宇宙の根本
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 3.被造世界は人間のための愛の博物館

(1) 被造世界を造られた意味

 被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていくことができるように教材として造っておいたものです。それで、相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係で作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないというのです。運動しなければ永続と存続はできません。それゆえに、宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界だというのです。
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 神様は万物をつくられ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造っておかれました。人間を造られる時は、神様が何かふざけて造られたのではありません。趣味で造られたのでもありません。人間を造られ、万物を代表する中心として立てるようになる時までの神様の苦労と精誠は、到底言い表すことができなかったという事実を私たちは知らなければなりません。
 神様が人間を造られる時、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて注いで造られ、ありったけの愛と愛情を降り注いで造られました。どのような力を用いて離そうとしても離すことができず、分けようとしても分けることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、その人間を御覧になる神様には、平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してこそ宿ることができるのです。
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 神様は人間のお父様であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をありったけ施して造られた人間なので、このような人間が神様を引けば、引かれざるを得ないのであり、また神様が人間を引き寄せてくだされば、引き寄せられざるを得ないのです。              *
 神様は、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間に造られたのです。もしそのように造っておかれた人間を御覧になって、神様が称賛することができるあるみ言や詩があるならば、それは世の中のどのような詩人も、文人も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は、神様でもなく、万物でもない、唯一、万物を代表した人間なのです。
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 宇宙は何ですか。神様の体と同じです。見える体と同じです。神様の分身です。それゆえに、私が本当に愛することができるという観念が成立します。宇宙を愛するということが実感できるというのです。自身の頭もこのようになでてあげたりします。服も何かがつけばはたきます。それは、なぜそのようにするのですか。私のものだからです。私と共にあるので、そのような観念があるというのです。皆さんが今後どのようにしなければならないかといえば、心の中に神様をお迎えして、心が一つになり、体が一つになり、万物が一つになって、このような統一の世界を成し遂げなければなりません。
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 宇宙がどれほど大きいかというと何億光年です。光が一秒間に三十万キロメートル進むのですが、三十万キロメートルとは、地球を七周半回ることができる距離です。その距離を一秒間で走る光が一年かかって行く距離を天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きいのです。グリニッジ天文台では、今まで百億光年向こうの世界の星まですべて発見したのですが、今ではもう百五十億光年向こうの世界の星も見ることができる時代が来て、それ以上の時代に入っていっているというのです。
 この宇宙がどれほど大きいかといえば百億、大体二百十億光年です。これは、原理的な数です。そのように大きいというのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、それが一日かかるのを一光日、一カ月ならが一光月、このように出発して一秒間で三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離で言えば、地球を七周半回る距離です。七周半にもなる距離です。ぱっといったら、既に七周半を回るというのです。そのように早い光が一日でも腰が曲がって、考えが鈍って「私は分からない」というはずなのに、百年でもない百の何万倍にもなる一億光年です。出発してから一億光年たってもまだ進んでいるのですが、人が百歳生きるとすれば、合わせて百万人が死んでいきます。一億光年のうちにです。一億光年なので、人が生まれて百年生きて死んでいくのを続けて、百万人目が死ぬその時になっても、まだ進んでいるのです。
