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罪と蕩減復帰
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第四章 蕩減路程と私たちの生活

 一 復帰の道は人が当然行くべき道

  1.蕩減復帰は再創造の道

 蕩減復帰というとき、それは復帰のための蕩減です。完成を中心として蕩減復帰して見れば、完成します。蕩減されたのちに復帰をして、完成の道を行きます。ですから蕩減と復帰は一つだと考えればいいです。
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 完成は自動的にできるのではなく、蕩減により成されるのです。ですから堕落世界に住んでいる人間は、蕩減条件を立てなければ完成することができません。
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 統一教会で言う復帰の道とは、どんな道でしょうか。一般の宗教は、ただ救われなければならないと救いの道を求めますが、私たちは、復帰しなければならないと復帰の道を求めるのです。それでは復帰とは何でしょうか。復帰をどのようにするのでしょうか。再創造の過程を通じてするのです。
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 復帰の道は人間が元の姿に帰っていく道なので、蕩減条件を立てなければ行くことができません。蕩減条件は、神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければなりません。病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければなりません。良薬口に苦しです。苦いのが本当の薬になるのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰できないのです。
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 救援の道は、蕩減して復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路に従ってさかのぼっていくことです。反対に行くことです。
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 蕩減という言葉を知れば、すべてがとても良くなります。蕩減がなければ福もありません。統一教会において無限な黄金の塊とは何かと言えば、蕩減です。蕩減は死を押し切って、すべてを犠牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき単語です。
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 復帰歴史とは、説明してあげてするのではないのです。やっておいて、勝利しておいて収拾するようになっているのです。説明してあげて行くようであれば、聖書新・旧約の六十六巻は必要ないのです。十枚ならば、すべて記録されます。六十六巻がなぜ必要ですか。くだらないのです。十枚も必要ないのです。三枚ならば全部記録されるのです。
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 蕩減の概念は再創造のためのものです。ですから私たちには、再創造のための蕩減が必要だというのです。蕩減は、再創造されて本然の人間になるために必須なのです。本然の人間が出てくれば、本然のみ旨の道を行く人間が現れるのです。本然の人間が現れてこそ。皆さんは本然の人間ですか。堕落した族属です。堕落した族属ですから、蕩減を通して再創造されなければならないのです。
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 アダムは、どのように堕落しましたか。不信から堕落したのです。不信が第一の原因です。その次は自己主張から堕落したというのです。自我主張、自己を中心としたのです。自己中心の立場で堕落したのです。その次は、自己を中心とした愛の圏を要求したというのです。これが堕落の三大要素です。不信、自我主張、自己を中心としたこと。その次には自己を中心とした愛の圏を夢見たこと。これがサタンの足場なのです。堕落した天使がそのようになったのです。
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 先生が、なぜ皆さんに苦労させるのでしょうか。蕩減の道を行かなければならないからです。先生自身も一生蕩減の道を行こうとするのです。嫌々行くのではないのです。願って行かなければなりません。願って行かなければならないというのです。それを知らなければなりません。監獄にも願って行くのです。蕩減のためには行かなければなりません。不平を言えば蕩減にならないのです。
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 私たちには蕩減の道が必要なのです。皆さんは、この世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。イエス様がいくら神様の本然の息子として生まれたとしても、世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。世の中ができないので、するべき人が全部反対するので、イエス様自身も行かざるを得ないし責任を負わざるを得なかったのです。
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 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を貫いて行かなければなりません。蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ元の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、民族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論をもっていなければなりません。


