地上生活と霊界
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第五章 メシヤと霊界

第一節 イエス様と霊界

 イエス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たすことができませんでした。イエス様は亡くなられたのち、今までどんなことをされたかというと、天使長を探されたのです。天使長を探した次には、息子の道を行かなければならないのです。それゆえ人間は、僕として行くべき道と、養子が行くべき道を探すのです。イエス様は、直系の息子の使命を果たせなかったのです。天使長の道、僕の道、養子の道を行ったのです。
 それゆえ、イエス様を信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。この養子は、血筋が違う立場にあるカインと同じ存在です。今まで摂理歴史は、その血筋をつなげるための戦いをしてきているのです。
 イエス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、神様に勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです。
 それゆえ、キリスト教を信じていく人たちは、天国に入れず、楽園級以下の霊界に行って待つのです。楽園級以下の霊界は、天使長が支配する霊界、すなわち天使長圏に該当するのです。それゆえ霊界で勝利圏を保障されるためには、地上に勝利圏をつくっておかなければなりません。それを継承させるのが、神様のみ旨であり、イエス様が生まれて死んだみ旨であるために、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に探して立てて、天使長圏を継承しなければならないのです。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成があり得ません。霊的完成だけがあるのです。それゆえキリスト教は、霊界を主にして来たのです。
 再び来られる主は、霊界の天使長圏を屈服させ得る権限をもたなければなりません。それがなくては、地上での出発を見ることができないのです。再び来られる主は、洗礼ヨハネから継承されたのと同様に、霊界で勝利したイエス様以下の霊的世界全体を継承される立場で来なければなりません。言い換えれば、イエス様が洗礼ヨハネから継承されたものと同様に……。洗礼ヨハネが、イエス様に霊的な継承はしましたが、その約束どおりには実践できなくて、分かれました。それで、これを再度なすために、キリスト教を立ててきたのです。(四七―一五七)

 イエス様は、この地で十字架に亡くなったことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が最高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行くことが最高の恐怖だというのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったか、でなければ幸福の主人になったでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服するための試練がありました。(三四―一四四)

 神様は公平であられるので、メシヤは平等な思想をもって訪ねてこられるのです。メシヤは、堕落した人間を全部救うための救い主として来るために、どんな人間にも公平に対してくれます。公平な目的と、公平な時代的環境をもって来ます。それゆえメシヤと一つになる人は、メシヤの弟子になることができます。
 メシヤは、人間世界の一番底の地獄から、一番栄光の立場まで行くという言葉が成立します。人類の救いのために生命を差し出して、行かない所がないという結論が出てきます。
 このような原理で見ると、メシヤが雲に乗って空中に来るというのは、全く荒唐無稽なことです。真っ赤なうそです。そのように言う人は、霊界に対して何も分からない人です。先生の教えることが事実であるか否か、霊界に行ってみなさいというのです。死んでみれば分かります。メシヤは、そのような公式によって動きます。
 なぜ、霊人たちが人間の世の中と接しようとするのでしょうか。これが今まで分かりませんでした。それが、なぜそうですか。地で解決しなければ完成の道を解決できないために、そうなのです。優れた人も、劣った人も、この法度にみな引っ掛かっているのです。
 このように、メシヤと共に霊界を全部開いていくのです。これをなすには、地で相対的関係がなされなければならないのです。ですから、メシヤの個人時代があり、家庭時代があり、氏族時代があり、世界時代があります。これが、霊界までつながるのです。地で個人の勝利基盤、家庭の勝利基盤、氏族の勝利基盤、民族の勝利基盤、国家の勝利基盤、世界の勝利基盤まで築かなければなりません。このために、すべての霊界を地上に動員するのです。中心を探していくためには、メシヤが世の中に来て、苦労しながら行かなければなりません。苦労しながら個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を順番に復帰しなければなりません。それで今、人々が一つの目的点を、一つの世界を探して入るようになります。(九一―二七八)


第二節 再臨主と霊界

 再臨主は、第三イスラエルだけではなく、第一、第二イスラエルの先祖として来なければなりません。統一教会員は、イエス様当時の第一イスラエルが疑ったのと同じ立場を越えて、父の心情を通じて、父の腹の中にある子女のような立場に立つべきです。
 再臨主は、霊界を収拾しなければなりません。霊界を収拾することによって、第一イスラエルを立てた基台の上から出発しなければなりません。霊界にいる人たちは、「真の父母」と因縁をもつことができないので、この過程を経なければなりません。霊界には十二支派型がありますが、第二イスラエルになるべきキリスト教は、支派を編成する中心を失いました。ゆえに、統一の理念を立てて、支派編成をしなければなりません。(一〇―二一八)

 神様は無形なので、霊界に行っても見えません。それゆえ神様は、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは、宇宙が一つになることを象徴します。
 神様は、体をまとうために、アダム・エバを造りました。体をまとえるようにすることは、愛だけが可能なのです。愛があってこそ、神様の形状に似た体を備えるようになります。神様が、アダムとエバが神様の体を備えれば、彼らの心の中に神様がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王宮を造るのです。神様の王宮は、愛の王宮だというのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさるようになるのであって、他のものをもってしては合わさることができません。(一四三―九三)


