祝福家庭
(全面表示) 戻る


二 真の父母と重生と血統転換

1.真の父母はどんなお方か

@真の父母は原罪のない始祖

 真の父母とは何でしょうか。堕落していなかったら、神様は縦的な愛になり、アダム、エバは神様の体になります。神様の体のようなものだというのです。神様は骨のようなもので、アダム、エバは体のようなものです。神様も心があり、体があります。神様は内的な立場で内的な父母になり、アダム、エバは外的な立場で外的な父母になります。内的・外的父母が一つになったその場で、愛で結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結合によって、真の父母、すなわち、完成した人間が成就するはずだったのです。愛と結合しなければ、完成人間がいないというのです。

 真の父母の立場は、どんな立場でしょうか。アダム、エバが神様を中心として完全に一つになり、サタンの讒訴圏を抜け出した立場です。サタンが讒訴することのできる内容を残さずに、完成基準を越えた立場に上がって、初めて真の父母の起源が生じるのです。これが原理的見解から見た真の父母の起源です。しかしその見解にふさわしい立場は、簡単につかむことができるものではありません。

 新しい父母とは、どんな父母でしょうか。昔エデンの園で堕落したアダム、エバは堕落した父母ですが、これから人類を再び生み変えてくれるその父母は、堕落していない立場で、神様のみ旨と一致した立場で、神様の公認を受けることができる本来の父母なのです。堕落しないで、み旨を完成し、神様の愛を中心として神様の懐で理想的な家庭を成して、善の子女を繁殖できる、そのような本来の基準に立つことができる父母なのです。その父母は、堕落とは関係がありません。

 もともとアダム、エバが堕落しなかったならば、人類の父母になって神様を中心とした世界を成し遂げていたことでしょう。ところが彼らが堕落することによって、サタンが主管する偽りの父母になってしまいました。したがって、本来神様の創造理想によって立てようとした真の父母はいなくなりました。真の人類の先祖がいなくなったということです。

 真の父母とはどんな存在でしょうか。真の父母は、全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に絶対的な希望の象徴なのです。彼は、歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界へ連結することができる未来線上における出発点です。

 真の父母というその名前の三文字(韓国語で)を考えるとき、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界へ戻ることができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させることができる内的な因縁が決まり、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めて神様の解怨を成就することができる中心が決定されるのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動できるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。

 人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が真の父母です。歴史をみな失い、時代をみな失い、自らの子孫をみな失ってしまうようなことがあっても、真の父母に出会うならば、歴史を見つけることであり、時代を見つけることであり、未来を見つけることになるのです。このような方が正に真の父母だということを皆さんは知らなければなりません。

 メシヤがこの地上に来られるとき、その方は、個人として来られても個人ではありません。その方の価値は、全世界の人類が信じている信仰の結実体であり、全世界の人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。その結実体には、すべての歴史路程が連結されています。すなわち過去、現在、未来がみな連結されています。そして個人から家庭、氏族、民族、国家、世界がすべて連結されていて、天と地がすべて連結されているのです。

 イエス様は、人類の父母の位置に立たなければならない使命をもって来られましたが、そのみ旨を成就できずに亡くなりました。したがって再臨時代には、そのような立場を蕩減復帰して勝利しなければ、その理想の世界へ上がれないのです。その仕事をこれまでやってきたのが統一教会です。

 真の父母は、完成したアダムとして、アダムが失敗した第一の父母の基準を復帰しなければなりません。また、第二アダムとして来られたイエス様が失敗した父母の基準を完成させなければなりません。再臨時代において先生が苦労の伝統を立てざるを得なかったのは、イエス様が霊的基台しか立てられず、霊肉ともの世界的な基台を立てることができなかったからです。

 私たちが知っている真の父母とは何でしょうか。人間の先祖です。人間先祖。ですから真の父母を自分の父母のように侍らなければなりません。

 人類には真の父母が必要なのです。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結することができる原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、前にもなく、あとにもありません。はっきり知らなければなりません。軸は一つです。絶対に二つではありません。その軸とは、正に真の愛です。

 歴史始まって以来、神様の名によって人類の男性を代表して勝利した人がいませんでした。これまで先生は、そういう勝利の基準を立てるために闘ってきました。統一教会と先生は、苦労をしなくてもいいのですが、こういう原則を知っているために、苦労せざるを得ないのです。

 人類が願うものとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダム、エバが成婚して全人類が神様の子孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落することによって人間たちはサタンの子孫になってしまいました。したがって私たちは、六千年前に失った天の側の真の父母を再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の国民になることができるというのです。