  2.蕩減の道を行かなければならない理由

 再創造は本来、投入した力よりももっと投入しなければなりません。修理しようとするのは、新しくつくることよりも大変だという言葉と同じなのです。ですから創造よりも修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払わなければならないというのです。分かりましたか。蕩減という概念が分かるのかというのです。
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 皆さんは神様のみ旨を深く知れば知るほど、サタンによって汚されたこの肉体、サタンの汚れた血が流れる自分の肉体を焼き殺してしまいたい思いになるのです。サタンに利用された手と足、この体全体を一度に切ってしまいたい思いになるはずです。サタンにより汚された自分の姿をそのまま保存していこうとするのは、とんでもないことです。皆さんは、このような心情を体恤してみましたか。しかし、そのように殺すこともできないので、私たちにはサタンとかかわり合った過去の自分を清算するための条件が必要なのです。
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 復帰路程は一人で行くことができません。必ず再創造の原理を通し、神様と霊界の協助を受けて行かなければなりません。また、そのようにならなければならないのが救援摂理なので、神様と霊界が動員されて再創造の役事をしているのです。なぜならば神様は人間を創造される前に天使世界を造られて、天使たちの協助を受けて万物を造られ、その万物を材料にして人間を造られたからです。
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 完成は、蕩減完成を通じて成されます。蕩減の峠を越えない人には、絶対に完成の道はありません。それは内的な意味から見れば個性完成を意味しますが、神様の立場から見れば復帰だということができます。蕩減完成の基準を復帰完成だと言うことができます。復帰は蕩減を通じて成されます。ですから蕩減復帰というのです。それゆえ、蕩減と復帰は切り離すことができないのです。
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 人類の先祖であるアダムとエバは、自分を中心とした間違った愛で堕落しました。天使長を介入させ堕落したことにより、神様を追放し、本然の真なるアダムの人格を追放し、本然の真なるエバの人格を追放した結果をもたらすようになったのです。
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 神様は、堕落していないアダムとエバに現れます。ここから神様を発見することができます。私たちはみな堕落以前のアダムとエバ、罪のないアダムとエバの立場に帰っていかなければなりません。そこで真の父母を迎え、真なる氏族をつくり、真なる国家をつくり、真なる世界をつくらなければなりません。このような主張をするのは統一原理以外にはありません。
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 天国は、神様を絶対的中心として侍り、神様を通じて愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、自分を立てれば絶対にできないのです。