第三節 「真の父母」と霊界

一 肉身の父母と「真の父母」の違い

 肉身の父母と「真の父母」は、愛に対する概念が違います。肉身の父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれて、「真の父母」は、霊的な世界を中心とした真の愛を教えてくれます。
 肉身の父母だけでいいのに、「真の父母」がなぜ必要ですか。堕落したためです。今まで堕落した父母は大きなものをみな取ってしまって、自分を中心として絶えず下っていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心として、このサタン世界に永遠に存在させるための一つの決定的な線が引かれました。これを断つ道はありません。
 では、「真の父母」とは何でしょうか。このような基盤から、上がれば上がるほど、だんだん大きいことを教えてくれるのです。天国、永遠の国に行って拍子が合うように、呼吸に支障がないように教えるのです。肉身の父母から教育を受ける人が霊界に行けば、すべて壁のようなコーナーに行って、とどまっていなければなりません。振り返って見れば、全部自分を否定して、犠牲になるという人たちだけなので、窒息するほどなのです。
 誰がこれをつくったのでしょうか。サタンがつくりました。それで、「真の父母」が来て解放してくれるのを願っています。それを解放するには、そのまま解いてはいけません。反対に解かなければなりません。(一二九―九九)

 神様に帰るには、三次元の世界である霊界の訓練までも受けなければなりません。霊界を愛し、霊界と一つになる訓練場所が、神様を愛して、「真の父母」を愛する場所です。この地上で「真の父母」として霊界と実体世界に神様をつなげる使命を果たすために、メシヤが来るようになります。メシヤの使命は、それしかないのです。
 メシヤは本当に我々を愛し、その誰よりも我々のためにしているのです。
 メシヤ、すなわち「真の父母」がこの地に来る前までは、霊界が全部分かれていました。世の中が一つになっていないのと同じです。このように多い塀を、「真の父母」が実体をもって全部崩していくのです。そうしてこそ通じるのです。それで「真の父母」は、肉身世界だけでなく、神様に代わって霊界を代表するのです。
 初めて「真の父母」に侍り絶対愛することによって、霊界と通じる道を築くことができるのです。メシヤの前に絶対服従することによって、霊界のある霊人にも絶対服従したという条件を立て、神様の命令の前に絶対服従したという条件を立てるようになるというのです。神様の代身である「真の父母」に絶対服従すべきだというのです。それはなぜ、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てるためです。
 「真の父母」になぜ侍らなければならないのでしょうか。「真の父母」が、霊界と神様を代表するためです。その次に、第一父母、第二父母、第三父母が心情的絆を結び、愛の中に結んでおく心情的勝利圏に同参できる資格を得るためです。(一〇五―一一二)


二 「真の父母」が軸である

 真なる父母がどこにいて、真なる兄弟がどこにいて、真なる家庭がどこにあり、真なる社会がどこにあり、真なる国家がどこにあり、真なる世界がどこにあるのでしょうか。ここになければ、不幸の中から出て、不幸の中に行く人生ですが、これが本然の人生の道ではありません。それゆえ、真を探し、身もだえしてもがくのが我々の人生です。これは、今まで宗教や哲学を動員して、いくら解決しようとしても解決できないのです。これを人間の力で解決することはできません。(一五五―二八二)

 我々は、「真の父母」と世界を一つにしなければならないというのです。何を中心としてでしょうか。「真の父母」です。神様の心情で、霊界の軸と地上の軸が「真の父母」と一つにならなければなりません。霊界でも地上でも「真の父母」というのは、中心から抜くことはできません。
 悪なる父母が生じることによって、横的な面で戦いが起こり、二つに分かれました。また、縦的な善の神と、悪の神の世界に分かれました。偽りの父母が生じ、このようになったので、ここに「真の父母」が来ることによって、これらが授け受けするのです。偽りの父母によって堕落が生じたので、これに対峙するためには「真の父母」が出てこなければなりません。真が出てこなければならないのです。(一四九―二七九)


三 「真の父母」中心

 民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらが今崩れています。アメリカも同じです。両世界には中心がありません。今必要なのは、頭翼思想と神主義です。どんな人道主義も、神様の前に立ち上がることはできません。神様だけが絶対的であり、永遠のセンターです。頭翼思想だけが、全人類の中心になり得ます。
 「真の父母」は、真の霊界と肉界の中心になります。頭翼思想と神主義は真の愛を中心として見るとき、すべて同様の概念です。(二〇五―二六三)

 「真の父母」を必要とする限界線とはどこでしょうか。これには限界線がありません。世の中もそうであり、霊界もそうであり、どこでも永遠なのです。ですが、アメリカの大統領の限界線とはどこでしょうか。四年から八年後になれば、転がり落ちます。しかし、「真の父母」は転がり落ちません。限界線が違います。アメリカの大統領は、四年から八年にさえなれば、ふろしきを包まなければなりませんが、「真の父母」はそのようになっていません。
 この地上世界だけが真の御父母様を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてでしょうか。そこには、地上で愛をもって暮らした人が行って宮殿をつくらなければならないのに、人がいないのです。愛の宮殿は神様もつくれずに、霊界の人もつくれないのです。真の御父母様がつくらなければなりません。
 霊界において、愛の宮殿は「真の父母」から始まるのです。霊界に宮殿があっても、「真の父母」が行って「ここを宮殿にします」と言って宣布すれば、それを中心として全霊界が落ち着くのです。そのような責任が残っているために、霊界でも「真の父母」を絶対に必要としています。(二〇五―一五五)