真の父母とは何でしょうか。肉身の父母は、真の父母と何が違いますか。真の父母とは何ですか、何をするのが真の父母ですか。愛を中心として話すとき、その肉身の父母と真の父母とでは何が違いますか。何が違うかといえば、愛に対する概念が違います。正に愛の概念が違うということです。肉的父母は肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うということです。


A真の愛によって人類を生んでくださる

 皆さんは、真の父母と関係ない立場で、天の前から追い出された偽りの父母の血統を受けて生まれたので、この血統から抜け出すためには、血統を否定して否定して抜き取らなければなりません。そうして血統を根本的に変えずしては天の国に行けないのです。
 真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根っこの間違った血統を正さなければならず、間違った生命を元に戻さなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。

 血統的転換を成すためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入っていって、将来の赤ちゃんとなるその種に神様の愛と結束した勝利的条件を充足させなければ、神様の子女として生まれることができません。これは理論的に間違いないというのです。聖書に、そのようにしてきた記録があるでしょうか。あるとするならば、聖書は神様のみ言だということです。

 堕落した人間が要求する救い主とは、どんな救い主でしょうか。堕落した父母の立場ではなく、頃落していないアダム、エバのような立場で神様のみ旨と一体となって神様の愛を受け、神様の祝福を受けることができる真の父母の立場で、人類を生んでくれる救い主でなければなりません。そうでなければ、人間は原罪と関係のない立場に上がれないのです。

 真の父母が必要なのは何のためでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝がすべて違います。ここで新しくこの根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。幹と枝が出てきて、接ぎ木するのです。切り取って、接ぎ木します。接ぎ木して、それが宇宙の大きな主流になるのです。
 サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。

 今日、万民が願うこととは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようということです。また未来の子孫たちは誰から出発したいのでしょうか。皆さんの息子、娘は皆さんの血統を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血統を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新たな未来の出発点になるということです。

 真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならないし、間違った愛の道を正さなければなりません。聖書に「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。正にサタン世界は死ななければならないからです。

 真の父母と真の父母の子供というのは、永遠不滅の宿命的な業(関係)です。これは誰も分けられないのです。千年、万年、その道を行かなければなりません。行く道は、二つの道ではなく一つです。他の方法はありません。秘法がないのです。その道を行かなければならないのです。

 エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることにより、再びひっくり返したのです。偽りの父母が誤ったことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃して数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋が互いに連結されます。

 養子はどのようにしなければならないのでしょうか。真の息子から接ぎ木を受けなければなりません。野生のオリーブの木を切り捨てて、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。渋柿の木が甘柿の木になる運動をしなければならないのです。重生するためには真の父母の血統を受け継がなければなりません。それで人類が願うのは真の父母であり、イエス様と聖霊が願うのは「小羊の婚宴」です。

 まずは父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の願いの一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として、父母に侍らずしては救いを受けられません。皆さんはそのように侍ってみましたか。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになることのできる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるほどに固くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。

 皆さんは買ってきた人たちです。人類を与え、天宙を与えて、買ってきた人たちです。ゆえに神様は、皆さんをおいて天地を審判したいと思われるのです。神様は、サタン世界の奴隷の立場にある皆さんを買って、神様の息子、娘として立てました。ゆえに皆さんは、福を受けた栄光の子女たちです。ですから全世界で皆さんを「くれ」と言うとき、与えることができる皆さんにならなければなりません。サタンにまでも与えることができる皆さんにならなければなりません。
 皆さんは、先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて、買ってきた人たちです。したがって、皆さんも先生のような仕事をしなければなりません。先生は食口たちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。


2.重生摂理の核心

@生まれ変わるということの真の意味

 再び生まれなければならないというのは、堕落したアダム、エバの子孫の父母の血縁を通じて、もう一度生まれなければならないということではなく、堕落と関係のない父母の血縁を通じて再び生まれなければならないということです。そうでなければ、神様に帰ることができないのです。罪の根本の根はアダム、エバから始まったがゆえに、これを踏んで越え、すなわち原罪と縁がない立場で生まれたという資格を備えなければ、神様のそばに絶対に帰ることができないのです。

 神様が私たち人類を救おうとする目的はどこにあるのでしょうか。堕落圏以下では、どんなに救おうとしてみたところで、救援ができないのです。それで神様は、堕落していないアダム、エバ以上の真の父母をこの地上に再び送り、その父母を通じて人類が再び生まれる路程をたどらせ、永遠にサタンとの関係をなくさせ、讒訴しようにも讒訴できないようにされ、神様だけが主管し、神様だけが干渉できるようになさるというのです。そのような立場で人類が再び生まれなければ、原罪をもった人間が原罪のない立場に戻ることはできないのです。