 では、二百十億光年といえばどのくらいですか。その人々が続いて生きて死んで、また生きて、百歳まで生きて、このように二億一千万人が生きて、それほどたっても、まだ進み続けるというのです。その遠い距離は、直線で行くのではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙だというのです。

(2) 万物世界は人間のための愛の教材

 真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造られた愛の自然園を見ながら、学び成長するようになっていました。育ってどのようにしなければならないかということは、つくっておいた万物を見れば、すべて分かるようになっていました。万物が正に神様の博物館です。アダムとエバを教育する愛の博物館です。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て育つようになっています。
 このように成熟して神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるに、「あの男性が正に私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり女性に対して「本当に私に必要な女性だなあ!」と思うのです。
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 真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造っておいた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て、人間は成長するようになっています。
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 少年時代から育って、青少年時代に行くのです。思春期になってここから学び始めるのです。皆さんもそうです。赤ん坊の時は何も分からないので、「お母さん、これは何ですか」「お父さん、これが何ですか」、このようにして知っていかなければなりません。そして、男性は男性に対してすべて知ってみると、世上万事がペア・システムになっています。「やあ、動物世界もペアがあって、昆虫世界もペアがあって、ああすべてがそうなのだな! 花の世界もそうで、鉱物世界もそうだ」。それをすべて学ぶのです。「そうだ、主体と対象になり、このようになって、このようになるのだなあ! 気がついてみると、私が行くべき道はこのように求めていかなければならないのだなあ! ああ、これではないな!」と知るようになるというのです。
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 アダムとエバは、成長しながら世の中を学んでいきます。二人の息子、娘が大きくなりながらじっと見てみると、世の中はペア・システムで造られた博物館です。愛の博物館です。これを見ながら学ぶのです。「やあ! 彼らがあのように愛し合っている。はえも雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてペアが戯れている。それから、愛し合って繁殖している!」、それを学んだでしょうか、学ばなかったでしょうか。
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 天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です。それ以上に、あなたは鳥よりももっと幸福に、昆虫よりももっと幸福に、あなたはこの世の何よりももっと幸福に生きなさいというのです。
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 この世の中のすべての被造物は、ペア・システムになっています。ペア・システムになっているこの環境は、人間のための理想的愛の博物館です。それゆえに、鉱物世界が作用するのもペアを求めてするのです。また、草木もペアを求めて運動するのです! 繁殖するのです! 鳥もそうで、昆虫の中でうまおいむしもそうです。うまおいむしも歌いますね。
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 神様が万物世界を造られる時にペア・システムで造られたので、男性と女性を中心として、そこにすべての要素を抱いてもっています。自然は何ですか。男性と女性が愛することができるように、愛を教示するために造った博物館です。
 それゆえに、男性が愛する妻を慕わしく思いながら歌うようになる時、何の歌を歌うにしても罪ではありません。堕落すれば罪になるのです。愛の問題によって家庭が破綻して天理原則がすべて壊れていったがゆえに罪なのであって、天理原則の基盤の上でお互いに愛して、「私はあなたを真に愛する。永遠に愛する。あなたは私の永遠の相対である」と言うのは罪ではありません。これをはっきりと知らなければなりません。
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 ペア・システムで造られたこの宇宙は、愛の神様が創造された博物館です。生きた博物館です。国立博物館にある骨董品のように死んでいる、主人のいない記念物ではありません。生きた記念物です。
