宇宙の根本
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第一章 宇宙の根本秩序

一、神様の二性性相の大展開

 1.神様は二性性相の中和体

 宇宙を観察してみれば、すべての存在において、陽性と陰性の二性性相が相対的関係を結ぶことによって存在していることを知ることができます。これは、鉱物という次元から始まって、すべての場合に適用されています。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通じて成されます。このような二性性相は、動物の場合より一層明らかです。魚類、鳥類、ほ乳動物等、すべての動物は雄と雌によって存在します。最後に、神様の最高の創造物である私たち人間も、男性と女性で区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは、人類の始祖です。このような二性性相の存在目的は、何ですか。神様は、なぜこのような方式によって創造されたのでしょうか。
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 神様が男性と女性を造られて何をしようとされたのでしょうか。見ようとされたのです。神様は、女性ですか、男性ですか。女性にもなり、男性にもなられます。男性性稟だけをもっているとするなら、女性だけを見つめられるようになるのです。アダムは、陰で生きなければなりません。そのように、女性も見つめて男性も見つめることができる二種類の性稟を、共に備えていらっしゃいます。ですから、結局縦的な立場に立ち、男性も好まれ女性も好まれる、二性性相をもった中和的主体だというのです。それが神様でいらっしゃいます。男性も必要であり、女性も必要であり、どこへでも行って迎え入れ、いつでも主体の位置にいらっしゃるので主体格です。それゆえに、格位では男性格位です。そして、横的というものは女性格位をいうのです。
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 神様はお一人でしょうか、お二人でしょうか。お一人です。お一人なのに、どのようにして二人の人に入っていくのでしょうか。この人に入ってからあの人に入っていき、あの人に入ってからこの人に入っていってと、そのようにするのですか。また世界には数多くの人々がいますが、数多くの人々にどのように入ったり出たり、出たり入ったりされるのでしょうか。これが問題になるというのです。それで、私たち統一教会の「原理」で、神様は二性性相の中和体であるという話が出てきたのです。ここには規則があります。神様は二性性相でいらっしゃる中和的本体です。これは真に素晴らしい結論です。
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 神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。
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 原理講義をする時、創造原理で「神様は二性性相の中和的主体としていまし給い、中和的存在になっている」と簡単に言います。中和的主体になっているというのですが、それはどういうことですか。座ってそのまま神様が男性と女性の中和的存在になって、何がおもしろいでしょうか。何を中心として中和するのですか。愛を中心として中和的存在だということを知らなければなりません。
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 神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。
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 何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。
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 神様から造られた人間だという時、人間はどのようにしなければなりませんか。神様が愛の相対を造られた目的は、喜ぶためなのです。何を中心として喜ぶのでしょうか。愛を中心としてです。絶対者であられる神様も愛が必要だというのです。そうではないですか。
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 神様が二性性相の主体としていらっしゃるといいましたが、二性性相の神様だとしても必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造されたのです。
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 愛は、男性と女性だけではできません。男性と女性は、ただ二つの存在です。男性と女性だけを連結させては愛が成り立たないというのです。男性と女性を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。それで神様は、自分の愛の相対が自分より優れていることを願われるのです。
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 統一教会の文先生は知恵深い方なので、「神様は二性性相の中和的主体だ」と結論づけたのです。右側から見れば男性に見え、左側から見れば女性に見えるというのです。二性性相がそうではないですか。内外になっているので、上から見れば男性に見え、下から見れば女性に見えるというのです。それでこそ女性も「よし!」と言い、男性も「よし!」と言うのです。
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 原因と過程と結果が明確な内容をもってくる、科学的論理のような論理をもってくる、そのような宗教人が出てこなければ、宗教世界を救うことができないのです。統一教会の「原理」がそうです。これこれこうだからこうだ、神様は二性性相で存在される、宇宙の存在が主体と対象である、ゆえにこの世界は、神様が愛の主体であり、人は愛のパートナーとして造られたという結論がぴたっと合うのです。それが歴史を超越して、愛によって、永遠の世界と結ぶことができる力の作用によって継続されるのです。その千年、万年続く愛の作用が始まったのですが、それが普通の力ならば弱くなるはずですが、弱くなりません。
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 神様も愛を中心として一つになるのと同じように、統一教会もそのような観念をもっているために、世界を統一させることができるのです。キリスト教はそうではありません。「神様は絶対的な万能の神様だ。何でもすべてなさることができる」と考えています。しかし、それは誤りです。神様は何でもできますが、本来の原理原則においては、愛は二人で成すことができるようになっています。それゆえに、二性性相を成すようになっていて、愛もその条件の上で可能なのです。
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 神様が二性性相の中和的存在としていらっしゃるならば、二性の中和的存在の中心は何ですか。愛です。神様も愛を中心として生きてきました。
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 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、いかなるお方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方です。その主体の本質が愛です。絶対的愛だというのです。
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 「原理」の総論は、神様に対してどのように表現しましたか。神様は、二性性相の中和的主体であると同時に愛的主体です。
 「愛」というこの言葉も入れなければなりません。それを必ず入れなければなりません。
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 神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。
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 なぜ神様が人間を創造されたのですか。このような根本問題、私がなぜ生まれたのかという根本問題をはっきり知らなければなりません。神様は愛の主体です。「原理」を見れば、神様が二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だという話はまだしていなかったのです。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。
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 男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。
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 問題の出発点は、神様がいるかいないかということなのです。神様がいらっしゃるならば、人間とどのような関係にあるのですか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的神でなければなりません。人格的な神だということをはっきり悟ったのです。人格的神になろうとすれば人間のようでなければなりません。人間には心があって体があるように、このような素性があるので、人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。
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 神様が人格的な神であるように、神様は誰に似ているのでしょうか。神様は、アダムとエバを一つにしたそのようなお方なのです。二性性相の主体は神様です。男性と女性を雑然と一つにしたようなものではありません。一つに合わせたものですが、主体格を備えたそのようなお方です。この主体格の無形の神様の前に、主体格を身代わりして男性と女性が一つになり、その無形の神様の前に相対格位を備えて結ばれることが神様の創造理想を完成することであり、私たち人間、アダムとエバの理想を完成することになるのです。それ以外にはありません。
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 東洋哲学では人格的神を知らなかったのです。人格的神がいるということを知りませんでした。陰陽といいますが、漠然とした陰陽では人格的起源となることができないのです。それではいけないというのです。根のすべてのものを備えなければなりません。人がこのようになっているならば、男性と女性のすべての神性を備えることができるそのような根にならなければなりません。そのような意味で、統一教会で教える二性性相、この論理は偉大な論理です。



















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