実現するのです。(117)

 皆さん、妻が死ねば、夫がなぜ涙を流すのでしょうか。第三目的である、息子・娘を得ることのできる道がつぶれたからです。それを成すことができなければ、倒れるしかありません。死ぬしかありません。ですから、泣くしかないのです。電気を見れば、陽(十)電気と陰(−)電気がありますが、この二つのうち一つがなくなれば、残りのものも何の作用もできないのです。人が行く道もそれと同様です。(118)

 いくら幸福をうたい、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦で暮らしていて、一人が死ねば悲しいと、わあわあ泣きます。一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方がいなければかわいそうだといいますか。天地が喜ぶことのできるすべての重要な日々の前に、不合格者であるからです。天地法度の規律の前に外れたというのです。明らかにその法度を通してだけ、天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみの基準に限っては、天地法度が順応しないというのです。心がうれしく、いいというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみがそのように分かれるようになっているのです。(119)

 新所帯を構える夫婦が、「あなたと私は天が定めた似合いの夫婦であり、誰も隔てることができない。一つだ」と言って、面白く暮らして夫が死んだなら、妻一人で、その夫の愛を見いだせるでしょうか。女性自身が一人で夫の愛を見いだせるでしょうか。できないというのです。その愛を回復することのできるたった一つの道があるとするなら、それは死んだ夫が生き返る道しかありません。(120)

 女性においては夫が亡くなれば、生命がないのです。人心の良い村に入って暮らすとしても、一人で暮らすようになれば、誰でもみんな来て、手を出します。だから、稼ぎの悪い夫でも必要です。(121)

 愛する父母を失ってしまえば、言葉にできない悲痛さを感じてこそ孝子です。父母も子供を失ってしまえば、悲痛さを感じます。夫婦同士も、同様です。私たちの後孫たちも、同様です。これは千年万年変わらないのです。(122)

 夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。愛は四方性を備えなければなりません。そうしながら、立体的に前後左右と相関性を備えなければなりません。このような愛であるので、夫はその女性と左右の側で、相対として愛の四方性を成すようになるのです。したがって、このような妻は夫がいないことによって、全宇宙が保護するその立場から、保護を受けられない立場に落ちることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。

 病気になればどうして痛いのでしょうか。授け受けることのできる道がふさがることによって、与えたくても与えられず、受けたくても受けられないようになることにより、その破壊された程度を予告するためのものが、痛みとして現れるのです。それがまさに病気だというのです。(123)

 愛する妻を見れば、なぜいいのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護され得る基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受ける横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接することのできる場をもつようになり、宇宙の保護力によって、その相対をもつ者は無限にうれしくなるのです。だから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。だから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、ともに一団となって回るのです。

 踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことをなぜ、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。多くの人々が、レバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若者たちと夜を明かし、彼らを教育し、運動をさせながら、時には彼らと共に踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何ゆえでしょうか。保護圏拡大が私と関係するからです。宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。(124)

 夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば、泣くようになります。なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法の前に不合格な基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、また、そのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。

 それでは、喜びはどのように生じるのでしょうか。そのような宇宙公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。その力が大きければ大きいほど、強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として生じます。

 それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。

 ですから互いに争い合い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品として見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(125)

 自分の息子・娘がいなければ、不幸を感じるのです。「息子・娘がいなければ、夫婦だけ仲良く過ごせばいいだろう」と考えるかもしれませんが、そうではありません。天理法度が四位基台原則になっているために、男性と女性が出会って一つとなったなら、必ず息子・娘を生んで、四基位台を成さなければなりません。これが宇宙の公法です。四位基台を成せなければ、合格できないのです。また、息子だけいてもいけません。息子だけならば、息子に対する愛の味は分かりますが、娘に対する愛の味は分からないからです。

 皆さん、蜜の味がどうだと、誰かが説明して分かりますか。それは、説明だけではだめなのです。説明する前に、直接口を開けて食べさせてあげてから、これが蜜の味だと教えてあげなければならないのです。