 二 信仰基台と実体基台

  1.メシヤのための基台

 信仰基台と実体基台を復帰してメシヤのための基台を成すのは、原罪を脱ぐためです。原罪を脱げば、神様の生命圏と愛の圏内に新たに越えていくのです。そのようになろうとすれば接ぎ木されなければなりません。質の悪いオリーブの木を真のオリーブの木にするためには、質の悪いオリーブの木を切ってしまって真のオリーブの木に接ぎ木しなければなりません。
 同じように質の悪いオリーブの木のような人間を真のオリーブの木のような人間にするためには、自分自身を否定する過程を経て新しい肯定、あらん限りの肯定を提示する過程を経て越えていかなければなりません。そのようにすることにより、その本質素性が質の悪いオリーブの木ではなく真のオリーブの木と化して、完全に善のみを主としたそのような人間として登場し、一つの家庭、一つの氏族、一つの民族、一つの国家、一つの世界を形成していくのが統一教会です。そしてこれがきょうの日、統一教会の食口たちが願う現在の立場であることを皆さんが知らなければなりません。
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 信仰の基台を何で復帰しますか。祭物で条件を立てなければならないのです。実体基台は堕落性本性を脱ぐことですが、それはカイン、アベルが一つになることです。体が堕落性本性を脱いで復帰されれば、堕落性本性がなくならなければならないので、血肉の感情が完全になくならないといけないのです。「東へ行け」と言えば「はい」と言わなければならないし、「西に行け」と言っても「はい」と言わなければならないのです。異議があれば復帰されないのです。異議があって復帰ができますか。絶対について行かなければならないのです。
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 メシヤを迎えるためには信仰基台と実体基台がなければなりません。実体基台が完結されたのちは、メシヤのための基台が必然的に要求されるのです。それでは実体基台が完結されたのち、メシヤのための基台の位置に立つ者は誰でしょうか。堕落した人間の子孫として生まれた私たち人間は、サタンの血統を受け継いだので、いまだにその血統を越えることができません。その血統を越えるためには血統を換えなければならないのですが、人間は自分自身ではそれを成すことができません。それでメシヤが必要なのです。
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 人間が堕落することによって、第一に父母を失い、第二にサタンの血を受け、第三にサタンの支配を受けるようになったのです。ですからそれを復帰するためには逆に上がっていかなければなりません。皆さんが原理を習うことによって、どこまで行くことができるかといえば、信仰基台を成し実体基台を成して、メシヤを願うことができるようになっています。これが原理です。ですから信仰基台と実体基台まで成そうというのです。外的に。
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 人間は完成基準に入ったとしても、これはまだ血統的には完全に清算されていないのです。サタンの血統を受け継いだことにより、血統的にはまだ清算されていないのです。血統的に清算するには必ずメシヤが必要です。それで信仰基台、実体基台、メシヤのための基台が、堕落した人間には絶対に必要なのです。最後の問題は、どのようにメシヤのための基台をつくり、メシヤを通じて自分が血統転換を成すのかということなのです。
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 信仰基台、実体基台を完成してメシヤのための基台を受け継ぎ、メシヤと接ぎ木するという驚くべきことをしなくてはいけないのです。接ぎ木されることにより、過去に質の悪いオリーブだったのを真のオリーブの木に変えられるようになるのです。言い換えれば、サタンの血統を脱いで善なる神様の血統に帰ってくるので、その位置を受け継ぐことができるところでのみ新郎新婦の位置を迎えることができるのが原理の道です。
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 「復帰の道を最後まで行った」と言うことができる人は、この世の中にはいません。ですから滅ぶしかない人間になったのです。これを滅びないようにしようとして、このような内容を備え最後まで行くことができるようにする責任者として来られる方が、メシヤという方です。そのメシヤと接ぎ木されれば、私はついて行くことができるのです。統一教会には、信仰基台を立て実体基台を完成するようになればメシヤのための基台を成すことができる、という言葉があるでしょう。それがこのことなのです。
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 復帰途上で、僕の僕時代から僕の時代を経て養子の時代、直系の時代に上がっていかなければなりません。それでは完全に僕の僕時代を経て、僕の時代、養子の時代を通過し、直系の時代と因縁を結ぶことができるのでしょうか。直系の時代と因縁を結ぶにはただ結ぶことができません。必ず原理によって信仰基台を経て実体基台を経、メシヤのための基台を経なければなりません。すなわち、メシヤを迎えなければならないということなのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子とでは血統的に関係が違います。ですから血統転換が必要だというのです。
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 さあ、それでは皆さんはどのようにしなければならないのでしょうか。皆さんは死ぬような苦労をしなさいというのです。縦的な歴史を横的に蕩減するために僕の子となれというのです。天使と同じように、神様が愛する韓国国民は僕の子となれというのです。僕になれというのです。そこにおいて主人になれば養子となるのです。養子になるのは信仰基台と実体基台を復帰することです。実体基台を復帰してこそメシヤのための基台が成されるので、これをしなければならないのです。
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 皆さんは悪を屈服させて善を残すことによって、悪が自動的に順応できる立場に立ってこそ善なる人になるのです。それを原理的にいえば、実体基台完成です。これを成すためには、サタンと闘って勝たなければなりません。
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 イスラエルがどんなに世界を復帰することができる国家になったとしても、その国家だけでは駄目なのです。皆さんは原理を通じて、カイン・アベルの実体復帰時代、すなわち実体基台というものを知っているでしょう。同じように、探し出されたイスラエル国家を中心としてカイン国家、すなわち天使長型国家を屈服させなければなりません。それを武力でするのではありません。アベルが兄であるカインによって殺されたので、死ぬ位置、すなわち打たれる位置に入って死なないで生きて彼らを屈服させることができる因縁をもつことができなければ、復帰の起点が現れないという事実を私たちは知らなければならないのです。
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 復帰の道を行くために、まず信仰基台を立てなければなりません。信仰基台は、自分が位置を確保することができる確固とした基盤を築き、主体的な立場に立つために必要なのです。その次は、自分自ら目的に向かって行くことができるようになったとしても、それだけでは駄目なので、戻って来て実体基台を立てなければならないのです。
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 実体基台とは何でしょうか。アベルの前にカインを屈服させることのできる基台です。カインとは誰でしょうか。怨讐の子です。このカインを通じて歴史的な闘争が行われてきたのです。カインを通じて悪の母体が根を下ろしたのです。カインを通じて今まで、死の波が歴史時代に向かって突っ走っているのです。このような事実を見る時、このすべての悪の要件と悪の側をここで防止するためにはアベル的立場、すなわち天の側に立つ人が、必ずカインの立場にいる人を屈服させなければならないのです。
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 私たちが行く道は二つです。それはカインと自分のために行く道です。怨讐のための道まで経ていかなければなりません。それは何を意味するのでしょうか。カインを収拾していかなければならないということなのです。実体基台というのは何なのでしょうか。アベルが自分の道を修めたとしても、カインを完全に屈服させなければ神様の前に行くことができないのです。怨讐を導いていかなければなりません。怨讐と闘っていくのではなく、怨讐を導いていかなければならないのです。
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 信仰基台が立てられたというのは、条件的立場で、神様を不信することによって堕落したことを、信じることができるアダムの立場、すなわち希望的なアダムの立場にもう一度立ったということです。このようになったのちは、サタンと闘って実体基台を立てなければならないのです。アベルの立場でカインを屈服させなければならないのです。
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 皆さんは原理を通じて、信仰基台と実体基台を知っているでしょう。実体基台を成したとしても、その実体は神様の前に捧げることのできる実体ではなく、メシヤのための基台、すなわちメシヤを迎えることのできる実体となるのです。