四 「真の父母」と結ばれた因縁の強度

 「真の父母」は、人類が探すべき真なる父母です。その「真の父母」がいることによって、真なる善が成立するのです。「真の父母」とは、どんな方でしょうか。父と共に行くことができる一つの足場になる方です。「真の父母」は、人間と神様との間隔とくぼみを埋めるための一つの祭壇であり、死亡世界を越え得る橋だと言うことができるでしょう。
 その立場は、神様と自分が共にいることができる立場であり、神様と父子の因縁を結ぶことができ、神様と一体をなし得る一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれた神様と、再び一つになることができ、分かれた二つの境界線が一致し得る一つの起点になります。蕩減の祭物の立場に立たれた方とは誰でしょうか。「真の父母」なのです。
 我々が切迫して神様を呼ぶとき、神様が千年の事情をみな忘れて、自分と因縁を結ぶことができる立場があるなら、その立場は世の中のいかなるものとも換えられない立場です。
 救いが必要な我々自身において、父と共にいることができるたった一つの因縁、神様と共にいることができず、神様と因縁を結ぶことができない人類が、自由な環境で神様と因縁を結ぶことができるよう神様が送ってくださった方が、「真の父母」です。
 では、「真の父母」を自身に無条件の因縁を結んでくださった神様に、何をもって感謝しますか。皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか。そして、皆さんが救われるようにしてくれた、その恵みに対して、歓喜で和合しながら勝利を誓わなければならない自身であるということを、どれほど考えてみましたか。無限の希望をもって、無窮の価値をもって、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか。これが問題です。
 息子、娘を探してこられた歴史的な願いが、「真の父母」を通じてなされるということを御存じの神様が、その「真の父母」をどれほど憧れてこられたか7 それなのに、「真の父母」を憧れる基準と、死亡世界で救いを憧れる我々の基準を比較してみるなら、我々は「真の父母」を神様よりもっと貴重に思って、神様よりもっと貴く思って、神様よりもっと価値あるように感じるべきなのに、今までそうできませんでした。
 人間が「真の父母」と共にいることができ、「真の父母」と因縁を結ぶことができ、「真の父母」と再会することができる立場を、神様がどれほど期待なさるでしょうか。そのような立場に自分が行き、「そのような勝利の基盤を自分が築こう」と言えなければなりません。どんな困難があっても克服し、その成果を自分の生涯の価値を左右する転換点として、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。このように見るとき、我々がどれほど偽りであり、流れていく風の便りのように落ちつ着かず、彷徨するのかを悟らなければなりません。
 神様と共にいることができる自分になっているのでしょうか。そうではありません。救い主が必要なのです。救い主は、どのような方でしょうか。「真の父母」の因縁を備えた方です。このように見るとき、この「真の父母」の因縁とは、どれほど驚くべき因縁ですか。「真の父母」によって、自分の真なる一生が始まるのであり、新しい生命が因縁づけられるのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのです。新しい社会と国家と世界が出発するのです。そして、二千年のすべての生死の道を解決する勝利の与件が備えられるという事実を、悟らなければなりません。
 そこには自分がないのです。神様は、堕落した世界を救うために受難の道を歩まなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべき神様ではありません。神様は真の愛の因縁をもって出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。そのような立場で、神様と自分の因縁が結ばれるのです。四方が一致し得る因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天地の基盤をもつようになるのです。このように、父母と子供の間の因縁が実現することによって、世界は新しい出発をすることができるのです。
 「真の父母」と皆さんの因縁は、どんな剣や、権力をもっても断つことができず、サタンの力でも断つことができません。なぜでしょうか。この因縁は、今日のすべての問題を突破して、人間たちを救うことができる勝利の特権をもっている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地であるためです。ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つことができないのです。このように、すべての悪を除去して、新しい因縁を備えて、勝利のための出発点に神様が歴史的な祭物として立てた方が、「真の父母」です。
 神様が深刻な立場にいらっしゃるならば、自分も深刻な事情にいるべきです。父の事情が、自分の事情として感じられなければならないのです。子供の道理を果たし、神様を慰めてさしあげる人がこの地に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道はありません。
 我々は、限りなく難しい立場に立っても、神様の同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげるべきです。そのような因縁に従ってきた歴史の結晶体が、イエス様でした。ですが、イエス様がみ旨を成せなかったために、再び来られる主が、そのみ旨を成さなければなりません。再び来られる主も、その道を行かなければなりません。「真の父母」は、歴史的な希望の集約体です。神様が、全体に代わる歴史的な実体として立てた方が、「真の父母」なのです。
 「真の父母」との因縁には、霊界からではなく、地上からつながらなければなりません。「真の父母」は、実体を備えて地上に来られるため、自分が呼べば答えてもらうことができ、自分が難しい立場にあれば、同情してもらうことができるのです。このように平面的な途上で「真の父母」に会うことができるということは、人間たちにとってどれほど幸福なことか分かりません。
 神様は、今までどんな困難があっても、それを克服して、決定的な勝利を収めようとされました。ここで、自分が勝利の王者になるか、なれないかということが問題です。その心情に一体となって、「離そうとしても離すことができない自身になった」と言えなければなりません。言い換えれば、神様と共にいるという信念、「真の父母」と共にいるという信念が、生涯路程の軸にならなければなりません。それで、我々が行く方向で動揺がなく、千年、万年持ちこたえ得る自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて、天上天国と地上天国が開かれるのです。
 このような因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかというさなかにおいて、より一層冒険する立場で結ばれるのです。
 それゆえ、聖書を見れば「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。これは、イエス様の時代錯誤的な言葉のようですが、このように行くのが復帰の道を行くにおいて、心情の世界に似ていくにおいて、正常な姿勢であり、正常な態度だと言えます。このような境地を追求していく自分であることが明らかであるなら、自分の行く道は真なる路程になるのです。(三一―七四)