 それでは、息子がいなければなぜ寂しく不幸だというのですか。娘だけをもった人は、息子をもった人を見れば、この世でそれ以上望むものはないと言います。西洋の人々は、そのような面で少し鈍いです。彼らは個人主義思想を強調して、そのような感情はすべて失ってしまったのです。失ってしまったために、再び捜さなければなりません。だから、今それを再び捜すために、東洋思想に帰ってくるようになるのです。

 ですから、夫がいて、妻がいて、息子・娘がいる家庭とならなければならないというのです。そうして、彼らが完全に一つとなって、初めから目的地点まで天運と歩調を合わせていけば、この家庭は永生するというのです。これが理論的な原則です。そのような家庭こそが永生するのであって、一人では永生できないのです。たとえ永生するとしても、永遠の世界で苦労というふろしきを包んで、行き来するようになります。幸福という要件を受けることができません。このような観点から見れば、イエス様は永生の世界に入れませんでした。すなわち、神様の国、理想世界に入れなかったというのです。(126)


  8、真の夫婦の協助

 妻は職場から帰ってくる夫に、夕食を整えてあげることで、夫に対する義務を果たしたと思ってはならないはずです。夕食のおぜんのそばに座って、愛の蜜語を交わしながら和気あいあいな時間をもつことが、何より重要なのです。初めて出会ったときに親しくささやいたその声で、愛の姿そのままで、一日の苦労を慰労してあげたなら、夫の疲労は洗ったようになくなるでしょうし、愛もまた深くなっていくことでしょう。(127)

 先生が七十歳に近い体で「海に出掛ける」と、お母様に話せば、お母様は海に出掛けるすべての準備と精誠を尽くしてくれます。海に出て一晩寝て帰る準備をしてくれながら、海に出掛けるみ旨が成されることを、祈ってくれさえします。これはどれほど味がある美しい内助者の姿でしょうか。(128)

 先生はお母様に対して、内外的にこのような使命を遂行するにおいて、すまないと思うことが多くあります。女性としての気持ちをよく知っています。盛りの年ごろに、女性としてやりたいことが多いことを知っています。仕方がなかったので……。かえって、誰もできない愛情の代価をもって浮上するのです。疲れて眠るとき、見詰めながら、涙を流しながら、深く敬拝をします。そのような心情が必要なのです。このような部屋は、幸福な部屋です。花が咲きこぼれ、香りがする……。そのような花の香りの中で神様はお住まいになるのです。

 夫が帰ってきて、夕食も取らず、話もせずにいびきをかいて寝てしまったなら、そのいびきをかく音を聞きながら、そのいびきをかく音以上に泣く声が、自分の胸からわき上がる女性とならなければなりません。そのような家庭を見たいのが、先生の願いです。もし、そのようなことを見られないなら、先生の苦労はむなしいものとなってしまいます。神様の六千年の犠牲は、むなしい犠牲となってしまうでしょう。皆さんはそれを知らなければなりません。(129)

 人はともに暮らさなければなりません。何のために? ある目的のためにです。それではその目的とは何でしょうか。愛を感じながら生きようということです。男性でも女性でも、存在するすべてのものはみんな同じです。男性と女性が互いに異なる目的のために動いてはなりません。互いに一つとなるべきなのです。夫が外に出て働くとき、妻は家の中で働かなければならないのです。体は互いに異なりますが、心は同じでなければなりません。このようなことを、皆さんは知らなければなりません。(130)

 夫が巡回に行くのに、「行ってきて。私は疲れたので眠るわ」と言ってはなりません。夫が巡回に行って帰ってくるときまで、妻も共に精誠を尽くさなければなりません。子供たちもその父母が帰ってくるときまで、待たなければなりません。心で父母の幸福を祈らなければならないのです。そこには、誰も引き離すことのできないものがなければなりません。それは天地運勢であり、宇宙が基準とする愛を中心とした基本的な形態です。これが壊れる日には、絶望です。(131)