 真の父母が真のオリーブの木ならば、皆さんはみな接ぎ木されなければならない野生のオリーブの木です。脇の芽であり、脇の枝です。これは新しい枝が出てこそ、正常な生態作用をすると見ることができるということです。人類は、信頼と愛と実体を失ってどうなってしまったのでしょうか。血統的に逆になってしまいました。それでひっくり返さなければなりません。すなわち、ニコデモがイエス様に「天国に入るには、どうしなければなりませんか」と尋ねると、「生まれ変わらなければ、天国に入れない」という最も重要で、事実的な内容を明らかにしたのです。

 生まれ変わるというのは、心が改変しなければならないということです。

 ニコデモがイエス様に「どうしたら救いを受けることができますか」と尋ねると、「生まれ変わら(重生し)なければならない」と言われたのです。それは、サタンの子として生まれたので、救いを受けるには、神様の聖霊を受けて、再び生まれなければならないということです。今までサタンと結んできたすべての関係を清算して、神様と創造本然の関係を結ばなければならないという言葉です。

 神様の摂理で信仰を立てたとしても、神様の子供に復帰されるためには、接ぎ木されなければなりません。

 生まれ変わるには、アダム、エバより劣っていてはできないし、またアダム、エバより劣っていては根本復帰もできません。生まれ変わるにも個人が生まれ変わらなければならないし、家庭、民族、国家、世界が生まれ変わらなければなりません。この事実を、今日のキリスト教徒たちは知らすにいます。

 今日、キリスト教を信じる人たちの中には「再び来られる主は、雲に乗って来られる」と信じる人々もいます。何も知らない中でも、信じれば救われるという考え方では、真の信仰をすることができません。そんなに簡単に救いを受けることができるならば、統一教会はこの世に必要な宗教ではありません。

 野生のオリーブの木に真のオリーブの木を接ぎ木するときは、枝を切ってそこにつけるのではなく、木の下のほうを切って根だけ残しておいて、その上につけるということです。この話は既成教会が再び来られる主によって、既存の体制や制度、またはすべての儀式を変えて、新しく出発するようになるということを意味します。

 彼らが信仰生活を通じて結んだ実は野生のオリーブの木の実なので、真のオリーブの木の実を結ぶためには、大木を切り取って、芽接ぎをしなければならないのです。もし接ぎ木することができなければ、根まで引き抜いて、燃やしてしまわなければなりません。そのまま置いておけば、野生のオリーブの木の実が畑に蒔かれて、数多くの野生のオリーブの木をつくり出すからです。
 野生のオリーブの木を切るのは、新しい真のオリーブの木の芽を接ぎ木するためです。問題は真のオリーブの木の芽や野生のオリーブの木の芽が、外から見ると全く同じなので、いさかいが起こるようになっているということです。特に再臨上が来られる時には、多くの偽キリストが現れるので、真実を見つめる価値観と目が混乱を起こしかねないのです。それで「絶えず祈りなさい」と言ったのです。
 野生のオリーブの木の下のほうを切って、真のオリーブの木を接ぎ木することによって、野生のオリーブの木はみななくなり、真のオリーブの木の畑になるはすです。このような作業をレバレンド・ムーンがしようとするので、大騒ぎなのです。彼らは自らの体が切られる痛みを恐れて、「いかさま庭師ではないか」と思うからです。摂理歴史の春とともに、野生のオリーブの木に接ぎ木をする作業が始まりました。


A重生しようとすれば

 新郎のイエス様の愛と新婦の聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「私があなた方の中にあり、あなた方が私の中にあって」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成される前には、キリスト教でいう永生はあり得ないということです。

 皆さんは重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛圏内でなされるそのいかなる愛よりも、神様を中心としてなされる愛が、より次元が高くない限り、神様と連結することができる道がないということを知るべきです。これが受難の道であり、宗教人たちが行くべき険しい道だというのです。
 キリスト教徒たちもイエス様を日ごとに思慕しており、イエス様が再臨されることを首を長くして待っており、無心になって「新郎イエス様、いらしてください」と二千年間叫んできませんでしたか。しかし、体がばらばらになり、胸が裂けて、骨髄が溶ける立場、体の中にあるのか体の外にあるのか分からない境地、ただ神様やイエス様とのみ通じることができる境地に入るとき、初めて聖霊が臨むのです。聖霊が臨むことによって、霊的な赤ん坊として再生することのできる霊的重生の役事が起こるというのです。
 皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子、娘だということです。まだサタンの讒訴を受けざるを得ない人だということを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできません。

 イエス様はニコデモに対して、「あなたが生まれ変わらなければ、天国に入ることができない」と言われました。今まで生きてきた私は、いずれにせよ歴史的に否定されなければなりません。どんなに良くやったと弁解して自ら立てた何かがあるとしても、私自体は否定されなければなりません。堕落人間であるがゆえに、そのような圏内を抜け出すことができないのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべきしかばねの人生であったというのです。