 皆さん、今四十を越えて五十になった人が多いけれど、「それまで何をしたでしょうか」と聞くならば、何と答えますか。十年、二十年以内に死ぬかもしれません。死を前にしたとき、み旨を知り歩んできた過程を振り返り、私が、悪魔の後孫として残った世界人類を復帰する責任を果たせないことによって、神様がまだ落ち着けず、僕のように恨めしい仮面を脱げなかったと考えるとき、霊界に行ってどのように顔を上げるでしょうか。どのようにそこへ行って、自分の姿勢を備えて回ることができ、どのように暮らしていくべきでしょうか。ただとどまっていなければならないのであり、そうでなければ、白日のもとに一〇〇パーセントがあらわになるのです。
 霊界に行かないということはありません。みな行くべきです。何をもって行くでしょうか。
 貧しい家の娘が、自分のみすぼらしい姿だけ見ても一族の前に頭を上げることができないのに、婚礼家具も備えられず、その兄弟の一族だけでも、百名近く世話すべき人が元気でいる中、四代の組が集まって暮らすお金持ちの息子の家に、入って暮らすことができますか。手ぶらで行って、その嘲弄をどうやって避けますか。「うちの伝統によれば、誰々はこうであり、おばさんは全部こうであり、うちの姉さんもこのようにこうこうして、皆そうなのに……」と言うようになるとき、そこで落第生のような身の上になって、顔を上げて座って御飯を食べることができますか。さじを持つことができますか。考えてみてください。
 軸に入り込めないことは、我慢できないことなのです。皆さんは、何を持っていきますか。統一教会を四十年信じたならば何を持ってきました7
 霊界は、ここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。皆さんが死んだとき、行く所がここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。千万倍いい所です。自分が、すべてのものを正確に測定できる世界です。
 霊界は、自分がどんな立場にいるかという、その悲痛さを実感できる所です。一段階上がろうとすれば、何千年、何万年もかかるのです。
 皆さんは、祝福という貴いものを受けたために、門は開いていますが、入っていくことのできる礼服を着ていないのです。祝宴を行う家には、礼服を着て行くべきです。新郎の付き添いに行くのに、労働服を着て行っていいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその場に行ってこそ、その環境の歓迎を受けるでしょう? そうできなければ追放されるのです。「こいつ、どけ7」と言うのです。
 昔、木浦に金持ちがいましたが、木浦の北部地方の土地が、全部その人のものだというほどの金持ちでした。ところで、先生の友達がその人の一人娘と結婚して、その家の婿になりました。その時は、日本の統治下だったために、結婚式をしても今のようにモーニングコートを着て、礼服を着て新式の西洋式の結婚はできませんでした。国防服を着て、胸に花を一つ差して結婚する時です。
 ところで、その人は、金持ちである上に友達も多いので、新式の結婚式をさせました。その時、先生を含めて四人が新郎の付き添いに行きました。付き添いの服を新婦の家で準備したのですが、それらをすべて自分の婿と同じ背丈に合わせました。先生と新郎は背が同じですが、新郎は先生のようには体が太っていませんでした。ぺちゃんこで板のようです。この前後が薄いのです。私は、この前後がもっと厚いのです。力士型でしょう?
 ですから、会わせたワイシャツが、ボタンをかけても、へそがみな見えるのです。裂けている服を着て背筋にひどく力を入れると、あとにしびれが出てくるのです。その場で声を出すことができますか。壁のある所に行ってうつ伏せになり、しびれを解いたことを思い出します。
 全羅南道の何かをするという名前のある人は、皆が集まったその大衆の前で、何千名が集まったその場面で、付き添いがそうしているから、「ねずみの穴でもあれば入るのがたやすいのであって、そこに座ってこらえられなかった」と言うのです。
 軸に入れないことが、そのように我慢できないことなのです。先生が霊界をよく知って、聖者たちだとか何とかいう、ましだという教祖たちを、みな知っているのに、お前たちに負けることができないというのです。その軸から抜けてはいけないのです。(二一二―二二四)


第四節 先生と霊界

一 先生の霊的条件成立とその基盤

 完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせ、完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則であり、存在の法則です。それで、この地上で原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、このようなことが初めて起こりました。ですから、霊界で問題となることは、この地でも問題になり、それをこの地で解決すれば、霊界でも解決します。
 そうするたびに蕩減が必要です。先生は蕩減の道を、一人で責任をもって、歴史と宇宙、そして霊界と肉界の問題を解決してきたのです。ある時に、蕩減すべきことを知り、それが崩れる場合には、霊界がどのようになって、地上がどのようになるということを、はっきり知っているのです。
 聖書では、「あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八・一八)とあります。地で解くためには、蕩減が必要です。しかし、皆さんは蕩減の道を知りません。個人的環境での主体・対象蕩減時代、家庭的環境での主体・対象蕩減時代、氏族的環境での主体・対象蕩減時代を経て、民族的主体・対象蕩減時代、国家的主体・対象蕩減時代を経て、世界的主体・対象蕩減時代に行くべきです。これを皆さんは知りませんが、先生は知っているため、先生が言ったことがそのまま霊界に反応して現れるのです。(一三一―二二六)