 統一教会の女性たちは、夫が主体であり、妻が対象だということを知らなくてはなりません。このような基台を造成した土台の上に、夫と妻が一つとなって新しい主体に侍り、対象の立場に立つようになるのです。すなわち、神様と愛の関係を結ぶことのできる、相対格となるのです。愛は主体と対象関係が成立しない限り、訪ねてきません。(132)

 皆さん! 男性はプラスですか、マイナスですか。「プラスです」。女性はマイナスですか、プラスですか。「プラスです」。みんなプラスだと言いましたが、それゆえ皆さんは夫婦同士、互いに愛を受けようとするだけであり、与えようとはしません。男性、女性が完全なプラスと完全なマイナスとなって、男性は女性に与えようとし、女性は男性に与えようとすれば、くるくると回ります。アメリカの女性たちの病気が何かといえば、夫から愛だけを受けようということです。アメリカでの家庭の主人は、女性です。男性が家庭に入れば、身動きできません。男性に女性が服を着せてあげるのではなく、男性が妻に服を着せてあげます。反対になっています。夫が外から帰ってくれば、妻は家ですべき仕事もしないでいて、「ああ、夫が来た! これ、こういうふうに、こういうふうにしてください」と、やらせます。

 夫が外から入ってくれば、妻は喜んで迎え入れ、おなかがすいているから早く食事をしようと、互いに慰労し、愛し合う所に幸福と喜びがあります。(133)

 妻は夫を出世させなければなりません。すなわち、内助を上手にしなければなりません。み言の完成者(実体的、心情的、生活的)になりなさい。み言を中心として、神様の愛を花咲かせたものが家庭です。(134)

 男性が出世しようとすれば、女性が優れていなければなりません。そうですか、そうではないですか。今の時代は、女性が運に乗る時です。かわいそうな女性たちが喜ぶべき時が来ました。統一教会の文先生がこのように道理的に明らかにしてあげるので、女性たちが喜ぶようです。(135)

 このひとときに女性として生まれたなら、歴史を代表した凛々しい勇士の夫人とならなければなりません。(136)

 女性は天道に従い順応して、女性として行くべき道を行かなければなりません。夫が共に死のうといえば、死ぬことができなければなりません。死んでもあの世に行って共に暮らせばいいのです。夫の命令を絶対視し、夫の命令に従順になった後には、解放され得る道があるのです。人倫世界の道徳観において、悪なる堕落圏内にいるとしても、三綱五倫を中心として順応する人々、絶対従順という基準を立てた人々は、再び解放され得る道が依然として残っているのです。(137)

 自分がいくら美人であり、楽に暮らせる立場でも、神様の愛を受けることのできる夫なら、苦労しても世界の狭間までも、従っていくことができなければなりません。いくらぞんざいに扱われても、自分の体を通して神様を愛し、地を愛し、世界を統治することのできる息子を生めるなら、どこまででも従っていくことができなければなりません。もし、世界で一番できの悪い夫と結ばれても、神様の愛がその夫に侍り暮らす家庭に訪ねてくるなら、そのような夫と結ばれ精誠を尽くすようになるとき、必ずその家庭に神様が愛することのできる聖人が現れるでしょう。三代を犠牲にして精誠を尽くすとするなら、必ずその家庭に聖人が現れるでしょう。(138)

 わが夫は世界を代表した夫だと思わなければなりません。この原則に立脚して、皆さんが息子・娘を生む日には、その子供たちも偉大になります。(139)

 女性たちが夫を聖人のように思い、来られる主の代身の存在として認め、彼のために生命を捧げて死のうという環境的因縁が生じれば、そこから国を探し出すことのできる人、世界を探し出すことのできる人が現れるでしょう。(140)

 神様は男性よりも女性をより愛されるでしょう。なぜ? お父さんという男性たちは、神様の体と同じで、女性は相対的な立場にあります。神様が一番最後につくった傑作品である女性が、男性より愛を受けることのできる立場にあり、その次にはお母さんになることができるのです。そして、子供たちを見れば、お母さんを好みます。