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 真の神様がいらっしゃるのですが、その方を通して造られたすべてのものは、理想的愛の条件を備えることができるように主体と対象関係になっているのです。それゆえに、この宇宙のすべての被造物は、ペア・システムになっています。鉱石も夫婦同士になっています。夫がいて妻がいます。
 それゆえに、二つがお互いに引き合うではないですか。そのような話を初めて聞いたでしょう? 実験室の先生が完全に暴君となり、自分に合わない元素をいくら激しくくっつけようとしてもくっつきません。神様が「しなさい」と言われてもしません。しかし、相対が合えば、「くっつかず一つになるな」と言ってもくっついてしまうというのです。ですから、すべてがペア・システムになっているというのは、神様の愛のためだというのです。
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 小さな昆虫も、愛を中心としてペア・システムになっているということを知らなければなりません。鉱物世界も同じです。何のためにですか。愛ゆえにです。級が低ければ低いなりに愛を中心として繁殖し、この人間とこの宇宙が人を通して神様の理想を完成することができるように、すべての体制にギアが連動して回るようになっているのです。
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 エデンの園に展開しているすべてがペア・システムになっているので、アダムも自然にそれを見て、「やあ! 私も雄のような男性だが、私も雄のようにできているが、雌のようなものがどこにいるのか」と探すと「エバだ!」、このようにして二人が結婚式をするのです。「雄、雌があのようにすれば子を産むのだなあ」というのです。女性は、嫁に行くことは嫌でも、赤ん坊は好きな女性が多いのです。
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 エデンの園のすべてのものがペア・システムになっていたので、動物が繁殖して「雄と雌が楽しい環境をつくっているな」、このようにして愛というものを学んだというのです。ですから、アダムとエバも「二人が会わなければならないな」と考えるのです。昔、アダムとエバが育つ時、どれほど複雑ですか。男性はワイルドで山に登って飛び回るのに、女性は毎日座って見物して、おもちゃで遊んでいたのです。このように性格が違うのですが、このような環境から学んで自然的に相対を訪ねていくようになっています。
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 気がついてみると、世の中がペア・システムになっているのですが、アダムとエバも一人ではいけないというのです。動物世界のしかも牛もすべて雄と雌がいて、お互いに好んで子を産むのを見るようになります。それで、アダムとエバも動物世界の昆虫から鳥と蜂と花までもそのことをしているので、教えてあげなくても知っているというのです。
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 皆さん夫婦は、双子で生まれた兄と妹です。エデンの園のアダムとエバと同じです。そこでは妹一人しかいないのです。世の中に友人もいなくて一人娘です。エデンの園に女性一人しかいなくて、男性一人しかいないので、間違いなくアダムがエバの友達になってあげなければなりません。兄と妹だというのです。
 それで、大きくなって万物のすべてのペア・システムがどのように繁殖して育つのかということを知り、世上万事をすべて知るようになったので、自分たちも歴史の伝統を残すためにこのように愛を行わないといけないとして夫婦になるのです。歴史のために、人類のために夫婦になるのです。
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 アダムとエバが生まれた時は、相対に、子女になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。相対がいないでしょう? 女性は女性一人で教育を受けて女性完成しなければならず、男性は男性一人で教育を受けて男性完成をしなければなりません。その教育を受ける材料は、天地間にいくらでもあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て、「あのように大きくならなければならないのだなあ!」ということを知り、女性もそれを見て、「あのように大きくならなければならないなあ!」と自ら知るようになるのです。愛に対するすべての教材を、すべての自然が博物館のようにそのまま見せてくれています。自然はすべてペアになっているというのです。
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 縦的な基準には相対性が移されてこなければなりません。この縦的な基準には相対がいるのです。そして、この息子、娘が大きくならなければなりません。成熟しなければなりません。万物世界を見れば、すべてペア・システムになっています。鉱物世界も同じであり、植物世界も同じであり、動物世界も同じです。人間世界もすべて男性と女性のペア・システムになっています。自然世界というものは、級は低いのですが、ペア・システムになった愛の博物館です。それでは、愛の博物館をなぜ造りましたか。誰のために造ったのかというのです。人のために造り、神様のために造ったのです。それゆえに、神様は、万物のすべての愛の感触、鉱物世界や植物世界や動物世界の愛の感触というものをすべて感じることができるのです。