 天国は、地上の一番悲惨な所で成されます。地上の一番悲惨な所とはどこですか。監獄中の監獄、そこでも一番のどん底です。
 霊界と肉界の基盤を、統一教会の文先生が築きました。地獄のどん底、監獄のうちで一番悲惨な監獄から、霊界と協力しながら基盤を築いてきたのです。基盤を広げてくる過程で多くの反対を受けました。家庭でそうであり、氏族でそうであり、民族でそうであり、国家でそうであり、アジアでそうであり、世界の中心国家であるアメリカでもそうであり、全世界が反対しました。
 先生は、万民に道を開いてあげなければならないために、死刑囚とも友達になり、窃盗犯と手錠を一緒にはめて回り、共に御飯を食べながら彼らを慰めてあげました。この前は、ラスベガスまで行って、刑務所に収監された人たちのために祈祷をしてきたのです。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのは、これからニューヨークの一番の悪の巣窟から掃除をして、新しく基盤を築こうとしたからです。
 そこに行って、交わってあげ、慰めてやらなければなりません。そうしてこそ、各界、各層、サタン世界の滅びるべき人にまでも、その道を開いてやり、道を築いてあげることができます。そうしながら、地上で道を築いてやってこそ、霊界のふさがったものが開かれ、世界が一つになり得るのです。それゆえ、超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるであろうし、黒人にも家を買ってあげるでしょう。このように先生は、世界にないことをしている人です。(九六―一六〇)

 先生は、霊界で勝利しました。このことを誰ができるでしょうか。広く世界にいる数多くの修行を積んだ人たちは、これから先生の所に来て、習わなければなりません。間違いなく、そのようになるのです。それゆえ、一民族の民衆が反対し、世界の人類が反対しても、問題ありません。霊界にいる数千億の人たちは、全部先生の言葉を聞くのです。(一三―五〇)


二 霊界に行く特許権

 今からは、霊界にどのように橋を架けて、飛び越えさせるかということを話しましょう。おもしろいでしょう? ここにいる文なにがしという人は、韓国人ですか、アメリカ人ですか。東洋人ですか、西洋人ですか。東洋の韓国人でしょう?(いいえ)。なぜ、いいえですか。そうでしょう。ですが、一つ特許権があります。皆さん、文明時代の発展の要素は、大部分特許権でつながれます。服を作る特許権、何でも全部特許権です。特許権だけもてば、どこへ行っても世渡りすることができるというのが、世の中の実状です。霊界でもそのような法があるというのです。
 特許権は白人にだけ通じる、という法はありません。黒人は駄目で、アジア人は駄目だという法はないのです。どこに行っても、通じます。
 霊界に行ける特許権を取るために、歴史上に苦労した宗主たちと宗教人たちがたくさんいましたが、そのような宗教人たちの中で、チャンピオンの特許権をもった人がいます。
 霊界に行くことができる特許権をもった人を何で知るようになるでしょうか。ここに集まったまだらになっているこの人たちが、全部一つになって、「どこでも上がっていく」と言うから、それでいいというのです。では、神様はどうですか。先生が、「駄目だよ」と言えますか。神様が、「先生のサインがなければ行けない」と言うかもしれません。
 アメリカの立派な大統領でも、ある王、ある聖者、ある宗主でも、「先生のサインが必要だ」と言うときは、全部頭を下げて先生の所に来ざるを得ないのです。
 博士学位を受けるには、指導教授の下の世話もしてあげ、その教授が足でけっても、「ああ、ありがとうございます」と言ってこそ、サインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても、顔を見ても、格幅を見ても、何を見ても良くできて、相撲をしても勝ち、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも一等になり得るし、十も百もいいのに、それを一つくらい知らないといって、博士学位をくれないのですか」と言っても通じないのです。先生が、そのような霊界の特許権をもったかもしれないというのです。
 先生が監獄に行き、よこしまなうわさが出て、「みな滅びてなくなる」と思ったのに、今も生きて、堂々と大きな声を出しています。アンテナをもって、全部見て、聞いて、やって、知って、大きい声をどんどん出しているのです。
 神様も、先生のサインができているか、できていないかを見て、その次に決済するでしょう。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば、「OK」と言い、ないときは「ノー」と言われるでしょう。
 言葉で言うのは易しいのであって、事実がどれほど難しいかということを、皆さん考えてみてください。先生が、もしそのような印のレッテルさえもっていれば、これからの世界、霊界は、全部先生の手中に動いているのであり、この肉界は、どうせ一つの谷を行かざるを得ないという結論が出てきます。(一三四―一七)

 自然界は、真理に満ちているのです。皆さんは霊界についてよく分からないでしょうが、先生は霊界の専門家です。そこは、二十一世紀ではなく、二十二世紀、三十世紀になっても、先生がいなければ開門することができません。理論的に霊界を教示して、霊界を開門するにおいて体系的内容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名声が、永遠に残るでしょう。
 世界的に優れているという霊通人であっても、先生の所に来て、習わなければならないのです。それゆえ、先生が統一教会の教祖になったのです。世界のキリスト教を統一するというのです。先生の言うことさえ聞いたなら、既にみな統一されたでしょう。(二〇三―三二五)

 先生がアベルの立場で長子権を復帰して、一度宣布してしまえば、それまで霊界が地上を利用していたのを中断します。むやみに霊界に対して「これから地上に協助せよ、地上に屈服せよ」と言えば、そのようになりますか。内容もないのに、「こうせよ」と言えば、そのようになりますか。これはこうで、あれはああだということを説明して、それが可能になるようにしなければなりません。それでこそ南北が統一されて、東西が一つになり、みな収拾されるのではありませんか。(二一〇―一九三)