 お父さんは遠方のことを考えますが、お母さんは近いことを考えます。女性たちは現実主義者です。赤ん坊を産んで育てるということが、大きいのです。赤ん坊を身ごもれば、つわりをし、苦労をします。苦労をするので思いやります。神様は女性がなぜつわりをするようにつくったのでしょうか。つわりをしなければ、女性が赤ん坊を身ごもっても、男性は関心をもちません。神様もどれほど関心をもつでしょうか。

 女性は赤ん坊を抱き、骨を折ってお産をしようとすれば困難なので、深い愛を女性に与えるのです。なぜ易しくせず、困難にしたのでしょうか。易しくすれば、愛が分かりません。苦労をしながら赤ん坊を産んでこそ、その赤ん坊がかわいく、神様に対する心情も感じることができます。このような観点から見るとき、女性は神様が愛することのできる相対としてつくられました。女性は赤ん坊を産むことによって、父母の愛を知るようになり、夫の愛を知るようになり、子女の愛を知るようになります。そして、お父さんよりももっと愛と連結されるので、女性は貴いのです。(141)

 お父さんがいくら子供を愛するとしても、お母さんの愛にはかないません。お母さんが骨を折ったとすれば、誰よりも骨を折り、苦労をしたとすれば、誰よりも苦労をしたので、愛するとすれば、誰よりももっと愛すると見るしかありません。

 そのような意味からも、女性たちが男性たちより情緒的な分野において、高く貴い位置を占めています。お父さんがいくら赤ん坊を愛するといっても、お母さんほどには赤ん坊に対する愛が分かりません。それゆえ、天国に行くなら、女性たちが心情の天国に行くでしょう。そのような観点から、女性として生まれたことは悪くありません。また、神様は公平だということが分かります。(142)

 女性たちが花ならば、朝顔のように愛の香りを遠くに広げなければなりません。(143)

 夫婦の間で、夫がすることに干渉するなと言ったならば、妻が干渉しなければいいでしょうか。妻も夫と対等な立場に立つことができるのです。夫がいないときは、妻でもその立場に立つことができなければならないのです。(144)

 皆さん、妻たる人は、夫の前に負債を負ってはなりません。(145)

 家庭が安定するにも、女性たちがよくしなければなりません。(146)

 妻は夫の言葉を百パーセント受け入れる姿勢になっていなければなりません。言葉だけでなく行動まで、彼が東に行けと言えば、東に行くと言うことのできる内的因縁を結ばなければなりません。夫が行く所に、妻が行かなければ、それは妻ではありません。(147)

 嫁に行く娘が、初夜に新郎の前で、新郎が聞けばどのように答えようかと考えるように、皆さんも愛するその人の前に一生を捧げる最初の瞬間に、自分がどのような言葉を語ったかを考えてみなければなりません。このような真摯なる心をもち、夫に従順になろうという娘は、嫁に行って、必ず夫の愛を受けるようになるというのです。そのようなことを考えてみましたか。妻は夫のために答えることのできる、そのような人とならなければならないのです。そのようなことが必要です。(148)

 「耳の険山」を越えようとしなければなりません。毎日のように悪口を言い散らす夫を得たら、どうしますか。それを、神様のように聞くことができなければなりません。朝から悪口を言う夫に、「朝食でも食べて、言ってください」、昼食のときまでもそうなら、「昼食でも召し上がって、また言ってください」、夕食を食べてまたそうであるなら「寝て、言ってください」と、こうでなければなりません。そうすれば、四十日もたたずに、サタンがみんな逃げます。面白くないからです。(149)

 夫と結ばれればよいと思ったのに、悪いときもあるというのです。いいことばかり望んではいけないのです。二十四時間ずっと日の光だけ浴びればいいですか。夜があるべきであり……。そうでしょう? 高ければ低くなるのが原則ではありませんか。(150)