  2.結局は血統復帰が問題

 アダムが信仰を失って実体を失ったので、信仰基台を取り戻し実体基台を確保したのちでなければ愛を見つけることができないのです。アダムが失ったものとは何でしょうか。最初は信仰を失い、その次は実体を失って、その次に愛を失いました。この三つです。これを取り戻そうというのです。
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 信仰基台というのは原理原則に立脚し揺れない人、夜も昼も四季が変わっても青春時代や壮年時代、老年時代になってもそのまま変わらない立場で、神様の原理と一致させることのできる信仰の基盤を立てなければならないのです。そうしてこそ、原理を通じた実体基台が成立するのです。信仰の基台の上に原理を通じて実体基台が現れ、その実体基台の上に原理と一つになった立場に立てば、対象価値の心情世界が賦与されるのです。これが堕落した人間の行く道です。
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 先生が偉大な貢献をしたというのは、神様と人間との関係を愛を中心として確実にし、責任分担と蕩減路程、カイン・アベル問題、血統問題を確実にしたことです。カイン・アベルが一つになれなくてはメシヤは来ることができません。カイン・アベルが一つになることが実体基台が成され、メシヤが来てここで一つになってこそ血統復帰をすることができるのです。これが原理の要点です。原理の要点。皆さんは、このようなプログラムをすべて知って祈祷しなければなりません。ですから頭の中は、全部その思いでいっぱいでなければなりません。
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 信仰基台、実体基台、その次はメシヤのための基台です。血統が問題になっているのです。アベルの勝利圏を中心としてアメリカの反対を押さえ、すべての自由世界のどんな国の反対にも勝たなければならないのです。全世界が私を反対しても、先生はその反対に押されなかったのです。原理がすべてあるのに、大ざっぱにできると思いますか。原理原則が鉄瓮城(注:堅固に取り囲んだたとえ)のようなのです。神様が公証した理論がそのようになっているので、仕方がないのです。あなた方が怨讐の国、悪魔までも愛したという条件を立てられなければ天国に入ることができる要件がないのです。イエス様が十字架にかかりながらローマ兵の槍で突かれながらも彼をお許しくださいという祈りをなぜしたのか知っていますか。それは個人ではありません。世界を支配するローマの国なのです。今日、キリスト教は個人救援を追求しているのではありませんか。