三 霊界の統一と地上世界の統一

 霊界を統一しなければ、地上を統一させることはできません。では、霊界を統一した主人がいらっしゃるなら、地上の統一は問題でしょうか。それは難しくないのです。
 これから我々は、霊通する人同士主管しなければならないのです。今、霊界に通じる人たちの大将が先生です。彼らもここに来て、習わなければなりません。
 彼らは一方向しか知りません。それゆえ、霊界から教えてくれるといって、それを絶対視してはいけないのです。それを原理で解読して、方向をわきまえていかなければ、霊通人たちはサタンになりやすいのです。
 今は、霊界が先生を証し、先生についてきています。先生は、霊界の内容を専門的に知っているために、サタンだ何だということをよく分類して、今までここまで率いてくることができました。それで滅びないのです。
 霊界には、何千億の霊人たちがいます。それに比べて世界の人類は、あまりにも少ないのです。これから我々が国家基準さえ超えるようになれば、霊界を動員することができるのです。世界人類は、問題にもなりません。そのような時が来れば、我々の時が遠くないということを知るべきです。このように見るとき、世界はこれからどのようになり、共産世界はどのようになるのか、大体の輪郭が出てきます。(五四―二三三)

 あの世に行ってみると、殺人した者、殺された者、ありとあらゆる人が一箇所に集まっているので、そこでは刀を持って闘おうともするし、復讐しようともするのです。ですから、数多くの塀でふさがれています。
 それゆえ、悪なる霊たちが怨讐の子供たちの所に行って、急死するように事故を起こして連れていくというようなことが起こるのです。これを解かなければなりません。これをみな解くためには、地上世界で解かなければなりません。そのためには、もっと良いものを与えなければ、解くことはできません。死ぬよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものをあげなければ解かれないのです。
 何をもって霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたから、今日後代の後孫は、先祖たちのすべての過ちを償わなければなりません。真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを支払わなければなりません。父母が借りたものを支払わなければならないのです。
 そのような意味で、霊界の先祖のすべての塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。
 先生は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪なる霊人の後孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。それゆえ、悪なる霊、善なる霊を分けるのです。
 霊界を結束しなければなりませんが、霊界を収拾できない人は、天下を統一できないのです。天運の根が天なのに、天を収拾できない人が、どうしてその結果をこの世の中の道理にして、世界を統一しますか。それゆえ、地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。(一九一―二〇五)
 皆さん、先生に夢の中で会ってみたことがありますか。みんな会わなければなりません。このような団体は世の中にありません。国もありません。なぜ、統一教会が世界的に成長しているのでしょうか。どこに宣教師として送っても、霊界を実感する生活をしなければなりません。
 どんなことが起こるのでしょうか。宣教師は三カ月が過ぎれば、その国を離れて再びビザをもらわなければなりません。そうでなければ、その国にいることができません。それだけでなく、その国をたって、他の国に行くにも、自由にたつことができません。そういう時は、霊界が教えてくれます。「どこどこにある川を越えろ」とです。
 その川にはわにがたくさんいます。そのような川を泳いで越えれば、わにが丸ごとのみ込んで跡形もなくなります。そのような危険な所を通って、国境を越えていくようにするために、霊界がよく教えてくれます。「何時何分から、何時何分の間に越えればいい7」と言ってです。
 そうする以外に方法がありません。そのような命令を啓示として受けながら、行き来する宣教師が多いというのです。
 共産圏はすべて「神様がいない」と言って、神様の存在に反対する世界です。共産党は、どの国でもみんな宗教が入ってくると、それを撲滅します。そんな状況の中で、神様は準備しなければなりません。
 そのような経験をしてみれば、神様がいないと否定する人は一人もいなくなります。そのような事実を実感する感動は、生命を越えて永遠に残るのです。そのような境地で神様を愛し、真の御父母様を慕いながら通過した経験は、永遠に残るのです。それが人生の中心になります。そうなれば、霊界との境界線、そのような壁は、瞬間的になくなるようになります。直行することができるのです。
 信じるのが先ですか、知るのが先ですか。信じることは事実と遠い所にあり、知ることは事実と一致します。
 「信仰生活」と言いますが、信仰を生活化していますか。そこには、体恤圏が表面化していくのです。内面化ではなく表面化した実体圏とつながって生活しているという誇りが、どれほど大きく有り難いことか分かりません。そのような境地もあるのです。
 「霊界は間違いなくあります。神様は、間違いなくいらっしゃる7 誰が否定しても、いらっしゃる」と実感しているという事実は、恐ろしいことです。それは神様の世界に属する心です。いくら地上で苦難を通過するとしても、その人は神の国の国民です。神様の子女です。
 皆さん、いくら難しいことがあっても、自分の心が絶対変わらないという境地に入っているか自問してみてください。そこまで行かなければなりません。それが峠です。サタン世界の城壁を越えて入れば、神様の存在が実証されるでしょう。そうでないときには、城に入る橋を越えたのに宮中に入れなかったのと同じです。一度入ってみなければ、何も分かりません。城の外でいくら眺めてみても、そこに行けません。(二二四―一〇八)


四 心情と実績で異なる霊界での待遇

 統一教会の先生の誇りは、神様を知っていることです。霊界で知っている以上に知っているのです。いくら多くの人がいたとしても、神様の心情を知る人を、神様は一番好まれます。
 宗教人たちが涙に浸り、ひざが切れてえぐれるほど一生涯祈祷を捧げても、イエス様に出会い、導かれるかどうかというところです。それなのに、皆さんはこうして先生に会って、このような話を聞くことができるということは歴史的な事件なのです。
 皆さんが先生にいかなる資格をくれてもくれなくても、先生は既にあらゆる資格をもっています。
 先生は多くのことを成しました。誰の話にも耳を傾けない世界の学者たちを一つにつなぎ合わせました。また、互いに争っている宗教界もつなぎ合わせ、民族同士で争っているのをつなぎ合わせて世界的な合同結婚式をしたことは、これまでの歴史になかった事件です。
 今までに先生が成してきたことは、霊界の誰が成したことにも勝ります。誰よりも多くのことを成してきました。ですから統一教会が、霊界のどん底にいるでしょうか、最高の位置にいるでしょうか。最高の位置にあります。これは先生の作り話ではありません。(一四六―三三三)