 妻は暮らせないといって悲しがらず、着られないといって物足りなく思ってはなりません。夫は着れないのを知らないのではありません。心中で済まなく思っているところに深い愛が込められており、ダイヤより高価で貴い宝物が隠されています。(151)

 夫が横になって寝ていれば、なぜこう寝てばかりいるのかと言って、起こそうとする妻となるよう勧告したいです。(152)

 妻たちは、自分自身の幸福よりも、夫の幸福を願います。それが自分との関係を決定するからです。夫でなければならないようになっています。女性が生まれたのは、男性を迎えるためです。また、男性も女性を迎えるために生まれました。(153)

 家庭の基準を実感しなければなりません。男性は主体です。主体は主体的な立場に立たなければならず、相対的な位置に立ってはなりません。中心に立たなければなりません。この中心が、ずれてはなりません。位置を守ることのできる中央を守らなければなりません。これが神様の代身の位置です。(154)

 動機と原因が主体から始まります。喜びと幸福は主体から始まります。家庭が不和となり、不幸なことは、男性が責任を負わなければなりません。堕落の責任も最初が神様、二番目にイエス様、三番目に聖霊が負わなければなりません。(155)

 理想世界を成せば、男女平等の世界とならなければなりませんが、そこでの主体は誰でしょうか。絶対的な責任を永遠に負う所でだけ、平等が可能です。主体は対象に対して、責任を問いません。主体としての責任を果たしてこそ、責任を追及がきます。神様も人間が完成するときまで、責任を追及しません。すなわち、人間が完成するときまでは、そうすることのできる雅量があります。

 そういう意味で、男性が主体なら、すべてのことに責任をもたなければなりません。すべての責任を円満に相続させられる、公約を履行する代表者は主体となります。(156)

 男性には活動的で、征服的なものがあるのです。(157)

 男性は仕事をしなければなりません。どのような仕事をするのでしょうか。開拓的な仕事をしなければなりません。人間は万物の霊長だといいます。「霊長」といえば、男性のような気分が生じます。小さなこぶしを持っており、また顔も面長でひげもない小さな女性が、「万物の霊長は私からだ!」と言えばどうでしょうか。考えてみなさい。か細い声でいくら叫んでも、女性の声です。男性が現れて、太い声で「万物の霊長は私からだ!」と叫んだなら、どうでしょうか。それは、女性でも、男性からだと言わざるを得ません。男性たちが争っているのに、女性が行って「やあ! どけ!」と言うなら、どうでしょうか。男性がこぶしをぐっと握って「おう! この野郎たち、どけ!」と言えば、それでも頼もしいところがあります。

 そのように見るとき、霊長の立場の、第一番を誰が占めるのがよいでしょうか。それは男性であらざるを得ません。何か一つでもより多くもった人がいなければなりません。男性を見れば、ひげ一つがより多いです。男性が霊長の主体となることのできる資格がどこにあるでしょうか。男性はひげ一つを多くもちました。それを見れば、神様は本当に数理的なお方です。道士というときは、ひげが長く伸び、つえを平然とつき、とぼとぼ歩いてこそ、威風があるように見えます。女性が帽子をかぶり、ひげもなく、道人であると言えば、柄に合いません。このようなことを見るときに、万物の霊長の主体は男性です。(158)

 少しだけ慰労すれば、女性はすぐに怒りが解けます。(159)

 自分の妻の誕生日になったなら、その町内のおばさんたちをつれてきて、妻をこの上なく愛する心で、妻のために彼らの前で踊りでも踊り、歌でも歌ってあげられなければなりません。(160)

 妻に対して怒ったり、子供に対してむちを加えたなら、謝り、その何倍も愛してあげなければなりません。(161)

 愛をたくさんもった夫は、その家の中で悪口を言っても、これはすべて愛の刺激となり得ます。愛のない夫の一言は、それが身を切るような破壊の動機にもなるのです。愛があれば、むちを打ってもよいのですが、愛がない所では、何でも嫌なのです。(162)













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