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 男性と女性がこの道を行くにおいて、この時までは相対がいないのです。それで、男性として女性をもらわなければなりません。すべてペア・システムで子を産んで暮らすことを見るのです。春になれば、牛もそのようにし、豚もそのようにし、犬もそのようにし、猫もそのようにし、ねずみもそのようにし、いなごもそのようにするのをすべて見るのです。「ああ、そのようになるのだなあ! 一人はいけないのだなあ!」、このように目覚めることを目が開くといいます。その方向が、今までこのように四五度で、「ああ、私が必要なのはアダムだな!」と思い、「私が必要なのはエバだな!」と思うのです。そうですか、そうではありませんか。
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 環境には、必ず主体と対象があり、ペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核にした博物館です。ペアの博物館になるのです。それゆえに、二羽の鳥がお互いに喜びながら一生懸命に巣を作り、子を産んで、食べさせるのを見ながら学ばなければなりません。「自分の子のためにそれ以上、何百倍しないと」、このように思わなければなりません。虫たちも雄雌二匹が愛して子を産むのです。彼らも自分の命を懸けて子を育てようとします。教育です。
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 アダムとエバが成熟するにしたがい、ここで横的に回ってアダムが自分の相対だと思い、エバが自分の相対と思うようになるのです。そうではないですか。女性として言うならばどうですか。アダムは、外交的に歩き回ろうとします。ハンティングもして、どこに行っても握ってつかまなければなりません。エバはどうですか。エバは、根本の性格が違います。このようにしながら大きくなり、女性として知るべきこと、男性として知るべきことを知るようになるのです。すべて世上万事全体がそのようになっています。鉱物世界も植物世界も動物世界も、すべてペア・システムになっているでしょう? それを学ぶのです。大きくなりながらじっと見てみると、何を見てもすべて相対的です。ですから、我知らず学ぶのです。
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 誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。園に走る動物を見ても雄と雌、蝶々を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっているというのです。花が咲けば、美しい園には鳥がピーチクパーチクしきりに鳴いています。鳥がなぜしきりに鳴きますか。雄の鳥と雌の鳥がしきりに鳴くのは何のためですか。何を呼ぶためなのですか。鳥がしきりに鳴くのには三つの理由があります。一つは空腹で鳴くのであり、一つは愛ゆえに鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは愛ゆえにそうなのです。
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 標準的なアダムとエバの相対圏に立つために、自分たちもその形態として準備されなければならないので、この宇宙の創造物はペア・システムになっているというのです。ペア・システムで存在しているというのです。アダムは大きなプラスであり、万物は東西南北に広がった小さなプラスです。それゆえに、すべて相対的になっているのは人間も万物も同じです。人間と万物が、共通した絶対的主体圏を中心とした基準において平面を成すようになれば、神様が垂直に臨在されるようになるのです。
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 すずめがちゅんちゅん鳴いて目を覚まさせてくれることが、自分で起きるよりどれほど素晴らしいですか。どれほど詩的ですか。皆さんは、自分が歌うのが良いですか、歌を聞くのが良いですか。それは、またどれほど詩的ですか。自分がちゅんちゅん、ちゅんちゅん鳴くよりも、第三者がちゅんちゅん、自分で起きるより愛する人が目を覚まさせてくれるということです。そのように、調和の音律によって声を変えながら目を覚まさせてくれるのが理想的ではないかというのです。ですから、すずめも私の友人です。友人であるそれは、何がそのようにさせるのですか。ペア・システムから見る時、それが私の友人になるのです。男性と女性ともペアです。友人だと考える時、どれほど詩的ですか。
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 世の中のすべてのものがペア・システムとして繁殖するようになっているのを見る時、アダムとエバも成熟すればそのようにしなければならないことを知るのです。成熟する前は、アダムとエバはそれを知りませんでした。アダムとエバが二人で暮らしているのですが、この二人の性格を見れば、アダムは男性的で外交的です。朝起きれば飛び出していき、山に行ってうさぎを捕まえたくて、きじを捕まえたくて、しかを捕まえたくて、蛇を捕まえて割いてみたいというのです。今後、主人となり管理しようとするなら、すべて管理できる責任者になるためにはすべて知らなければならないというのです。山に何がいるのか知りたくて、動物は何がいるのか知りたくて、水にはどのような魚がいるのかすべて調べてみようとするのです。男性なので、主人になろうとすれば、何でも調べなければならないというのです。