 血統を転換するのはメシヤがするかもしれませんが、転換できるように行動するのは自分自身でなければなりません。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至ることができません。それは決して容易に成されるものではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷であるとか、血を吐く死の境地に行ってこそ、血統転換が可能です。

 世界の万民は真の母が現れる前に生まれたので、意味もなく生まれたことになります。それでイエス様と接ぎ木した立場でイエス様の腹の中に入っていって、イエス様が夫婦になったとき、聖霊を通じて再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたので、真の愛を通じて再び生まれなければならないということです。キリスト教で愛を強調する理由もそこにあるというのです。

 イエス様と一体になるには、愛以外にはありません。真理でも正義でもありません。生命があるのに先立って、愛が必要です。愛は歴史も跳び越えることができるし、距離や空間の支配を受けないというのです。


3.真の父母の中心思想は血統転換

 血統的転換は誰がするのでしょうか。それは誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。こういう基準があるので、皆さんは何の功労もなく祝福という新しい伝統を受け継ぐようになりました。転換の勝利圏を立てるには、数千年に及ぶ神様の労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを土台として立った所が、正に皆さんが立っている所です。祝福とは、接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わることです。

 血統の同一性が必要なので、神様の心情圏に従わざるを得ないのです。なぜそうなのかといえば、根が違います。幹が違います。しかし、根が同じでなければならず、幹が同じでなければならず、芽が同じでなければなりません。そこには絶対的に血統転換という、とてつもない問題が起こるのです。それは、一人ではすることができません。真の父母がいなければなりません。

 神側では、サタンの偽りの愛圏にいる人間をより大きな神様の愛によって奪ってきて重生させるのです。人間が偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通じて生まれたがゆえに、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の愛の血統を通じて再び生まれてこそ、神様の子女、神様の民になるのです。イエス様の聖血が貴いのも、聖餐の儀式もみな、血統転換を通じて神様の子女になる摂理を形状的、象徴的に表すものです。

 皆さんは血統転換、これの実感がわかないでしょう。皆さん、いつこのようになりましたか。先生がアベルになるとき、皆さんはカインとして完全に一つになるのです。この関係があるので皆さんが先生と一つになれるのであって、この関係がなければ大きな問題が起こるというのです。

 神様の心情は、どこで連結されるのでしょうか。理論では連結されません。血統を通じてのみ連結されるのです。皆さんは、神様の心情の血統を受けました。今までは知らなかったというのです。それで皆さんが祝福を受ける前に、血統転換式があります。その時は、私は何もないという無の境地に入らなければなりません。私の体はないという立場に立って、父母様の血肉を再び受け継ぐ結着点が、私から始まるという信念をもたなければなりません。

 皆さん、祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。皆さんは何も知らずに先生がさせるまま従ってやっただけですが、それがそんなに簡単なものではありません。イエス様が夫婦関係を成すことができなかったために、歴史がこのように混乱してきたということを考えて、その目的に合う一双を立てるという心情的基準から見るとき、祝福で血統を汚すような何かがある場合には、大変なことになります。これは刑罰が問題ではありません。
 エデンの園では未完成期に堕落した者も追い出しましたから、完成の心情的基準で罪を犯したとすれば、言うまでもありません。そのような者は、後ろ姿も見たくない神様であられます。先生もやはりそうです。

 祝福を受けるとき、皆さんは血統転換式をしたでしょう。その次からは完全に変わらなければなりません。真の父母が出てこなければ、このことが可能ですか。創世以後、どんなに険しい道を歩んできましたか。真の父母が現れたことだけでも有り難いのに、真の父母から祝福を受けたということは、もっと驚くべきことです。こうした伝統、その伝統とは、血統の伝統です。真の愛と、真の生命と、真の血統を植えた伝統ができているのです。これを、いつも考えなければなりません。

 祝福家庭は、どんな意味をもっているのでしょうか。祝福家庭を中心として見るとき、サタンは祝福家庭を支配できないというのです。どんな国においても先生を完全に信じて真の父母に属したという信念をもって立つようになるとき、サタンはそれを侵犯できないのです。なぜそうなのでしょうか。父母様の心情を中心として血統転換した心情圈に連結されているからです。それで、ここからはサタンが手をつけられないのです。

 復帰途上で僕の僕の時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代に上がらなければなりません。それでは完全に僕の僕の時代を経て、僕の時代、養子の時代を経て、直系の時代と因縁が結ばれるでしょうか。
 直系の時代と因縁を結ぶには、そのままでは結ばれません。必ず原理によって、信仰の基台を経、実体基台を経て、メシヤのための基台を経なければなりません。すなわち、メシヤを迎えなければならないということです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子では、血統的な関係が違います。それで血統転換が必要だというのです。