 三 なぜ蕩減復帰が必要なのか

  1.蕩減復帰しなければならない二種類

 私たちが復帰路程を行くのに、なぜ蕩減法を重要視しなければならないのでしょうか。それは摂理的に見るとき、神様が創造したものを人間が滅ぼしたので、私が再創造しなければならないのです。再創造するためには、神様が創造の役事をするとき精誠を尽くしたので、私も精誠を尽くすその条件を復帰するのです。ところで神様がこの宇宙を造るとき、遊びながら踊りながら造ったのではないのです。ありったけの精誠の限りを尽くして、一〇〇パーセント投入して造られたのです。神様が創造された時と同じように、私が再創造するのが復帰の道なのに、ただ遊びながらしますか。
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 元来アダム・エバが成長の各段階を完成するために、各々の責任分担が与えられていました。一段階の成長期間にはその段階の責任分担を、したがって三段階の成長には三段階の責任分担を完遂しなければなりません。ここには例外がありません。すべての人は同じ条件をもっていて、責任を完遂することによって成長することができます。もし神様が堕落人間に同じ量の責任分担を要求されたならば、堕落前の本来の位置に私たち自身を復帰する希望は少しもありません。責任分担を完遂することができる機会を失った代わりに、私たちは蕩減条件を立てなければならないのです。
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 責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり一つは左側の立場です。また、一つは右足のようなもので一つは左足のようなものですが、それを失ってしまったのです。責任分担も知らず、蕩減も知らないのです。ですから、どうやって行くのですか。そのようにしては行くことができないのです。責任分担と蕩減復帰を連結しておかなければ前進は不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減、嫌いでしょう。神様も摂理もみな嫌いでしょう。きょうからは新しく、御飯を食べることを忘れたとしても、寝ることを忘れたとしても、自分の愛する人を思うことを忘れたとしても、これを忘れてはいけません。そのように深刻なのです。神様もこれを通らなければならないし、レバレンド・ムーンも生きてこれを通らなければならないし、すべての統一教会の教会員もこれを通らなければならないし、全世界もこれを通らなければ行くことができないのです。みな何もなしに通過したいでしょう。博士や教授の位置をただ得ることができますか。そのコースを経てこそ博士になれるのでしょう。それを通過しなければ、それは偽物です。今こそ分かるでしょう。
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 サタンを縦横に分別するのには、内的な蕩減条件と外的な蕩減条件があります。外的な蕩減条件はカイン・アベルの蕩減条件です。内的な蕩減条件は、アダムの蕩減条件です。この責任分担を中心として完全に屈服してサタンの支配権を取り除くとき、天の側が始まるのです。これが原則です。
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 アダムはなぜ堕落したのでしょうか。アダムの堕落は責任分担を完成できずに、神様との関係、神様の愛の関係が切れたことです。責任分担を連結できず、その次には神様の愛に連結させられなかったのです。堕落することによって、責任分担を喪失し神様の愛の圏を喪失したというのです。
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 サタンをどのように分別させるのでしょうか。蕩減条件を立てることができる立場に立ったアダムの代わりの存在にならなければなりません。ですから本然の基準において責任分担を完成した資格者となったアダムの位置で、愛を中心としてサタンと対決し、サタン側に対する人たちよりももっと天の側的に、サタン側で愛するよりも天の側でもっと愛したという条件を立てることによって分別が行われるのです。ここに蕩減条件が成立することを知らなければなりません。サタンは環境を支配しているので、中傷謀略をして、どんな手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。しかしその環境を克服して、どんなことがあっても神様に代わってアダムが失った責任分担を取り戻すなら間違いありません。永遠なものです。そして神様を愛するのに絶対に誰が何と言っても、「間違いない」と言うことができる基準を立てなければ蕩減ができないのです。
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 蕩減条件は何を分別させるものでしょうか。責任分担を完遂して、その次に神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害して攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンは打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければカイン・アベルを蕩減する道がありません。
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 縦的な蕩減条件は何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の復帰完成、この二つの条件です。このような基準があるのでイエス様も「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いました。この原則からこのような言葉が出てきたのです。こうしてこそ聖書がすべて解けるのです。同じように皆さんも先生をそのように愛しますか。
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 蕩減復帰の道は必ず行かなければなりません。サタン分立をしなければなりません。サタン分立をできないところには責任分担完成がありません。責任分担完成ができなければ天国に入っていくすべがありません。アダムとエバも追い出したのが神様の法度なのに、皆さんがアダムとエバより優れていますか。答えてみなさい。劣っていますか。優れていますか。劣っているのは、いつでも捨てることができるのです。ぼさぼさに頭をかき乱して歩き回りながら誰でも出入りするからといって、統一教会の教会員ではありません。原理をはっきりと知らなければなりません。