五 霊的体験の生活化

 先生があらゆることを調べ、霊界の裏道まで尋ね歩いて調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。真理は簡単なのです。二人が絶対的な力で合わさり、真空状態になったところに神様が入ってこられ、骨髄のような芯になるのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。(一七〇―一七一)

 先生は霊界に対してたくさん知っていますが、霊界の話はあまりしません。霊界を知ると、狂う人が多いのです。特に女性たちは、「あんな夫と長生きする必要なんてない。早く天国にでも行ったほうがいい。ああ早く天国に行きたい」と言うことでしょう。しかし、夫を教育して率いなければ天国に行くことはできません。(一八二―六一)

 先生は、霊的体験をしても、多くは話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどのようにするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうであるために、このようになるのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうしていつも天の摂理観に方向を一致させることによって、霊界の発展をもたらすことができ、地上世界の発展をもたらすことができると見るのです。
 そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係を結ばれるのかを知った上で霊界と関係を結ぶことを生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜそうなのかと言うと、我々人間自体がそのようになっているからです。(七六―一三八)


六 愛を残して行くべき霊界

 先生についてくる中で、霊界に行った人たちがたくさんいます。先生に従う人たちを、あのソ連の衛星国家、ソ連の重要都市に浸透させておきました。ある時は、「宣教活動をしていると死刑宣告を受けた」という報告を聞きました。そのような報告を聞く指導者の心は、深刻なものです。子供が寝込んでいたとしても、その子供を心配するようになっていません。彼らが私を尊敬するのは、世界を尊敬することなのです。彼らのために涙を流してあげるべきであり、心配をしてあげるべき立場に立っているのです。それゆえ、先生は平安な生活ができないのです。
 私が越えるべき峠を越え、私が果たすべき責任を果たすためには、休もうにも休むことができず、止まろうにも止まることができません。そのように走っているうちに、このような年になったのです。しかし、心は「今からまた始めなければならない」と言うのです。そうして霊界に行くのです。
 そのように生きている生活の裏面に、何を残すのでしょうか。人類を愛したということです。他の何ものでもありません。国を愛したということ、統一教会を愛したということ、それ以外に残し得る何かがあれば、それは滅びる歴史とともに流れていってしまうでしょう。(一三六―一三五)


第五節 真の父母の家庭と霊界

一 霊界の長子権成立

 興進が霊界に行くことによって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子のように一つに結ばれるようになりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。
 興進は息子格のアベルですが、その息子は、「真の父母」の愛の原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤から霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それゆえ、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件をもっているのです。本来堕落しなかったなら、霊界に行ったすべての人たちが「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格をもつのです。これをもたずには、天上界に行けないようになっているのが原理です。
 イエス様やキリスト教は、今までその立場を経ることができずに行ったために、全部中間霊界にいるのです。ところで、興進が行くことによって、神様と接ぎ木することができる中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場になるのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問することができる霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したということが、最も貴いのです。
 イエス様が死んだとしても、このようなことができたなら、今日キリスト教はそのように犠牲になりません。しかし、仕方がないというのです。なぜでしょうか。「真の父母」の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去し、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかったために、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。
 興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしているというのです。そうなれば、どんなことが起こるのでしょうか。霊界と地上を双子のような心情圏として見るとき、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち縦的に見れば、父母が先立ったのです。興進が二代なのです。下だというのです。
 ところが、霊界では反対だというのです。地上で先生と興進の出生について見るとき、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外のすべての霊人たちは、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、そのようになるのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は小さい息子になるのです。
 霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまになるのです。それで、長子権の心情基準が興進をつかんで入るという結論が出てくるのです。これは原理講義するとき、よく説明しなければならないのです。今霊界にいる霊人たちの前に、イエス様の前にもそうであり、すべての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だというのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だということです。
 それゆえ興進が、長子権の福を次子圏に相続してやることができるのです。サタンは、相続してやるまいとしたのです。サタンは、相続をしてやらず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上に行っていた福を全部残してくれるというのです。ですから、つながります。今までサタン世界は、全部残してやるまいとするのに、興進は絶えず残してやろうとするのです。(一三一―五二)