 堕落人間は、血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間との関係は父子の関係ですが、このようなすべてのものが未知の事実として残っていたがゆえに、歴史が解けず、今までも神様の摂理を知らなかったのです。血統転換も個人圏、家庭圈、民族圏、国家圏、世界圈、みなしなければなりません。
 これをするには、メシヤにならなければなりません。父母が出てくることによって、父母から血統が出てくるのです。父母が出てこなければ、血統が転換されないのです。このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がみなこういうことをして、越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て、代わりにやってあげるのです。

 堕落人間は、出発が間違ったというのです。ですから、また帰らなければなりません。帰ることは帰るのですが、どこに戻るのでしょうか。原点へ戻らなければならないのです。偽りの父母によって始まったので、原点へ帰って真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。
 私が神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を再び受け継がなければなりません。それで皆さんが祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。それを自分の生命よりも信じなければなりません。統一教会の一つの儀式ですが、ただ一般の宗教儀式だと思ってはならないのです。これは死んだ人を回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。

 聖書の歴史を見れば、ヤコブはお母さんと一つになって父を欺いて祝福を受け、タマルの歴史を中心としてもこのような非人間的行為をしたのに、ユダ支派を通じてイエス様が来るとはどういうことですか。血統転換という問題があるからです。血統を清めなければなりません。キリスト教だけが血統を重要視して、血統転換を主要思想とみなしてきました。他の宗教にはこういう歴史がないので、ここに従わなければならないという結論が出てくるのです。
 ですから血統転換というものを中心として見るとき、文総裁はキリスト教を外すことができませんでした。選民思想を受け継いだキリスト教を外せなかったというのです。(世界基督教統一ではなく)「万教統一」と言っていれば、どうして私が迫害を受けるでしょうか。何のことか分かりますか。骨髄思想がこのようになっているためです。はっきり知らなければなりません。


4.血統転換の三段階過程

@聖酒式

 統一教会の祝福を受けるとき、血統転換式があります。皆さんは血統転換式をしたでしょう。蕩減棒行事とか三日行事とか、どんなに複雑ですか。そこには、サタンは入ることができません。それは真の父母と神様によって天国の門を開き、解放を宣言して立ったものであるがゆえに、長成期完成級で活動していたサタンは関係をもつことができないのです。祝福を受けた家庭は血統転換式をしたことを知っていますか。それを経なければならないのです。

 皆さんが婚約式をしたあとには聖酒式があり、その次に結婚式があります。それでは、この婚約式と聖酒式、そして結婚式はいったい何でしょうか。これは、ある前例に従って行う式ではありません。堕落したすべての内容をもう一度、象徴的に再現させて、それを蕩減するために行う不可避な行事なのです。

 堕落した人間は、サタン世界の偽りの愛によって汚された過去のすべての愛を否定して、新たに神様の愛を中心として真の父母の愛を再現させることができる復活的な実体を備えずしては、祝福の場に行くことができません。したがって聖酒式は、まさしく真の父母の愛の関門を通じて、新しい生命の基準を成すことを約束する儀式です。

 聖酒式は何をするものでしょうか。新しい愛を中心として神様の体を自分の体の中に投入させる儀式です。堕落した体は一つしかないので、神様の愛を中心として取り替えるのです。これが正に聖酒式だというのです。イエス様が、「パンは私の体を象徴するものであり、ぶどう酒は私の血を象徴するものなので、あなた方はそれをもらって食べ、飲まなければならない」と語ったのと同じように、愛を中心として、神様の実体を中心として、新しい血統を受け継いで原罪を洗い清めることができる式です。この式を経ずしては、祝福の場に行けないのです。ですからこの式は、血統を転換させる式です。

 「血統転換」という絶対語が必要です。皆さんも祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。その血統を転換するためには聖酒がなければなりません。そして聖酒という酒が出てくるためには、二十一種類の選別過程を経なければなりません。それが何か知らないでしょう。それは空中で実を結ばせるものと、地で実を結ばせるものと、地の下で実を結ばせるものを中心としています。その次には鉱物世界、植物世界、動物世界で最も貴いもの、このように二十一種類の選別された物を通じて、その過程を経るのですが、そのすべてのものが讒訴条件に引っ掛かってはいけません。七カ月間、使わずにおきますが、そこに不祥事が生じてはいけないのです。