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 生活観念は世界のために生きることです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と父母様の解放と世界の解放のために生きるのです。これが統一教会員の生活内容ではありませんか。解放するのに蕩減復帰だけ知っていては駄目なのです。責任分担というものがあるので完全に整備されるのです。
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 カイン・アベルは責任分担を完成する責任がないのです。責任分担完成は誰がしなければならないのですか。アダムとエバ、すなわち父母がしなければなりません。先生にその責任があるので皆さんができないことを、キリスト教ができないことを、全部私が責任をもって四十年間父母の位置から個人で整備し、家庭で整備し、氏族、民族、国家、世界的に整備したのです。このようにして個人責任分担の蕩減復帰、サタンを追放できる壁を造っておいて……責任分担の完成圏を造ったので、ここから新しい世界が始まるのです。世界理想の位置から成されたので、これから天国が可能だというのです。それで天国創建という言葉、祖国創建という言葉が出てくるようになるのです。これがすべて原理的です。
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 今までこの歴史を誰が動かしてきましたか。サタンが動かしてきました。ですからサタンを分別しなければなりません。サタンを取り除かなければ神様は入ってこれません。神様の領土ではありません。サタンの領土なので堕落した圏内から蕩減条件を立ててサタンを分別しなければ、追放することができる蕩減条件を立てなければ、神様の領域が拡大され神様が活動できる基盤が築かれません。ですから分別して追放してしまわなければなりません。
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 サタン世界に、「いくらでも迫害してみよ、打ってみよ」と言うのです。私がお前たちを占領する。何によって。愛の力で。神様の創造の能力で。そうすれば神様が共にいるのです。ここには神様が共にされるのです。やってみなさい。共にされるかどうか。先生は監獄にいてもどんな拷問される所へ行ってもこれを忘れないで闘ってきた人なのです。そうやってこそ分別されるのではないですか。
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 今日、統一教会員たちは蕩減の道を好まないのです。それは何かと言えば、復帰を好まないということです。「ああ、私は復帰というのは好きですが、蕩減は嫌いだ」と、こんな言葉はありません。それでは何が先ですか。復帰が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは、復帰が好きですが、蕩減は嫌いだと言うのですか。神側から見れば反対です。皆さんはどちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりと知らなければなりません。皆さんは復帰が好きです。しかし神側では復帰を好むことができないというのです。蕩減をした、蕩減を通じたのちに復帰があるのです。
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 蕩減復帰、蕩減はなぜ必要ですか。蕩減せずしてはサタンを屈服させるすべがありません。本来神様の愛の焦点が個人に合えば、そこにはサタンがいますか、いませんか。原理的に見るとき、サタンがいますか、いませんか。
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 蕩減復帰するには反対にしなければなりません。それで絶対信仰が出てきたのです。人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏んで上がらなければなりません。私たちの先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。私たちの先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰は死ぬまで、死んでからも、死にながらも行こうとするのです。皆さんは絶対信仰を知らないでしょう。絶対信仰の限界とはどこですか。生命体をもった私自身と比較して言えば、死にながらも行くのです。私は死ぬとき、横に倒れるのではなく前に倒れるのです。そのような意味で死の道を選ぶのです。
 二つ目は自己否定です。一〇〇パーセント否定しなければなりません。自己否定です。私の見たい目、私の食べたい口、先生は三十歳までおなかがすかなかった日がありませんでした。これは私自身を否定することです。三つ目は絶対愛です。絶対愛は、怨讐を消化して敵を討つのが許しではありません。怨讐が自ら進んで自分の国と自分のすべての権限、長子の嗣業までも全部渡してくれなければなりません。渡してもらわなければなりません。
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 サタン世界で蕩減を嫌う者はサタン側です。そして蕩減を好む側は神側だということが今分かりました。それでは自分自身をじっと反省してみなさい。自分が神側ですか。サタン側ですか。それは皆さんがよく知っているのです。皆さん自身に聞いてみなさい。今まで皆さんはみ旨に従ってきましたが、復帰を好むのはサタン側で、蕩減を好むのは神側であることをはっきり知ったならば、今からどの道を行きますか。
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 皆さんもファンダレイジングをしたでしょう。「ああ、私はファンダレイジング嫌いなのに何だこれは」と言うでしょうが、これからが始まりです。これから逆に歩きなさいと言うかもしれません。「世の中が悪なのでお前たちは逆に歩きなさい!」と、そう言うかもしれません。世の中が逆になっていますから、悪なる人と一緒に行けば悪くなるので、私たちは反対に行かなければなりません。そうすれば善なる人になるというのです。それは理論的です。




























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