二 霊界に立った愛の中心

 興進は全世界の人を自分の生命以上に愛したという条件を残したために、皆さんにも生命以上に愛することができる因縁がつながったのです。興進は「真の父母」の代わりに行きました。それゆえ、興進を愛することは、「真の父母」を愛する条件になります。興進を愛するということは、「真の父母」を愛するということと連結されるのです。
 霊界では、今までそのような中心がありませんでした。霊界とつなげ得る中心がなかったのですが、興進が行くことによって、興進を愛するすべての霊界の霊人たちには、父を愛する条件がつながるのです。これは、統一教会と連結されます。統一教会として見れば、興進は、地上で生命を捧げて戦うにおいての標準になり、霊界では愛をつなげるのにおいての、今までの歴史にない霊界の代表になったのです。
 地上では、統一教会の信徒たちに生命を捧げてもみ旨を愛すべきだという手本を見せてくれました。「真の父母」を愛しなさいというのです。世界のために「真の父母」を愛していくべきなのです。ですから、興進が霊界に行くことによって、霊界が興進を愛することで、地上の「真の父母」と愛の関係が成立するというのです。
 それで霊界では、興進を迎える日が、歴史始まって以来一番うれしい日になるのです。興進は愛のメシヤとして、霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたというのです。それで、統一教会の信徒たちは、興進を愛すべきなのです。
 霊界でも興進を愛し、統一教会でも興進を愛するから、我々の「真の父母」はどのようにすべきでしょうか。天の愛を歓迎して、地上の愛を歓迎する意味で、自分の息子を祭物として捧げることを栄光として思わなければなりません。誇りとして思うことができなければならないのです。また、神様が今まで青少年のアダム・エバを息子、娘として愛せなかったのですが、霊界では愛せるようになったと考えなければなりません。
 それで先生が、「私自身が青春時代に、韓国に基盤を築いて栄光の神様にすること、私一代に世界的基盤を築いてあなたを慰安してさしあげること、これらのできなかったことを、この息子によって蕩減してくださいませ」という祈祷を捧げました。
 今、霊界も愛して、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てるべきです。先生は、興進が霊界から地上世界と霊界で、愛の復活圏を成すのだと考えます。興進が死を通じて、愛を復活させるというのです。霊界をつかまえて、地上をつかまえて、愛の復活圏を宣布するでしょう。
 そうするようになれば、死亡圏と決別をするのです。それゆえ、葬式の時も悲しんではいけないのです。(一三〇―二〇二)


三 地上と霊界の王権確立

 興進が霊界に行く前の日、統一式を終えてから祈祷したこととは何でしょうか。「お前は地上を離れても、地上にいるのと同様に、お前の養子を選んでやり、息子の班列に同参させてやろう」と祈祷で約束したのです。そうするには、地上で祝福をしてやらなければならないのです。そうしなくては、そのことが不可能です。神様は、地上を救うためにメシヤを送りましたが、今日「真の父母」は、霊界を救うために父母様の代わりに全権大使として愛の王者を送ったということを知るべきです。なぜ、地上にそのような世界的基盤を立てるべきなのでしょうか。イエス様もその立場に行けなかったのです。神様が初めて歴史始まって以来、「自分の息子」と言い、愛することができる少年をもったという事実を知るべきです。
 初めて、霊界で神様が愛し、地上で「真の父母」が愛しているというのです。それで、二つの世界がつながるのです。この世界は、堕落の愛の圏内、すなわち原理結果主管圏内にあるために、「真の父母」の愛の因縁は今までありませんでした。しかし、これが初めて出現したという、驚くべき事実を知るべきです。
 では、あの世に行ってどのようになるのでしょうか。
 韓国人として生まれたために、韓国の善王の実を現すということを知るべきです。霊界のそのような王権が興進の立場です。そのような立場で、韓国の善王たちを比べるとき、興進は年は幼いですが、アベルの王だというのです。霊界は、この地上のように事情が完全に分かるのです。完全に一つになるのです。
 カインとアベルが一つになれば、その上に天の父母が運行することができるのです。天の父母の運行圏が生じるのです。それで、興進の王権と韓国のアベル王権が一つになることによって、韓国を中心とした主管圏が形成されます。それが一つになることによって、アベル王権の位置に立つようになるのです。
 その次には、すべての国の王たちが、アベル圏に立つのです。皆さんは、地上にいるから分かりませんが、霊界では一遍に一つになるのです。それで、すべての王権、韓国を中心として百二十の国家が完全に一つになり得るのです。その王の前にアベルになり得る人たち、ユダヤ教を信じて逝ったとか、キリスト教を信じて逝った人たちにおいては、全部王権はメシヤとして侍るためのものであったために、それをあがめ尊ぶすべての宗教界のアベルの民は、次々と完全に一つになるのです。
 ところで、ここに一つ問題があります。王権を立てるには、興進が一人でいてはいけません。女王権をどのように探すかということが問題になるのです。これが第一の問題です。王権を結合しようとすれば、女王権を探し、王の相対を決定してあげなければなりません。そのようになれば、この王権が霊界につながるのです。また、女王が地上にいるために、百二十カ国の王権の民を連れて、地上につなげることができる基盤がつながります。神様の愛を中心とした霊界と肉界の統一です。このように結婚させてやることによって、興進は思いどおりに地上に来て活動するようになります。
 このとき、興進が一人で来るのではなく、王権を統一したすべての王が地上についてくるようになります。ですから、このような式をせざるを得ません。今出れば、反対する人はありとあらゆることを言うでしょう。興進を愛の代表として送って、「真の父母」が霊界に行ってすることを代わりにさせようというのです。
 それゆえ、興進が昇華してから五十日になれば、五旬節と同じです。百二十名がマルコの屋根裏部屋で聖霊が降臨するとき火を受けて、世界的役事が繰り広げられたのと同様に、薫淑嬢が結婚することによって、どんなことが起こるかというと、百二十カ国の王たちが、この地に来て復活して、世界的役事を展開することができる運動として繰り広げられると見ます。それが五旬節を代表した今日であることを、皆さんは知るべきです。ですから、霊界にいる百二十の王権がこの地に訪ねてきて、地上と一つになるのです。このような二つの、とてつもない意味があるのです。
 それで、百二十カ国のうち、どこでも「真の父母」に侍ることができる一つの国さえ生じるなら、そこから天国が開門するのです。(一三一―一四)





























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