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 今日、歴史を開拓した人々は男性たちです。くまなく探して、ときめくためです。男性は神様の代身なので、すべての自然万物の博物館の館長です。男性は、愛を中心として展開したペア・システムの世界、博物館の館長です。館長なので、すべてくまなく探さなければなりません。ですから、女性が嫌うのです。「ああ、兄さん! 私を捨ててどうして。私を連れていってちょうだい。私は脚が痛くていけない!」と言って、ついていきながら、エバがどれほどアダムの心をめいらせたでしょうか。そのように、エバに黙って歩き回るので事故が生じたのです。
 主人が子犬にひもを付けて連れて歩き回るように、エバをそうしなければならないのに、あまりにも泣くので投げ飛ばしたのです。その時、孤独だったので、天使が来て慰労したのです。「あのアダムは暴れん坊だ。何が楽しくて一緒に暮らしているのか。私と遊ぼう!」、このようにして問題が生じたのです。
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 神様が喜びを感じながら創造されました。それは、どれほど楽しかったでしょうか。ペア・システムをつくったので、細胞までもペアになって喜んでいるのを見る時、どれほど楽しかったでしょうか。写真に撮ったものだけでも、よく写っていればのぞき込んで「良い」と言うのに、写真がしゃべって踊っているのですから、どれほど良いだろうかというのです。
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 男性と女性を神様が造られ、抱いて育てていくにおいて、僕である天使長をつくって彼らを保護して育てるようにしました。それで、彼らがすべて育って成熟すれば、神様が結婚させてあげようとしたのです。その時までは成熟しなければなりません。
 そのために、生まれてから分かれて、男性は男性として育ち、女性は女性として大きくなっていくのです。大きくなって成熟した男性と女性になり、世の中をじっと見てみると、鉱物世界も動物世界も植物世界も、すべて相対理想、ペア・システムになっているというのです。「あ! 動物たちも二つが一つになってあのように子を産んで幸福に生きている。やあ、お母さんは子を育てるために自分の命を捧げてでも保護する。私たちもあのようにしなければならない」、このようにすべて見て学ぶのです。それで、アダムとエバの理想的発達のための展示的博物館だというのです。
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 真の愛圏の深い境地に入っていくようになれば万物と通じるのです。岩にも通じるのです。真の愛の世界は、通じないものがないのです。なぜですか。ペア・システムになっているのは、神様に属することができる愛と因縁をもって、一つになるための作用をするためです。
 真の愛は共鳴するようになっています。そのような真の愛圏内に入っていくようになれば、神様の内的な世界と外的な世界を感じることができるのです。それゆえに、誰が教えてくれなくても霊界を知ることができ、神様が分かって、この地で父母にどのように侍らなければならなくて、また国にいかに仕えなければならないかということなど、すべてのことを自然に知るようになるのです。愛が行く道は、いい加減に行くようにはなっていません。公式になっています。愛が行く道は一つの道しかありません。真の愛が行く道には、二つの道はないのです。人間として行く真の愛の道や天の世界、神様として訪ねてくる真の愛の道は、いつも一つの道です。天が降りてくる時は、人間が上がっていってこのようになります。
 それでは、これがどこで会わなければならないのですか。ここでしか会うことができないのです。最高に成人した位置がこの位置です。この位置は同じ位置です。この二人が一つになろうとするなら、どこで会わなければならないのですか。この位置で会わなければなりません。この位置しかないのです。この点で会わなければなりません。
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 愛の理論を話してみると、それが解けない理論がありません。知識の中の王の知識です。愛を探してみると、このすべての被造世界がペア・システムになっていることを知りました。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオンによって成っているでしょう。ペアです。それは何のための相対ですか。その級に該当する愛を中心として、愛ゆえにそのように生まれるのです。それでこそ繁殖が展開するのです。
 動物世界もすべて雄と雌、人も男性と女性です。それはなぜ生まれたのですか。女性のために愛が生まれたのでもなく、男性のために生まれたのでもありません。「男性と女性が愛ゆえに生まれた!」このようにならなければなりません。その命題を否定する邪悪な者たちは、地獄の一族であり、破壊の一族です。




















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