 聖酒式は蕩減復帰式です。聖酒式は天使長の立場でするのです。ですから血統とすべてを捧げます。すべて復帰する条件になります。ここでお母さんを通じて先生がするのです。皆さんも全く同じ立場です。そのような立場で橋を架けるのです。聖酒式をこのように挙行することによって、皆さんが父母の場と同じ復帰の場に入っていくというのです。それを知らなければなりません。
 聖酒は女性が先にもらいます。女性が先に先生に敬拝して聖酒をもらい、半分だけ飲みます。その次は、夫が敬拝しなければなりません。これは、女性が半分飲む時は、男性は頭を下げているのです。この時は、女性がお母さんの立場にあります。お母さんの立場と同じです。こうして女性が半分飲んで残ったものを男性にあげ、男性が飲むことによって因縁が結ばれます。それで男性も対等な場に行くことができるというのです。

 聖酒式は、アダム、エバが堕落したその反対のコースで行うものです。結婚するには、婚約式がなければなりません。その次は聖酒式です。そうしてこそ結婚式に進むのです。皆さんは堕落したので、アダム、エバになれなかったのです。婚約式は、息子を取り戻そうという神様の前に、真の父母の前に、「堕落した息子より立派なアダム、エバになりました」と言うものです。
 アダム、エバは婚約段階にあったのです。こうして一つの世界がここから誕生するのです。ですから、このようなすべての因縁を連結させる条件を成立させることが聖酒式だ、ということを知らなければなりません。

 聖酒を飲むには、天使長からエバ、エバからアダムです。皆さんはどのようにするかといえば、エバが受けます。エバがいなければ、男性は再び生まれることができません。復帰なので、エバに杯を受けさせ、半分だけ飲んで、その次にエバが夫に与えます。杯をもらう時は、お父様から頂く代わりなので、礼をして、実際には三拝ですが、礼を一回だけでもいいです。三拝するという気持ちをもって、それを頂いて半分を飲んで、それを夫に。それを飲んだあとは、返してもらいます。そして反対にします。
 そのようにすれば、心情的に一体化します。実際には、その前に先生が女性たちに手をのせて祈祷しなければなりません。先生が女性の手にこのように祈祷します。これが一体化の祈祷です。そういう祈祷をして聖酒を飲めば、堕落の血統をきれいにすることになります。それが条件です。キリスト教の洗礼式のようなものです。血統転換式! 分かりますか。

 天使長を通じてエバが堕落したので、復帰歴史においては、エバがアダムを通じて天の前に立って天使長復帰をしなければなりません。そのために行うのが聖酒式です。聖酒式をするとき、先生が女性に先に与えるでしょう。なぜそうなのか知っていますか。それが失ったエバを復帰する式なのです。聖酒式をすることによって霊的に一つとなり、心情的に一つとなり、肉的に一つになるのです。絶対的な内約なのです。

 聖酒は、ただ作られるのではありません。ただそのままできるのではないということです。サタンと神様の立ち合いのもとに、霊界にいる数多くの天使たちの立ち合いのもとに作られるのです。そして、そこには皆さんが知らない二十一種類の物が入っています。万物世界と人間の復帰歴史の過程で形成される、すべての物が入っているのです。
 聖酒を作る時は、霊界の霊人たちが来て、「頼むから一杯だけ注いで自分に飲ませてくれ」と強要します。聖酒を飲めば、復帰されることを知っているからです。それで、こじきが群れになって来て、しきりに「自分たちにも恵みをくれ」と言います。先生にはそれができるということを知っているのです。しかし、先生は、霊界のための先生ではありません。地上のための先生です。ですから「君たちは待ちなさい」と言って、苦労した皆さんに与えたのです。

 聖酒には、父母の愛を象徴するものが入っています。そして血を象徴するものが入っていなければなりません。したがってそれを飲めば、父母の愛と一体になり、また血と一体になります。こういうものが聖酒の内容なのです。

 聖酒は、どのように作られるのでしょうか。それは地と海と空を象徴し、全体を象徴するものから作られた酒です。聖酒には三種類の酒が入っています。それ以外に、すべての万物を象徴するものが入っています。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれることを意味します。この式がなければ、原罪を脱ぎ、血統を転換することができません。血統が転換されなければ、完成基準を通過して神様の愛と一体となることができないのです。したがって聖酒式は、そのすべてのものを蕩減する式だということを知らなければなりません。

 聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を取り除く式だということです。

 聖酒にはサタンの讒訴のない万物の要素がみな入っています。その聖酒をもらって、真の父母と一つになった自分自身を汚す行為をすれば、サタンよりも恐ろしい立場に立つようになります。サタンは長成期完成級圏を汚して蹂躙しましたが、祝福を受けた者が過ちを犯せば、完成期完成級園で神様の実体を犯した罪が残るので、永遠に許されません。これは実に恐ろしいことです。

 聖酒式をしたその場は、父母様が通過してきたすべての受難の道をみな蕩減してあげるためのものです。それは天下、宇宙を与えても替えられない貴い立場です。それを汚してはいけません。そうすれば当然、責任追及を受けなければなりません。

 祝福家庭の二世たちと新しく入ってくる若い層、祝福対象者たちとは何が違うのかというのです。皆さんが祝福を受けるときは、聖酒式が必要であり、それ以外に必要なものが多いのです。複雑なのです。しかし祝福家庭の二世は、そのような聖酒式がありません。根が違うというのです。皆さんの根は堕落世界の根ですが、彼らはそうではありません。もちろん、人はみな同じように見えますが、歴史が違い、背景が違うというのです。出発が違うので、過程も違い、今現在置かれている立場も違い、未来において行く目的地も違います。目的地が同じだとしても違うというのです。祝福家庭としての立場なので、同じではありません。


A祝福結婚式

 祝福式は、愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が良く生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代わりに受けて、「このように生きなさい!」という愛の伝授式が祝福式だというのです。神様の愛を父母から受けるのです。ある有名な人から受けるのではありません。それは、天使長がしてくれる結婚です。名のある人が片方だけ来て結婚式をしてくれるのは、みな天使長にしてもらう結婚式です。

 結婚式というものは、愛の顕現をいうと同時に、創造権と主管権を与えられることをいいます。

 祝福結婚式は、ただ単に男女が出会って一つの家庭を成す婚礼式ではありません。今までの結婚式は、自分を中心としたものでしたが、私たちの結婚式は、神様に喜びを返し得るだけの内容をもって、歴史を蕩減する条件として、神聖で盛大に挙行されなければなりません。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落で始まった神様の恨を解怨し、イエス様が成し遂げられなかった新郎新婦の基準を通過することであると、「原理」は明らかに説明します。

 主礼の前に歩いていくのは、六千年の摂理路程を歩むことです。蘇生、長成、完成を意味する路程に、二十一人、十二人の介添人を立てます。これは三数を代表するものです。七歩歩いて、蘇生を越える条件として三回、敬拝しなければなりません。この路程は、アダムから今までの歴史路程です。
 特にアダム、イエス様、再臨主の三時代の過程ですが、この介添人の中を通過して、真の御父母様と出会うことを意味します。介添人を立てるのは、十二支派、二十四長老の霊的基準を立てるためです。敬拝することによって、蕩減条件を立てるのです。真の御父母様は聖水をまきますが、これは蕩減復帰した立場に立てるためであり、その条件を立てるためです。また霊界の先祖たちの土台を越える条件を立てるものです。

 合同結婚式は、神様の新しい家庭を取り戻し、立てるためのものです。合同結婚式は、神様を何よりも愛することができるようにするものです。

 統一教会の誇りは合同結婚式です。しかも同じ民族同士で結婚することより、東洋、西洋の人が合わさって結婚式をもつということは、誇り以外の何ものでもありません。そのことは統一教会でなければ、誰もできないことです。大統領もできないことです。それは先生が優秀だからそのようなことができるのでなく、神様の力が作用しているからです。

 先生の聖婚式は、今までのどんな結婚式よりも盛大にしなければならないのに、苦難の中で行ったので盛大にできませんでした。ですから今後、盛大にしなければならない条件が残っています。食口たちは自分を中心とした三代の中で、外的に最も結婚を素晴らしく行った立場に立たなければなりません。そうしてこそサタンの前に条件を立てることができます。それで合同結婚式をするのです。内的な面でも神様が喜ぶ結婚をするためには、祭物的な条件を立てなければなりません。

 神様が催した宴会は、サタン世界のどの宴会よりも壮大でなければなりません。しかし個体としてはその基準に立つことができないので、歴史始まって以来、かつてなかった合同結婚式を挙げなければなりません。

 祝福結婚式の目的とは何でしょうか。それは世界を教うためのものです。この結婚式は、国境と人種と言語と文化、習慣を超越した国際合同結婚式でした。新しい神様の民が編成されるのです。したがってこの結婚式場は、和解の広場でした。

 神様を中心として世界民族の編成のために、統一教会で祝福結婚式を行います。

 今日のこのような成婚式は、神様の希望であり、理想でした。アダム、エバが成熟すれば、成してあげようとしていた成婚式なのです。創造理想の心情の中にあったもので、これは実に歴史的なことです。このような式典は創造以後、初めて行われたということを痛感しなければなりません。


B三日行事 ― 実体復帰式

 祝福を受けて四十日が過ぎたのちには、三日間にわたり実体的な復帰式があります。この四十日期間は、歴史的で総合的な蕩減期間なのです。人間が愛を中心として復帰の権限をもつようになるのは、蘇生期でもなく、長成期でもありません。完成期に入らなければならないのです。

 アダムの時代と次の時代は、失敗の時代です。その結果、旧約時代の神様の蘇生的な愛圏を継承できずに、キリスト教を中心として神様の長成的な愛を受け継ぐことができませんでした。その蘇生、長成の愛圏を受け継いだのちにこそ、完成的な成約時代圏に立つことができるようになるのです。そのような条件を立てることが、三日行事の実体復帰式である蕩減式です。三日行事の実体復帰式の最初の日は、旧約時代の復帰です。堕落したアダム、旧約圏を復帰するのです。二日目は、新約時代のイエス様の立場を蕩減復帰するのです。三日目は、イエス様の代わりの新郎として新婦を再創造するのです。そこで初めて正式軌道に乗って、出発することができます。このように具体的に蕩減条件を立てるのは複雑なのです。

 三日行事をするとき、夫婦はどんな立場に立たなければならないかといえば、夫婦とは夫と妻ですが、妻がお母さんの立場に立たなければなりません。お母さんになって、夫を愛によって生んであげなければなりません。結局は、再臨主までエバが生んであげなければなりません。主が来る時まで、再臨主までは三時代を経ますが、アダム、イエス、再臨主の三代を経て出てくるには、誰が生んであげるかといえば、女性が生んであげなければなりません。

 この地上には今、主が、主人がいないというのです。ですからそれを生んであげる責任を果たさなければならない立場に立ったのが、女性たちだというのです。エバがアダムを完成させなければならないのに、堕落させ、イエス様がその使命を完成できるように、イエス様をよく生んで責任を果たさなければならないマリヤが、責任を果たせなかったというのです。それを、すべて復帰してあげなければなりません。結局は、アダムとして生んであげなければなりません。完成したアダムでなければ、結婚することができないということです。再臨時代まで三代かけてきたので、三人、三代にわたるお産の使命を果たさなければならないのです。

 エバがアダムをこれくらい産み育てて、そこにまたイエス様をこれくらい育てたのちに、完成段階に入って夫を育てます。そののちに、夫としての権限を中心としてエバを愛して、越えていくそのような過程があるというのです。そこにおいて告解がなければなりません。再臨時代になって初めて夫になります。完成したアダムの立場に立つので、祝福の場、新郎の立場に立つようになるというのです。何のことか分かりますか。

 先生を通じて妻は、お母さんの使命を再び与えられるのです。これは、三段階で生んであげる形式で愛さなければならないということです。愛によって生んであげるので、そのような条件を立てるためには、愛するときに、今までとは反対にするのです。女性が上になり、男性が下になります。愛するとき、それを間違えないようにしなければなりません。

 三日行事の式を進行するとき、まず女性が祈祷します。蘇生的アダムをお産するのに、祝福がなければなりません。その次には、イエス時代に入ります。「イエス様のような第二次アダムをお産する祝福をしてください」と同じ式を行います。それで二度生めば、イエス様の立場であると同時に完成的な立場に育ったという段階へと越えていくのです。そのとき初めて、夫の立場に進みます。主体的立場へと進むのです。

 その次からは、男性が上に復帰されます。それで三度目の愛は、男性が上で行います。二人がそのように愛を終えたのちは、神様の永遠の夫婦として、天の相続を受けた永遠の家庭として、父の眷属になると祈祷して、その次に夫婦生活に入るのです。そのようになれば、完全に蕩減復帰された家庭として、天の国に堂々と入るというのです。そのように難しいものです。ですからこういうことを知らなければ、復帰は不可能なのです。これを知らなければ、復帰できません。今日、既成教会で、信じて天国へ行こうというのは、でたらめで、こっけいなことです。天国へ行くのではなく、楽園へ行くのです。楽園は待合室です。

 聖酒式は、三人のお母さんから生まれたという条件を立てる式です。聖酒には蕩減の血が入っています。聖酒を飲むことによって、内的に清め、聖巾で体を拭くことによって、外的に清めようとするのです。

 これから実体の子女を繁殖しなければなりません。父と心情的な因縁を結ぶことができる子女を生むようにしてくださいと祈祷しなければなりません。心情的な祭司長になることができる子女を生むために祈祷しなければなりません。先生は、天地を身代わりすることができる心情的基準の上で子女を生むことを願います。
 先生は、一度祝福すれば責任を負います。私たちは世界の代わりに、もう一度祝福を受けなければなりません。ですから条件的な結婚です。それまでの四十日間は、四千年を蕩減する期間に該当します。事実、結婚生活はきょうからです。今までは蕩減期間でした。





















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送